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パイプラインシステム

 山田昌弘は学力低下という問題は、「教育という領域で勉強という努力が報われない」という状況が広がったから起きた現象ではないのかと提起している。戦後、高度経済成長を経て、1990年頃までは勉強の努力を保証するシステムがあったとして、パイプライン・システムという考えを紹介している。

 2002年のハーバード大学アジアと国際関係プロジェクトシドニー大会において、ダニエル・ヤンミンとチャン・マイミンは、戦後日本の教育システムを「パイプライン・システム」と表現した。学校システムは、分岐のあるパイプとして表現され、生徒はパイプの中を流れることによって自動的に職業に到達するように描かれている。これによれば、受験勉強という努力は自分の実力にあった学校に入学するという形で報われ、入学後は卒業するための努力をし、そして学歴に見合った職業に就けるという形で報われるということである。



山田はこの教育システムが生徒に希望を与えるものとして、以下のように大変よく機能したと述べている。

(1)能力に合った職に送り出す機能を果たし、生徒に将来の見通しと安心を与えた。つまり、これくらいの学力があればこれくらいの学校を出て、これくらいの職に就ける(女性は、これくらいの人と出会え、これくらいの生活ができる)という期待ができた。

(2)過大な期待を諦めさせる機能を果たした。特定のパイプラインに乗れなければ、特定の職に就くことを諦めるしかなく、パイプを流れる過程で、徐々に諦めがついた(いくら医者になりたくても、医学部に入る学力がなければ諦めるしかない)。

(3)階層上昇の機能(世代内上昇+世代間上昇)を果たした。少しでも頑張って勉強すれば、上の学校に行けて、よりよい生活が送れるという期待がもてた。そして、親よりもよい学校に行けば、父親以上の職に就ける(女性の場合は、そのような相手と結婚できる)という期待がもてた。

 しかし1990年代後半、経済社会構造の大きな転換が起こったと考えられ、それをニューエコノミーと呼ぶならば、経済のグローバル化、IT化と相俟って職業世界が不安定化する。それは、将来が約束された中核的、専門的労働者と、熟練が不要な使い捨て単純労働者へと職業を分化させ、そしてその影響はまず若者を直撃する。企業は若者を選別し、能力があるものは中核的、専門的社員として優遇し、それ以外は派遣、アルバイトなどの保障のない労働者で置き換えようとする。その結果、非正規雇用者が大量発生し、それが日本では、フリーターの増大として表れるのである。



 しかし日本では、職に応じて学校数が調節されるわけでもなく、教育機関としての学校は残り続け、パイプの出口が変化し細くなっているのに、パイプ自体の太さは変わらず、逆に大学院のように太くなってしまったものもある。結果、従来のパイプラインに亀裂が走り、「漏れ」が生じる。つまり、パイプを流れていてもそのままでは職に就けない、学校に入って卒業するという「勉強努力に対する確実性」がなくなる事態がほとんどのパイプラインで生じることになるのである。

 そして更に重要なのは、パイプ自体が無くなったわけではないということである。例えば、大卒だからといってホワイトカラーになれないということが、大学に行かなくてもよいということを意味するものではない。大学にいかなければ、ホワイトカラーになることがもっと難しいということである。これにより、学校教育のリスク化と職の二極化を引き起こしたと考えられる。

 リスク化とは、学校歴はそれに見合った職業を保証しない、つまり勉強して学校に入り努力しても、その努力が報われない「可能性」が高まることである。そして、学校歴に見合った職に就けた人と、就けなかった人との差が結果的に拡大することが二極化である。例えば、大学院博士課程修了者であれば、専任教師と非常勤講師、公務員保育士とパート保育士、正社員と派遣社員などさまざまな職種で生じている。学校歴や仕事能力にはほとんど違いがないにもかかわらず、パイプを流れ続けられたか、そこから漏れて正規の職に就けなかったかの違いで、処遇や将来の見通しに大差がつくという状況が生まれているのである。

 その結果、パイプから漏れた人は、勉強という努力が無駄になる体験を強いられることになる。別の職に転進、または別の学校へ入りなおすということができればよいが、それは今までの努力が無駄になることを自ら認めることになる。そして親は、自分の子どもの教育にかけてきたお金とエネルギーが無駄になることに心理的に耐えられない。よって、その努力が無駄になっている者が増えている状況を体感して、対極に生じているのが、勉強に努力をしても仕方がないと思う生徒、学生、そしてそう考える親であり、それが結果として学力低下として表れると結論付けている。

 そしてパイプライン・システムがうまく働かなくなったまとめとして、前出の機能と対比して以下のように述べている。
(1)学校で教育されることが、学校に見合った職に就ける保証ではなくなる。生徒、学生は、その職に就けるかどうか、「不安」の中で学ぶことになる。

(2)次に、過大な期待を諦める機会がなくなる。とりあえず、学校への入学は容易になるからだ。大学の数だけは増え、大学院拡充政策のおかげで、修士・博士課程への進学も容易になる。音楽学校、声優学校、ネイルアーティスト学校、アナウンサー養成所など、「格好いい」職に就くための専門学校も乱立状態である。日本では、基本的に親が高等教育の費用を出すので、とりあえず入学することができる。入学し、運がよければ、その学校が想定する職に就くことができる可能性はある。とりあえず、パイプには入れるので、自分の実力に見合わない過大な期待が広がる。

(3)そして、教育による階層上昇の期待が失われる。学歴インフレが起こっているので、親以上の学校に行っても、親以上の職に就けないケースの方が多くなっている。

 

 

さてどうだろう。今の大人には、かなり腑に落ちる話ではないだろうか。


インセンティブ・ディバイド

 苅谷剛彦は『階層化日本と教育危機』において、勉強を今まで通りにする子どもと、ほとんどしない子どもへの二極分化が生じており、勉強する意欲を失っている子どもや、子どもに勉強をさせる意欲を持っていない親が増えている状況を、「インセンティブ・ディバイド(誘因・意欲の格差拡大)」というメカニズムが作動した結果であると述べている。

 これは近年の教育改革が「過度の受験競争」という認識の下によるものであり、偏差値追放、推薦入試、AO入試の拡大など、学力を基準とした競争の圧力を教育の世界から取り除くことに全力をあげ、その結果受験競争の圧力を弱め、教育の世界で競争を否定する価値を広めたことにより、受験競争が維持してきたインセンティブを見えにくくしてきた。そしてその動機付けの構造に変わって、子どもたちの学習意欲を引き出す役割として期待されたのが、「新しい学力観」によって主導された「興味・関心」であるが、全体的な傾向として学習意欲の衰退を招いているという。またそれがすべての子どもたちに一様に生じているわけではなく、社会階層による格差の拡大を伴っていると指摘している。

 さらにインセンティブが見えにくくなることは、相対的に階層の低い子どもたちが、あえて学校の成功から降りてしまい、それにより自己の有能感を高めるはたらきをもつと指摘している。つまり学校での成功をあきらめ、現在の生活を楽しもうと意識の転換をはかることで、自信を高め自己を肯定しているのである。確かに、現在のような世相の中、「勉強してよい学校や会社に入っても将来どうなるかわからない」という言説を、その通りに感じる者にとっては、こうするしかないという側面があるのかもしれない。

不戦敗

 学校での成功をあきらめ、現在の生活を楽しもうと意識の転換をはかることで、自信を高め自己を肯定している子どもたち、勉強をしなくなった、「学び」から逃避している子どもたちのことを、竹内洋は「不戦敗」と表現している。

 まず勉強ができる・できないについて、勉強を「やればできる」勉強エリート、「やらなくてもできる」勉強超エリート、「やってもできない」勉強ノン・エリートという3つのグループに分ける。そこで勉強ノン・エリートは努力することによって、「負け」を確定させるよりは、努力しないで、「やればできる」を留保することを選んでいるというのである。これが「不戦敗」である。

 これも大いに腑に落ちる概念で、最近の子どもを見ていると、何も自分から行動もしないし、努力もしないにも関わらず、「幼稚な全能感」を持っているのである。実際には何もできることはないのだが、本当に何かをやろうと思えば、自分は「何だってできる」というような「根拠の無い自信」だけはかなり持っているのである。
 
 無論、すべての子どもがそうであるとは言わないが、そのような子どもが少なからずいるということである。私が思うに、このような子どもに共通する特徴は、「勉強することをバカにしている」「努力しない」「我慢することができない」「人をバカにする」「何かうまくいかないことがあれば、他人や世の中のせいにする」「自分は他人とは違うと思っている(特別だと思っている)」などである。要するに、自らが自分を磨き、光ることによってその存在を際立たせるのではなく、周囲や他人が光っていないことを確認しようとすることで、自分の存在を感じるのである。しかも、その子どもの親もそう思っていることが多く、甘やかしていることが多い。

 しかし、それが幻想であることを思い知る時が必然的に訪れる。入試や就職などである。

 例えば、高校入試について考えてみる。中学3年生になって、周囲の人間が少しずつ受験の準備を始めだす。自分は「やればできる」と思っているので、焦っている他人を見てバカにする。夏休みになり、そろそろ勉強しなくてはと思うが、今までしたことがないので勉強の仕方がわからない。でもまあ何とかなるだろうとタカをくくっている。いよいよ志望校を決めなければならない段階となり、自分が考えていた理想は現実には通用しないことがわかる。あわてて塾へと行ってみるが、厳しいトレーニングに耐える能力も根性もない。自分には勉強は向いていない、もっと他に自分の才能を発揮する場所があるはずだという希望的観測を抱く。しかし、社会に出て働こうという意欲も勇気も無く、専門学校や専修学校の知識も無く、親や周囲の人間は高校ぐらい出ろと言う。よって、不本意ながら自分が考えていたよりも下位の高校へ進学する。そしてこの結果については、本来自分は望んでいなかったと考え、学校の先生の勉強の教え方が悪かった、親の育て方が悪かったと、責任を他へ転嫁するのである。

 これが極端な例であるとはあまり思わない。少なくとも一部分に当てはまる子どもは少なくないだろう。このようにして、更にその後も「不戦敗」を続けていった帰結にあるのが、フリーターやニートであるのではないだろうか。よってこの「不戦敗」を許容してしまう風潮が問題なのであろう。

 そしてまた別の問題も起こってくる。「不戦敗」する人間が多くなるということは、当然、「不戦勝」する人間が増えるということである。勉強を「やればできる」勉強エリートは相対的に少しの努力で、「やらなくてもできる」勉強超エリートは相対的にその絶対量が増えるということである。それが全体的な学力を引き下げることとなるのではないだろうか。

マジックワード

 まずは、マジック・ワードという言葉の定義を考えてみる。 吉岡友治は『だまされない〈議論力〉』の中で、

 

議論とは、同じ対象に対して違った意見を持つことから始まる「状況」のことをいう。

  ↓

ということは、議論には正解がない。

  ↓

正解がないから、意見を聞き、議論をすることが必要とされる。

 

 

こういった対立状況(議論)において、もっとも信用ならないのは、ステレオタイプの意見や耳障りのよい言葉を言う人間だという。

「ステレオタイプ」=「陳腐で平凡な」という意味で、皆が使いすぎて、手垢にまみれた言葉。
一見もっともらしいが、議論の邪魔をすることが多い。これに似ていて、

   ・状況に関わらない便利な決め台詞
   ・誰も表立っては反対を言えないような表現

このような決まり文句表現を「マジック・ワード」という。


例えば、日本の国語の教科書で環境問題を扱うときには、「私たちは・・・・・・・考えるべきだろう」「一人一人が、できること」 などのフレーズが頻出するという。例を挙げると、

 

・わたしたちは、自然の状態をよく知り、できるかぎりバランスを壊さないように考えるべきであろう。

・わたしたちは 、今あるこの有言の資源を・・・利用する方策を考えなければならない。

・一人一人が、できることをしよう。

 

などである。確かにそうなのだが、「では、どうすればいいのか?」という問いに対しては、具体的で有効な答えを何も指示してくれないのである。

 

さて、このようなマジックワードは、教育の世界にもあふれているのである。

それらを説明しよう。


生きる力

これは第15期中央教育審議会が1996年に出した答申であり、その後新学習指導要領の総則に示されたものである。この言葉の定義は、「いかに社会が変化しようと、自分で課題を見つけ、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、行動し、よりよく問題を解決する資質や能力」である。そしてこれが21世紀の新教育課程のキーワードになり、総合的な学習の時間の創設に繋がったのである。この字義通りに子どもを伸長させることができるなら理想的なことである。しかし、この理念は高級すぎではないのだろうか。そこまで学校に求めてよいものだろうか、そして子どもの親や社会は学校にそう求めているのであろうか。またその検証は果たしてできるのであろうか。

現実的に考えて、この言葉は理想的・多義的・曖昧である。小塩隆士 は『教育を経済学で考える』において、この言葉について次のように述べている。

『学校がカリキュラムをすり減らす一方で、「生きる力」なんて言い出すから、筆者は、その「生きる力」とやらは、たとえホームレスになっても、ファストフード店の残飯をあさりながら生き延びる力とか、将来、日本に進出するであろう中国資本に低賃金で雇われても、ぜいたくせずにちゃんと暮らしていける力のことかなと、つい想像してしまう。』

全く同感であり、変化の激しい、これからはより厳しい競争社会に生きるということは、このような現実的な感覚が必要である。公務員という身分の保証された公立学校の教師が、子どもをこのように育てることができるのか疑問に思ってしまうのは当然だと言えないだろうか。そしてまた、西之園晴夫は『教育の方法と技術のなかで、次のように述べている。

『わが国の学校教育にいわゆる荒廃現象が起こったときに、ペーパーテストに基づく入試が批判されるようになったが、その時点ではまだ子どもの多様な能力をさまざまな方法で評価し、それに基づいて上級学校への進学を調整するという校種間の接続問題が採り上げられることはなかった。ゆとり教育や生きる力の育成などによって対応できると考えたのである。しかしこれらの言葉は教育関係者にとっては自己陶酔させる響きをもっているが、学校教育のもう一方の担い手である子どもたちにとっては意味不明な用語であり、さらに教育技術の視点からみると、実態をきびしく見つめるという点で焦点を不明確にする危険もある。』

これもまた現実的な考えであるだろう。子どもたちにとって「生きる力」とはこのようなものであると言われたところで、想像もつかないであろうし意味不明であろう。そして学校を卒業、進学するにあたり、子どものもつ「生きる力」をどう評価するのかという方法論の無いまま、それを唱えるのは空疎である。
 
はっきりと言えばよいのではなかろうか。義務教育課程において、そして学校で身につけさせることができる「生きる力」とは、「学力」のことであると。いくら自分で課題を見つけ、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、行動し、よりよく問題を解決せよといわれたところで、基礎的な「知識」、「学力」なくしては不可能であろう。そのような資質や能力が簡単に身につくはずがない。また、「学力」は子ども本人が「努力」をしなければ身につかないものである。この「努力」とは「努める力」であり、腕力や走力と同じく鍛えれば伸びる力であるということができる。そのように考えるならば、「努力」という能力を最大限伸ばし、いかに社会が変化しようとも、状況に応じて「努力」することができるのが「生きる力」であるだろう。

やや意地悪に言えば、冒頭の「生きる力」の定義は、

自分で課題を見つけ、
→自分で課題を見つけられない者は好きにしろ

自ら学び、
→自ら学ばない者は、どうなっても知らないぞ

自ら考え、
→自ら考えない者は他人・社会の言うとおりにしろ

主体的に判断し、
→主体的に判断出来ない者は他人・社会の言うとおりにしろ

行動し、
→行動しない者は、せめておとなしくしとけ

よりよく問題を解決する資質や能力
→資質や能力の無い者は、せめておとなしくしとけ

となる。そうすれば2002年の教育課程審議会の座長だった三浦朱門の発言は首肯できるのではないだろうか。

『できん者はできんままで結構。できる者を限りなく伸ばすことに労力を振り向ける。やがて彼らが国を引っ張っていく。非才、無才には、せめて実直な精神だけを養っておいてもらえばいい。それが「ゆとり教育」の本当の目的。エリート教育とは言いにくい時代だから、回りくどく言っただけの話だ。』


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