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指導から支援へ

 「ゆとり教育」の理念において、またそれ以降、教師の役割は、子どもに強制的に勉強させるという意味合いをもつ「指導」よりも、子どもが自ら学ぶのを「支援」することである、という文脈で語られることが多い。これには、どの子どもも自主的に自らの興味・関心に従って、自主的に学ぶであろうという、やや理想的過ぎる前提条件が必要である。本当にそうであれば問題ないのだが、現実にはそのような子どもは少数である。そうであるならば、自ら学ぼうとしない子どもに、何をどのように「支援」するのであろうか。

 このことが教師にとって、「指導」しなくてよいというエクスキューズ(言い訳)になっている可能性があるのではないだろうか。要するに教師がこの言葉によって「ラク」をすることができるのではないだろうか。

 親たちの話によれば、逸話的証拠にすぎないかもしれないが、宿題を一切出さない教師、当学年の教科書の内容をすべては教えない教師(学年途中の内容で終わってしまう)、「九九」は家庭で覚えさせてくれと言って憚らない教師、難しい内容は塾で習って下さいと言う教師など、枚挙に暇がない。要するに教えないのである。その結果として、「九九」がおぼつかない子ども、時間の60進法がわからない子ども、主語・述語すら知らない子ども、日本地図上で自分の居住地がわからない子どもなどが出てきて、そしてその割合が確実に増えているのである。

 もちろんすべての教師がそうであると言いたい訳ではない。基礎的な学力をしっかりと身につけさせるために、日々努力している教師が大半であるかもしれない。しかし「支援」という名の下に、「指導」を疎かにしている教師がいるのも事実である。よって、何を「指導」し、何を「支援」するのかを定義しなければならないであろうし、「指導」も「支援」も両方必要であると転換しなければならないであろう。

権利

 教育界(主として公立小・中学校) での、「権利」の定義として、次のような傾向があるように思われる。

「権利」=「~してもよい」

どういった使われ方をしているかというと、

・授業中に、眠る権利・他のことをする権利

(理由)授業が面白くないから。自分にとっては意味の無い授業だから。
    他人に迷惑をかけていないから。先生の授業が下手だから。


・宿題をやらない権利

(理由)宿題は強制だから。やっても意味ないから。
他の子もやっていないから。宿題をする時間がないから。


この論理もまた、子供に阿る大人がひねりだした、珍妙なもの。
「ラク」をしたい大人の「言い訳」の変形バージョン。

このような行為を叱責すれば、子供から、時には親から、
「人権無視」というクレームがつくこともある。
学校の教員も大変だ。
しかし、その行為をそのまま放っておいて、子供が悪い方へ
成長していくのを「見過ごす」のは「人権無視」ではないのだろうか?


このような拡大解釈された「権利」の定義が、はびこることになった一因
として、1994年に批准した「子どもの権利条約」というのがある。

まず1989年に国連で採択されたのは「児童の権利に関する条約」
というものであり、「子どもの権利条約」という名称ではない。
この点だけでも、怪しい意図が見え隠れする。

そして条約における「児童」とは、餓死する子供、人身売買される
子供、少年兵、ストリートチルドレンなどが念頭に置かれたもの
であり、これらの子供の生存権・生活権を保障しようというのが
条約の趣旨なのである。

そこに自分に都合のよいことを主張する「権利」なんてものは
有る訳が無い。

しかし、首をかしげるような自治体もあって、ある市はご丁寧に
「子どもの権利条例」なんてものを作って、

・ありのままでいる権利
・秘密が侵されない権利
・子どもであることで不当な扱いを受けない権利
・余暇を持つ権利

などという、恣意的に使用すれば、子供がかなりの強者になるような権利を保障しているのである。
これでは先生や親の言うことをきくはずがないのではなかろうか?
教育において「権利」とは、親にある「子供に教育を受けさせる義務」
に基づいた、子供が「教育を受ける権利」があるだけで、
それ以上でも以下でもないのではなかろうか。

個性

「個性」を広辞苑で調べてみると・・・

  個人に具わり、他の人とはちがう、その個人にしかない性格・性質

とある。しかし、教育の場で「個性」と言ったとき、
個人の特徴や癖とは違う意味を内包するのではないだろうか?

・他人とは違う「良さ」
・他人に良い影響を与える、他人に素晴らしいと思われる
・結果的に仕事になったり、「食える」ようになる

などではないだろうか?例えば・・・


・数学がめっちゃ得意
・サッカーがめっちゃ上手い
・元気よく笑顔で挨拶ができる
・この子がいるだけで、周りが明るく・楽しくなる


などなど。しかし、「個性」を拡大解釈し、

え~っ!と言いたくなるようなことを言う大人がたまにいる。


「ウチの子はゲームが大好きなんです!それが個性なんです!」

「ウチの子、鉛筆の持ち方がヘンなんですが・・・それも個性ですよね?」

「ウチの子は勉強があまり出来なくて・・・でもまあそれも個性ですから・・・」


違うのではないだろうか?

それはただの良くない癖であったり、躾をされていなかったり、

良くない特徴であったり、ただそれだけでは?

じゃあ、結果的に、ニートも個性? イジメ・イジメラレも個性?

罪を犯すのも個性?



このような「個性」という使い方をする大人の思考回路を想像するに・・・


一応、それではアカンなぁと自覚はしている
        ↓
でもゲームしてたら、放っておいてもいいし、ラク
躾や勉強させたりすんのは、メンドクサイ
        ↓
これも「個性」なんだ~と逃げる



「個性」とはこのようなエクスキューズ(言い訳)のために使われるべきものではない。


「個性」=良いモノ、素晴らしいモノを内包したもの、他人の模範になりうるモノ

 

換言すれば「取り柄」

そうでないもの=悪い癖、悪い特徴

と峻別すべきだと思う。


エクスキューズ

 これらのマジックワードが子供の前に用意され、元々の意味を超えて、

「学習・努力しなくてよい」

というエクスキューズ(言い訳)に使われることになったのである。


ピア・グループ効果

 小塩隆士は『教育を経済学で考える』の中で、経済学が「教育成果」へアプローチする場合、アウトプットとインプットの関係を示す「生産関数」を想定するという。アウトプットとしての教育成果とは、テストの点数などで示される点数であるが、インプットは次の3つのグループに分けることができるという。

 1つ目のグループは、その個人が生まれながらにして持っている属性や家庭・社会環境などである。知能指数がどれだけあるか、親の学歴や所得がどうなっているか、自宅でどれだけ勉強しているか、といった要因がこのグループに含まれる。

 2つ目のグループは、学校で供給される教育の「質」である。生徒1人当たりの教員数(またはその逆数)、教員の学歴や経験、図書館の蔵書数などがそこに含まれる。

 3番目の要因は、一緒に教育を受ける生徒の特性である。その生徒が属しているクラスを構成する生徒が平均的に持っている、生まれながらの能力や、(日本ではほとんど意味がないものの)人種の構成などがここに含まれる。この3番目の効果を「ピア・グループ効果」(peer-group-effect)と呼ぶことが多い。

 ここで注目すべき点は3番目の「ピア・グループ効果」である。最近では公立の学校でも、「習熟度別」という名を借りた「能力別」クラス編成が行われていると指摘した上で、次のように述べている。

 「朱に交われば赤くなる」という言葉がある。人間は、それほど強い存在ではない。周囲の影響に大きく左右される。まして、高校生ぐらいまでではしっかりとした自己が確立していない。友だち関係は、自己の形成に大きく左右する。能力別クラス編成の経済効果を考える場合、このような友だちの影響がピア・グループ効果として捉えられる。

 (中略)進学校を大学受験のテクニックをつめ込む学校であると決めつけるのは、一面的な解釈である。むしろ進学校は、生徒どうしが互いに刺激しあい、ピア・グループ効果がうまく発揮される「場」を提供できている学校というべきだろう。

 ただし、このピア・グループ効果は、ある程度、その学校に通ってくる子どもの頭の出来がよくなければ発揮されない。そのために進学校は、難しい入試問題を受験生に課して、入学する生徒の粒を揃える。(中略)頭のよい子どもたちが入学してくるのだから、進学校でピア・グループ効果が発揮されなければ、学校のほうに落ち度がある。

 一方、ピア・グループ効果は逆方向に作用することもある。同級生のほとんどが茶髪であれば、「オレも茶髪にしようか」と思うのが普通の人間である。友だちがだらしない格好で通学し、コンビニエンス・ストアで買い食いをしてゴミを街に撒き散らすのなら、自分もそうしなければならない。そうしないと、「優等生ぶりやがって」といじめられるのが目に見えている。こうして、ピア・グループ効果が悪い方向に作用すると、学校は教育困難校、底辺校への道をひたすら歩むことになる。そこから抜け出すのは、並大抵のことではない。

 このことは、高校であればまだ納得のいく話である。なぜなら、自らが入試を受け、選抜されて入学するのであり、行く行かないの選択の余地もまた残されている。しかしこれが、基本的に学校選択の余地がない(最近では選択制を取り入れている自治体もあるが)公立の小・中学校で起きているとすれば、そしてそれが目に見える形でわかるとすれば、かなり問題があるのではないだろうか。というのは、そこに行く生徒たちには選択権がなく、親の居住地域によって、よい方向のピア・グループ効果か悪い方向のピア・グループ効果が発揮されるかが、決まってしまうからである。


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