目次
第1章 誘い
第1章の主な登場人物
地図
第1話 ことのはじまり *
第2話 残されたノート 
第3話 旅立ちの日 *
第4話 おくれて話す老人 *
第5話 青い猫 *
第6話 お店番
第7話 リブロールの朝 *
第8話 定期船 *
第9話 印刷機
第10話 島便り +
第11話 なくしもの
第12話 別々の名前 * +
第13話 時間のはじまり *
第14話 跳魚釣り
第15話 海の見えるインキ
第16話 乾かない文字
第17話 きまぐれな友達 *
第18話 豚の素性
第19話 時間のカタチ
第20話 ハトの手紙
第21話 ミドリの海 *
第22話 かすむ目
第23話 水の島 +
第24話 雨の夕暮れ
第25話 針のずれ *
第26話 おいしい水
第27話 雨上がり
第28話 小さな楽団
第29話 窓の記憶 +
第30話 食堂の夜 +
第31話 水玉の光 +
第32話 飛行船
第33話 レンズの掃除 *
第34話 名前の由来
第35話 留守
第36話 並ばない頁 * +
第37話 火炎
第38話 新しい朝 +
第39話 楽しいお湯
第40話 残された印
第41話 望郷 *
第42話 呼び声 *
第43話 旅立ちのとき
第44話 手紙
第2章 彷徨
第1章のあらすじ
第2章の登場人物
第1話 反転する海
第2話 遥か天空
第3話 水の悪意
第4話 イルカの歓迎
第5話 旧世界への入港
第6話 新しく古い港
第7話 ウテラス様式のドーム
第8話 サーカス小屋.
第9話 ホテルの夕食
第10話 望郷 *
第11話 同じ川
第12話 守られた村
第13話 湖面の幻影
第14話 中州の文庫
第15話 消えた男
第16話 雲の塔
第17話 水の革命
第18話 来客
第19話 家族の家
第20話 湖水の道
第21話 出島
第22話 赤い灯台 *
第23話 水に映る顔
第24話 海の使者
第25話 覚醒
第26話 なくしたもの
第27話 うさぎの庭
第28話 もうひとつの扉
第29話 水調べ
第30話 水彩
第31話 見送り
第32話 紋章の透かし
第33話 砂浜のスケッチ
第34話 骨董の日
第35話 花瓶の花
第36話 はぐれた子供たち
第37話 トマト色の兆し
第38話 礎石の力
第39話 離脱
第40話 ノイヤールの緑石
第41話 ロマン
第42話 善と悪
第43話 静寂の時
第44話 光る魚
第45話 罪
第46話 汽水の調査
第47話 黒い六角の紋章
第48話 水上の村
第49話 豊漁の予兆
第3章 螺旋
第2章のあらすじ
第1話 再生する記憶
第2話 メビウスの時
第3話 時間の澱み
第4話 変わらない人たち
第5話 見えない鮫
第6話 薬草
第7話 二度目の下船客たち
第8話 入れ替わり
第9話 時間の層 *
第10話 偶然の地の灯台
第11話 島地鶏の卵料理
第12話 もうひとつの出航
第13話 季節のあいだ
第14話 飛行士
第15話 灯台のローソク
第16話 黒服の試飲
第17話 湖の正夢
第18話 魚拓のドット
第19話 幻の釣り
第20話 夕立
第21話 再会
第22話 赤色の宴 *
第23話 消えなれ
第24話 漂流するヨット
第25話 救護に
第26話 もぐらの話
第27話 おいしい世界 **
第28話 自分の手紙
第29話 夜の散歩
第30話 密漁
第31話 海の穴
第32話 ぬめる水 **
第33話 重なる影
第34話 同じ手帳
第35話 キノコステーキの薬味
第36話 かくされたもの **
第37話 摘み取り
第38話 走る光
第39話 時の流れ
第40話 ふたつの影
第4章 失踪
第3章のあらすじ
第1話 男の性
第2話 探さないこと
第3話 変わらないノート *
第4話 夕食の煮物
第5話 光りもの
第6話 白い朝
第7話 ノートの家
第8話 宿帳の名前
第9話 使者
第10話 悲しい空想
第11話 一切れのパン
第12話 タワーの理由
第13話 晩餐
第14話 召された子供たち
第15話 天気計画
第16話 水の約束
第17話 古地図
第19話 雪かき
第20話 期待
第21話 氷上の舟
第22話 生き写し
第23話 島の話
第24話 花と待ち人
第25話 書庫の入口
第26話 地下迷路
第27話 潜水
第28話 石窟
第29話 知らない言葉
第30話 再会
第31話 夜の時間
第32話 洪水の周期
第33話 共生
第34話 二人だけの話
第35話 昏睡
第36話 夢想
第37話 二匹の猫 
第38話 水の声
第39話 時間の重さ
第40話 増えたページ *
第41話 内なること
第42話 戻り道
第43話 図書目録
第44話 旅の途上の小説
第45話 あたらしい船
第46話 つづく
つづく
奥付
奥付

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第20話 湖水の道

 バスの時間が迫っていたので、雲の塔のことは次回にすることにして急いで駅に引き返した。
 
 バスには先に3人の乗客が座っていた。その古風な服装からみんなオールドリアヌの住人だとわかる。その中の一人に話しかけてみると、健診で時々セントラル駅のほうまで出てくるのだという。健康状態の検査に呼び出されるということらしいけれど、そのぐらいの自由さえも許されていない自治なのかと思う。
 
「地元に身体にいい水もあるんだが、生で飲んじゃだめだそうでね」諦めたような顔で言った。
 
「ノイアール湖はご存知かな?」
 
「先日はじめて行きました。すばらしい湖ですね」
 
「昔から命をつくる水と言われててね。わしらはそれを信じていたんだがね。どうもよくないらしくてな」
 
「失礼ですが、お歳を伺っていいですか?」
 
「わしか? 126になったところだったかな。もう忘れたわ。後ろの婆さんは、たしか132だな。違ったか?」確認するように後ろの席を振り向いた。お婆さんは2度ほどうなづいていたけれど、聞こえたのかどうかはわからない。
 
 この人たちは、聞かなければ100歳を過ぎていることもわからないし、その見た目の若さからはどこかに悪いところがあるとはとても思えない。病気などしたことがないとお互いに自慢げに話しているぐらいだ。リアヌシティで検査すれば、もっともっと長生きできると笑っている。
 
「でも、その湖の水のお陰で長生きできているんじゃないんですか?」と問いかけると、「あれは、飲料水にはいけないらしいからな」と同じことを繰り返すだけだった。
 
 あの湖の水は、だれも飲めなくなっているのだろうか。科学の判断がどこまで正しいかはわからないが、あのきらめく光に溢れた湖の一体どこに問題があるのか知りたいものだ。リアヌシティの住人はみんな200歳まで生きられるとでもいうのだろうか。
 
 バスで健康談義をしているうちに、前回と同じ眼鏡橋の停留所に着いた。長老たちはまた会いましょうなと言うと、楽しそうに話をしながら降りていった。そのかくしゃくとした姿からは年齢を感じさせるものはまったくない。
 車内に表示される行く先を見ると、次が湖水入口というバス停になっていたのでそこまで乗ってみることにした。湖の南端に位置する停留所につくまでものの5分ぐらいだった。
 
 降りたところには特別なものは何もなく、知らなければここがバス停とは誰も思わないだろう。折り返し地点になっているようで、バスはもと来た道を無人のまま引き返して行った。よくよく考えると、このバス停に一体いつバスが来るのかがわからない。いつもの成り行きまかせで、来なければ来ないでなんとかなるだろうと考えて先を急ぐことにした。
 
 バス停からは細い畦道が北に向かって湖に沿うように伸びていた。まずはそれを頼りに湖の巫女が住むという出島のほうを目指すことにした。向こうに舟があれば、帰りはそれで公書館まで戻ろう。
 
 湖畔の道は、虫の音がしている。ウォータランドに比べると秋の訪れも早いのだろう。夕暮れ時には少し冷え込むかもしれない。道沿いに咲く草花を眺めながら歩いていくと、一面白い花が咲き乱れるところに出た。この花はウォーターランドでもよく見る綿のようにふわふわしたユキニ草だ。秋の終わりから冬にかけて咲くめずらしい花だ。その花に囲まれるようにして歩いていると、ちょっと島に戻ったような気持ちになった。島に帰る頃には、同じようにこの花が迎えてくれるだろう。よく見るとユイローの花も咲いている。気候が違っていても同じ花が咲くものなんだと感心する。
 
 歩き始めて15分ほどたったところで、湖に浮かぶ出島が見えてきた。それほど大きくもなく、人ひとりが住む家をなんとか立てられるぐらいの広さだろうか。周辺は背の高い水生植物が密集していて、島の内部がどうなっているのかは見えない。知らなければ、それが島だということにも気づかないかもしれない。
 
 さらに5分ほども歩くと”舟”という一文字だけ書かれた看板があった。横をみると湖の方に小さい桟橋が見える。水草がからむのをさけて、帆を使ったとしても出島に直接はいることはできないのだろう。舟で来ると、出島の玄関口はこの桟橋ということか。そこを過ぎると草木も伸び放題で、人の手がまったく入ったことのない原生植物がそのまま残る雑木林へと変わっていった。
 
 その林の入ると、信じられないことにウォーターランドの灯台の横にあるものとまったく同じ六角の石柱が立てられていた。大きさこそ違うものの、石柱の上部は六角の中心を結んだ位置に向けて丸い窪みになっていて、そこに少しの水が溜まり水滴が丸い球のようになって揺れている。ウォーターランドには1つしかない石柱がここではあちらこちらに点在していたのだ。よく見ると、6つの面の上の端にはそれぞれ記号のような文字が同じような配置で刻まれている、それぞれの石碑には名前も彫りこまれているようだ。
 一見墓地のように見えなくもないが、無造作に置かれているところからすると、弔いのためというより何かを記録するための物のようにも思える。そう言えば、あの雲の塔も六角だった。リアヌシティにとって六角は特別の意味があるのかもしれない。そう考えるとウォーターランドのあの六角の石碑もノートの主が何かの目的を持って立てたものと考えるのが自然に思えてくる。
 
 原生植物をかき分けて出島の入口にたどり着くと、ほんとうに小さな木の小屋がひっそりと佇んでいた。こんなとことで一人住む老婆とはどういう人なのだろう。彼女から何を聞くことができるのだろうか。

第21話 出島

 出島の入り口は古い錆びた柵が倒れ掛かっていて、だれでも自由に入れるようになっていた。入り口の周囲も草が伸び放題に生い茂っている。一見見ただけでは、人が生活をしているとは思えないようなところだった。
 
「こんにちは……」
 
 
錆びてた腐食した柵の前から様子を伺いながら声をかけてみたが、答えが返ってくる気配はない。
 
 
「失礼します……ね」
 
 
 庭は想像していたのと違って、手をかけてきれいに棲み分けがされていた。湖からの風が吹き込むと、植え込みの草花がそろってやさしく揺れる。揺れる花は硝子細工のように繊細で、風の調べの合わせた鈴の音が聞こえてきそうだ。小さな庭のそこかしこ溢れる命の営みを感じる。
 
「入らせていただいてもよろしいですか?」ドアの手前まで入ってもう一度声をかけてみた。
 
 声が聞こえたのか、家の奥でコトリと小さな音がした。少し様子を伺っていると、ドアの隙間から黒いものが顔を覗かせた。
 
「おお、インク! なんでこんなところに……おまえ……」思わず目を疑った。青い艶のある毛並み、ちょっと気だるそうで冷めた目、どこをどう見てもインクだ。
 
「インク、ほらこっち」手を差し伸べると、しばらくこちらを見ていたかと思うと、後ずさりしてドアの後ろに隠れてしまった。
 
 六角の石碑といいインクといい、ここがどこだったのか一瞬わからなくなってしまう。これは夢を見ているだけじゃないのか。もしかすると灯台が近くにあるのではないかと周囲を見回してしまった。目を凝らして周りを見ていると、気温が低いせいで湖の上に薄くかかっていた乳白色の霧が出島のほうに流れてきた。それに合わせるかのように周辺の景色が風に吹かれる布のようにゆっくりと揺れ始めた。景色のズレを見ていると、少しずつ自分の意識が現実世界から遠のいていくのがわかる。もしかすると周辺に密集していたユイローの覚醒作用のせいかもしれない。そのうち立っていられなくなって、崩れるようにしてそこに座り込んでしまった。
 
 目の前に広がる湖の方をみると、水面にきらめいていた無数の光の粒が一点に集中し始め、光の水文のようなものができていた。しばらくすると突然水面が大きく隆起し、水文が崩れたかと思うと濃淡のある金色の光の束となり、空に向かって一気に立ち上がった。それは、垂直な虹のようにも、巨大な竜のようにも見える眩いばかりの光景だった。
 
 立ち昇る黄金の柱に目を奪われていると、背後の家の方から誰かが近づいてくる気配がした。すでに、誰なのか聞くことさえもままならないほどに意識は混濁していた。声を聞き取るのがやっとで、返事をすることすらかなわなかった。
 
「だれか?」
 
「あ……」
 
「ナーシュか?」
 
「い……い……」
 
 もう声の主を確認することさえもままならなかった。老婆に間違いないと思うものの手足の自由もきかない状態で、振り返ることすらもできなかった。意識はさらに遠のいて行く。
 
「どこ……きた」もう相手の声さえ聞き取れなくなっている。まぶたも重くなって、視界も閉ざされはじめてきた。
 
 立ち昇る黄金の虹がゆらゆらと不規則に揺れ始める。その中に人がいるように見えた。くるくる踊りながら虹の中を舞っている。そしてしばらくすると、その姿は黄金の光の中に溶け込むように消えてしまった。
 
 そうするうちに、ぼんやりとした影が回り込むようにして目の前に立った。
 
「おま……のか……ソダ……」黒い人影から途切れと切れに声が聞こえる。もう、うな垂れた顔を上げることすらできなかった。
 
 そして、この言葉を聞いたのを最後に、あのときのように深い漆黒の淵へと落ちて行った。まるで鉛のように身体が重く自由がきかない。動かそうとしても自分の体と思えないほどに重くだるい。身体が湖畔のこの土地とひとつになってしまうような感覚にとらわれる。誰かが闇の中から手を差し出そうとしているのがわかるけれど、その手をうまく捉えることができない。
 
 深淵は途方もなく深く、戻る場所さえ見失ってしまいそうだった。もはや、そこは別の世界とも思えるほどに遠かった。一瞬、闇を舞う六角の石碑が見えたけれど、すぐに消え去ってしまった。重い身体は同じところにとどまっているように思えず、時空を超えて移動してるような気さえした。自分が自分でなくなるような感覚、ぐるぐると記憶が周り、どれが自分の記憶なのかさえわからなくなる。なぜ、今ここにいるのか、誰が何をしようとしているのか、すべてが崩れたモザイクのように飛散していく。

第22話 赤い灯台 *

 どれぐらいたったのだろうか。薄明かりの中でミャオという鳴き声が聞こえた。声のするほうを見るとインクがいた。目が覚めたところはウォーターランドの灯台だった。いつもと変わらない灯台のベッドに横になっている自分に気づいた。ユイローのほのかな香りが窓の外から流れ込んでくる。なぜ自分が今ここにいるのかがわからない。インクはいつものように愛嬌を振りまくわけでもなく、少し離れたところからこちらを見ている。
 
 少し気持ちが落ち着き身体の重さも取れてきたので、外に出て見ることにした。ところがそこに見えるはずのエバンヌは跡形なく消えていた。気のせいか草木の生え方もいつもと違ってみえる。ただ、六角の石碑はいつもと同じ場所に何も変わらずあった。ただ、その石碑もよく見ると、まだ風雨にさらされていない真新しいもので、読めなかったはずの文字も、SODA YEAHAVE とはっきり読めた。やはり、これはノイアール湖にあったヤイハブの六界錐と同じものだったのだ。ノートの主が置いたものに違いない。SODAというのが名前だったのだろうか。それとも別の誰かを祀ったものなのか。
 
 後ろでインクがしきりに鳴くので振り返えると、そこに見えたのはいつもの白い灯台ではなく、苔むして今にも崩れそうなレンガ造りの赤い灯台だった。
 
「そんなばかな……」自分の身に何が起こっているのかまったく検討もつかず、意味のわからない不安な気持ちに全身が包まれた。
 
 足元を見ると、金属の円盤と矢印のいっしょになったようなものが、石の上に置かれている。よく見ると、日時計のように見える。だれがこんなところに置いたのかと思った瞬間に、走馬灯のように記憶が回転し始めた。「これはノートの主が置いたと書いていたあの日時計では……」
 
 急いで灯台に戻ると、ベッドはいつも使っていたものではなく、木造りで干した草を敷いたものだった。机の上にはノートが置いてあった。ただ、そのノートは新しく、しっかりと革ひもで綴じられノートとしての体裁を保っている。それは、ウォーターランドにあったバラバラになった紙の束ではなかった。めくってみると紙に目立った汚れもなく、毎日の記録がきちんと書き残されている。横には書くために使われていると思われる魚かなにかの骨を削っただけのペンと、インクを入れた貝殻の壺があった。怖いもの見たさの気分でペンをインク壺に入れてみると、瑞々しい青いインクから海の香りがこぼれ落ちてきた。
 
 そのとき背後に人が見ているような気配を感じた。あまりの恐ろしさにとても振り返る勇気がなかった。もし、そこにノートの主が立っていたら……そう考えただけで、全身が凍りつくほどの恐怖を感じた。どうしてもノートの主と会話を交わしてはいけないように思えた。なぜだかはわからない。会話をした時点で、もうこの夢は覚めないという根拠のない思いに縛り付けられたのだ。
 
 しばらくは、ノートをめくることもできないままに、息を潜めて身動ぎもせずにじっとしていた。丸に十字の枠の窓から見える海だけは、いつも見ている海と何も変わらなかった。繰り返し寄せる波が、時を刻む時間のひだのように思えた。それは、1日にも感じるほどの長い時間だった。
 
 気配が消えてしばらくしてインクの鳴く声が聞こえたときに、それに勇気づけられるようにして後ろを振り向いた。そこにはすでに誰の姿もなく、インクが横になって、しっぽを床から上げ下げしているだけだった。あの気配はノートの主ではなかったのだろうか。
 
 しかし、この猫はほんとうにインクなのだろうか。それさえもよくわからくなってくる。第一ノートには猫のことなど何も書かれていなかったから、猫がいたとは考えにくい。もしかすると、なくなったノートに書かれていたのだろうか。いや、そもそもあの時代に同じインクがいるはずもない……インクに似ているだけの猫。
 
 誰もいないことを確認できると、机の上にあるノートが気になり、あらためてページをめくってみた。ノートは書き始めてまだそれほどの月日がたっていないようで、書かれているページもそれほど多くはなかった。中にはまったく読んだことのないページも含まれていた。一番新しいページには日時計のことが書かれていた。そうすると、まだこの島に来て日が浅いということになる。もう、この時点で石碑を作り始めていたということだ。急いで過去のページを見た。
 
***** ノート *****
 
 ずっと探していた石をみつけることができました。これで先人たちと同じように、六界錐をつくることができます。石に文字を掘る技術は持ち合わせてないので、うまく彫れないかもしれませんが、教えてもらった通りに祈れば、そのときが来ても必ずつなぎ合わせてくれると思います。もっときちんと話を聞いておけば良かったと思いますが、こういうことはいつでも後になって思うことなのです。公書館の館長に聞く機会がなければ、六界錐の意味さえも知らなかっただろうと思うと、今そのことを知っているだけでもよかったと考えることにしたいと思います。なにかあったときもこの石柱さえ残しておけば迷うことなくこの場所に帰ってこられるでしょう。
 6文字を刻むときには無心にならなければならないと聞かされました。私が今いるこの島は、計らずもそれをできる環境にあると言ってもよいと思います。次は石を彫るだけの硬さをもった、ノミに変わるものを探すことにします。ゆるりと時間が動くその時に間に合えばいいのですが。
 
***** ノート *****
 
 ノートを見ても、この島に来てすぐに石柱をつくりはじめたのは間違いないようだ。彼にとってはそれほど大切な仕事だったのだろう。その後、何よりも硬い鉱石を島の端のほうで見つけたと書かれていた。それを使って、一文字ずつ丁寧に、来る日も来る日も彫り続けたのだろう。彫られた文字は、きれいとは言えないもののはっきりと読める文字になっていたことを思うと、彼の願いがなんであろうと、いつかかなう日が来ると信じたい。ここからどこに旅立とうとしているのかわからないが、何かの起点にしようとしたその気持ちはわかる気がする。
 ゆるりと動く時間というとらえどころのないもののことを思うと、何の起点になるかは本人にもわからなかったのかもしれないと思った。

第23話 水に映る顔

 ノートを読んでいるうちに、夕暮れが近づき日も少し傾いてきた。ここがノートの主が実際にいる場所であるなら、夕闇になる前にこの灯台に戻ってくるだろう。そんなありえないことを思わずにいられないほどにウォーターランドとそっくりで、違う場所にいる。
 
 顔を合わせるのを避けるために、一度灯台を離れることにした。灯台から沼への道は雑草が伸び放題で、人が住んでいるとするならあまりに手が入れられていなかった。リブロールのあるはずのところを見ると、ウォーターランドにリブロールをつくる前の景色そのままだった。海側につくったデッキも波除もないので、海の波がそのまま岩場の岸に打ち寄せている。ただ、建物がないだけではないなにか理由のわからない違和感があったのでしばらくそこに座って景色を見ていた。
 もし、水平線に船でも見えたときにはどう考えればいいのだろう。それが、船長の船であったとしたら、頭の中はますます混乱するばかりだ。船長と自分、それにノートの主が同時に会することになったらと想像するだけで眩暈がしてくる。
 
 船長に「先に着いたので待ってました」と言うと、「それはありがたい」と感謝され、「こちらがノートさんです」と紹介する。「はじめまして、お会いできて光栄です」という会話が交わされる。「こちらは、はじめてですか」という問いかけに「定期船なのでときどき立ち寄りますよ」と船長が答える。「そうでしたか。よかったら灯台にも寄ってください」と誘われ、二人でノートさんの住まいを訪ねる。「かわいい猫ですね」というと「インク」という名前ですと聞かされる。「どちらから来られましたか」と質問されて、「メーンランドのほうから」と答えると、「実は私もリアヌシティのほうから来たばかりなんです」と言われる……。
 ありえない。だいたい今はいつなんだということだ。ウォーターランドに正確な時計なんてないと言っても限度というものがある。それじゃあ、今はいつなのかと考えると、ノートのあった時間が唯一の拠り所になる。ということは200年前……。どうしてここにいるのかは、夢の中と考えればすべて解決するというわけだ。夢の中でさえあれば……助かる。慌てず目覚めを待とう。
 
 どの波も同じように打ち寄せてくるばかり。灯台も色形こそ違うものの同じ場所に見える。エバンヌやリブロールがないことだけが違和感を感じさせているとも思えない。なにかが決定的に違うと思いながらも、時間だけが過ぎて行った。
 
 そして夕日が落ちるときになってやっとその決定的な違いに気づいた。信じられないことに夕日が東側に沈んでいたのだ。これは地球の自転が変わったということか、それとも島の向きが変わったのか。それともまったく別の島にいるのか。自然の原理原則と思われることさえ違うこの世界は一体どこなのだろう。
 同じ島だと思い込んでいる自分の記憶の方が違っているということか。もはや、同じということの意味することさえわからなかった。記憶と現実のどちらが正しいかと問われれば、目の前にある事実のほうが正しいに決まっている。たとえ、それが自然摂理に反するようなことであってもだ。時空を鏡で反転させるなどということはありえないだろうけど、できればそうであってほしいと思うほどに頭が混乱していた。
 
 目の前で起こっている現実を受け止めることができなくて、浮力を失った飛行船のように下がり始めた太陽を追うように東の方に向かって歩いた。あの太陽はほんとうに同じ太陽なのだろうか。もはや、自分の目さえも信じることができない。夢が覚めることを何度も何度も祈った。出島の巫女が夢から呼び戻してくれないだろうか。それともノートの主と会うことで何か救われることでもあるのだろうか。
 
 太陽はこちらの不安をよそに東へとすべるように落ちていく。途方に暮れてチャルド川の方へ行ってみると川幅こそ多少の違いがあるものの、そこには同じように川が流れていた。水面を眺めていると、ぴょんと魚が跳ねた。広がる水門を見ているとまた別のところで魚が跳ねる。夕間詰めの捕食の時間なのだろう。自然のなにげない営みを見ていると、不安な気持ちがおさまるから不思議だ。しばらく見ているとその繰り返しがぴたりとやんだ。上の方から笛を吹くような鳴き声が聞こえたので見上げるといつのまにかナツヨビが飛んでいた。水面に目を戻すと、その影が写っていた。
 
 朝から何も飲まず食わずでいたことに気づき、川の水をすくおうとして水面に手を伸ばしたときに、さらに信じられないことが起こっていることに気づいた。水に映った自分の顔が別の男の顔だったのだ。思わず水を救おうとした手で自分の顔をなでた。水に同じように顔をなでる男の姿が映った。その顔は見たこともない人だった。いったいだれなのだろう。自分の若かったころにも見えない。今まで一度も見たことのない人だ。これが夢の世界であるなら、早く元に戻して欲しいと思わずにはいられなかった。何か自分を確認できるものはないかと思い、コピからもらった虹の石を探したけれど、みつけることができなかった。ここへ来る途中でなくしてしまったのだろうか。自分が自分であることさえ信じられなくなりそうな不安な気持ちに襲われた。
 
 深夜になっても灯台に明かりが灯る気配もない。焚き火で暖を取るようなことはしなかったのだろか。沼のほうに行くとボートが一艘置いてあったので、少し沖に出て海から灯台を見てみることにした。
 時間はちょうど、西の水平線から月が目覚めて昇りはじめるところだった。舞台が暗転し太陽と主役を交代した月は見たことがないほどに大きく威圧的だった。そして今夜の月は夜の太陽と見紛うほどに赤く燃え上がっていた。

第24話 海の使者

 夕暮れの空には雲一つなかった。暗闇への不安もあるけれど、今夜は月明かりが闇を照らしてくれるだろう。このまま目が覚めなければ、一人この島で夜を過ごすことになる。まるで、ノートの主の最初の夜を迎えるような気分だ。違うのは灯台にすでに暮らしている人がいること。身に危険を感じるようなものがいなければいいが、そんな保証はどこにもない。今夜は眠れないかもしれない。いっそのこと海に出ていた方が安全かもしれないと思った。
 
 沼の方に見えたボートは長い間使われていないように見えた。メーンランドから渡る時に使ったのがこんなボートだったとしたら、相当の勇気が必要だったろう。ただ、この島の周りを廻る程度であればなんとかなりそうだ。さいわい今夜は凪いだ穏やかな海だった。
 
 海に漕ぎ出してすぐに、時計と反対回りに向きを変え灯台の裏側を目指した。北側は比較的浅瀬が多いはずなのでなにかあったときも安心だと思ったからだ。真っ赤な月は水平線を離れ、星で埋め尽くされた夜空に海面からはじかれたようにぽんと浮かび上がっていた。いつのときも変わらないのはこの星空だけだ。夜空までもが違っていたならば、この世界はもはや自分の知るどの世界でもなくなるという不安にかられるだろう。
 
 沖に少し出たところで、なにか大きなものにぶつかり、船底を激しく擦った。暗闇のせいで何が起こったかわからなかったが、大木にロープをくくりつけて湿った地面を引きずったときと同じような鈍く長い音がした。このあたりは浅瀬のはずなので、潮の関係でボートも通れないような浅瀬ができていたのだろうか。
 気になって水の下を覗き込むとキラキラと緑色に明滅する透明な何かが、ボートの下を前方方向に向かって進んでいるのが見えた。ときどきボートがその上に乗り上げるようにして、前に押し出されているように感じる。水深は予想していたのと違って、思った以上に深く見えた。
 
 そのとき、どしんという激しい衝撃とともに後ろからなにかがぶつかった。危うく海に投げ出されそうになり、ボートの縁にしがみついた。振り返ると、大きな柱が水中から突き出て、それが船を前に押すようにしている。しかし、柱のように見えたのは赤い月明かりのせいだった。それが大きなヒレであることに気づくのに時間はかからなかった。ボートの後ろの水面に突き出たヒレは透明感のある深みのある緑色だった。ノートでしか知らないあのミドリ鮫、それも想像もできないほどの大きさのミドリ鮫だった。巨大な鮫の背中に乗ったボートはどんどんスピードをあげていった。それは灯台を通り越して、水面に浮かぶ赤い月のほうに向かっているように思えた。島はみるみる小さくなって行く。
 
 さすがに身の危険を感じて、遠ざかる島に目を向けると、その後ろに島を包み込むように横たわる大きな影が見えた。最初は雲の影かと思ったが、しばらく見ているうちにそれが陸地だということに気づいた。雲でなければそれ以外に思いつくものがなかったというのが正しかったかもしれない。昼は視界に入らなかった陸地が見えることに自分の目を疑った。しかし、それはままぎれもない現実だった。
 それにしてもこんな近いところに大陸が見えるというのはどういうことだろう。それも島の南側の目と鼻の先に……いや、月との関係でいうと北側になるのか? あれがノートの主が渡ってきたメーンランドだというのだろうか。こんなに近い位置にあったとは。蜃気楼かとも思ったが、そうだとしたらそれはあまりにも鮮明すぎた。まるでノートの世界に入ったかのような現実に驚くばかりだった。
 
 鮫は想像していたよりもはるかに巨大だった。背ビレがなければ鯨と見間違えただろう。その大きさに反して、その泳ぎ方は鮫とも思えないとても優雅なものだった。まるでこの海の守り神であると言わんばかりに、威厳すら感じさせた。迷うことなく真っ直ぐに進むミドリ鮫は明らかに目的を持って何かを目指していた。
 
 これ以上島から離れると戻れなくなると思い、ボートを傾けて鮫の背中から離れようとしたときに、世界が崩れてしまいそうなほどの地鳴りがした。いや、地鳴りではなく大気が軋んだというほうが正しいかもしれない。まるで地震のような波動が空間を形作るすべての粒子を震わせたようだった。そして、それまで見えていた星空がガラス細工のように割れて地上に落ち始めた。赤い月さえもが上下に大きく割れ、半分が海に落ちそうになっている。これが夢でなければなんだというのだろう。
 
 一瞬のことだった。鮫が大きく寝返るように身体をよじらせたかと思うと、海底に向けて大きく方向を変えた。ボートはいとも簡単に空中に投げ出され、そのまま回転し船首から海に落下していった。ボートと離れた身体は、時間が間延びしたようにゆっくりと海面に落ちた。目の前が、無数の泡でいっぱいになり、泡のひとつひとつに鮫の姿が映った。
 
 どこまでも紺碧な海に、揉まれるように回転する赤いボートとのたうつようにしながら海底に向かう鮫の輝く緑、この世のものと思えない幻想的な時間が流れた。
 
 海底に向かうにつれ、海流が渦巻きのようになって吸い込まれていく。まるでこの島から、どこか違うところへ流れ出て行くような……呼吸はすでにできなくなっている。間もなく、視界も無数の白い泡に遮られボートも鮫もなにも見えなくなった。


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