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わかれのまえにみるけしき
わかれたあとにしるおもい

かさなって、つらなって
ひそかにせかいはやさしくなる










目次

【エピソード0】
#1 スプーン
#2 見上げる飛行機
#3 飛行機の中で
#4 ある日の本屋
#5 犬の字
#6 ドーナッツ!
#7 アイラビュー
#8 犬サフラン
#9 パエリアについて
#10 心の脂肪
#11 ため息と涙の理由
#12 ノート
#13 とあるカフェ
【トモタケをめぐる日常】
#14 走る理由
#15 雨の日のトモタケさん
#16 ビールかけ
#17 春の花
【岡本君との日々】
#18 紙飛行機
#19 別れの呪文
#20 私がまだ少女だったころ
【それぞれの事情】
#21 天井
#22 桜と天丼
#23 おみやげは蕎麦
#24 もう片方
#25 ハナ
#26 わたげ
#27 ボートレース
#28 さよなら、ありがとう
【たてうちくんとめぐる憧憬】
#29 風になびく前髪
#30 キャバクラの思い出
#31 さよならのキス
#32 アテレコ
#33 恋
#34 野球場に寄る
#35 ケーナの音色
#36 飛びつくことのできなかったボール
#37 別れ際
#38 カラオケ  
#39 お寿司を食べに
#40 ありがとうのために
#41 キラキラ
#42 存在
#43 涙
#44 ラブレター
#45 マジックアワー
【エピソード ダ・カーポ】
#46 スプーン









エピソード 0












#1 スプーン

 彼もそれを気に入ると私はわかっていた。『それ』というのは、お気に入りの雑貨屋で見つけた、スプーンのこと。そのスプーンは柄の部分が虹のようにアーチ状に反っていて、それはそれは使いずらそうなスプーンなのだ。なんたって親切にも”食べにくいことこの上なし!”と、素敵なポップが書かれているくらいなのだから。
「でも、可愛いね、なんか」
 ”でも”と初めに接続詞を付けて、彼の顔色を伺う。彼は興味深そうにそのスプーンを観察している。あ、やっぱりね。そんなふうに観察しだす時は、心が躍ってるときなのだ。私は彼の気が変わらぬうちに、「買っちゃおー」とスプーンを手にした。彼は笑みを浮かべながら、「食べにくいことこの上なしだけど?」と聞いてくる。
「いいの、置いてあるだけでも可愛いし」
 そう言って、私はにっこりと笑い返した。ペアのスプーンを彼に渡す。「しょうがないなぁ」とは言っていないけれど、そう言いたそうな顔をした彼が、とても愛しいものに見えた。

「どうかした?」
 夕食にカレーを出して、私は彼に聞いた。彼と暮らし始めて4年が経つ。4年の間にわかったことは、何かを得ることは、何かを捨てることでもあるってことだ。たとえば彼の洗濯物を干す日常を得て、彼に対するときめきを捨てたような。別に彼が女心をわかっていないとは思わない。今でも誕生日は祝ってくれるし、デートだって億劫にならずに連れ出してくれる。なのに私は、それを4年前のようには喜びに感じたりはしない。『何事ももう少し粘り強くなりましょう』そういえば、小学校の通知表に、そんなことが書いてあったような。急にそれを思い出して、私はふと反省をする。
「またカレー?」
 いつもの口調で彼が聞く。
「好きでしょ、カレー」
 いつもの口調で私も答える。 
「好きだけど、ずっとだと、ちょっとね」
 私はカレーがそこまで好きではない。だからと言って、彼のためにカレーを作るわけではなく、ただ単に何を作るか迷うと、カレーにしてしまうのだ。 
「あ、いや、カレー好きだよ。毎日だって飽きないよ」
 彼はそんなふうに気を遣ってくれる。でも、悪いけれど毎日は飽きる。そんなことないよ、と彼は言うけれど、そんなことあるのだ。私はなんていったって、粘り強くないのだ。
「そんなことある。だから、今日はあのスプーンで食べてみよう」
 私は本棚の上のスプーンを指さしていた。
「え、あれで? ”食べにくいことこの上なし”だよ?」
「いいの、いいの」
 そうだ、粘り強くないのだから、少しでも変化していけばいいのだ。私はスプーンを水洗いすると「はい」と彼に手渡した。彼はあっけにとられながらも、そのスプーンでカレーを食べ始めた。私も同じようにそのスプーンを使い、カレーを食べ始める。
「うわ、ほんと、食べにくい」
 手がグーになるうえに、腕も肩より上に上がってしまって、その不格好さに笑ってしまう。
「おいしい?」
 そう聞いてみると、彼は素直に答えてくれた。
「おいしいよ、ありがとう」
 なんの変哲もないその答えが、今日は特別にうれしく思えた。

#2 見上げる飛行機

 右手に巻いてある腕時計が止まっていた。携帯の充電もさっきなくなったところだ。こうして雑貨屋に来た理由は後回しにしておこう。とにかく今は時間が知りたい。そう思い、俺は店の壁がけ時計を見渡した。バラバラに時が刻まれる時計を眺めながら、本当の時間を探すけれど、どれが本当かわからない。あぁ、そうか、こんなふうにあいつの気持ちを見失っていったのか。”あなたには私の気持ちはわからないわ”そう言って別れた妻の気持ちは結局、取り戻せないのだ。

「時計、お探しですか?」

 壁がけ時計の前で立ち尽くす俺に、店員が声をかけた。そんなにもの欲しそうに見えたのだろうか。

「いいえ、時間合ってる時計、どれですか」

 俺はそうやって、聞き返した。

「えっと、あ、あの時計、合ってますよ」

 店員が指を差した時計の時間を確認する。あぁ、そうか。もうすぐか。あと少しで、別れた妻と娘を乗せた飛行機が飛び立つ時間になる。妻の気持ちは取り戻せないけれど、まだ幼い娘は俺をどう思っているのだろう。仕事の忙しさにかまけて、あまり相手をしなかったのは確かだ。俺は父親失格だろうか。せめてもの償いにと、娘が欲しいと言っていた、柄の部分が虹のように反りかえったスプーンを探しに雑貨屋に来たのだ。それは確かに売っていた。若いカップルがそのスプーンを手にして、楽しそうに笑っているのを見たとき、俺は胸が苦しくなった。”食べにくいことこのうえなし!”というそのスプーンなら、笑って食事ができたのだろうか。俺は時間を確認して、それからそっと店のドアを開けた。

 外は雨が降り出していた。ざぁざぁ降りではなく、ぽとぽと落ちるような、そんな雨だ。傘を広げるまでもないけれど、雨の音を聞いていたいそんな気分で、店先に売っていた傘だけ買った。

「雨、降ってますか」

 さっきの店員が釣銭を渡しながら聞いてくる。

「えぇ、降ってますよ、小雨ですけど」

「そうですか。止んだら虹でも出ますかね」

「止むかわかりませんけど」

「予報では午後は晴れると」

 店員はそう言ってから、ありがとうございましたと付け足した。また外に出て、傘の柄に付いたワンタッチのボタンを押した。やがて聞こえてきた雨の音。その音を聞いていると、心の隙間に優しい日々が落ちてきた。

「雨って楽しいね」
 娘の声が聞こえてくる。たまの休みにはゆっくりと休んでいたかったのだけれど「お散歩したい」と娘はいつも俺にせびってきた。雨の日の散歩が彼女は好きなのだ。仕方なく俺は娘をつれて、外に出ることになる。
「楽しい?」
 つなぐ小さな手から、楽しさが伝わってくる。
「うん! 傘の音とかおもしろい!」
 そう言ったあと、ランランランと、鼻歌を歌った。
その歌がなんの歌かを俺は知らない。おそらく妻なら知っているのだろう。俺は今になってその歌が何かを知りたいと思う。けれど、娘はもういないのだ。ただそれだけのことが、どんなに俺の世界を温めていたのかを、いま、思い知る。

 心のやり場がどうにも見つからない。雨の音にもせつなさが増してきてるように思えて、傘を閉じてみた。それから記憶から逃れるように、ぽとぽとの雨の粒を数えてながら歩いた。1…… 2、3…… 4、5、6…… 7…… 369を数えたとき、公園にたどりついて、そこにあるベンチに腰を下ろした。

 ランランラン。
 気がつくとそう鼻歌を歌っていた。「雨って楽しいね」と言った娘の顔が浮かんでくる。俺は空を見上げる。この上を飛行機が通らないか。その窓から、娘の顔が見えないか。視力が2億.0くらいあれば見えるかもしれない。
「あっ!」
 雲の隙間に青空が見えた。そこに虹がかかっている。かすかだけど、確かにかかっている。7色よりももっと温かい色の集合体。370、371…… 雨といっしょに、スプーンみたいな虹が。



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