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街の灯

もう何時間たったでしょうか。ただ外のエンジン音だけが聞こえる音でした。

薫は窓扉を開けて外を見ようとしましたが、真っ暗で何も見えませんでした。


機内は八割くらい埋まっておりましたが、全員眠っており、灯りも話し声もありませんでした。ただ薫だけが暗いキャビンに取り残されていました。


喉が乾いた薫は、水を頼もうとしましてコールボタンを押したものの、誰も来ませんでした。不思議に思った薫は立ち上がると、機内を歩き回りましたが、やはり乗務員はどこにも見当たらないのです。


あきらめて薫は自分の座席に戻りましたが、そこには別の人が座っていました。薫はどくように頼もうとしてその人の顔を覗きましたが、暗くてはっきりしません。ですが眼が合うとその人は口を切りました。


「お母さん、ひさしぶりですね」

「・・あたし、子供なんていないわよ」
「そんな悲しいこと、言わないでください。ぼくは百年前の息子じゃないですか」

そう言われると何だか薫はその気がして、遠い昔に、そんな子供を産んだことがある気がしました。

「ああ、そうだった・・かしら」

「思い出してもらえてうれしいです。今日はお別れにまいりました」

「お別れ?」
「長らくお世話になりましたが、もう会うことはないでしょう」
そう聞かされると何だか悲しいような気がして、薫は窓に視線を移しました。

すると先程の真っ暗とはうって変わって、下には目ばゆいばかりの宝石が散乱しておりました。そこは確かに薫が百年前にこの子と過ごした街だったのです。


そしてこの飛行機はそこに向かっている途中だったのです。飛行機は急降下して、いつか薫が子供をつれて歩いた川沿いの遊歩道迄見えました。でも街は思い出せても、なぜだか子供の顔も名前も甦っては来ないのです。


「ではさようなら」

「待って、あなた、どこに行くの?」
「いえ、ぼくはどこにも行きません。行くのはお母さん、あなたなのです」

とたんに薫は百年前の出来事を思い出しました。百年前、自分が息子を川に流したことを思い出したのです。あの凍てつく冬のよる、人目を憚りながら、薫はまだお腹のなかにいたこの子を流したのです。


「おお、おお」と薫は声にならない声を出しながら手で顔を覆いました。その向こうで子供は言いました。

「お母さん、その手でしたね、ぼくを胎内から引きずり出したのは」
「おお、おお」
「その指でしたね、ぼくと母さんを繋ぐ臍の緒を千切ったのは」
「おお、ああ」
「その掌でしたね、ぼくのまだかたちを成していない首をへし折ったのは」
「ああ、ああ」

すっかり思い出しました。薫は手に残るこの子の首の感触さえ、思い出しました。その外では街の灯りがいよいよ大きく、あやしく光を増していくのでした。

ジョッキの王

夜なのです。

薫は商店街のアーケードを歩いていました。お店はもうだいぶ閉まっていて、人通りもほとんどありません。

道には布団が持ち出されては、男どもが堂々と寝ていました。なかには寝ながら新聞を読んだり、ラーメンをすすったりしているのもいます。焚き火している輩までいます。

そしてその間をすっすっと、業務用の自転車が器用にすり抜けていきます。自転車はとあるお店の正面に着くと、乗り手は店のなかに消えました。

見ていた薫は釣られてお店に入って行きました。

所狭しと置かれているのは、やかん、湯たんぽ、如雨露、針金などでした。
(ここは・・・金物屋だわ)
と薫は思いました。そして壁に掛けられた、銅製のジョッキを手に取りました。

ジョッキには一面に鏨(たがね)が打ち付けられた跡があり、薫はそれを指でなぞりながら、魚の鱗のようだわね、などと思っていました。

思っていると、お店の奥のほうが騒がしくなりました。そこで薫はジョッキを元に戻して、奥に進みました。奥はガラス障子が張られており、その向こうから音がするのです。普通、そこはお店のプライベートエリアなのですから、薫は障子を開けるのをためらいました。

けれども音はますます大きくなるばかりで、(こんな騒音だもの、ひょっとしたらお店の人に何かあったのかも。障子を開けて確かめなくちゃ)と薫は自分に言い聞かせて、開けてみました。

するとそこは外なのです。しかも夜だったはずなのに太陽が出ていて、お昼なのです。明るい日の下で、法被を来た人たちがお神輿を担いで騒ぎ立てていました。

(お祭りだ、お祭りだ)

そう思うと、薫はすっかり楽しくなって、神輿に駆け寄りました。振り返ると先ほど障子がぽつんと見えて、蛍光灯が淡く点いているのが見えました。確かに薫はついさっきまでそこにいたはずなのですが、今こうして見てみると、それは何か遠い異国の出来事のように感じられました。

万国旗が縦横に張り巡らされた街路を、神輿が進んで行きます。金木犀の街路樹が、次々に過ぎていきます。どおんどおんと、花火のような音がします。

行列はますます盛んになり、薫は押し出されて神輿の前に出ました。そしてちらりと見ると、神輿の中に座っていたのは、紛れもない薫でした。その薫の手のひらの中には、あのジョッキが包まれていたのです。

その瞬間、薫はすべてを思い出しました。ですが何を思い出したかは思い出せませんでした。ただ迫り来る洪水のような雑踏のなかで、いよいよジョッキはにぶく光るばかりなのでした。

黒い塔

薫は路地を歩いていました。

あたりはすっかり日が暮れて、墨のような闇がたれこめていました。そして闇を透かして、ときどき小さな灯りがちかちか瞬くだけなのです。

その闇に照らし出されて、はるか頭上には巨大な塔が立っているのが見えました。あまりに大きすぎて、最初薫はそれが塔というより、巨人か化けものかのように思えたほどです。

塔は下が大きく膨らんでおり、半分ほど上に行ったところで急激に細くなり、あとは飴細工のように星に向かって引き伸ばされていました。

まわりは暗くてその全体像ははっきりとはしませんでしたが、塔のあるところだけは真っ暗で、薄明るい夜空から浮き上がっていたので、そうと薫には分かったのです。

薫は路地から路地へと伝い歩いていましたが、そのたびに塔の姿が見え隠れしていました。「廃院」と張り紙されたタイル張りの産婦人科を過ぎると、その窓ガラスに映っていましたし、コンクリート床に直接食卓を置いた大衆食堂の屋根の上にも、覗けていました。

そうして歩き続けましたが、塔は近くも遠くもならず、ずっと薫の背後に立ち続けているのです。

薫が見上げると、塔の上から1/3ほどのところで、赤いランプが点いているのが分かりました。ランプは一定のリズムで点滅を繰り返していましたが、それはクジラの鳴き声のように遠く響きました。

その海のようなリズムのなかで、塔はしだいに得体の知れない化けものに広がって行き、薫の背後に迫りました。

けれども薫はそれを怖いとも思わず、むしろ待ち望んでもいるように歩を早めるのでした。

陽は沈みつつありました。
頼まれもしないのに、薫はおつかいに出かけました。陽は沈みつつあるのでした。


銀貨を振ったように星が光り出します。
その下で街灯がオレンジ色に灯ります。

その灯りに照らされると、薫はなにか悲しいような、浮き浮きするような気持ちになりました。


一匹のアゲハがひょろひょろと漂っています。街灯に照らされて、その影が淡く、白壁ににじんでいます。


そして耐えかねたかのように停まると、その鮮やかな肢体は小刻みに震えました。


つまみ上げると、その震えが薫にも伝わりました。蝶は闇の訪れを震えていました。薫はどこか遠くの森で、拙い本のページが開かれるのを感じていました。


黒い入り江では、幾万もの電飾がいっせいに点滅し始めました。嬉しいような、それでいて恐ろしいような気がしました。


そしてふと力を込めた瞬間、羽がもげて蝶は流れ去りました。掌には鱗粉と千切れた脚が、そこにいた生き物のなまめかしさを語っていました。


確かにそこにいたはずなのに、もうその感触さえ明らかではありません。ただその残骸だけが、うそのように生き物を象っていました。


おつかいはまだ終わっていません。

仮面の街

街灯の下の方で、4人ばかりの男どもが立っています。

薫がそばを通ると、それまでてんでな方向を見ていた男どもは、一斉にこちらに顔を向けました。ですが、その頭には顔がなく、仮面が付けられていたのです。

薫はどきりとして、あたふたしながら、男どもの傍を通り抜けようとしました。

仮面には眼も口もありませんでした。ですが薫は彼らが薫を穴があくほど見つめているのが分かりました。

男どもは話もしなければ身動きさえもしませんでしたが、それが却って薫の心臓を絞るのです。

一時間もかかったように感じられましたが、その実、ほんの数分のことには違いはないのです。

ようやく街灯を通り過ぎると、道は真っ暗になりました。というよりも、そもそもそこには道さえないのです。ただ淡い闇が、どんよりした倉庫のように広がっているばかりなのでした。

そしてその闇の向こう側には、薫の顔を剥がしてずらそうとする悪寒ばかりが広がっているのです。

そこに至って、薫は自分が最涯の街に来たことを思い出したのでした。自分の言葉も身体も通じなくなりつつある最涯の街に来たことを、はじめて思い出したのでした。


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