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ここは、どこだろう。
…途切れ途切れに、声が聞こえる。
しかし、重い瞼は、光を遮断し、言葉は、音にならない。私は眠っているのだろうか、それとも死んでいるのだろうか。
「〇※△□×」
恵理の声だ。
「……ね、ちぃちゃん…」


 今のところ分かっているのは、氏名、住所、生年月日、電話番号、そして、この病院の耳鼻咽喉科を受診しに来たということ。あるときは充分過ぎる情報なのかも知れないが、今は、あまり役に立っていない。
「小林さん、聞こえますか?」
「……」
すぐに目を覚ませばいいのだが、万が一このまま眠ったままだったら…。‥いや、そんなことはない。今、そう、刻々と動く、今、目を開けるかもしれない。
「小林さん、小林智恵(ちえ)さん、聞こえますか?聞こえたら、私の手を握ってください」
返事は、ない。私は、彼女の手を、そっと元に戻した。ベッドサイドの棚に彼女の持っていた茶色いバッグを入れ、鍵を閉め、病室を出た。


ショートパンツにTシャツ姿の少女が不機嫌な表情で食事をしている。向かいには、父親だろうか、男の姿がある。その間に女の子より年下の男の子が座っている。イスは四つあるが、一つ空いているようだ。父親らしき男が少女の方を伺いながら、何か言いにくそうに質問を投げかけたようだ。少女が答える前に男の子が、男に質問を投げかける。男は再度少女に問いかける。少女は食事を残したまま、どこかへ行ってしまった。


 




私は、ナースステーションから呼びに来た同僚と一緒に、病室を出ようとして、足を止めた。何か気になる音がする。
「どうかしました?」
「この音」
「…携帯ですよね。私、先に行って報告します」
私は、棚の鍵を開け、小林さんのバッグを取り出した。入り口に蓋やチャックがついていないものだったので、揺れながら点滅する携帯電話がすぐに確認できた。一旦止まり、手の上で再び、揺れはじめた。………。数秒の間に様々なことが頭に浮かんだ。
「小林さん、代わりに出させて頂きます」
顔をちらりとみて、通話ボタンを押し、耳にあてた。
「あ、小林さんですか?」
「すみません、すぐにこちらからかけ直します」
私はそう答えると、素早く着信番号をメモし、バッグに戻した。


二段ベッドの片割れと、学習机、本棚、洋服ダンス、電子ピアノが八畳くらいの部屋にドン、ドン、ドンと置いてある。とても味気ない。この人の部屋なのにこの人のために作られた部屋じゃないみたいだ。さっき家族の食堂から飛び出した少女がこの部屋に入ってきて、学習机の前のイスに座った。机の上の真ん中に置いてあるノートパソコンを開き、何か打ち込んでマウスを動かしている。ディスプレイには人の写真と共に文字が並ぶ。それを真剣な眼差しで少女は見る。‥少し躊躇ったあと、表情は曇り、悪いことでもしたかのように急いでパソコンを閉じた。

「若松中央病院の山下と申します。突然、申し訳ございませんが、先程小林智恵さんの代わりに電話に出たものです」
「……」
「もしもし?小林さんの携帯に電話なさいましたよね?」
「あ、はい。それは、‥そうなのですが、病院って、何かあったんですか?」
「今、こちらに入院しておられます。失礼ですが…、小林さんのお知り合いの方でしょうか?」
「…あ、‥え?‥‥あ、はい」
「小林さんのご家族に連絡取れますでしょうか?」
「いえ‥」
―山下さん、505号室、行ってくれる?―
―はい、分かりました―
「申し訳ございませんが、お名前をお伺いできますか?」
「安達、です」
「安達さん、ですね、詳しいことは、‥一度病院にお越し頂けますか?」
―山下さん!急いで―


 事態を飲み込めないまま、僕は電話を切った。ただの偶然ではなく、あの小林智恵なのだろうか。そうであってもなくても、行くべきではないと始めは思った。しかし、時間が経つにつれ、やはり彼女なのだという思いが強くなり、翌日の午後、僕は病院にむかうこととなった。
三日間眠り続けている、という彼女は、顔色が少し悪いものの、人工的に呼吸しているわけでもなく、すぐにでも、目を覚ましそうに見えた。看護師の山下さんは、手早く体温計を差しみ込、言った。
「ときどき、反応はするので、声を掛けてあげてください」
山下さんに、彼女の手を差し出された。戸惑いながら指先を握ろうと手を触れると彼女の手は、ぎゅっと僕の手を掴んだ。
「小林さん、安達さんですよ、分かりますか?」
僕の汗なのか、彼女のなのか、手にはしっとりとした感覚がある。体温計の電子音が鳴りクリップボードに挟んだ用紙に記入すると、
「それじゃ、小林さんまた後で来ますね」
と声を掛け、僕に向かって、
「安達さんに来てもらって心強いと思っていますよ、きっと」
と言い、病室を出て行った。

彼女と二人きりになった。

 


安達順也(じゅんや)、仕事、壊れて使えなくなったものを直してまた、使えるようにすること。
僕は物を直す。人は治せない。彼女を物だ、なんて思わない。壊れているとも思わない。‥何故、僕はここに来たのか。僕に出来ることはあるのだろうか?


「恵理、 何か欲しいものがあったら持っていっていいよ。あげられないのもあるけどね」
「えー、本当?じゃあ‥あたし、これ欲しい」
「いいよ」
「嘘?これはダメって言うと思った。気前いいじゃん」
「今度のとこはもうちょっと狭くなるから、もういらないの」
「もったいなーい。家に送っちゃえば?」
「私が戻って住むならまだしも、家は物置じゃない!ってお母さんのイライラが始まっちゃうでしょ」
「それもそうだね、これをネタに家に帰って来い攻撃にあうに違いない」
「どうする?」
「うーん、欲しいんだけど、・・うちも狭いからなぁ」
「じゃあ、これは、…さよならっと」
「捨てちゃうの?」
「‥‥業者の人にでも頼んで、引き取ってもらおっかな」


 階段を上がってくる足音が近づいて、私は慌ててベッドに潜り込んだ。トントン。
……トントントン、香織、入るぞ。
「もう、寝たのか。ごはん、いいのか?」
「……」
お父さんのことが、嫌いなわけじゃない。ただ今は、これからまじめな話ししますっていう瞬間を少しでも先延ばしにしたいのだ。


「おかえり。・・今日、引取りって言ってなかったっけ?」
「そうなんだけど、連絡つかなくて・・・。住所、メールに書いてもらってたからアパートに行ってみたんだけど、留守だった」
リビング兼事務所のパソコンを見ている元基(もとき)の前を通り過ぎ、僕はやりかけていた作業の続きをやろうと、部屋の奥にある作業場へ行った。
「急用ができたのかもしれないし、後でもう一回電話してみる」
「ああ。…順也、」
「……ん?」
「‥いや、何でもない。わりぃ、ちょっとでてくるわ」




「菊地と申しますが、山下さん、ですか?」
「はい、そうですが、…まどか?…香織ちゃん?」
「香織です」
「香織ちゃん?びっくりした。お母さんに声そっくり。久しぶりだね、皆、元気?」
「…は、はい」
「そっちの生活には慣れた?」
「…あの、佳苗‥さん」
「佳苗ちゃんでいいよ」
「最近、母に会いませんでしたか?」
「え?最近?そうだねえ、しばらく会ってないよ。引っ越す前も電話では話したんだけど、結局お互い都合がつかなくて、会えずじまいだったんだー。どうして?」
「……。」
「何か、あったの?」
「家を‥出て行きました」
「え?まどかが?‥いつ?今日?」
「五月の最後の週です」
「それじゃあ、え?…それから一度も帰ってきてないの?」
「はい。たぶんもう、帰ってこないんだと思います」
「え?どういうこと?連絡、取れないの?」
「はい、携帯もやめちゃってるし、おばあちゃんのとこも行ってないみたいで。父は、旅行に行ったって言っているんですけど、そんなの変だと思うんです」
「…旅、行…」
「お母さんの友達、私、佳苗ちゃんしか知らないし。何か知ってるんじゃないかと思って」
「ごめんね。私のところには、今のとこ連絡はないけど、もしあったらすぐに電話するね。香織ちゃんも健人(けんと)君も、大丈夫?困ったことがあったらいつでも連絡して」
「はい、大丈夫です。それから、‥父には黙っていて欲しいんです、私が佳苗ちゃんに連絡したこと」
「…うん、分かった」
まどかは、どこへ行ったのだろう?ご主人の実(みのる)さんが言っているというように、旅行に出ていて、ひょっこり帰ってくることも考えられるが、そうでないとしたら…。まどかは探して欲しいだろうか?
私は、まだ混乱しながらも、携帯は買ってもらえないという香織ちゃんのパソコンのメールアドレスを聞いて、電話を切った。もう少し聞きたいこともあったが、彼女はまだ子供だ。心配も不安も最小限に止めたい。生きては、いる。不安ながらも、そんな確信めいた思いだけはあった。

 

 

 考えてみれば、僕はあれからちっとも前に進んでいない。相も変わらず、どっちつかずで同じところをただウロウロして、薄ぼんやりと生きているのだ。元基が僕のところを出て行ってから、僕のぼんやりは益々色濃くなった。何かにすがるように病院へ行き、ただただ彼女と時間を共有した。そこには懺悔じみたものもなければ、甘美な空気もなくて、まるで僕のほうが深く眠っているみたいだった。それは元々彼女が持っていた性質のためかもしれない。僕は、次第に彼女の意識をつかまえたい、と思うようになった。



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