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プロローグ

 

間(ヒト)は、その人の事を悪魔(サタン)という

 

 ―暁の子 明けの明星(ルシフェル)よ

 何故貴方は天から堕ちたのか

 

さて天に戦いが起こり 大天使ミカエルと彼の使いたちは竜と戦った

 竜とその使いたちは応戦したが勝つことは能(あたわ)ず

 

天には最早彼らのいる場所がなくなった

 

 かくてこの大いなる竜 すなわち反逆者、サタンと呼ばれ世を惑わす

かの古き蛇は投げ落とされた 

彼は地に落とされ その使いたちも共に落とされた

                               (ヨハネ黙示録第12章)

 

 

 


出会い

 「今日は霧が深いから、お気をつけて。神のご加護がありますように。」

「ありがとうございます。では、また明日。」

ルドルフ・パウル神父は、美しい娘、ナディアを見送ると教会の中に戻った。その顔は、何か考え込むような難しい表情をしている。

「リュシフェ様が領主になられてから17年が経った‥。」

その時、風が教会の窓をゆらした。ふと窓を見ると、外は霧で薄暗くなっている。

「今日は本当に霧が深い…。」

 あまり姿を現さない美しいアストロフ公は、若い年頃の貴族の娘たちにとっては憧れの人である。波打つブロンズの髪、涼しげな琥珀の瞳、ギリシャ彫刻の如く整った顔立ち、均整のとれた体格。そして何よりも23歳で独身という、野心家の貴族令嬢にとっては、あわよくば妻となり、地位も名誉も手に入れる事ができるという条件が揃っている妙齢の男性である。もちろん彼女達の親も何とかアストロフ公の気を惹こうと、盛大なパーティーを開催してはアストロフ公を招待しているが、本人は招待を受けてもいざ結婚の話を切り出すと優雅に微笑んで柔らかくかわされるという状態である。「捉えどころのない領主」「決して手の届かない男性」という噂が定番となったが、それでも「もしかしたら‥」という一縷の望みに期待をする者も少なくない。

  ナディア・オレフは帰路を急いでいた。普段は馬車で教会にいくのだが、今日に限って徒歩で教会を訪れたのだ。貴族の娘らしくない行動だが、霧が出るのはいつものことだし、屋敷までさほど遠い距離ではないので大丈夫だろうと思っていたのである。いつもなら必ず彼女のお供をする乳母も一緒だが、体調を崩しているために、ナディアは一人で教会を訪れたのである。大好きな乳母が、一日でも早く元気になってくれるようにと神に祈りを捧げるためだ。

 彼女は、この辺りの名士、オレフ家の一人娘としてこの世に誕生した。幼い頃に母親を亡くし、乳母が母親代わりだった。乳母はとても美しく聡明であり、年齢も20代という妙齢の未亡人で、ナディアは乳母というよりも姉のように慕っていた。父親はこの時代には珍しく愛人の一人もおらず、妻が亡くなってから何年も経った今でさえも亡き妻だけを愛し、妻の忘れ形見であるナディアを宝石のように大切にしていた。ナディアも父親をとても愛し尊敬していたが、その為、もし自分が嫁いだらこの家に一人で住む事になり、寂しい思いをするのではないかと心配しており、心密かに乳母と再婚してくれたらいいのにと思っていた。二人の様子を見ると、お互いまんざらでもないように感じる。何よりも二人が並んでいるととても自然だった。

「こんなに霧が深くなるとは思わなかったわ。やはり、馬車か馬で来ればよかったかしら。」

いつもの十字路が見えてくる。この十字路を右に曲がり、五分ほど歩けば家に着く。左側の道は、現在の領主アストロフ公の私道で、小高い丘の上に建つ公の屋敷へと続いている。

 ナディアは家に帰るために右を向いたのだが、左側の道からとても芳しい香りがしてきて、何かに憑かれたかのようにふらふらと左の道を歩き出した。小高い丘に続く道はだんだん狭くなり細くなってゆく。広大な畑や果樹園、小さな小川のある野原はいつの間にか木が生い茂る森となっていた。ナディアはただひたすらまっすぐに歩いていった。芳香はますます強くなり、森の中程に差しかかった時、群生する深紅の薔薇を見つけた。見事に咲いている薔薇は思わず息をのんでしまうほど美しかった。ナディアはしばらく見とれてからホッとため息をつく。

「十字路でほのかに匂ってきた芳しい香りは、この薔薇だったのね。こんなに見事に咲いている薔薇を見るのは初めてだわ。なんて美しいのでしょう。え‥?金の薔薇?」

真っ赤な薔薇の中に、一つだけ光のように金色に輝く薔薇を見つけたナディアは、その強烈な芳香を感じ、気を失うとその場に崩れ落ちるように倒れた。

  

 「リュシフェ様、馬車の用意ができました。いつでもご出発できます。」

「ありがとう。うん?」

夜会服に身を包み、出発しようと一歩歩きかけた美しい領主は、急に歩みを止めた。その眼は、外を見るようにドアを見つめていた。

「いかがなさいましたか?」

「森の中の薔薇園に人が迷い込んだようだ。ちょっと見てくる。」

「はい。お気をつけて。」

フェリアス夫妻に見送られて、リュシフェ・アストロフ公は足早に屋敷を出ていった。

「今日は霧が深いな‥。」

リュシフェは霧で薄暗い中、森に続く細い道を迷わずに馬で駆け抜けていった。霧の中には小雨が混じっているのでなるべく早く辿り着かなければ人はこの寒さで凍え死んでしまう。やがて森の中の薔薇園にたどり着くと、少女が倒れていた。リュシフェは素早く馬から降りるとナディアをそっと抱き起した。

「体が冷え切っている。早く温めてやらねば‥。」

リュシフェはそのままナディアを抱えて馬に乗ろうとした時、金の薔薇を見つけた。一瞬息を止めたが、すぐに冷静な顔に戻り、じっとナディアを見つめた。そして再び薔薇の方に目を向けると、そこには深紅の薔薇の群生しかなかった。

「気のせいか‥さもあろう。私が領主になってからまだ17年しか経っていない。いや、17年も経ったというべきか…。」

リュシフェはフッと寂しげな笑みを浮かべると屋敷に引き返した。

 


惹かれ合う2人

  ナディアは見たことのない部屋で目覚めた。美しい刺繍が施してある絹のシーツと枕、掛布団、レース地の布が柔らかく覆っている天蓋付のベッド。一瞬、いつの間に家に帰ったのだろうかと思ったのだが、自分の部屋とはだいぶ趣が異なっている。ふと顔を横に向けると、見たことのない女性が刺繍をしている。

「ここは・・・?」

「よかった。気がつかれましたね。気分はどうですか?」

「大丈夫です。すっかりお世話をかけてしまったようですね。あの・・ここは?」

「リュシフェ・アストロフ公のお屋敷ですよ。お嬢様はアストロフ公の薔薇園で気を失っていたのです。それをリュシフェ様が見つけられました。申し遅れまして失礼いたしました。わたくしは、リュシフェ・アストロフ公にお仕えしているミレーヌ・フェリアスと申します。」

ミレーヌは優しく微笑むと深くお辞儀をして挨拶をした。年の頃はナディアの乳母と同じ頃だろうか。この女性も見るからに聡明そうで美しい。彼女が醸し出している雰囲気は乳母と似ていて、ナディアは一目でミレーヌに好感を持った。

 ナディアも自己紹介をしようと思ったその時、部屋の扉が開いて、とても美しく洗練された男性が入ってきた。リュシフェである。彼に一度も会った事がなかったナディアは、こんなにも美しい男性がいるのだろうかと思わず息をのみ、言葉を失ってしまった。

「気分はどうですか?私はリュシフェ・アストロフです。貴女は私の薔薇園で倒れていたのです。怪我はありませんか。」

ナディアはベッドから降りて挨拶をしようとしたが、自分が寝間着姿であることに気がつき、慌ててベッドの中に戻った。

「はしたない姿を晒しまして、申し訳ございません。」

ナディアは真っ赤になりながら、さらに布団を自分の方に引き寄せた。それに気がついたミレーヌが、申し訳ございませんと謝りながら、豪華な赤いガウンを着せてくれた。寝間着1枚よりもましではあるが、それでもナディアは恥ずかしくてたまらなかった。ナディアが着ていたドレスは火の側にかけてあった。霧雨の中で倒れていたのでドレスが濡れてしまっているから乾かしていますとミレーヌが説明してくれた。

「ドレスが乾くまでまだ時間がかかりそうですね。体調がよろしければ一緒に食事でもいかがですか?」

「光栄でございますが外出される予定だったのではありませんか?わたくしが勝手にアストロフ公の敷地内に入り込んだばかりに大変なご迷惑をおかけしてしまって申し訳ございません。わたくしはナディア・オレフと申します。ご挨拶が遅れた失礼をお詫び申し上げます。」

リュシフェは、躊躇しながらもベッドから降りて深々と頭を下げるナディアを見て側に近寄り声をかけた。

「外出の事ならご心配は無用です。正式に招待を受けると返事をしたわけではありません。何よりも、私は貴女と食事がしたいのです。多分‥」

彼は少し言葉を詰まらせた後、静かな口調で言葉を繋いだ。

 「多分、ここにあるドレスに着替えられるでしょう。ミレーヌ、お世話を頼む。ではオレフ嬢、いやナディアとお呼びしてよろしいかな?先に広間でお待ちしています。」

アストロフ公は優雅にお辞儀をするとナディアに礼をとり、その場から去っていく。

  ナディアはこんなに美しいドレスを見たことがなかった。ドレスの色は聖母マリアの衣を思わせるような深いブルーで、襟元と広くひらいた袖口、胸下にあるリボン、裾はとても美しい紫のベルベットに金色の糸で繊細な刺繍が施されており、ドレス全体に小さなダイヤモンドが縫い付けられていた。裾は1メートルほど長めの丈となっていて、床にその裾を引く様はまことに優雅である。

「思った通りだ。とてもよく似合っています。」

「わたくしはこんなにも美しいドレスを見たことがありません。」

「私の母の、亡き母の形見です。」

「お母様の‥そんな大切なものをお借りするわけには参りませんわ。もう少しお時間を頂けますか?わたくしのドレスに着替えて参ります。」

「そんな事をしたら貴女が体調を崩してしまうでしょう。それに本当によく似合っているからきっと母も喜んでいると思います。さぁ、食事にしましょう。」

 食事の間中2人の笑顔が絶えることはなかった。リュシフェは実に博識で、政治などの社会面から音楽や絵画など芸術面まで様々な話をしてくれた。ナディアはそれらの話に熱心に耳を傾け、わからない事は質問をした。彼が少し意地悪な質問をすると、わからないながらも一生懸命に考えて自分なりの答えを導き出した。同じ17歳の貴族の娘と比べても彼女は群を抜いて聡明で、リュシフェは心から感心した。彼女の親や家庭教師がとても優れた人物であるという事が感じられた。またその美しさも格別で、雪のように白い肌、小さな顔、アーモンドのような目、筋の通った鼻、紅を付けていなくてもほんのりとピンク色の唇。中肉中背というよりも小柄な体だが、とてもバランスがとれている。

「あまりにも楽しくて時間が経つのも忘れてしまった。まだまだ話をしていたいのはやまやまだが、貴女の父上がご心配なさるでしょう。送っていこう。ミレーヌ、ナディアのドレスは乾いているだろうか。」

「さきほど確認してまいりましたが、まだ少し湿っております。」

「それならばこのドレスを着ていけばいい。」

「お借りしてもよろしいでしょうか。」

「もちろんです。そうだ。このドレス用のマントもあったはず。ミレーヌ持ってきてくれないか?」

「そう思いましたので、ご用意いたしました。」

「さすがだな。さぁ、ナディア。よく似合っているよ。」

こういうと彼は、うんうんという満足そうな笑みを浮かべながら自らナディアにコートを羽織らせた。

 館の前にはすでに馬車が用意してあり、リュシフェはナディアをエスコートして馬車の座席に座らせた後、隣の座席に乗り込んだ。その馬車を見送るミレーヌとその夫のジーク。

「あなた。」

「うん?」

「私はリュシフェ様の心からの笑顔を久しぶりに見ました。」

「そうだな。もしかしたらナディア様はあの方の“永遠の人”かもしれない。」

「そうね。本当なら心から祝福をしたいけれど、でもあの方の記憶は‥。」

「それをいってはだめだ。運命にまかすしかあるまい。」

  オレフ伯は、領主の突然の訪問に緊張をしていた。しばらくは何も行動を起こせずにいたが、我に返ると慌てて家の中へと招き入れようとした。

「いえお嬢様をお届けに上がっただけですのでお構いなく。こんなに遅い時間までお嬢様をお引き止めして申し訳ありません。さぞご心配なさっていた事でしょう。私も使いを出せばよかったと後悔しています。どうかお怒りなさいませんように。私はナディアによってとても充実した楽しい時間を過ごせました。」

「いえ、幼いばかりの娘でございますので、かえってご迷惑をおかけしたのでないでしょうか。」

「とんでもない。私はお嬢様のように聡明で美しい女性に会ったのは初めてです。オレフ伯、貴公の教育がとても優れていらっしゃるのでしょう。」

「身に余る光栄なお言葉でございます。」

「時にオレフ伯。貴公にお願いしたい事があるのですが。」

「どのような事でしょうか?」

「もしもお許し願えるのなら、できればこれからもナディア嬢を夕食にご招待したいのですが。」

一瞬オレフ伯は何を言われているのかわからなかったが、納得したというよりも驚きと不審な気持ちから目を大きく見開いた。その父とは反対に、ナディアはもしかしたらこの方にまた会えるかもしれないと、嬉しさと期待で目を大きく見開いている。そんなナディアをとても優しい眼差しで見つめるリュシフェ。そして見つめ返しているナディア。それを見つめるオレフ伯。お互いが一目惚れをしたとでもいうのだろうか?こんなにも洗練されている領主が、幼いばかりの娘に?確かに我が娘ながらその美しさは父親である自分も認めているが‥。

「迷っておられるようですね。確かに正式な招待状もないのですから困惑されることは否めない。では明日、オレフ伯宛に家紋の入っている正式な招待状を持ってこさせましょう。それでは失礼します。」

 

 その夜、ナディアは夢を見た。眠っているベッドの横にアストロフ公が佇んで見つめている夢だった。夜のせいだろうか。食事の時にもとても美しい男性だと思っていたが、月の光でいっそうその美貌が際立っていた。透き通るような白い肌と赤い唇。その姿には妖艶ささえ感じられとても人間には見えなかった。ナディアの頬から唇そして首筋にかけて優しく手を這わせていた。それからそっと頬に優しく口づけをすると姿を消した。

「リュシフェ様?」

ナディアは目を覚ましたがそこには誰もいなかった。


リュシフェの秘密 ~疑問~

 ルドルフ・パウル神父がアストロフ公の屋敷の大きな門扉の前に着いた時、自動ドアのように音もなく扉が開かれた。

「いつもの物を持ってきました。これをリュシフェ様にお渡し下さい。」

彼はそういうと荷馬車に積んできた大きい壺1つとガラスの瓶1本をミレーヌに手渡した。

「リュシフェ様のお加減はいかがですか。森の中の薔薇が異様な位に美しく咲き誇っていましたので少々気になったのですが…」

「確かにナディア様とお食事をされている時は平常心を装っているようですが、お帰りになられた後は苦しそうになさっておいでです。夜の散歩にもお出かけになっていらっしゃらないので…悩んでおられるようです。」

「その時期が来たのかもしれませんね…リュシフェ様も御年23歳になられたのですから。お聞きした様子から今年も無理のようですね。善き方向に進んでほしいと心より願っておりましたが…少しでも早くこちらをお召し上がり下さいとお伝えください。」

そういうと彼は大きな壺を屋敷の厨房に持っていった。不思議な事に厨房には一人として使用人はいなかった。領主の館だというのになんという異様な光景だろうか。だが、ルドルフ神父は驚きの顔一つ見せずに持参した大きな壺を食材が入れてある場所の一角に置いた。瓶は小さなテーブルの上にそっと置くとそれをじっと見つめ、絶望的なあきらめのようなため息を漏らした。

「ルドルフ神父?」

神父のその様子を見てミレーヌは不安げに顔を見つめた。あきらかにいつもの穏やかな顔とは違う。いったい何があったのだろうか。それを察したのかいつの間にかミレーヌの横に彼女の夫であるジークが立っていた。

 意を決するとルドルフはその場に立っている二人を見つめ、大事そうに懐から何かを出した。それを見た途端にミレーヌは夫の胸に顔をうずめて泣き出した。ジークもまた涙をこらえるかのように唇をギュッとかみしめ、妻を優しくいたわるように彼女の肩を支えながらそのものを受け取った。

「―森の中の薔薇園に立ち寄った時、深紅の薔薇の中にこれが咲いているのを見つけました。恐らくリュシフェ様も気づいたのでしょう。だからこそ悩み苦しんでいるのです。」

そういうと彼は静かにその場から去っていった。膝をつき深く頭を下げながらその後ろ姿を見送ったミレーヌとジークの手には金色に輝く美しい薔薇の花が握りしめられていた。

 ナディアは、今夜はどのドレスを着て行こうかしら?どんな話をしよう?といつものようにリュシフェとのディナーを心待ちにしながら過ごしていた。オレフ伯はそんな愛しい娘を優しく微笑みながら見つめていた。

「御機嫌よう。おじ様。」

オレフ伯はその声の主の顔を見た。そこには爽やかな笑顔の美青年の姿があった。

「ニコラエ!久しぶりだね。しばらくの間見かけなかったからどうしているかと思っていたんだよ。」

「えぇ。ハンガリーに留学していたのですよ。ちょうど3ヶ月前に戻ってきたのです。その時におじ様にお願いしたい事があって伺おうと思っていたのですがもう遅すぎたようです。」

「わたしに?遅すぎとは聞きづてならないね。一体どんな願いなのかな?話してみなさい。」

「実はナディアとの結婚を正式にお願いしようと思っていたのです。でも残念ながらすでにアストロフ公との話がまとまっていたようなので。ご婚儀はいつなのでしょうか?わたしは再びハンガリーへ行く予定なのでナディアを祝福してから出発したいのです。おじ様?」

オレフ伯を見ると彼はニコラエから顔をフッとそらすと地面を見つめている。その目は完全に泳いでおり、答えを探るかのように地面の上をあちらこちらと彷徨っていた。

「ナディアとアストロフ公が結婚するという話はどちらから聞いたのかね?」

「それは自然にそんな話が出ていますよ。だって二人は毎日のように夕食を共にしているようですし、曇りや霧雨の日はアストロフ公の自慢の庭を二人で散策しているではありませんか。二人が並んだ姿はまさしく美しい1枚の絵の様だと評判ですよ。」

「それは、その…。」

オレフ伯のはっきりとしない答えにニコラエは不審げに質問を返す。

「まさか正式な結婚の申し込みを受けていないとかいうわけではありませんよね?それが真実ならば許しがたき事!わたしは決闘を申し込みます。」

「いや、公にはお考えがあっての事。わたしはそう信じたい。」

「そんな理由は通用しませんよ。その証拠にナディアは毎晩アストロフ公の館に出掛けて帰宅するのは夜遅く、時には夜中だというではありませんか。嫁入り前の娘、しかも貴族の娘に対して侮辱以外の何があるというのです。」

この言葉にオレフ伯は言葉を失った。確かにニコラエのいう通りである。二人が出会ってから何ヶ月か経つが、二人が会うのはいつも夜。帰宅時間が夜中になることもある。正式な招待状は毎晩来ているが、自分が呼ばれた事は一度もない。二人きりになりたいのだろうと思っていたが、もし結婚を考えているのならば親である自分にもそろそろ招待状がきてもおかしくない。だが現在までそのような事は全くない。また昼間に会えないというのもおかしい。恋している時はひとときも離れたくない。少しでも長く一緒に過ごしたいと思うものではないのだろうか。

「おじ様。わたしも話を聞いているだけですので真実はわかりませんが、二人は昼間は会っていないのですよね?」

「いや、全く会っていないわけではない。曇りの日や薄日の晴れた日は仲良く散策を楽しんでいる。」

「曇りの日や薄日の晴れた日、そして夜‥太陽が空高く日差しが暖かく降り注いでいる昼間は会っていないのですね?」

「うむ。」

ニコラエはしばらく考え込むようにしてからゆっくりと口を開いた。

「おじ様。遥か昔よりこの地に伝わっている吸血鬼の伝説をご存知ですか?」

「唐突になんだね。話には聞いているが単なる伝承だろう?吸血鬼などありえない。」

「わたしとてそう信じていました。たった今迄は。しかしおじ様の話を伺って、伝承ではなく真実ではないかと思い始めました。」

そんなばかな!信じられないという顔のオレフ伯を冷静に見つめながらニコラエは話を続ける。

「よく考えてごらんなさい。おかしなことばかりではありませんか。まず二人が会うのは、夜か太陽が燦々と輝いて日差しが降り注いでいる昼間ではない曇りの時である事、何ヶ月もおじ様を自分の館に招かない事、領主だというのに、アストロフ公自身が領民の前に姿を現すのはいつも曇りの日か霧の深い日だという事。それなのにこの地は問題なく統治されている。わたしのおぼろげな記憶ですが、先代の領主、すなわちリュシフェ様の父上も同様に晴れた日はその姿を現された事がなかった。いつの間にか亡くなられていてリュシフェ様が領主となっていた。確かリュシフェ様が御年6歳の時だったと思いましたが。」

「確かに君のいう通り先代のアストロフ公もそうだった。だが、伝承によると吸血鬼は不老不死だといわれているぞ。先代の面影はあるが、リュシフェ様は先代と同じ顔ではない。不老不死ならば同一人物のはずだろう?」

「それはわかりません。吸血鬼は人とは違う能力を持っているようですから、その未知なる力を使っているのかもしれませんよ。」

「しかしリュシフェ様はいつもナディアと同じものを食べているぞ。毎晩のように、使用人はいつも食事を沢山作りすぎてしまい、二人とも食べきれずに残してしまうのでもったいないとナディアが話している。吸血鬼なら人間の血が食事のはずだろう。」

「それはナディアが話している事で、実際におじ様がご覧になった理由ではないでしょう?リュシフェ様の美貌ならば若い女性は料理よりもそちらに気を取られるものではないでしょうか。」

その時、美麗な様子の服装をした使用人らしき男性が二人に近づいて来た。彼は恭しくお辞儀をすると優雅に手紙らしきものをオレフ伯に差し出した。そこにはアストロフ家の紋章が押されていた。

「君は当家に招待状を届けているいつもの使用人ではないな。」

「御意にございます。わたくしはリュシフェ様のお側近くに仕えさせていただいているジーク・フェリアスでございます。今宵は特別な御招待ゆえ、わたくしが当主に一任されました。まずは招待状を御確認下さいませ。その後にお返事を頂いてくるようにとの御用命です。」

ニコラエとオレフ伯は顔を見合わせた。これは偶然のタイミングなのか、それとも‥?オレフ伯は招待状を開いた。

「今宵のディナーに私も招待すると。その時に話したい事があると書いてあるが。」

「はい。オレフ伯の御都合はいかがでしょうか。」

「-謹んでお受けするとお伝え下さい。」

「畏まりました。迎えの馬車は当家で手配いたします。それでは失礼いたします。」

オレフ伯は深くお辞儀をして立ち去っていくジークを見送ると重い口を開いた。

「不思議な事だ。主が美しいとその側近も美しいものなのだろうか。さてナディアにこの事を伝えなくては。」

「おじ様。食事に行かれた時にアストロフ公の様子を注意して見ていて下さいませんか?そうですね。まず鏡にうつるかどうか。吸血鬼は鏡にはうつらないといわれています。」

「しかし、あんなにも美しい公がそんな悪魔とは到底考えられないが。」

「-美しすぎますよ。あれは人間離れした美貌です。我ら人間は外見の美しさに惑わされがちです。それに吸血鬼は美貌の持ち主だとの伝承もあります。ナディアを守るためです。おじ様だって彼女が悪魔の餌食になる事をお望みではないでしょう?わたしだって同じです。彼女を心から愛しているのですから。わたしは彼女を守りたい。」

「君の気持ちはわかった。君のいう通りにしよう。だが、もし公が人間ならば君も二人を祝福してくれるかね?」

「もちろんです。それではお願いします。わたしはアストロフ家の事を調べましょう。」


リュシフェの秘密~呪われた血筋~

 ナディアは馬から下りると大きな門扉の前に立った。思い切りその扉を叩くと扉は開かれ、そこには見知った顔の女性が驚きの表情を浮かべながら出迎えた。その女性の制止も聞かずにナディアは館の中に入っていき、一際立派で華麗な彫刻を施してある大きな部屋のドアの前に進んだ。そして一息つく間もなくそのドアを開けて中に入った。

 その部屋は真っ黒な分厚いカーテンに閉ざされ、外の光は完全に遮断されていた。部屋の灯りといえば、ゆらゆらと揺らめいている蝋燭の火のみである。彼女は壁にかかっている燭台を持つと、ゆっくりと中央に鎮座している豪華な寝台に近づいた。寝台の横にある小さな棚の上に燭台を置き、寝台のカーテンをそっと捲りあげて覗いてみると、そこには彼女の愛する婚約者が死人のように青ざめた顔をして横になっていた。そっと手を伸ばして顔に触れると氷のように冷たく、思わず手を引いてしまった。すると彼は何かに気がついたようにピクリと動き、ゆっくりと目を開けた。目の前の愛する女性の顔を認めると驚愕の表情を浮かべた後に苦悩の顔を向けゆっくりと起き上がった。

「ナディア。この部屋には入らないでほしいといったのに君は見てしまったのだね…。」

絶望の声とともに彼の目には涙が光っている。やがてため息ととも重い口を開いた。

「―私の秘密、いや、アストロフ家の秘密を話そう。我が家には代々伝わってきた呪われた“儀式”がある。それを目の当たりにしたのは私が6歳の時、父上から私にその地位を譲られた時だった…。」

 1430年代 トランシルヴァニア。当時はリュシフェ・アストロフ公がこの地を統治していた。女性と見紛うばかりの美貌を持つ領主は、あまり人々の前に姿を現さなかったが、領地内に起こっている揉め事や問題などすべて把握しており、子細なく解決していた。姿が見えずとも治安を保ち、安定した生活を営めている人々にとって、彼は尊敬に値する人物であり、かつ神秘的な存在だった。彼に限らず、先代も先々代の当主も領民にとっては謎めいた一族であった。

 この頃のトランシルヴァニアはハンガリー王国の一部であり、トランシルヴァニアの領主はハンガリー貴族なのだが、いつの間にか「アストロフ公」が代々の領主として支配していた。通常なら領主が新しくなった場合、何らかの形でお披露目があるはずなのだが、アストロフ公の場合は何もなかったのである。だからといって領民たちが不信感を抱くわけではなく治安も悪くなかった。ただし代々のアストロフ公の妻は、なぜか若くして早死にすることが多かった。その葬式が行われるのがいつも曇りの日か、晴天とまではいかないが薄日の射している晴れの日なので、その事が疑問点の一つでもあった。もう一つはその行動である。

 アストロフ家の代々の当主達は決して広く美しい屋敷にずっと閉じこもっているわけではなかった。領民との関わりも大切にしており、ふらっと屋敷から出ては領民たちの憩いの場にも姿を現した。しかし必ず曇りの日か霧の日か夜であった。疑問というよりはそれが不思議だった。過去の事、その当時のアストロフ公にある領民がどうしてかと尋ねると美しい笑顔を見せて「太陽の熱が暑すぎて、晴れた日は苦手なのだよ。それに肌が焼けてしまったら、淑女たちに失礼だからね」と答えるだけだったという。領民たちにはわからないことだが、多分、貴族様には色々な決まり事があるのだろうとそのまま納得をしたのだった。

 今は亡き先代のアストロフ公の治世の時、先代は領地内にある薔薇園に出掛けた。いつも見事に咲いている薔薇なのだが、その日の薔薇は格別で異様なまでに美しく咲き誇っていた。禍々しいほどの真っ赤な薔薇、むせ返るほどの芳香。不吉な予感がした。自分が当主となり、この地を治めるようになってから17年である。美しい妻と子供にも恵まれ、その子供はまだ6歳になったばかりだった。寒くないはずなのに冷たい汗が額に浮かんでいた。そして真っ赤な薔薇の群生の中にそれを見つけたのだった。美しく呪われている悲劇の薔薇。それを震える手で切ると絶望と悲しみの涙を流し、曇りの空を見上げ、しばらくの間佇んでいた。そして暗い影を浮かべながら愛する妻と子が待っている屋敷に戻っていった。自分は神の名を口にする事も恨む事も許されない身だ。だが神を恨まずにはいられない。神よ、あまりにも突然です…。先代のアストロフ公27歳の時であった。

 「お父様、お母様、お休みなさい。」

アストロフ公は部屋に戻ろうとするリュシフェに、話したい事があるから後で私の所に来るようにと短く告げた。その顔にはいつもの優しい笑顔はなく、苦悩しているような暗く悲しい顔をしていた。そんな父を見つめながら、はいと小さく答えるとその部屋から出ていった。幼い彼の小さな胸に一抹の不安がよぎった。明らかにいつものお父様と違う。何だか怖い。その気持ちは妻にも通じたのか息子が部屋から出て行った後に愛する夫に話しかけた。

 「あなた?どうかなさったの。」

美しい妻は夫の様子を見て心配そうに見つめた。夫は苦悩した悲しい顔を妻に向ける。

「ルシーヌ、とうとう金の薔薇が咲いてしまった。“儀式”をおこなわなければならない…。」

一瞬、彼女は息をのんだが優しく微笑んだ。

「そうですか。では用意をしなくてはなりませんわね。」

「だが、リュシフェはまだ6歳になったばかりだ。早すぎる!きっと何かの間違いだ‥。」

「いいえ、あなたの手の中にあるそれは幻ではありません。こんなにも芳香が漂っているではありませんか。」

「だが!」

妻は再び優しく微笑みながら、ゆっくりと首を横に振る。夫は妻をきつく抱きしめた。その顔には一筋の涙が流れている。

「許しておくれ。私にはなす術がない。」

「謝ることはありません。あなたと出会い、恋をして、アストロフ家に嫁いだその時からわたくしは、わたくしの運命に身をゆだねると決心したのですから。」

「長い時間、あなたを一人にはしない。私もすぐ逝くから。」

「一つだけお願い。苦しみたくないのです。やはり怖いから‥。」

「決してあなたを苦しませない。約束する。」

妻は優しい笑顔を見せるとその場で気を失った。彼は忠実な執事夫妻を呼び、妻に一番美しい衣装を着せてくれと頼んだ。彼は美しい妻に優しく口づけをするとそっと二人に引き渡した。

 「お父様。お呼びですか?」

リュシフェは父親に呼ばれて屋敷内にある一室に来た。そこは時が来るまでは絶対に入ってはいけないといわれていた部屋だった。意味も分からずその言葉を守り、彼は初めてその部屋に足を踏み入れた。蝋燭のほのかな灯りに照らされたその部屋はとても美しかったが、どこか冷たさを感じて思わず両手で腕を覆った。部屋の奥を見ると父親が跪いていた。

「お父様?」

彼が近づくとそこには信じられない光景が目の前に飛び込んできた。美しい母はその目を固く閉じ、体に触るとすでに冷たい屍と化していた。細い首には、何かであけられたような2つの穴の痕がくっきりとついており、その胸には代々アストロフ家に伝わってきた美しい銀の剣が杭のように深々と突き刺さっていた。ほのかな光が、剣の鞘に彫られている大天使ミカエルの顔を浮かび上がらせている。その顔はあたかもこの悲劇を裁いているように厳しい顔にも憐れんでいる顔にも見えた。

「ひっ!」

リュシフェは口を覆い思わず後ずさりをしたが、その彼の肩をしっかりと強い力がおさえつけた。上を見上げるとそこには、赤い瞳で口元には獣のように鋭い牙を煌めかせている変貌した父の姿があった。恐ろしい悪魔の牙は、容赦なくリュシフェの細い首筋を襲った。リュシフェは痛みと同時に何とも言えないほどの気持ちよさを感じながら、朦朧とした意識で父の次の行動を見つめていた。彼は血まみれになった妻の寝台に近づき、その下に設置されている深めの皿に溜まっている妻の血をワイングラスに入れると再びリュシフェの側に近づいてきた。倒れている息子をそっと抱き起すと、これを飲みなさいとそのワイングラスを口元に寄せた。だが、痛みのあまりにそれを受け取ることが出来なかったリュシフェに彼は口移しでそれを飲ませた。生暖かい母の血が体内に入ってくると体中が熱く火照り、剣で突かれたような耐えられないほどのキーンとした痛みに貫かれ涙があふれてきた。すると父は聞いた事のない言葉を唱え始めた。その言葉は体中を駆け巡り、水のように浸透していった。そして同時に、リュシフェが感じていた体の火照りや痛みはスーッと消えていき、気持ちよさだけが残り、今度こそ本当に意識が遠のいていった。薄れていく意識の中で見た父の顔は、リュシフェが大好きな優しい笑顔をしていた。

 

 「―私は父の力によって悪夢の日から3日間も気を失っていた。私が気がついた時、私の側には喪服を来ている父がいて、静かな声で母の告別式をおこなうと告げた。」

そこまで話すとリュシフェは小さなため息を漏らし、床をじっと見つめた。愛する女性の顔を見る勇気がなかったのだその後に彼は一気に話を進めた。

 未知なる力で晴天を予測していた父は、意図的に小雨が降る3日後に告別式を執行した事、「儀式」がおこなわれた後は当たり前のように食べていた食事を体が全く受けつけられなくなった事、薔薇あるいは動物の血液が食事になった事、ある時期が来ると動物の血液では物足りなくなり人間の血液を求めるようになる事…。

 リュシフェは勇気を出してナディアの様子を窺った。思った通りに彼女は真っ青な顔をしており、その顔にはありありとした恐怖が見て取れた。

「でもあなたはディナーの時は私と同じものを召し上がっていたわ。」

「それは父から受け継いだ未知なる力によって貴女に幻影を見せていただけだ。実際はワイングラスに満たされている本来の食事“血液”を飲んでいた」

「鏡にも姿がうつっていたわ。」

「伝承の事を言っているのか?鏡にうつらないという伝承は真実ではない。」

彼は自嘲気味に話した後、ナディアの側から離れた。そしてまるで呟くように決定的な言葉を告げる。

「―人間の血液を主食としそれを求めて夜中に徘徊する卑しき者、人間に禍をもたらす悪魔、アストロフ一族とは、古より伝承されている忌まわしい不老不死の化け物、“吸血鬼”なのだよ。」

 

 

 

 


   



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