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はじめに

 どうして一人でやっているのですか?とよく質問されます。相手の方は、実に明快な解答を期待しておられるのだと思います。「大きなことを成し遂げたい」「自分の力で実現したい夢がある」「一国一城の主になりたい」「世の中を変えたい」どうでしょう。なかなかどうして、フリーランサー歴5年目の僕は、こういう質問をされた時にゴモゴモしてしまいます。
 もちろん、それらしい解答は用意できるでしょう。5年もやっていれば、後からもっともらしい理由付けしてやることも容易でしょう。会社勤めにフィットしない理由を論じるのか、社会の状況の変化を論じるのか、ライフスタイルやワークスタイルの多様性を論じるのか、自己実現の可能性を論じるのか。言うのは自由ですから、いかようにも言えそうです。
 ただ、自分のことを鑑みますと、一言で言ってしまえば「なりゆき」でしかない。などと言ってしまうと、自分の人生に随分と無頓着な奴のようにも聞こえるかも知れませんが、むしろ僕はそういうことに関しては人一倍貪欲な人間で、ただここに至るまでに、大いなる決断も、人生を変える判断もした記憶はないですし、何かを手にいれるために何かを失ったり、何かと引き換えに何かを勝ち取ったわけでもない。ただ人生のある瞬間に「ポカン」としてしまった。その「ポカン」としてしまったことが僕のフリーランサーとしての出発点になったのです。
 「ポカン」としてしまったなどと言うと、掴みどころがないですね。ちょうど、大学生と社会人の狭間の時期に、僕は「ポカン」としてしまった。大学の卒業単位も取得して、それなりの会社へ就職することも決まっていて、人並みに自分のこれからの人生に夢を馳せていたわけです。そんな折にふとしたことで体調を崩し、人生の休息を余儀なくされ、せっかくの内定も辞退し、辛うじて大学は卒業したものの、大学にとどまるわけでもなく、社会人としての第一歩を踏み出すわけでもなく、気がつけばどこにも所属がない、加藤康祐という一個人として、ただ「ここ」にいるだけの人になってしまいました。
 生まれてこの方、幼稚園、小学校、中学校、高校、大学と教育という形を取って、どこかに所属することで人生を送ってきたわけです。それが何だか急にとても漠たる「社会」というものにしか所属がない人になってしまったのですね。
 ただ、「ポカン」であって「ポツン」でなかったのは本当に恵まれていたと思っていて、幸いなことに家族や学友、仲間や先輩・後輩、多くの人に支えられて、休息期間に自分をフラットなところまで戻してくることができました。正直自分は「何もできない人間」になってしまうのではないか、という不安もありましたが、先輩に「上を見るだけが人生じゃない」と言われて、その時はその言葉をどう咀嚼していいか戸惑ったものですが、今ではあの時あの言葉をかけていただいて、本当によかったと思います。それは「肩の荷が下りる」というようなことではなくて、むしろ、「今そこにある現実と対峙する」という意味で、僕に取っては辛辣なメッセージだったと思っています。
 そんな「ポカン」から2年ほど経ち、友人経由で仕事の相談が舞い込みました。僕もそろそろ何かを為さなければならないと思っていましたし、状況的にいわゆるニートでしたから、少し物怖じしながらもお引き受けさせていただくことにし、復帰戦をスタートしました。5年前のことですが、初めてクライアントと高田馬場でお引き合せいただいたことを今も鮮明に覚えています。あれからあっという間に5年です。1件1件手探りながらもクライアントの数が増え、仕事の幅も広がり、エクスペリエンス・トランスポーターズという屋号で、いっぱしに「デザインの仕事をしています」、と名乗れるようになりました。ありがたいことです。
 ただただ「今をアップデートする」ことだけをしてここまで来たのだと思います。ですから、基本的にはやはり「なりゆき」としか言いようがないのです。ですから、僕の話には成功のためのティップスや、クリエイティブに生きるためのハウツーや、勝ち残るためのノウハウはないかも知れません。
 けれども曲がりなりにも一度「ポカン」としてしまった人間が、穏やかに丁寧に自分の仕事を形作っていくために、何を考え、何を行い、何を紡いできたのか、ということは、色々な問題を抱える今の日本、そしてそこに生きる若い人達に取って、何らかのヒントになるのではないかと思っています。
 そんなわけで、「本を書こう」と思って文章を書くのは今回が初めての経験なのですが、iPadやら、Kindleやら、電子書籍・出版で「本を書く」ということに関わるコストが激減し、個人で本が書ける時代になってきたわけですから、そんなに大きな使命感やら目的意識やら目標やらを抱えずに、これもまた、こういう時代に文章を書いている人間の「なりゆき」として、始めてみようと思います。お付き合いいただければ幸いです。

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仕事の純度

 仕事の純度というのは耳慣れない言葉かも知れません。例えばデザインの仕事で考えた時に、デザインの仕事の純度とは、「デザイン作業に注力できると」でしょうか。僕は多分違うのではないかという気がしています。
 高校の同級生が靴の修理屋をやっていまして、「靴を直す代わりに、畑で取れた大根をもらう」みたいな世界が仕事の本来的にあるべき姿だよね、という話をしたことがあります。物々交換です。
 会社というものの起源はイギリスの東インド会社だそうですが、産業革命以降、大量生産大量消費の社会構造が、企業組織を機能せしめるためにより高度な職能の分化を求めるようになりました。よく「歯車」と例えられますが、それは決して揶揄されるべきことではなく、社会構造に応じて合理化された、ある種、人類の進化における当然の帰結なのではないかと思います。
 一方で物々交換の時代に比べれば、仕事の構造というものも大分わかりにくくなってしまったように思います。そのこと自体を否定するつもりはありませんが、そういう世の中になってきたからこそ、仕事の純度を保つ努力、というのは必要になってくるのではありませんか。
 先に挙げたデザインにおける「仕事の純度」というのも、「自分がいかにデザイン作業に注力できるか」ではなく「自分が問題を解決して対価を得る」という構造がいかにシンプルであるか、ということではないかと思います。
 幸いなことに僕はそういう意味で非常にシンプルな構造で仕事をしていて、それは個人事業であるとか、直接取引であるとかいうところの、大きな利点の一つだと思っています。強みと言ってもいい。シンプルであるが故に、飽きないし、原体験を大事にできるし、忘れてしまってはいけないことを忘れなくて済む。
 仕事の純度というのは意識しないと薄まっていってしまうものだと思います。日々の業務に忙殺されていると、「仕事をすることが仕事」になってしまいかねません。組織にいる人であればこそ、むしろ、自分の仕事の純度ということを常に意識して仕事に取り組んだ方が、結果的にそれは長く続けられる仕事になっていくのではないでしょうか。

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