閉じる


<<最初から読む

8 / 14ページ

宝玉浴

気がつくと薫は沈み込んでいるのです。

深い宝玉のなかを、静かに、ですが確実に沈み込んでいるのです。

薫のスカートは上のほうにたなびき、髪の毛も上へ上へと伸ばされていきました。

髪の毛に絡めていたヘアピンも、すっかりほどけて流れて行きました。

なぜどうしてこの宝石を沈み込んでいるのか、薫には思い出せませんでした。

いつ沈み込んだのかもはっきりしません。ほんの5分前のような気もしますし、5日前のことのような気もしました。

石のなかは暖かで、遠い日暮れにおいて来た筆箱や、幼いころに譲り渡したままごとセットなどが、岩壁にしまいこまれていたりして、それを手に取っては戻しながら沈み落ちるので、そう退屈はしていないのです。

そして沈みこみつつ、ゆるやかに世界の中心に向かっていることが、薫には確かに感じられたのです。

ですから最早行きつく先がどこなのか、自分はどうしてここに落ち込んだのか、もうどうでも良いことなのでした。

良いはずなのに、水がゆらぐたびに薫は震えるのです。そして誰かが語りかけてくるような、そんな切ないそよぎに瞳を奪われるのです。

地の虹

地下鉄の帰り道、薫はエスカレーターを降りていました。

下に下に降りていました。


とても長いエスカレーターで、先などかすんで見えません。


振り返ると乗ってきた入り口は幽かに見えてましたが、すぐにそれも見えなくなりました。


あんまり長いので、薫はスカートのすそを伸ばして鉄段に座りました。


まわりの壁には、最初は化粧品だのパチンコ屋だのの広告が鈍く光っていました。触ると指にはうっすらと埃が付いて、埃が取れた部分はきらきらと輝き始めるのですが、すぐに後ろの方へと流れてしまい、やがて剥き出しの煉瓦塀だけが延々と続くようになるのです。


さらに降りると灯りさえも途切れ途切れになり、薄ぼんやりした中を、薫はただただ流されていくのでした。


少し怖くなった薫は立ち上がってだんだんと降りてみるのですが、いつまで降りても同じ光景が続くので、やがてくたびれてまた座り込むのでした。


しばらくいくと、昇りエスカレーターの上に誰か乗っているのに気がつきました。最初はやけにのっぺりした顔の男だと思いましたが、近付いて来ると、それは目も口もない仮面をかぶった男でした。


薫は勇気を出して聞きました。


「あの・・このエスカレーターはどこに行くんでしょう?」


男の口?からは、トロンボーンのような声が漏れました。それは人間の声というよりは、大きな獣の唸り声のようで、恐ろしいようで悲しいような、それでいていつまでも聴いていたいような声でしたが、すぐに昇りエスカレーターは男を連れて行ってしまいました。


しかしすぐにまた別の男が昇ってきて、やはり同じように薫に語りかけては去っていきました。


男の数は次第に増えてきて、じきに隣のエスカレーターは仮面をつけた男どもの、深く太い声でいっぱいになりました。


気がつくと、その奇妙なコーラスのうえに、ありありと極彩色な虹が立ち上がっていました。


それは虹にしてはあまりに鮮やかで、地下の真っ暗闇に、王冠にようにそそり立っていました。


虹の光に薫はなぜだか不安になりました。そして指についた埃を取ろうと、いつまでもハンカチで指をこすり続けていたのです。

泣く女

道端で女のひとが泣いているのです。

ガードレールによりかかって、アスファルトの上にぺたんと座り込み、こどものように膝をかかえて泣きじゃくっているのです。

その足ははだしです。薄汚れた足裏です。

男のひとが彼女を引き上げようとしているのですが、そのたびに女のひとはいやいやしながら、地べたにへばりつくのです。

たまりかねた男は無理やり引きずって行こうとしますが、女はガードレールにしろい手足を絡ませて、懸命に泣きじゃくるのです。

そばを何台もの車が通り過ぎて行きます。熱い排気ガスがアスファルトにこぼれます。

そのガスのなかで、初夏の空気はぎりぎりまで引き伸ばされていきます。おののくような、切ない苦しみがながれます。恐ろしいほど暗い真昼です。

サルビア・キッス

そのまやかしのように紅い色に誘われて、薫はつい口をつけてみました。一瞬、サルビアの甘いような、みずみずしさが舌先を貫きました。どこかのプールで浮かび上がるように、遠い夏の記憶がよみがえります。


好奇心に駆られてキスをした、そのキスの甘さ。驚いた同級生の瞳と、その胸の震え。薫はひりつくような太陽の背丈を感じていました。その汗ばんだ素肌を抱きしめようとして、薫の手が触れたのは、サルビアでした。


房なりに生ったサルビアの淡い花花を、薫の手はするりと抜けていったのです。そのとき、いつか置き忘れていた日々が、戻ってきました。偽りの虹が燃え尽きようとしています。その遠い日々を沈み込みながら、いつしか薫は石になりました。


石は甘いようでいて、よくよく噛んでみると、やはり苦いのでした。吐き出した石の欠片には、紅い花弁が混じっていました。振りむけば、路なりに並んで咲いたサルビアの列だけなのです。そこにいたはずの薫は、もう影しか見えません。


汝に問う

あるよく晴れた朝、布団をしまおうと家の押入れを開けると、
そこには父と母とが座っていました。
父は黒い服を着て、母は白い服を着て、
卓袱台を挟んで茶を飲んでいました。黙って飲んでいました。

その黒縁の眼鏡や丸めた背を見ると、たしかに父母なのですが、
やはりどこかわざとらしくような、不自然なのです。
肌なども青白く、生気がないのです。
たまりかねて薫は聞きました。「あなたがたは何者ですか?」

するとすっくと二人は立ち上がりました。
見ればそれは親でもなんでもなく、人間ですら、ありませんでした。
青い藁で編んだ人形なのです。

二人の人形はその青白い顔だったものを薫に向けて、言いました。
「ではお前は何者なのか?」
「ではお前はなにものなの?」

すると押入れが倒れて-というより押入れのふりをしていた壁が倒れ、崩れ去ってしまい、
建物の骨組みだけが、薫と人形だけを取り残して立っているのみなのです。
 
その骨組みの上に、卓袱台と人形と薫だけが、立ちつくしていました。
そこを風がぴうぴう鳴らし、辺りは日が暮れているのか、あるいは曇天なのか、
すっかり薄暗いのです。そのうす暗がりの中、薫は緑の瞳を思い出しました。
闇の中に翡翠のように、エメラルドのようにつよく煌く、あの瞳を感じたのです。

「あたしは、あたしよ。あたしは、あたしなの」
そう言うと、薫は人形どもを後にして、建物を下りていきました。

その下は藁人形よりもずっと得体にしれない、黒い人形どもが渦を巻いていました。
泣き出しそうになるのを堪えながら、
それでも薫はあの瞳のまま、歩いていこうと思ったのです。


読者登録

仲 薫(leprechaun)さんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について