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生きる力

これは第15期中央教育審議会が1996年に出した答申であり、その後新学習指導要領の総則に示されたものである。この言葉の定義は、「いかに社会が変化しようと、自分で課題を見つけ、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、行動し、よりよく問題を解決する資質や能力」である。そしてこれが21世紀の新教育課程のキーワードになり、総合的な学習の時間の創設に繋がったのである。この字義通りに子どもを伸長させることができるなら理想的なことである。しかし、この理念は高級すぎではないのだろうか。そこまで学校に求めてよいものだろうか、そして子どもの親や社会は学校にそう求めているのであろうか。またその検証は果たしてできるのであろうか。

現実的に考えて、この言葉は理想的・多義的・曖昧である。小塩隆士 は『教育を経済学で考える』において、この言葉について次のように述べている。

『学校がカリキュラムをすり減らす一方で、「生きる力」なんて言い出すから、筆者は、その「生きる力」とやらは、たとえホームレスになっても、ファストフード店の残飯をあさりながら生き延びる力とか、将来、日本に進出するであろう中国資本に低賃金で雇われても、ぜいたくせずにちゃんと暮らしていける力のことかなと、つい想像してしまう。』

全く同感であり、変化の激しい、これからはより厳しい競争社会に生きるということは、このような現実的な感覚が必要である。公務員という身分の保証された公立学校の教師が、子どもをこのように育てることができるのか疑問に思ってしまうのは当然だと言えないだろうか。そしてまた、西之園晴夫は『教育の方法と技術のなかで、次のように述べている。

『わが国の学校教育にいわゆる荒廃現象が起こったときに、ペーパーテストに基づく入試が批判されるようになったが、その時点ではまだ子どもの多様な能力をさまざまな方法で評価し、それに基づいて上級学校への進学を調整するという校種間の接続問題が採り上げられることはなかった。ゆとり教育や生きる力の育成などによって対応できると考えたのである。しかしこれらの言葉は教育関係者にとっては自己陶酔させる響きをもっているが、学校教育のもう一方の担い手である子どもたちにとっては意味不明な用語であり、さらに教育技術の視点からみると、実態をきびしく見つめるという点で焦点を不明確にする危険もある。』

これもまた現実的な考えであるだろう。子どもたちにとって「生きる力」とはこのようなものであると言われたところで、想像もつかないであろうし意味不明であろう。そして学校を卒業、進学するにあたり、子どものもつ「生きる力」をどう評価するのかという方法論の無いまま、それを唱えるのは空疎である。
 
はっきりと言えばよいのではなかろうか。義務教育課程において、そして学校で身につけさせることができる「生きる力」とは、「学力」のことであると。いくら自分で課題を見つけ、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、行動し、よりよく問題を解決せよといわれたところで、基礎的な「知識」、「学力」なくしては不可能であろう。そのような資質や能力が簡単に身につくはずがない。また、「学力」は子ども本人が「努力」をしなければ身につかないものである。この「努力」とは「努める力」であり、腕力や走力と同じく鍛えれば伸びる力であるということができる。そのように考えるならば、「努力」という能力を最大限伸ばし、いかに社会が変化しようとも、状況に応じて「努力」することができるのが「生きる力」であるだろう。

やや意地悪に言えば、冒頭の「生きる力」の定義は、

自分で課題を見つけ、
→自分で課題を見つけられない者は好きにしろ

自ら学び、
→自ら学ばない者は、どうなっても知らないぞ

自ら考え、
→自ら考えない者は他人・社会の言うとおりにしろ

主体的に判断し、
→主体的に判断出来ない者は他人・社会の言うとおりにしろ

行動し、
→行動しない者は、せめておとなしくしとけ

よりよく問題を解決する資質や能力
→資質や能力の無い者は、せめておとなしくしとけ

となる。そうすれば2002年の教育課程審議会の座長だった三浦朱門の発言は首肯できるのではないだろうか。

『できん者はできんままで結構。できる者を限りなく伸ばすことに労力を振り向ける。やがて彼らが国を引っ張っていく。非才、無才には、せめて実直な精神だけを養っておいてもらえばいい。それが「ゆとり教育」の本当の目的。エリート教育とは言いにくい時代だから、回りくどく言っただけの話だ。』

指導から支援へ

 「ゆとり教育」の理念において、またそれ以降、教師の役割は、子どもに強制的に勉強させるという意味合いをもつ「指導」よりも、子どもが自ら学ぶのを「支援」することである、という文脈で語られることが多い。これには、どの子どもも自主的に自らの興味・関心に従って、自主的に学ぶであろうという、やや理想的過ぎる前提条件が必要である。本当にそうであれば問題ないのだが、現実にはそのような子どもは少数である。そうであるならば、自ら学ぼうとしない子どもに、何をどのように「支援」するのであろうか。

 このことが教師にとって、「指導」しなくてよいというエクスキューズ(言い訳)になっている可能性があるのではないだろうか。要するに教師がこの言葉によって「ラク」をすることができるのではないだろうか。

 親たちの話によれば、逸話的証拠にすぎないかもしれないが、宿題を一切出さない教師、当学年の教科書の内容をすべては教えない教師(学年途中の内容で終わってしまう)、「九九」は家庭で覚えさせてくれと言って憚らない教師、難しい内容は塾で習って下さいと言う教師など、枚挙に暇がない。要するに教えないのである。その結果として、「九九」がおぼつかない子ども、時間の60進法がわからない子ども、主語・述語すら知らない子ども、日本地図上で自分の居住地がわからない子どもなどが出てきて、そしてその割合が確実に増えているのである。

 もちろんすべての教師がそうであると言いたい訳ではない。基礎的な学力をしっかりと身につけさせるために、日々努力している教師が大半であるかもしれない。しかし「支援」という名の下に、「指導」を疎かにしている教師がいるのも事実である。よって、何を「指導」し、何を「支援」するのかを定義しなければならないであろうし、「指導」も「支援」も両方必要であると転換しなければならないであろう。

権利

 教育界(主として公立小・中学校) での、「権利」の定義として、次のような傾向があるように思われる。

「権利」=「~してもよい」

どういった使われ方をしているかというと、

・授業中に、眠る権利・他のことをする権利

(理由)授業が面白くないから。自分にとっては意味の無い授業だから。
    他人に迷惑をかけていないから。先生の授業が下手だから。


・宿題をやらない権利

(理由)宿題は強制だから。やっても意味ないから。
他の子もやっていないから。宿題をする時間がないから。


この論理もまた、子供に阿る大人がひねりだした、珍妙なもの。
「ラク」をしたい大人の「言い訳」の変形バージョン。

このような行為を叱責すれば、子供から、時には親から、
「人権無視」というクレームがつくこともある。
学校の教員も大変だ。
しかし、その行為をそのまま放っておいて、子供が悪い方へ
成長していくのを「見過ごす」のは「人権無視」ではないのだろうか?


このような拡大解釈された「権利」の定義が、はびこることになった一因
として、1994年に批准した「子どもの権利条約」というのがある。

まず1989年に国連で採択されたのは「児童の権利に関する条約」
というものであり、「子どもの権利条約」という名称ではない。
この点だけでも、怪しい意図が見え隠れする。

そして条約における「児童」とは、餓死する子供、人身売買される
子供、少年兵、ストリートチルドレンなどが念頭に置かれたもの
であり、これらの子供の生存権・生活権を保障しようというのが
条約の趣旨なのである。

そこに自分に都合のよいことを主張する「権利」なんてものは
有る訳が無い。

しかし、首をかしげるような自治体もあって、ある市はご丁寧に
「子どもの権利条例」なんてものを作って、

・ありのままでいる権利
・秘密が侵されない権利
・子どもであることで不当な扱いを受けない権利
・余暇を持つ権利

などという、恣意的に使用すれば、子供がかなりの強者になるような権利を保障しているのである。
これでは先生や親の言うことをきくはずがないのではなかろうか?
教育において「権利」とは、親にある「子供に教育を受けさせる義務」
に基づいた、子供が「教育を受ける権利」があるだけで、
それ以上でも以下でもないのではなかろうか。

個性

「個性」を広辞苑で調べてみると・・・

  個人に具わり、他の人とはちがう、その個人にしかない性格・性質

とある。しかし、教育の場で「個性」と言ったとき、
個人の特徴や癖とは違う意味を内包するのではないだろうか?

・他人とは違う「良さ」
・他人に良い影響を与える、他人に素晴らしいと思われる
・結果的に仕事になったり、「食える」ようになる

などではないだろうか?例えば・・・


・数学がめっちゃ得意
・サッカーがめっちゃ上手い
・元気よく笑顔で挨拶ができる
・この子がいるだけで、周りが明るく・楽しくなる


などなど。しかし、「個性」を拡大解釈し、

え~っ!と言いたくなるようなことを言う大人がたまにいる。


「ウチの子はゲームが大好きなんです!それが個性なんです!」

「ウチの子、鉛筆の持ち方がヘンなんですが・・・それも個性ですよね?」

「ウチの子は勉強があまり出来なくて・・・でもまあそれも個性ですから・・・」


違うのではないだろうか?

それはただの良くない癖であったり、躾をされていなかったり、

良くない特徴であったり、ただそれだけでは?

じゃあ、結果的に、ニートも個性? イジメ・イジメラレも個性?

罪を犯すのも個性?



このような「個性」という使い方をする大人の思考回路を想像するに・・・


一応、それではアカンなぁと自覚はしている
        ↓
でもゲームしてたら、放っておいてもいいし、ラク
躾や勉強させたりすんのは、メンドクサイ
        ↓
これも「個性」なんだ~と逃げる



「個性」とはこのようなエクスキューズ(言い訳)のために使われるべきものではない。


「個性」=良いモノ、素晴らしいモノを内包したもの、他人の模範になりうるモノ

 

換言すれば「取り柄」

そうでないもの=悪い癖、悪い特徴

と峻別すべきだと思う。


エクスキューズ

 これらのマジックワードが子供の前に用意され、元々の意味を超えて、

「学習・努力しなくてよい」

というエクスキューズ(言い訳)に使われることになったのである。



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