目次
第1章 誘い
第1章の主な登場人物
地図
第1話 ことのはじまり *
第2話 残されたノート 
第3話 旅立ちの日 *
第4話 おくれて話す老人 *
第5話 青い猫 *
第6話 お店番
第7話 リブロールの朝 *
第8話 定期船 *
第9話 印刷機
第10話 島便り +
第11話 なくしもの
第12話 別々の名前 * +
第13話 時間のはじまり *
第14話 跳魚釣り
第15話 海の見えるインキ
第16話 乾かない文字
第17話 きまぐれな友達 *
第18話 豚の素性
第19話 時間のカタチ
第20話 ハトの手紙
第21話 ミドリの海 *
第22話 かすむ目
第23話 水の島 +
第24話 雨の夕暮れ
第25話 針のずれ *
第26話 おいしい水
第27話 雨上がり
第28話 小さな楽団
第29話 窓の記憶 +
第30話 食堂の夜 +
第31話 水玉の光 +
第32話 飛行船
第33話 レンズの掃除 *
第34話 名前の由来
第35話 留守
第36話 並ばない頁 * +
第37話 火炎
第38話 新しい朝 +
第39話 楽しいお湯
第40話 残された印
第41話 望郷 *
第42話 呼び声 *
第43話 旅立ちのとき
第44話 手紙
第2章 彷徨
第1章のあらすじ
第2章の登場人物
第1話 反転する海
第2話 遥か天空
第3話 水の悪意
第4話 イルカの歓迎
第5話 旧世界への入港
第6話 新しく古い港
第7話 ウテラス様式のドーム
第8話 サーカス小屋.
第9話 ホテルの夕食
第10話 望郷 *
第11話 同じ川
第12話 守られた村
第13話 湖面の幻影
第14話 中州の文庫
第15話 消えた男
第16話 雲の塔
第17話 水の革命
第18話 来客
第19話 家族の家
第20話 湖水の道
第21話 出島
第22話 赤い灯台 *
第23話 水に映る顔
第24話 海の使者
第25話 覚醒
第26話 なくしたもの
第27話 うさぎの庭
第28話 もうひとつの扉
第29話 水調べ
第30話 水彩
第31話 見送り
第32話 紋章の透かし
第33話 砂浜のスケッチ
第34話 骨董の日
第35話 花瓶の花
第36話 はぐれた子供たち
第37話 トマト色の兆し
第38話 礎石の力
第39話 離脱
第40話 ノイヤールの緑石
第41話 ロマン
第42話 善と悪
第43話 静寂の時
第44話 光る魚
第45話 罪
第46話 汽水の調査
第47話 黒い六角の紋章
第48話 水上の村
第49話 豊漁の予兆
第3章 螺旋
第2章のあらすじ
第1話 再生する記憶
第2話 メビウスの時
第3話 時間の澱み
第4話 変わらない人たち
第5話 見えない鮫
第6話 薬草
第7話 二度目の下船客たち
第8話 入れ替わり
第9話 時間の層 *
第10話 偶然の地の灯台
第11話 島地鶏の卵料理
第12話 もうひとつの出航
第13話 季節のあいだ
第14話 飛行士
第15話 灯台のローソク
第16話 黒服の試飲
第17話 湖の正夢
第18話 魚拓のドット
第19話 幻の釣り
第20話 夕立
第21話 再会
第22話 赤色の宴 *
第23話 消えなれ
第24話 漂流するヨット
第25話 救護に
第26話 もぐらの話
第27話 おいしい世界 **
第28話 自分の手紙
第29話 夜の散歩
第30話 密漁
第31話 海の穴
第32話 ぬめる水 **
第33話 重なる影
第34話 同じ手帳
第35話 キノコステーキの薬味
第36話 かくされたもの **
第37話 摘み取り
第38話 走る光
第39話 時の流れ
第40話 ふたつの影
第4章 失踪
第3章のあらすじ
第1話 男の性
第2話 探さないこと
第3話 変わらないノート *
第4話 夕食の煮物
第5話 光りもの
第6話 白い朝
第7話 ノートの家
第8話 宿帳の名前
第9話 使者
第10話 悲しい空想
第11話 一切れのパン
第12話 タワーの理由
第13話 晩餐
第14話 召された子供たち
第15話 天気計画
第16話 水の約束
第17話 古地図
第19話 雪かき
第20話 期待
第21話 氷上の舟
第22話 生き写し
第23話 島の話
第24話 花と待ち人
第25話 書庫の入口
第26話 地下迷路
第27話 潜水
第28話 石窟
第29話 知らない言葉
第30話 再会
第31話 夜の時間
第32話 洪水の周期
第33話 共生
第34話 二人だけの話
第35話 昏睡
第36話 夢想
第37話 二匹の猫 
第38話 水の声
第39話 時間の重さ
第40話 増えたページ *
第41話 内なること
第42話 戻り道
第43話 図書目録
第44話 旅の途上の小説
第45話 あたらしい船
第46話 つづく
つづく
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第36話 並ばない頁 * +

 それにしても、楽しみにしていた温泉は思ったよりも早くできた。明日には試せると聞いて年甲斐もなくうれしくなってしまった。ネモネさんのカバくんもこれで少し休めるというものだろう。おいしい水にどんな効用があるのかはわからないけれど、このところちょっと気になっている物忘れなどにも効果があるといいとか、すっかり寂しくなっている頭の毛が生えてくるようなことがあるかもしれないとか、ありそうもないことをいろいろと想像してみたりする。神頼みみたいな効用ばかり思いついて自分でもなんだかおかしくなった。それでも、そんなことをあれこれ思う時間がまた楽しい。ノートの主もこの島の水の効用について何か気づいていたのだろうか。もし、それを知っていたのなら、こちらがまだ気づいてないだけでどこかに書き残してあるかもしれない。

 
 そんなことを考えていたときに、船長の言っていたノートの印刷のことを思い出した。そろそろはじめようかと思い、引き出しからノートの束を取り出してみる。ページさえもふられてないままにばらばらに重ねられた状態で封筒に入れられているので、はじめてみた人は頁の順番に並んでいると思い読み始めるだろう。
 ところがこのノートの順番は私が推測で並べただけで、それが正しいという保障はどこにもない。何日目というような記述があるものはそれを頼りに読み進めることもできるけれど、ここに残ってない頁や記述の抜けも多いから日付の入ってないものをどう並べて読むかでわかる話もわからなくなる。読む側がつくった順番によってどうにでも解釈できてしまう可能性すらある。
 それを思うと消えかかった文字をなんとか読んで、見やすくするために印刷することはできたとしても、推測だけで頁をふることはむずかしいかもしれない。仮に製本したとしても、今のノートと同じように時間軸は判然としないままになってしまう。頁のない紙の束は本とは言えないだろう。
 頁と時間の流れは似たものかもしれない。季節の記述があるところは、その季節を想像しながら読むことが多いけど、それが何年目の話なのかもわからない。結局、ばらばらになったノートは夢と同じように記憶の断片でしかないのだろうか。
 
***** ノート *****
 
 天まで届く真っ白な入道雲。夜の月もいつになく白く大きく輝く。
 
 夏が苦もなく過ごせているのは、リアヌシティに比べて湿度が低いおかげです。その分、日に当たっている時間を気にすることもなくなるので、いつもこの時期にはひどく日焼けしてしまいます。木陰で過ごせばこんなことにはならないのですが、風を楽しみたくて海辺で昼寝などをしてしまいますと、1日にして長い休みの後の子供のように真っ黒になってしまいます。空気が澄んでいることも日焼けをひどくしている理由のひとつだと思います。日の当たらない事務所で校正作業をしていたころを考えると、今は別人のようにたくましくなっていると思います。リアヌシティに戻っても誰だかわかってもらえないかもしれません。
 
 海辺にいて気付いたことがあるのでそれを書いておきます。それは、月の満ち欠けが普通の周期よりも遅いことです。記憶をたどってみると、この島に来て満月を見たのはまだ3度だけなのです。おかしいのはそれだけでなく、海の干満の差がメーンランドよりもはるかに大きいということです。とくに島に来たばかりのときの最初の満月のときが島が水没しそうなほどに水位が高かったことを考えると、あの赤かった月の色との関係もなにかあるように思えます。あの日はいつも以上にたくさんの魚影も見られたような記憶があります。満月の日に産卵をする動物もいると聞いたことがあるのでその関係かもしれませんが。"きまぐれ”が現れたのもちょうど満月の時期だったように思えるのです。
 
 まだ、はっきりと確信は持てないでいますが、ジギ婆さんが言っていた、時間がゆるりと動く謎に少しずつではありますが近づいているような気はします。残念ながら、ひとつひとつのおかしなできごとはまったく理解できないことばかりですが。
 
***** ノート *****
 
 この頁は何年目の夏に書かれたものなのだろう。月の周期が遅いというのは果たしてどのぐらい遅かったのか。もしかすると、彼の単なる思い込みで2週間ごとに満月になると考えていたのかもしれない。そうじゃないとあまりにも道理が合わないというものだろう。それとも、星空のこともしばしば書かれていることを考えると、天文に詳しくて1日程度の遅れを正確に観測して把握していたのだろうか。
 
 こういう風な内容の曖昧さがあることも含めて、順番のわからないノートを印刷にして本にするというのはなかなかむずかしい話になりそうだ。普段この島で生活をしていると時間を気にしないでいられることをありがたく感じていたし、ゆったりした暮らしはこの島の良さだろうけど、このノートのように時間の順番がわからなくなってしまうとさすがに困ってしまうかもしれない。まるで老人ボケのようなものだ。もしも本当に島から時間が消えてしまうようなことになると相当やっかいなことになる。
 

第37話 火炎

「じっちゃん、たいへん! おきて! おきて!」

 
外はすっかり夜の闇に包まれている。うとうとしてしまったようだ。何が起こったのだろう?
 
「森が真っ赤!!」
 
「悪い夢だ……」現実に戻るために声にしてみる。
 
「じっちゃん、たいへん、たいへん」
 
「オルターさん、いますかー!」 誰か走り込んで来る音が聞こえた。ミリルさんの声だろう。
 
「うん? ミリルさんまでがどうしたことだろう」
 
なんだか、騒がしい。これは、夢じゃないのかもしれない……。
 
「オルターさん、火事ですよ、半島が火事!」
 
「えー? 火事?」いきなりとんでもない現実に引き戻された。
 
「外を見てください」
 
「おお、空が赤い……」呆然として立ちすくんでしまった。
 
「さっきから半島のほうの森が燃えているんです みんな消火に行きましたよ」
 
これは大変だ、すぐ行かないと。
 
「みんなあるだけのバケツもって」
 
「急ぎましょう」ミリルさんはそう言うなり小走りに灯台を出た。
 
この島で火事が起きたのはじめてだ。少なくともこんな大きな火事は一度もない。バケツを両手に持って、煙を頼りに走って行くと、まだ100mもはなれたところなのに空が炎と火の粉で真っ赤に染まって、炎の熱が消火に向かう人の行手を遮る。みんなそれぞれにバケツをもって集まっているが、とてもそんなもので消えそうにないほど炎は空高く柱のように燃え盛っている。
 
「オルターさん! 危ないからこれ以上近づかないほうがいいよ」食堂のある広場に着いたところで呼び止められた。
 
「あ、スロウさん。船はだいじょうぶでしたか」
 
「なんとかかんとか。気づくのが早かったから帆が焼ける程度で。ノーキョさんも今水をかぶって消火に向かったところ。おいらも今から海水を使って消火をしようと思って」
 
「海のほうからですね。くれぐれも気をつけてくださいよ」
 
「船にポンプがあるので、海水をくみ上げて放水してみようと思って。どれぐらい役に立つかわかないけれど。ここは、できることなら何でもかんでもやらないと。大切な森がなくなってしまっちゃ話にならないから」
 
「スロウさん、ほんとうに気をつけてくださいね。森はいつかもとに戻るから」心配そうにミリルさんが言った。
 
「コピも手伝う」こちらを見ていた目から涙がこぼれた。怖さのせいか、それとも悲しさをこらえているのか。よく見ると小さく震えている。
 
 「コピちゃんはだめよ。ここでバケツに水を入れるお手伝いをしてましょ」制止するミリルさんの手を振り払おうとしている。コピの森への思いはだれよりも強い。
 
「しかし、これは、ひどいことになった。広場のほうまで延焼したら大変だ。島の自然も壊れるし、メーンランドから来た人が過ごす場所もなくなってしまう。とにかく早く消さないと」
 
「コピちゃん、とにかくここから先はいっちゃだめよ、わかった?」
 
「うん……火はいつ終る?」泣きながらミリルさんに聞いている。「早く消えるといいね」なだめているミリルさんも答えようがない。
 
「かなりの勢いだな。これじゃあ、うまく消えてもほんとうに森はなくなってしまうかもしれない。とにかく急がないと」とても大丈夫なんて言えるような火じゃない。
 
「スロウさん、みんなの避難は終ってるのかな?」
 
「住人はいないところだから、だいじょうぶ」
 
「野営場に人はいなかったのかしら」ミリルさんが心配そうに言った。
 
「おいらが知ってる人は火が燃え広がらない段階で避難してたよ」
 
「オルターさん! だめだめ、危ないから」ミリルさんにいくら言われても、さすがにコピといっしょに待ってるわけにはいかない。
 
「ここでこのまま見てられないから、ちょっと消火を手伝ってきます」コピが少し落ち着いたのを見て燃え上がる森に入る決心をした。
 
「オルターさん、ほんとに気をつけてくださいよ 。水をたくさんかぶってください」ミリルさんが語気を強めて言った。
 
 火を甘く見てはいけないのはよくわかってる。だからこそここで消さないと大変なことになる。半島の南のほうは先は少し低くなっていて、木々が茂り屋外で過ごすための野営場もある。メーンランドから来た人がよく野宿している場所だ。この前、灯台で会ったうさぎの女性はだいじょうぶだろうか。こういうときは悪いことばかりが頭を過ぎる。半島から流れてくる黒煙が星空を覆いつくしている。早くしないと。
 
「コピちゃん、あの船長の持ってきた青い本にお願いしてようね」後ろのほうで声が聞こえた。
 
「あおいほん!」
 
「困ったときの神頼みだね。みんなが無事に戻ってくるようにお願いしようね。この島にだってきっと神様はいるから」
 
「おねがい、おねがい! 」空に向かって小さな手を一生懸命すり合わせている。
 
「おいらはボートのほうに回ることにする。必ず消して来るので、ここで待ってて」スロウさんのいつになく高ぶった声が聞こえた。
 
 井戸を過ぎて海に向かって土地が傾斜するあたりから、火をさえぎるものもなくて熱風がただただ吹きつけて来る。あいにく風は南風で雨が降る気配もない。消防施設のない島では住民が力を合わせて水を運ぶのが精一杯。みんなが無事で消火を終えられることを祈らずにはいられなかった。

第38話 新しい朝 +

 消火作業は休むこともなく朝まで続いた。水を汲む人、バケツを運ぶ人、炊き出しをする人、みんながそれぞれにできることで消火作業を手伝った。それでも火の手を抑えることはできず、野営所周辺の森は一夜にして焼け野原になってしまった。ナツヨビが巣を作っていたのはこのあたりではなかっただろうか。島の特異な自然が跡形もなく一夜にして消えてしまった。朝日が顔をのぞかせる時間になってようやく火は収まり、そこかしこからぽつぽつと小さな白煙が立ち上るだけになっていた。一面炭になってしまった野営所周辺で、何人かの人がまだ焼け跡をひっくり返しながら火がしっかり消えているか最後の確認している。
 
 半島の先に見えるスロウさんのボートからは、まだ放水が続いている。トクトクトクというポンプの小さな音が聞こえる。放水をぼんやりと見ていると、バケツを運んでいたノーキョさんが戻ってきた。
 
「いやあ、大変なでした。もう、へとへとです」
 
「みんなの力で島が助かりましたね」こういうときはなにか前向きなことでも言わないと気持ちのおさまりもつかない。
 
「でも、半島のあの美しい木々は壊滅です。なんとか一部でも残したかったのですけど。残念なことになってしまった」ノーキョさんも首をうなだれる。
 
「ナツヨビもたくさんいたところですからね……」ミリルさんが空を見上げて言った。
 
「そうなんですよ。島の自然体系が崩れないか心配で」
 
「そんなことよりノーキョさん、とにかく少し休んでください」ミリルさんがタオルを差し出した。
 
「ああ、すいません。これじゃ、しばらくは温泉なんて言ってる場合じゃないですね」
 
「ここは、火が消えただけでもよかったということにしませんか。みんなでゆっくり温泉にでも浸からないと」
 
「そうか、そうですよね。そのための温泉だ。そう考えましょう。でも、まだ交代で当番の見張を立てたほうがいいですね」
 
「見張?」
 
「ああ、燻ってるところから火が上がるとも限らないということもあるんですけど、変な人を見たという話があって」
 
「というと?」
 
「真っ黒なパーカー来た人が野営をしていたらしいんですけど。その人が焚き火をしたままで、ゴムボートに乗って海に出たというんですよ。それも荷物を全部まとめて。ちょっとおかしくないですか?」
 
「もしかして、その人が? そうだとしたら、ひどい話だ」この島にそんな人が来るなんて思いもしなかった。メーンランドの人の心はそこまで荒れてしまったのだろうか。
 
「その焚き火が急に広がったというんですよ。周辺に引火するようなものでも置いてあったのじゃないかと」
 
「それはなんとしても調べないと」これが悪意によるものなら許すわけにはいかない。でも、なんでそんなことをしなければいけないのかまったく理由もわからない。
 
「森は元には戻らないですよね……」ミリルさんがぽつりと言った。
 
「だいじょうぶ、自然の力は偉大だからきっと奇跡が起きますよ。新しい芽が出て、また新しい命が育っていく。自然の持つ治癒力は人が思う以上にすごいですからね。ここは、それを信じましょう」
 
「そうだといいな」ミリルさんから少し笑顔が溢れた。
 
「少ししたら、いろんな草木の種を撒きましょう。私にまかせてください。この森の種子は全部集めてありますから、だいじょうぶ」
 
「おお、それはすばらしい。心強い話だ。そうだ、森をスケッチしたものがあるので、ぜひそれも参考に」
 
「オルターさん、コピちゃんなら一本一本の木の場所まで覚えているかもしれないですよ」
 
「そうか、コピも手伝ってくれるね。島一番の物知りさんだからね」
 
 コピが泣きはらした目のままで、いっしょうけんめい苗を植える仕草をしている。この子がいれば森は必ず蘇るに違いない。
 
 少し話しているうちに、スロウさんの海からの放水も止まった。
 
「スロウさんのボートからの放水があってよかったですよ。あれがなければ火の手は収まらなかったかもしれない。スロウさんは、島の恩人ですよ」とノーキョさんが言った。
 
「ほんとだ。あとでたくさんお礼を言わないと」また、これで島の絆が深くなったと感じた。
 
 スロウさんは、普段はボートの上で暮らしている。半島の広場には小さな作業場を持っていて、ときどきそこで機械の組み立てをしている。昨日活躍したのもスロウさんが廃材を使って作った海水を吸い上げる機械だったそうだ。理由は聞いてないけれど、海水の調査もしているらしい。同じ自然の研究をするノーキョさんとは大の仲良しで、陸の先生ノーキョさんと海の先生スロウさんというところだろうか。
 
 消火作業をしていた人も徐々に広場に戻ってきはじめた。それぞれに、よかった、よかったと笑顔で喜び合っている。みんなで島を守れてほんとうによかった。怪我の話も聞かないし、それだけが不幸中の幸いだった。食堂で作業をした人の疲れを取るための席を用意していると、スロウさんが戻ってきた。
 
「スロウ、お疲れ様。ノーキョさんがスロウさんが来たのに気がついて声をかけた」
 
「みなさん、お疲れ様。一晩かかっちゃったね。でも、消えてよかったよ」
 
「スロウさんのつくったポンプがあってよかったって話をしていたところですよ。お疲れ様でした」ミリルさんが絞ったタオルを差し出した。
 
「少しでも役に立ててよかった。アグリンも顔が真っ黒だな。ははは」スロウさんが笑った。
 
「あれ、そう?」ノーキョさんがおどけた表情をして。広場に笑い声が広がった。安心したせいかみんなの顔に笑顔が戻ってきた。
 
「まだ、完成してないけど、このまま手掘りの温泉に行きましょうか?」ノーキョさんがみんなを誘った。
 
「あら、温泉できたんですか?」ミリルさんはまだ知らなかったようだ。
 
「まあ、2,3人入れるぐらいだけど、とってもいいお湯だよ」スロウさんも勧める。「もちろん、ネモネさんに了解もらってだけど」
 
「カバくんの初仕事ですね」とミリルさんが言うと、「そうなんですよ。カバくんピンクになって。間違いなくあれは名湯ですよ」とノーキョさんも自信満々に答えた。
 
「じゃあ、ちょっと支度してくるかな」と言うとスロウさんは船のほうに戻って行った。
 
「私も用意してきます。みなさんお疲れ様でした。オルターさんもよかったらいっしょに温泉入りましょうよ。養老の温泉ですよ」
 
「オルターさん、早く行きましょ」ミリルさんに急き立てられた。
 
「じっじ、はやくはやく!」
 
「うんうん、早く試してみないとね」といいながらも混浴なのかなと思う。裸の付き合いというのはちょっと違うように思うが。
 
「あ、オルターさん、水着で入ってくださいよ」また、周りから笑い声があがった。
 
 半島のほうを見るとナツヨビが上空を旋回していた。
 
「あ、ナツヨビも大丈夫だったね」鳴き声の聞こえるほうを指差した。
 
「子どももいる」コピの目はどこまでもよく見える。
 
「そうか、子供ももう巣立っていたのか。よかった、よかった」
 
 自然食の会の夜に見た空虫はどうなっただろうかとふと気になった。あれが幻だったとしても、いると信じてそのまま記憶に留めておきたかったが、この火事でそれもかなわないことになってしまった。
 
 

第39話 楽しいお湯

 スロウさんのボートに乗せてもらって小島のほうに渡ってきた。沖のほうから見る半島は普段見ている景色とまるでちがった眺めなる。
 
「海が全部温泉になったようでしょ? 海と温泉の境目がないんです」
 
「まったく、まったく」
 
「水がこの島のいいところだったなんてね。どうして今まで気がつかなかったんでしょうね」
 
「まったく、まったく」
 
「だんだん若返って来たみたいですよ」
 
「まったく、まったく」
 
「オルターさん! 皺がなくなってきましたよ」
 
「まったく、まったく……ん? どれどれ。ほんとに?」顔をさすってみるけど自分ではよくわからない。
 
「あはは、聞こえてました? すっかりくつろいでますね」
 
「あ、失礼、失礼。しかし、こういう四方を海に囲まれた温泉っていうのもいいものですなあ。これじゃあ、皺もなくなるってものですよ」
 
 スロウさんと二人でこちらを見て笑っている。今朝までの火事のことをすっかり忘れてしまいそうなほどにいいお湯だ。自分が腑抜けになっているのがわかる。
 
「男3人で温泉ってなんだろうね」スロウさんが言う。
 
「ミリルさんたちはまだ来ないかな」ノーキョさんが半島のほうを見ながらいうと、「まあ、それもない話かもしれないな」スロウさんが笑う。
 
 ミリルさんとコピは一度戻ってから来るというので、途中で分かれて男3人で先に来た。言われてみると、男だけだとどうもしっくりこない。これじゃ作業員が仕事のあとの汗を流しているようにしか見えないだろう。実際そうなのではあるけれど。
 
「あ、あれネモネさんじゃない?」景色を眺めていたスロウさんが言った。
 
 カバくんといっしょの小さなボートが近づいて来た。
 
「ネモネさん、いい温泉になっりましたよ。先に入ってました」ノーキョさんが言うと、「どうぞ、みなさんの温泉ですから遠慮なく」うれしそうな声が返ってきた。
 
「お湯の感じを聞きたくて、遠慮もなく来てしまいました」横でピンクのカバがあくびをした。
 
「ネモネさん、これはもう最高ですよ。肌がつるつるとかもあるんだけど、なんだかね入ってると陽気な気分になってきますよ」今の気持ちがそのまま言葉になって出た。
 
「ほんとに、火事のこともあまり気にならなくなりますよね。不思議だな」ノーキョさんが、上に広がる真っ青な空を見上げた。
 
 それを聞いてネモネさんが、「これたぶん、みんなが楽しくなれるお湯なんですね」と納得したように言った。
 
「なるほど、効用は楽しい気分になれますだ。それはいい」スロウさんが掬ったお湯がゆっくりこぼれる。
 
「あとはいつ皺が消えるかだけだな」と言うと、
 
「あはは、オルターさん、そこはじっくりと。ですよね、ネモネさん」とアグリさんが言うと、「そうですね」とネモネさんが微笑む。
 
ネモネさんの言う通りなら、この楽しい気分が若返りにつながるのかもと思う。笑顔いっぱいの時間が身体に悪い訳がない。
 
「本島のほうでいい水がなかなか見つからなくて、気分転換も兼ねてと思ってスロウさんにお願いしてここに来てみたら偶然見つかったんですよ」
 
「いやいや、ネモネさんとカバくんの力だよ。おいらたちじゃきっと一生かかってもみつけられなかった。探しもしなかっただろうしね」と言いながらスロウさんがお湯から上がった。
 
「よかったらネモネさんもどうぞ」と言うと、「あ、私は一番最初に試したので」と微笑む。さすがにむさ苦しい男3人といっしょというのはためらうだろう。
 
「ここに小さな小屋でもつくって、休憩できるようにしないと」ノーキョさんの頭には次の計画ができてるようだ。
 
「ところで昨日の火事は何が原因だったんですか?」ネモネさんが色を失ってしまった半島の森の方に目を向けた。
 
「なんだか不審な人を見たという話はあるんですけど、実際それが原因かどうかはわからないですね」ノーキョさんが簡単に状況を説明した。
 
「自然発火ということはないんですか?」
 
「私の知る限りはないと思いますよ。少なくともこれまで一度もなかったし、雨の降ったあとでそれほど乾燥もしてなかった」と答えた。
 
「そうなんですね。だとするとほんとうに残念な話ですね」
 
 それを聞いたノーキョさんが、「原因は原因として、1日でも早くもとのきれいな半島に戻さないと」と言った。
 
 それでももとの森に戻るまでは何十年もかかるだろうし、しばらくは草地のようなところになるのかもしれない。そう思うと失ったものは大きいと言わざるを得ない。
 
「あ……」双眼鏡で半島のほうを見ていたスロウさんが小さく声を上げた。
 
「ちょっと行ってくる」と言うなり洋服をつかんでいきなりボートに飛び乗った。
 
「スロー、どうした?」
 
「スロウさんが何か答えたようだったけれどエンジンの音にかき消されて聞こえなかった。
 
「あ、人だ」スロウさんの置いていった双眼鏡を覗いてノーキョさんが言った。
 
「人?」と聞くと「半島の火事のあとに人がいますね」
 
「後片付けの人ではなくて?」
 
「なにか探しているみたいですよ」
 
「あれ、パーカーだ!」とノーキョさんが叫んだ。
 
「え、それって昨日のですか?」
 
「あ、ボートに……乗った。ゴムボートだ……」
 
「スロウさんは追いつきそうですか?」と聞くと、「だめですね。スローのボートは遅いから」と悔しそうに言った。
 
 何をしていたのだろう。さすがの温泉にもこれを気にしなくするほどの効用はない。一瞬にしてひどい現実に戻されてしまった。
 
 どこかに犯人がいると思うと、まだしばらくは温泉に入っている場合じゃないのかもしれない。温泉も早々に切り上げてまた半島に戻ることにした。

第40話 残された印

 

「このあたりだったよね。何か残ってないかな」スロウさんにノーキョさんが聞いた。

 

 水浸しになったところを少し探して「炭ばっかりだね」とスロウさんが言った。

 

「なにしてたんだろ」

 

「犯人は現場に戻るっていうし、やっぱり怪しいな」スロウさんはボートの去ったほうをじっと見ている。

 

「ほんとに片付けしに来たんじゃないかな」

 

「それなら、あのボートはどこに行ったと思う?」

 

「それはそうだな。島からボートで離れる人ってほとんどいないからね」

 

「それにあのボートは普通じゃない。えらく早くかった」

 

 スロウさんは去ったパーカーを犯人と確信しているようだ。燃えた木を片付けながら、何かみつからないかとまわりを探しているとコピが来た。

 

「お、コピ、お昼寝してきたかい?」少し元気になったような顔で頷くのを見て安心した。

 

「じっじ、これ」何かを手に持っている。

 

「これ、みつけた」とこちらに小さな手を差し出した。

 

「これは? ボタンかな。どうしたの?」

 

「ここにおちてた」

 

「え、今日みつけたのかい?」

 

「うん」

 

「ノーキョさん、スロウさん、ちょっといいですか」少し離れたところを探していた二人を呼んだ。

 

「これが、ここにあったらしいです」

 

「なんだろ、bかな?」スロウさんが指先で汚れを落としながら言った。

 

 スロウさんから渡されたノーキョさんが、「bかqだな。なにかのバッチかな。ボタンじゃないような」

 

「aでもcでもなくてbか、pでもrでもなくてqね」スロウさんがこれだけじゃ何もわからないと言いたげに首をかしげた。

 

「島では見たことないな……」とノーキョさんもお手上げだというようにつぶやいた。

 

「前から落ちてたのかもしれない」と言うと、「なかった」とすぐにコピが言った。コピが言うなら間違いない。だとすると、やはり火事のときに落とされたものだ。

 

 このあたりはノーキョさんが消火していたところですね」と聞くと、「そうなんです。もう1人いたけど島の人だし……でも、あとで聞いておきますね」

 

 3人で頭を悩ましているところにミリルさんが来た。

 

「みなさん、ゆっくり休めましたか? あ、コピちゃんも来てたのね。ごめんね寝ちゃって」

 

「温泉のほうは楽しめました?」

 

「ミリルさんも早く入ったほうがいいですよ。すごく幸せな気分になれるから。まだ、ネモネさんがいるんじゃないかな」とノーキョさんが言った。

 

「じゃあ、このあと行ってみますね。それで、オルターさん、ハトポステルが来てましたよ」

 

「誰からでした?」

 

「トラピさんから。これです」

 

「あ、ナミナさんが伝えてくれたかな」小さく巻かれた手紙を伸ばした。

 

「ミテホシイトコロ ガ アリマス リアヌシテイ ノ サーカスゴヤ デ マツテマス……

 

「何かわかったんでしょうか」とミリルさんがこちらの顔色を伺っている。

 

「トラピさん、急いでいたのだろう名前も書いてない。もしかしたらナミナさんが書いてくれたのかもしれない」

 

 すぐに来てくれと言ってるように感じた。何をみつけたのだろう。トラピさんのことだからノートに関係した何かをみつけたに違いない。それも一度もメーンランドに行ったことのない私に来いというからには、かなり確信を持てる手がかりを見つけたのだろう。

 

「ミリルさん、トラピさんたちはいつまでの予定でした?」

 

「出る前には、2、3ヶ月と言われてました」

 

「ちょっと、戻ってすぐ返事を書きますね」

 

「オルターさん、火事の後は僕たちでなんとかしますから行ってきてください」とノーキョさんが言うとスロウさんも頷いた。

 

 次に船長が来るまで、一週間もないだろう。この年になって飛行船は考えられないから、船長に頼んで船に乗せてもらおう。早ければ2週間後はメーンランドだ。火事の後始末のほうは二人にまかせて、すぐに準備をしよう。新しい新聞も持っていかないと。あまりに遠いせいで今まであまり考えることがなかったメーンランドが急に身近なものになってきた。自分のまわりで何かが動き始めている気がした。

 



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