
電子書籍版へのまえがき
本書は二〇〇三年九月に単行本として廣済堂出版から、その後二〇〇五年に文庫本として講談社から出版された『裏支配―いま明かされる田中角栄の真実』を加筆修正して電子書籍化するものである。
単行本が店頭に並んだ二〇〇三年九月は自民党総裁選挙で小泉純一郎(こいずみじゅんいちろう)氏が再選され、抵抗勢力の中心にいた野中広務(のなかひろむ)氏が政界引退に追い込まれた。一方で自由党の小沢一郎(おざわいちろう)氏が民主党に合流し、民主党が政権交代を狙える本格野党の体制を整えた。直後に行われた総選挙で自民党は十議席減らして二百三十七議席、民主党は四十議席増やして百七十七議席となり、日本にもようやく二大政党時代が訪れたことを実感させた。
それまでは細川政権が誕生したわずかな期間を除いてわが国の権力闘争はもっぱら自民党内の派閥抗争であった。つまり国民は権力闘争の枠外に置かれ、「主権在民」と言いながら自らの手で権力を生み出すことができなかった。そうした政治の仕組みが変わろうとする時期に本書は誕生したのである。
したがって小泉政権が国民の熱狂的な支持を受けていた時期に本書は書かれたものだと思って読んでいただきたい。
小泉政権は自民党の派閥政治を破壊した。しかし本書が指摘する「裏支配」の構造を変えたわけではない。それが安倍、福田、麻生と続く自民党政権を追いつめていく。二〇〇九年の政権交代に至るその過程を電視書籍化にあたり新たに「それからのこと」として書き加えた。
また筆者は二〇〇五年に『メディア裏支配』(講談社)を書いて、日本のメディアが世界に類例のない歪んだ構造であることを明らかにしたが、政権交代後のわが国メディアの異様さについてもそこで指摘している。
はじめに
日本の最高権力者は内閣総理大臣とされる。その最高権力者の政治が受け入れられないとき、国民は選挙によって対立する政党を多数党に押し上げ、権力を別の人物に託すのが議院内閣制における民主主義政治である。
ところがわが国では、五五年体制お呼ばれる万年与党と万年野党の仕組みの中で、常に与党内部の権力闘争によって次の総理が決められてきた。
五五年体制が崩壊し、政権を取ろうとする野党が現れた今でもまだそれは変わっていない。現に小泉総理大臣を交代させようとして最も激しく対立しているのは同じ自民党の「抵抗勢力」と呼ばれる面々である。
与党内部の権力闘争は国民には理解しにくいものだ。しかしそういう形でしか権力の移行がないため、日本の政治はわかりにくく、国民が参加することもできない。
政治に期待したいが、いつも期待は空回りするばかりで、そのうち政治に失望してしまったという話をよく聞く。政治に裏切られた思いから、絶対に投票には行きたくないと息巻く人もいる。
しかし、政治は駄目だと言っても、私たちは政治と無縁の世界で生きるわけにはいかない。政治は否応なく私生活にも影響を及ぼしてくる。私たちが政治を見捨てても何も得るものはなく、政治に唾(つば)を吐きかけても、その唾は自分に返ってくる。
政治はあらゆる立場の利害を巡る戦いだから、政治家は本当のことばかり言うわけにはいかない。何かを成し遂げるためには、反対する者が誰かを探り、敵側の力量をはかり、味方の力量と比較して、どこからどのように攻めるかの戦略を立てなければならない。そのためにはアドバルーンをあげてみて周囲の反応を見る必要もある。時には味方を騙(だま)す時もある。一時撤退というケースもある。そうした事の表面だけを見て政治を判断すれば、確かに政治はわかりにくく、信用できなくなる。
私は政治に対する侮蔑や批判の声を聞くたびに、その気持ちは痛いほどに分かるものの、出来る限り政治の実像を見てもらいたい、国民が政治を見る目を肥やして、政治を批判するだけでなく、より良くする方向に協力をしてもらいたいと思ってきた。
しかし一九七六年に起きたロッキード事件と一九八七年のリクルート事件によって頂点に達した国民の政治不信は今に至っても全く解消されず、それどころか日本政治はさらなる混迷の中にある。
かつて自民党が本格的に政治改革に取り組もうとしたときがある。
一九八八年の参議院選挙で自民党が歴史的な大敗を喫(きっ)し参議院で野党に転落したときだ。予算以外のすべての法案が成立しなくなる事態が想定された。自民党は政治改革推進本部を設置して真剣に政治改革の議論を行った。
当時TBS(東京放送)の政治記者であった私は、自民党政治改革推進本部に参考人として招かれ、アメリカの政治改革の前例に倣(なら)って、国会の議論をありのままに放送するテレビの導入を提案した。
一九七〇年代半ばにウォーターゲート事件とベトナム戦争の敗北によって国民の政治不信が深刻となったアメリカでは、政治家達が「日の当たる所に腐敗は生まれない」を合い言葉に、国民に対して情報公開を徹底する「サンシャイン改革」を行い、政治と国民との新たな信頼関係を構築して危機を乗り越えた。このときアメリカには議会審議を国民に向けて専門に放送する民間のテレビ局C-SPANができた。
私の提案は自民党の「政治改革大綱」に重点項目として盛り込まれ、国会では超党派の議員によって七年がかりで検討された。しかし小選挙区制の導入を巡って自民党は分裂、細川政権の誕生によって野党に転落した自民党は、社会党の村山富市(むらやまとみいち)氏を総理に担(かつ)いで政権与党に復帰すると、メディアを管理する方向で権力を保持する動きを強め始めた。
国会テレビも、当初は「民間が運営するのが望ましい」とされていたのが、いつの間にか「国が管理すべきだ」と言われるようになった。
一九九八年にCS衛星放送でスタートした日本版C-SPAN「国会TV」は、国会審議や政治家のインタビュー、またC-SPANと提携してアメリカ議会の動向などを放送していたが、「乗っ取り」が仕組まれ、それを拒否すると衛星料金の未払いを理由に二OO一年十二月に放送電波を止められた。
私が政治改革の一環として国会テレビの実現を自民党に提案し、その事業に乗り出した直接のきっかけは、C-SPANの創立者ブライアン・ラム社長との運命的な出会いだった。二十年近くテレビの仕事をしてきた私にとって、「視聴率を追求するところからテレビの堕落が始まる」というラム氏のテレビ哲学は衝撃であった。そのラム氏から「あなたは十年前の自分を見るようだ」「あなたには我々と同じ仕事をする資格がある」と言われたことが、その後の私の人生を変えた。
しかしもう一人、それ以前に私の政治の見方に影響を与えた人物がいる。それが田中角栄元総理で、私の記者人生の節目節目で不思議な因縁があった。
私は一九六九年にTBSに入社以来、一貫して報道の仕事をしてきたが、政治記者になったのは三十八歳のときだ。それまではドキュメンタリーのディレクターや社会部記者などの仕事をしてきた。政治記者としてはまったくの遅咲きだが、その政治記者生活のスタートの時点で、田中元総理の目白の私邸を月に一度訪れ、角栄氏の「話の聞き役」になるという、記者としては得難い機会に恵まれた。当時、田中元総理はロッキード事件の一審判決で有罪とされ、「自重自戒」と称して目白の私邸にこもったまま、対外的な活動を自粛(じしゅく)していた。
私邸での田中角栄氏は、自重自戒とは思えない元気さで、日本政治の過ぎし日のことや日本の政治課題について毎回一方的にしゃべりまくった。顔を合わせると途端に自分の話をし始めるのだ。こちらが何を考えているのか、何者なのかなど、全く意に介していないようで、一人でしゃべり一時間余の時間が経つと「それじゃ又」と言って部屋から引き上げていった。政治記者のスタートを切ったばかりの私にとって、田中角栄氏が語る日本政治の姿は、これまでメディアを通して理解していた政治とはまったく異なるものだった。目からウロコというか、まさに私の政治を見る目を決定づけるものであった。
これまでの取材から、私は現在の政治の混迷はロッキード事件が原点だと思っている。ロッキード事件で逮捕された田中角栄氏は、無罪を勝ち取るために自民党最大派閥を支配し、「闇将軍」として最高権力者であるべき総理大臣を意のままに操る仕組みを作り上げた。以来、田中角栄氏が倒れた後も日本の最高権力者は常に自民党最大派閥の手のひらの上にあった。「裏」が「表」を操る政治が続いてきたのである。
二OO一年四月、最大派閥の領袖(りょうしゅう)橋本龍太郎氏を破って小泉純一郎氏が自民党総裁に選ばれたとき、ロッキード事件以来四半世紀にわたって続いてきた日本の政治構造が初めて崩れる可能性が出てきたと思った。小泉総理が「自民党をぶっ壊す」と叫ぶとき、私には「自民党最大派閥をぶっ壊す」と言っているように聞こえる。野中広務元幹事長を中心とした「抵抗勢力」と小泉総理との間で繰り広げられた熾烈(しれつ)な権力闘争は、その構造変化を巡る闘いに他ならない。
四半世紀にわたって作り上げられてきた支配の構造は、政治の世界のみならず、官界、経済界、学会、マスコミの世界にまで張り巡らされており容易に崩れるものではないが、我々は今、その構造変化の過程を目の当たりにしている。
かつて田中角栄氏の支配に挑(いど)み、その権力を奪取しようとしたのは中曽根元総理であり、また田中派にあって世代交代を訴えた金丸信、竹下登の両氏である。今、当時の取材手帳を読み返してみると、田中角栄氏と中曽根、金丸、竹下氏らが繰り広げた壮絶な闘いの中に、実は現在の権力闘争を読み解くカギがあるように思う。
本書では、ロッキード事件とは何であったか、刑事被告人である田中角栄氏がなぜ政界を支配できたのか、田中政治とはどのようなものか、田中角栄氏はいかにして倒れたか、その後の権力闘争から何が生み出されたか、そして五五年体制末期の政治がいかに惨憺(さんたん)たるものであったか、そうした実態を取材手帳の中からそのまま再現しようと思う。ここで語られている政治家の言葉は現実の言葉そのものであり、その素顔も見てきたままのものである。
その上で、リクルート事件後に国民の政治不信を解消するために叫ばれた「政治改革」にどのような壁が立ちふさがったのかを、私自身が関わってきた国会テレビの動きを例に紹介しようと思う。日本という国の構造がわかるはずだ。
本書が皆様にとって、政治とは何かを考え、現在の政治の混迷を読み解く上での一助になればと思っている。