目次
第1章 誘い
第1章の主な登場人物
地図
第1話 ことのはじまり *
第2話 残されたノート 
第3話 旅立ちの日 *
第4話 おくれて話す老人 *
第5話 青い猫 *
第6話 お店番
第7話 リブロールの朝 *
第8話 定期船 *
第9話 印刷機
第10話 島便り +
第11話 なくしもの
第12話 別々の名前 * +
第13話 時間のはじまり *
第14話 跳魚釣り
第15話 海の見えるインキ
第16話 乾かない文字
第17話 きまぐれな友達 *
第18話 豚の素性
第19話 時間のカタチ
第20話 ハトの手紙
第21話 ミドリの海 *
第22話 かすむ目
第23話 水の島 +
第24話 雨の夕暮れ
第25話 針のずれ *
第26話 おいしい水
第27話 雨上がり
第28話 小さな楽団
第29話 窓の記憶 +
第30話 食堂の夜 +
第31話 水玉の光 +
第32話 飛行船
第33話 レンズの掃除 *
第34話 名前の由来
第35話 留守
第36話 並ばない頁 * +
第37話 火炎
第38話 新しい朝 +
第39話 楽しいお湯
第40話 残された印
第41話 望郷 *
第42話 呼び声 *
第43話 旅立ちのとき
第44話 手紙
第2章 彷徨
第1章のあらすじ
第2章の登場人物
第1話 反転する海
第2話 遥か天空
第3話 水の悪意
第4話 イルカの歓迎
第5話 旧世界への入港
第6話 新しく古い港
第7話 ウテラス様式のドーム
第8話 サーカス小屋.
第9話 ホテルの夕食
第10話 望郷 *
第11話 同じ川
第12話 守られた村
第13話 湖面の幻影
第14話 中州の文庫
第15話 消えた男
第16話 雲の塔
第17話 水の革命
第18話 来客
第19話 家族の家
第20話 湖水の道
第21話 出島
第22話 赤い灯台 *
第23話 水に映る顔
第24話 海の使者
第25話 覚醒
第26話 なくしたもの
第27話 うさぎの庭
第28話 もうひとつの扉
第29話 水調べ
第30話 水彩
第31話 見送り
第32話 紋章の透かし
第33話 砂浜のスケッチ
第34話 骨董の日
第35話 花瓶の花
第36話 はぐれた子供たち
第37話 トマト色の兆し
第38話 礎石の力
第39話 離脱
第40話 ノイヤールの緑石
第41話 ロマン
第42話 善と悪
第43話 静寂の時
第44話 光る魚
第45話 罪
第46話 汽水の調査
第47話 黒い六角の紋章
第48話 水上の村
第49話 豊漁の予兆
第3章 螺旋
第2章のあらすじ
第1話 再生する記憶
第2話 メビウスの時
第3話 時間の澱み
第4話 変わらない人たち
第5話 見えない鮫
第6話 薬草
第7話 二度目の下船客たち
第8話 入れ替わり
第9話 時間の層 *
第10話 偶然の地の灯台
第11話 島地鶏の卵料理
第12話 もうひとつの出航
第13話 季節のあいだ
第14話 飛行士
第15話 灯台のローソク
第16話 黒服の試飲
第17話 湖の正夢
第18話 魚拓のドット
第19話 幻の釣り
第20話 夕立
第21話 再会
第22話 赤色の宴 *
第23話 消えなれ
第24話 漂流するヨット
第25話 救護に
第26話 もぐらの話
第27話 おいしい世界 **
第28話 自分の手紙
第29話 夜の散歩
第30話 密漁
第31話 海の穴
第32話 ぬめる水 **
第33話 重なる影
第34話 同じ手帳
第35話 キノコステーキの薬味
第36話 かくされたもの **
第37話 摘み取り
第38話 走る光
第39話 時の流れ
第40話 ふたつの影
第4章 失踪
第3章のあらすじ
第1話 男の性
第2話 探さないこと
第3話 変わらないノート *
第4話 夕食の煮物
第5話 光りもの
第6話 白い朝
第7話 ノートの家
第8話 宿帳の名前
第9話 使者
第10話 悲しい空想
第11話 一切れのパン
第12話 タワーの理由
第13話 晩餐
第14話 召された子供たち
第15話 天気計画
第16話 水の約束
第17話 古地図
第19話 雪かき
第20話 期待
第21話 氷上の舟
第22話 生き写し
第23話 島の話
第24話 花と待ち人
第25話 書庫の入口
第26話 地下迷路
第27話 潜水
第28話 石窟
第29話 知らない言葉
第30話 再会
第31話 夜の時間
第32話 洪水の周期
第33話 共生
第34話 二人だけの話
第35話 昏睡
第36話 夢想
第37話 二匹の猫 
第38話 水の声
第39話 時間の重さ
第40話 増えたページ *
第41話 内なること
第42話 戻り道
第43話 図書目録
第44話 旅の途上の小説
第45話 あたらしい船
第46話 つづく
つづく
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第41話 ロマン

「お祖母さん戻ったよ」
 
「おかえりコノ。ジノ婆はなんだって?」
 
「いつもの感じかな」
 
「ジノ婆だって神様じゃないからね」
 
 そうなのだ。長生きしたからといって神様になるわけではない。他の人よりはこの土地のことを知っているというだけだ。
 
「出島のあたりが神秘的な何かの力でどこかとつながっていることはわかりましたよね。六界錐のことも教えてもらったし、問題はどういうタイミングでどこに行って、戻ってるのかはっきりしないことかな」とトラピさんが言った。
 
「でも、それって一番肝心なところじゃない?」とナミナさんがすかさず突っ込んだ。
 
「夢がないことを言うなあ。そこが創造力の問題なんだよね。その想像力を逆手に取るのが手品師なんだけど」とトラピさんも思うところがあるようだ。
 
「それにしては現実主義者みたいに自分用の六界錐を置こうとしてない?」
 
「あれも、ジノ婆さんの話にロマンを感じたから作ろうと思っただけ」
 
「また、男のロマンだ。そして男はみんな行方をくらますと……」ナミナさんは、まるで男はみんな身勝手だとでも言いたいような口ぶりだ。
 
「オルターさん、ロマンって大切ですよね」とトラピさんに話を振られた。
 
「あ……そうだねえ……ないよりはあったほうが……」なんとも歯切れの悪い答えになってしまった。
 
「あはは、ロマンのお陰でいつも女は振り回されて大変だねえ」お祖母さんが笑っている。
 
「そうだ、お祖母さん。鮫の話は聞いたことがありますか」トラピさんが思い出したように聞いた。
 
「 鮫も男のロマンなのかい? この土地では昔から海もないのに鮫の話はよく聞くよ。あれも神話みたいなものかね」
 
 そのとき、腰まである長靴を履いて、肩から投網を下げたお爺さんが入ってきた。
 
「お祖父ちゃん、おかえり。今日はたくさん獲れた?」とコノンさんが聞いた。みんなは以前にも会ったらしく、驚く様子もなく話を続けた。自分だけが何日もこの家にお世話になったのに会うのははじめてのようだった。
 その真っ黒に日焼けした顔からすると、屋外にいることが多いのだろう。投網漁で生活の糧を得ているのかもしれない。このお祖父さんも200歳近いのだろうけど背中も曲がってないし、気骨のありそうな顔つきが職人を感じさせる。オールドリアヌの人は歳をとってもそれぞれの力で自然とともに生きている強さを感じさせる。
 
「あんた、昔はよく鮫を捕まえたって、いつも言ってるわよね」お祖母さんが話の続きを始めた。
 
「鮫がどうしたって?」事情のわからないお祖父さんは片脚立ちになって長靴を脱ぐのに気を取られている。
 
「コノンのお友達が鮫はいるかって聞いてるのさ」
 
「この村に鮫も見ないで大人になった男なんかいないだろうよ。鮫漁に行くのは成人の儀式みたいなもんだったからな」
 
「それであんたも鮫を仕留めたって言ってたね」
 
「あの日のことを忘れられるわけがないだろ。とにかく島ほどあるでかいやつだったからな。あれは鯨を丸呑みにしていたやつにちがいない。鮫漁は成人の儀式として一人で海に行くものと決まっていたから、あいつがわしの目の前に現れた時には村一番の英雄になれると思ったもんだ」
 
「鮫がいたんですか?」
 
「そうともさ。3日間お互いに睨み合ってな。夜明けの薄暗い時間に相手が目を閉じた一瞬を見て、特大の槍でひと突きだ。あの頃はわしの腕にかなうやつはいなかった。あの鮫もたいしたやつで、命乞いもしないで静かに海に命をささげたよ」
 
「それで手ぶらでご帰還かい?」
 
「ばかなことを言っちゃいけない。生まれた海に戻してやるのが鮫に対する仁義だからな。それが海の勇者に対する情けというもんだろ」
 
「そういうことらしいよ」と言うと、お婆さんは飽きれたような顔をして台所に入った。
 
 ノートの主が書いていたジギ婆さんの旦那さんもそうやって海に出て時間がゆるりと動くのを見たに違いない。そこがすべての謎のはじまりのような気がしてならない。
 
 お祖父さんの話は、鮫の話から若い頃の思い出、自慢話とどんどん広がって行った。しばらく聞いていたネモネさんも水の瓶詰めをしに行ってしまった。
 
「わたしゃ生まれてこのかた鮫とやらにお目にかかったこともないから、どこまでがほんとの話やら……」というお祖母さんの声が台所から聞こえてきた。
 
 お祖父さんは「まあ、鮫も見たことのない女にはわかれっていうほうが無理だわな」と気にすることもなく、また巨大な鮫と睨み合ったときの話を続けた。
 
「鮫を生け捕りにしてきたという話はないですか?」とトラピさんが念を押すように聞いた。ノイヤール湖のどこかにいるのかどうかを知りたかったのだろう。
 
「トラピさんとやら、そんなことじゃなくてな。この村は鮫に守られてるわけだ」お祖父さんはまるで秘密を明かすかのように顔を寄せて言った。もちろんお祖母さんには聞こえない。
 
 話を聞いているうちに、自分が見たあの大きな鮫はコノンさんの祖父さんが言っている鮫と同じかもしれないと思い始めた。
 
「鮫がどこにいるかって? あんたにも鮫がいるんじゃなのかい?」お祖父さんはにやりとしてトラピさん胸のあたりを指差した。
 
「生け捕りにしたとかしないとかじゃなくてな。わかるだろ?」というとお祖父さんはグラスを手に取りゆっくりと口に運んだ。
 
「網のあとのこの一杯がたまらんでな」と言って満足そうに笑った。
 
 自分の鮫がいる? お祖父さんが話しているのは自分にしか見えない鮫なのだろうか。
 
「あんたの命が助かったのも鮫のお陰じゃないのかい?」お祖父さんがこちらを見て言った。
 
 だまって鮫の話を聞いていたナミナさんが「結局、男はみんな鮫探しなのね」とあきらめたように言った。
 
「そんなに鮫のことを知りたけりゃ、ジノ婆に聞いてみな」とお祖父さんは投網を干すための支度をしながら言った。
 
 結局またジノ婆さんに話が戻ってしまった。ジノ婆に何を聞けばいいというのだろうか。

第42話 善と悪

 夕方近くになると、トラピさんとネモネさんは公演があるということで、先にリアヌシティのサーカス小屋に帰って行った。彼らの公演予定はあと一ヶ月ほどあるので、まだ2、3度はオールドリアヌを訪れることになるだろうと言っていた。
ただ、オールドリアヌでの余興が思いのほかうまくいったこともあって、ノートさんのことを調べるというよりも、サークルでの公演やいろんな人から頼まれる出前公演でスケジュールがいっぱいかもしれないとも言っていた。彼らにしてみればそれはそれで大道芸人冥利に尽きるということだろう。
 でもそこは二人のことだから、公演をしながらもいろんな人と友達になって、オールドリアヌのことについての情報もたくさん集めてくれるだろう。トラピさんはウォーターランドに戻る前に自分の六界錐までつくってしまうかもしれない。そうなればすっかりオールドリアヌの人だ。行く先も風任せのトラピさんがウォーターランドに戻るかどうかもあやしくなってくる。
 
 コノンさんもうさぎの世話が終わると、子供たちが待っているからと言って、二人といっしょにリアヌシティに戻ってしまった。
 
 行き違いで水を探しに出かけていたネモネさんが戻って来て、二人だけの時間になった。水の収穫はどうかを聞くと、採取した水はもう20箇所は下らないという。それぞれ2つずつ水の瓶詰をつくっているというから、もう40にもなるということだ。いくらなんでもこんなに持ち帰るれるかどうかが心配になってくる。
 
 ネモネさん自身はもともと水が好きだったわけではなく、小さくて身体の弱かったころに何度も病気を患ったのをきっかけに水に関心を持つようになったのだという。両親の仕事の関係で居所を点々と変えているうちに、たまたま湧き水だけで生活する時期があって、そのころを境にみるみる健康を取り戻していったのだそうだ。今のネモネさんからは考えられない話だった。あえて言えば、奥手な性格だけは昔も今も変わらないですねとはずかしそうに笑った。
 
「水の力で人の身体や心もきれいになっていくものなのかな」と聞くと、迷わず「はい、そうだと思います」と自信たっぷりの答えが返ってきた。水の持つ力を心から信じているのだろう。
 
「それなら、どうしてボルトンのような水の会社に悪意が芽生えるのかな」
 
「必ずしも悪意とも言えないかもしれないです」
 
 意外な答えだった。
 
「ある人からは悪意と見えても、別の見方をすると善意になるとか……それに、頼ってる人もたくさんいるから」
 
「結局すべてにおいて善意になることなんてないっていうことかな」と言うと、何か思うところがあるようでしばらく無言になってしまった。
 
「あの……オルターさん。さっきボルトンの黒いパーカーの人の話がでましたよね。パーカーの人が本当に犯人なんでしょうか」
 
「いや、そうと決まったわけじゃないけど、あやしいかもしれないっていう話だよね」
 
「そうなんですね……」と言うとまた二人で沈黙してしまった。
 
 台所の方から、「二人は今日も泊まっていくんだろ? だったらそろそろ夕食だよ。お祖父さんを呼んできておくれ」というお祖母さんの声が聞こえた。
 今日も歩き回ったせいかとてもお腹が空いている。
 
 ネモネさんが動きそうにないので、お祖父さんを呼びにいこうとしたとき突然、「あの、わたし、その人を知ってるかもしれません」と悲しそうな目をしてこちらを見た。
 
「え、パーカーの人? 」
 
「火事の現場ではなくて、朝方の冷え込んだときに黒いパーカーを着た人がいて……
 
「知ってる人だったの?」
 
「違う人だと思いたいんですけど。コノンさんが……
 
……」返す言葉に詰まった。
 
「違いますよね? きっと、見間違いですよね?」ネモネさんは自分にも言い聞かせるように言った。
 
「たぶん……
 
 そう言いながら、はじめてリアヌシティに来た時にコノンさんが男と話していたのを思い出した。あの男は間違いなくボルトンの黒いスーツケースを持っていた。島に届いた手紙はコノンさんに当てたものだったのだろうか?
 
 台所ではお祖母さんが5人分の食卓の用意をしていた。今夜はコノンさんの分も用意してあったのかもしれない。
 
「その話はここだけにしておきましょう。本当のところはわからないし」
 
「そうですよね。コノンさんに限って……」ネモネさんに少し笑顔が戻った。
 
「コノンがどうしたって?」お祖母さんに聞こえてしまったようだ。
 
「えっと、その、そうそう、リアヌシティでがんばってるって話をしていたんです」
 
「頑張りすぎなければいいんだけどね……」お祖母さんがいつものように言った。
 
 コノンさんは家族の家で身寄りのない子供たちの面倒を見ているやさしい人のはずだ。そう自分に言い聞かせて夕食のテーブルについた。
 
「お祖父さん、ひとつ聞いていいですか?」
 
「なんだいあらたまって」お祖父さんは食事の手を止めて置いてこちらを見た。
 
「鮫は守り神なんですか?」
 
「オルターさん、また鮫の話かい」お祖母さんが笑っている。
 
「言っただろ、自分の心に聞いてみなって」
 
「鮫には、何の意味もないと?」
 
「鮫がきめるんじゃなくてな、わかるだろ?」もう自分で考えろというような口ぶりだった。
 
「少なくとも悪意はないですよね……そういうことですね」と言いながら自問自答することになってしまった。
 
 お祖父さんはそれ以上の説明はしないで、今日の釣果のことを話し出した。珍しくいい漁だったととても上機嫌だった。皿にのった大きな鱒も今日の自慢のようだった。鱒はよく見ると淡い水玉模様だった。
 
 鮫の棲む村オールドリアヌ……と鮫漁の盛んだったウォーターランド。悪意はどこかにあるというのか、それとも悪意なんか存在しないのか。水に生かされて。水に惑わされる世界。答えはあの鮫が棲む水に聞けと……

第43話 静寂の時

 食事が終わって一人自室に入った。ベッドの上に横になって窓を仰ぎ見ると、今夜はあいにくの天気で垂れ込めた雲が村に覆いかぶるように広がっていた。空いっぱいに隙間なく流れる雲が、人々の喜怒哀楽すべてを吸い込んで、まるで濁流のようになって流れている。
 この調子だと明日の天気も怪しそうだ。この時期のオールドリアヌは思ったより雨が多いのかもしれない。冬を前にした雨季なのだろうか。これを見ているとあのノイヤール湖の水位が下がるほどの乾期があるとはちょっと考えにくいが、季節によって雨量の差が大きいのかもしれない。

 村全体に石造りの平屋しかないことと山の少ない地形のおかげで、部屋からは視界の届くはるか先までを見渡すことができる。晴れた日の琥珀色の夕焼けは筆舌に尽くし難いほど美しい。
 この窓とその先に見える景色がとても懐かしく感じられるのは、オールドリアヌが誰の心にもある心象風景のような景色だからかもしれない。こんな田舎があったらいいなあと思わせるような、豊かな自然とゆったりした空気に満ち溢れている。その上住んでいる人たちも心優しい人ばかりだ。

 どこからか犬の遠吠えが聞こえる。動物たちにとってもこの夕間詰は特別な時間なのかもしれない。それは、昼間の現実が夜の非現実の世界に変わるとき。月が闇を照らすだけの誰も知らない世界がはじまるのだ。
 この村はそれを当たり前のこととして受け入れ、どこまでも深く沈み込む無限の静けさに包まれていく。夜を支配する闇がすべての音を吸い込んでしまおうとしているかのようだ。光と音のない世界に草木は息を沈め、動物たちは恐れを感じ怯える。犬たちはお互いの命あることを確認し合うように遠吠えを繰り返している。

 世界から光が消え去ったとき、目を開けたままで静かに横たわる鮫たちがノイヤール湖のどこかで目覚める。彼らは闇の大きな流れにあわせて、同じ場所にとどまるのに必要な最低限の動きだけを繰り返す。闇と共生するように沈黙を守り、誰にも気づかれることなく密かに闇の深淵に溶け込む。

 遠くでコノンさんのお祖母さんの呼ぶ声が聞こえる。

「ソダーさん、ソダーさん……」

 ウォーターランドを出る時に聞こえた声と同じだ。あの声はコノンさんのお婆さんの声だったのだろうか。

「お出かけの時間が……」

 あのときよりもよりはっきり聞こえる。

 闇の隙間を掻い潜って届く声は誰の元に届くのだろう。声の主はコノンさんのお婆さんでなければ、それがどこにいる誰かはわからない。疲れからくる幻聴のようなものなのかもしれない。夢と同じように散り散りになった記憶が闇の隙間からこぼれ落ちてくるのだろうか。

 階下では別の人の声が聞こえる。ネモネさんとお祖母さんが話し込んでいるのか。女性同士の話はいつまでも尽きない。


 こちらは、夕食のときにネモネさんが話したことが頭から離れない。

 黒いパーカーの話が事実だとすると、リアヌシティとウォーターランドランドは水を介して見えないところで密接につながっているということなのかもしれない。自分たちの知らない何かが遠く離れたところで着々と準備されていたということか。
 ダルビー船長はそれを知っていて、なんとか島を守ろうとしてくれていたのだろう。それはナーシュさんの思いに重なるところもある。それが船長とマリーさんを結びつけている理由のような気もする。
 もし、コノンさんがボルトンの使者として送り込まれていたのだとしたらかなりむずかしい話になる。何を基準に正義を判断すればいいのかわからなくなりそうだ。

 そもそも本人は起きたことに気づいているのだろうか。知らないのであればどうしてボルトンの意向で島に来たのかだ。これを本人に聞くのは心苦しい。彼女を傷つけることになりそうな気がする。お婆さんがあの子のことは頼んだよと言った言葉が頭に浮かんでは消えた。そうすると不思議なほど気が晴れるのだ。

 厚い雲に覆われた夜空を見ながら考え事をしていると悪いことばかりが思い浮かんでしまう。目を閉じてみんなの待つウォーターランドの楽しい生活のことを考えるようにした。


 窓を開けたままで毛布も掛けないで寝てしまったせいで、真夜中に冷たい風に起こされた。初秋といっても深夜の冷え込みは夏とは違う。
 階下の話し声は聞こえなくなっていた。時計を見ると真夜中の12時を過ぎている。みんなそれぞれに自分の部屋に入って1日の疲れをとっている時間だ。
 この家にはいくつの部屋があるだろう。もともと庄屋のような仕事をしていたのではないかとも思う。一度コノンさんにこの家の家系を聞いてみるのもいいかもしれない。ノイヤール湖の水の秘密につながるなにかの糸口がつかめるかもしれない。

 遠くでフクロウがホーウホーウと鳴いている。

 考え事をしているうちに目が冴えてしまったので、スケッチブックに記憶を頼りに絵を書くことにした。台所に降りて絵具を溶く水を少しもらう。集められた水は部屋の隅に置いてあった。よく見ると、瓶の水もかすかに輝いて見える。絵の具にあったのと同じように小さな光の粒子が輝いている。もしかすると深夜にノイヤール湖に行くと湖全体が輝いているのかもしれない。

 絵を書くのに熱中して、気がつくと夜明け間近になっていた。雨は降っていないようだ。
 少し朝の匂いがしてきたとき、階下で物音がした。お祖母さんが朝の支度をはじめたのだろうか。時計をみるとまだ4時前だった。

第44話 光る魚

 年を取ると誰もが目覚めが早くなる。4時にもなれば起きるという人も多い。どうも寝るのにもそれなりの体力がいるということらしい。
 
 朝の支度をする音を聞きながらスケッチの仕上げをしていると、階段を登ってくる足音が聞こえた。木の階段は古いこともあってギシギシと音を立てる。眠りが浅いとあの音だけで目を覚ましてしまうだろう。
 ドアの外で様子を伺っているようなので、こちらのほうからから朝の挨拶をした。
 
「漁に行くなら30分後に」ドアの外から聞こえたのはお祖父さんの声だった。それだけ言い残すとまた下に降りて行った。
 
 突然の誘いに少し戸惑った。ただ泊まってるだけじゃなくて手伝いでもしろということだろう。こちらから先に言うべきだったか。湖に倒れてから合えないままでいたのも、お祖父さんが朝早くから漁をしていたためだと考えると申し訳なく思った。
 スケッチブックを閉じて、急いで出かける用意をした。用意と言っても釣りの道具があるわけでもなく、洗面をして少し厚着の洋服を着たぐらいだ。釣りに合う気の利いた服など持ち合わせてないから重ね着をした。夜明け前のこの時間はまだまだ寒い。
 
 玄関と居間が一緒になった部屋に降りるとお祖父さんがひとりで出かける準備をしていた。お祖母さんはまだ起きてないようだった。昨夜ネモネさんと話し込んだせいかもしれない。
 
「早くから起こしたな」お祖父さんが少し申し訳なさそうに言うので逆に恐縮してしまった。
 
「あの、少しでも手伝いができれば……」
 
「素人のあんたにゃ無理ってもんだな」と言うとテーブルの上の袋を指差して、「それを頼むな」と言いながら玄関を先に出た。
 
 外に出てみると、白夜ではないにしてもウォーターランドの夜よりははるかに明るいことに気づいた。月明かりかと思っていたけれど空は薄い雲に覆われ、月はもとより星のひとつも見えなかった。
 お祖父さんの舟小屋は公共の船着場の横だった。とても小さい小屋だけれど、場所は一等地といってもいいだろう。小屋にはジギという札が書いてあった。
 
「ジギというのは名前ですか?」
 
「屋号のようなものだな。ジギを使っていた漁師仲間もずいぶん減ったけどな」
 
ノートに出てきたジギ婆さんのことを考えていたが、あれは本当の名前ではなかったのかもしれない。釣具屋か舟宿の屋号のようなものだろう。船はこの前乗ったものよりさらに小さい、一人乗りと言ってもいいほどのものだった。
 
「これに?」と聞くと「あんたのはそっちだ」と隣の船を指差した。その船には帆はなくオールで漕ぐようになっていた。どうやら自分で漕げということらしい。それではますます手伝いにならないと思った。
 
 漁の道具をぜんぶ積み込むとお祖父さんの乗った舟は滑るように出て行った。帆掛け舟を使うのは、魚を驚かせないためというだけでなく、神聖な湖に対する心遣いでもあるという。お祖父さんが言うには、地元の人は間違ってもオールは使わないという。今日は釣果を期待していないと言われているような気がした。お祖父さんが誘ってくれたのは手伝いでなかったのだと思った。
 
 船小屋を出ると、トラピさんたちときた時と同じ水路を伝って湖の方に向かった。ただ、途中近道のような狭い水路に入った。
 
「落ちないようにな。ここいらは水の下の地形が入り組んでいるのと水草が多くて、絡まると助からないからな。特に櫂を使う舟は気をつけた方がいい」公書館の近くに来た時に、お祖父さんが言った。ここで行方が知れなくなった人も多いとのことだ。
 
「乾燥期に2mも水が引けばわかるが、この下は洞穴のような地形で間違った方に泳ぐと水面に出られない。少しぐらい泳ぎが得意でもだめさ。あんたが溺れたのがここでなくてよかったな」
 
「洞穴のようになっているんですか?」
 
「もともとこのあたりは洞穴が多い地形だから、要塞に適してると判断した祖先が移住先に選んだという話もあるぐらいだ」
 
「公書館のあたりにも洞穴が?」と聞くと、「どこにでもあるさ」ととくに驚く様子もなかった。「だがな、それは村人同士でもあまり話さない。お互いに知らないし勘ぐらない約束になっている」
 
 おそらく、地下がそれぞれの家系に伝わる秘密の藏のようになっているのだろう。大切な食料を保存するためだったかもしれない。それとも、現代の金庫のような役割だっただろうか。詮索していると思われるのもいやなので、お祖父さんの家にもあるのかと聞きたかったけどやめておいた。
 そうなると、公書館の下に地下があるのは間違いないとして、それが特別な意味あるのかどうかは自分の力で入口を見つけない限り誰も教えてくれないということになる。当然掘り起こすことは厳禁だろう。謎解きの入口は近いようでまだ遠い。
 
 湖が近づくに連れて、水面の明るさが増してきた。昼間に来た時には気がつかなかったけれど、月もないような深夜に来るとその明るさが尋常でないことに気づく。とくに湖底のほうに行くほど明かりが集まっているように見える。普通ならば暗くなるはずの水深の深いところに大きな光源があるようだ。光源というか、そこが昼間のようにも思える。地球の反対側が見えているとでも言いたくなるような不思議な光景だった。
 以前来た時に見えた光の粒子は少なく、その結果として夜が作られているようにさえ思った。太陽は光の粒子が吸い寄せられて集まっただけのものかもしれない。まるで天動説にも似たばかげた考えではあるけれど、そんな考えが頭をよぎるほどに朝靄につつまれた湖は幻想的な気配をたたえていた。
 
 湖の北の方まで来るころには湖面を離れ立ち昇る粒子も多くなって、それに合わせるように夜が明けてきた。
 
 お祖父さんは何も言わず一人で漁を始めた。30分に一度ぐらい網を打つだけで、それ以外はじっと瞑想でもしているように湖面だけを見ている。魚がいないのか、そもそもそれほどの釣果を必要としてないのか。
 こちらもすることもなく、ボートから覗き込むようにして光る湖の底を見ている。夜の沈黙とは違い、光の揺り籠に寝かされているような穏やかな気分になる。ノイヤール湖の持つ力が何かはわからないけれど、そこに正と負のすべての方向から目に見えない大きな力が働いているのではないかと思った。
 
 お昼近くになるとお祖父さんは舟を岸に寄せた。
 
「昼時だからそろそろ飯だな」と言って、草の葉に包んだパンと瓶詰めのミルク、根野菜のようなものを出した。飲み水がいるならノイヤールの湖水を汲んでくるようにと言われた。お祖父さんは、ボルトンが言うような水じゃないから大丈夫だと付け加えるように言った。
 
 食事をしながら午前中の釣果を二人で確認した。ビクに入っている魚はそれほど多くはないものの、思っていたよりも鮮やかな魚で水玉模様が鮮明に見えた。
 
「こいつが、ドットトラウトだな。きれいだろ」ビクの中の一匹を指して教えてくれた。
 
 ウォーターランド以外の場所にも水玉模様の動物がいるとは思わなかったけれど、それよりもなによりもその美しさに目を奪われた。ノイヤールに住む魚はとんでもない輝きを持っていた。お祖父さんはこれを見せたかったのかもしれない。
 
 そのドットトラウトも水からあげるとすぐに別のもののようにくすんだグレーになって、水玉の模様もかすんで微かに見える程度になってしまった。彼らは湖だけで輝きを与えられているのだ。

第45話 罪

 漁は夕方まで続いた。実際には食事の後の日の高い時間は昼寝していたので、夕方の羽虫が飛ぶ時間になって2時間ほどの漁をしただけだったというのが正しい。
天気の方が気になっていたが、雨にはならず薄曇りの一日となった。お祖父さんが言うにはこういう日が一番たくさん捕れるらしい。今日の釣果が少ないとしたらこちらのせいということだ。ビクを見ても10匹ぐらいしかいなかったので、ちょっと心配になった。
 
 漁を終えると、湖に棲む魚の話をいろいろ聞かせてもらった。土地を知るのに自然体系を知ることは大切なことだと思う。お祖父さんが言うには、季節や時間により釣果が大きく異なるという。それだけでなく、ドットトラウトがよく網にかかるときに限って何かが起こるそうだ。実際、自分自身が溺れたあの日もたくさん現れたらしい。
 漁の成否が細かな仕掛けの調整とタイミングで決まるのと同じで、この世界に偶然なんていうものはないというのがお祖父さんの言いたいことのようだった。問題は、気づいているかいないかだけで、あらゆることは必然としてつながっているのだと。
 
 トラウトと持ち帰ると、お祖母さんがムニエルにしてくれた。料理されたトラウトに湖で見たあの輝きはなく、食用としてしまうことに若干の抵抗を感じた。こちらの様子を見ていたのか、お祖父さんが「これも必然さな」と言った。
 
 カバのミームもたくさんの晩御飯をもらって満足している。彼もここに来てからはおいしい水さがしに大活躍だった。どこを歩いてもピンクになるわけだから休むわけにもいかない。そのおかげでネモネさんもたくさんの水のサンプルを集めることができた。
 
 食事の終わる頃にネモネさんが「オルターさん、私、水もたくさん集められたのでそろそろウォーターランドに戻ろうとかと思います」と言った。今度は一日も早く、スロウさんたちと水の秘密を解き明かしたいということだろう。
 
「次の船長の船で?」と聞くと大きくとうなづいた。
 
「せっかく友達になれたのに残念だね」とお祖母さんが言った。
 
「ミームもここの水大好きなので、またときどき遊びにきます」とお祖母さんを気遣うように答えた。お祖父さんは何も言わずにムニエルを淡々と口に運んでいる。
 
「オルターさんはどうします?」
 
「えっと、ジノ婆さんにミドリ鮫のことだけは聞いておきたいから」
 
 一人で行くのはよくないと思いながらも、それだけは聞いておきたいという気持ちが抑えられなかった。
 
「明日は、トラピさんなんかも来るかもしれないしね」ちょっと言い訳のようなことまで言ってしまった。
 
「ジノ婆さんにはまだまだ聞きたいことありますものね」ネモネさんはこちらの気持ちを察してくれたのか、ことばのままに受け止めてくれた。お祖母さんはみんないなくなると淋しくなると思っていたのかニコニコしながら話を聞いている。
 
 
 翌日は、水を入れた瓶でいっぱいの荷物もあったので、スレイトン・ケーブまでネモネさんと一緒に日帰りで戻ることにした。
 
 途中、トラピさんたちを訪ねて、次の休養日を確認した。ふたりの話だと4、5日後になりそうだという話だった。サーカス小屋の公演のほうが盛況でなかなか休みが取れなくなっているようだ。その時もナミナさんと双子はリアヌシティを演奏して回っている最中だった。トンテケ、トンテケという音が遠くから聞こえてきた。彼らの演奏と思いがここの人たちの心に届くことを祈ってサーカス小屋をあとにした。
 
 エクスポーラーは、時間通りに駅に着いた。ネモネさんと二人で、荷物を抱えて乗り込んだ。エクスポーラーの荷物置き場は、客席と別のキャビネットに収めるようになっていて、乗り込む前に荷物チケットを受け取る仕組だった。瓶の入った袋は大きかったので仕方なくそもチケットを受け取ってキャビネットに入れた。
 
 二人で並んで席に座ると、ネモネさんはあらためてオールドリアヌに来てよかったと言った。ミームがあんな色になったのをみたことがないと未だに興奮覚めやらない様子だ。この水からウォーターランドの謎のひとつが解けるかもしれないねと言うとうれしそうに笑った。
 
 いつものようにディスプレイが現れて生体チェックがはじまった。そのときだった。ネモネさんのディスプレイが赤くなって、crimeという赤い文字が点滅した。
 
 クライム……犯罪? メッセージを覗き込んで見ると、域内の水を外に持ち出すことは禁じられているという説明が表示されている。
 
「え……」ネモネさんが小さく声をあげた。
 
 ネモネさんはショックを隠せなかった。もちろんこちらも同じ気持ちだが、水を集めたネモネさんお気持ちは察するに余りある。なによりも楽しみにしていた水の成分を調べられないということに対してひどく落ち込んでしまった。この一週間あまりのメーンランドの旅が不毛なものになってしまったようにさえ感じられただろう。
 
 エクスポーラーの車窓から見えるグレーの景色が、すべての楽しみや喜びを押しつぶしてしまうように思えた。スレイトン・ケーブに着くまで話しをすることもできず黙ったまま呆然として30分の時間を過ごした。
駅についたときに念のためキャビネットを開けようとしてみたが、それはまったく無駄だった。固く閉じた扉は二度と開くことはなかった。


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