閉じる


痰には良い痰と悪い痰がある。悪い痰は吐いたとき路面でアメーバ上に広がる涎分の多い純度の低い痰である。良い痰は雨に濡れたプラットフォームにできた極めて浅い水たまりの上に吐くと、ワーンバン、ツーバンと素早くバウンドしてスリーバウンド目で水たまり表面に着水し、ハイドロプレーン現象により7cmほど水面を滑らかに移動した後、厳かに停止する。停止した後も自らの表面張力によりプルルっと微かに震えるのを見逃してはいけない。

外観上で良い痰であるかどうかを見極めるには、その色調がモスグリーン又は象牙色で、クリーム色又はベージュ部分が全体の1/3以下であり、グリーン系からクリーム系への変化がよりスムーズなグラデーションであることが重要なポイントとなる。またそこに一筋の血痕が走っていればベストである(この血痕はあまり数が多いと病的な印象が強くなるので好ましくない)。

色調の次に大切なのがその表面の弾性である。軽く摘んで持ち上げた時に型くずれしないことが良い痰の条件となる。爪楊枝の尻で表面を軽く押しても弾けない程度の弾性は必要である。

重さは2.5gが基準で±0.8gが許容範囲とされているが、実際には4gを超えるものでも立派な痰を見かける事もある。ただし4gを超えるものでは上記の、"軽く摘んで持ち上げた時に型くずれしない"という条件を満たすものは少ないようだ。

弾性を計測するためには鋭い刃物で中央から切断するという方法もある。この時に切断面が流れ出てしまうようでは良い痰とは言えない。切断面は多少の膨張はあるものの、その垂直性を保とうとする努力が要求される。

次に味だが、悪い痰はカスタードクリームに近く、良い痰は生牡蛎に似ており新鮮なものほど香ばしく、時間が経つと甘味が増す。地方によっては天日干しにして甘味の増したものを炊き込み御飯にして食する。

また寒冷地では夏場に採取した良い痰を塩漬けにして、冬場の貴重な蛋白源としている。痰はもともとが痰であるため、日数をおいても腐食したり病原菌が増殖する心配が少く、白血球の殺菌効果も残留していることから、近年健康保存食品としての需要が増加している。

千枚通し

千枚通しを電話帳の上に立て、思いきり力を入れて突き刺してみる。どのくらい貫通した確かめてみると 32枚であった。千枚通しとは嘘八百の、正式には32枚通しである。千枚通すにはこの千枚通しなるものをボール盤の先に括り付け、丹念に加工を施せば可能であるかもしれない。しかしそうであるならば、ただの釘でも千枚通しと呼ばれる権利がある。

万年筆というのはいつ発明されたのだろうか?仮に人類文明発祥紀元前1万5000年が正しかったとしても、文明ができてすぐに万年筆はできないので、1万年以上使用されたという万年筆はまだ実在していないものと思われる。だから万年筆が実際に万年間の使用に耐えうるものかどうかは実証されていない。

万年平社員という人がいる。イズミシゲチヨさんの100倍生きる人である。きっとこういう人の為に万年筆と1万年使える布団(万年床)があるのだろう。

万が一という言葉がある。保険会社がよく使うが、日常の会話、特に会社の会議などでもよく使われる。しかしたいていの場合、その実際の確率というのは百が一、十が一ぐらいのことが多い。

ひどい時には 9割がたダメだとわかっているのに、「万が一ダメだったら..」などと言うヤツもいる。これに比べ、自動車保険の万が一は当たらずとも遠からずだ。日本では1年間に約5000人が交通事故で死亡する。おおよそ 2万人に1人の確率である。

万力というすごい装置がある。恐らく百人力の人が百人集まったぐらいのすごい力のある装置なのだが、万の単位については、未だ明らかにされていないようである。

百貨店という店がある。ずいぶんと品数の少なさそうな店だ。百貫デブという人がいる。375kgに相当し、かなり大袈裟な表現のつもりで作られた言葉であると思われるが、マクガイアー兄弟や、太り過ぎて家から出られなくなったアメリカ人をみると、まんざらでもない。

酒は百薬の長であり、100回飲むことで万病が治るとされているが本当だろうか?

豊登とバーンガニア

リング中央でバーンガニアのスリーパーホールドが決まった。意識が薄れていく中、豊登は思った。

「おい!打ち合わせと違うだろ!」しかしこのままでは本当に意識を失っていまいそうだ。

仕方なく豊登は言った。

「ま、まいっタ!」

するとバーンガニアのスリーパーホールドが急に緩くなり、豊登はバーンガニアの両手を振りほどき反撃に出た。

幸い豊登の「まいっタ!」は声が小さくレフェリーには聞こえていなかった。

試合後豊登はバーンガニアに言った。

「おい!もっと手加減してくれよ。打ち合わせと違うじゃないか!」

これを聞いたバーンガニアが言った。

「なに言ってんだ!オマエこそmy turnが多過ぎるぞ!」


童謡

童謡の歌詞の中には実に不思議なものが多い。もの心ついたときから半ばマインドコントロールで記憶させられているため気が付かないのだが、あらためてその意味を考えつつ復唱してみると色々と奇妙な点に気付くはずである。

例えば、夕焼けこやけの「こやけ」とか、仲良しこよしの「こよし」とは一体何なんだろうか?夕焼けは夕日で空や雲が赤く染まった景色であるが、「こやけ」というのは何処か夕焼けの他に焼けている部分があるのだろうか?

「こやけ」というからにはそう大きく焼けている訳ではなさそうなのだが。「こよし」のほうは想像するに仲良しほど仲がいいわけではないが、きらいとかウマが合わないというほどでもない友人を意味するのであろう。

「くつがなる」というのがある。「靴が鳴る」と書いてよいのだろうか?なぜ靴が鳴るのだろうか?今どきのエアーマックスを履いた小学生が野道のアンツーカーよりかは柔らかいと思われる地面の上を歩いた場合音の出る要因は考えづらい。

昔の小学生であったとしてもピーピーサンダルでもない限り特に音は出ないのではないか。しかも全員が手をつないで歌を唄っていても聞こえるほどの大音量で靴が鳴るのである。

さっちゃんの本名は「さちこ」で恐らく「幸子」と書くのだろう。両親が不幸で貧困に喘いでいる家庭ではこの子は幸せになるようにと願い「幸子」と命名する場合が多く、それゆえバナナを一度に一本たべてしまうことは許されず、また借金の返済に追われ一所に定住できずに近所の人が「ほんとかな?」と思っているあいだに一家揃って夜逃げをするのである。

後にさっちゃんが大人になったときに作られた歌が「赤色エレジー」である。

どんぐりはお池に「はまった」とのことであるが、相当にでっかいどんぐりであった。池のほうもどんぐりの半径以上の深さが必要とされる。

うみにおふねをうかばして、行ってみたいなよそのくに。行ってみたいのはいいけれど海外に行くにはそれなりの手続きがいる。そのことも説明しないと。

おおきなくりの木の下で、なぜ「くり」なのか。春にはおぞましい臭気を放つ花粉に耐えなければいけない。夏には栗の木につく害虫に気をつけなければいけない。特にイラガの幼虫などは触ったら最後、とても仲良く遊んでなどいられない。

秋にはもちろん栗のイガが地面に落ちているし、運が悪ければ落下してくるイガが脳天を直撃することもある。大きな木の下で遊ぶのであれば「くり」は避けたほうがよいと思うのだが。

いぬのおまわりさんは「いぬ」であるが、いぬの訓練士は「人間」である。この歌がなければいぬのおまわりさんって警察犬のことかな?とか、警察のイヌドモが!と思う人もいるのでは?いずれにしても迷い猫の処理を犬に任せても埒が明かない。

埒が明かないといえば読まずに手紙を食べあうヤギさんたちであろう。こういう人(ヤギ)こそもっとE-mailを有効に使うべきである。

「おはながわらった」というのがある。知らない人もいると思うので歌詞を全部紹介すると「おはながわらった(これを4 回繰り返す)みんなわらった いちどにわらった」これが一番、二番は最後の「いちどに」を「げんきに」に差し替えるだけ。シュールな歌である。

こわいの極め付けはやはり「あかいくつ」であろう。何がこわいかといえばいきなりマイナー調で始まること、異人さんが正体不明であること、ちゃんとした理由も説明されないまま連れて行かれちゃうことである。

そしてその一連のストリーの中で赤い靴という小道具的な部分がクローズアップされ象徴的に描かれていることでさらに怖さを増している。

横浜の波止場という固有名詞が唐突に出てくるのも不思議である。なぜ横浜なのか?長崎であった場合神戸に着いてしまうかもしれないからか?異人さんはナニ人なんだろう?なんとなくオランダ人のような気もするがモロッコ人とかコロンビア人であったらもっとこわいし旧共産圏だとしたらさらに怖い。

想像するにタイガーマスクのミスターX みたいな服装をしているのだ。そして虎の穴に連れて行かれ覆面女子プロレスラーにされてしまうのだ。やはり思った通り人身売買だ。

そして赤い靴の女の子の見返りとして日本の港にやってきたのが青い目をしたお人形である。ここでは何処の港に着いたのかは謳っていない。

アメリカ製のセルロイドであるため焼却処分する際に有毒ガスが発生するため環境保護団体の抗議行動を恐れ、停泊する港がどこであるか公開しなかったのだろう。さらにこの人形は青い目から涙を流すという怨念が宿ったものである。きっと髪の毛も伸びるに違いない。

いろいろとイチャモンをつけてきたが童謡全体に言えることは今の時代には当てはまらないものが何の修正もされずにそのまま歌いつがれているということだ。もちろん著作権は尊守しなければならないが子供を時代錯誤させるのもどうかと思う。

上記でも分かるとおり外国に行くといえば必ず船というこになっているし、例えば「たきび」という歌ではたき火自体を奨励している。いまどきたとえ自分の土地の中であっても苦情なしでのたき火はむずかしい。

「おもちゃのチャチャチャ」では鉛の兵隊がトテチテタしたりするが鉛は有毒物質であるし、だいたいいまの子供のおもちゃといえばもっぱらゲームソフトでである。

「おはなしゆびさん」という歌では、「このゆびパパ ふとっちょパパ」ではじまりこのパパは「やあやあやあやあワハハハハハハ」とおはなしをする。そして「ママ」は「まあまあまあまあホホホホホホホ」、「にいさん」は「オスオスオスオスへへへへへへへ」、「ねえさん」は「アラアラアラアラウフフフフフフ」となっている。

さいわい人間の指の数には限りがあるが、仮に「じいさん」ゆびは「ゲホゲホゲホゲホアグググググ」、「ばあさん」ゆびは「ヒホヒホヒホヒホナンマイダ〜ナンマイダ〜」になったのだろう。

宇宙人

金星人ではないかと思われるようなジイさんとか、土星人だろ!という感じのオバさんとをたまに見かけるが大抵の場合彼等は地球人である。

では本当に宇宙人はいるのか?ということになるのだが、いる、いない、の前に、仮にいたとしても地球人が遭遇できる確率は極めて低いということを理解しておかなければいけない。

地球が誕生したのは47億年前であり、人類が誕生して10万年。そしてその人類が文字や絵によって見たものや聞いた事を記録に残し、後世に伝えられるようになってからは、せいぜい5千年。大気圏外の宇宙に出る手段を開発してから50年程度である。

人類が生存している期間が10万年の場合、それは地球の歴史の中の約1/5000だ。つまり宇宙人が地球にやってきたとしても5000回来ないと地球人に会えないという計算だ。さらに文明を持った地球人に会える確率は1/100000となる。

仮に地球と同じような惑星が存在し、そこに人類と同じような高等生物がいたとしても、同時期に存在できる確率は 1/5000の2乗となり、お互いが宇宙空間内で遭遇できる確率は1/10000000の2乗となる。宇宙の誕生が137億年前とすれば、その中の47億年という期間も考慮する必要があり、さらに確率は低くなる。

ということで、時間軸で考えた場合には確率的には限りなくゼロに等しい。仮に地球人がこれから先高度な文明を維持しながら100万年生存し続けたとしても確率的には焼け石に水であろう。

時間軸で考えた場合には別の問題もある。地球は24時間で自転しているわけだが、人類はこの24時間を基準にして生活パターンや行動する速度が自然に決まってきたはず。しかし他の惑星の自転速度が同じである可能性は少ない。

仮に48時間で自転する惑星の宇宙人は地球人より動きが倍遅くなる。歩く速度も喋る速度も倍かかるわけだ。子供でもボブサップのような低い声で笑うのだ。このテンポに合わせて平和条約交渉とかしなければいけない。寝てるのかと思ったら瞬きだったなんてこともあるだろう。

逆に2時間で自転する惑星の宇宙人は非常に忙しない。12倍の速度で行動されたら、とてもついてはいけないだろう。寿命も4〜5年程度かもしれない。

問題は時間だけではない。「大きさ」というのもある。宇宙人の生息する惑星が地球と同じサイズである可能性は低い。そしてそのサイズによって重力が異なるわけで、仮に水星程度の惑星から来た宇宙人は地球上の重力に耐えられなくて立ってはいられないだろう。

生体によっては自らの重さで潰れてしまう可能性もある。反対に土星クラスの惑星から来た宇宙人は、おそらくその惑星の重力に耐え得るためにゾウとかカメのような体型をしているだろう。極端な場合はアワビのようになっているかもしれない。

以上のような、時間、サイズは、あくまでも地球という惑星を基準とした考え方の範疇ではあるのだが、宇宙というところは天文学的数値に匹敵するほど広く、中には我々の尺度では考えられない惑星もあるかもしれない。

自転速度が0.5秒とか、サイズが地球儀ぐらいの惑星で生命が誕生しているのかもしれない。もしかしたらそういった惑星から来た宇宙人は既に地球に何度もやってきてはいるのだが、我々が気付いていないだけなのかもしれない。超高速で動いている極小の体を持つ彼等にとっては、我々人類は地殻変動並みの超低速でしか動く事のできない超巨大物体にしか写っていないのかもしれない。

では、そのような超小型の惑星で生命は誕生するのか?一般的には水が存在しないと生命の誕生は困難とされている。地球ほどの大きさがないと重力で表面に水を貯えておくことは出来ないとも言われている。しかし我々生物が生命を維持するために必要な酸素は、もともと猛毒物質でもある。猛毒ではあるのだが、その酸素が大量にあったがために、それを利用して生きる生命が自然と発生したわけだ。

仮に酸素が無いとしたら、水素を吸って生きる生命が誕生したかもしれないし、ヘリウムを吸って生きる生命であるかもしれない(声はかん高くなるかもしれないが)。また、場合によってはセシウム-137を吸う事で生命を維持する生き物になる可能性もある。ガミラス星人とかがそうだ。放射能の中で進化してきたにもかかわらず顔色が悪い点を除いてはほぼ人類と同じ体型をしている。進化の力とは恐ろしいものである。

もう一つ、忘れてはいけないのが距離である。生命が生息する可能性がある惑星には必ず地球の太陽に当たる「恒星」が存在しなければならない。しかしその恒星、地球から最も近いケンタウルス座のプロキシマ・ケンタウリでも地球からの距離は4.22光年だ。現在のスペースシャトルでは16万年かかる距離にある。しかもこの恒星が地球と同じような惑星を持っているという説は無い。

近年の観測で、地球と同等の惑星の存在も明らかになっている。グリーゼ876d、OGLE-2005-BLG-390Lbなどだが、グリーゼ876dは地球から15光年離れたところにあり、スペースシャトルでは57万年かかる。OGLE-2005-BLG-390Lbに至っては2万光年先あり、スペースシャトルでは7億6000万年かかる。

しかもグリーゼ876dは恒星の至近距離をわずか2日足らずで公転し、表面温度は数百℃に達することから生命が存在する可能性は極めて少ないとされている。OGLE-2005-BLG-390Lbのほうは逆に表面温度は‐220℃と考えられている。この温度では水、アンモニア、メタン、窒素などはすべて凍ってしまい、こちらも生命の存在は期待できない。

仮に光速に限りなく近い速度で移動できる宇宙船が開発されたとしよう。それでもOGLE-2005-BLG-390Lbまでは2万年以上かかるのだ。また仮に生命が存在しうる惑星があったとしても、その惑星までの距離は光の速度で数万年以上を覚悟しておかなければいけないだろう。

いずれにしても人類が宇宙人に遭遇できる可能性などというものは皆無と言ってもいいだろう。ただし「ワープ」などというものが実現すれば一気に真実味が増して来るというのも事実だ。

しかしワープを肯定するということは相対性理論を覆すということにもなってしまう。というか現実的には「あり得ない」ことであろう。しかし、その昔、人間が鉄でできた乗り物に乗って空を飛ぶなんてあり得ないと多くの人が思っていたはずである。もしかしたらあり得るかもしれない。いや、やはりあり得ないだろう。

※2012年現在、上記よりも多くの地球型惑星が発見されている。



読者登録

斎藤忍さんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について