目次
第1章 誘い
第1章の主な登場人物
地図
第1話 ことのはじまり *
第2話 残されたノート 
第3話 旅立ちの日 *
第4話 おくれて話す老人 *
第5話 青い猫 *
第6話 お店番
第7話 リブロールの朝 *
第8話 定期船 *
第9話 印刷機
第10話 島便り +
第11話 なくしもの
第12話 別々の名前 * +
第13話 時間のはじまり *
第14話 跳魚釣り
第15話 海の見えるインキ
第16話 乾かない文字
第17話 きまぐれな友達 *
第18話 豚の素性
第19話 時間のカタチ
第20話 ハトの手紙
第21話 ミドリの海 *
第22話 かすむ目
第23話 水の島 +
第24話 雨の夕暮れ
第25話 針のずれ *
第26話 おいしい水
第27話 雨上がり
第28話 小さな楽団
第29話 窓の記憶 +
第30話 食堂の夜 +
第31話 水玉の光 +
第32話 飛行船
第33話 レンズの掃除 *
第34話 名前の由来
第35話 留守
第36話 並ばない頁 * +
第37話 火炎
第38話 新しい朝 +
第39話 楽しいお湯
第40話 残された印
第41話 望郷 *
第42話 呼び声 *
第43話 旅立ちのとき
第44話 手紙
第2章 彷徨
第1章のあらすじ
第2章の登場人物
第1話 反転する海
第2話 遥か天空
第3話 水の悪意
第4話 イルカの歓迎
第5話 旧世界への入港
第6話 新しく古い港
第7話 ウテラス様式のドーム
第8話 サーカス小屋.
第9話 ホテルの夕食
第10話 望郷 *
第11話 同じ川
第12話 守られた村
第13話 湖面の幻影
第14話 中州の文庫
第15話 消えた男
第16話 雲の塔
第17話 水の革命
第18話 来客
第19話 家族の家
第20話 湖水の道
第21話 出島
第22話 赤い灯台 *
第23話 水に映る顔
第24話 海の使者
第25話 覚醒
第26話 なくしたもの
第27話 うさぎの庭
第28話 もうひとつの扉
第29話 水調べ
第30話 水彩
第31話 見送り
第32話 紋章の透かし
第33話 砂浜のスケッチ
第34話 骨董の日
第35話 花瓶の花
第36話 はぐれた子供たち
第37話 トマト色の兆し
第38話 礎石の力
第39話 離脱
第40話 ノイヤールの緑石
第41話 ロマン
第42話 善と悪
第43話 静寂の時
第44話 光る魚
第45話 罪
第46話 汽水の調査
第47話 黒い六角の紋章
第48話 水上の村
第49話 豊漁の予兆
第3章 螺旋
第2章のあらすじ
第1話 再生する記憶
第2話 メビウスの時
第3話 時間の澱み
第4話 変わらない人たち
第5話 見えない鮫
第6話 薬草
第7話 二度目の下船客たち
第8話 入れ替わり
第9話 時間の層 *
第10話 偶然の地の灯台
第11話 島地鶏の卵料理
第12話 もうひとつの出航
第13話 季節のあいだ
第14話 飛行士
第15話 灯台のローソク
第16話 黒服の試飲
第17話 湖の正夢
第18話 魚拓のドット
第19話 幻の釣り
第20話 夕立
第21話 再会
第22話 赤色の宴 *
第23話 消えなれ
第24話 漂流するヨット
第25話 救護に
第26話 もぐらの話
第27話 おいしい世界 **
第28話 自分の手紙
第29話 夜の散歩
第30話 密漁
第31話 海の穴
第32話 ぬめる水 **
第33話 重なる影
第34話 同じ手帳
第35話 キノコステーキの薬味
第36話 かくされたもの **
第37話 摘み取り
第38話 走る光
第39話 時の流れ
第40話 ふたつの影
第4章 失踪
第3章のあらすじ
第1話 男の性
第2話 探さないこと
第3話 変わらないノート *
第4話 夕食の煮物
第5話 光りもの
第6話 白い朝
第7話 ノートの家
第8話 宿帳の名前
第9話 使者
第10話 悲しい空想
第11話 一切れのパン
第12話 タワーの理由
第13話 晩餐
第14話 召された子供たち
第15話 天気計画
第16話 水の約束
第17話 古地図
第19話 雪かき
第20話 期待
第21話 氷上の舟
第22話 生き写し
第23話 島の話
第24話 花と待ち人
第25話 書庫の入口
第26話 地下迷路
第27話 潜水
第28話 石窟
第29話 知らない言葉
第30話 再会
第31話 夜の時間
第32話 洪水の周期
第33話 共生
第34話 二人だけの話
第35話 昏睡
第36話 夢想
第37話 二匹の猫 
第38話 水の声
第39話 時間の重さ
第40話 増えたページ *
第41話 内なること
第42話 戻り道
第43話 図書目録
第44話 旅の途上の小説
第45話 あたらしい船
第46話 つづく
つづく
奥付
奥付

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第3章 螺旋

第2章のあらすじ

 都会を逃れた人が暮らす小さな島ウォーターランド。本屋リブロール店主のオルターと住人たちは豊かな自然に囲まれてのどかな生活を楽しんでいます。島には数百年前に訪れた旅人が残したノートがあり、そこには時間がゆるりと動き島が消えるという謎めいた話が書かれています。

 あるときノートを書いた旅人の出生の地がわかり、オルターはその秘密を証すために大陸メーンランドに向かうことになりました。たどり着いた先リアヌシティは想像もしなかった未来都市で、そこは暖かな交流が忘れられ合理性と安全性だけが優先されるところでした。それを管理をしていたのがドーム・コンストラクションとその関連会社のボルトンでした。

 そして、旅人の故郷であるオールドリアヌがかろうじてその管理の手を逃れた自治エリアとなっていました。オルターたちはこのオールドリアヌに度々足を運びノートの秘密と村の謎に迫ろうとします。しかし、答えが隠されていると思われた公書館にさえも近づくことを阻まれ、思うようにノートの真相を探ることができません。

 その後、島の秘密を知ると思われるノイヤール湖の出島に住むジノ婆さんのところを訪ねることになりますが、六界錐のある場所に近づくとまるで何かに囚われたようにオルターの意識は混濁し、ミドリの鮫が棲む世界に引き寄せられてしまいます。そこはノートの主がいたと思われる場所であるようですが、それを確信することができないままに現実の世界に連れ戻されてしまいます。鮫はどこから現れるのか、六界錐は何を意味しているのか、それともノイヤール湖の光る水にすべての答えがあるのか。確信に迫ろうとしたそのとき、オルターの意識がまた遠のいていきました。


第1話 再生する記憶

 深い緑の闇から抜け出すと、潮の香りのする暖かい風の吹くところに出た。明るい陽射しに目が慣れてくると、そこが慣れ親しんだ場所だとわかった。それは間違いなくウォーターランドの灯台だった。一瞬遅れてインクが淡い光と共に目の前に姿を現した。この子は私のいる場所をどうしてわかるのだろう。気がつくとインクのいることだけが意識を失った世界にいるときの唯一の救いになっている。

 

 そんな気持ちを知ってか知らずか、何も変わることはないとでも言いたげにいつものように机の下で毛づくろいをはじめた。ベッドから身体を起こすと、不思議なものでもみつけたようにじっとこちらの様子を伺っている。もしかして、また違う顔になっているのだろうか。自分の顔を恐る恐る触ってみたがよくわからない。

 

「インク、おいで」声を掛けると、少しこちらの様子を見ているようだった。なにか違うところがあるのだろうか。何度か呼んでいるうちにオルターの声だとわかったのか、忍び足で近づいて来て身体をすり寄せた。

 

 ここはこの前来た場所と同じなのだろうか。すべてが今のウォーターランドに似すぎている。ベッドも前のような藁の寝床ではなく、いつも使っていた布地のシーツが掛けてある。それも洗いたてだ。

 

 一番気になるのは東と西の方位の入れ替わりだけれど、日が高いこともあってよくわからない。太陽は少し南に傾いているようにも思える。そうであればほんとうのウォーターランドと同じということになる。

 

 灯台の中に何か違ったものはないか探したが、とくに記憶と違うものは見つけられなかった。もしかして、ノイヤール湖が人の記憶をどこかに再現して見せているのではないかと想像してみた。ここが自分の記憶を元にした創造の世界だとしたら、それは夢と同じようなところなのかもしれない。 

 

 前回ウォーターランドと似たところに行ったときにはミドリ鮫が現れて元の世界に帰ることができた。来るときにも現れたことを考えると、今回も鮫を見つければいいのかもしれない。急いで鮫に連れていかれた海のほうを見たが、そこに鮫の姿はなかった。しばらく見ていてもなにも起る気配がなかったので、彼らは夜に現れるのだと自分に言い聞かせた。そうでもしないと、不安な気持ちが押さえられなくなりそうだった。

 

 ベッドの枕元には読みかけのノートが置いてあった。手にしてみると、舟遊びをしていた場所のことを書いてあるページだった。ウォーターランドを出る前に読んでいたところだ。ここには水路のことしか書いてなかったけれど、もしかするとノイヤール湖のことも書いていたのかもしれないと思った。

 

 ノートを読んでいるうちにノート氏もノイヤール湖で意識を失ったのではないだろうかという考えが頭をよぎった。彼も出島に六界錐を作っていたのだろうか。そうだとしたら、そのあと訪れたというウォーターランドも、実世界にあったかどうかさえ疑わしくなってしまう。でも、ノートそのものはウォーターランドに存在している……

 

 もし、夢の世界を他人と共有できるのであれば、自分のいるところとノート氏のいるところが同じ夢の中と考えればいい。同じ夢であれば……。

 

 それよりも今は、出島で別れてしまったコノンさんのお祖父さんはジノ婆さんと何も気づかないままに話をしているのかどうかのほうが気になる。そこではなにも変わらずに時間が進んでいるのだろうか。自分がこんなことをしているこの瞬間も、きっと向こうの世界はいつも通りに動いているのだ。そう思うと一体何が正しい現実なのかわからなくなってしまう。

 

 ノートをめくってもみても、いつも見ていたものと同じものに見える。間違いなく自分で書いた写しだ。横にいるインクにも何の違いも感じられない。いつもと同じように足先の毛づくろいをはじめている。まるで、今のウォーターランドに戻ったような錯覚を覚える。

 

 人が歩いてくる気配がしたので、あわてて風呂の後ろに隠れて小さくなった。一人で来た人はすぐには出ていかなかった。机で何か作業をしているような物音が聞こえる。書き物でもしているのだろうか。インクもなついているようだ。喉を鳴らしているのが聞こえた。

 

 前にも感じたようにこの世界の人と目を合わせることがとても危険な行為であるように思えて仕方がなかった。それは、二度と現実世界に戻れないのではないかという不安だったと思う。なぜそう思ったのかは自分でもよくわからない。

 

 普段、夢に見る世界というのは、自分自身の目線なのか第三者の目線なのかは曖昧なものだけれど、今おかれているのはその感じに似ている。机に座っているのは自分自身のような気さえする。

 

 そんなことを考えているうちに、不覚にも風呂の横の壁にもたれたまま、また深い眠りに落ちてしまった。その後、机のところにいた人がどうしたかはわからない。  目覚めたのは、すっかり日が落ちた時間だった。一瞬出島に戻ったかと思ったものの、目の前のバスタブを見てそうではないことはすぐにわかった。夢の中で夢を見ることもあるのだろうか。せめて目覚めたところが寝入る前と同じところであってほしいと思った。そうでないと、自分の居場所がまったくわからなくなってしまいそうだった。道に迷うどころの騒ぎではない。無限に広がって行く意識の中で遭難してしまいそうだった。

 

 明かりのない部屋は真っ暗で何も見えなかった。手探りで窓をみつけ外を眺めて見たが、月も星もない闇の世界が広がっているだけだった。


第2話 メビウスの時

 あたりを見回しても人の気配はまったくない。ノート氏が現れそうな気配も感じなかった。気がつくとインクの姿も見失い、すべては暗闇の中に消えてしまった。

 また、前と同じようにボートに乗って海に出れば出島に戻ることができるかもしれないと思い灯台を出た。
しかし、そこで目にしたのはまったくあり得ない光景だった。

「え、どうして……」思わず声を出してしまった。

 エバンヌがある。耳を済ませるとジャズが流れているのが聞こえ、窓には動く人影まで見えた。この前のような孤独な世界ではなくそこに人がいることに孤独感以上の恐怖を感じた。

 店を覗いてみたい気もするものの、そこに誰がいるのかは想像もつかない。たとえノルシーさんがいたとしても、ほんとうのノルシーさんかどうかを見きわめることもできないだろう。もし、ノルシーさんの顔がこの前の自分と同じように違っていたらと思うと、とてもドアを開ける気になれなかった。
 ここはほんとうのウォーターランドに似すぎている。それは、まるで自分自身の記憶の中に入ってしまったかのようだった。

 そのままボートのあった場所を目指した。ただ、この前乗ったボートはいっしょに海深く沈んでしまったことを考えると、そこにあの赤いボートがある保証などなかった。月もない暗闇の中で必死に探してみたものの、なくなったボートを見つけることはできなかった。
 もしやと思い、北のほうに行ってみると思ったとおりボート乗り場があった。それは今のウォーターランドにあるボート乗り場とまったく同じだった。とりあえず鮫に会うだけなら、同じ赤いボートでなくても構わないだろう。海に出られさえすればいいのだと自分に言い聞かせ乗り込んだ。
 少し沖に出たところで前と同じように西に向けて方向を変えた。左手にはさっき通り過ぎたエバンヌが見える。鮫が現れるのを期待しつつ西に向かって少しずつボートを進めた。

 ときどき後ろを見ながら西に向かったもののあのときのように鮫は現れなかった。ふと気になってボートの下を覗き込むと思っていたほどの深さはなく、そこに巨大なミドリ鮫が現れるとはとても考えられなかった。
 後ろを振り返っても、鮫の背ビレをみつけることはできなかった。この前と違っているのは月も星もない夜ということ。それに前に来たときは白い灯台やエバンヌはなかった。その違いが何を意味しているのかはわからない。

 深夜過ぎぐらいまで灯台の先の海に浮かんだまま時間をやりすごすことにした。しかし、待てど暮らせどミドリ鮫が現れることはなかった。仕方なく灯台の近くにボートを寄せることにした。エバンヌには数時間前と同じように明かりが灯っていたけれど、灯台のほうには人が入った様子はなかった。

 これで現実世界に帰れなくなれば、またマリーさんに心配させてしまうし、コノンさんのお祖母さんやお祖父さんにも余計な気苦労をかけるだろう。そして何よりもあの美しいオールドリアヌに戻れなくなることが悲しい。できれば、帆掛け船を自在に操れるようになって、お祖父さんとたくさんのドットトラウトを獲ってみたかったし、マリーさんのところで手伝いをしながら、ハロウさんといっしょにオールドリアヌに水彩画を描きにも出かけたかった。

 そんなことを考えているうちに、もしかしてナーシュさんも今の自分と同じようなめにあっているのかもしれないという気もしてきた。行方が知れなくなって10年経つという。10年は長すぎる。戻るきっかけをつかめないでいることも考えられなくはない。もしそうであれば、ジノ婆さんが言ったように六界錐が出島に呼び戻してくれるのを期待するしかないのか。そんなことより六界錐を持たない自分のほうはどうすればいいのかのほうが心配になる。トラピさんのようになぜすぐに作らなかったのか悔やんでも悔みきれない。
 それとも、この世界からも船を使ってオールドリアヌに行くという方法もあるのかもしれない。ここが自分の知っているウォーターランドと何も変わらないのであれば、船で行った先にあるオールドリアヌも同じかもしれない。オールドリアヌがこの世界にもあればの話だけれど。

 机にあるノートを見ていると、ノート氏の体験と自分の今の状況がなんだか同じようにも思えてくる。ノート氏もどこかで意識を失って同じように別の世界で旅をしたのではないか。もし、そうだとしたら、意識世界と現実世界の両方にあるノートの存在はどういう関係と考えればいいのだろう。どこかにそれを繋ぐものがあるということか。
 現物か写しかの違いこそあれ、内容に違いがあるわけでもない。そんなことを考えているとやはりノート氏はまだどこかにいるのではないかと思えてくる。もしかして、昼間にここにいた人がノート氏その人ではなかっただろうか。時間と空間と現実と夢が混在してどこから考えていけばいいのか糸口がまるでわからなくなってしまった。

 そうこうしているうちに、東の空が明るくなってきた。空を覆っていた雲にも切れ間が見える。明るくなると人目にもつきやすくなるので、灯台を出て建物の裏側に身を隠すことにした。
 波際のところまで降りるとさすがに波しぶきが強く、人も近づきそうにない。身を隠すのにはちょうどいい場所だ。灯台のデッキに登る人さえいなければみつかることはないだろう。
 ここで鮫が現れる夜が来るのを待つことにしよう。

第3話 時間の澱み

 この灯台が白い灯台に変わったのはいつごろのことだったのだろうか。この前来た場所には赤い灯台があった。同じ場所に六界錐はあるものの読み取れなくなった文字は年月の経過を感じさせる。赤い灯台か白い灯台かは時代の違いなのかもしれない。

 結局夜明けまで待ってもミドリ鮫が現れることはなかった。エバンヌのほうを見てみるといつの間にか明かりが消えていた。
 南のほうに回ってリブロールの方を見てみようとしたとき聞き覚えのある声がした。

「じっじ、昆布拾い?」

「あ、コピおはよう……」何も考えずに思わず返事をしてしまった。

 現実ではないとわかってはいてもコピに会ったのが無性にうれしかった。

「コピも手伝う!」と言いながら元気良く駆け下りてきた。

 しばらく呆気にとられて次のことばが出てこなかった。一生懸命なところはいつものコピと何も違わない。また、湖のときと同じように幻影を見ているのではないかと思いながらも、目の前で起っていることは現実としか考えようがないほど実際の世界と寸分の違いもなかった。

 ありがとう……と言いながら顔を見ると、いつもとまったく変わらない無邪気な笑顔が返ってきた。

 そうなると、今度は逆に自分のほうはどう見えているのかが気になった。

「あの、じっじの顔、変じゃないかい……」と聞くと「寝ぼけた顔!」と言っていつものようにころころと笑った。

「じっじ、ほんとうに今日いくの?」と言われて、何を言っているのかがすぐには理解できなかった。何か約束でもしているのだろうか。

「虹の石があって助かったよ」と言いながら胸元に手をやると、「虹の石ってなあに?」と言って目をくりくりさせた。コピには何のことを言われているのかわからないようだ。
 指先で首から下がっているはずの虹の石を探ったがみつけることはできなかった。また、なくしてしまったのだろうか。鮫たちが虹の石の光を求めて集まっていた光景がふっと浮かんで消えた。

「船長は今度は何を持ってきてくれるかな」と聞いてみると、「いいもの!」とうれしそうに答えた。いいもの……船長はまだ来ていない、というよりこの世界にも船長は来るということだ。
 メーンランドに向けて船で出たのが夏至から24日目だったことを思い出して日にちを尋ねてみると、今日は23日目だという。今日は出発の前日ということのようだ。時間のずれた記憶の世界に来てしまったのだろうか。

「コピはウォーターランドに来る前はどこにいたの」唐突な質問だとは思ったけれどどうしても聞きたかった。

「木と川のあるきれいなところ!」うれしそうに言った。

「そうか……木と川のあるところね。そこにはじっじはいなかったよね」まさかそれはないだろうと思いながらも一応確かめてみた。

「ドットだけだよ」

「ドット? ドットって魚のこと?」

「ドットはドット」と言って昆布取りに夢中になっている。コピはドットトラウトを見たことがあるのかもしれない。コピの生まれ育ったところにもいるということだろうか。

 話しているうちにコピが突然リブロールに現れた日のことを思い出した。あのころは、船長の船もなかったし、この子はどうやってこの島に来たのだろう。そう考えると、コピも今の自分と同じようにしてここに来たのかもしれないと思った。つまりそれはどうやってきたのかわからないということに他ならないのだけれど。

「スロウさんやノーキョさんたちはどうしてるかな。火事の後の実験広場はうまくいってる?」ネモネさんの言っていた話はここではどうなっているかと思い聞いてみると、「火事はたいへん、たいへん。実験広場はなあに?」きょとんとしてこちらを見ている。

 やはり、火事があった後だ、木々が想像以上に成長していることにはまだだれも気づいてないということか。コピはまだ広場の実験班長にはなってないようだ。

 コピといる時間を懐かしく思い出しながら、昆布取りをしていると、「ミリルさん来た」と言って突然立ち上がった。

「え、リブロールがある?」思わず口をついて出た。

「じっじ、へん」と言うと、初めて会った人でも見るようにこちらをじっと見た。

 少しして「ねぼけてる」と言って笑い出した。

 言われてみると、昨日からリブロールを見てないことに気づき灯台の裏に回ってみると、そこには朝日を受けて立つリブロールがあった。昨夜は月明かりもなかったので気づかなかっただけだろうか。

「ミリルさんと昆布の朝ごはん!」と言うとぴょこんと立ち上がって誘うようにこちらに手を伸ばした。

 コピはいつもの調子で話している。その様子に自分の知っているコピと違うところは何もない。過去の記憶にこういう場面があっただろうか。自問自答してみるものの思い当たることがない。

「じっじ、いこいこ」コピが急かすけれど、どうにも足が前に出ない。

 そのとき、コピの後ろの海面に背びれが見えた。海面に大きな背中を見せたと思ったらすぐに水の中に消えてしまった。一瞬だった。ミドリ鮫はここにもいるのだ。もう少し早く現れてくれていればという思いが込み上げた。ただ、まだあの鮫といっしょに戻れるチャンスはあるということにほんの少しではあるけど救われた気がした。

 手を引かれるようにして、波打ち際の湿った砂地を歩いてリブロールに向かった。リブロールが近づくにつれて、これでしばらくは出島には戻れないだろうという諦めの気持ちがまた頭をもたげてきた。晴れ渡った空を見上げると、太陽がいつものウォーターランドと同じように東の空に登っていた。
 ほんとうのウォーターランドと寸分も違いのない世界があるとしたら、現実と意識世界を切り分けることに何の意味があるのかわからなくなってくる。

 目を伏せるように歩いていくとリブロールから「あら、オルターさん。お出かけの日で寝られませんでした? ユイローは効かなかったのかしら」ミリルさんの明るい声が聞こえた。心を決めて顔をあげると、そこにいたのはいつもと何も変わらないミリルさんだった。その姿のどこにも違いはなかった。

「昨日はせっかくの満月だったのに途中から曇がかかってしまいましたね」

「曇っていた……」この二人は昨日もここにいたということだ。この同じ空の下に。

「旅の用意の方はどうですか」

「用意……そうか、用意だよね」と自分でも意味不明なことを言っているなと思った。

「メーンランドは遠いところだから、準備も大変ですよね」

 やはり、船長の船が来て、これからその船でメーンランドに行くということのようだ。

「えっと、ちょっと今回は思うところがあって……」自分でも何を言いたいのかよくわからなかった。ただ、ここを離れるといよいよ出島に戻る道が閉ざされて時間の迷宮に迷い込んでしまうような気がしたのは間違いない。

「でも、トラピさんが待っているかもしれないですよ」と言いながら引き出しから取り出したロールペーパーの手紙を渡された。

「あの、それは……」トラピさんからの手紙ではなかったとは言えなかった。もちろん現実世界での話だったので、この意識世界でも同じなのかどうかさえもわからない。

 丸めてあった手紙をもう一度開いて読み直した。

「じっじ、トラピさんと会うの?」とコピが覗き込むようにして言った。

 開いた手紙はトラピさんからの手紙ではなかった。それどころかボルトンがコノンさんに宛てたものでもなかった。

ミテホシイトコロ ガ アリマス リアヌシテイ ノ サーカスゴヤ デ ……

 これは、自分がスロウさん宛に書いてハトポステルに投函した手紙そのものだった。急いで書いたので読みにくくはあったけど、オールドリアヌに戻る前に書いた手紙だ。あの手紙がねじれた現実と意識世界を超えて今ここにある。時間を遡るばかりか、前後の関係さえ崩れている。

 何がずれて、現実と意識の世界がどうつながっているのかまったくわからなくなってきた。ただ、あらゆる出来事が混在した現実だけが目の前にある。理由などわからなくてもいいので、とにかく目が覚めて出島に戻れないものかと思わずにはいられなかった。無意識にミドリ鮫の迎えが来ることを祈っていた。

「オルターさん、なんだか具合が悪いみたいですよ。顔色がよくないわ」ミリルさんが心配そうにこちらを見て言った。

 それを聞いたとたんに一気に疲れが出て、そのまま倒れるようにして横になった。

「じっじ、だいじょうぶ?」

「心配ないよ。昨日遅くまでノートを読んでたのがよくなかった」ウォーターランドを出る前の日を思い出しながらなんとか話をあわせた。

 出発の前の日の夜、灯台でノートを読んでいるうちに寝てしまった。そのあとはどうなったのか。翌日はほんとうに目覚めたのだろうか。今いる世界がほんとうの現実世界だとしたら、メーンランドでの出来事はすべて夢の中で起ったことだったのか。

 今日は船長がやって来る日だという。その船に乗ってメーンランドに渡って、オールドリアヌのノイヤール湖で意識を失ってしまう。そして目覚めるのがまたここになったら……
 時間の澱みに取り残されたまま延々と時間がループするということだ。今日、来るという船長は、こちらを見たときになんと言うのだろう。

第4話 変わらない人たち

 ソファーに横になっていると、ミリルさんが採ったばかりの新鮮な昆布でスープとサラダをつくってくれた。夢の世界には色がないとか、味がないとか聞くこともあるけれど、このスープにはしっかりとした味もついていたし、昆布は茹でられてきれいな緑色になっていた。
 口にしただけで気持ちが少し落ち着いた。考えたら昨日の昼から食事をしていなかったのだ。現実でも意識の世界でもどうやら空腹だけは時間通りにやってくるらしい。
 
 スープを飲みながらリブロールに変わったことはないかと店内をあらためて見回してみたものの特別違和感を感じるものもなかった。本棚には青い表紙の本も置いてある。船長とページのない本にノートを印刷して綴じ込むとそれが終わりのない旅の入り口になるという話をしたのを思い出した。あの時からノートの世界の旅が始まっていたのかもしれない。
 
「船長が着くのはお昼頃でしょうか」とミリルさんが言うと、いいもの、いいものとコピがうれしそうに飛び跳ねた。
 
「オルターさん、具合が良くないなら、メーンランドは次回にしたほうがよくないですか」
 
「そうだねえ」どちらとも言えない曖昧な返事をした。ミドリ鮫が現れるのをここで待つべきか、船長の船で島を離れるべきかの判断ができない。ループする時間の起点すらよく思い出せないからどうにもならない。何かわかるまではこのまま様子を見るしかないのだろうか。そのうち目が覚めるのかもしれない。
 
「だれか代わりの人に行ってもらうのも方法ですよね」ミリルさんは諦めることが決まったと思っているようだ。
 
「代わりの人にノイヤール湖まで行ってもらうというのも……
 
「ロイヤル湖ってどちらに?」
 
「あ、ノイヤール、オールドリアヌノの……
 
「ノートに書いてあるんですか?」ミリルさんが初めて聞いたという顔をしてこちらを見た。
 
「そうか、夢でみたのかな……」と言って口ごもってしまった。ミリルさんの言う通り、オールドリアヌは実際行った人間にしかわからない。夢で見たと思えば、何も不思議ではなくなる。
 
「オルターさん、少し休んだ方がいいみたいですよ」ミリルさんが心配そうな顔をしている。
 
「横になっていてくださいね。ちょっと、エバンヌに行ってきます」と言って急ぎ足で出て行った。
 
 コピは本棚から青い本を持ってきて、隣でおとなしくページをめくっている。
 
「コピ、その本の向こうに何かありそうかな」
 
「きれいな水のところ!」とうれしそうに言った。
 
「きれいな水が見えるのかな」と聞くと、うんうんと首を大きく振った。
 
 静かになったのでしばらく目を閉じてみた。もしかすると出島で目覚めないかという期待もあったけど、目を開いたところはやはり同じリブロールだった。
 横目で本を読むコピのやさしい顔を見ているうちに、この世界から船長の船でメーンランドに行くのはやめようと思いはじめた。現実と何も変わらない世界からあえて別の方法で戻る必要はないということもあったけれど、それ以上に二つの世界の時間の狭間に落ち込んでしまいそうな恐怖感が拭い去れなかったことが一番の理由だったかもしれない。
 
「今回は船に乗るのを止そうかな」と言うとコピもうれしそうに頷いた。
 
 いっしょに青い本を眺めているとミリルさんが小走りに戻って来た。
 
「おじゃましますよー、オルターさん調子はどう?」ノルシーさんがいっしょだった。
 
「また張り切りすぎちゃったかな」と言いながら額に手を当ててきた。
 
「熱はないみたいね。でも、今回はよしたほうがいいかもね」と言ってミリルさんと何か話している。
 
「変な夢を見たんだって?」と言うとソファーの近くにテーブルの椅子を持って来て座った。
 
「夢というか……」説明のしようもなかった。
 
「ね、ね、また赤い灯台見えたんじゃないの?」長い付き合いのノルシーさんにはこちらの気持ちが見抜かれているように思うことがある。
 
「赤い灯台って、ほんとうにここにあったのかな」と思わず心を許して聞いてしまった。
 
「あったかどうかって、ノートに書いてあったんだよね」ノルシーさんが言った。
 
「いや、ノートには書いてあるけどね。実際にここにあったのかなって……
 
「ほら、だからノートの読みすぎに注意って言ったのに」困った人だと言わんばかりの顔をしてミリルさんの方を見た。
 
「現実じゃないのかなあ」時間の違いだけでもない気がして仕方がなかった。
 
「どちらでもいいけど、今回はやめだね。どうしてもっていうのなら、別の人に行ってもらったほうがいいね」
 
「そうか、ネモネさんはまだ島に?」
 
「そうかって、船長の船も来てないし。これは相当重症だよ」困った人だという顔をして笑った。
 
 やはり、ここは出発する前日の夏至暦23日のウォーターランドなのだろう。そう思うとすべてのつじつまが合う。オールドリアヌで起きたことはすべて夢の中でのできごとだったと。
 
「とにかく、少し様子を見た方がいいかもね。ノーキョさんのとこで薬草でももらってこようか」
 
「いや、大丈夫だから。少し休めば」
 
「昨日は遅くはなかったよね。明かりついてなかったし」
 
「寝た時間は覚えてないけど遅くはなかったような。記憶があいまいで」
 
「こりゃ、薬草投与決定だ」
 
 みんなの話を聞いているうちに、今度はここはほんとうのウォーターランドではないかと思いはじめた。夢で見ていたわけでもなく、何かの間違いで灯台の横にある六界錐に引き寄せられてここに戻ったとも考えられる。そうだとすると昨日の夜のことがどうだったか気になる。
 
「ミリルさん、昨日の夜は灯台に来ましたか?」
 
「あ、わかりました? ユイローがあったのでお風呂にどうかと思ってお届けしましたよ。お風呂に入っていたの気がつきましたか? オルターさん、かなりお疲れみたいでしたよ」
 
 風呂に隠れていたのではなく、ベッドで寝ていたということだ。あのときの人影はミリルさんではなかったということか、それとも向こうの世界のことだったのか。
 
「ああ、ノートを読んでたら眠くなってしまってね」とこちらの世界に話を合わせた。
 
「月がすごく綺麗で。満月の日のユイローは身体にいいって聞いたことがあったので」
 
「そうか、昨日は赤い満月の日だったんだね」
 
「そうですよ。でも、あのあと雲に隠れてしまったから、あまり効き目がなかったかも」
 
 意識を失う時にいつもユイローが関わっている気がする。
 
「じゃあ、ノーキョさんのところに行ってくるね。ミリルさん、正気になるまで見張っててね」と言ってノルシーさんが出て行った。

第5話 見えない鮫

 ソファーから起き上がると、ミリルさんが心配そうにこちらを見ている。まるで管理下に置かれた希少動物扱いだ。
 
「オルターさん、あまり無理しないで横になっていたほうがいいですよ」
 
 きびしい指導がされる。身を隠していなければいけなかったかもしれないのに、どうしてこんなことになってしまったのか。
 
 違う世界から来たからなんて言ってもわかってくれる人もいない。傍目に見ているとただの病人にしか見えないだろう。
 
「ちょっとミドリ鮫のことを調べたくてね」実際、それは嘘ではなかった。こちらにしてみればミドリ鮫を見つけられるかどうかは死活問題だからゆっくり寝てからなんて言ってはいられないのだ。
 
「ミリルさんはこのあたりでミドリ鮫を見たことないですよね」
 
「私はないですけどコピちゃんはよく見るって言いますよ」
 
「コピはどこで見るの?」横にいたので聞いてみた。
 
「みるのはここ」
 
「ここって、ウォーターランドだよね?」
 
「ここ、ここ」両足をそろえてぴょんぴょん跳ねている。ここというのは今いる意識世界のウォーターランドのことを言っているのだろうか。ミドリ鮫は現実世界にはいない生き物ということなのか、それともただ見つかりにくいというだけなのか。
 
「あの、今朝ね、ここに来る前に見たような気がしたんだけど……」ミリルさんの反応を伺いながら聞いてみた。もしかするとこちらの世界ではミドリ鮫がいるのが当たり前かもしれない。うかつなことは言えない。
 
「今朝はイルカの家族が入江に迷い込んでいましたけど。イルカではなくてですか?」
 
「え、イルカがいたの?」
 
「さっきまであのあたりで遊んでましたよ」灯台の横あたりを指差した。自分が見たあたりと同じだ。
 
「コピちゃんは見た?」ミリルさんが聞いた。
 
首を横に何度か振った。コピが見てないのか。
 
「コピちゃんは一番最近はいつ見たの?」一度も見たことがないというミリルさんもどんなときに見られるのか知りたそうだった。
 
「きのうみた!」
 
 一瞬時間が逆回転して目の前の景色が昨日に巻き戻された。
 あのときミドリ鮫がこの海にいたなんて。どうしてその鮫を見つけられなかっただろう。コピだけにしか見えないとでも言うのか。みつけられなかった悔しさがこみ上げてくる。
 
「コピちゃん、それいつ頃だったの?」ミリルさんもさすがに納得がいかなかったのだろう。
 
「よるのまえ」質問の意味がよくわからないというように首をかしげながら答えた。ミドリ鮫のことをなんでみんなしつこく聞くのかわからないようだ。いつでも見えるコピにとっては当然だろう。
 
 鮫が現れたのが探していた深夜ではなかったとすると、自分がここに来たころだろうか。風呂の後ろに隠れたころと同じ時間かもしれないと思った。
 
「オルターさん、何か心当たりがあるんですか?」こちらが何か考えているように見えたのかミリルさんが聞いてきた。
 
「いやただ、そのときどこに居たかなと思って……
 
「私がユイローを届けたころだったのかなあ。ほんとうにいると信じないといつまでたっても出会えないのかもしれないですね。でもオルターさん、絶対コピちゃんにしか見えないものってあると思いませんか」
 
「子供のころにしか見えないものがあると言うしね」自分で言いながら、それはなんだろうと思った。妖精の類いのものだろうか。妖精がほんとうにいるかいないかは別として、妖精なら子供の目でしか見られないような気がした。
 
「もしそうだとしたら大人ってつまらないですね」ミリルさんが頬杖をついて海を見ている。
 
 話をしているうちに、現実世界で船長が届けてくれた水の本のことを思い出した。あの本には鮫の話は出てなかっただろうか。ミリルさんに聞いてそんな本の話は聞いたこともないと言われるても困るので自分で棚を見てみることにした。
 棚を順番に眺めているとコピが何を探しているのと聞いてきたので、小さな声で水の本と言ってみた。そうすると、テーブルでスロウさんが見てたと教えてくれた。出航前の記憶とこの世界はほぼまちがいなくすべてが一致している。
 
「ミリルさん、船長のもってきた水の本のどれかにミドリ鮫のこと出てました?」
 
「水の本ですよね。どれかに出ていたってスロウさんが言ってましたよ」
 
 そこになにかヒントが隠されているかもしれないと思って、”ミドリ鮫”という文字がないか探した。それから30分ほどページを黙々とめくって、やっと5行程度の記述があるのをみつけた。
 
 水のご利益で命を救われたというミドリ鮫漁の漁師の話から、ウオーターランドの湧き出る水を手に入れようとする人が絶えない。一部では聖水だと言う人まで現れて、その水を得たものはすべての災いから解放されるとまで言われた。そして、同じ地域に生息するミドリ鮫も神の使いとして崇められるようになった。ミドリ鮫漁の漁師たちが多く暮らしているセイレーン港は、聖地への入口としてその名を知られるようになった。
 
 ミドリ鮫は神の使いとして崇められていた……セイレーン港と言うのはどのあたりだったのだろう。それが今のスレイトン・ケープであったとしてもおかしくはない。実際ノートの主もミドリ鮫漁の話を知っていたわけだし、コノンさんのお祖父さんの話ともつながる。ただ、これだけでは、ウォーターランドがどこにあったのかがはっきりしない。ここは一体どこにあるのだろう。
 
「スロウさんは何か言ってました?」
 
「ミドリ鮫ってどのあたりに生息していたんだろうってノーキョさんとずっと話してましたよ。男の方って謎の生き物にロマンを感じるんですね」
 
 ロマン……ここにもロマンを求める男たちがいる。それは未知の世界への憧れなのか、それとも知らないものに対する畏れなのか。もしかするとミドリ鮫のロマンがこの意識世界をつくってきたのかもしれないとさえ思えてくる。ほんとうはなにもないのに、みんなの夢や希望、祈りだけで作られた世界があるとするなら、鮫は自分たちをどこに向かわせようとしているのだろう。彼らが棲む水はどこに流れていくのだろうか。
 
 そんなことを考えながら海を眺めていると、水平線にキラリと光るものが見えた。
 
「オルターさん、船長の船が見えてきましたよ」ミリルさんが目の上に手をかざして言った。
 
「いいもの、いいもの!」コピがいつものようにぴょこんぴょこん飛跳ねた。
 
 船長はどこからこの島にわたって来るのだろう。スレイトン・ケープであれば、この意識世界にも同じ大陸と同じ港までもあるということか。夢ともうひとつの世界が頭の中で交錯していく。

第6話 薬草

 船長の船はいつも遠くに見える。どこか違う世界から来ているような気さえする。
 
 連結した船があたかも水平線の下から海面に引っ張り上げられているようだ。その昔、あの水平線の先は滝のように流れ落ちていると考えられていた。地動説を唱えることは神をも恐れぬ行為とされた。あのころは誰もが太陽が動いていると信じて疑わなかった。今ではだれもそんなことは信じないし、天が動いていると思っている。
 でも、この意識世界は太陽が西から昇り、星が硝子細工のように空からこぼれ落ちる。水平線の先には限りがあって、別の世界がはじまると言ったらおかしいと思われるのだろうか。
 こんなことを言っているといよいよボケがはじまったと言う人もいるだろう。でも、オールドリアヌでは百歳を超えるお年寄りたちが生き生きと働いている。何が正しいかなんて誰にもわからないのではないかとも思う。歴史に名を残す冒険者たちも夢想に捕われ、誰も知らない新世界を発見してきたのだ。これから新しい夢の地がみつかったとしても何の不思議もない。
 
「夕方近くになりそうですね」ミリルさんが言った。
 
「あそこに見えているのに、近くて遠いね。空気が澄んでいるからそう見えるのかな」
 
「きれいな水だと川や海が浅く見えるのと同じかもしれないですね」
 
「ミリルさんは、あの先にある世界から来たわけですよね」
 
「あの先ってメーンランドのことですか」
 
「そう思われてるけど、ほんとうのところはどうなんでしょう」そう言いながらあの先にはなにもないんかもしれないとほんやり考えていた。
 
「オルターさん、なんだか変ですよ」妙なものでも見るような顔をされた。
 
 その場を取り繕うことはいくらでもできたけれど、そんなことしてどうなるのかという気がした。自分でも何がほんとうなのかわからないのだからどうしようもない。
 
 
「あれ、オルターさん起きちゃってるし、寝てないとだめじゃないの」ノルシーさんが薬草をかかえて帰って来た。
 
「こんなにあるのに煎じるとコップ一杯ぐらいになるんだって、知ってた?」
 
「なんだか効きそうですね。大きいお鍋を持って来ないと」ミリルさんがあわてて取りに行く支度をはじめた。コピも本に飽きたようでミリルさんについて行こうとしている。
 
「じゃあ、今度はこちらがオルターさんの面倒見係ね」とノルシーさんが言うと、ミリルさんは笑いながらコピの手を引いて出ていった。
 
 どこまでもボケ老人扱いのようだ。何も話す気になれず、一向に近づいて来ない船長の船を眺めていた。ノルシーさんはいつものように朝方まで起きていたのかさすがに眠そうな顔をしている。
 
「あのね、オルターさん。そろそろ夢の世界から目覚めないと。みんな心配するじゃない」
 
「夢の世界?」
 
「昨日寝たときに変な夢を見たんでしょ? 相当強烈な夢だったみたいだけど。ノーキョさんにユイローは幻覚作用があるって言ったっていうじゃない」
 
「ああ、少し前に言ったかな」
 
「それで、夢と現実の境がわからなくなってるってこと」困った人だというようにため息をついて目を伏せた。
 
「それは、ここが現実ということを言ってるわけ?」
 
「何かご不信な点でも?」
 
「じゃあ、どうしてそうだって言えるのかな」と聞くと、いきなりこちらに手を伸ばして頬をつねった。こんなことをされるのはいつ依頼のことだろう。
 
「どう、現実の痛みは?」ノルシーさんは自分の頬もつねって同じように痛そうな顔をして見せた。
 
「じゃあ、赤い灯台はどこにあると思う」
 
「えっと、それを世間では過去と呼ぶらしいよ」
 
「それだと、普通の答えだな」
 
「もしかして、今でも別のところに赤い灯台のウォーターランドがあって、そこは鏡のように逆転した世界になっているとでも思い始めた?」
 
「じゃあ赤い灯台がここの過去というのなら、ノルシーさんの過去はどこにあるんだろう」
 
「いやなことがあると人間過去を忘れるものらしいからね。無理して思い出さなくていいの。それがこの島の約束だしね」
 
「自分の出所って大切じゃないかな。過去があって今があるわけだし」
 
「いい過去ならね。でも、必ずしもいいとは限らないから。僕は今とこれからを大切にしたいけど」
 
 ウォーターランドではどこから来たかもどこへ行くかもお互いに触れないことになっている。それはそれでもいいのだけど、今回の件はこの島のなにかと関係しているという気がするし、ノートの主や灯台守の消息が知れないこともまったく無関係とも思えない。もしかするとナイナイさんの失踪も同じ理由かもしれない。
 知りたいのはどこからきたということではなくて、ここはどこなのかということなのだ。
 
 
「ほら、好きな曲でも聞いてさ」
 
 そう言うとエバンヌから持ってきていたレコードをプレイヤーのターンテーブルに乗せた。ボリュームを上げると回転にあわせてプツッ、プツッと針の音が聞こえる。
 
 エンド・オブ・ザ・ワールドだった。今のような体調の時に聞くとまったく別の曲に聞こえる。まるで世紀末の世界にでも来てしまったような気になってしまう。
 
「世界の終わりか……」とつぶやくと、「なにやってあげてもだめみたいだね」と笑われた。
 
「オルターさん、ノートのことを調べるのもいいんだけど、何でもやりすぎは身体によくないと思うよ」
 
「それはわかっているけど」
 
「人生なんて不思議なことだらけじゃない」
 
「不思議って、なにが?」
 
「だってさ、僕だってメーンランドにいたような気はするんだけでよくは覚えてないし」
 
「オルターさんもそうなんでしょ」
 
「ああ、そういう話ね」
 
「むかし二人でさ、さんざん考えて、もう考えるのよそうって決めたじゃない。あの大きな窓からずっと海と灯台を眺めていても何の答えも出なかったよね。わかったのは時間は流れてしまったってことだけ」
 
「船長がみんなを連れて来る前の話ね」
 
「コピちゃんだけは、いまだによくわからないけどね」と言うと肩をすくめた。
 
 その後、気分が変わるかもしれないからと言ってコーヒーを入れてくれた。ノルシーさんの入れる水出しコーヒーはいつ飲んでもおいしい。それはこの世界でも同じだ。
 
 
 ノルシーさんとこうして話していると、確かにここはもといたあのウォーターランドのような気もしてくる。オールドリアヌの旅が全部夢だったと思えば話は簡単なのだ。
 
「そう思うと、ここはここでいいってことかな」
 
「そうそう。どこにもないユニークな唯一の場所ね」
 
「どこともつながってない別世界ってことだよね」
 
「つながっていてもいなくても、僕らにとっては唯一の場所と考えればいいでしょ」
 
「世界のずっとはずれの島じゃなくて?」
 
「どうでしょうねえ。海の向こうは二人でいい加減眺めたしね。眼鏡の度が合わないせいじゃないでしょ」そう言うと別のレコードに掛け直した。
 
 2曲目は、オーバー・ザ・レインボウだった。好きな曲だ。
 
「虹を超えたところに何があってもここはここ。ドロシーだって結局そうだったんじゃなかった?」
 
 オズの魔法使いの話だ。しばらく歌詞に耳を傾けた。虹の向こうはどうであろうとここはここか。
 
Somewhere over the rainbow
Way up high,
There's a land that I heard of
Once in a lullaby. 
Somewhere over the rainbow
Skies are blue,
And the dreams that you dare to dream
Really do come true.

Someday I'll wish upon a star
And wake up where the clouds are far
Behind me.
Where troubles melt like lemon drops
Away above the chimney tops
That's where you'll find me.

Somewhere over the rainbow
Bluebirds fly.
Birds fly over the rainbow.
Why then, oh why can't I?

If happy little bluebirds fly
Beyond the rainbow
Why, oh why can't I?
 
 気がつくとノルシーさんがうつ伏せになって小さく寝息を立てていた。朝まで起きていれば眠くもなるだろう。見ている夢がオールドリアヌであれば、あとでいろいろ話せるだろう。同じ夢の話として。
 
 しばらくするとミリルさんが大きな鍋をかかえて帰ってきた。鍋の大きさだけ見るとなんだか大変なことになっている気がする。これで煎じる薬草はいったい何に効くのだろう。すでに実験動物扱いになっている気さえしてくる。
 煎じるのに数時間かかるということで、ノーキョさんがあらかじめ作ったという粉末を渡されて、水で一息に飲み干した。カビのような匂いとヒリヒリする苦みが口に残った。この世界で初めて口にするものだった。
 
 それにしても、ノルシーさん、ミリルさん、コピ。リブロールの様子に水の味。すべてがあまりに似すぎている。もし、今ここにいる人たちがいつものウォーターランドの住人じゃなかったらと思うと正直ぞっとする。同じ場所と思わないとすべての記憶が崩れたジグソーパズルのようになってしまいそうだ。
 
「飲んで横になると落ち着くようですよ」ミリルさんが上掛けを出してくれた。
 
 どうやら精神安定剤のようだった。飲むと確かに気持ちが少し楽になった。どこの世界であろうと、ノーキョさんの作るものに間違いはないという安心感がそうさせるのかもしれない。
 とにかく、この薬を信じて気持ちを休めることにしよう。

第7話 二度目の下船客たち

 少し寝てしまった。気がつくと船長の出迎えで、みんなデッキのほうに出ていた。船長の船は着いたのは日差しが傾きはじめる時間だった。オフェーリア号も長旅に疲れたのか、高ぶる鼓動を鎮めるかのように何度も排気を吐き出しながらゆっくりと桟橋に身体を寄せた。
 甲板にはまっすぐに背を伸ばして立つマリーさんの姿も見える。こういう形で再会するのはとてもおかしな気分だ。あの夫婦連れの船客もいる。みんな現実世界のときと同じように島にやってきた。違うのはこちらが一度経験しているということだけだ。
 船長から説明を聞き終わると乗客は順番に下船を始めた。みんなウォーターランドのきれいな自然に目を奪われて、リブロールがあることさえ目に入らないようだ。すぐに、それぞれの目指すところに向けて散らばって行った。
 
「みんな元気でやってたか。こちらは相変わらずの絶好調だぞ。わはは」威勢のいい声が響く。
 
「うん? なんだか匂うぞ。殺虫剤でもまいたか。まさか俺を虫ケラ扱いしようっていうんじゃないだろうな」いつも通りの独演がはじまった。
 
「船長ったら、薬草ですよ」ミリルさんがまじめな顔をして説明する。
 
「そうか、いいものだったらいくらでも売りさばいてきてやるからな」
 
「いくら売れてもこの島にお金を使うところなんてないですよ」
 
「俺がみんなの老後のために預かっておくから心配するな。それはそうとして、今回はこの島で1日休ませてもらって明日出港だからよろしくな。今日はダルビー観光の社長自ら泊まりがけで夢の島のご案内というわけだ」そう言うとお手製らしい観光案内用の手持ちの旗をにやりと笑いながら振って見せた。船長もどこまで本気で考えているのかわからない。
 
「みんなのほうは相変わらずのようだな……一人だけかおかしいのは」と言って違いがないか確認するように店内をひととおり見渡した。
 
「そうなの船長、オルターさんが今朝から体調がよくなくて。それで薬草なんですよ」
 
「おかしいのはいつものことだけど、もしかして普通の人にでもなったのか?」
 
 いつものように人をからかうことだけは忘れない。
 
「なんだかちょっとお疲れみたいで。火事のこともあって心労が重なったんじゃないかと」
 
「火事? 怪我でもしたのか」急に真面目な顔に変わった。
 
「みんなで消火したので、火事は半島が焼けただけで済んだんです。みんなで助け合ってがんばったので怪我人もなしです」
 
「そうか。怪我がなかったのは不幸中の幸いだな。それですっかりお疲れなわけか。若くないしな無理しない方がいい」医者が問診でもするような目でこちらをじっと見ている。
 
「何かおかしいところでもあるかね」船長の目はごまかせないかもしれないと思って聞いた。
 
「爺さん、もしかして変な夢でも見たか」突然夢の話を聞いてきた。じっと凝視するようにこちらの目を見たままだ。
 
「そうみたいですよ」ミリルさんが答えた。
 
「幻覚か?」
 
 いきなり核心に迫るようなことを聞くので驚いた。そう思わせるようなところでもあったのだろうか。それとも船長の持つ人並外れた嗅覚によるものか。
 
「ノートの読みすぎだから」船長の声で目を覚ましたノルシーさんが眠そうに目をこすりながら言った。
 
「そうか」
 
 いつもしゃべり続ける船長が少し考えごとをするように静かになった。なにか気になることでもあったのだろうか。
 
 船長はこちらがオールドリアヌからここに来ていることを知っているわけはないので、今ここにいることに対して疑念を持ちようもないはずだ。だとすると、それを思わせることがあったのかもしれない。
 このことについての話はその後は何もなく、すぐにいつもの他愛ない話に戻った。
今回は島便りを見た観光客がお土産だと言ってみんなを笑わせた。ミリルさんが買ってほしいものもないし、何か島のためにしてもらえるのかと期待をこめて聞くと、船長は今回の客はいつかこの島になくてはならない人になると自信たっぷりに言った。いつもと同じで船長の言うことはみんなにはすぐにはわからないだろう。ただこちらには、それがマリーさんのことを言っていることがすぐにわかった。
 
 しばらくするとコピが手に木の実をたくさん持って戻ってきた。ウォーターランドにも秋が近づいている。
 
「じっちゃん、いいものあげる」
 
 コピはときどきおもしろいものをみつけて来てはみんなを驚かす。
 
「おしいしい木の実でもみつけたのかい」と言うと、木の実をテーブルに置いてポケットから何か別の物を取り出した。
 
 きれいな石だった。見た瞬間に、あの虹の石だとわかった。同じ種類の石というのではなく形までまったく同じ、なくした石そのものだった。また、忘れようとしていたもうひとつの世界が目の前に立ち昇るように大きく現れた。
 
「コピ、これはどうしたの?」ミリルさんが聞くと「灯台のところでみつけた」と言って自慢げな顔をした。
 
「きれいな石ね。だれかが落としたのかしら」
 
 あわてて「コピ、ありがとう大切にするね」と言って受け取った。これを持っていないとこの時間の澱みから逃げ出せないかもしれないと思ったのだ。誰のものでもない自分のものだ。奪い取るように掴む様子を見てみんなちょっとへんな顔をしたのがわかった。
 気がつかないうちに落としたのだろう。この石も自分と同じように出口のない時間の淀みに入り込んでしまったのだ。
 
「なくさないように袋をつくりましょう。ちょっと待っててくださいね」と言ってミリルさんは裁縫セットを手提げ袋から出した。
 
「オルターさん、ほら、たまにいはいいこともあるじゃない」ノルシーさんが言った。
 
「使い道がなけりゃ、島の秘宝館でもつくったらどうだ」船長がまた冗談か本気かわからないことを言った。
 
「ノートも秘宝館入りだね」ノルシーさんまでもいっしょになって悪ノリしている。
 
 灯台の方を見るとマリーさんが六界錐のあるあたりに立っていた。マリーさんは六界錐のことを知っているはずだ。この島に何か目的を持って来ていたのかもしれない。もしかして、ナーシュさんの失踪と関係があるのだろうか。六界錐のあるところにナーシュさんが戻るというのであれば、この島に来たことがあるかもしれないと思った。

第8話 入れ替わり

 ひとしきり船長の話が終わったところで、ノーキョさんがいつものように資料整理にやってきた。
 
「あれ、オルターさん、もう出発ですか?」大勢のお客さんがいるのを見て驚いている。
 
「いや、明日の予定だったんですけどいろいろあって……」ここから前のときと時間の流れが違う方向に向かうことになると思った。
 
「オルターさん体調を崩したみたいで、とてもメーンランドなんて行けそうにないんですよ」
 
 ミリルさんは、この話はなしだと決めてしまったようだ。まわりの誰からも異論が出ることもなく、それは残念ですねとまで言われてしまった。
 
そのとき、「仕方ない、じゃあ、おいらが代わりに行ってこようか」という声が聞こえた。遅れて来たスロウさんが店に入るなりいきなり代理の渡航をしてもいいと言ったのだった。
 
 一瞬みんなえっという顔をしたものの、すぐにそれがいいかもしれない思ったようだ。どこかでノートの謎解きに対する期待を捨て切れなかったのだろう。
 
「いや、おいらもここに流されてたどり着いたようなものだから、前から一度船長の船の航路というのを体験してみたいと思ってて」
 
「お、ダルビー商会の副社長狙いか」船長も悪い気はしていないようだった。
 
「このどでかいオフェーリア号を自在に操る船長の剛腕を一度は体験させてもらわないと」スロウさんは船を横目に見ながら言った。
 
 船長もまんざらでもないような顔をして「やっと俺の腕に惚れたやつが出てきたな」とにんまりした。
 
 船上生活をしているスロウさんも海とともに生きるのを信条としているような人だし、船長と通じるものがあるのかもしれない。決してお世辞で言っているわけでもないようだ。
 
「往復するだけ?」ノーキョさんがあまりに急な話だったのであきれ顔をしている
 
「うーん、メーンランドにおもしろいところでもあればそっちもだけど」スロウさんの興味はあくまで船長の操舵と海に限られているようだった。しばらくスロウさんと船長は航路や大型の船の特徴などの話で盛り上がった。
 
「あの……きれいな湖があるんだけど、そこも見てきてもらえないかな」思わず口をついて出てしまった
 
「おい爺さん、湖があることをどうして知ってるんだ」船長がおかしな話をすると思ったのか、こちらの顔を覗き込むようにして見た。
 
「夢で見たからほんとうにあるか確かめて欲しいと思ったんだけど……不用意に言ってしまったことをなんとか言い繕った。船長は納得がいかないような顔をして首を傾げている。
 
「そんなことよりオルターさん、トラピさんが向こうで待ってくれていますからそちらのほうをお願いしないと」
 
 ミリルさんは、湖は夢の話と決めつけているから手紙の方が気になるようだ。船長はなにか引っかかるところがあるというような顔をして髭をさすっている。
 
「スロウ、いい機会だから行くといいよ。火事のあとはなんとかするから」ノーキョさんが言うと船長もスロウさんの気持ちを受け止めたようにうなづいた。
 
「火をつけたやつのことも気になるし、わかることは全部調べてくる」
 
 船長の船に乗りたいだけではなく、いろいろな思いがあって渡航を決めたようだった。その気持ちが親友のノーキョさんにはよくわかるのだろう。
 
「さて、そうと決まったら客といっしょに名残惜しい島巡りでもしてくるか」ダルビー船長が椅子から立ち上がって大きく背伸びをした。
 
 ノーキョさんとスロウさんは火事の後のことやメーンランドのことをいろいろ話し合っている。まだ、焼け跡の草木の生育が早いことには気づいてないようだ。
 
 船長の行く先を見ると、まっすぐに灯台をほうを目指していた。すぐにマリーさんのいるところにたどり着き二人で何か話している。周りの景色を楽しむわけでもなく、腕組みして六界錐のそばに立つとずっと石を見ている。
 二人にはあの六界錐がだれのものかわかるのだろうか。以前見た時には石にソダーと刻んであった。あれはナーシュさんのものではない。それは機会をみて話した方がいいのかもしれないと思った。
 
「オルターさん、スロウさんに行ってもらえることになってよかったですね」ミリルさんも安心したような顔をしてこちらを見ている。一番喜んでいるのはミリルさんかもしれない。
 
「あ、おいらは自分が勝手に行きたくなっただけだから」スロウさんが恐縮したように笑っている。
 
「オルターさんが夢で見たという湖も探してくるよ。それ、なんていう名前だっんだろう」
 
「夢の湖に名前なんてないですよね」ノーキョさんが口をはさむと、「夢でも名前ぐらいはあるよ」とスロウさんが返した。
 
「たしかノイヤール湖だった」うる覚えのふりをして言ってみた。
 
「ほらね。あるじゃない」とスロウさんが言うと、ノーキョさんがどこかで聞いたことのあるような名前だなと言いながら手元に会った水の本をめくった
 
「OK、時間があったら見てくるよ」と約束をしてくれた。みんなが夢の話と思っているのにスロウさんだけが真剣に答えてくれたのがうれしかった。
 
「夢だとそこに光る魚がいてね。湖も光っていた」この際だから全部話しておこうと思って湖の不思議な話をいくつか紹介した。
 
「また、その話。オルターさん、夢の話はわすれて休んでくださいよ」ミリルさんが横で呆れた顔をしている。世話の焼けるのはどこにいても同じなのだから気にしなくいていいと自分に言い聞かせた。
 
 灯台のほうに目をやるとマリーさんと船長の姿は見えなくなっていた。ノートを見に灯台に入ったのかと思ったら、照射灯の展望デッキのところに現れた。マリーさんも、世界に二つとないあの景色に目を奪われていることだろう。大海原に小さく浮かぶ島に身を置いて、母なるな自然の大きさを心ゆくまで堪能しているにちがいない。それはきれいということばだけでは言い尽くすことのできない、すべての喜びと悲しみを包み込むような豊かな感情にも似た情景だ。だれもがあの大いなる水に心を奪われる。
 
 よく見るとマリーさんがこちらのほうに向かってゆっくりと手を振っていた。横にいたミリルさんが手を高くあげてそれに応えた。

第9話 時間の層 *

 こちらが落ち着いたのを見届けるように、みんながそれぞれの用事を片付けるために行ってしまったので、一度灯台に戻ってみることにした。そうすれば、今が夢か現実かわかるかもしれないと思った。
 
 灯台への道のりはほんの数分だけど、このあぜ道をどれだけの人が歩いてきたのだろうと思うと、それぞれの時代の景色が重なって見えてくるような気がする。
 
 あぜ道の先を薄くかすれた人影が同じ方向に向かっているのが見えた。狭い肩に不釣り合いな大きなザックを背負って、よろめきながら一歩一歩地面を踏みしめるようにして進む。ザックに入っているのは集めたばかりの薪だろうか。冬が来る前に暖を取るための燃料を用意しているのかもしれない。それとも今夜の料理に使う燃料か。
 向かう先にある灯台を見上げると白い灯台の裏側に赤い灯台が重なって見えた。漆喰の白い灯台の画像がぶれるように小刻みに動くとき、その輪郭からはずれるようにして赤いレンガの灯台が見え隠れしている。少し強い風が吹くと赤い灯台が前に浮き上がってくる。まるで2つの陽炎が重なってるようだ。
 そう思っていると周囲に生えている同じ草木も微妙に色合いや形が違って見えてくる。だれも訪れることもない辺境の地に生える草に時代ごとの違いがあるとも思えないけど、時間が層をなして重なっていると考えると、200年前の草と交配で生まれた新しい草がそれぞれ仲良く共生することを謳歌しているようにも見える。
 
 時間は流れると誰もが言うけど、世界は時間が幾重にも幾重にも積み重ねられ成り立っているのだその隙間に入り込めればたくさんの重ねられた時間と記憶を本をめくるように訪ねることができる。自分のものだと思い込んでいる”こころ”さえも過去の積み重ねでできていると考えれば、今置かれている状況も説明がつくような気がしないでもないでもない。一つの世界がこの瞬間を支配しているのではなく、幾重にも重なった時間がこの景色をつくり、この身体や心をつくっているということだ。
 もしノート氏も同じ考えを持っていたなら、そこに孤独などなくなり無限とも言える世界の営みとひとつになれたのではないだろうか。
 
 空にはやわらかな刷毛ではいたような薄い雲が大きく広がっている。夏にたくさんいたナツヨビもめっきり少なくなった。島が黄金色の紅葉でいっぱいになるのも近い。
 秋の夕暮れ時は光輝く海に抱かれ、艶やかな錦糸で織られたブランケットに包まれる。そして、実った果実をいただく生き物たちの冬越しの準備がはじまり、役割を終えた木々からこぼれ落ちる滋養が海にたっぷりと流れ込む。明日への命をつなぐ恵みに島全体が満たされるときだ。そして、その恵みはこの島にしかないおいしい水となって循環していく。
 
 リブロールのほうを振り返ると船長のオフェーリア号が無骨な船体を宿木に身を寄せるようにしてデッキに沿って横たわっている。
 あの一隻の船がこの島と水平線の果てのどこかの世界をつないでいると思うととても不思議でもあり、頼もしくもあった。オフェーリア号だけが向こうの世界へつながる航路を知っている。そう考えた時に、リアヌシティのドームに飛び込んで行くエクスポーラーの姿が重なった。船と列車の違いこそあれ、非日常の場所へと誘う道を走り抜けていく。
 そこでは現実とまるで生き写しの生活が繰り広げられている。あたかも夢で見る世界と同じように。いや、夢よりも正確な相似した世界と言っていい。そしてそれは、写したり見たりするだけの世界というよりも、存在するすべての生を育むために有機的に広がっている生き物のような何かである気さえする。
 現実と非日常の世界を判別することは叶わない。なぜなら、どちらがどちらを映すものでもない。どちらもが、それぞれに少しの繋がりと影響を持ちながら、独立した世界をつくりあげている。表と裏、正と負、プラスとマイナス……すべての相似形に意味があるのと同じだ。そして、カノンさんのお祖父さんがいうように相互の関係にも偶然はなく、いずれもが深い必然性を持ってつながっているのだろう。
 
 灯台の入口に近づいたときに中から物音がした。立ち止まって様子を伺うとミャーオという鳴き声がしてインクが入口から顔を覗かせた。こちらを一瞥すると、何の興味もないというそぶりで横を向いてそのまま外に出ていった。私がいてもいなくても大した問題ではないのだろう。逆に、その何ものにもとらわれないあるがままの自由な姿に救われた気がした。
 空を見ると夕日がまぶしく輝き、紅色のベールが海をやさしく包みはじめていた。水は世界をつないでいると最初に考えたのは誰だっただろうか。果てしない航海に出て、見たこともないものを見つけた時に、この世界に終わりはないと感じたのではないだろうか。
 
 インクが海を見ている姿は無心を形にしたようにも見える。彼女は海を見て何を考えているのだろう。人間の戯れに付き合うことに何の意味も感じず、時間とひとつになって世界に溶け込んでいる。人間だけが時間に意味を持たせ、困惑する世界に閉じ込められてもがき苦しむ。時間に縛られ、世界にしばられ、生きることにしばられる。
 
 海からインクに目を戻してしばらく見ているうちに、彼女の姿が薄く霞んで行くのがわかった。目がかすんでいるのではなく、インクのほうが風にかすれて視界から消えようとしているのだ。きっとその先にはもう一つの世界があるのだろう。自由に行き来できる術を知っているのであれば、その方法を教えて欲しい。
 そう思った瞬間に、インクがこちらを向いてしっかりと目を合わせてきた。ついて来てと言われた気がした。
 
 近づいて行くとインクの姿はさらに薄くなり、しばらくすると最初からいなかったように、景色の中から消えてしまった。
 
 灯台に入ってベッドに横になった。マリーさんたちもノートを見ただろう。すべての答えはきっとあのノートに残されている。その答えはまだだれにもわからない。それがわかったときに何が得られるのかもわからない。
 
 ノートを見ているうちに、鞄の中にハロウさんの店でいただいたノートが入っていたことを思い出した。突然思い立って、こちらに来てからのできごとを書き記しておくことにした。そうすることに何の意味があるのかは自分にもわからない。ただ、そこにいた事実だけは残しておかないとと思った。またいつか誰かが目にすることもあるだろう。
 
***** ノート ****
 
 自分がここに来たのがはじめてかどうかわからない。はじめてかもしれないし、ずっと昔からいるのかもしれない。ただ、ほとんどすべては同じで変わらない。同じように太陽はのぼり、海は輝き、風が頬をさすっていく。
 ウォーターランドでは、時間がゆるりと動くと言われる。不思議な力を持つ水もあるという。ただ、目に見えるのはこの自然だけ。自然だけが現実としてここにある。
 今日から、この島でのほんとうの生活がはじまる気がする。ここで起ることをこのノートに書き記していくことが、私に課せられた仕事と考えよう。
 
***** ノート ****
 
 書き終えると、今日の日付のスタンプを押した。はたして日付に意味があるのだろうか。ノート氏の書いたものと自分の書いたものの前後関係すらあまり意味がないのかもしれない。ただ、ハロウズの紋章の透かしと日付印は間違いなく今日をここに留めるだろう。
 ノートはなくさないように引き出しの底板のさらに下に入れた。ミリルさんたちが見て私の行動を不審に思われても困ると思ったのだ。ここなら、誰にもノートの存在を気づかれない。

第10話 偶然の地の灯台

 考えてみると、コノンさんにはじめて会ったのがこの灯台だった。彼女と出会ったときから何かが違う方向に回り始めたような気がしないでもない。その後に火事が起き、メーンランドに渡り、オールドリアヌで意識の世界へと入ってしまった。
 コノンさんが来る前は何も起きていなかったのか、ネモネさんがおいしい水をみつけたことは関係なかったか、その前につくっていた島便りが引き金になっていなかったか、思い当たることはいくつもある
 島便りは船長が印刷機を持ってこなければ作ることはなかった。そう考えると船長がここに偶然立ち寄ったことに遡り、さらにその先の自分とノルシーさんが島に来たときからすべてがはじまっているとも言える。もっと言うなら、それ以前にノート氏が書いた島の記録や自分たちの知らない前にいた住人の暮らしもある。
 
 コノンさんのお祖父さんの言うようにすべてに関連性があって、原因と結果が無限に繰り返されるのだろう。それが因果と言われるものだ。意図したものでなければ偶然として片付けられるし、誰かが意図しているとなれば必然ということになる。偶然と思える物もすべて必然であると言うことならば、そこにいる誰かというのは神ということになるのかもしれない。
 もし、すべてが偶然に見えてしまうウォーターランドと真逆なところがあるとしたら、それがリアヌシティのようなところなのだろう。リアヌシティのドームコンストラクションはきっと神になろうとしているのだ。すべての関係をコントロールして必然の結果にしてしまおうということだ。それは恐れを知らない考えで、ひどく歪んでいびつな必然を作り出してしまうような気もしてくる。超えてはいけないものもあるのだ。
 そんなことを考えていると、仮につながりが必然であってもそれは誰にもわからなくていいのだとさえ思いたくなってくる。人間一人が関係したり、知ることのできる範囲なんてそれほど広くはない。船長が話していたように、今ある小さなつながりを大切することが重要なのかもしれない。科学文明とかけ離れたところにあるウォーターランドではそんなことぐらいしか思い浮かばない。
 
 そう考えてみると、小さな島便りであってもとても大切なもののように思えてくる。リアヌシティとオールドリアヌを行き来するコノンさんの手に島便りが届いたということを考えると、島便りによって生まれる新しいつながりは想像する以上に広範囲になっていくかもしれないほんの少しの文字がとても多くの人とのつながりをつくっていく。見えなかったつながりを見えるようにしてしまう文字は、人を人たらしめた偉大な発明だったのかもしれない。
 それでも、島の話を書くことが、いい方向に進むのか、悪い方向に進むのかは誰にもわからない。言えるのは、そこに新しい何かの関係が生まれるということだけだ。それによってこの世界の謎が解けることもあるかもしれないし、何もみつからないかもしれない。仮に解けないまでも、そこに生まれる関係から新しい世界が作られていくだろう。
 
 
 この前の島便りで何を書いたかを思い出せない。そうだ、あのとき書いた原稿をコピに頼んだところで意識が薄れていってどちらの世界に居るのかわからなくなったのだった。あの後、船に乗って船長が情報屋のルーラー氏に島便りを手渡した。そして島便りは現実世界か意識世界かのどちらかに渡っていったはずだ。
 
 しばらくは、メーンランドのオールドリアヌのことや鮫のいたところのことばかりが走馬灯のように頭の中を巡り、島便りの内容についての記憶がなかなか浮かんでこなかった。
 温泉のことを書いたのを思い出したのは夕日が水平線に落ちはじめるころだった。こんなに曖昧な記憶でしかないことがこの世界で起きたとは到底考えられない。はたして連続した島便りとしてメーンランドに届くのかどうか、それこそ神のみぞ知るだ。
 
 何を書くか考えているうちに時間だけが過ぎていった。灯台のことを書こうと決めてからも文字にしていくのに手間取った。この灯台のことをどう書くかがとても大切なことのように思え、それにふさわしい言葉を探すのに頭を悩ませることになった。
 ただ、そうしているうちに居場所を見失っていた心が落ち着きを取り戻していくようにも感じられた。現実の世界だろうが、意識の世界だろうが、この灯台のことだけ忘れなければなんとかなりそうな気もしないでもない。灯台に赤と白の違いがあったとしても、どちらもこの場所にある灯台には違いない。この場所がいくつもあったとしてもこの場所はこの場所だ。違う灯台と思ってしまうのは、現実世界しか知らない人間の考えることだと割り切ってしまえば、気持ちが楽になる。灯台はきっと自分の居場所を明るく照らしてくれるはずだ。
 ノート氏もこの灯台を居処をした。今の自分に必要なのもそういうものなのだろう。どんな世界であれ、闇を照らす灯台とそこから見える世界がありさえすれば、居場所を見失ったとしても必ず戻ってくることはできる。それまで、行き場を見失い揺れ動いていた気持ちに、雲の切れ間からさす陽光のように一筋の明かりが見えたような気がした。
 
 島便りの原稿を書き終えるころになって、灯台に名前がないことに気づいた。いい機会だからここで灯台に名前をつけるのもいいと思った。ところがいざ考え始めると、島を象徴するランドマークとも言える灯台にふさわしい名前がなかなか浮かんでこない。悶々としているうちに日もすっかり落ちてしまった。
 
 
「オルターさん、調子はどうですか」ミリルさんとコピが様子を見に来てくれた。
 
「もうすっかりよくなりましたよ。船に乗れそうな気もしてきました」
 
「あら、今朝のオルターさんとは別人ですね。でも、今回はやめたほうがいいですよね」こちらの反応を伺うように首を傾げてみせた。
 
「ミリルさんに言われるとなあ」と言うと、ほっとしたような笑みを見せた。
 
「いい話があって。コピちゃんが島地鶏の卵をみつけてきたんですよ。それでみんなで元気の出る夕食会を開きましょうということになって」
 
「それはすごい。めったに手に入らない卵だ」
 
 島地鶏はコークと呼ばれている鳥で鶏やウズラのように地面を走り回るだけで空は飛ばない。鳥は地上に天敵がいないと空を飛ばなくなるのだという。コークそのものは島ではよくみかけるものの卵を目にすることはめったにない。
 
「じゃあ、今夜は卵パーティーですね。ありがとう」
 
 ミリルさんの話を聞いているとますます元気がでてきた。卵料理に目がないのを知っていてコピといっしょに探してくれたのかもしれない。ありがたいことだ。
 
「そうだ、この灯台のことを島便りを書いていて、灯台に名前がないと思っていたのだけど、なにかいいアイデアないでしょうか」
 
「ウォーターランド灯台じゃだめですか」とミリルさんが言った。
 
「それもいいんだけど、地名の灯台ならどこにでもあるし、何か意味のある名前ないかなと思って」と悶々としていた気持ちを伝えた。
 
 じっと話を聞いていたコピの顔を見ると、しばらくきょろきょろと周りを見渡したと思ったらあ、燭台を指差して「ローソク!」と言った。
 
「ローソク灯台……」あまりにもそのままのイメージでぴんとこなかった。
 
「でも、オルターさんいいじゃないですか。大海に凛とたたずむローソクってなんだか神秘的でイメージがいいかもしれないですよ。昔の灯台は松明の火だったって船長も言ってたし」
 
 ミリルさんが燭台のローソクに火を灯してテーブルに置いた。薄暗くなりかけていた小屋がほんのりと明るくなった。いつものオイルランプよりも繊細でやわらかな明かりだった。さっきまで頭にあったいろいろな迷いが霧が晴れるように消えていくのがわかった
 
「それでは、あとでグレン語の辞書でも見てみましょう。みんなとも相談しないといけないですね」
 
「私たちはリブロールで待っているので、準備ができたら来てくださいね。今夜は灯台の命名式もいっしょですね」と言うと、二人はリブロールに戻っていった。
 
 ローソク、ローソクというコピの声がゆれるように遠ざかっていく。ローソク灯台もなかなかいいネーミングかもしれない。

第11話 島地鶏の卵料理

 草原で虫の音の合唱がはじまったころ、ミリルさんに連れられて村の食堂に出かけた。今回は、オルターの快気祝という名目で開かれるのだと言う。病気になったわけでもないので快気祝というのもおかしな話だと思いはするものの、いつもと変わらないみんなの気持ちがうれしい。急な話だったので特別な案内もされないこじんまりした会になるようだった。船長たちは別の計画もあったので招待はされていないそうだ。あくまで親しいご近所さんだけの夕食会といったところだろうか。
 
 食堂に入る前に、目と鼻の先にある半島のほうをながめて見てみたけれど、草木はまだそれほど伸びていなかった。ネモネさんの言っていた驚くほどの早さというのは一体どれほどのものなのだろうか。
「ノーキョさんが、とりあえず水だけは絶やさないようにしましょうと言ってました」とミリルさんが緑の半島を取り戻すための計画について説明してくれた。今はなにもわからないので、とりあえずは水の力を信じましょうということらしい。悪いものを洗い清めるようなものかもしれない。
「それがいい」とつぶやくと、ミリルさんも真っ黒になって立ち枯れた木々を見ながら「きっともとに戻ります」と祈るように言った。
 
 食堂に入ると、いつもと同じようにノーキョさんが厨房の中で料理の準備をしていた。コピも水を張った桶の前で玉ねぎの皮むきを手伝っている。
 こちらに気づいたノーキョさんが「夜にマフィン料理というのも変ですかね」と笑いながら言った。ノーキョさんにはマフィンは朝食というイメージがあるのだろう。
 
「いやいや、この島の恵みを楽しめればそれだけで幸せです」と言うと、ミリルさんもノーキョさんを応援するように「エモカさんの特製イングリッシュ・マフィンとコピちゃんの卵、それにノーキョさんの自家製の調味料が揃えば島一番の豪華料理ですよ」と言った。
 
「それにおいしい水もありますからね」ノーキョさんもみんながわかってくれたのがうれしそうだった。
 
「素材が一級品で、料理するのが素材を知り尽くした理科の先生だなんて、こんな食堂は世界にふたつとないです」と言うと、ノーキョさんに「オルターさんそれほめてますか?」と笑われてしまった。でも、ほんとうにそう感じたのだから仕方がない。
 
 料理ができるのを待ちながら話しているこの時間が、かけがえのないひとときのように感じる。あまりの幸せに、今この場所にないものはないとさえ思えてくる。それほどにみんなの優しさが身に沁みる。
 
 テーブルの上のカゴには調理を待つ卵が10個ほど入っていた。島に長くいてもこれだけの数を一度に目にすることは珍しい。それほど珍重され、島ではなにものにも勝るご馳走のひとつとなっている。卵はみんなが大切なものと思っているから、 偶然みつけられても乱獲されるようなこともない。口にするのはよほど特別なときだけだ。
 
 しばらくするとマフィンの焼けるいい匂いがしてきた。
 
「パンの焼ける匂いってどうしてこんなに幸せな気分にしてくれるんだろう」
 
「ほんとですよね」というミリルさんの目が元気になって良かったと言っているように見えた。
 
「パンって生きる糧だからじゃないですか」と卵を焼く準備をしていたノーキョさんが言った。
 
「パンを食べないと生きられないということですか?」ミリルさんが聞いた。
 
「食べ物というだけじゃなくて、生きる糧というのは生きることを支えるすべての意味を含めてですね。なにかに例えて言うメタファーというやつです
 
「そうか、パンってすごいんですね」とミリルさんが感心したように言った。
 
「あはは、エモカさんのパンは別の意味でもすごいですけどね。長い時間をかけてこの島の空気をたっぷり取り込んだ特製のパンですからおいしくないわけはない」
 
 ノーキョさんが目玉焼きを慣れた手つきでフライパンからすくい上げて返した。何をするのも器用な人だ。
 
「オルターさんはターンオーバーでだいじょうぶですよね」
 
「ターンオーバー?」
 
「あ、両面焼きのことです。マフィンに挟むならそのほうがいいですよ」
 
「そうか目玉焼きにもいろいろあるんだね」
 
 口に入りさえすればいいと思っているから焼き方なんか考えたこともなかった。
 
「私はお日様のようなサニーサイドアップで」とミリルさんが言うと、「僕は混沌が好物だから、ぐちゃっとなったスクランブル派です」とノーキョさんが言った。
 
「なるほど、目玉焼きにも個性がでるものだな。ターンオーバーだと何でしょうか?」
 
「きっと裏表のない人」ミリルさんが言った。
 
「それならスクランブルもそうだよ。怪しいのはサニーサイドアップじゃない」とノーキョさんが笑った。
 
 そう言われてみると、ターンオーバーには両面がしっかりあるけど裏表はない。自分がふたつの世界を行き来するのもターンオーバーみたいなものだと思った。そこには裏も表もないと考えるのも悪くないかもしれない。
 
「ターンオーバー、いいですね。私はターンオーバーで」とあらためてノーキョさんにお願いした。
 
 久しぶりにいただいたコークの卵は、少し気持ちが晴れたせいもあってか今までになく楽しめた。
 
 食事のあとは、島の特産物の話になった。ノートに出てくるピーチプルは昔のようにふやせないだろうかとか、ナツヨビの卵はどうなんだろうとか、跳魚も島ならではの特産と言えるのだろうかとか、食べ物のことなると話はつきない。ほんとうに自然の幸に恵まれた島だとあらためて思う。
 ノートの主が孤独を感じていたかもしれないと言うのも人の勝手な基準であって、たくさんの命の宿る島にいたと考えると島の生き物たちとの生活を楽しんでいたのかもしれない。
 
 お腹いっぱいになったころにミリルさんが、灯台の命名のことを思い出してくれた。今夜決めないと明日の船に島便りが間に合わない。
 
「そうだ、わすれるところでした。島便りに灯台のことを書いているんですけど、名前のない灯台がないのは寂しいという話していたんです」
 
「たしかにこの島のシンボルだし、名前があってもいいですね。何かいい案は出たんですか?」
 
「ローソク灯台!」と言いながらコピが手を高く上げた。
 
「コピちゃん、ローソクって消えそうじゃない?」ノーキョさんのイメージとも少し違っていたようだ。
 
「グレン語の辞書で調べたら、ローソクはキャドリンって言うらしいんですけど」と言うと、ミリルさんがキャドリンというのはキャンディとか教会を連想しますねと言った。
 
 その後、3人でいろいろな名前を出し合ってみたもののなかなかいいアイデアが出ないままに、なんとなくキャドリン灯台という名前に落ち着いた。ミリルさんの提案で、島に長いノルシーさんにも意見を聞いた上で決めることになった。
 
 今夜は記念すべき命名の日になると思うと自分自身の再出発にもなるような気がした
 この島に来てから自分でつけたオルターという名前も本当の名前ではない。いつか閉ざされた記憶の扉が開いて本当の名前で呼ばれる日が来るのだろうか。夕闇に包まれ始めた白い灯台を見ながら思った。

第12話 もうひとつの出航

 いよいよ定期船の出る日の朝を迎えた。早朝からの突貫工事のような仕事だったけれど、新しい島便りもなんとか間に合わせることができた。灯台の名前も、コピちゃんがローソクっていうのならそれでいいじゃないというノルシーさんのひとことでキャドリン灯台に決まった。ノーキョさんも島名物になるロウをつくるとはりきっている。
 
 ここから前の自分の旅ではないもうひとつの時間がはじまることになる。ふたつの時間に整合性はない。上書きされるように前の旅が幻に帰するのだろうか。スロウさんのことだからたくさんの発見をしてくる気がする。これはこれで心配にはおよばないのかもしれない。できればナーシュさんの行方も探ってもらえたらなどと勝手な期待までしてしまう。それよりも、水に関心のあるスロウさんのことだからノイヤール湖の秘密のほうを明らかにしてくれるかもしれない。必ず行くと言ってくれたあの言葉を信じて待とう。ノイヤール湖へ戻れなくなるとしてもいいのかもしれない。こちらが現実と思えばいいだけのことだ。
 
 コノンさんが来たので出かける前に少しでもと思って声をかけた。とくに臆する様子もなく挨拶を返してくれた。隠し事をしているようには到底思えない、あのやさしいコノンさんそのままだ。
 
「島はどうでしたか」差し障りのなさそうな話からしてみた。
 
「ほんとうにいいところでした」うれしそうに答えてくれた。
 
「気に入ってもらえてよかったです。また遊びに来てもらえそうですね」
 
「それは私の方からお願いしたいぐらいです。きっとまたすぐに戻ってきます。頼まれていたこともできなかったので」
 
「頼まれていたこと?」
 
お世話になっている牧師さんが前に一度ここに興味を持たれたらしくて、子供たちと移り住めないかと考えているらしいんです。島の環境保護のための収集箱を置いてきてほしいと言われていたんです。半島の木の枝にかけておいたのですが、あの火事でだめになってしまいました。環境保護というより、その前の環境調査と言ったほうが正しいのかもしれません」
 
「あ……そうなんですね。この島はだれでも自由に住めますけど……調査を?」
 
「子供たちは特別に管理された環境で暮らしているので免疫力が低くて、下調べしておかないと環境不適合障害を起こしてしまうかもしれないんです。ひどいと命にもかかわってしまうので」話し終えると唇を強く結んだ。何か思うことがあるようだ。
 
「強いアレルギーのようなものなんでしょうね。それで調査箱を?」
 
「そうなんです。でも、戻ったらあやまらないと」と残念そうな表情をした。それは頼まれた人にというよりも子供たちに対して申し訳ないという気持ちのようにも見えた。
 
 黒いパーカーのことも気になっていたので島は寒くなかったかと聞いてみた。この時期はまだパーカーを着るほどの寒さではない。日中ならまだ半袖でも過ごせるぐらいだ。
 
「朝方少し冷え込んだかなと思った時はありましたけど大丈夫でしたよ。親切な方がパーカーも貸してくれましたし」
 
 心当たりを考えてみたけれど貸したという人が思い浮かばなかった。腑に落ちないという顔をしていたせいか、コノンさんがさらに話を続けた。
 
「何だか、船で魚を捕りに来たと言われてましたけど。私は魚のことはよくわからないので」
 
 スロウさんじゃないとしたら、この島で魚を獲りそうな人もいない。だれだったのだろう。
 
「あ、そうだ。パーカーを預けておきますので貸したと言う人がいらしたらお返しいただけると」鞄を開けて黒いパーカーを出した。
 
 創造していたよりも薄手のものだった。防寒というより雨よけに近いようなものだった。
 
「わかりました。リブロールのほうでお預かりしておきますね」
 
 まさか黒いパーカーそのものが手に入るとは思いもしなかった。これがあれば犯人の手がかりが得られるかもしれない。
 
「でもほんとうに牧師さんが言ってたとおりのすばらしいところで、思い切って来てよかったです」島を離れるのが名残惜しそうだった。
 
 あのヨシュアという牧師さんにこの島に行くことを勧められて来たのだろう。彼が以前来たという記憶もなかったので、かなり昔の話だったのかもしれない。その時はどうやって来たのだろう。
 
「野営場でしたよね。火事で怪我はありませんでしたか?」彼女の居場所もちょっと気になったので聞くと、怖くて最後はボートで逃げることまで考えて、北のボート乗り場の方まで走ったということだった。コノンさん自身というよりも、背中の歩けないうさぎピールのほうが怯えていたのかもしれない。
 
「また、すぐ会えますね」と聞くと「はい、戻って相談してみます」と言って半島の方に目をやった。
 
 少なくともコノンさんには罪を犯したという自覚はまったくないようだ。実際のところ、その調査箱が出火元だったかどうかさえもわからない。ただ、彼女にないものがあるとしたら、人の悪意を感じられないことかもしれないと思った。管理されて免疫のない世界に生きると言うのはこういうことなのだろうか。
 
「そろそろ船に乗ります」と言うと慎重に足下を確かめながら船に乗り込んだ。
 
 コノンさんの背中で、ウサギのピールが首を振りながら手をぱたぱた動かしている。
 
「マタクルヨ」とピールが言った。いや、言ったように思えた。
 
 彼ももっと島にいたかったのかもしれない。こちらに向かって手を振っているようだった。
 
 ほどなくして乗客全員が船に乗り込んだ。マリーさんとはどうしても話す気になれなくて、結局ことばも交わさないままに見送ることになった。ここで話しても何かが変わるわけでもないだろうし、話せば話すだけ自分自身が混乱してしまいそうな気がした。向こうに戻ったときに落ちついて話した方がいいだろうと思った。
 
「じゃあな、爺さんまたな。あまり考えすぎない方がいいぞ」と船長が言った。
 
「船長、ミドリ鮫見つけたら教えてくれないかな」唐突だと思ったけど、何を言っていいかわからなかったので思いつきを口にだしてしまった。
 
「わはは、ミドリ鮫だな。爺さんも見たことあるんじゃないのか?」と言うと人の顔を覗き込むようにした。
 
「見たのかな……」当然、答えにはならなかった。
 
「じゃあ、スロウ兄ちゃん行くぞ」と言うと仕事の顔に戻って操舵室に入って行った。
 
「オルターさん、お土産話楽しみにしててよ!」と言いながらスロウさんが船長に続いて乗船すると、船にかかっていた板を手際よく船に取り込んだ。もうすっかり船長の片腕になっているようだ。
 
 出航はみんなで見送った。ノルシーさんは灯台から見送ると言って出て行った。
 
「スロウさん、いい旅になるといいですね」とミリルさんが言うと「スロウは寝座を持たないやつだから、どこに行っても心配ないですよ」とノーキョさんが頼もしそうに答えた。
 
 オフェーリア号は大きな汽笛を鳴らすと、力強いエンジン音を響かせながらメーンランドに向けて出向した。あの時船でずっと見送ってくれたスロウさんが操舵室の窓からこちらに向かって手を振っている。島がすぐに米粒ぐらいになってしまうのを見て驚くことだろう。
 定期船の見送りはいつもと同じであっけないほど簡単に終わった。その先に待ち受けているいろいろなことを考えるとスロウさんにちょっと申し訳ないことをしたような気持にもなる。
 
 
 見送りが終わって椅子に腰を下ろすと、机の上に見かけない本が置いてあることに気づいた
 
「ミリルさん、これは」
 
「あ、船長の今回のお土産ですって」
 
 前に乗った時はメーンランドのことで頭がいっぱいだったけれど、船長はお土産をしっかり持って来ていたのだ。
 
「これはまたずいぶん古い本ですね」一目で骨董価値のある本だということがわかった。
 
「オルターさん、びっくりしますよ。タイトルを見てください」
 
「Travels into Several Remote Nations of the World……なんですかこれは? 」
 
 ノーキョさんがこちらを見て笑っている。もう一冊には、The Life and Strange Surprising Adventures of Robinson Crusoeというタイトルがつけられていた。
 
「え? ロビンソンクルーソー?」
 
「びっくりですよね。もう一冊はガリバー旅行記ですよ」ミリルさんが自分のことのようにうれしそうに話す。
 
 奥付を見るといずれも初版本のようだった。どちらにも初版本があるなんて考えたこともなかった。スゥイフトという作家もいるのだから初版があってもおかしくないわけだけど、ギリシャ神話のような古い伝承のような話とばかり思い込んでいた。
 
「なんでこの本を?」
 
「ノート氏がこの島にきた頃にこの本が出版されていたんじゃないかって言われてましたよ」ミリルさんも理由を詳しく聞いたわけではなかったようだ。
 
「ある意味、この島も似たところがあるかもしれないですよね」と資料の整理をしていたアグリさんが言った。
 
「ガリバーとロビンソンがここに来たとか?」
 
「あはは、さすがにそれはないでしょうけど、船長からすると同じように見えるかもしれないですよ」と船を見ながら言った。
 
 どちらの本も本物に出会えるとも思ってなかったし、詳しくはどんな本かも知らない。この世界にいる間に読んで見るのもいいかもしれない。もしかしたら現実世界ではお目にかかれない希少本という可能性だってありえるだろうから。
 
「オルターさん、これ」ミリルさんから小さな袋を渡された。
 
「ありがとう。大切にしますね」
 
 それは虹の石が入ったあの袋だった。この石があればきっとなんとかなるだろう。なくしても、落としても手元に帰ってくる石に不思議な力を感じ始めていた。

第13話 季節のあいだ

 翌日から前と同じように灯台とリブロールを往復する生活に戻った。変わったことと言えば、スロウさんの船が岸に繋がれたままになってることと、ネモネさんの温泉に行くのが日課になったこと。それに、船長の本が2冊増えたこと。
 
 温泉は石できれいに浴槽がつくられて、更衣用の小さな小屋もできた。湯船は2、3人入ればいっぱいになりそうな大きさだけれど、温泉付きのプライベートアイランドとして一人のんびり時間をつぶすのにちょうどいい。とくに朝日を眺めながら朝霧の中で湯船につかっていると、もやもやした気持のときでもきれいさっぱりと心のわだかまりが洗い流されてしまう。
 海の温泉なのでさすがに苔むす古びた風情というわけにはいかないけど、水平線とひとつになれる温泉などというのもそうそうあるものじゃない。それが楽しくなる水の温泉というのだからなおさらだ。
 半島のほうから聞こえる鳥の声が、のんびりゆっくりやればいいよとさえずってくれる。
 
 本のほうはメーンランドに行かなくてぽっかり空いた心の隙間を埋めるのにちょうどよかった。船長がそこまで考えて持って来たとは思えないけど、船長の持ってきたお土産がいつも先に起る何かとつながっていくような気がする。なんだか船長の思うようにことが運んでいくように思えてしまうのは考えすぎだろうか。もしかすると、船長には自分にはない人並みはずれた洞察力があるんじゃないかと思ったりもする。
 
 それにしても、ロビンソン・クルーソーがこんな分厚い本だとは知らなかった。これを読むとどうしてもノート氏の生活を思い起こしてしまう。自分で選んだとはいえ無人島での一人暮らしは楽ではなかっただろうと思わずにはいられない。当時はこんな温泉があることも知らなかっただろう。自分のとった行動を早まったと後悔することもあっただろうか。
 それとも、ガリバーのように好奇心旺盛な青年で、見たこともない世界を心行くまで楽しんだのか。もしそうであれば、現実を映す鏡のような世界に驚き、今までにないものの見え方に歓喜したかもしれない。それはだれも気づかなかった新しい世界の発見だったのだから。
 2冊の本の出版された年がノート氏の出発したころとそれほど違わないことも旅に出たことと無関係ではなかっただろう、時は大航海時代も終わって、夢や野望を持った人々の関心はさら次の新世界へと向かっていたのだ。ただ、ノート氏がリアヌシティを離れたのが何かをみつける旅だったのか、何かを捨てる旅だったのか、その答えはわからない。
 
 船長自身は船乗りとしてこの本を読んだのだろうか。海に取り残される怖さを思いつつ、新しい世界に向かう勇気と冒険の素晴らしさに共感することもあったかもしれない。そんなことより、ノート氏の時代の本だということがあったから、そちらへの興味の方が強かったのだろうか。
 意識世界のウォーターランドに取り残された自分の方はと言うと、本に書かれている二人とも違って、もとの世界に帰る手だてもきっかけもみつけられないままに、時間だけが無駄に過ぎて行くような気がしてしまう。覚えておかなければいけないことが何なのかもわからなくなりそうだ。メーンランドで体験した記憶すべてが、この世界に取り残されたまま消え去ってしまうかもしれない。ただ、時間が経つにつれて、それはそれで悪い気がしなくなっていく。とくに本の世界に入り込んでしまうと、そんなことはどうでもよくなるから不思議だ。
 
 季節は日毎に秋の気配を感じるようになっていった。
 ウォーターランドの秋から冬への季節変わりはとても早い。秋の紅葉は2週間ぐらいであっという間に冬になってしまう。冬は北から氷のように冷たい海流が流れ込むために、気温も急に下がり、島の景色も大きく変わる。ほんとうに思い切りがいいことだ。
 雪は多くはないものの、島一面に咲く真っ白なユキニ草の花と白く枯れ落ちるシロノキの枯葉のせいで、まるで雪で覆われたような風景になる。はじめて見た人は本物の雪と見紛うかもしれない。その上、上空に寒気が吹き込んだときには実際に粉雪が降ることもある。それほど寒くならないのに降る雪はこの島の豊かな自然を感じる時でもある。
 
 冬が近づいてくると灯台に夏の間取り外していた窓をつける。夏のあいだは建物の必要さえ感じないほど穏やかな日が続くけれど、冬は夏のようなわけにはいかない。風も幾分強くなるのもこの季節の特徴だ。取り付けられた窓が夜風できしむような日もある。
 ノート氏にとっても冬はさすがに心細くなったかもしれない。そんなときにあのきまぐれが彼の寂しさを忘れさせてくれたのだろうか。
 
 島に残ったノーキョさんはスロウさんのあとを引き継いで、植物の育成と水の関係を毎日観察している。そして、もっぱらその手伝いをしているのがコピということのようだ。ネモネさんの言っていたとおり、みんなコピのことを実験班長と呼んでいる。この島に詳しいコピがやれば、みんなの気づかないこともみつけられるかもしれないという期待もあるだろう。コピはノーキョさんのことを先生、先生と呼んで、いいコンビになっているようだ。彼らが大発見をする日も遠くないかもしれない。
 
 半島の焼けた草木のほうも聞いていた通り驚くほど早く成長し、二週間もすると木々の高さこそ前ほどでないにしても、焼け跡とわからないほどにたくさんの草花が焼けた地面を覆った。自然のもつ治癒力にはほんとうに驚かされる。スロウさんが言うように、この周辺の汽水の持つ力に負うところも大きいだろうけど、自分たち人間よりも草木の回復は遥かにスピードが早い。彼らは必然にあわせるだけで、人間のように運命に抗い、偶然を妄信することもない。それだからこそしなやかに回復していけるのだろう。

第14話 飛行士

 船長の船が出て2週間ほどしたころに入れ替わるようにして飛行船がやってきた。
 
 降りたのは黒い服を着た男一人だけだった。
 
 背の高い男は降りるとすぐに半島のほうに向かって急ぎ足で行ってしまった。手にはあの六角のスーツケースを持っていた。
記憶ははっきりしないが、コノンさんがサーカスの広場で話していた男に似ているような気もする。ただ、黒装束が個性を消しているので同じように見えるのかもしれない。彼らはドームにあっては目立ってはいけない黒子のような存在なのだろう。都市のインフラに関わる仕事なんて、なくなってはじめてわかるようなものだから、それまでは身を潜めて目立たないようにするのが一番いいのだ。
 飛行船はその男の帰りを待っているのかプロペラを止めてその場に留まった。いつもと違ってすぐに飛び立つ気配はなかった。
 
 社交的なミリルさんが、飛行士さんもお疲れかもしれないからお茶でも勧めてくると言いながらコピといっしょに出て行った。
 
 見ていると、飛行士に声をかけられたのか、少し話していていたと思ったら船内に入って行こうとしている。なんだかそのままさらわれてしまうのじゃないかと、ありもしないことを想像してしまった。ほんとうにミリルさんとコピがいなくなったら、意識世界のことであったとしても生きる希望もなくなってしまいそうな気がした。こんなことを思うようだからまだ正気じゃないのかもしれない。
 
 15分ほどしても出てくる気配がないのでさすがに心配になって飛行船まで行ってみることにした。タラップのところまで来ると、操舵席にコピがちょこんと座っているのが見えた。慣れないことをさせられて緊張しているようだ。さすがに原っぱを走り回るのとはわけが違うだろう。
 
 こちらに気づいたミリルさんが、オルターさんも乗せてもらいませんかと声をかけてくれた。3人いっしょにさらわれるのであればそれもいいかもしれない。
 
 見ていると、もう一人乗せてもらえないか飛行士に聞いているようだ。あまり多いと飛行船に負担でもかかったりするのだろうか。
 
 こんなに近くまで寄って飛行船を見るのははじめてだった。真下で見る機体は思った以上に大きかった。リブロールを2つ3つ並べたほどの長さがあるだろう。エンジンは暖機運転でもしているのか、ドクンドクンという鼓動のような音が聞こえる。セントラルステーションで聞いた音にも似ていた。横風が気球にぶつかって、ぼおぼおと大きな音を立てている。飛行船にとってはなにもないところにじっとしているのが一番苦手なのかもしれない。
 
 船長は、ボルトンはこの飛行船とも関係あると言っていた。コノンさんから火事の報告を聞いて、島に何かの証拠品が残ってないか見にきたのかもしれない。それでも、もし火事がボルトンの仕業であれば、のこのことこんなところに来るだとうか。火事は別の原因だったのだろうか。
 
「オルターさん、OKですって」船内からミリルさんのうれしそうな声がした。
 
 せっかく交渉してくれたのを断るのもどうかと思って乗り込んだ。
 
「はじめまして。シーゲルです」と飛行士が挨拶をした。悪党の顔を想像していたけど、人相だけで言えば船長の方がよっぽど悪党面をしている。思った以上に若く、その紳士な振る舞いにちょっと拍子抜けしてしまった。
 
「シーゲルさん、もともとは船乗さんだったのに、とってもむずかしい試験を受けられて飛行士になられたんだそうですよ。海も空も自由に行けるなんてすごいですよね」ミリルさんが言うとシーゲルという飛行士は照れたような笑みを見せた。飛行船乗りになるような人だから人間のできもいいのだろうか。だれにでもなれるものでもない。
 
 コピは操縦席に座っているのに退屈したのか、足をぶらぶらさせながらつまらなそうな顔をしてこちらの方を見ている。実際、操縦席の計器を見て見ても何がなんだかさっぱりわからない。
 
「飛行船は風を読まないとだめでして、あの鳥たちの苦労もわかるというものですよ」飛行士が南に向かって飛ぶナツヨビを見て言った。
 
「それにしてもこんな大きなものがガスだけで浮かぶんですねえ」と言うと、「あ、これは熱気球です。ただプロペラは最新の水エネルギーを使っていますけど」と教えてくれた。
 
 なんだか聞けばなんでも答えてくれそうな人だったので、「ここに来るのは大変だって聞いたことがあるんですけど、飛行船もそうなんですか」いきなり核心に迫るような質問をしてみた。その答えでこの島がどこにあるのかわかるかもしれないと思ったのだ。
 
「よくご存知ですね。たぶん飛行船乗りでも知っているのは僕ぐらいだと思います」驚いた様子もなく淡々と説明してくれた。
 
「船長とおんなじですね」ミリルさんがこちらに向かって小さな声で言った。ミリルさんの飛行士を見る目が少し変わったように見えた。
 
「この辺りの潮がおかしいということは前から知っていたので、飛行船乗りになってからも度々調べに来ていたんですが。結局は船のときと同じで、天候の悪い時に気流に流されてて予期せず辿り着いてしまいました」
 
「島には上がらなかった?」
 
 船のときは座礁の可能性もあるということで、島には上がりませんでした。あのときは積み荷もほとんど失うし、船は修理もできないほど壊れてしまって散々な航海でしたよ。港に戻れたのは運が良かったですね。そんなこともあって船乗りをやめて飛行士になることにしたんです。飛行船で何度も飛んでいるうちにここに来るための気流の流れもなんとかわかったのでこの仕事を」
 
「自分で気流を読めるなんてすごい」ミリルさんが目を丸くして聞き入っている。
 
「この仕事というのはボルトンとの契約のことですか」
 
「あ、ボルトンをご存知でしたか。そうではなくて、僕はどこの会社にも属さないでやってるんです。ここだけが航路というわけでもなくて、ここもいくつかの仕事のひとつですね。今回もそうですが、お客さんの依頼があれば来るというだけですよ。儲けだけを考えるとやめたほうがいいんですけどね。気流に流されるリスクも高くてとても割にあいませんから」と言うと飛行計画表のようなものを見ながら苦笑いをした。
 
 シーゲルというこの飛行士はこの島を特別の場所とは思っていないようだ。そこは船長が島を好きで来ているのとは違う。向こうで依頼があったときに来るだけなので、船長が定期的に来るというのとも違う。もちろんこちらから来てもらう連絡をとることもできない。
 
「この領域に入るのにはそれなりに労力はかかるので、仕事じゃなければ好んでは来ないでしょうね。みなさんはどうしてここに?」逆に質問をされてしまった。
 
「みんなここの自然が好きで、街の生活は性に合わないという人ばかりです」
 
「ああ、そいうことですね。そうなんだろうな」と言うと、ちょっと失礼と言いながらキャビネットからカメラを取り出し周りの写真を撮り始めた。シーゲルさんもこの
島の自然をきれいだと思ってくれたのだろうか。
 
 こういう話を聞いていると、船長が定期的に着てくれているのは当たり前のことではないのだとあらためて思った。
 
 少し島の気候などについて話したところで、飛行士は機体の整備があるのでと言ってロープを掴んで気球によじ登り始めた。この作業は灯台のレンズ磨きどころの騒ぎじゃなさそうだ。好きじゃないとやれない仕事かもしれない。
 
 どうやら、水は渡さないと言うべき相手はこの飛行士ではないようだ。

第15話 灯台のローソク

 コピも操縦席にすっかり飽きていたようなので、気球に登ったままのシーゲルさんのほうに向かって戻ることを言って飛行船を降りた。少し歩いたところで飛行船を振り返ってみると、シーゲルさんは気球の一番上に座って島の景色を見ているようだった。
 あそこからすべり落ちでもしたら大けがをするんじゃないかなと言うと、そんなことを考えるようでは飛行船の飛行士なんてなれないですよとミリルさんに笑われた。
 コピのほうは飛行船にすっかり興味をなくしたのか、広場のあちらこちらから聞こえる虫の声を追いかけながら歩いている。いつでもほんとうに興味関心のあるものに対して素直に反応する子だ。自然に生きるというのはこういうことなのだろう。変に知恵のついてしまった大人にはまねができない。
 
 リブロールに戻るとノーキョさんが資料整理に来ていた。熱中しすぎてこちらが戻ったことにも気づかないようだ。
 
「飛行船見てきました」とミリルさんが言うと、ふいをつかれたように顔をあげて、「ああ、おどろいた。ミリルさんですか」と言いながら笑った。
 
「ミリルさんかって。お勉強のじゃまをしてしまいました?」
 
「あはは、だいじょうぶ、だいじょうぶ。ローソクのことで頭いっぱいになっていたので」
 
「すごい、もうローソクづくりの準備ですか。コピちゃん、ノーキョさんがローソクだって」ミリルさんがうれしそうに言うと。コピがなんのことかわからないというような顔をしてノーキョさんを見た。
 
「えっと、まだ調べているところなんだけど。冬が近くなると葉が白くなって落ちるシロノキってあるじゃないですか。あれがハゼの木の仲間じゃないかと思って」
 
「ハゼノキ?」
 
「ローソクの材料ね」
 
「言われてみると、ローソクって何でできているかわからないな」
 
「今はだいたいパラフィンワックスでつくるんですけど、この島だと蜜蝋かハゼや漆などの植物からかなと考えていたところです」
 
「さすがは先生。なんでも知ってるんですね」ミリルさんが本を横から覗き込んでいる。
 
「パラフィンワックスは石油からつくるので、自然なものしかないこの島ではちょっと無理かなと思って」
 
「できれば、自然な素材を使って作れるといいですね」と言うと、「でも、石油も自然のものなんですよね?」ミリルさんが不思議そうな顔をした。
 
「あ、そうですよ、オルターさん。よくよく考えればこの世界にあるもので自然じゃないものってないんですよ。ミリルさんの言うのが正しいな」
 
 言われてみれば、石油も化石からできたものだと聞いたことがある。ビルだって、船だって、みんな自然なものから作られている。本だってそうだ。人為的に手を入れられたものが自然じゃないということだろうか。考えれば考えるほど自然の境目がわからなくなってきた。人工と言うことすら人間のおごりでしかないのかもしれない。人間だってもともと自然の一部だったはずだ。
 
「ミリルさん、自然はやはり奥が深いですね」と言うとノーキョさんは本で一生懸命勉強するような格好をして見せてみんなを笑わせた。
 
「それで、島で適当な材料はみつかりそうですか?」
 
「そのシロノキからローソクをつくるのがいいかなと思っていたんですけど」
 
「あの木からローソクが?」
 
「木と言うか実ですけどね」
 
 ノーキョさんが言うには、背丈はふつうよりあるものの葉っぱの形からして間違いなくハゼノキの仲間だとということらしい。船長に頼んでパラフィンワックスを運んでもらうのもいいのだけど、ロウソクの形だけを島でつくるというのはノーキョさんの自家製魂が許さないのだという。島で取れた材料からロウソクができるのであればそれにこしたことはない。また、ノーキョさんの腕前に頼ってしまうのだけれど、そこはいつものように期待してしまう。
 
「ロウソクは灯台の形にしますか?」ミリルさんも手伝いたいようだ。
 
「そうですね。灯台の型枠はミリルさんにお願いしますね。色もちょうど白だし、ロウソクにぴったりだ」
 
「早くできあがったロウソクの灯台に炎を灯してみたいな。暖かなたくさんの炎に包まれた島を想像するだけでも楽しそうです。クリスマスのころには島をロウソクでいっぱいに飾れますね」
 
「ああ、それいいですね。みんなでキャンドルナイトを楽しみましょう」
 
 白い灯台と聞いたときに、赤もつくれないだろうかと思った。赤と白のセットの化粧箱に入った灯台を島のお土産にしてもらえればこれほどうれしいことはない。みんな赤い灯台のほうはどうしてかと思うだろうけれど、それがみんなの心に残れば自分の知っていることの何かが伝えられるような気がする。この島には白い灯台だけじゃなくて、赤い灯台もあるのだから。
 
「ロウソク一杯で遠くから見える?」コピが聞いた。
 
「そうだな。今より遠くから見えるようになるかな」
 
 炎が島をいつまでも照らしてくれることを祈ろう。

第16話 黒服の試飲

 秋の足音が聞こえるようになると、わけもなく心がざわついてくる。特別に何かが変わるわけでもなく、夏の単なる延長にあるはずなのに……降り注ぐ陽射しを遠い日のことのように懐かしんだり、冬の蓄えもないままに涼やかな風に倦怠を感じてみたり。枯れ葉の舞うころになれば、なにが起きることもなく過ぎてしまった1年の追想でもしてみようかと考え始める。
 なにも悪いこともしていないし、心残りなことがなくても、秋はどういうわけか心がざらざらして穏やかではいられなくなる。そんなときにはそばにいる人の息づかいにやすらぎを感じたりもする。そして夏への郷愁になんとかけじめをつけたところで、自然が見せる最後の宴とも言える木々の彩りと虫の音が島を飾る。その後には白く透き通った季節がやってくる。そして、部屋に閉じこもって暖を取りながら、南の端から来る春の到来を待ちわびることとなる。
 窓の外の風景は変わらなくとも、秋を感じさせる小さな変化があちらこちらに感じられる。景色は人の心をただ映しているだけなのかもしれない。
 
 そんなことを思いながら窓の外を見ていると、黒服の男が半島の方からこちらに向かって近づいて来るのが見えた。彼はこんな島にまで来ても仕事がわすれられないのか。
 
「おじゃまします」ていねいに挨拶して店内を一瞥すると、ここは本屋なんでしょうかと聞いてきた。
 
 背丈は1m80cmはあるだろう。この高さで黒装束となると、黒子というよりも威圧感すら感じさせる。顔は何も見えていないように無表情で、コピが羽虫を追いかけて店内を走り回っていてもまったく動じる様子もない。リアヌシティのセントラルステーションで行き来していた人の顔を思い出してしまった。
 
「いい本がありますね」棚の本をかがむようにして見ている。
 
「メーンランドに目利きの船長がいて、その人のみつくろいです」と言うと、「なるほど」とひとことだけ言うと、こちらを振り向くこともなく書棚を眺め続けた。
 
「この本は……」と言うと船長が持ってきた水の本を手にとって、しばらく興味深そうに見入っていた。同じページを行ったり来たりしているので、何か気になるところでもあったのかもしれない。
 
「この島の水は身体にも心にもいいものらしいんですよ。試してみられます?」ミリルさんがいつも客さんにするように声をかけた。
 
「いいんですか」遠慮ともお願いともとれるようなあいまいな返事だった。読みかけの本を元の棚に戻してピッチャーのあるところに場所を変えて、ミリルさんの給仕をじっと見ていた。視線の向かっている先からすると、給仕ではなく水そのものを見ているようだった。
 
「はい、どうぞ」ミリルさんがおいしい水を手渡した。
 
 男は水を受け取るときもほとんど表情を変えなかった。そのまま一気に飲み干すと、コップに残った水を手のひらに少しだけこぼして、それをもう一方の中指でゆっくりとさするようにしている。まるで水の不純物でも確認しているかのようだった。
 
「あ、何か入ってました」心配そうな顔をしてミリルさんが聞いても答えはなかった。
 
 水のついた指先をじっと見ていたと思ったら、六角のスーツケースを開いて何かを確認しはじめた。一人頷いてスーツケースを閉じると「この水はここに?」と聞いてきた。
 
 おいしかったですかと聞くミリルさんの後ろで、コピが隠れるようにして見ている。
 
「この島の代表者はどなたですか」
 
 聞かれたミリルさんは、何か返事をしてくれというようにこちらを見た。横で植物図鑑を開いていたノーキョさんが、オルターさんでいいのではと言った。
 
「この水を譲ってもらうことはできますか?」黒服がこちらに向かって聞いた。
 
「私が代表というわけではなくて、島に長いというだけですが。水は島民みんなのものなので、外の方にお譲りするほどなくて」と答えると、黒服の男は「お願いしてもだめなのですね」と再度念を押すように言った。
 
 ミリルさんが、オルターはまだ意識がしっかりしていないのではないかと不安そうな表情をしている。コピはミリルさんの後ろに隠れたまま顔も出さなくなった。
 
「そうですか。それは残念です。メーンランドの困った人に役立つと思いましたが」と言うと時間が気になるのか飛行船のほうを振り返った。飛行士は、操縦席に戻ったのか姿が見えない。
 
「オルターさん、少しぐらいなら困った人のために……」ミリルさんが横に来て耳元で囁いた。
 
 それを見ていたノーキョさんが「ミリルさん、水はこの島のものだから」と言うと、様子を伺っていた黒服の男は少し間をおいて「独り占めはよくないですよ」とだけ言った。
 
 重苦しい空気が流れて、みんなしばらく押し黙ったままの時間が流れた。その場の空気を察した黒服は「また、あらためて伺うことにします」と言うと名前も告げずに足早に出て行ってしまった。飛行船はそれから5分もしないうちに音もなく地上を離れ、うろこ雲のたなびく大空へゆっくり吸い込まれるように上がっていった。
 
「オルターさん、あそこまで言わなくても」ミリルさんが少し不満そうな顔をしてこちらを見た。頼まれれば嫌と言えないミリルさんからすれば、ひどい接客と見えたかもしれない。ノーキョさんは理由を知ってか知らずか、何も言わないで植物図鑑をずっと読みふけっている。
 
「あの人、また来そうですね」ミリルさんはこれで終わりにするつもりはないようだ。船長から断った理由を聞けば納得してくれるだろうか。
 
「コピ、どうした。恐かったかい」
 
「ううん。悪い人」とひとことだけ言うと身を固くして飛行船の飛んで行った方を見た。
 
 黒装束がそう思わせたのか、表情のない顔がそう感じさせたのか、コピには何かがわかったのかもしれない。
 
「いい人じゃないね」本に没頭していると思ったノーキョさんが独り言のように小さな声で言った。
 
 ほんとうのところはどうなのかはよくわからないけど、船長たちの話を聞く限りでは、島にとってあまり好ましい人ではないだろう。悪くすると島の水を全部抜き取られてカラカラにされてしまうかもしれない。水位の低くなることが多くなったというノイヤール湖の情景が頭に浮かんだ。
 ミリルさんは黒服の使ったコップを片付けながら、まだ腑に落ちないという顔をしている。
 
「ほら、この木を見てください。シロノキにそっくりでしょ」ノーキョさんが気分を変えるように本の写真を指差して言った。
 
「おんなじ葉っぱ!」コピが言った。
 
「あの実でロウソクが作れるとは思わなかったね」
 
「こんど黒服の人が来たらロウソクをプレゼントしましょうね」
 
「ミリルさんは、どこまでもいい人だね」とノーキョさんが笑うと、コピが「いい人、悪い人、いい人、悪い人」と繰り返しながら、写真の葉っぱを数えていった。
 
「……いい人」と言って最後の葉を数え終えた。
 
「まあ、誰にとっていい人なのかという問題だけどね」ノーキョさんが言うと、「この島を好きな人に悪い人なんているのかなあ」とミリルさんがぽつりと言った。
 
 
 意識世界と思っているこの島にも船長の話していたとおりボルトンの男がやってきた。それを知っていた私は、ミリルさんを制して水を提供することを断った。時間が前後していることと、自分自身がそこにいるかいないかという違いはあるものの、水をめぐる話に変わりはなかった。
 
 現実世界と意識世界は明確な境もなくつながっているのだろうか。現実と意識の境目がないとしたら、この世界は二重、三重にいくつもの次元が重なってできているようにも思える。どうしてそんなところに迷い込んでしまったのかはわからない。ただ、ある日突然人が消えたり、見えなくなることがあったなら、この夢と見紛うような時空の淀みに入り込んでしまっているのかもしれない。そこは、どちらが現実で、どちらが意識世界という明確な判別すらことすらできない。

第17話 湖の正夢

 飛行船が行ってしまったあとには、また秋の訪れの感じる静かな生活だけが残った。島の木々は日の当りのよいところから紅葉が始まっている。島の住人たちもそれにあわせるようにそれぞれの住処で思い思いに衣替えをはじめる。
 
「スロウさん、元気でしょうか?」テーブルの拭いていたミリルさんが、急に何かを思い出したように手を止めて言った。
 
「スロウさんのことだから心配はないでしょう。知らせのないのはよい便りと言いますしね」
 
「なんだか知っている人のいないままに季節が変わっていくのってさみしくないですか?」
 
「気持ちまで違うところにいってしまう感じですかね」
 
 スロウさんは向こうの生活には慣れただろうか。窓の外を吹く風も日ごとに冷たくなっていることだろう。庭の木々はすっかり落ちて、橙色の葉が艶やかな模様の絨毯のように小石の敷き詰められた庭を覆っているかもしれない。
 オールドリアヌの探索が順調に進んでいるのかは気になるところだ。夢の話と思っていたノイヤール湖が実在することがわかれば、約束したことを思い出してくれるはずだ。トラピさんに案内されてコノンさんのお祖母さんの家を案内されたころかもしれない。もし、ジノ婆さんのところ行っていたら私は来てないと言う話になるだろうし、そもそもそんな話にさえもならないのかもしれない。
 
「あの、ネモネさんはメーンランドに行きたいって言ってませんか?」
 
「ここの温泉も見つかったし、しばらくはのんびりされるつもりじゃないですか」ミリルさんは何を急に言い出したのかと言うような顔をしている。
 
「いや、なんとなくね、向こうにもいい水があるんじゃないかと思って」
 
「なんとか湖ってところのことですか?」
 
 夢の話ということにしたものの、ミリルさんも多少は気にかかっているのかもしれない。
 
「オルターさん、私、船長の持ってきた水の本を見ていたら、オルターさんの言っているところかもしれない湖を見つけたんですけど……」ミリルさん自身、半信半疑のようだった
 
「え、それノイヤール湖という名前でした?」
 
「名前はなかったんですけど、なんだかきれいな鱒がいるので太公望の憧れだとか書いてありましたよ」
 
「へえ、そういうこともあるんですね」こちらも、おもしろいこともあるものだというような言い方をしてミリルさんの顔色を伺ってみる。
 
「正夢っていうことですか?」
 
「そうか、正夢だ。名前まで同じならびっくりですけどね」
 
 ミリルさんに教えてもらって湖のことが書いてあるページを開いてみた。確かに名前こそ書かれていないもののノイヤール湖に間違いなさそうだ。黄色い斑点のある鱒が釣り人を集めていると書かれている。当時の自然の豊かさからすれば、それほど際立った美しさというわけでもなかったせいか、湖がきれいかどうかについては特に触れられていない。記述があったのは周辺の水路の発達のことだった。そのあたりの話もノイヤール湖の周辺と一致する。何よりも説明に添えられている挿絵の鱒がドットトラウトそのものだった。その鱒はこの湖にだけ生息すると書かれている。
 
「このページにしおりがはさんであったんですけど、スロウさんが調べていたんでしょうか」
 
「どうでしょう。スロウさんが湖を見つけたということをミリルさんに知らせたのかもしれないですね」
 
「え、このしおりで?」ミリルさんが、目を丸くしてこちらを見た。
 
「いや、冗談ですよ。でも、ちょっとそんな気がしたもので」
 
 ミリルさんは、変なことを言わないでくださいと言って笑ったけれど、実際、スロウさんがノイヤール湖から自分と同じようにこの世界に来ていると考えられなくもないし、何が起きてもおかしくないような気がしている。
 もう少しすれば、トラピさんたちも帰ってくるだろう。黒服やノーヤール湖、夢の話と思われていた世界が少しずつみんなのいるこの意識世界と重なってきている。
 
 
「そうだ、ノーキョさんが今日ロウソクの試作をするのでいっしょにどうですかって言われてましたよ」
 
「お、お誘いですね」
 
「コピちゃんは、今朝から葉っぱの実験班長に行くってはりきっていたので、もうお手伝いしているかもしれませんね」
 
 コピもノーキョさんから実験班長を頼まれたのだ。スロウさんと自分のメーンランドへの渡航が入れ代わったままに、前と同じように島の時間は流れていく。
 
「じゃあ、食事をしたらロウソクのお手伝いに行きましょうか」
 
「そうですね。そろそろクリスマスの準備もしないといけないし。いいローソクができるといいですね」
 
 赤い灯台のあるウォーターランドに来た時、たくさんのローソクで島でいっぱいだったら、さぞや幻想的だっただろうと想像してみた。赤い灯台が過去であるなら、そんなことはあり得ないことなのだけど、時間の順番さえここにはないのかもしれないとも思う。まだ、夢が覚めているかどうかさえもはっきりしないのだから、何が起きるかどうかなんて誰にもわからない。

第18話 魚拓のドット

 食事が終わったところで、ミリルさんといっしょにノーキョさんのお店を訪ねた。
 
「いらっしゃい。ようこそ蝋燭研究所へ」ノーキョさんの明るい声が出迎えてくれた。
 
「あら、今度は蝋燭研究所なんですね」
 
「ノーキョさんは多芸だから、休む間もないね」
 
「多芸というか生物関係の知識の範囲でしかないですよ」謙遜して照れ笑いをしている。
 
 ノーキョさんのお店は雑貨屋のようでもあり、実験室のようでもあり、はじめてきた人は誰もがその店構えを見て戸惑う。実際、値札のついた商品が並べてあるわけでもないのでお店ということ自体が無理なのだ。お店には見えないのだけどおもしろそうなものがいろいろ並んでいるから、かえってみんな気になって仕方ない。
 
「この島にいると、なにからなにまで珍しいことばかりで、やることがなくなるなんてないですよ。僕にとってはウォーターランドはワンダーランドですから」
 
 室内はその言葉を裏付けるように、植物の種や苔の壜詰、使い道のわからない粉や液体、作りかけの道具などが所狭しと置かれている。機械類はスロウさんが作っているものも多いのかもしれない。ここは二人の遊び場でもあるのだろう。
 
「あ、これがローソクの元ですか?」床に置いてあった白い固まりを見ていたミリルさんが言った。
 
 そうですよと言うと、ノーキョさんは大きな鍋に蝋の固まりを入れて火にかけた。部屋の角にはかごに入ったシロノキの実も置いてあった。
 
 たくさん集めたものだと感心して覗き込んでいると、島に詳しいコピが集めてきてくれたものだと教えてくれた。コピもすっかりノーキョさんの遊び友達だ。
 
「ノーキョさん、こちらの葡萄草の実も材料になるんですか?」
 
「ああ、それは赤いほうの色をつけるのに使おうかと」そう言うと一粒指先でつぶして見せてくれた。思ったよりは黒に近い赤だった。葡萄草の実は食べるものだとばかりと思っていたけれど、知恵さえあれば使い道はいろいろあるものだ。

「これがミリルさんと相談してつくった灯台の木型です」ノーキョさんがテーブルの下から取り出しながら言った。
 
「ほんとだ。うまくいくといいな」思っていたとおりの出来上がりだったのかミリルさんもうれしそうだ。
 
 話しているうちに鍋のぐつぐつ煮える音が聞こえてきた。蝋がとろとろになったところで木型に流し込むのだという。
 準備ができるまで手持ちぶたさだったので、ゆっくり見たことのないノーキョさんのお店を眺めていると、額装された魚の魚拓が壁にかけてあるのに気がついた。理科の先生は何をやらせても器用なものだ。
 
「ノーキョさん、よかったら今度跳魚釣りでもご一緒しませんか」釣り友達になれるかと思って誘ってみた。
 
「僕はもっぱら研究のほうなので。足手まといになるといけないですから。それは少し前にスロウが海で釣り上げた魚なんです。見かけない魚でしょ」
 
 言われてみるとこの辺りで見たことのない魚だった。きれいに取れている魚拓を手に取って見ていると、ミリルさんが首を傾げている。
 
「どうかしました?」
 
「なんだかあの魚に似ているような」
 
「え、あの魚って」
 
 改めて魚拓を見て、一瞬自分の目を疑った。黒一色だったのでわからなかったけど、あごが少し大きくなっているところを除けば紛れもなくあのドットトラウトそのものだった。魚拓では出せなかったのか、ドットの柄を手で書き足してある。ノイヤール湖にしかいないと思っていたのに、まさかここで同じ魚を見ることになるとは。ノートの主がここまで魚を運んで来たとは思えないし、鮭の仲間なら降海してもおかしくないということだろうか。そうだとしてもここはノイヤール湖から下って来られるような距離なのだろうか。鱒といよりもウナギの生態に近いような魚をイメージしてしまう。何がどうなっているのかまたわからなくなってきた。
 
「これはノーキョさんが魚拓に?」
 
「スロウから頼まれたので。素人仕事なんですけどね。形だけでも残しておきたいと言われて」
 
「きれいな魚だったらしいですよ」ミリルさんは前から魚拓のことを知っていたようだ。
 
「スロウは発光するような模様を見て、深海魚の一種なのかもしれないって言ってましたね。勝手に光魚って名前をつけてましたよ」
 
「もしかすると、スロウさん、水の本を見てこの魚と同じだと思ったのかもしれない。それでメーンランドに行くことにしたのかも」
 
「なるほど、スロウだとやりかねないな」ノーキョさんが顎に手をあてて言った。
 
 スロウさんが夢で見た湖の名前に興味を示したのもこれが理由だったのかもしれないと思うと、あのときの会話も納得がいく。
 
「実はこの魚、夢の中にも出てきたんですよ」みんなとの距離を縮めるためにもいいタイミングかもしれないと思って言ってみた。
 
「この魚も夢に? あのなんとか湖にですか?」ミリルさんがまた困惑したような顔をした。
 
「あれも正夢だったということかな」
 
「オルターさん、ほかにも夢で見たことありますか?」ノーキョさんも、さすがにおかしいと思い始めたようだ。
 
「船長とかもね出てきましたよ」と言うと、ノーキョさんとミリルさんが顔を見合わせて、やっぱり普通の夢なんだと納得したように笑った。
 
「夢の話はそれとして、スロウはこれをどこでつかまえたんだろう」ノーキョさんはそこだけでも聞いておけばよかったとちょっと後悔しているようだ。
 
「もしかしたら、海の底にたくさんいるのかも」ミリルさんが好奇心でいっぱいの目をした。
 
「それならもっと見つかってもいいはずですよね」と言うと、ノーキョさんが「みんな跳魚と思い込んでいただけかもしれないな」と言った。
 
 言われてみるとどこか跳魚に似ている気もする。島の周辺にいると思っていたのは跳魚ではなくてドットトラウトだったのだろうか。もしかすると船長が釣竿をくれたのはそれを知りたかったからかもしれない。ミドリ鮫ばかりに気を取られていたけれど、実はドットトラウトこそが秘密の鍵を握っているとしたら……ノートにはドットトラウトとわかる記述はないけれど、それこそが行方のわからない残りのページに書かれていたことと考えられなくもない。
 
「魚の話はこれぐらいにして、コピちゃんも待っているのでローソクのほうをそろそろ」いつも冷静なのはノーキョさんだ。蝋の具合を確認するようにかき混ぜながら言った。
 
 こちらは頭の中がドットトラウトでいっぱいで、ローソクを作っていたこともすっかり忘れていた。
 
「コピちゃん、手伝って。私は芯を入れていけばいいですね」
 
 ミリルさんの手際のいい作業もあってローソクが次々にできていく。シロノキの実もたくさんあるので材料にも困ることはないようだ。
 
「そちらのほうまでできたら、オルターさんご希望の赤い色をつけてみましょうか」ノーキョさんはローソクがテーブルの端まで並んだのを見て、葡萄草の実から採ったという染料を蝋に混ぜた。
 
「ほんとにきれいな赤になりますね」ミリルさんが感心したように言った。
 
 赤い灯台も夢に出てきたことを言ってみようかと思ったけど、これ以上みんなを混乱させるのもどうかと思いやめにした。今日はみんなでつくるローソクを心ゆくまで楽しむことにしよう。
 
 3人が赤いローソクを作っているのを見ながら、こちらのほうはドットトラウトに出会うことを期待して、海釣りをする場所はどこがいいかを考えていた。

第19話 幻の釣り

 翌日は、少し雲が多いぐらいで、釣りをするのに悪くない日和になった。潮も高くなっているので、ふだんより大きな魚がいそうな気がする。ちょっと様子を見に来たというアグリさんがとなりで仕掛けの準備をおもしろそうに見ている。
 
「オルターさんのその竿はどこで手に入れられたんですか?」
 
「船長からのプレゼントなんです」
 
「そうなんですか。船長、プレゼントなんかしそうにないけどな」と言って笑った。
 
「ほんとは釣りでもしてゆっくりしたいのは船長自身なんでしょうけど」
 
「ああ、それならわかる気もします。自分ができないから島のだれかにというわけですね」
 
 竿の話をしているうちにノーキョさんも釣果が気になってきたらしく、そのまましばらく付き合ってくれることになった。
 
「まさに幻の魚探しというところですね」と言うと、またひとつ島にいる楽しみがふえましたと言いたげに何度か頷いた。
 
 ドットトラウトがこの島にいると思うだけでなんだか楽しくなる。コピ以外に見た人のいないミドリ鮫に比べれば、魚拓のあるドットトラウトのほうがはるかに現実性のあるロマンだし、シーラカンスのような話もあるから、夢のままでは終わらない。この手つかずの自然環境があれば絶滅という心配もないだろう。
 とはいうものの、夏も終わりになると羽虫も少なくなるから、跳魚もそろそろ釣れなくなってくる。釣りのできる日もあとわずかと思うと、次の春まで待ってはいられないという気にもなる。
 
「それで、餌のほうは何を?」
 
「餌……」
 
 言われてみてはじめて気がついた。跳魚と同じ羽虫の疑似餌ではだめかもしれない。コノンさんのお祖父さんは投網を使っていたから餌は何がいいのか聞かなかった。
 
「問題はそこからでしたね」と言うと、二人で大笑いになってしまった。
 
 スロウさんが釣りをしているという話を聞いたことはないから、やはり偶然何かに引っかかったとか、別の仕掛けに入っていたとか、そういうことだったのかもしれない。
 
「オルターさん、どうします?」さすがのノーキョさんもこればかりは手の打ちようがないという顔をしてこちらを見た。
 
「考えてもしかたないから、とりあえず疑似餌のままでやってみることにしましょう」そういうより他になかった。だめなら別のものを順番に試していけばいいと思った。跳魚のときも最初はそうだった。
 
 岸からの釣りといっても、さすがにいつものチャルド川とは違う。はるか彼方まで広がる海を前にしてみると、岸の近くにドットトラウトがいるとは考えにくい。投げ釣りでないと、魚の方も餌を見つけられないかもしれない
 
「釣れますかね」ノーキョさんも期待していいものかどうかさすがにはかりかねているようだ。
 
 とろんとした海に疑似餌が頼りなげにゆらりゆらりと漂っている。選んだ場所が内海のようになっているところだったので波もほとんどなかった。小魚の魚影が見え隠れしていたけど光り輝くドットトラウトの気配は感じられなかった。
 しばらくつきあってくれていたノーキョさんも、さすがに期待薄とみたのか用を思い出したと言ってお店に戻ってしまった。
 
 ふわりふわりと白い羽毛が波間を漂うのを見ていると、世界の広さと、自分の小ささをあらためて感じる。小刻みに震えている羽毛の動きが自然とひとつになっていることの証のようにも見える。風に吹かれるままに右へ左へと動く様は自然に身を任せて、翻弄されているようでいて、これが無限に広がる自由そのものということなのかもしれないとも思う。
 目を閉じると羽毛と同じように、はてしない世界に放り出されているような気分にもなる。何かに翻弄されているのかいないのかさえもわからない。ただ、言えるのはそこにいるということだけ。いるだけで自然の一部となり、自由であることを許される。
 
 ぼんやりと羽毛を見ていると、白い綿毛が逆光の中で霞んで見える。魚に相手もされない姿はなんとも言えない気持ちになる。
 
「ソダーさん……」
 
 ソダーさん……また、あの声がだれかを呼んでいる。どこかで。
 
「オルターさん……」
 
 女の人の声だ。ジギ婆さんだろうか。コノンさんかもしれない。
 
「だいじょうぶ……ですか?」
 
 また、ちがう世界に呼ばれて行くのだろうか。
 
「こんなところで寝てると風邪をひきますよ」
 
「あ、ネモネさん…… 」
 
 打ち寄せる波を見ているうちにうとうとしてしまったようだ。羽毛を探すと岸のすぐ近くまで打ち寄せられていた。
 久しぶりに見たカバ君はピンクで元気そうだ。オールドリアヌで見た熟したような真っ赤よりこのぐらいのほうがかわいくていい。
 
「今日は海釣りなんですね」
 
「幻の魚を求めてとでも言いますか」
 
「幻の?」
 
「そう、幻の、ノーキョさんのところで魚拓になってる魚」
 
「そうなんですか、楽しそうですね」
 
「水の本にも出てますよ」と言うと、ちょうどミリルさんのところに行くところだったらしく、見てきますというとカバくんととことこと行ってしまった。どうやら女性は釣りにもロマンにもあまり興味がないらしい。

第20話 夕立

「オルターさん、これどうですか」 
 
 しばらくして戻って来たノーキョさんは手製の竿を持っていた。あり合わせの材料で竿をつくってきたという。
 
「さすがノーキョさん。ご自分で?」
 
「自分でと言っても、枝と細工用の糸を結んだだけです。餌になりそうなものも適当に見繕ってきましたよ」
 
 竿もないのに釣りに付き合ってくれていたんだと思うとちょっと申し訳なく思った。船長にもらった竿を使ってみませんかと勧めてみたけど、初心者には手製の竿で十分と言って聞いてくれない。こういうところがノーキョさんの好かれるところなのだろう。
 
 ノーキョさんの手製の竿はとても長く、かなり沖の方まで餌を飛ばすことができた。ちょっと目を離すと餌を見失ってしまいそうなほどだ。日が傾きはじめていたので、水面のきらめきがよけい餌を見にくくする。ノーキョさんは若いから目もいいのかもしれない。そう思って一層目を凝らして見ていると、竿の先がほんの少ししなったように見えた。
 
「あれ、何かがかかりましたよ
 
 糸の先の疑似餌が見えなくなっている。
 
「いきなり、幻の魚ときましたか?」
 
「そうならほんとうにビギナーズラックだ」うれしそうに竿の先を上げた。
 
「ノーキョさん、ゆっくり、ゆっくり、あわてないで」
 
 竿を引きながら後すざりしていくにつれて魚影がぼんやりと見えてきた。岸の近くまで来たところで網を使ってすばやくすくい上げた。
 
「どうすでか? 幻の光魚でしたか?」ノーキョさんが駆け寄って来た。
 
「おお、これは! なんと!」
 
「なんと、どうでしたか?」
 
「まさにあのおいしい跳魚です!」
 
「え、跳魚?」
 
「でした」
 
「なんだ、オルターさんも人が悪いな。光魚が釣れたかと思いましたよ」と言うとノーキョさんは気が抜けたようにその場に座り込んでしまった。
 
 さすがにいきなりドットトラウトと言う訳にはいかなかった。釣りなんて釣れないのを楽しむようなものですよと慰めると、ノーキョさんはやっぱり僕は魚拓を取っているのがあっているのかなと言って笑った。
 
 そのあとも、ノーキョさんが用意して来てくれた餌をいろいろ試してみたものの雑魚さえもかからないままに時間だけが過ぎていった。
 
「こういう風になにも釣れないままに、自然と戯れるのもよくてね」
 
「そういうものなんですかね。まあ、間違いなく自然あってこその遊びですよね。この島にはぴったりかもしれない」
 
 しばらくするうちに光魚のことはどこへやら、ミリルさんのことで話が盛り上がってしまった。ノーキョさんもミリルさんには頭が上がらないのだという。頭が上がらないもの同士で、ミリルさんは長女に違いないとか、世話焼きな性格なんだとか、都会育ちだとか勝手なことを言いあっていた。釣れない時はたわいもない話で時間をつぶすのも一興なのだ。
 
「お待ちかねの手紙が来ましたよ」
 
 後ろからミリルさんの声がした。ノーキョさんと思わず顔を見合わせた。ミリルさんは二人で仲良く何の話をしているのかしらと言うと、丸まったロールレターをこちらに差し出した。もしかして聞かれていたならますます頭が上がらなくなる。ノーキョさんもまずかったですねという顔をしている。
 
「ちなみに私は一人っ子ですけど」ミリルさんが言った。
 
「あ、そうでしたか。そうですよね。そう思ったんだよな」ノーキョさんが珍しくしどろもどろになっているのがおかしい。人ごとではないのだけど、こちらは慣れたものだ。
 
「もしかしてこの前来た黒服のボルトンからですか?」と聞くと、「お待ちかねのスロウさんからですよ」と普段と同じミリルさんの笑顔で返事が返ってた。目でノーキョさんに大丈夫というサインを送った。
 
「やっときたな。スロウは元気でしたか」地面に寝転がっていたノーキョさんが腰を起こした。
 
 キレイナ ミズウミ アリマシタ
 
 これは自分が向こうで書いた手紙ではないだろうか。湖のことを書いたのは覚えているけどはっきりと文章までは覚えていない。
 
「元気そうですね。この手紙、ネモネさんはもう見ましたか?」
 
「さっき会ったので、向こうにもきれいな湖があったようですよって伝えましたけど、何かありました?」
 
「ネモネさんは何も?」
 
「すごく行ってみたいって言ってましたよ」
 
「こちらよりもきれいな水なんですかね?」ノーキョさんが言った。
 
「そりゃあもう、とびきりきれいな湖ですよ……あ、夢ではね」
 
「オルターさんの話はみんな夢の話なんだから」
 
「まあまあ、ミリルさん。楽しい夢はたくさん見れた方がいいということで。それでスロウは元気そうですか」今度はノーキョさんに助けられた。
 
「自分のことは何も書いてないから、きっと大丈夫でしょう」
 
「空の雲行きがあやしくなってきたから私は戻りますね。お二人も雨に降られないように」そう言うとミリルさんは早足でリブロールのほうに戻って行った。
 
 二人でなんとかやり過ごせましたねと言って笑っていると今度はこちらの竿の疑似餌が波間に引き込まれた。あわててリールで糸を巻き取ると小さい跳魚が糸の先でジャンプしたかと思うと、するりと針をはずして海の中に逃げ帰って行った。
 
「あれも跳魚でした?」
 
「光魚ならもっと光っているでしょうから」
 
「満月の日はだめなんですかね」
 
「とりあえず、日の落ちる夕暮れぐらいまで頑張ってみますか」
 
 そのあと二人で1時間ほどいろいろ試してみたものの、結局目指す獲物に出会うことはなかった。川では愛想のいい跳魚も、海ではなかなかつれない態度で二人の釣り人はなかなか楽しませてもらえなかった。
 
 釣果のないまま帰り支度をしていると、真っ黒な雲が急に空を覆い突然土砂降りになった。この次期にはよくある夕立だ。仕方がないので近くにあった行方のわからなくなっているないないさんの家の軒下で少し雨宿りをさせてもらうことにした。
 石造りのこの家はおそらく島でももっとも古い構造物のひとつで、漁師が漁具の置き場としてつくったものではないかと言われている。人が住むにはちょっと小さすぎる。
 
「まいりましたね。でも、夕立ですぐに止むでしょう」
 
「急ぐわけでもないからゆっくり雨音でも楽しみましょうか」と言うと、ノーキョさんは小さく頷いて空を見上げた。
 
 雨音を聞いていると、吹く風に合わせて草花の歌声が聞こえてくる。ノート氏が書いていたように天に向かって喜びの歌を輪唱しているようだ。揺れる葉のこすれあう音があたかも歌っているかのように聞こえるのかもしれないけど 、それでも自然の奏でる愛しきセレナーデであることには違いない。
 
「あ! 」と突然ノーキョさんが声をあげたと思ったら「枕とシーツを干したままだ。オルターさんまたです」と言うなり、上着を頭にかぶって雨の中を駆け出して行った。
 
 せっかくの天日干しが台無しだ。今日は運に見放されている日なのかもしれない。
 
 ノーキョさんが行ったあと一人で地面にできた水たまりに落ちる雨の波紋をながめている真っ黒だった空に少し明りが射しはじめた。それに合わせるようにして雑木林にミルク色の霧が立ちこめて来た。ノーキョさんが家に着いたころには雨はほとんど上がってしまうだろう。
 少し寒くなってきたので、失礼して家の中に入らせてもらった。閉じた薄暗い家の中で雨の音を聞いていると、時間が流れているのか止まっているのかわからなくなる。時間の経過を忘れさせてしまう空間だった。何百年も前、ここに誰かが同じようにいたかもしれないと思うと壁に積み上げられた石の一つ一つに存在感を感じる。オールドリアヌにハロウさんが残した石の家を訪ねたときのことを思い出した。形を変えない石には時間を消し去る力があるのかもしれない。
 雨はしばらくやみそうになかったので、ベッドで少し横にならせてもらうことにした。目を閉じると、止みかけの雨の滴がまた時を数え始めた。
 
 
 雨音に耳をすませていると、どこからか聞いたことのある声がした。
 
「いやはや、こんな天気見たこともない」
 
 同じように雨に降られてしまったのだろうか。
 
「何かの罰でも当たったのかな……ぶつぶつ」
 
 窓から外を見ると雑木林のほうからこちらに向かって来る人影があった。どうやら独り言を言っているようだ。道にでも迷ったのだろうか。傘も刺さずにずぶ濡れになって歩いている。
 
 足音が家の前で止まると無造作にドアが開けられ、挨拶もなくいきなり一人の男が入って来た。
 
「あれ、オルターさん。会えてよかった。ほんとにほんとに」
 
 目の前に現れたのは行方の知れなくなっていたあのないないさんその人だった。

第21話 再会

「ないないさんじゃないですか! どこにいらっしゃったんですか? そんなずぶ濡れになって」
 
「オルターさんこそ、私の家で何をされているのですか?」
 
「あ、ああ……これは失礼しました。ちょっと雨宿りさせてもらいに」
 
「なるほどなるほど。急な雨でしたからね。釣りの帰りですね」竿を持っているのに気づいたようだ。
 
「あの、ないないさんは?」
 
「とにかくとにかく、オルターさんにここで会えて良かった。それにしてもこの冷たい雨には参りました」
 
 どうも状況が飲み込めない。どこかに行っていたというのだろうか? ボートで帰ってきたということでもなさそうだ。
 
「食べかけていたパイも台無しです」形もないほどに崩れていたパイを残念そうに見た。
 
「あの、食べかけのと言うか、もう何ヶ月もたっていますけど……」
 
「え、さっきまでパイを食べてましたが、あまり変なこと言わないでください」と困惑した顔で言った。
 
「ないないさん、どこかに出かけられてました?」
 
「ちょっと思い出したことがところがあって、なくした枕を探しに行っていただけですけど。どうも道がよくわからなくて……なにかありましたか?」
 
 ないないさんの中ではまるでこの数ヶ月の時間がなかったかのようだ。
 
「もし良かったらいっしょにお茶でもいかがですか」
 
「あ、ごめんなさい、勝手にベッドまでお借りして」あわててベッドを立った。
 
 あまりのさりげなさにこちらの方が戸惑いを感じてしまったけれど、せっかくのお誘いだったので遠慮もしないでそのままごちそうになることにした。ないないさんの家は以前違う人が住んでいたところで、一人暮らしの調度品がぎりぎり入る程度の広さだった。二人も入るとベッドの場所を除いてほとんど隙間がなくなってしまう。
 
 ないないさんは濡れた洋服を脱ぐと、寒い寒いと言いながら袖のない夏服を着ようとしている。
 
「もしかして……夏服しかお持ちにならなかったですか」心配になって聞くと、「夏にしては今日の寒さは変ですよね」という答えが返ってきた。
 
 その時、もしかしてないないさんも違う世界に迷い込んでいたのかもしれないと思った。
 
「今、お茶を入れますから」と言うと、薪のコンロに使い込まれたポットをかけた。
 
 あまりの寒さに手が震えて、何度やってもマッチを上手く擦れないようだ。マッチが湿っているのかもしれない。
 
「上着を着た方がいいですよ。風邪をひきます」
 
「ほんとにほんとに、ここは夏でもこんなに寒くなるとは思いませんでした」まだ、夏だと思い込んでいる。
 
 マッチを受け取って火をつけた。ないないさんは部屋の角にまとめてあった大きな荷物をひっくり返して秋物の服を探している。
 
「この島の雨は本当に一瞬で天気を変えてしまうんですね。スコールよりもずっとすごいです。とにかくとにかく驚きました」
 
「外で何かをされていたんですか?」
 
「枕を探しに林のほうをみていたら無性に眠くなって。木陰でちょっとうとうとしたらこんなことに。眠り茸でもあったのでしょうか」
 
 仮にそういうキノコがあったにしても、いくらなんでも何ヶ月も眠れる人なんていない。間違いなく違うどこかに行っていたと確信した。きっと、本人も何が起きたかまだわかっていないはずだ。変な夢を見たと思っているのだろう。まちがっても違う世界に行ったなんて言うはずがない。
 こちらは、早く別の世界に赤い灯台がなかったかと聞きたいところだけど、まずは落ち着いて疲れを取ることが先決だろうと思った。
 
 ないないさんが、いつも使っていたコップもなくなったのでと言いながらコーヒーをお椀のようなものに入れてくれた。少しこぼしてしまったのは寒さではなく、まだ目の焦点が定まっていないからだろう。コップを持つ手も頼りない。
 
「ほんとにほんとに、こんな狭いところで」こんなときでも気遣いを忘れないところがないないさんらしい。
 
「横になって寝た方がいいですよ。お疲れのようだ」
 
「いえいえ、ご心配なく。それよりもそれよりも、今はオルターさんがいてくれたほうが……ありがたいです」
 
 何かに怯えているようにも見える。向こうで怖い思いでもしたのだろうか。まだ少し震えている手を両手で包んであげると、にっこり微笑んで、ほんとにほんとにすいませんと手の暖かさを噛みしめているように頭を何度も下げた。
 
 窓の外を見ると雨が少しおさまってきた。秋の雨音は心に染み入る。夏の終わりとともに過ぎ去ったものたちからの惜別の歌のようだ。
 
 気がつくと、ないないさんが目を閉じて首をうなだれていた。そのまま横にして、毛布をかけてあげた。きっと今夜はこのまま目を覚ますことはないだろう。明日あらためてここに来て、体調が良さそうならゆっくりと夢の話を聞かせてもらおう。
 
 夢のことを想像していると、ないないさんが寝返りを打って、ここはどこなんでしょうと言った。はっきりした寝言だった。何か答えてあげたい気がしたけど、言葉にならなかった。実際答えようもなかった。
 ここがどこであれ、わかっているのは、いなくなっていたないないさんがここに戻って来たということだ。みんなどこかに行って、みんなここに戻ってくる。それがウォーターランドというところなのだ。
 
 耳を澄ますと、水滴が水たまりをはじく音が聞こえる。林のほうから鳥の鳴き声も聞こえた。夕立も去ったのだろう。
 
 ドアを開けてみると、赤い満月が雲の切れ間から顔を出していた。振り返るとないないさんが穏やかな寝顔で小さな寝息を立てていた。

第22話 赤色の宴 *

***** ノート *****
 
島もすっかり秋の空気に変わった。自然の移ろいには誰も抗えない。その一部となれたものだけがこの土地に生きることを許される。今日は大きな発見をした。この島にも光る魚がいたのだ。どこから来たのかわからないけど間違いなくここにいる。ミドリ鮫との関係についてははっきりはしない。彼らは同じ世界に生きるもののようにも思える。その世界はこの島のどこかにあるのか、別のどこかなのかもわからない。長い間行方の知れなかった人にも再会できた。その人は自分の記憶が途切れてしまっていることにまだ気づいていない。記憶も時間も幾重にも重なり断裂しながら繰り返す。
 
***** ノート *****
 
 リブロールに戻ったけれど誰もいなかったので、灯台に来て引き出しの底板の下に隠しておいた新しい方のノートに今日のことを書き残しておいた。
 
 ないないさんのところからの帰り道は赤い満月が暗い夜道を照らした。景色がまるで赤いフィルターをかけた写真のようになる。世界が動くときには必ず赤色満月が出ている。これは偶然ではないだろう。雨が降った前後の赤い満月の夜には何かが起る。ジギ婆さんのころからずっと同じなのだ。
 
 もしかしてと思って窓から外を見ると、灯台の明かりが照らす海に大きな鮫が見えた。じっとこちらを見ている。あの目は何を語っているのか。帰りの時を知らせているのだろうか。わからない……もしかするとないないさんはあの鮫といっしょに帰ってきたのかもしれない。
 何かが足にぶつかったと思ったら、インクがくるぶしのあたりに身体を擦り寄せていた。彼らはいつも手が届きそうでいて、手を伸ばすとするりといなくなってしまう。
 灯台の下にボートがあるかもしれないと思い、急いで岩場を下りてみたけれど、そこには波が打ち寄せているだけだった。見送りのときにスロウさんがボートを使ったことを思い出した。ボート乗り場に戻したのかもしれない。すぐに鮫のいた場所に目を戻したけれど、そこにはピンク色に浮き上がる大きな波が打ち寄せるだけだった。
 振り返ると赤い月がとろけて落ちてしまいそうなほどに艶かしく輝いていた。まるで飴玉のように幻想的な色だった。まわりを取り巻く星たちも月の美しさを褒めそやすかのように、ひとつひとつがいつもの倍ぐらいの光を放ち赤色の祝宴を祝っている。赤の世界に極上の宝石が燦然と輝く時間は短かい。突然そのときはやってきて、まるでガラス細工が砕け落ちるように赤の世界は終焉を迎える。
 
 しばらく諦めきれずに海を見ていたけれど、二度と鮫をみつけることはなかった。鮫の現れる日に誰かが戻って、誰かが消える。今日はないないさんが現れた。別の誰かが消えたのかもしれないと思った。
 
 インクが大きなあくびをした。ドットトラウトがいようがいまいが、ミドリ鮫が現れようが消えようが、なんの問題もないと言っているようだ。何色の灯台だろうが気にする様子もない。それが彼の住む世界なのだから。
 
「インク、おまえはどこから来たのかな」
 
 首のあたりをさすってやると、いつもはつけてない赤いリボンが結ばれているのに気がついた。
 
「これはかわいいリボンをつけてもらったね」
 
 きれいに結び直してやると、野良猫とは思えない赤色の宴にふさわしい装いをした紳士に見えてきた。
 
「今夜はおめかしして月の宴にお出かけかな」
 
 上目遣いでこちらを見る目が、今日は特別の日だから盛装でいないとだめだよと言っているような気がした。
 
 
 次の満月の前には雨が降るだろうか。雨が降ればそのときこそ出迎えのミドリ鮫が現れるかもしれない。

第23話 消えなれ

 雨上がりの日にはいつも大きな虹がでる。それもきれいに半円を描かず、方向を見失ったように蛇行して天へと伸びていく虹だ。オーロラのカーテンのようではなく、地表近くをまるで大きな眼鏡橋のようにうねり、気象条件によっては立ち上がるように上にねじれて昇る。世にも稀なる自然のつくる芸術だ。この変わった虹もこの土地ならではの風物詩と言っていいだろう。
 
 島のあちらこちらに朝の支度をする煙が見える。長時間発酵のパンを食べて以来、エモカさんのところの煙を見るのが日課になっている。食べる食べないに関わらず、パンを焼いている煙を見るのは幸せな気分になるから不思議だ。
 リブロールの煙突からも薄い煙が出ていた。ミリルさんが掃除用にお湯でも湧かしているのだろう。家々から立ち昇る朝の白煙は、一日の始まりをみんなであわせているようで楽しいひとときだ。
 
 この灯台にも古いストーブがひとつある。これが冬になると出番を待ちかねたように活躍する。鉄でできた四角いだけの無骨なストーブだけれど、ミドリ鮫漁のころの昔から灯台守の孤高の生活をずっと支えきた頼もしい友だ。その気になればオーブンとしても使えるようだけれど、これといった料理もしないので残念ながらその機会は少ない。古いホーローのヤカンが天板でお湯を温めている。
 
 ないないさんはもう起きただろうか。まずはミリルさんに薬草のお願いをしにいかないといけない。もともとないないさんと親しくしていたのはミリルさんだから、きっと戻って来たと聞けば大喜びするにちがいない。ミリルさんお手製の美味しいスープでも届けてあげればきっとすぐに元気になる。
 ないないさんの家の方を見てみた。まだ煙があがってないところをみるとすっかり寝込んでいるのだろう。体調をおかしくすることはないにしても、移動の疲れを取るにはそれなりの時間がかかる。
 
 日課にしている灯台の朝の掃除を終えてリブロールに行くと、ちょうどミリルさんが店内に吹き込んだ落ち葉を掃き出しているところだった。秋の枯れ葉はリブロールを埋め尽くしてしまうほど多く、これも自然を楽しむ流儀だとは思うもの、掃除する人のことを考えるとやはり大変だ。
 
「ミリルさん、いいニュースですよ」
 
「え、光る魚釣れてしまいました? 大きかったんですか」
 
「あ、いや、そっちではなく……もっとびっくりするニュースが」
 
「えーなんですか。もったいぶらないで教えてください」
 
「あのないないさんが戻ってきましたよ」
 
「え、今どこに?」
 
 もうすぐにでも会いに走り出して行きそうな勢いだったので、事情を説明して準備ができたらいっしょに行くということでなんとかはやる気持ちをなだめた。
 
「何も変わりはなかったですか」鍋の用意をしながらミリルさんが聞くので、「外見には変わりはなかったですね。というよりいなくなったときのままでしたよ」と見たままに答えた。
 
「ここに来られたときと同じということを言われてます?」
 
「もしかしたらそうかもしれない」
 
「同じ服のままということです? まさか誰も気がつかないところで意識不明のまま数ヶ月たったと言われてないですよね」
 
「うーん、そんな気がしないでも……」
 
「オルターさんたらまた変なことを。きっと内緒で遊んでたんですよ」
 
 ミリルさんに私の言っていることの真意がわかるはずもない。それはいつかないないさんの口から説明される日を待つしかないのかもしれない。
 
「ちょうど新鮮な牡蠣が手に入ったので、これでスープでもつくりましょうか」
 
「ああそれはいい。あの牡蠣があれば薬草もいらないかもしれない」
 
 誰が養殖したわけでもなく、牡蠣は島の周辺の岩場に自然のままに繁殖している。緑豊かな島の滋養をたっぷり取り込んで、これから旬になる牡蠣もこの島の風物だろう。インクも実はこの牡蠣が好きでこの島に住み着いたのかもしれない。
 
 しばらく薬草を入れた鍋の煮えるのを見ていたミリルさんが、突然思い立ったように「やっぱりないないさんのところに行ってきます」と言うなり一人戸口の方に向かって歩きだした。
どうしても会いたい気持ちを抑えられなかったようだ。
 
「料理もあるし、こちらに来てもらいましょうね。ちょっとお鍋を見ていてください」と振り返ってひとこと言うと楽しそうに走って行ってしまった。
 
 ミリルさんはほんとうにないないさんのこととを大切な友達と思っているのだろう。居ても立っても居られない気持ちもわからなくもない。ないないさんのような遠慮がちな人を見るとミリルさんのお世話魂が黙っていられなくなるのだ。
 
 薬草を煮詰める鍋の水がなくなってきたころにミリルさんが戻ってきた。
 
「もう、起きてましたか」
 
「オルターさん、ないないさんとはどこで会いました?」
 
「あれ、何も言ってなかったですか?」
 
「ないないさん、どこに行ってもいないんですけど」
 
「しまった……」
 
 また、何も聞けないままに行方知れずになってしまったかもしれない。
 

第24話 漂流するヨット

 結局この日はみんなでないないさんを探して回ることになった。考えられる限りのところを当たって、出会った人にはだれかれ構わず聞いた。それでもないないさんの消息はまったくつかめず、また私の夢だったのではないかという疑念だけがみんなの中に残った。だれも口に出しては言わないものの、こちらを見る目を見ればわかる。
 ちょっと気まずい雰囲気になってしまったので、言い訳しても仕方ないと思い、気分を変えるために思いつきで次に出す新聞の話をしてみた。ないないさんがまた別の世界に行ったのであれば、すぐに帰って来ることはないだろうというあきらめに似た気持ちもあった。一方で、そうしているうちに、またふらりとないないさんが現れるかもしれないという淡い期待もあったかもしれない。

 ないないさんのことは気になるものの、それを新聞に書くのはさすがに気が引けた。今一番気になることではあるけど、人が突然消えてしまうのではいくらなんでもいい印象は持たれないだろう。かといって、幻の光る魚というのも、書くなら釣れてからの話であってまだ記事にするには早い。
 結局、ミリルさんの意見もあって、キャンドール灯台のことを紹介するのが一番いいということになった。ノーキョさんのロウソクもできたことだし、船長も船いっぱい持ち帰ると言うに違いない。ハロウさんたちの朝市に並ぶのが目に浮かぶようだ。この島に定期的に来ても、水の補給以外に船長の収入につながることもないだろうから、島の名産品として持ち帰ってもらうのも悪い話ではない。
 しかしよくよく考えてみると、ここでつくった新聞やロウソクは現実世界に届くかどうかの方が気になる。意識が覚めて出島に戻った後に、はたしてこの新聞を手にすることができるのだろうか。あくまでもこちらの意識世界の話しであって、現実世界のほうには届かないようにも思える。もし、向こうで手にすることができたら……何がどうなっているのか……それはまたそのときになってみないとわからない。今は余計なことは考えないことにしよう。

 久しぶりに書き始めると、書きたいことがたくさんあって、短い文章にまとめようとするとなかなか思うようにはいかない。ロウソクのことをどう説明するかも意外にむずかしい。
 まだ実際の使い心地を試してないことに気づいて、試しに火を灯してみた。思ったよりも炎が大きい。その分早くなくなってしまうのではないかと思ったけれども、これがなかなか短くならない。シロノキの蝋はとても長持ちするいいロウソクになるのかもしれない。よくよく見ていると、溶けて流れ落ちる蝋もほとんどないし煙もでない。普通のロウソクよりも蝋の燃焼効率がいいのだろうか。もしかすると、芯の素材もいろいろ考えられているのかもしれない。風が吹いても消えそうにないから、なかなか実用性があるものに仕上がっているようだ。
 長持ちロウソクだということをノーキョさんに教えてあげるときっと喜ぶだろう。でも、もともとそういうロウソクにしたんですよと言われるかもしれない。ノーキョさんのことだからいろいろ実験してこの蝋にしたのだろう。何も考えてないのはこちらだけという話になってしまいそうだ。

「長いと言えばエモカさんの長時間発酵のパンも長いですね」とミリルさんが言った。

 言われてみればあの酵母も発酵に時間がかかる。島の時間は壊れた時計と同じですべてが長い。すべての時間が長い島という話は、メーンランドの人たちにも興味をもたれるかもしれない。時間に追われて生活している人たちにとっては夢のような話だろう。

 新聞をウォーターランドの長持ちロウソクという内容で書き終えて、また消えてしまったないないさんの行方のことを話していると、コピが息を切らして飛び込んで来た。

「じっじ、船が来た!」

「あれ、船長? 今回はいつもよりちょっと早いな?」

「ううん、小さなお船」

「え? 船長の船じゃなくて?」

 島に船が来るなんて何年ぶりのことだろう。この前来たのがスロウさんだったから、かなり前の話になる。スロウさんは手製の船で海上暮らしをしていて嵐の日にたまたまこの島に流れ着いてしまったという話だった。島に来る人は偶然で来るだけで、この島にいつでも来られる人は船長以外にはいないと言ってもいい。

「あ、もしかしてないないさんかもしれないですよ」とミリルさんが言うと、「こっちこっち」と言いながらコピが灯台の方に向かって駆け出した。

 ミリルさんと、ないないさんだといいねと話しながら後を追った。

先に着いたコピが「あそこ、あそこ」と大きな声あげた。

「あ、ほんとだ。あれヨットじゃないですか」ミリルさんはすぐに見つけて言った。年寄りの目には海面のきらめきばかりがまぶしくてなかなかわからない。

 波のきらめきでよく見えないので、展望のデッキからなら見えるかもしれないと思い上がってみることにした。

「オルターさんわかります? この方向ですよ」ミリルさんが下で指差してくれた。

 言われてみるとヨットなのかなあと思うぐらいではっきりしない。

「望遠鏡!」と言うと、コピはリブロールにおいてある単眼鏡を取りに走って行った。

 灯台の上からは島が一望でき、コピの走っていく姿がジオラマのように見える。ここからの景色は島民の生活がひと目でわかり、まるで島の物語を時間に合わせて読んでいるように思える。それはこの島の生活そのものが小説なんじゃないかと思う瞬間でもある。本を読む人なら一度は経験したことがある、自分自身が物語の中にはいってしまうような感覚に近いかもしれない。
 そんなことを考えていると、もし今いるところが意識世界なのだとしたら、小説の中に入り込むのと同じことを実際に体験しているのかもしれないと思った。

 久しぶりに展望デッキに上がってみると、昨日の雨もあってレンズはひどく汚れてくすんでいた。灯台としての用をなしていないように見えた。よく見えない船の話はそっちのけで、すっかり忘れていたレンズ磨きのほうが気にかかってしまった。

「ミリルさん、掃除道具お願いしていい?」ロープのついたバケツを下に下ろして頼んだ。

「今、やります?」

「そうそう、だってあれがヨットならきれいにしないと」

 ミリルさんに掃除道具をまとめてあげてもらった。

「オルターさん、やっぱりあれはヨットですよ。ないないさん、どこでヨットなんか」

 もし、ないないさんであれば、なおさら掃除を急がないといけない。なにかの手違いで沖に流されてしまったのかもしれない。磨く手のにも自然と力が入る。すぐにミリルさんも上がって来ていっしょに手伝ってくれた。

「じっじ」下からコピの声が聞こえた。コピは子供なので急な階段は登ってこない。掃除の続きをミリルさんにお願いして下に降りた。

「どれどれ……」

 心の中でないないさんの元気な顔が見えることを期待していた。もし、ないないさんでないなら、正直ミドリ鮫でもドットトラウトでもよかったかもしれない。とにかく現実世界と繋がりそうなものならなんでもよかった。

「帆が見えるのかな……」

 遠くを見ると視界が狭くなるのでなかなかみつけるのがむずかしい。コピが前に立って方向を教えてくれるけど、思うように単眼鏡で覗く円の中に入ってくれない。

「水平線のちかくを見るといいかもしれないですよ」上でレンズを磨いているミリルさんの声が聞こえた。

 水平線に会わせて左右になめるように見ていると何度目かにやっと視界に入った。

「あー、あれは……たしかにヨットかもしれない」

「え、ヨットですよね」

「ヨットか……人が見えないから大きさがよくわからないけど帆はあがってるからヨットだよね」

「じっじ、お船見えてよかった!」コピがうれしそうに顔を左右に動かしている。

「オルターさん、あれ誰が見てもヨットですよ」レンズを磨いているミリルさんは早く戻って手伝ってほしいとでも言いたげだ。

「どのぐらいの距離があるのかな。こっちに向かっているかどうかだな……」

 昔、遠くに見えた船が結局は島に来ないままに何度も見送ったのを思い出した。とにかくこの島は見えてから来るまでにとんでもなく時間がかかる。それも今だに理由はわからないまま。船長の船に乗った今でもわからないのだからどうにもならない。やっと見えたヨットがこの島を目指しているとしても、まだしばらく島に着くことはないだろう。

「オルターさん、掃除終わっちゃいますよ。これだけは人にまかせられないんじゃなかったんですか」

 そうだった。レンズ磨きは灯台を守る灯台守だけの仕事だった。ミリルさんが掃除をしたのでは灯台を守っているプライドもなにもあったものじゃない。

「最後の仕上げはやるから、そこまででいいですよ」

「えっと、もう終わりますけど……」


 灯火台の油差しも終って、一向に近づく気配もないヨットのほうを3人でしばらく眺めていた。

「オルターさん、あのヨットぜんぜん人が見えないですけど変じゃないですか」単眼鏡を覗いていたミリルさんが言った。

「中で寝てるのかな」

「そうであればいいですけど、そういう時は帆を出しておくんですか?」

「人のみえないヨット」コピがミリルさんの言ったことを復唱するように言った。

「なんだか幽霊船みたい」

 それがあのタークさんのヨットだと気づいたのは翌日だった。

第25話 救護に

 翌日もからりと晴れた晴天だった。単眼鏡を覗くとヨットはほとんど同じ場所に見えた。いつもと同じで、いつまで立ってもこのシムに近づく気配はない。もしかしたら遠ざかっているのかもしれないとさえ思ってしまう。
 
 凸レンズと乙レンズの関係はよくわからないけど、島のまわりを何かそういうものが囲っているのではないかと考えたこともある。今度、船長がきた時にレンズの本をなにか適当に探してきてもらうことにしよう。うまくすると水の本のようにいろいろな疑問が晴れるかもしれない。
 
「ほんとうに漂流してるんですか?」めずらしく朝から資料整理に来ていたノーキョさんが言った
 
「まちがいないですよね。人が見えないのは倒れているからですよね」ミリルさんがこちらに同意を求めるように言った。
 
「ヨットだけどこかから流れて来たというのではないのかなあ?」
 
「帆をあげたままで漂流するヨットなんてないでしょうね」自分で言いながら、やはりあれはタークさんが遭難しているんだという思いを強くした。
 
「あやまってヨットから落ちたんでしょうか」
 
 ミリルさんの言うことも考えられなくないが、あれがタークさんのヨットだとするならヨットの中で倒れていると思ったほうがつじつまが合う。
 
「ちょっと近くまでボートを出してみましょうか」ノーキョさんが開いていた本を閉じて言った。
 
 船長の船も肉眼で見えてから船がつくまでには時間がかかる。もし、それと同じであればとても手漕ぎのボートで行ける距離ではないような気がした。
 
「まあ、見えている距離感と実際の距離はずいぶん違うんですけどね」ノーキョさんはこちらの気持ちを察したように言葉を続けた。
 
「それでも行きます?」
 
「もし、人が乗っていたらほっとけないですし、とにかく行けるところまで」
 
「あまり沖に出ると潮の流れも早いでしょうから無理しないほうがよくないですか」ミリルさんもさすがに心配なようだ。
 
「あ、そんなに無理するつもりはないですから、だいじょうぶですよ」いつもと同じ笑顔にちょっと安心した。
 
 その後すぐに簡単な身支度をして、いっしょに行くというのを聞かないでボートに乗り込むと行ってしまった。ノーキョさんは、ちょっとした荷物もあるので島のボートだと二人だと無理だというようなことを言った。なにか考えがあるのかもしれない。
 
「ノーキョさん、ロープや非常食まで持って、あれは軽装備っていうんですか?」
 
「海のことはよくわからないけど、陸とは違うからね」
 
 現実世界で起こったことは、タークさんは無事この島にたどり着いたのちに体力を回復してスラントンケープまで元気にたどり着いた。そうだとすれば何も心配することはないのかもしれない。もしノーキョさんが連れて帰れなくても、潮に流されて島に打ち寄せられるのだろう。
 
「こういうときにスロウさんがいればよかったかも」ミリルさんがポツリとつぶやいた。
 
「ほんとですよね。スロウさんならエンジンつきのボートだからすぐに助けられた……」
 
 そうか、現実世界ではノーキョさんでなくスロウさんが助けに行ったんだ。だとすると……。
 
「ミリルさん、ノーキョさんを追いかけましょう」
 
「え?」
 
 理由も言わないでボートの向かった方向にある灯台を目指して走った。途中コピに会って、三人で灯台のある高台に向かった。
 
「ボート、ボート!」海の上に浮かぶノーキョさんをみつけたコピが叫んだ。
 
「ノーキョさーん! 危ないから気をつけてくださいよー!」声の限り叫んだ。横でミリルさんが驚いた顔をしてコピと顔を見合わせている。
 
「あ、聞こえたみたいですね。手を降ってますよ」
 
「ボートー! 」コピもいっしょになって叫んでいる。
 
 ノーキョさんの向かう先には小さな点のように見えるヨットがある。
 
 こちらから見える海の先は虫眼鏡のレンズを通して見ているようなもので、すべて拡大されて見える。それでも、点ほどにしか見えないのだから、丸1日漕いでも辿り着かない可能性だってある。そう考えると、ノーキョさんが軽装備と言ったのも間違いではなかったかもしれない。もっと重装備をした方がいいというべきだったと後悔の念で頭がいっぱいになった。
 
 結局、夜遅くまで待っていてもノーキョさんは帰ってこなかった。灯台のレンズを磨いたからきっと島を見失うことはないですよねとミリルさんが不安な気持ちを振り払うように言った。明日の朝にはきっと何事もなかったように元気な顔で帰ってくると自分に言い聞かせた。
 幸い夕方になっても雲一つない晴天だった。満天の星たちがノーキョさんを助けてくれるだろう。この島を見失うことはないはずだ。それだけが救いだった。

第26話 もぐらの話

 それからしばらくの間も、いつになく凪いだ静かな日が続いた。ノーキョさんのボートはいつまでも視界から消えることなく、島とヨットを結ぶ線の上にじっと止まったままで、まるで静止画のようだった。ノーキョさんの姿が見えている限りは命に別状はないということだと話ながらヨットとボートが重なるときを待った。
 トラピさんとナミナさんがメーンランドに興行に行って、次にスロウさんがメーンランドに渡って、ないないさんがまた行方不明になって、今度はノーキョさんが島から出て行ってしまった。ユーヨアさんもこのところ見かけない。誰かが現れないまま、次々に島から人がいなくなるのはなんとも寂しい心持ちになる。それが秋の訪れに重なるからなおさらだ。
 
「オルターさん、ロウソクをたくさん並べてみませんか?」突然ミリルさんが言った。ノーキョさんが島を見失わないようにという思いから言っているということにしばらく気がつかなかった。
 
「でも、灯台もあるし……」
 
「そうですよね」と言うと力なく肩を落とした。
 
 リブロールにじっとしていてもなにもできることもないので、ネモネさんの温泉にでも行ってみてはどうかと薦めると、そうですよねと答えると放心したような足取りでリブロールを出て行った。ミリルさんもみんながいなくなっていくのが寂しいのだろう。
 
 一人店にいても来る人もなさそうなので、本を持ってエバンヌの近くにある森の紅葉でも見に行くことにした。
 
 森にはノルシーさんが切り株と倒木をつかってつくったベンチが置いてある。雨ざらしなので苔が生して一見ベンチに見えないけど、座るところだけはみんなのおかげでいつもつるつるに磨かれている。一番磨いているのは休憩時間に座っているノルシーさんだろう。もともとノルシーさんはこの小さな雑木林の美しさに惹かれてエバンヌを作ったぐらいだからこの場所に対する思い入れも人一倍だ。
 ここの池はわき水なので、その流れがチャルド川となって海に流れ込む。島の周辺は汽水域だけどこのわき水はほぼ真水に近い。それを知っているいろいろな生き物が水を求めてここに集う。
 
 ベンチの横に目をやると島モグラの穴があった。島モグラも飲み水をもらいに来ているのだろうか。彼らは用心深い性質なので人の歩く気配があると顔も見せない。知らない人は枯れ葉や草に隠れた5センチほどの小さな穴は見逃してしまう。
 ここは島モグラとの根比べと思って、息をひそめてじっと見ていると、土を掻き出しているのか、ときどき穴から小さな土の固まりが投げ出される。30分ぐらいたったとき、仕事に熱中するあまり油断してしまったのか、穴からときどきしっぽを見せるようになった。その後一度穴に入ってしまったと思ったら、今度はひょっこりと顔をだして鼻を拭うような仕草をした。
 
 すぐにこちらに気づいて、「あっと、みつかった」と言った。というかそう言ったような気がした。
 
「だいじょうぶだよ。つかまえたりしないから」と言うと、「人間は信じるなって言い伝えもあるしな」と言いながら疑り深そうな目をしてこちらを見た。
 
「悪い人間もいるかもしれないけど、私は違うよ。この島は人間だけの物ではないし」と言うと、にわかには信じられない話だとでも言いたげに「そういうことにしておこう」と答えた。そして、すぐにまたもぞもぞと方向を変えて穴の中に消えていった。
 もぐらがしゃべるわけはないと思いながらも、犬と話せるという人もいるし、仮に話せないにしても何か通じることもあるのかもしれないと思った。
 
 また出てこないかと穴を見ていると、その横に人が立っているのに気がついた。顔をあげるとすぐ目の前にネモネさんがいた。
 
「オルターさん、何をされているんですか?」
 
「あ、動かないで。そこに島モグラが……」
 
「さっき顔を出しましたね。かわいいモグちゃん」
 
 まったく気がつかなかったけど、ネモネさんもいっしょに見ていたようだ。横でカバのミームが興味なしという顔で大きなあくびをしている。これだけの観衆がいる中で島モグラが出て来たのはちょっと驚きだった。よほど穴掘りに夢中になっていたのだろう。冬支度でもしているのだろうか。
 
「島モグラを見たのははじめてですか?」
 
「何度かありますけど、物音を立てるとすぐに逃げてしまいますよね。モグラって目が見えないと言いますけど音には敏感みたいで」
 
 ネモネさんも島モグラの用心深さは知っているようだ。短い滞在期間に水をさがしながら島のいろいろなものを見てきたのだろう。
 
「そう言いますね。だとしたら、こちらを見るなんてこと自体があり得ないのか……」
 
「その分、耳とか鼻がいいんじゃないでしょうか?」
 
「髭がアンテナになっていたりするのかな。空気の振動でわかるとか」
 
「それもあるかもしれないですよね。音だって空気の振動ですものね」そういいながらミームの頭をよしよししている。ミームは鼻で水を嗅ぎ分けるのだろうか。こちらに見られているのがわかったのか、ふんと勢いよく鼻息を鳴らした。
 
「さっきね、人間は信用できないって言うから……」
 
「もうモグちゃんと友達になってしまわれたんですね。さすがオルターさん」と言いながらネモネさんがにっこりとほほえんだ。
 
「さすがというか、向こうが勝手に話しただけなんですけどね……ミームとも話したりします?」
 
「いつも話していますよ。この子の気持ちはなんでもわかります。ご機嫌がいいとか悪いとか。こう見えてもなかなかわがままなんですよ。ね、ミーム」
 
「話していてもまわりには聞こえないだけなんだろうね」
 
「聞こえるかどうかはその人次第なんでしょうね。仲良くなればいろんな動物たちとも話せるな気がします」
 
 すると、行ってしまったとばかり思っていた島モグラが穴からぴょこんと顔をのぞかせた。
 
「聞こうと思えば聞こえるのさ」とひとこと言うと、こちらを恐れる様子もなく、またヒゲの泥を拭いはじめた。終るとすぐにでんぐり返しをして、ばたばたと手足を動かしながら忙しそうに穴の中に戻って行った。
 
「大きいから働き者のお父さんモグラですね。何か言ってましたか」とネモネさんが楽しそうに聞くので、島モグラが言ったとおりのことを話した。
 
「モグラのお父さんもなかなか哲学的なことを言いますね」
 
 哲学的という意味もよくわからなかったけれど、そもそもモグラに教えられることがあるのだろうか。見ると、ネモネさんは地面にしゃがみ、ミームと顔の高さを合わせて楽しそうに話しはじめた。ミームのしっぽがぷるぷる動いているのをはじめて見た。
 この島にいると、動物だけでなく、草木の歌声もよく聞こえてくる。幻聴の類ではなく、きっと自然に近づけば近づくほど彼らの声が聞こえてくるのだ。耳を傾けさえすれば、すべての生き物の言葉は心に届くということなのだろう。
 
「オルターさん、ミリルさんに聞きましたよ」
 
「あ、ヨットのことですか」
 
「ノーキョさんは一人で行ってしまったんですか」
 
「そうそう、モグラと話している場合じゃないですよね。灯台のところからはずっと見えているんですけど」
 
 自分で言いながら蜃気楼のような話だなと思った。ノイヤール湖で陽炎のように見えたコピの姿も思い出した。モグラの話といい、地平線の彼方にいつまでも見える船といい、この島とノイヤール湖の自然はほんとうに不自然なことでいっぱいだ。
 
「もしかしてノーキョさんプロペラを持っていました?」
 
「プロペラ?」ネモネさんが何を言っているのかわからなかった。
 
「もしかしてスロウさんと作っていたプロペラができたのかなって思ったんですけど」
 
「それはもしかして、スクリューのこと?」
 
「あ、そうか、船だとスクリューですね。そうでした」恥ずかしそうに笑った。
 
 ノーキョさんはスクリューを積み込んでいたとすると、モーターかエンジンのようなものでも作ったのだろうか。それを使って助けようと言うことなのだろうか。
 

第27話 おいしい世界 **

 ネモネもさんもノーキョさんのことが心配だというので、二人で灯台に戻ることにした。
 
「あんな遠くに……」ネモネさんがとても信じられないとでもいうように言った。
 
「ノーキョさんって、海には出ない人だと思ってたからびっくりですよ。人一倍、正義感が強いというか、やさしいひとだから、だまって見ていられなかったんでしょうね。この島にはいなくてはならない人だし、なんとしても戻って来てくれないとね」
 
 なんだか変なことを言ってしまった。戻らないわけないはずなのに。
 
「きっとあのスクリューが役立ちますよ」ネモネさんがノーキョさんの力を信じているというように言った。
 
 ロウソクをつくりにノーキョさんのところを訪ねたときに、スクリューのようなものがあったかどうか記憶をたどってみたけれど、それらしいものが思い出せない。
 スクリューは動力がないと回らないから、それを持って行くというのもイメージしにくい。手回しスクリューのようなものでも発明したのかと考えてみたけど、想像すればするほどオールで漕いだほうが理にかなっているような気がする。そうなると、ノーキョさんは何か動力になるものを考えついたということだろうか。
 動力、動力……水力、火力、風力……いずれにしても電気を起さないと何もはじまらない。エンジンならガソリンとかオイルがなければただの鉄の塊でしかない。エンジンを動かす燃料が島で手にはいるとは考えにくいので、やはり水力や風力で電気を起こす方法でも考えついたのだろうか。それなら理科の先生のノーキョさんであればできてしまいそうな気もする。
 灯台の電気はいつの頃からか水力を使った小さな機械で電気を起こすようになっている。 それほど大きな機械でもないので、一晩中照らし続けられるのが不思議なぐらいだけれど、波はどんな時も止まることはないから、有り余るほどの電力をつくれるということなのかもしれない。きっと海がある限り発電し続けるのだろう。
 
 そのときふと思い浮かんだのが、どこかにいるはずのドットトラウトがたくさん集まったら、彼らから電気をもらうことはできないのだろうかということ。電気うなぎだって本当に電気を出しているらしいから、それができればちょっと楽しいことになりそうだ。ただそうなるとせっかくこの島ならではのお土産としてつくったローソクが喜ばれなくなるかもしれない。なかなかすべてうまくというわけにはいかないものだ。
 
「そうだ、おいしい水なんですけど、どうも南のほうの海から湧き出ているようなんですよ」海をじっと見ていたネモネさんが唐突に言った。
 
「半島の森のほうということ」
 
「たぶん。それも海の中なんじゃないかって話をしていたんです」
 
「へえ、それは考えてもみなかったなあ。海の中で湧き出ているとしたら、相当薄まっているということですよね」自分で言いながらばかなことを言っていると思った。
 
「どうなんでしょう。薄まっているのか、海全部がおいしい水になっているのか」
 
 ネモネさんが言うように海までおいしい水なら、まるで海そのものがわき出しているようだと思った。この島が、いやこの世界がおいしい水の中に浮かんでいるということだ。おいしい水は楽しくなる水、まるで楽園そのもののような話に聞こえる。そんな水に浮かんでいるボートであれば命を落とすようなことはないと思えてくる。ネモネさんはそれを言いたかったとでも言うように穏やかな顔で静かに海を見ている。
 
 
***** ノート *****
 
このノートを見るかもしれないあなたにお願いしたいことがあります。この島には中世の昔から光る魚が住んでいて、彼らがまるで光り輝く銀河のように世界を照らします。一度でも目にすればそのあまりの美しさに目を奪われることでしょう。もし、この島と時空を超えてつながるオールドリアヌを訪ねる機会があったなら、ノイヤールという湖を訪ねてみてください。そこには信じられないぐらいの数の光る魚がいて、湖底から湧き上がるように湖面を目指します。お願いはそのドットトラウトからなんらかの力をもらうことはできないかということ。もしそれができるなら、この島はドットトラウトの光を通じて未知の自然世界とひとつになれるような気がします。そしてこの島とオールドリアヌもまたひとつになれそうに思えるのです。この世界はきっとおいしい水に浮かんでいて、その水をドットトラウトが光とともにすべての世界に運んで行くのです。オールドリアヌとウォーターランドは遠くて近い関係です。目を閉じさえすればいつでもこのウォーターランドに来ることはできるのです。そして夢から目覚めた時にはドットトラウトの眩しい光に包まれていることでしょう。
 
***** ノート ******
 
 ネモネさんが帰ったあと、将来見るだろうだれかに向けてノートを書いていた。こんなことでもノートに書いていると、不思議と気持ちが落ち着いてくる。現実世界でも意識世界でも、オールドリアヌでもウォーターランドでも、そんなことはどうでもよくなってしまう。それぞれの世界が繋がっているということに意識が向かうからだろう。いや、もっとたくさんの世界とつながっているのかもしれない。
 そして、それがドットトラウトのつくる光の連なりであったとしたらどんなに楽しいだろう。それらの世界をつないでいるのがあの六界錐だと思えば、ジノ婆さんの言っていたこともなんとなくつじつまが合うようにも思える。あの虹のように輝く石もほんとうはそこにあったものなのかもしれない。

第28話 自分の手紙

 みんなの心配をよそに、その翌日も、そのさらに翌日も、3日目も、そして一週間後もノーキョさんのボートとヨットは重なることはなかった。窓から見えるボートとヨットはまるで景色に取り込まれてしまったように、位置も変えずに同じところに止まり続けた。
 
 5日めをすぎたころからは何も手に着かなくなって、ぼんやりと窓の外を見ていることが多くなった。今朝も一度はリブロールに行ったものの、どうしてもヨットのことが頭からはなれず、ミリルさんに頼んで、すぐ灯台に戻って来てしまった。
 いくらながめても海に映る雲が流れるばかりで、広い海に消える物も現れる物も何もなかった。船長が来るのもまだしばらく日にちがある。
 
 流れる雲をぼんやりと見ているとき、赤い鳥が北の方から飛んで来て青空を横切った。それは赤い服を着せられたハトポステルの鳩だった。到着を知らせるように灯台の周囲を何回か旋回したあと中央広場のほうに向かって方向を変えた。誰かから手紙が届いたのだ。
 
 ほどなくコピが手紙が来たと言いながらいつものように駆け込んで来た。
 
「ハトの手紙来た!」よほど急いだのか、いつになく息を切らしている。
 
「コピよくわかったね」
 
「ハトが呼んでくれた」
 
「そうか、コピには聞こえるんだね」と言うと、うれしそうにうんうんと首を振っている。
 
 この前、島モグラの声が聞こえたように、きっとコピの耳にはいろんな動物の声が聞こえているのだろう。いつの頃からかコピが島に詳しいのはそのせいではないかと思うようになっていた。
 
「どれどれ」眼鏡をかけて、丸まっているレターロールを広げてみた。
 
 そこにはノートの主がノートを買った店を見つけたと書かれていた。予想していた通りだった。それは間違いなく自分で書いた手紙だった。
 
 しばらくしてミリルさんも灯台にやってきた。
 
「オルターさん、見られました? スロウさん大発見ですね」
 
「ええ、驚きました」一応こちらの世界に話をあわせた。というより手紙が来たことで、また自分の拠り所がどこなのかわからなくなっていたから、ほかに言えることを思いつかなかった。
 
「急にまたノートが気になって」
 
 ミリルさんはスロウさんが書いたと思い込んでいる。そのほうがまだ救われる。事の次第をわかっている自分には、今頃この手紙が届くことの不思議さを感じずにはいられないし、時間と空間のねじれにただただ唖然とするばかりだ。現実と意識世界の境界を超えて来る手紙が今手元にあることに目眩すら覚える。
 
 ミリルさんが早速引き出しからノート氏の書いたノートの写しを出した。底板の下にあるもうひとつのノートに気がつかないかちょっと冷や冷やした。あれは、この世界の人がまだ見てはいけないものだ。現実世界の人でないとまたこちらの精神を疑われることになりかねない。
 
「これがそんな昔のノートだったんですね」ミリルさんもいつになく熱心にノートを見ている。
 
「でも、全部写しだから、現物ではないですよ。ぼろぼろの表紙だけは当時のもののようですが」
 
「どうして写しだってわかるんですか?」
 
「あ、自分で書き直したのも多いし、譲ってくれた人も書き直したと言ったと聞きました」
 
「そうなんですか。インクの色は似ているのに、ちょっと残念」そう言いながらも一枚、一枚確かめるようにめくっている。
 
「昔のものには透かしが入っていたそうですね」ハロウさんに教えてもらったことを思い出して説明した。この意識世界に思いがけず来てしまったおかげで、透かしのこともすっかりわすれてしまっていた。前に現物のノートではないと一度諦めていたこともあったけれど、そもそもこの意識世界にあるノートが現実世界のノートと同じかどうかすら疑わしいという気持だったかもしれない。
 
「透かしってなあに」コピが不思議そうに聞いた。
 
「紙を日にかざすと模様が隠れててね。ちょっとしたあぶり出しのように見えるんだよ」
 
「ノーキョさんの紙には入ってないですね」ミリルさんが言った。
 
「手間がかかる作業になるんだろうね」
 
 そう言いながら、二人は透かしの入った紙がないか時間にまかせてさがしはじめた。
 
「一枚でもあればいいけどね」正直、調べても無駄になるだろうと思った。
 
 そのあとは熱心にノートを見続けるコピを横に、話はノーキョさんのことに戻った。
 
「もう1週間になりますよね」ミリルさんが心配そうな顔をした。
 
 今更この3人でノーキョさんを助けに行くこともできない。
 
「食料が足りなくなってなければいいけど」
 
「コピがユリノキの実をたくさんあげた」ノートから目を離さないまま話だけは聞いていたようだ。
 
 それを聞いて少し安心した。ユリノキの実であれば、ノート氏も冬場の貴重な食料にしていたものだから日持ちもいいし非常食としては打ってつけだろう。あれを持っているならひとまず安心だ。飲み水のほうもスロウさんがアミメハスの濾過器を持つと言っていたから心配はない。あとは、天候が崩れないことを祈るだけだ。
 ヨットにたどりつきさえすれば、帰りはなんとでもなるだろう。手漕ぎのボートよりもヨットのほうがはるかにましなはずだ。たどりつきさえすればどうにかなると思いたい。それにネモネさんの言うスクリュウのようなものがあるならきっとだいじょうぶだ。
 
 一ヶ月がたつのは早い。もう少しするとまた赤い月の日がやってくる。次に赤い月が出た夜にこの島になにが起きるのだろうか。なにも起きない方がいいのか、起きたほうがいいのか自分でもよくわからなくなってしまう。ヨットのこともおいしい水のこともミドリ鮫も光る魚も虹も島モグラもなにもかもがわからない。複数の時空が重なれば重なるほどに時間の整合性が崩れ、結果として自分の居場所がなくなっていくように思えなくもない。
 
 少ししたときに、コピが小さく「あった」と声をあげて1枚の紙を上に差し上げた。それは植物の絵が書いてある1枚だった。
 
「透かしがあったの?」と言いながらミリルさんが覗き込んだ。
 
「オルターさん、コピちゃん見つけましたよ」驚いた顔をしてこちらを見た。コピのほうは特別のことをしたという風でもなく、もう次をさがしはじめている。
 
 そこには間違いなくハロウさんの言ったとおりの紋章の透かしが入っていた。それも鮫と魚が円のかたちに絡み合うような文様だったのだ。

第29話 夜の散歩

 その夜は、紋章のことが忘れられず、絵柄そのままにドットトラウトとミドリ鮫が頭の中をぐるぐると回り続けた。たまに消えたかと思うと、今度はノーキョさんのことが気にかかる。闇に紛れ込んでいるボートを探そうとすると、月の明かりに意識がとらわれる。ノーキョさんもあの月をみているかもしれないと思うと、まだつながっているという気持ちでいられる。向こうから灯台の明かりは見えているのだろうか。
 月を見ていると今まで気にもしなかった、月が右側から満ち欠けすることにも今更ながら気がついた。もう少しすると欠けた半月が膨らんで満月となる。せめて月が明るいうちに戻って来られることを祈るばかりだ。
 灯台から広大な海と無数の星々を眺めると、いつも宇宙のことを考えてしまう。地球の自転と公転が月の満ち欠けや季節をつくり、それらがいつからか暦となって人の生活のサイクルとなってきたと思うと、宇宙の偉大な規則と人間一人との関係はいったいどこまでつながっているのだろうかと余計なことまで考えてしまう。月齢がノーキョさんたちの生還と関係したりすることもあったりするのだろうか。
 宇宙が回っていなければ、時間という概念そのものもなかったのかもしれないから何かは関係しているはずだ。しばらく月を眺めていると陰になっている部分ががほんの少しずつ少なくなっているように感じる。時間が動いているというのはこういうことなのかもしれない。
 そうこうしているうちにまたミドリ鮫とドットトラウトが円を書くように回る紋章に意識が戻る。どうしても知りたいのは、なぜあの紋章の透かしになったのかということだ。当時、ミドリ鮫とドットトラウトは住民にとって何か特別の意味があったのだろうか。円を描いている図柄に宇宙の縮図を見ているような気がしないでもない。円の図柄は無限の周回や完全な均衡などを表しているようにも見える。
 
 夜になると一人でこんなことばかり考えているから、いつまでたっても眠れるはずもない。それこそユイローをたっぷり入れた湯舟にでも浸かって、夢の世界で朝まで心を鎮めていたい気分にもなる。ただ、それがこの世界との関係を一変させてしまうかもしれないことを知ってしまった今は、前の様に気楽に楽しむこともためらわれるようになってしまった。
 考え事をしているうちに、月は夜空に半円を描く時計の針のように回り、気がつくと半島の真上の一番高いところに見えるようになっていた。灯台から半島を見ると、入り江がちょうどその間になり、月の姿がそのまま海に映し出される。それはあたかも鏡に映ったもうひとつの世界のように見えなくもない。入り江に面したところにリブロールもあり、それは別の世界への入口のようでもある。
 
 ベッドに横になってぼんやりと時間を過ごしていると、またあの漆黒の闇の中に引き込まれてしまいそうな気分になってしまう。なにか気分を変えられる本がないかと思ってい書棚を眺めていたとき、ネモネさんの言っていたおいしい水の話を思い出した。ちょうどいい機会だと思い、おいしい水がわき出しているかもしれないという半島の南のほうまで真夜中の散歩をしてみることにした。誰も知らない深夜になにかが起きているのかもしれないという漠然とした予感もあった。
 
 
 ランタンを持って、足下を照らして周りの小さな変化に注意を払いながらゆっくりと歩いた。この島で真夜中に明かりを灯しているのはエバンヌぐらいだから新月の夜などは歩くのもままならないほどの暗闇になるのだけれど、幸い今日は満月も近いこともあって、ランタンすら必要ないほどに明るい。
 リブロールも月明かりが椅子やテーブルの陰をつくっていて、どこか幻想的なたたずまいを見せている。本棚の本も息をひそめて眠っているふりを装っているように見える。ただ、あれだけの活字と物語を飲込んだ本がほんとうに黙っていられるのだろうかと思ってみたりもする。一見そう見えるだけで、1冊1冊の本は人知れず言葉を紡いでいるのかもしれない。こうして月明かりに照らされるリブロールを見ると、それぞれの本に書かれた物語が夜の数だけ熟成を重ねているように感じられてくるからおもしろい。
 
 真っ暗だとばかり思っていたノーキョさんの店に近づいたときに、窓が淡い緑色に光っているのに気づいた。火の気はないだろうけど、ちょっと心配になったので用心のために中を確かめてみることにした。
 緑色の光は納屋の奥からのようだった。開けようとしたけど頑丈に鍵がかけられていて開かない。あのおおらかで開放的なノーキョさんにしてはめずらしいことだ。
 納屋から漏れ出ているほんの少しの光のお陰でお店全体が蛍を集めたように明るく浮かび上がっている。ローソクをつくりに来たときは気がつかなかったことを考えると、明るいときにはわからないほどのかすかな光なのかもしれない。扉の隙間から覗き込んでみたけれど、明るさのせいでそこになにがあるのかがわからない。火なら心配だけど、煙も出ていないようなので、火事の心配をするようなものではないのだろう。ノイヤール湖で見た光は黄金色だったからそれとも違うし、ドットトラウトの輝きとも違う。見たことのない何かがそこにあるのかもしれない。
 
 いつまでも人の家のことを詮索をしていても仕方がないので、また誰かに聞いてみることにして納屋を後にした。
 食堂も過ぎて半島を見下ろせる場所まで来た時、一瞬あのそら虫が見えたような気がした。火事の前の夜にもこんなことがあった。幻覚も度々あると、目がおかしいのではないかと、また余計なことを考えてしまう。こすってみても、青い光の乱舞は消えない。蜃気楼のようなものかと想像してみたりもするけど、彼らが何を答えてくれるはずもない。
 この心霊現象でも見ているのような曖昧な光は、記憶が勝手に映像を作って見せているだけなのだろうか。赤い灯台が白い灯台に重なるのと同じように過去のどこかの時間が透けて見えているのかもしれない。
 
 しばらく見ているうちに暗闇に目がなれてきて半島の先にボートが浮かんでいるのに気がついた。よくよく見ると船の横には海から頭を出している人の姿まで見える。こんな真夜中にだれがボートを出したのだろう。
 
「あ!」
 
 突然にあの日の記憶が蘇って、気がつくと半島の焼け跡を駆け下りていた。放火犯だ。踏みつけている新芽の心配をしている場合ではなかった。また目の前で放火をされたのではたまったものではない。それもみすみす取り逃がしたとなっては悔やんでも悔やみきれない。
 駆け下りる音に気がついたのか、ゴーグルに黒シャツ姿の男は慌ててボートに飛び乗り逃げ出そうとしている。
 
「おい、待ちなさい! 逃げても無駄だ」大きい声を上げると一瞬こちらを見て、また急いでボートを出そうとした。ボートは火事の翌日に見たようなスピードの出るものではなく、ウォーターランドのボートだった。
 目の前まで近づくと、男は観念したように、ボートの上に立つと網のようなものを持ったまま両手をあげて、「みつかったか」と言うと、ゴーグルを外しはじめた。どこかで聞いた覚えのある声だった。

第30話 密漁

「いい漁ができていたのに」
 
「え?」
 
「現行犯逮捕とはね。これが秘密の牡蠣」
 
「ノルシーさん? こんなところで獲ってたの? それもこんな時間に」
 
「密漁ってそんなもんじゃない?」
 
「密漁って……こっちは放火犯かと思ったから」安心したとたんに気が抜けてその場に座り込んでしまった。踏みつけてしまった新芽のことを思ってコピに申し訳なく思った。
 
「密漁は密漁でも、秘密の漁だからね。犯罪ではないからね」とノルシーさんはこちらを見下ろして笑った。
 
 秘密の漁を密漁というのだろうと思うけど、ノルシーさんが言うようにこの島で獲っていけないものはない。コークの卵のようにみんなが意識して守っているものはあるけど、それでも禁止されているわけではない。
 
「大人になっても秘密のひとつぐらいないと楽しくないでしょ」と独り言のように言うと、こちらに牡蠣の入った魚籠を預けてかじかんだ手に息を吹きかけた。
 
 こんな寒い朝に内緒で海に潜っていたとは知らなかった。いつまでも子供のようなところのある人だ。それがわかるとまたノルシーさんに今までとは違った親しみを感じてしまう。
 
「それ、ミリルさんに渡してあげて。この前のスープ、一人で食べちゃったからね」
 
「真夜中の寒中水泳で獲ってたって伝えるよ。これが特上の牡蠣なんだね」袋に入った牡蠣が濃い緑色に輝いて見えた。
 
「あの獲り方の話はいいから。まったく、秘密もなにもあったもんじゃないな」と言うと、ノルシーさんはタオルで身体を拭いて、服を着替えはじめた。
 
「これが、その先の海で捕れるってこと?」
 
「秘密の場所だったのに……まいったな。誰にも言わない?」よっぽど残念なのだろう。なかなか教えてくれそうにない。
 
「あのね、秘密基地じゃあないんだから」
 
「あ、それそれ秘密基地よ。これぞ男のロマン、じゃない?」
 
「牡蠣がロマンって……」
 
「だってね、その絶品牡蠣はここでしか捕れないんだからね、このヒカリモのある海底だけなんだから、これはもう男のロマンでしょ?」
 
「ロマンなのかな。ちょっとロマンにしてはサイズが小さい気がしないでもないけど……それで、ヒカリモってなんのこと」
 
「おっと、またロマンを漏らしてしまった。これはいかん」わざとらしく舌を出してみせた。
 
「で、なんなの?」
 
「今日はいつになく食いついてくるね。新聞には書かないでよ? ほんとに約束だからね」
 
「約束する」
 
「ほら、あのあたりの海をよく見て、なにか見えない? 緑に光ってるでしょ?」
 
「あ、ほんとだ。なんだろう……」
 
「あそこね、大きな穴が口を開けててね、そのあたりにヒカリモが群生してるのね。これ秘密だから絶対言わないでね」目の前まで顔を近づけてきて、念を押すように言った。
 
「昆布でも密集しているのかな」
 
「昆布じゃないけど。岩場にヒカリモが集まってて、そこの岩場でこの極上の牡蠣が獲れるわけですよ。このお牡蠣様がね」
 
「ヒカリモって、もしかして光る藻のこと?」
 
「うーん、藻と言っていいのかどうかはよくわからないけど。海藻の一種であることは間違いないと思うよ。食べたけど味はそこそこ。それが夜になると光を出して、それに誘われるようにして牡蠣が穴から出てくるってこと」
 
「牡蠣ってそんなに移動するもの?」
 
「うーん、それは彼らに聞いてみてもらわないと。すぐそばにばかでかい穴が口をあけてるから、そこから出てくるんじゃないのかな? なんだかね、にゅるっとした水もわき出しているような感じもするから」
 
「穴から牡蠣がね」
 
「そう、穴から牡蠣ね。棚からぼた餅みたいだな。でも、穴牡蠣って名前もいいかもね」
 
「穴牡蠣……」そう言いながら穴の中からぞろぞろとはい出してくる牡蠣を想像してみた。ちょっとありえない光景に思わず笑ってしまった。
 
「ふたりだけの秘密にしておく?」ノルシーさんがうれしそうに言った。
 
「あー、二人のね。じゃあ、海底基地でもつくります?」
 
「あ、それいいアイデアだね。そうなるとがんばってもう少し素潜りの練習しないとだめかもね」
 
 ノルシーさんも、いったいどこまで本気で言ってるのかわからない。ヒカリモを見ながら穴牡蠣をみつけたいきさつを聞いているうちに、どこかで見たことのある色だと思った。
 
「あれ……もしかして、あのヒカリモってノーキョさんのところにあったのと同じものなのかな。緑の色が似ているような気が……しないでもないな」
 
「なに、ノーキョさんまで知っていると? 秘密の賞味期限とはかくも短く儚いものか。こりゃもうだめかな」
 
「これってほんとうに秘密なの?」
 
「そう言われるとあれだな、秘密基地も必ずしも秘密でない場合もあるしね。でも、穴牡蠣のほうはまだ知らないかもしれないな」ノルシーさんはちょっと負け惜しみのように言った。
 
「ロマンも秘密もなかなか大変だね」
 
 そのあと、穴があるというところを教えてもらっているとき、行く筋かの光る線が海底を走ったのが見えた。
 
「あ、牡蠣が泳いでいる!」
 
「オルターさん、さすがの穴牡蠣さんもそんなにすばしっこいとまずいでしょ。あれは魚だよ」
 
「でも、光ってなかった?」
 
「ヒカリモの光でそう見えるんじゃないの。たまに見るけど」
 
 ノルシーさんにはそう思えるかもしれないけど、こちらはここがドットトラウトの住処に違いないという期待を強く抱きはじめていた。
 
「ここ、二人の秘密基地でいいね。今度ここで夜釣りをしてみることにしよう」心はすでにドットトラウトを釣り上げているイメージでいっぱいになっていた。
 
 話しているうちに、なんだかほんとうに二人だけの秘密ができたような楽しい気分になってしまった。空を見上げると月が西の空に輝き、西側の水平線が明るくなりはじめていた。満月の日まであと幾日だろうか。

第31話 海の穴

 ノルシーさんは戻ってシャワーを浴びると言うと、そのままボートで帰って行った。
 
 その後もひとりで、ヒカリモの光と波間にきらめく月明かりの織り成す幻想的な世界に目を奪われたまま時間の経つのも忘れて過ごした。気がつくと東の空が少し明るくなりはじめていた。教えてもらったあたりをよくよく見ていると少し黒くなっているのがわかった。朝焼けの光の加減で見えてくるのかもしれない。あそこが、ノルシーさんの言うところの大きな穴ということなのだろう。大きな穴なのか海溝のようなものなのかはよくわからないけど、見れば見るほどいかにもドットトラウトが潜んでいそうに思える。それどころかこれほどの大きさならばミドリ鮫も隠れているのではないかという期待までしてしまう。彼らがいっしょにいる光景を思い浮かべただけでも、浮き立つ心が抑えられなくなる。深海は彼らにとっては最適の住処になるはずだ。もしかしたら、あのノートの透かし紋章を考えた人もその光景をどこかで目の当たりにしたのではないだろうか。
 コノンさんのお祖父さんと釣りに出たときのことを考えると、夜明け近くが彼らの活動時間のはずだ。あのときは曇り空で星ひとつ見えなかった。昨晩のような月明かりのある日はどうなのだろう。お祖父さんはミドリ鮫漁のことについてはあまりはっきりは言わなかったけれど、もしかしたらノイヤール湖で狙っているのは、今でもミドリ鮫なのかもしれないとさえ思えてくる。
 期待はどんどん膨らんで、とてもその場を立ち去る気にはなれなかった。魚影のようなものが走る線もときどき見えた。ただ、ノイヤール湖のような大量の群れが現れることは夜明けの時間になってもなかった。
 ヒカリモの神秘的な発光は朝方まで続いた。珊瑚の産卵が満月の日にあると聞いたことがあるけど、ヒカリモも月の周期と関係しているのかもしれない。お祖父さんと投網漁に出たのも満月のころだったのだろうかと考えてみたけど、月齢についてははっきりとした記憶がなかった。
 
 ノルシーさんが大きな穴からにゅるっとした水が湧き出ていると言っていたのを思い出して、海水を少し手ですくってみた。ネモネさんの言うおいしい水はこれのことだったのではないかと期待した。にゅるっというほどのぬめりは感じなかったけれど、たしかにさらさらではなくダシのたっぷり溶け出したスープのような感触があった。たくさんの栄養素が含まれているのかもしれないと思い口に含んでみた。もともと汽水なので塩分は少ないとは思っていたけれど、ほんとうに下ごしらえなしでこのまま料理に使えそうなほどの旨味を感じた。カバのミームがいたらどんな色になるだろう。すくった水をよくみると、小さな光の粒が金箔のように舞っているのがわかった。やっぱりノイヤール湖と同じだ。極上の牡蠣の採れるところには極上の水があるということか。水の本に書いてあったようにその昔ここにドットトラウトがいたということもいよいよ真実味を帯びてくる。それどころか今現在もここに生息している可能性すら否定できなくなっているのだ。
 なんだか、探し求めているなにかに近づいているような気がしてくる。ジギ婆さんの話を思い出していると、ノート氏の話と今この時間が重なりはじめているようにさえ感じる。満月のときに早朝の釣りをすれば、すべての答えがわかるのではないだろうか。それが必ずしもいいことだけでないとしても、謎を解くための扉が大きく開かれそうな予感がする。
 
 水辺で朝を迎える、ふしぎなほどに元気が出てきた。ベッドで鬱屈した気分でいたときとは別人になったような晴れやかな気分だ。とても夜通し起きていたとは思えない。まわりを見渡すと、焼け跡の草木がすくすくと育ってきている。ネモネさんもこの成長ぶりを見て驚いたのだろう。自分の気持ちが晴れるのと同じように、草木も元気になる水をたっぷりもらって、健やかに成長しはじめている。
 
 大切な穴牡蠣も預かったので、少し早いと思ったけれどそのままリブロールに立ち寄ることにした。途中見たノーキョさんのところの緑の光は、朝日に紛れて光っているのかどうかさえもわからなくなっていた。ノーキョさんのことだから、きっとあの藻の光をつかってまた何かをつくろうとしているのだろう。
 
 リブロールに着くと、鍋に水を入れ牡蠣をあけた。普通の水にいれるとどうなるのかと見ていると、濃い緑色がはがれ落ちるように薄くなって行った。それと合わせて味も落ちてしまうのではないかと心配になるほどだった。ノルシーさんはヒカリモはおいしいというほどものではなかったと言っていたけど、穴牡蠣にとってはヒカリモとの関係こそが大切なのではないかと思えなくもない。彼らも食べられるだけのために生まれて来たわけでもないだろう。命の交換を大切にしているはず。この世界に無駄な命などひとつとしてないのだから。
 しばらく穴牡蠣の様子を見ているとミリルさんが来て、生ものだから早く料理したほうがいいという話になった。肝心のないないさんはいまだに現れる気配もない。ノルシーさんががんばって獲ってくれたけど、ないないさんの英気を養うことにはならないかもしれない。それなら獲ったところに戻してやった方がいいのかもしれないと思いもしたけど、ノルシーさんの苦労を考えるとそれもできないと思った。
 
 もしかすると、今日の収穫は穴牡蠣ではなくてあの穴そのものだったのかもしれない。そんなことを考えているとないないさんが大きな穴に吸い込まれている映像が突然頭に浮かんだ。ないないさんはいったいどこに行ってしまったのだろう。
 夕方近くになったら、エバンヌに行くことにしよう。お店を開く前にしたほうがいい。もう少し秘密基地の話をしなければいけない。
 
 西の海上には季節外れの積乱雲が見えていた。あの雲が雨を降らす前にノーキョさんは戻ってくるのだろうか。

第32話 ぬめる水 **

「お客さん来たらこの話はなしだからね」
 
 ノルシーさんは相変わらず秘密にこだわっている。それはもうこちらも十分承知している。もちろん穴牡蠣の話ではないけど。
 
「だいじょうぶ、二人だけのときにしか話さないから」
 
「男は秘密基地、女は秘密の花園なんだからね。スイカは切ってみてはじめて当たったかどうかわかるからこそいいわけ。そこにスイカの価値がある。それがわからないんじゃあちょっと困るんだな」
 
「たしかになんでも丸裸じゃあ、面白みはないからね」
 
「わかってくれた? 上質な秘密こそが人生を豊かにし、生きる喜びを与えてくれるのであるってね」

 何を言っているのかよくわからないところもあるけど、秘密がない人間はつまらないということをしきりに力説しているようだ。わからないことがあってこその人生じゃないかということでもあるらしい。とにかく話を合わせないと先に進みそうになかった。
 
「よくわかりました、ノルシー先生」
 
「よろしい。それで話とはなにかね、オルター君」と言うと、こほんと小さく咳払いをした。
 
「実は、大穴のことなんですが……」
 
「結局、君の話というのは例の秘密の話なのだね……」といかにも残念そうな顔をして言うと、ポットのコーヒーを自分のカップに注いだ。
 
「あそこの水なんだけど、穴から湧き出してるようだって言ってたよね」
 
「と、思うけど、それが何か?」ノルシーさんはもったいぶるようにコーヒーをゆっくりと飲んでみせた。
 
「なんでわかるの?」顔を近づけて核心に迫るようにすると、「だって穴に近づこうとすると押し戻されるし、流れに逆らって泳ぐようだからね。でも急流じゃないよ。ゼリーのようなというか、寒天がゆっくり押し出されるような」と言いながら身体をくねらせるようにした。
 
「寒天……」
 
「とにかく、にゅるっと、ぐにゅっと」
 
 寒天の中をのたうつように泳ぐドットトラウトとミドリ鮫をイメージするけど、どうもしっくりこない。
 
「普通の気水じゃないのかな」
 
「神のみぞ知るというやつかな。母なる大地のことは創造主の神に聞けというではないですか」
 
 そんな話は聞いたこともない。だれが言ったのかと聞くと、「ノルシー先生曰く」と言って笑った。
 
「あそこには夜明けまでいたことはないの?」
 
「オルターさん、密猟者に夜明けはまずいでしょ」
 
「それはそうだね」
 
「ヒカリモって持って来られるもの?」
 
「来られるけど、あれ食べてもまずいよ」
 
「食べるんじゃなくて、どんなものか見たくて。夜だけならランプ代わりにならないかとか」
 
「また突飛なことをおっしゃいますね。それはできればおもしろいかもしれないけど。よくそんなこと思いつくもんだね」
 
「じゃあ、明日よろしく」
 
「ちょ、ちょ、また行けと? オルターさん、ちょっと人使い荒くない?」
 
「でも、いっぱい光るのは満月のころだけでしょ?」
 
「おっと、いつのまにそんなことまで。これは侮れないな」
 
「まあ、だてに年をとっているわけではないですからね。年を重ねた人間の神通力とでも言えばいいでしょうか」すべてはお見通しだというような顔で見ると、「高齢術にはかなわないな」と諦めたように言って、しぶしぶ出かけることを承諾してくれた。
 
 そのあともいろいろ聞いては見たものの、結局、ノルシーさんから決定的な情報を得ることはできなかった。特に隠し事をしているようでもないので、ほんとうに穴牡蠣だけが目的で通っていたのだろう。自分のような体験をしてなければ、それ以上のことを考えることもないだろう。
 
 灯台に戻って、今日のことをノートを書き残しておくことにした。
 
***** ノート *****
 
この島の豊かさは水にあることは間違いない。そしてその水は地の底からわき出して、世界に慈愛と滋養を注ぎ込むのだ。ゆるく、ぬめる水が命の営みを支える光りを創造し生きる力を与える。光る鮫と光る魚がその使者として現れるときにその道は現れる。それがどこに続いているのかは誰にもわからない。満月の曇り空の日に光る園に足を運ぶとき、すべての答えが明かされて行く。
 
***** ノート *****
 
 ノートにはあまりはっきりしたことは書かないほうがいいと思っている。日付も書かないことにした。いつだれがどんな目的でこのノートを見るのかわからない。すべてを明かすことが、必ずしもよい方向につながるとは言えない。とくにボルトンのような輩がいることを考えると、どうしても慎重にならざるを得ない。ノート氏のノートの一部の行方がわからないのも、そういうなにかが関係しているのだと思う。
 
 
「こんばんは」
 
 書き終わって机にノートをしまったときにネモネさんが入ってきた。ノートを書いているところを見られたかもしれないと思ったけれど、そのことについては何も聞かれなかった。
 
「お休みされていましたか?」
 
「いや、ちょっと考え事を」
 
 結局、昨日は一睡もしていなかったから眠そうな顔をしていたのかもしれない。
 
「今日、半島に行ったら緑が見違えるよう増えていて」と目を輝かせて言った。
 
「私もね、実は今日見て驚きました」
 
「オルターさん、私思うんですけど、あそこの水のおかげじゃないかと」
 
「あそこの水?」
 
「半島の先の水がとてもいい水っていうあの話なんですけど」
 
「ああ、おいしい水ですね」
 
「それがほんとうに特別の特別なんですよ。もう少し調べてみますけど」
 
「ミーム君の色もですか?」
 
「半島だとそうでもないんですけど、この前船で島を巡っていたら、興奮して海に飛び込んでしまって」
 
「もしかして真っ赤に?」
 
「そうなんです。見たこともない赤色に」
 
「それはヒカリモのあるあたりですか?」
 
「ヒカリモノ?」
 
「あっ、知らなければそれはいいです」

 ノルシーさんと二人の秘密の約束だったことを思い出した。やはりあの半島の先になにかがあるのは間違いない。
 
「ノーキョさんはまだヨットにたどり着いてないですか」ネモネさんは窓から海を眺めながら言った。ノーキョさんのことを心配して来たようだ。
 
「もうそろそろ、向こうに着いてくれないとさすがに心配になりますよね。ヨットの人の状態も心配だし」
 
「なんだかミリルさんも元気ないですし、早く戻って来てくれるといいですね」
 
「そうだ、これノーキョさんが作ったてくれたロウソクなんですよ」引き出しから出して赤い方に火を灯した。
 
「きれいな灯り」
 
「灯りに品質もなにもないかもしれないけど、この光はとてもやさしくて上質ですよね。自分たちでつくったからそう思うだけかな。どう思い……ますか」
 
 ネモネさんに目を向けると、両手を合わせて静かに目を閉じていた。彼女の祈りはきっと伝わるだろう。その願いが聞こえているのか、潮騒が灯台を何度も何度も重ねるようにやさしく包んでは消えていった。
 横になって目を閉じているミームを見ていると、どこからか鐘の響くような音が聞こえてきた。
 
「ああ、インクか」
 
 インクか、という言い方がよくなかったのか、一瞬こちらをみたかと思ったらぷいと横を向いていつもの居場所にごろりと横になった。ミームがいるのに気がついているのかいないのか、気にとめる様子もない。
 
「あら、インクちゃん。元気だった?」
 
 ネモネさんが手を伸ばすとごろごろと喉をならしている。ご機嫌が戻ったようでよかった。この前とちがって今日は首に鐘の形をした鈴をつけている。大きさこそ違うものの、鈴というよりは鐘と言ったほうがいいような形をしている。
 
「きれいな音がしますね」ネモネさんが感心して言った。
 
 それを聞いたインクが「祝宴用の特別の鐘だからね」と言った。自分の耳をちょっと疑いながらもインクの声も聞こえるようになったのだろうかとふつうに思った。そう思うこと自体がふつうではないのだろうけど。
 
「特別の鐘なんだ」とネモネさんがインクに話しかけた。
 
 同じ声が聞こえたのだろうか、それとも同じように感じたということか。不思議に思ってインクの顔に見入っていると、今度は「今夜助かるよ」と言った。
 
「ヨットの人が助かる?」と思わず問い返すと、ネモネさんがこちらを向いて「え? 助かったんですか?」と聞いて来た。
 
「あ、いや、インクがそう言ったかと思って」
 
「そうですか。満月の夜ですしね。今夜はなにか起きてもおかしくないですよね。お祈りが届くかな」
 
 その後インクが何かを話すことはなかった。

第33話 重なる影

「ないないさんに食べてもらわないとですよね」ミリルさんが言うと、コピが恨めしそうな顔をして穴牡蠣を覗き込んで指でつついた。
 
「穴牡蠣を獲るのって大変なんですね」
 
「牡蠣は冬場のものだから、潜るとなると楽じゃないですね」
 
「ノルシーさんにお礼言わないと」
 
 ノルシーさんが一人でほとんど食たからこういうことになったのだからと言うと、ミリルさんはそれもそうですねと言いながら笑った。
 
「それで今夜は、幻の光魚の釣りに出かけることになりました」
 
「釣れそうなんですか?」ミリルさんは気の乗らない顔をしている。女性は釣り自体にあまり興味もないのだろう。
 
「まあ、当てにならないと思うかもしれませんけど、居場所の目星はおおよそついているので少なくとも坊主ということはないでしょう」
 
「ボウズってなあに」コピが面白いことを聞いたというような顔をした。
 
「コピちゃん、一匹も釣れないことを坊主って言うのよ」とミリルさんが言うと、なにかはぐらかされたとでも思ったのか、つまんなさそうな顔をしてまた牡蠣の入った入れ物を覗き込んだ。
 
 机の上には読みかけのロビンソンクルーソーの本がおいてある。この前読みかけにしたまま、持ち帰るのを忘れてしまったのだった。本棚に戻されずにそのままになっているのもリブロールらしい。ちょっとしたミリルさんの気遣いだ。これもここの居心地の良さを醸し出す理由になっている気がする。
 読みかけていたところには栞が挟んである。リブロールにはお客さんそれぞれの色や形の栞が決まっていて、挟み忘れるとミリルさんが入れておいてくれる。それを見ると誰が何を読んでいるかわかって、うたた寝とは別のリブロールに来る楽しみのひとつになっている。植物の本にはノーキョさんとスロウさんのふたつの栞が仲良く挟まっている。こういうのもお互いに気兼ねすることのないこの島ならではのことだろう。
 ロビンソンクルーソーのページをめくりながら、結末はどうなるのだろうかとぼんやり思った。無事に助かりましたというハッピーエンドなのだろうか。もしかしてそれがノート氏その人の体験だったということはないだろうかと想像してみたりした。そうであれば、とんでもなく楽しい1冊になるのだけれど。
 意識世界と思っているこの場所に来て数週間になるけれど、前にいたウォーターランドと何ら変わることのない交流と時間の流れにかえって違和感を感じるときがある。突然違う時空に流れ着いたのに、こんなにのんびりした生活を過ごすのも変な話ではある。どうせならロビンソンクルーソーのように無人島であってくれた方が納得がいくというものだ。現代のロビンソンクルーはなかなか面倒なところに流されてしまったようだ。
 
「オルターさんまで釣りに出かけたまま帰って来ないなんてことにならないでくださいね」ミリルさんが思い出したように言った。
 
「それでもまだ牡蠣獲り名人のノルシーさんもいるから」と言うと、「そんな冗談を言ってる場合じゃないですよ」と真剣な顔になって怒った。ミリルさんが怒るのはめずらしい。次々に人がいなくなるから本当に心配で仕方がないのだろう。ちょっと気遣いのなさを恥ずかしく思った。
 
「コピもいくの?」
 
「だめだめ、コピちゃんは行かないの」と、ミリルさんが語気を強くして言った。
 
 コピがまたつまらなそうな顔をしてこちらの様子をうかがっている。こちらの様子をうかがいながら、何か言ってくれというような顔をした。コピはミリルさんとリブロールで留守番しててと言うと、「実験班長もする」と言って水を撒く格好をして見せた。実験をしていた先生のノーキョさんがいないのだからコピの張り合いもなくなっているのかもしれない。水撒きの動作もあまり気持ちが入っていないように見えてしまう。
 
 秋も深まってくると、何気無い会話をしていてもどこか心寂しい気分になってしまう。これが新緑の季節であれば、もっといろいろ楽しいことも考えられるのだろうけど、秋のかさかさした風と虫の音はそうさせてくれない。それでもロマンだと言ってはしゃいでいる男たちもいるし、ミリルさんには心配ばかりかけているのだろう。
 
 昨日から気になっている空模様のほうはというと徐々に雲が広がりはじめている。今日の天気はどうなるのだろうか。このまま雲が多くなっていくと赤い月も見られないかもしれない。空の天気も気になるところだけど、それ以上に時空の予報でもあるならば知りたいものだと思う。これだけいろいろなことが月齢と合わせるように起きると、もっと細かな事象と関連した何かがあるのではないかと思わずにはいられない。それと人がいなくなることとにもなにかつながりがあるような気がする。
 
「人恋しい季節だね。やっぱり秋は別れの季節なのかな」と思わず言わなくていいことが口をついて出てしまった。
 
 それが聞こえたのかどうか、ミリルさんは机の上に置いてあった常連さんたちが使うカップを並べ直して頬杖をついたかと思うと大きくため息をついた。
 
「みんなどこに行ったの」と独り言のように言うと、机に伏せるようにして頭を乗せた。
 
 コピがそれを見て、何も言わずに船着場のデッキのほうに出て行った。
 
行き先を見ているとヨットのほうを向いて何度も首をかしげている。
 
「どうかした?」ミドリ鮫でもみつけたかと思って尋ねると、「いっしょ」という答が返ってきた。
 
 何がいっしょになったのかと思いコピの横に立ってみた。
 
「いっしょ、いっしょ!」と言いながらぴょんぴょん跳ねだした。コピがうれしいときのいつものサインだ。
 
「どれどれ、なにが見えたかな……」
 
 隣ではコピが海の方に向かって手を振っている。
 
 もしやと思いヨットのほうに単眼鏡を向けるとノーキョさんのボートがヨットと重なって、ヨットの上に見える人がこちらに向かって手を振っている。
 
「ミリルさん、ノーキョさんやりましたよ! ヨットにたどり着いたようです!」思わず大きな声をあげてしまった。
 
 伏せっていたミリルさんが、飛び起きるようにして