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不戦敗

 学校での成功をあきらめ、現在の生活を楽しもうと意識の転換をはかることで、自信を高め自己を肯定している子どもたち、勉強をしなくなった、「学び」から逃避している子どもたちのことを、竹内洋は「不戦敗」と表現している。

 まず勉強ができる・できないについて、勉強を「やればできる」勉強エリート、「やらなくてもできる」勉強超エリート、「やってもできない」勉強ノン・エリートという3つのグループに分ける。そこで勉強ノン・エリートは努力することによって、「負け」を確定させるよりは、努力しないで、「やればできる」を留保することを選んでいるというのである。これが「不戦敗」である。

 これも大いに腑に落ちる概念で、最近の子どもを見ていると、何も自分から行動もしないし、努力もしないにも関わらず、「幼稚な全能感」を持っているのである。実際には何もできることはないのだが、本当に何かをやろうと思えば、自分は「何だってできる」というような「根拠の無い自信」だけはかなり持っているのである。
 
 無論、すべての子どもがそうであるとは言わないが、そのような子どもが少なからずいるということである。私が思うに、このような子どもに共通する特徴は、「勉強することをバカにしている」「努力しない」「我慢することができない」「人をバカにする」「何かうまくいかないことがあれば、他人や世の中のせいにする」「自分は他人とは違うと思っている(特別だと思っている)」などである。要するに、自らが自分を磨き、光ることによってその存在を際立たせるのではなく、周囲や他人が光っていないことを確認しようとすることで、自分の存在を感じるのである。しかも、その子どもの親もそう思っていることが多く、甘やかしていることが多い。

 しかし、それが幻想であることを思い知る時が必然的に訪れる。入試や就職などである。

 例えば、高校入試について考えてみる。中学3年生になって、周囲の人間が少しずつ受験の準備を始めだす。自分は「やればできる」と思っているので、焦っている他人を見てバカにする。夏休みになり、そろそろ勉強しなくてはと思うが、今までしたことがないので勉強の仕方がわからない。でもまあ何とかなるだろうとタカをくくっている。いよいよ志望校を決めなければならない段階となり、自分が考えていた理想は現実には通用しないことがわかる。あわてて塾へと行ってみるが、厳しいトレーニングに耐える能力も根性もない。自分には勉強は向いていない、もっと他に自分の才能を発揮する場所があるはずだという希望的観測を抱く。しかし、社会に出て働こうという意欲も勇気も無く、専門学校や専修学校の知識も無く、親や周囲の人間は高校ぐらい出ろと言う。よって、不本意ながら自分が考えていたよりも下位の高校へ進学する。そしてこの結果については、本来自分は望んでいなかったと考え、学校の先生の勉強の教え方が悪かった、親の育て方が悪かったと、責任を他へ転嫁するのである。

 これが極端な例であるとはあまり思わない。少なくとも一部分に当てはまる子どもは少なくないだろう。このようにして、更にその後も「不戦敗」を続けていった帰結にあるのが、フリーターやニートであるのではないだろうか。よってこの「不戦敗」を許容してしまう風潮が問題なのであろう。

 そしてまた別の問題も起こってくる。「不戦敗」する人間が多くなるということは、当然、「不戦勝」する人間が増えるということである。勉強を「やればできる」勉強エリートは相対的に少しの努力で、「やらなくてもできる」勉強超エリートは相対的にその絶対量が増えるということである。それが全体的な学力を引き下げることとなるのではないだろうか。

マジックワード

 まずは、マジック・ワードという言葉の定義を考えてみる。 吉岡友治は『だまされない〈議論力〉』の中で、

 

議論とは、同じ対象に対して違った意見を持つことから始まる「状況」のことをいう。

  ↓

ということは、議論には正解がない。

  ↓

正解がないから、意見を聞き、議論をすることが必要とされる。

 

 

こういった対立状況(議論)において、もっとも信用ならないのは、ステレオタイプの意見や耳障りのよい言葉を言う人間だという。

「ステレオタイプ」=「陳腐で平凡な」という意味で、皆が使いすぎて、手垢にまみれた言葉。
一見もっともらしいが、議論の邪魔をすることが多い。これに似ていて、

   ・状況に関わらない便利な決め台詞
   ・誰も表立っては反対を言えないような表現

このような決まり文句表現を「マジック・ワード」という。


例えば、日本の国語の教科書で環境問題を扱うときには、「私たちは・・・・・・・考えるべきだろう」「一人一人が、できること」 などのフレーズが頻出するという。例を挙げると、

 

・わたしたちは、自然の状態をよく知り、できるかぎりバランスを壊さないように考えるべきであろう。

・わたしたちは 、今あるこの有言の資源を・・・利用する方策を考えなければならない。

・一人一人が、できることをしよう。

 

などである。確かにそうなのだが、「では、どうすればいいのか?」という問いに対しては、具体的で有効な答えを何も指示してくれないのである。

 

さて、このようなマジックワードは、教育の世界にもあふれているのである。

それらを説明しよう。


生きる力

これは第15期中央教育審議会が1996年に出した答申であり、その後新学習指導要領の総則に示されたものである。この言葉の定義は、「いかに社会が変化しようと、自分で課題を見つけ、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、行動し、よりよく問題を解決する資質や能力」である。そしてこれが21世紀の新教育課程のキーワードになり、総合的な学習の時間の創設に繋がったのである。この字義通りに子どもを伸長させることができるなら理想的なことである。しかし、この理念は高級すぎではないのだろうか。そこまで学校に求めてよいものだろうか、そして子どもの親や社会は学校にそう求めているのであろうか。またその検証は果たしてできるのであろうか。

現実的に考えて、この言葉は理想的・多義的・曖昧である。小塩隆士 は『教育を経済学で考える』において、この言葉について次のように述べている。

『学校がカリキュラムをすり減らす一方で、「生きる力」なんて言い出すから、筆者は、その「生きる力」とやらは、たとえホームレスになっても、ファストフード店の残飯をあさりながら生き延びる力とか、将来、日本に進出するであろう中国資本に低賃金で雇われても、ぜいたくせずにちゃんと暮らしていける力のことかなと、つい想像してしまう。』

全く同感であり、変化の激しい、これからはより厳しい競争社会に生きるということは、このような現実的な感覚が必要である。公務員という身分の保証された公立学校の教師が、子どもをこのように育てることができるのか疑問に思ってしまうのは当然だと言えないだろうか。そしてまた、西之園晴夫は『教育の方法と技術のなかで、次のように述べている。

『わが国の学校教育にいわゆる荒廃現象が起こったときに、ペーパーテストに基づく入試が批判されるようになったが、その時点ではまだ子どもの多様な能力をさまざまな方法で評価し、それに基づいて上級学校への進学を調整するという校種間の接続問題が採り上げられることはなかった。ゆとり教育や生きる力の育成などによって対応できると考えたのである。しかしこれらの言葉は教育関係者にとっては自己陶酔させる響きをもっているが、学校教育のもう一方の担い手である子どもたちにとっては意味不明な用語であり、さらに教育技術の視点からみると、実態をきびしく見つめるという点で焦点を不明確にする危険もある。』

これもまた現実的な考えであるだろう。子どもたちにとって「生きる力」とはこのようなものであると言われたところで、想像もつかないであろうし意味不明であろう。そして学校を卒業、進学するにあたり、子どものもつ「生きる力」をどう評価するのかという方法論の無いまま、それを唱えるのは空疎である。
 
はっきりと言えばよいのではなかろうか。義務教育課程において、そして学校で身につけさせることができる「生きる力」とは、「学力」のことであると。いくら自分で課題を見つけ、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、行動し、よりよく問題を解決せよといわれたところで、基礎的な「知識」、「学力」なくしては不可能であろう。そのような資質や能力が簡単に身につくはずがない。また、「学力」は子ども本人が「努力」をしなければ身につかないものである。この「努力」とは「努める力」であり、腕力や走力と同じく鍛えれば伸びる力であるということができる。そのように考えるならば、「努力」という能力を最大限伸ばし、いかに社会が変化しようとも、状況に応じて「努力」することができるのが「生きる力」であるだろう。

やや意地悪に言えば、冒頭の「生きる力」の定義は、

自分で課題を見つけ、
→自分で課題を見つけられない者は好きにしろ

自ら学び、
→自ら学ばない者は、どうなっても知らないぞ

自ら考え、
→自ら考えない者は他人・社会の言うとおりにしろ

主体的に判断し、
→主体的に判断出来ない者は他人・社会の言うとおりにしろ

行動し、
→行動しない者は、せめておとなしくしとけ

よりよく問題を解決する資質や能力
→資質や能力の無い者は、せめておとなしくしとけ

となる。そうすれば2002年の教育課程審議会の座長だった三浦朱門の発言は首肯できるのではないだろうか。

『できん者はできんままで結構。できる者を限りなく伸ばすことに労力を振り向ける。やがて彼らが国を引っ張っていく。非才、無才には、せめて実直な精神だけを養っておいてもらえばいい。それが「ゆとり教育」の本当の目的。エリート教育とは言いにくい時代だから、回りくどく言っただけの話だ。』

指導から支援へ

 「ゆとり教育」の理念において、またそれ以降、教師の役割は、子どもに強制的に勉強させるという意味合いをもつ「指導」よりも、子どもが自ら学ぶのを「支援」することである、という文脈で語られることが多い。これには、どの子どもも自主的に自らの興味・関心に従って、自主的に学ぶであろうという、やや理想的過ぎる前提条件が必要である。本当にそうであれば問題ないのだが、現実にはそのような子どもは少数である。そうであるならば、自ら学ぼうとしない子どもに、何をどのように「支援」するのであろうか。

 このことが教師にとって、「指導」しなくてよいというエクスキューズ(言い訳)になっている可能性があるのではないだろうか。要するに教師がこの言葉によって「ラク」をすることができるのではないだろうか。

 親たちの話によれば、逸話的証拠にすぎないかもしれないが、宿題を一切出さない教師、当学年の教科書の内容をすべては教えない教師(学年途中の内容で終わってしまう)、「九九」は家庭で覚えさせてくれと言って憚らない教師、難しい内容は塾で習って下さいと言う教師など、枚挙に暇がない。要するに教えないのである。その結果として、「九九」がおぼつかない子ども、時間の60進法がわからない子ども、主語・述語すら知らない子ども、日本地図上で自分の居住地がわからない子どもなどが出てきて、そしてその割合が確実に増えているのである。

 もちろんすべての教師がそうであると言いたい訳ではない。基礎的な学力をしっかりと身につけさせるために、日々努力している教師が大半であるかもしれない。しかし「支援」という名の下に、「指導」を疎かにしている教師がいるのも事実である。よって、何を「指導」し、何を「支援」するのかを定義しなければならないであろうし、「指導」も「支援」も両方必要であると転換しなければならないであろう。

権利

 教育界(主として公立小・中学校) での、「権利」の定義として、次のような傾向があるように思われる。

「権利」=「~してもよい」

どういった使われ方をしているかというと、

・授業中に、眠る権利・他のことをする権利

(理由)授業が面白くないから。自分にとっては意味の無い授業だから。
    他人に迷惑をかけていないから。先生の授業が下手だから。


・宿題をやらない権利

(理由)宿題は強制だから。やっても意味ないから。
他の子もやっていないから。宿題をする時間がないから。


この論理もまた、子供に阿る大人がひねりだした、珍妙なもの。
「ラク」をしたい大人の「言い訳」の変形バージョン。

このような行為を叱責すれば、子供から、時には親から、
「人権無視」というクレームがつくこともある。
学校の教員も大変だ。
しかし、その行為をそのまま放っておいて、子供が悪い方へ
成長していくのを「見過ごす」のは「人権無視」ではないのだろうか?


このような拡大解釈された「権利」の定義が、はびこることになった一因
として、1994年に批准した「子どもの権利条約」というのがある。

まず1989年に国連で採択されたのは「児童の権利に関する条約」
というものであり、「子どもの権利条約」という名称ではない。
この点だけでも、怪しい意図が見え隠れする。

そして条約における「児童」とは、餓死する子供、人身売買される
子供、少年兵、ストリートチルドレンなどが念頭に置かれたもの
であり、これらの子供の生存権・生活権を保障しようというのが
条約の趣旨なのである。

そこに自分に都合のよいことを主張する「権利」なんてものは
有る訳が無い。

しかし、首をかしげるような自治体もあって、ある市はご丁寧に
「子どもの権利条例」なんてものを作って、

・ありのままでいる権利
・秘密が侵されない権利
・子どもであることで不当な扱いを受けない権利
・余暇を持つ権利

などという、恣意的に使用すれば、子供がかなりの強者になるような権利を保障しているのである。
これでは先生や親の言うことをきくはずがないのではなかろうか?
教育において「権利」とは、親にある「子供に教育を受けさせる義務」
に基づいた、子供が「教育を受ける権利」があるだけで、
それ以上でも以下でもないのではなかろうか。


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