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シロクマ

 期末テストが終わった。

 おそらく成績は中の上くらいになるはずだ。
 ダメだと思う感覚と、ばっちりと思う感覚のズレがあまりないとき、
 ぼくの成績はだいたいいつもそんなところに落ち着く。

 勉強は好きでもないし、嫌いでもない。
 いわば歯磨きみたいなものだ。
 だからこれといって疲れたりはしない。

 でもテストは違う。
 同じ歯磨きでも、何も食べてないのに、
 歯磨きを強要されるような、そんな感じなのだ。

 そんな歯磨きが終わって、いや、テストが終わって家に着くと、
 無性に炭酸が飲みたくなる。
 もしかして大人が仕事から帰ってビールを飲むのって、
 こんな感じなんじゃないだろうか。

 そう思って、冷蔵庫を開け、
 シロクマの絵が描いてあるビールを手にしてみた。

 それにしても何でシロクマなんだろう。
 シロクマがビールなんて飲むわけないのに、
 その絵とビールはすごくマッチしている。
 これを最初に描いた人は、表彰ものだとぼくは思う。
 こういう絵を描く時間はきっと歯磨きではないのだろう。
 
 そう思って、ビールのかわりの、サイダーを開けた。

「ぷふぁ~」

 それ以外の文字はありえなくらいの勢いで、
 そんな擬音を口にしたあと、ソファに寝転んだ。

 そうしてるとき、母親が帰ってきて、
 びっくりしたように、「あら、帰ってきてたの、おかえり」とぼくに声をかけた。

「ただいま。かあさんもおかえり」

 ソファでグダグダとなりながら、返事をした。

「ただいま。テストどうだった?」
「いつもどおりだよ」

 その返事もいつもどおりだ。

「いつもどおりって、それはいいけど、もうちょっといい点取りたいとか、
 そういう欲はないの?」

 おおきなお世話だ。

「ないよ」

 ぼくは素直に答える。

「ほんと欲ないよね、昔からさ。親としては手がかからなくていいけど、
 もうちょっと情熱的になってもいいと、かあさんは思うけどなぁ。
 勉強じゃなくても、部活とかさ、友情とかさ。はやりの草食系ってやつ?」

 部活も友情も、自分なりに情熱的にこなしているのだけど、
 どうもそれは伝わっていないらしい。
 まぁいいかと思ったけれど、それで草食系とくくられるのは腑に落ちない。
 ぼくはささやかに反論した。

「草食系って、恋愛に積極的じゃない男のことを言うらしいよ。
 別に欲がないのが草食系じゃないでしょ。肉も食うし、おれ」
「え? 恋愛には積極的なんだ?」
「そうだよ、おれなんかが待ってたって、誰も来ないんだから、こっちから行くしかないでしょ」

 そう言ったけれど、1度告白して振られた経験しかぼくにはない。
 そしてそれ以来、怖くて告白なんかできない。

 そういえば。
 
 振られたその日、夜中に冷蔵庫をこっそり開けてビールを飲んだ。
 あのシロクマの絵が描いてあるやつだ。一口飲んだだけで、ビールは苦くてまずいとわかった。
 あんなものを飲む大人の舌は、きっといかれてしまっているんだ。
 
そう思いながらも、ぼくはそれを飲み干した。

 そして、一晩中泣き続けた。

 そのときのことを思い出すと、胸が痛くなったしかたない。
 あれ以来、告白したその子とは、学校で会っても気まずいままだ。
 それまで友達だったけれど、ぼくらの関係はそのとき壊れた。
 壊れたまま卒業していくのだろうか。それは愛を学ぶための卒業だろうか。
 
 ビールが苦いように、人生も苦いものだ。
 苦いビールが好きな大人は、苦い人生を楽しめるのかもしれない。
 それが大人になるってことか。だけどぼくにはそれはまだ、苦いだけのものだ。

 あぁ、だめだ、やっぱり胸がいたい。

 ぼくはソファに顔をうずめた。

「なんだ、男らしいとこあるじゃん。でも、やみくもに押すだけじゃ、だめよ。
 女の子の心は卵みたいに繊細なんだから」
「なにそれ。あー、シロクマになりたい」

 卵みたいに繊細なのは、思春期の男子だって同じだ。
 事実ぼくはこうして、歯磨きと失恋でボロボロじゃないか。

「シロクマ?」
「そう、シロクマ。ビール飲んで星をながめる、シロクマだよ」

 ビールのカンに描かれたあんなシロクマになってしまいたい。

「それ、似合ってるかもね。あんた、優しいから」

 優しいだけじゃだめなんだよ、かあさん。

「とわくんはやさしいけど」。
 その言葉のあとに振られたんだから。

 ソファでうずくままったまま、
 手を伸ばしてテレビのリモコンのスイッチを押してみると、
 ニュースが流れた。

 温暖化で、北極の氷が溶け、シロクマの生態も変わりつつある。

 そんなことを言っていた。

 優しいだけじゃだめだけど、とりあえず地球には優しくしようと思った。
 大人になって、ビールを飲みながら、星をながめられるように。


 サイダーが、優しく喉を潤した。

僕のギター

 それはジブリ映画の「耳をすませば」に出てくる、
 「地球屋」のようなアンティークショップだった。

 その店のウインドウに飾られたギターを、
 ぼくはいつもながめていた。

 年代物の高いギターで、
 当時高校生のぼくが手を出せる代物ではなかったのだけど、
 それをながめているときは、少し高尚な気分になった。

 まったく子どもらしい想いだと、今では思っている。

 彼女と手をつないで歩いているとき、
 それと似たようなお店を見つけた。

 ここはぼくが高校時代を過ごした場所ではなくて、
 1000キロメートルも離れた町。

 彼女と出会った町だ。

 だから、あの店ではない。

 なのに、ふとあの時と同じ匂いがして、
 その店のウインドウを同じようにながめた。

 そこにある年代物のギターは、
 大人になった今でもローンを組まないと手が出ないような代物だった。

「高いんだねぇ、ギターって」

 彼女は手を離さずにそう言う。

「まぁ、ピンキリだよね。安いのは安いよ」
「そっかぁ。部屋にあるギターは安いの?」
「うん、安いよ。バイトして初めて買ったギター。確か、2、3万くらい」
「へぇ、違いがよくわからないけど」

 まぁ、そんなのものだ。
 音色も質も全然違うのだとぼくはわかるけど、わからなくても問題はない。
 
 そう思って、じっくりながめていると、
 彼女はぼくの顔を覗きこんで言った。

「なんか、好きな芸能人見てるときみたいな目してるねぇ」

 よくわからなくて、「え? なにそれ?」と笑った。

「私、ちょっと嫉妬してるってこと」

 そう言って、彼女は手をぎゅっとした。

 ぼくはつぶやくように、

「憧れは、触れないから、憧れなのかもね。
 だけど、初めて買ったギターはもう、離せないわけだよ。
 うん。わかる? 言いたいこと?」

 と、うなずいてみた。

「うーん…… なんとなく……」

 ぼくは空いている手を、彼女の頭にのせて、

「きみのことがめちゃめちゃ好きってことだ」

 と、言った。

「私って、2、3万? 安上がりな彼女だね」

 そう怒ったふりをしながら、彼女は笑った。

「これほど大事な2、3万もないよ」

 納得したのかどうかぼくにはわからなかったけれど、
 彼女がぼくの手を離そうとはしなかったのは、ほんとうだった。


砂漠の花

「みんなと過ごす時間は短いですが、いい思い出ができるといいです」

 ぼくはいつも同じようにあいさつをする。
 けれど「いい思い出」が増えると困ることを、ぼくは知っていた。

 転校の多い子どもがみんなそう思っているかは知らないけれど、
 「めちゃくちゃいい思い出」が今でもぼくの胸を苦しくさせている。
 そんな思い出が多いほど、別れはつらいのだ。
 
 だからあるときからぼくは感じ方を変えるようにした。
 「めちゃくちゃいい思い出」になりそうなとき、ぼくは人と少しだけ距離を置く。
 そうすると、それは「そこそこいい思い出」になり、別れのときの痛みは、少し減るのだ。
 そうやって予防線を張ることを、ぼくは自然と覚えていった。
 
 それでも、「いい思い出ができるといいです」と言うのは、
 とっつきにくいやつとは思われたくないからで、
 その一言は極めて有効なのだということも、ぼくは学んだ。
 
 そうやって転校してきたこの学校でも「そこそこいい思い出」ができ、
 ぼくはまた次の学校へと転校する。明日は、別れのあいさつをしなくちゃ。
 まぁ、いつものようにだな。
 
 そんなことを思う帰り道。
 少し手前に、クラスメイトの河原よしえが歩いてるのがわかって、
 視線を彼女の肩のあたりにやった。
 彼女の肩にかかる髪が少しだけなびいている。
 それが、なんとなく好きだとぼくは思っていた。
 少し距離を置かなければ。そう思って立ち止まったとき、
 彼女のかばんから、何か紙のようなものがすべり落ちた。
 彼女はそれに気づいていない。
 ぼくはとっさに、そこまで走って、それを拾い上げた。

 手紙だ。
 
 彼女は少し前を行っている。何の手紙だろう。
 気になっていると、彼女が振り向いて「あっ」と声をあげた。
 ぼくもそれにつられるように「あっ」と声が出て、それから、

「これ、落ちたよ」

 と告げた。
 河原はそれを黙って受け取ると、ぼくの制服の袖をつかんで、歩きだした。

「え?」

 おどろくぼくに、河原は「ごめん、ちょっと」と告げて、どんどん引っ張っていく。

「ちょっとって?」

 河原は「ごめん」を繰り返して、少し先にあった公園までぼくを連れてきた。
 やっと袖を離すと、彼女はブランコに腰をかけ、顔を覆った。
 仕方がないので、ぼくも隣のブランコに座った。

中身、見た?」

 手紙のことかと思い「見てないけど」と答える。

「そっか…… 私、ふられたの」

 なんと答えていいかわからないので、

「手紙で? ”フラレター”ってとこか」

 そんなことを言っていた。

「なにそれ、笑えないよ」

 それもそうだと思った。

「よしおかくんは誰かを好きになったっことないでしょ」
「そんなことないけど」
「そんなことあるよ。本気で好きになったことあるなら、そんなふうにちゃかさないはず」

 河原は冷静な口ぶりで、そう言った。

「そうか、ごめん」

 少し気まずくなって、ブランコを揺らしてみた。

「……明日、転校だね」

 河原もブランコを揺らした。

「うん、まぁね」
「まぁね、って、淋しくないの?」
「淋しいけど、仕方ないし。それに別れには慣れてるし」
「慣れるものなのかなぁ…… ふられるのも」
「それとこれとは話が違うから、わかんないよ」
「同じだよ。きっと慣れるものじゃないよ。よしおかくんはきっと、怖がってるんだ。
 怖がって人と距離を作ろうとしてる。そしたら、別れるのもつらくないから。違う?」

 違うとは言えなかった。彼女はぼくを見抜いている。でもだからって……

「出会うことが別れることだとわかってても、そう言う?」
「言うよ。たとえ別れても、私は人と出会ったり、好きになることを選ぶよ」

 彼女の言葉に強い意志を、ぼくは感じた。

「そうか。河原は強いな」
「強くなんかないよ……。ただ、なんか悲しくなった。
 せっかく仲よくなった人に、別れるのがそんなに淋しくないなんて言われたら」
「それは、ふられたひとのこと?」
「違うよ。よしおかくんのことだよ」

 ぼくは特別、河原と仲よくなったという自覚がなくて、そう言われてもピンとこなかった。
 ただ、河原の肩にかかる髪がなびくのが、好きなだけだった。
 だけどもう、ぼくはわかってしまった。
 こうして距離を縮めてしまったことで、明日転校することが、悲しくなるということを。
 ほら、だから、ダメなんだって。ごまかすように、ブランコを思い切りこいでみる。
 河原も同じようにそうした。河原がぼくといるのは、たまたまだ。ぼくがそこにいただけだ。
 それでもいいからもう少し、この時間が続けばいい。どれだけ別れが、つらくとも。
 
 ブランコは永遠のように、揺れ続けた。

 湖のほとりに車を停めて、ぼくらはさっき自販機で買った缶コーヒーを口にする。
「絶対、"あつい"と表記するべきだよね」
 彼女はそう言って"あたたかい"缶コーヒーをドリンクホルダーに戻した。
「うん、でも徐々に冷めていくと、ちょうどいいとも言えるしな」
 徐々に終わっていくこの恋は、なんだかちょうどいいなぁと、ぼくはぼんやりと思った。
 ゆらりと揺れる波音が鼓動のように漂っていて、助手席の彼女も、同じリズムで揺れていた。
「あたたかいのが冷めていくのは好きじゃないけど、
 熱いのが冷めていくのは、いいかもしれないね。
 でも、ずっとあたたかいのってあるのかな」
 腕組をして考え出すと、彼女も同じ体勢になり、
「どうだろうねぇ」
 と、ルーフを見上げた。
「あ」
 抑揚なく、彼女はそんな1文字を吐いた。

「どした?」
「さかな、いた」
「え、さかな?」

 ルーフを覗いてみたけれど、そこには魚は見当たらない。
「うん、いた。っているわけないか、見間違いかも」
 彼女はあっさり言葉を取り消した。
 ぼくは気になってしまい外に出た。
 そして車の上を見渡したけれど、魚はそこにはいなかった。
「見間違いだよ」
 缶コーヒーを持ちながら彼女も車から出てきた。
「空にさかながいたらおもしろかったのに」
 と言うと、彼女はぼくをバカにしたように笑った。

「いるわけないよ」
「いたって言ったのそっちだろ?」

 ぼくもバカにしてみると、「そうだった」と今度はちいさく笑った。
 外は少し寒い。手をさすっていると、彼女は持っていた缶コーヒーをぼくに差し出した。

「これ、あったかいよ」

 それに手を当てて、暖をとる。
 それはもう熱くはなくなっていたけれど、ちょうどよくあたたかい。
 ほうっていたら冷めるけど、ほうっておかなければあたたかいままでいられるだろうか。
 彼女も同じことを、思っているだろうか。
 波音はただ、鼓動のように漂っていた。

ガーベラ

「おれのこと、覚えてる?」

 かかってきた電話に出ると、彼はそう言った。
 私は静かに「うん」と答えた。

 私は夕暮れの町を散歩していて、
 道端に咲いたガーベラを見つけたところだった。

 それを写メに撮ろうとしたとき、
 ケータイがブルブルと震えたのだ。

 電話の相手のその人はかつて、私の「兄」だった。
 でも私は「お兄ちゃん」と呼んだことは1度もない。

 私が高校生のとき、母が再婚をした。
 再婚相手の連れ子は、私より10も年上の男だった。
 彼は私の兄になったのだが、
 そのとき彼はもう独立していて、ほとんど会うことがなかった。

 そして、高校を卒業するころ、母は離婚した。

 つかの間だけ存在した「兄」は、
 いとも簡単に私の前から消えたのだった。

 私は彼とのあいだに、1度だけ過ちを犯した。
 まだ「兄妹」という関係のとき、
 彼と寝てしまったのである。

 それは、思春期の興味本意というか、
 はやく処女を捨てたいという理由だけだった。
「周りにいる、安全で手ごろな大人の男はあなただけだ」と、
 私は行為に及ぶ前、正直に言った。

 今思えば、彼にとっても都合のいい話だったのだろう。
 それでも彼は神妙な面持ちで、その言葉を受け止めた。

 そして、彼は信じられないほど優しいやり方で私を抱いた。
 これが錯覚だとしても、私は彼を好きになってしまうだろう、
 そんな思いに駆られて、私はその最中、小さく泣き続けた。

 私たちはそれ以来、会うことはなかった。

 こうして電話で話すのは、本当に久しぶりで、
 それをどんなふうに受け止めていいのかわからなかった。

「もうおれらは他人なんだけど、君には伝えたいと思って」

 私はそのとき第六感がどこにあるのかはっきりわかった。
 彼は私を揺さぶる。間違いなく、そういう類いのことを口にする。
 
 そう、わかった。

「いいよ、言わないで」

 弱々しくそう抵抗してみるけれど、
 彼はすぐに言葉を続けた。

「結婚するんだ」

 ほら、やっぱり。
 私は予想通りに揺さぶられた。

「そうなんだ、よかったね」

 強がるけれど、
 私はあのときのようにまた、
 小さく泣き続けてしまいそうなる。

「ありがとう。君に、そう言ってもらいたかった」
「どうして?」

 そんなこと聞きたい訳じゃないのに、そう言葉にしていた。

「覚えてる? 一度だけ君と夕暮れの道を歩いたことがあったよね」

 それは、あの泣き続けたあとのことだ。
 彼は私の手を引いて、外へと連れ出したのだ。

「うん、覚えてる」
「あのとき、君はふと道端にしゃがみこんだ。また泣いてしまうのなって思って、
 君の頭を撫でようとしたら、君はガーベラの花を見ていた」
「ガーベラ……」

 そのときの記憶が、何枚もの絵のように連なってよみがえった。
 それを彼は言葉に変えた。

「そのとき、おれはなんてことをしてしまったんだろうと、ものすごい後悔をしたんだ。
 そんなおれに、君はそのガーベラを摘み取って、おれにくれたんだ。
 そのとき、君を守ろうと思った。でも君は”さよなら”と言ったんだ」
「うん」

 そうだ、最後の絵がその場面を描写している。
 好きになったら、この恋は終わる。
 私はそう思った。だからそうなる前に、恋をするのをやめた。

「ずっと言えなかったけど、おれも言わなくちゃならないね」
「そうだね」
「さよなら」
「うん、さよなら」

 私はそう言葉にしたあと、すぐに電話を切った。
 全身が泣きたがって仕方がないからだ。

 あのとき終わったと思っていたけれど、
 私はずっと恋をしていた。
 会わなくても、ずっと想い続けてた。

 それももう終わりにしよう。

「兄妹」でもない私たちが会うことはもうないだろう。

 またしゃがみこんで、
 足元にあるガーベラをゆっくりと手で撫でる。

 そうしてると、どこからかやってきた幼い女の子が、
 私に声をかけてきた。

「それ、ガーベラでしょ?」
「うん、よく知ってるね」
「わたし、おはなやさんになりたいの。ガーベラのはなことばはねー、
 えっと、”ひかりにみちて”だよ。バイバイ」
「バイバイ」

 光に満ちた町の風景の中へと、私は歩き出した。



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