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長矩、筆をとる

長矩は机に向かい、硯をとりだした。


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最終更新日 : 2018-01-25 19:19:21

主な赤穂浪士

主な赤穂浪士[編集]

討ち入り参加者の傾向[編集]

討ち入り参加者の半数強にあたる24人が、内匠頭刃傷の際、江戸にいた浪士たちである[141]。藩士の多くは国元にいた事を考えれば、この比率は際立って高い。 国元在住だが江戸まで内匠頭についてきて刃傷事件に遭遇したものも12人いる[141]

家臣団の頂点に位置する家老4人と番頭5人のうち、討ち入りに参加したのは内蔵助のみで[141]、物頭は吉田忠左衛門と原惣右衛門のみであり[141]、残りは用人、馬廻、小姓、およびその家族が大半であった[141]

また親族での討ち入り参加が多く、単独で討ち入りに参加したものは21人、残り26人は親子あるいは何らかの親族関係のものとともに討ち入りに参加している[141]

討ち入り参加者の多くは内匠頭個人から特別な恩寵を受けたものではあらず[142] 、むしろ内匠頭との関係が悪かったものもいた。

例外は片岡源五右衛門と磯貝十郎左衛門で、彼らは浅野内匠頭の側近であり、一昔前であれば内匠頭の死とともに殉死するような関係にある[143]

一方内匠頭と関係が悪かった例としては千馬三郎兵衛がおり、千馬は主君に度々諫言して不興を買い、閉門にさせられ、刃傷事件のあった元禄14年の3月には永の暇乞いをしようとしていたほどであったにも関わらず、討ち入りに参加している[142]

不破数右衛門も内匠頭から勘気を蒙り、刃傷事件の際には浪人中だったにもかかわらず、内蔵助に頼んで討ち入りに参加している[142]

大石主税良金[編集]

大石主税(おおいしちから)は大石内蔵助の嫡男で四十七士では最年少であり、内匠頭の刃傷の際は元服前で幼名の松之丞を名乗っていた[144]

討ち入りの際には裏門隊の大将を務めた[144] 。享年16[144]

吉田忠左衛門兼亮[編集]

吉田忠左衛門(よしだちゅうざえもん)は大石内蔵助に次いで事実上の副頭領[145]。足軽頭で裏門隊の副将を務めた。享年64[145]

寺坂吉右衛門信行[編集]

寺坂吉右衛門(てらさかきちえもん)は四十七士では最も身分が低い。他の46人が士分なのに対し、寺坂は士分ではなく足軽である[146]

おそらくもともとは百姓で[147]、吉田忠左衛門の家来になったが、忠左衛門が足軽頭になったことにより忠左衛門の足軽から藩直属の足軽に昇格した[147]

討ち入りには参加したが引き上げの際に姿を消した。それ故に赤穂浪士切腹の後も生き残り、享年83で亡くなった[146]

姿を消した理由は古来から議論の的で、逃亡したという説から密命を帯びていたという説まで様々である(後述)。

堀部安兵衛武庸[編集]

堀部安兵衛(ほりべやすべえ、やひょうえ)は江戸詰めの浪士の一人で、内匠頭の切腹の報を聞くと最初から吉良への仇討ちを主張したいわゆる江戸急進派の中心人物の一人である。

25歳の時[148]に甥・叔父の義理を結んだ菅野六郎左衛門の危機に助太刀した高田馬場の決闘で名を馳せ、吉良邸への討ち入りは生涯2度目の戦いとなる。享年34[148]

堀部弥兵衛金丸[編集]

堀部弥兵衛(ほりべやへえ)は四十七士最高齢で享年77[149]

高田馬場の決闘で名を馳せた安兵衛を強いて求めて養子にした[149]

不破数右衛門正種[編集]

不破数右衛門正種[150](ふわかずえもんまさたね[150])は元禄六年の分限帳によれば百石取りの普請奉行で[150]、馬廻りであった[150]。元禄10年[151][150]浅野内匠頭の勘気を受けて浪人していた。『翁草』によれば、数右衛門は墓地から死体を掘り返して試し切りをしていたのだが、これが噂となった為、不慮の事故が起こる前に路銀を取らせて暇をだしたのが浪人の原因だという[150]

浅野内匠頭の刃傷後、大石内蔵助に許されて帰参し、討ち入りに参加[151]。吉良邸討ち入りでは裏門を屋外で固める役であったが、じっとしてられず中に侵入し、二人を斬り倒し、吉良左兵衛に斬りかかった。左兵衛は逃げてしまったものの、別の一人と斬りあいをして倒す[152]。斬り合いのしすぎで刀がささらのようになり刃が無くなるほどだったという[152]。享年34[151]

矢頭右衛門七教兼[編集]

矢頭右衛門七(やとうえもしち)は大石主税に次ぐ若年である[153]

刃傷後、父・矢頭長助とともに盟約に加わったが、大阪に移り住んだ頃から父が病に倒れ、帰らぬ人となったため、右衛門七のみが討ち入りに参加する[153]。享年18[153]

討ち入りへの参加は、病に倒れていたころからの父の遺言であったという[154]

武林唯七隆重[編集]

武林唯七は豊臣秀吉の朝鮮出兵の際捕虜になった中国人・孟二寛の孫で[155][156]、祖父が中国浙江省の武林の出身だったことから姓を武林と名乗った[155]。内匠頭の乳兄弟であり、後に内匠頭の中小姓として使えたが、十五両三人扶持の軽輩だった[156]。唯七は上方では最も急進的な同志の一人であった[155]。享年32。

主な脱落者[編集]

脱落者の傾向[編集]

赤穂藩士に士分の子や隠居を含めた三百数十人のうち[157]、1/3以上が神文を提出[157]。そこから80名ほどが脱盟し[157]、討ち入りに参加したのは46名(寺坂は士分ではなく足軽身分)であった。 神文提出の段階でまず下級武士がいなくなり[157]、そこから46人に絞られる段階で比較的高禄のものが離脱した[157]

最初に下級武士がいなくなったのは、町人になるなど生計を立てる道があったからであろうし[157]、その後で高禄のものが離脱したのは浅野大学の処分が決まりお家再興の道が閉ざされたためだろう[157]

離脱者は時に討ち入り参加者から義絶されたり不通にされたりするが、それは討ち入り参加者が離脱者の援助を受けられなくなるという事でもあった[158]

たとえば四十七士の一人である小野寺十内は義兄(妻の兄)が脱盟したため義兄を義絶したが、その結果として小野寺の妻「おたん」は兄を頼る事ができなくなってしまっている[158]。 おたんは討ち入り後、京都で自害している[158]

大野九郎兵衛知房[編集]

大野九郎兵衛(おおのくろべえ)は赤穂藩の次席家老で、平時には藩札のシステムを作るなどの貢献があった[159]

しかし赤穂藩取り潰しが決まると、切腹に反対するなど弱腰の姿勢を見せ[46]、原惣右衛門が賛同できないものはこの場を去るようにと言うと、大野は10人ほどの者とともに立ち去った[46]

4月12日に赤穂城の明け渡しが決定すると、その日の晩に息子の郡右衛門とともに逃亡した[49][160]。逃亡に際し郡右衛門の幼い娘を置き去りしていったという[160]

逃亡の原因は、『江赤見聞記』の巻二によると、大野が藩庫金の分配に関して岡島八十右衛門と揉め、命の危険を感じた事が原因だというが、よく分からない[160]

こうした経緯もあってか、忠臣蔵のドラマでは「不義士」の親玉として描かれることが多く、元禄16年に書かれた『易水連袂録』ではすでに「日本無双大臆病ノ腰抜」と描かれている[160]

宮澤誠一は「義士」伝説が創出される際、大野がいわば悪役としてスケープゴートにされた形だと評している[160]

岡林杢之助直之[編集]

岡林杢之助(おかばやしもくのすけ)は最初から盟約に加わらなかったが、四十七士が討ち入りを果たした事が伝わると、兄の孫左衛門や弟の左門から不義をなじられ、弟の介錯により12月28日に切腹した[161]

寺井玄渓[編集]

赤穂藩の医師である寺井玄渓(てらいげんけい)は円山会議以前から浪士たちの活動を支えており[162]、討ち入りに参加したいという意思を持っていたが[162]、玄渓は武士でないという理由により、内蔵助に断られている[162]

高田郡兵衛資政[編集]

高田郡兵衛(たかだぐんべえ)は討ち入りに参加した堀部奥田と同じ堀内道場の同門であった[163]ためか、江戸急進派の一人としてこの二人とともに行動し、吉良を討つよう大石に迫っていたにもかかわらず、脱盟した。

父方の伯父が高田を養子にしたいと言ってきたのを断りきれず、仲介にたった高田の兄が仇討ちの事を伯父に話さざるを得なくなったからである[164]。高田は堀部と相談し、伯父を納得させるために脱盟[164] 。最初の脱盟者となった[165]。元禄14年12月頃のことである[166]

高田は討ち入り後泉岳寺に向かう赤穂浪士達のもとに駆けつけたが、堀部以外の全員から無視された[164] 。その後酒を持って赤穂浪士のいる泉岳寺にも行ったが、赤穂浪士からは「踏み殺してやりたい」と罵られた[164]

萱野三平重実[編集]

萱野三平(かやのさんぺい)の父は三平に他家への仕官の口を見つけてきた[164]。赤穂浪士の密命に参加したかった三平は仕官を固辞したものの父が仕官の内諾をもらってしまう[164]。板挟みになった三平は元禄15年1月14日、切腹で自害してしまった[164]

小山源五左衛門良師、進藤源四郎俊式、大石孫四郎信興、奥野将監定良[編集]

小山源五左衛門(こやまげんござえもん)、進藤源四郎(しんどうげんしろう)の二人は大石内蔵助の親戚で[167]、大石と常に行動を共にしてきた中核的なメンバーだった[78]にも関わらず、浅野大学の処分が決まり、浅野家再興の望みがなくなると脱盟してしまった[167]

なお小山は山科会議の際すでに消極的な姿勢を見せていたが、同時にその裏では堀部等急進派に同調するような書状も送っていた。それゆえ堀部等急進派は小山の事を信じ、大石をはずして小山を急進派の首領に担ぎあげようと画策していたのだが、山科会議での態度を見て堀部等急進派は激怒した[168]

同じく大石の親戚にあたる大石孫四郎(おおいしまごしろう)もその後の円山会議には出席したものの、そのまま脱盟した[167]

実録物の『赤穂義士伝一夕話』では討ち入りと老母の世話とどちらをするか弟の大石瀬左衛門と籤を惹いたとあるが、史実ではそのようなことはなく、大石孫四郎は脱盟により四十七士の一人である弟の大石瀬左衛門から義絶されている[167]

また小山源五左衛門の娘ユウは、四十七士の一人である潮田又之丞のもとに嫁いでいたのだが、源五左衛門の脱盟により実家に返され、源五左衛門ともども又之丞から義絶された[169]

奥野将監(おくのしょうげん)も大石の親戚で[78]、城明け渡しの際最初に血判状に署名し、大石とともに幕府の対応にあたるなど、大石を支えてきたが、円山会議の後、もう一度お家再興の嘆願をすべきだと主張して脱盟した[78]

橋本平左衛門公之[編集]

浅野内匠頭の刃傷事件のとき18歳だった橋本平左衛門(はしもとへいざえもん)は赤穂浪士の密命に加わっていたが、大阪で蜆川の茶屋淡路屋の遊女「はつ」に入れあげ、2人で心中してしまった[170][171]

2人の心中は元禄15年7月15日の事だとされる[170]が、佐々小左衛門が早水藤左衛門にあてた手紙ではそれは11月の事だとある[171]

小山田庄左衛門、田中貞四郎[編集]

小山田庄左衛門(おやまだしょうざえもん)は四十七士の一人である片岡源五右衛門から小袖と金三両を盗んで逃亡した[172]。深川会議のあった元禄15年11月2日のことであった[173]。酒が原因で金に困っていたという[173]

庄左衛門の父である一閑は、このことを知ると刃で胸元から背後の壁まで突き通して自害した[172][174]

田中貞四郎(たなかさだしろう)も酒の虜になり、その二日後に逃亡した[173]。田中は病毒のため、顔まで変わっていたという[173]

渡辺半右衛門、中村清右衛門[編集]

渡辺半右衛門は四十七士の一人武林唯七の兄にあたる人物である。渡辺は当初盟約に参加していたが、武林から自分に代わって両親の面倒を見てほしいと説得され、離脱している[175]

中村清右衛門は年老いた母を置いて盟約に加わったが、(老母の世話を頼んでいる人物と思われる)太郎左衛門が自殺を考えていると聞き、半ば脅迫のような形で討ち入りを断念させられた[176]

瀬尾孫左衛門、矢野伊助[編集]

内蔵助の家来である[177]瀬尾孫左衛門(せおまござえもん)は、山科で江戸行きを止められて立腹し、江戸までついてきた[178]。そして内蔵助の東下りに先行して瀬踏み役をしたり平間村の仮宿を斡旋したりする活躍があったが[179]矢野伊助(やのいすけ)とともに脱盟[179]

二人の脱盟は元禄15年12月6日の事とされるが[87]、『寺坂私記』によれば元禄15年12月12日に内蔵助留守中に矢野伊助とともに平間村から姿を消したとあり[179][180]、 これが事実なら通常「最後の脱盟者」とされる毛利小平太よりも後に脱盟したことになる[179]

毛利小平太[編集]

毛利小平太(もうりこへいた)はさる大名の下男になりすまして吉良邸に潜入し、世間で言うほど警備は強固でないという報告をもたらしたこともあるほどの男であった[181]。にもかかわらず討ち入り三日前の元禄15年12月11日に脱盟[181]。最後の脱盟者となった。

同志たちは毛利が本当に脱盟したのか分からず、討ち入り前日になっても大石は毛利を同志の一人として数えていたという[87]

吉良方[編集]

吉良上野介の親族[編集]

吉良は上杉家と親戚関係を結んでいる。

上杉綱憲

吉良の妻富子は上杉家の出身であり、長男の三之助は上杉に養子にいき、家督を継いで上杉綱憲となっている[182]。 上杉綱憲は将軍徳川綱吉の孫娘と結婚しており、吉良は将軍家とも親戚関係にある事になる[182]

また吉良上野介は上杉家から養子の吉良左兵衛義周をもらっており、上野介が引退した際には左兵衛に家督を譲っている[183]

赤穂浪士討ち入りの際、左兵衛は薙刀を持って相手を傷つけたが、自身も額と腰から背中にかけて傷を負い、気絶した[184]。その後気付いて父・上野介を探しに寝室に向かったが、上野介が見つからず、落胆してまた気絶している[184]

にもかかわらず左兵衛は「不届き」で「親の恥辱は子として遁れ難く」あるという理由で、信濃高島藩主諏訪安芸守忠虎にお預けとなった[185]。 そこで罪人だからと月代を剃る事すら許されない生活を送り、宝永3年に20歳ほどの若さで死んだ[185]

小林平八郎[編集]

小林平八郎(こばやしへいはちろう)は『大河内文書』によれば、赤穂浪士の吉良邸討ち入りの際、逃げようとしたところを赤穂浪士達に捕らえられ、「上野介(義央)はどこか?」と聞かれたのに対して、「下々の者なので知らない」と答えるも、「下々が絹の衣服を着ているはずがない」と言われ、首を落とされたとしている[186]

一方、赤穂方の落合与左衛門(瑤泉院付き用人)の書といわれる『江赤見聞記』には「小林平八は、槍を引っさげて激しく戦い、上野介をよく守ったが、大勢の赤穂浪士と戦ってついに討ち取られた」となっている[186]

山吉新八郎[編集]

山吉(小牧)[187]盛侍(やまよし もりひと)、通称山吉新八郎(しんぱちろう)は吉良上野介の家臣[187] 、近習[187]。(吉良義周の中小姓[187])。

赤穂浪士討ち入りの時負傷。その後吉良義周が幽閉されたとき左右田孫兵衛とともに付き従い、義周が亡くなるまで面倒をはじめとする見た[疑問点][187]

清水一学[編集]

 
五代目尾上菊五郎扮する清水一学(豊原国周画)

清水一学(しみずいちがく)は、忠臣蔵のドラマなどでは剣の達人として伝わる人物。

実際には吉良家の中小姓[188](用人[189][188])である。 『大河内文書』には吉良上野介と吉良義周にお供して、「少々戦いて討たれ候」とある[188]。『江赤見聞記』によれば、当時四十歳で台所で死んだ[188]

なお、『吉良家分限帳』には隠居付近習七両三人扶持[188]とあるが、『江赤見聞記』には「上野介用人、清水一学、台所口、四十歳」[188]とあり、近習なのか用人なのか不明。

江戸時代の歌舞伎では実際の人物の名称を使うことが禁じられていたため、作中では「清水一角」 [190] 、「清水大学」[191]などと 表現される。

その他[編集]

柳沢吉保[編集]

柳沢吉保は時の将軍綱吉側用人である[192]。元々綱吉の小姓小納戸であったが[192]、異例の出世を遂げて側用人になった。その背景には当人の才覚の他に、綱吉との男色関係があったという[192]

梶川与惣兵衛[編集]

梶川与惣兵衛は松之大廊下の事件に立ち会った人物で、梶川が吉良と立ち話をしているところに浅野が斬りかかってきたので、すぐさま梶川は浅野を取り押さえた。 この行動が幕府に評価されて500石加増になり、旗本になった[193]

しかし浅野の不幸をもとに旗本になった形なので、世間の評判は悪化した[193]。 その為か梶川は後になって浅野の無念を慮るべきだったと後悔した旨を記しているが、そのような議論は「朋友への義」に過ぎず、「上」に対してはこのような議論は無用だと弁明している[193]


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最終更新日 : 2018-01-25 19:17:33

赤穂事件の経過

松之大廊下の刃傷まで[編集]

事件の発端となる、松之大廊下の刃傷を説明するために、まずそれまでの経緯を説明する。

江戸幕府は毎年正月、朝廷に年賀のあいさつをしており、朝廷もその返礼として使者を幕府に遣わせていた[18]。こうした朝廷とのやり取りを担当していたのが高家であった。

吉良上野介は事件のあった元禄14年に高家筆頭の立場にあったため、朝廷へのあいさつと朝廷からの使者の接待とを受け持っていた[18]

一方の浅野内匠頭は同年、吉良の補佐役に任命されていた。朝廷からの使者には天皇の使者である勅使と上皇の使者である院使がいるのだが、事件のあった元禄14年における勅使の接待役(勅使饗応役)が浅野内匠頭だったのである[18]

朝廷からの使者達は3月11日[18]に江戸に到着し、彼等の接待を受けていた。

事件は、この大事な接待の最後の日である3月14日に起こった[18]

松之大廊下の刃傷[編集]

 
江戸城本丸跡(東京)

元禄14年3月14日1701年4月21日)巳の下刻(午前11時半過ぎ)[19]、浅野内匠頭は背後から吉良上野介に小さ刀(ちいさがたな。礼式用の小刀で脇差とはサイズが違う[20])で斬りかかった。浅野が斬りかかったのは吉良に「遺恨」があったためであるとされるが詳細は不明である(詳細は#刃傷の理由参照)。 切りかかった場所は江戸城本丸御殿の大広間から白書院へとつながる松之大廊下(現在の皇居東御苑)である。

吉良が振り返ったので小さ刀は吉良の眉の上[19]を傷つけた。小さ刀は吉良の烏帽子の金具にも当たり大きな音をたてた[21]。 そして吉良が向きかえって逃げるところを追いかけ、また2度斬りつけた[19]

すぐさま、浅野はその場に居合わせた梶川与惣兵衛らに取り押さえられ、柳之間[9]の方へと運ばれた。その際浅野はこう繰り返したという:

「上野介、此間中、意趣これあり候故、殿中と申し、今日の事かたがた恐れ入り候へども、是非におよび申さず討ち果たし候」
(上野介には、ここしばらくのあいだ、遺恨があったので、殿中であり、また大事な儀式の日でありながらやむをえず討ち果たしました)[22]

一方の吉良は、やはりその場に居合わせた他の高家衆に取り押さえられ、御医師之間[19]に運ばれ、その後江戸城内の自分の部屋にいるよう命じられた[19]。吉良の傷は外科の第一人者である栗崎道有[23]により数針縫いあわせられている。

浅野は幕府の裁定を待つため、芝愛宕下[24]陸奥一関藩田村建顕の屋敷にお預けとなる事になった。

浅野を乗せた駕籠は江戸城の平川門[25]から出されたが、この門は「不浄門」とも呼ばれ、死者や罪人を出すための門であった[25]。浅野は罪人として江戸城から出されたのである。

田村邸に到着して駕籠から降りたときには、すでに厳重な受け入れ体制ができており、部屋は襖を全て釘づけにし、その周りを板で覆い白紙を張っていた[26]

なお以上で述べた刃傷事件の概要は主に『梶川与惣兵衛筆記』によっているが、『多門伝八郎覚書』の記述とは様々な差異がある。しかし『多門伝八郎覚書』には誇張や創作が含まれている事が他の史料との照合により判明しているので、基本的には『梶川与惣兵衛筆記』を信じるべきで『多門伝八郎覚書』に依存する場合は充分な史料批判が必要である[27]

浅野内匠頭切腹[編集]

 
浅野内匠頭の切腹(2009年赤穂義士祭にて撮影)

刃傷事件が起こると、将軍の綱吉は浅野内匠頭の即日切腹を命じた。 当時殿中での刃傷は理由の如何を問わず死罪と決まっていたのに、まして幕府の権威づけの為に綱吉が重視していた朝廷との儀式の最中に刃傷に及んだのであるから即日切腹は当然であった[28]

浅野内匠頭の切腹の場所は田村家の庭で、庭に筵(むしろ)をしき、その上に毛氈を敷いた上で行われた[29]。本来、大名の切腹は座敷などで行われるが、慣例を破ってまで庭先での切腹を行うよう老中から指示があったという[30]。おそらくその背後に将軍・綱吉の強い意向が働いていたのだろう[30]

万一浅野内匠頭の家臣たちが騒動を起こしたとき武力で抑えられるよう、浅野家家臣たちの退去を命じ、上使に任ぜられた水野監物忠之の配下の者達に廻りを固めさせた[30]

当時打ち首が屈辱的な刑罰だとみなされていたのに対し、切腹は武士の礼にかなった処罰だとみなされていた[25]ので、浅野内匠頭は切腹を言いつけられた事に礼を言った上で[31]切腹をした。

切腹の際の立会人は検使正使の大目付庄田安利(下総守)と、 検使副使の目付多門伝八郎大久保権左衛門であり[29]、介錯は御徒目付磯田武太夫によってなされた[29]。 遺体は浅野家の家臣達の片岡源五右衛門礒貝十郎左衛門田中貞四郎、中村清右衛門、糟屋勘右衛門、建部喜内によって引き取られ[32]、菩提寺の泉岳寺でひっそり埋葬された[32]


浅野内匠頭の正室の阿久里は、浅野の切腹を受けて3月14日1701年4月21日)夜に剃髪し、名を瑤泉院と改め[32]、翌15日明け方に麻布今井町の屋敷に移った[32]

吉良への見舞い[編集]

一方の吉良は特におとがめもなく、むしろ将軍からこう見舞いの言葉をかけられた。

「手傷はどうか。おいおい全快すれば、心おきなく出勤せよ。老体のことであるから、ずいぶん保養するように」[33]

当時の武士社会の慣習からいえば、「喧嘩」が起こった際には「喧嘩両成敗」の法が適応されるので、浅野と吉良は「双方切腹」となるはずである[9]

しかし吉良が脇差に手をかけなかったという証言が事件の場に居合わせた梶川から得られたため[9]、この事件は喧嘩としては扱われず[9]、浅野内匠頭の一方的な「暴力」とみなされたのである[34]。また吉良に見舞いの言葉があったのは、吉良が将軍の親戚筋に当たる為かもしれない[33]

このように事件の一方の当事者である吉良には何らお咎めなしでありながら、もう一人の当事者である浅野内匠頭には切腹が命じられる事になった。しかも後日、浅野内匠頭の領地である播州赤穂浅野家には御取り潰しが命じられている。こうした裁定が、後に起こる赤穂浪士達による吉良邸討ち入り事件の素地となった[35]

実際、こうした幕府の裁定と当時の民衆の感覚の間には大きな隔たりがあり[36]、当時の記録には浅野内匠頭の軽率さに非難が向けられる一方で、幕府による裁定の厳しさに対する同情論もあった[36]。例えば『易水連袂録』にはもし浅野が吉良に対して「意趣」があり、それが「堪忍しがたきもの」なら浅野の行動は「乱気」でも「不行跡」でもないはずだと[36]、浅野の行動に理解を示している。 また武士道の観点からいえば、売られた喧嘩を買わずに逃げるのは、武士にあるまじき不名誉な行為のはずである[37]

こうした世評があった為、吉良は世間の非難の目を意識して高家肝煎の辞職願を出さねばならなかったし、吉良の傷は14、5日で治ったのにわざと重く見せかけねばならなかったという(『栗崎道有記録』)[38]

赤穂への使者[編集]

 
早水藤左衛門萱野三平 から刃傷事件の報告を受ける大石内蔵助赤穂市大石神社)。

事件が起こるとすぐに、事件を知らせるための早駕籠が浅野の領地である赤穂藩へと飛んだ。

早駕籠は二度にわたり赤穂に届けられ、第一の早駕籠は江戸での刃傷沙汰のみを伝え[39]、第二の早駕籠が浅野内匠頭の切腹と赤穂藩の取り潰しを報告[39]

江戸から赤穂へは早駕籠でも通常一週間程度かかるところだが、使者たちは昼夜連続で駆け続ける事で、4日半程度で赤穂に到着している[39]

吉良の生死については早駕籠は何も伝えず、結局生死が赤穂側に伝わったのは3月の下旬であった[40]

なお、第一の早駕籠に乗って赤穂に訪れたのは 早水藤左衛門萱野三平の二人で [39] 、第二の早駕籠に乗っていたのは原惣右衛門大石瀬左衛門の二人であった[39]

時刻に関しては第一の早駕籠は3月14日1701年4月21日)未の下刻(午後3時半頃)に江戸を出発し、 第二の早駕籠は同日夜更け[39]に出発した。前者は19日寅の下刻(午前5時半頃)[39]に赤穂に到着、後者も同日中[39]には赤穂に到着した。

藩札の処理[編集]

お取りつぶしの話が藩に広まると、商人達が札座に押し寄せて大混乱となった。 藩が取り潰しになると彼らの持っている藩札が無価値になってしまうからである。

両替所可能な金の量が不足していたため、大石内蔵助は、3月20日1701年4月27日)藩札を銀に六分率(金一両と等価の一分銀四枚(六十匁)に対し、その六割掛)で交換するよう指示[41]。 赤穂経済の混乱の回避に努めた[42]

このとき大石は次席家老の大野九郎兵衛と相談し、広島の浅野本家に不足分の金の借用を頼むことにしたが、広島藩は藩主が不在であることを理由にしてこれを断っている[43]。この件に限らず広島藩は、自藩に累が及ぶのを恐れ、赤穂藩に一貫して冷ややかな態度をとり続けている[43]

赤穂での議論[編集]

 
泉岳寺にある大石内蔵助の像(浪曲の中興の祖桃中軒雲右衛門が建立[44]

第一の使者から浅野内匠頭の刃傷事件の知らせを受けた筆頭家老の大石内蔵助は、藩士に総登城を命じ、事件を皆に伝えた[45]

そして大石を上座に据え、連日[40]、城に集まって対応を議論した(『浅野綱長伝』)[45]。幕府からは城を明け渡すよう要請されていたが、浅野家は浅野内匠頭の家臣であっても幕府の家臣ではないので、幕府からの命令があったとはいえ、簡単に明け渡す事はできないのである[40]。親族の大名家からは連日のように穏便に開城をという使者が派遣されていた。

家臣達の意見は、籠城により吉良が処罰されなかった事に対する抗議の意思を示すというものが多かった[46]が、大石はこの意見には与しなかった。籠城をすれば公儀に畏れ多いと思ったのである[46]

また、浅野内匠頭の弟にあたる浅野大学に迷惑がかかると大石が考えたのも籠城を辞めた理由の一つである[10]。大石は城内での議論と並行して、吉良の処分を再考するよう城受け渡しの上使に嘆願書を出していたのだが[47]、この事が大学の耳に入ったため、籠城が大学の指示だと思われるのを恐れたのである[10]

連日の議論を経て、大石は結論を出した。赤穂城の前で皆で切腹しようというのである[46]。こういう決断を下したのは、切腹の際に自身らの思いを述べれば、幕府も吉良への処罰を考え直してくれるのではないかと考えたからである[46]。 ただし、大石はほどなく切腹を口にしなくなるので[10]、切腹という方針を出す事で本当に味方する藩士を見極めようとしたとする説もある[10]

最終的に切腹という結論が出ると、切腹に同意する旨の神文(起請文)を60人余り[46]が提出した。

なお、議論がすぐに収束しなかったのは、次席家老の大野九郎兵衛等による反対意見もあった[46]事による。大野九郎兵衛はとにもかくにも主君の弟である浅野大学が大事だから、まずは穏便に赤穂城を幕府明け渡すのが先決だと考えていたのである[48]

しかし切腹の神文を提出する段になって原惣右衛門が「同心なされない方はこの座をたっていただきたい」と発言すると、大野をはじめとする10人ばかりが退出した[46]。なお原惣右衛門はもしこのとき大野が立ち退かなかったら大野を討ち果たしているところだったと後で回想している[48]

なお、江戸から下ってきた片岡源五右衛門、磯貝十郎左衛門、田中貞四郎の3人は、切腹をせず、吉良を討つ旨を述べて退出した[46]

赤穂城開城[編集]

 
赤穂城

大石内蔵助は4月12日[49]に赤穂城の明け渡しを決意し、4月18日[49]に明け渡された。予定された切腹は結局行われていない。

赤穂城受け取りは物々しいもので、幕府は受城目付の荒木政羽榊原政殊、代官石原正氏、受城使の脇坂安照木下㒶定を派遣し、脇坂は総勢4550人を動員し、これに木下の軍勢が加わり、さらに船数百隻が警戒する中、赤穂城は開城された[50]

明け渡しの際、大石は浅野大学によるお家再興を上使に嘆願[49]し、上使から江戸に帰り次第その旨を老中に伝えるとの返答を得た[49]。また取り潰しによって家臣が路頭に迷わぬよう、大石は4月5日から、赤穂に残った財産を家臣に分配している[49]

4月12日から3日間、浅野内匠頭の法要が泉岳寺で執り行われた[51]。幕府から許可がおりたためである。位牌や石塔もこの時建立された[51]

江戸急進派の動き[編集]

一方、同じ赤穂家でも、江戸に詰めている家臣には堀部安兵衛をはじめとした強硬派(いわゆる江戸急進派)がおり[11]、主君の敵である吉良を討ち取る事に強くこだわっていた。

堀部は同じく江戸詰めの高田郡兵衛奥田孫太夫とともに吉良邸に討ち入ろうと試みたものの[11]、吉良の実子の上杉綱憲が吉良邸を訪問するなど警戒が強く、討ち入りは難しかった[11]

そこで3人はまず国元の藩士と合流しようと4月5日に江戸をたち[11]4月14日[11]に赤穂に到着した。3人は大石に籠城を説くも大石は賛成せず、城を明け渡した4月22日に赤穂を出発した[11]

同志間の対立[編集]

あとで討ち入りが決定するまで、大石たち上方の主流派(上方慚進派[52])と堀部たち江戸急進派は、対立することになる。

対立の原因は、両者の目標の違いにある。上方慚進派の最大の目標は、浅野内匠頭の弟にあたる浅野大学を擁立した浅野家の再興にあり[53]、その際武士の体面が保てること、そのために吉良の出仕を止めるなどの処分を加えてもらうことだった[54]

一方、江戸急進派の目標は吉良を討つ事にあった[52]。彼らにとって主君は浅野内匠頭ただ一人であり、その名誉を回復するには吉良を討つしかないからだ[53]。 主君の兄弟である浅野大学によるお家再興が成し遂げられたとしても主君の名誉は回復されないという考えなのだ[53]

こうした目標の違いにより、しばらくの間大石は今にも暴発しそうな江戸急進派を押さえるために腐心する事になる。

両者のこうした目標の違いは、両者の背景の違いを反映していた。上方慚進派の代表である大石は代々浅野家に仕えており、しかも浅野家とも親戚関係にあった[55]。このため浅野内匠頭個人に仕えるというよりも浅野家そのものに仕えるという意識が強く、お家再興に拘ったのであろう[55]

一方の江戸急進派の面々は堀部をはじめ、高田郡兵衛や奥田孫太夫など浅野内匠頭の代から浅野家に仕えた者が多かった[56]。このため浅野家よりも浅野内匠頭個人に対して仕えているという意識が強く、内匠頭の宿敵である吉良を討つ事、それにより武士としての面子を立てることに拘っていたのであろう[55]

なお、上方慚進派が擁立しようとしている浅野大学自身がどのように思っていたのかは分からない。事件直後には藩士らが騒動を起こさないよう命じただけだったし、その後閉門されてしまったので、赤穂浪士らに連絡が取れなくなってしまったからである[57]

山科隠棲[編集]

赤穂城が明け渡しになると、旧藩士たちは赤穂城を出て行かねばならなかった。

大石内蔵助は6月に家族と合流し、山城国山科に隠棲する[58]。親戚の進藤源四郎が代々ここに田畑を持っており、これを頼って居を定めたのである[58]

ここで大石は幕府に対してお家再興の嘆願を、赤穂の遠林寺の僧祐海を通じて出している[59]

それ以外の藩士達は赤穂に近い大阪、伏見、京都などに散らばっている[60]

幕府の許可を得て赤穂に留まった者も多かったが、その場合は百姓や町人の格で居住する必要があった[60]

江戸詰めの藩士達はそのまま江戸に留まる者が多かったが、もう藩邸には住めないので借宅して暮らす必要があった[60]

この頃までには大石に起請文を提出した同志は93人に増えていた[60]

吉良の屋敷替えと江戸会議[編集]

 
本所松坂町の吉良邸跡

一方の吉良は3月23日[61]にお役御免となり、8月19日[61]には呉服橋の屋敷を召し上げられて、江戸郊外の本所松坂町に移り住む事になった。

大名屋敷の多い[62]呉服橋と比べ、人気のない郊外[61] にある本所はずっと仇討ちに適した場所であった[62]

討ち入りをしやすくするために吉良を郊外に幕府が移したのではないか、そんな噂が江戸に流れた[61]

幕府がなぜこの時期に屋敷替えを命じたかは不明だが、『江赤見聞記』巻四によれば、吉良邸の隣の蜂須賀隆重は、赤穂浪士の討ち入りを警戒していて出費がかさむという理由で老中に屋敷替えを願い出ていたというので、こうした事情が影響した可能性はある[62]

堀部ら急進派はこの屋敷換えを討ち入りの好条件ととらえ[61]、大石に討ち入りを迫った。

そこで大石は急進派を説得する為、9月はじめ頃に赤穂浪士の原惣右衛門、潮田又之丞、中村勘助の3人を派遣し、さらに10月に赤穂浪士の進藤源四郎と大高源五を派遣したが、どちらも逆に説き伏せられて急進派に同調してしまった[63]

そこで大石は11月2日に自ら江戸に下り、急進派を説得すべく会議をひらいた(江戸会議[61]。 しかし上方から派遣した同志達が堀部等に同調してしまっていたこともあり、議論は堀部等が望む方向で一方的に進んだ[63]

堀部達は討ち入りの日の期限を決断するよう大石に迫り[61]、大石は浅野内匠頭の一周忌には結論を出したいと約束した[61]

吉良の隠居[編集]

こうした中、衝撃的な知らせが赤穂浪士達の耳に入った。自身の評判があまりに悪い事を知った吉良上野介が、隠居を願い出て、12月13日に許可されたのだという[64]

これを聞いて堀部たち急進派は焦り始めた[64]。隠居した吉良が、息子の養子先である米沢の上杉家に引き取られてしまうと、討ち入りが難しくなってしまうからである[64]。また吉良の隠居が認められたという事は、幕府から吉良へのこれ以上の処罰は望めないと堀部等は判断し、浅野内匠頭の一周忌までに討ち入りすべきだと主張した[65]

一方、大石内蔵助は浅野大学によるお家再興に影響が出る事を懸念し[64]、討ち入りを先延ばしすべきだと主張した[64]。吉良上野介が無理なら息子の吉良左兵衛を討てばよいし [65]、閉門はたいてい三年で解けるものだから、浅野大学の閉門が解かれるであろう主君の三回忌まで討ち入りを待ち、後悔しないようにすべきだというのである[66]

山科会議[編集]

こうした中、京都の山科で、今後の行く末を決める会議が翌元禄15年2月15日から数日間[67]執り行われた。いわゆる山科会議である。

会議では、すぐさま討ち入りに行くという意見は少数で[67]、しばらく様子を見るという結論になった[67]。大石内蔵助は浅野内匠頭の三回忌まで待つべきであろうとしている[67]

なお、山科会議に先立つ2月10日には、赤穂浪士の原惣右衛門と吉田忠左衛門が会談しており、山科会議はその会談の内容の再確認としての色彩が強く[68]、ドラマ等で見られるような激論が交わされたとするのは史実ではない。

大石の動き[編集]

山科会議により討ち入りは延期になったので、大石内蔵助はお家再興の嘆願書を出している[69]。大石の背後には再興を願う家臣達がおり、簡単には再興を諦められないのである[69]

しかしこの頃から大石は討ち入りは避けられないと覚悟したのか、累が及ばぬよう妻を離縁して実家に返している[69]。事実大石は息子の主税に「寝ても覚めても吉良を討ち取る事を考えよ」といったという(『江赤見聞記』巻七)[70]。なお離縁の際、大石の妻・りくは自分も「君父の志」を達する為に役に立ちたいと反論したが、大石は女人と一緒では内匠頭の為にならないからとこれを断ったという(『江赤見聞記』巻七)[70]

この頃の大石は、浅野大学を擁立した討ち入りを構想していた。浅野大学の閉門が解かれたら、すぐさま大学に討ち入りの許可を取り、その上で吉良を討とうというのである[71]。だから大石は、浅野大学と無関係に討ち入りしようとする堀部達の意見には賛同できなかった[71]

大石がこのような仇討ちにこだわった理由は、事件当時「仇討ち」というのは、親や兄などの目上の親族に対して行うものであり、主君の仇を討つというのは前例がなかったからである[72]。しかし主君・浅野内匠頭の弟である浅野大学の指示によって吉良を討てば、従来通り兄の仇を討つという枠組みに収まる事になる。

後述するように、結局浅野大学による御家再興は頓挫したため大石のこのような仇討ち構想が実現する事はなく、吉良邸討ち入りは浅野大学の許可を得ずに行っている。このため討ち入りの際の口上書では、「君父の讐、共に天を戴くべからず」と仇討ちの概念を「父」から「君父」へと拡大している[73]。こうした拡大された価値観が武士社会へと受容される事で、赤穂事件は武士の生き方と道徳を変え、武士道概念の体系化を促し、大名の「家中」が武士の帰属する唯一の集団へと変わっていくのである[73]

江戸急進派の動き[編集]

一方の堀部達急進派は、山科会議による討ち入りの延期決定に素直に従いはしなかった。

赤穂浪士の原惣右衛門が堀部らに、大石を見捨てて自分たちだけで吉良を討つ事を提案したのである[74]。 大石ら主流派を除いて行動すれば、大石らが考えている浅野大学によるお家再興にも迷惑がかからないだろうし、吉良が油断している今なら、討ち入りに同調するであろう14、5人程度がいれば十分事を成し遂げられるだろうというのである[74]

堀部らはこれに賛同し、上方を訪れて同志達と計画を練り、7月の24、5日頃に再び江戸に帰ろうとしていた[74]

浅野大学閉門と円山(まるやま)会議[編集]

しかしまさにそのとき、事態が急転した。

7月18日[12]に浅野大学が閉門のうえ本家の広島藩浅野家に引き取られる事が決定したのである。これはお家再興が事実上あり得ない事を示している。

大石達と堀部達の対立点であったお家再興の道が閉ざされたので、彼らは7月28日[12]に京都の円山で会議を開き(円山会議)、大石は10月に江戸に下り吉良邸に討ち入る事を正式に表明した[12]

あらかじめ会合の予定があったわけではないので、参加者はたまたまその日京都周辺にいた人物である[75]。このとき会議に参加したのは19人[75]。うち17人は後に仇討に参加するメンバーである[75]

なお円山会議は秘密会議であった為、議論の詳細は一切分かっておらず、今日伝わる円山会議の「詳細」と称するものは初期の実録本『赤城義人伝』で創出されたものである[76]。 堀部達は江戸に戻ると、隅田川で二艘の船を借り、月見の宴に装いつつ、船の中で同志達に円山会議の報告をしている(船中会議[77]

山科会議の頃までは同志は120名ほどいたが[13]、円山会議で討ち入りが決定すると、脱盟する者が続出する[13]

この際、大石の親戚でありこれまで大石の行動を支えてきた奥野将監、小山源左衛門、進藤源四郎の三人が脱盟している[78]。大石は討ち入りの際、家中の主だった面々が加わっている事を強く期待していたが、位の高い彼ら三人が脱盟したことにより、それはかなわなくなった[78]

神文返し[編集]

同志達の脱盟を受けて大石は、赤穂浪士の貝賀弥左衛門大高源吾を派遣し、連判状から切り取った血判を返してまわった[13]。いわゆる神文返しである。そしてそれでもどうしても討ち入りをしたいと答えたものだけを同志として認める事にした[13]。これにより同志は50人程度[13]に減った。

大石東下り[編集]

大石内蔵助は円山会議での約束にしたがい、10月7日[79]に京を出て、11月5日[79]に江戸に到着している。道中には箱根を通り、仇討ちで有名な曾我兄弟の墓を詣でて、討ち入りの成功を祈願した[80]。このとき墓石を少し削って懐中に納めたという[80]

また10月26日[79]には平間村の家に入り、討ち入りの計画を練っている。

同志たちの困窮[編集]

このころ、同志たちはすでに困窮を極めており、大石瀬左衛門は秋も深まったのに着替えすら買えなかったというし[81]磯貝十郎左衛門も家賃が2カ月も払えなかったという[81]

大石内蔵助は彼らに金銭的な援助をしたが、すでに赤穂藩の残金も少なくなっており、もうあまり猶予はなかった[81]

深川会議[編集]

12月2日 頼母子講を装って[82] 深川八幡前の大茶屋 [82] に集まり、討ち入り当日の詳細を決めた[83] 。いわゆる深川会議である。

討ち入り日の決定[編集]

赤穂浪士達は討ち入りの日を12月14日に決めた[84]。 というのも、吉良がこの日に茶会を開くために確実に在宅している事を突き止めたからである [84]

茶会の情報を手に入れたのは 内蔵助の一族である大石三平であった [84]。大石三平は茶人山田宗偏の弟子なのだが、三平と同門の材木屋の所に在宅していた羽倉斎が江戸で新道や歌道を教えており[84]、その関係で羽倉は吉良邸にも出入りしていて[84]、この情報を聞いたのである。

また赤穂浪士の一人である大高源五もやはり山田宗偏の弟子で[84]、彼も同じく14日の吉良邸での茶会の情報をつかんでいたという[84]。しかし宮澤誠一は、これは歌人として人気の高かった大高に活躍の場を与えるための初期の実録書以来の俗説として退けている[85]。ただし、大高が茶会の情報をつかんでいたという話は『江赤見聞記』に記されているため可能性は否定できない[86]

直前の脱盟[編集]

11月になってからも江戸潜伏中にも同志の脱盟があり、小山田庄左衛門[87](100石[87]片岡源五右衛門から金と着物を盗んで逃亡[88])、田中貞四郎[87](小姓あがり[87]、150石[87]酒乱をおこして脱盟[要出典])、中田理平次[87](100石[89])、中村清右衛門[87](小姓[87]100石[89])、鈴田重八郎[87]瀬尾孫左衛門[87](大石内蔵助家来[87])、矢野伊助[87](足軽5石2人扶持[87])が姿を消した。

そして討ち入り三日前の12月11日まで同志の中にいた[90]毛利小平太(大納戸役[要出典]20石3人扶持[89])も脱盟し、最後まで残った同志の数は47人となった。

討ち入り[編集]

 
吉良邸討ち入り。二代目山崎年信画、1886年

元禄15年12月14日(1703年1月30日)、四十七士は堀部安兵衛の借宅と杉野十平次の借宅にて着替えを済ませ、寅の上刻(午前4時頃)に借宅を出た[91]。そして吉良邸では大石内蔵助率いる表門隊と大石主税率いる裏門隊に分かれ[91]、表門隊は途中で入手した梯子で吉良邸に侵入、裏門隊は大きな木槌で門を打ち破り吉良邸に侵入した[91]

表門隊は侵入するとすぐに、口上書を入れた文箱を竹竿にくくりつけ、玄関の前に立てた[92]

裏門隊は吉良邸に入るとすぐに「火事だ!」と騒ぎ、吉良の家臣たちを混乱させた[93]。また吉良の家臣達が吉良邸そばの長屋に住んでいたのだが、その長屋の戸口を鎹(かすがい)で打ちつけて閉鎖し、家臣たちが出られないようにした[93]。 吉良邸には100人ほど家来がいたが、実際に戦ったのは40人もいなかったと思われる[93]

隣の屋敷の屋根から様子をうかがっている者がいたので、片岡源五右衛門と小野寺十内が仇討ちを行っている旨を伝えたところ、了承したしるしに高提灯の数が増えた[94]

四十七士は吉良の寝間に向かったものの、吉良は既に逃げ出していた[94]。茅野和助が吉良の夜具に手を入れ、夜具がまだ温かい事を確認した[94]。吉良はまだ寝間を出たばかりだったのである。四十七士は吉良を探した。

そして台所の裏の物置のような部屋を探したところ、中から吉良の家来が二人切りかかってきたのでこれを返り討ちにし、中にいた白小袖の老人を間十次郎が槍で突き殺した[95]。この老人が吉良であると思われたので、浅野内匠頭が背中につけた傷跡を確認し[95]、吉良方の足軽にこの死骸が吉良である事を確認させた[95]。無事吉良を討ち取ったのである。

そこで合図の笛を吹き、四十七士を集めた[95]

ここまでわずか二時間程度[96]。 吉良側の死者は15人負傷者は23人であった[97]

一方の赤穂浪士側には死者はおらず、負傷者は二人で、原惣右衛門が表門から飛び降りたとき足を滑らせて捻挫し[98]、近松勘六が庭で敵の山吉新八郎[99] と戦っているときに池に落ちて太ももを強く刺されて重傷をおっている[98]

浪士たちの討ち入り事件は、討ち入り2日後の14日[疑問点]の記録にすでに「江戸中の手柄」と書いてあるほど、すぐさま噂として広まった[100]

吉良の最期に関して[編集]

山本博文は、武林唯七が即死に追い込んだ吉良の首を間十次郎が取ったのだろうとしている[101]

その根拠は『江赤見聞記』巻四で、同書には四十七士の武林唯七が物置の中の人物を十文字槍でついたところ小脇差を抜いて抵抗してきたので間十次郎が刀で首を打ち取ったとしており[101]、さらに同書によれば引き上げの際間十次郎が吉良の首を取ったのを自慢した所、武林唯七が「私が突き殺した死人の首を取るのはたいした事ではない」と憤慨したという[101]

一方、宮澤誠一は四十七士の不破数右衛門の書簡に「吉良は手向かいせず唯七と十次郎その他にたたき殺された」という趣旨のことが書かれているのを根拠に、本当は不破の言うように吉良はたたき殺されたのに、記録が後世に残るのを意識して残酷さを和らげるために間十次郎が一番槍をつけたのだと記したのではないかとしている[102]

泉岳寺への引き上げ[編集]

 
浅野内匠頭が埋葬された泉岳寺

吉良を討った浪士達は、亡き主君・浅野内匠頭の墓前に吉良の首を供えるべく、内匠頭の墓がある泉岳寺へと向かった。 途中、吉田忠左衛門富森助右衛門の二人が大目付の仙石伯耆守に討ち入りを報告すべく隊を離れた[103]。 また寺坂吉右衛門も理由は分からないがどこかに消えた。寺坂が隊を離れた理由は古来から謎とされている(#寺坂吉右衛門問題)。

泉岳寺についた一行は内匠頭の墓前に吉良の首を供え、一同焼香した[103]。 首は翌日の夜、泉岳寺の僧が吉良家に届けに行っている。

赤穂浪士お預け[編集]

赤穂浪士の吉田と富森から討ち入りの報告を受けた大目付の仙石伯耆守は、月番老中の稲葉丹後守正往にその旨を報告し、二人で登城して幕府に討ち入りの件を伝えた。

幕府は赤穂浪士を、細川越中守綱利松平隠岐守定直毛利甲斐守綱元水野監物忠之の4大名家に御預けとした[104][105]。赤穂浪士達は預け先にて罪人扱いではなく、武士としての英雄として扱われたとする話が残る[105][106]

浪士切腹の決定[編集]

赤穂浪士討ち入りの報告を受けた幕府は浪士等の処分を議論し、元禄16年2月4日 (旧暦) (1703年3月20日)、彼らを切腹にする事を決めた。赤穂浪士が「主人の仇を報じ候と申し立て」、「徒党」を組んで吉良邸に「押し込み」を働いたからである[107]

ここで重要なのは幕府が「主人の仇を報じ候と申し立て」という言い回しをしている事である。 あくまで赤穂浪士達自身が「主人の仇を報じる」と「申し立てて」いるだけであって、幕府としては討ち入りは「徒党」であり仇討ちとは認めないという立場なのである[107]

通常、このような罪には斬首が言い渡されるが[107]、赤穂浪士達の立場を考慮したのか、武士の体面を重んじた切腹という処断になっている。

切腹[編集]

 
泉岳寺の赤穂浪士の墓
 
花岳寺の赤穂義士の墓

元禄16年2月4日 (旧暦) (1703年3月20日)、幕府の命により、赤穂浪士達はお預かりの大名屋敷で切腹した[108]。 切腹の場所は庭先であったが、切腹の場所には最高の格式である畳三枚(細川家)もしくは二枚(他の3家)が敷かれた[109]

当時の切腹はすでに形骸化しており、実際に腹を切ることはなく、脇差を腹にあてた時に介錯人が首を落とす作法になっていた[108]

間新六のみ肌脱ぎせずにすぐに脇差を腹に突き立てたため、実際に腹を切り裂いている[110][108]細川綱利は切腹跡についた血を清掃しようとする藩士に対して赤穂浪士は吾藩のよき守り神であるとして清掃する必要なしと指示している[111][112]

赤穂浪士の遺骸は主君の浅野内匠頭と同じ泉岳寺に埋葬された[108]。 赤穂の浅野家菩提寺である花岳寺にも37回忌の元文4年(1739年)に赤穂浪士達の墓が建てられている[113]。(墓には赤穂浪士の遺髪が埋められたと伝えられる[113])。

吉良義周の諏訪家お預け・夭折による吉良家の断絶[編集]

赤穂浪士の切腹と同日[114]、吉良家を継いだ吉良左兵衛義周を信濃高島藩主諏訪安芸守忠虎にお預けとされた[115]

幕府が吉良左兵衛の処分を命じた理由は、義父・吉良上野介が刃傷事件の時「内匠に対し卑怯の至り」であり、赤穂浪士討ち入りのときも「未練」のふるまいであったので、「親の恥辱は子として遁れ難く」あるからだとしている[115]。ここで注目すべきは吉良上野介の刃傷事件の時のふるまいが「内匠に対し卑怯」であるとしている事で、幕府は赤穂浪士の討ち入りを踏まえ、刃傷事件の時は特にお咎めのなかった上野介の処分を実質的に訂正したのである[115]

左兵衛はその後20歳余りの若さで亡くなり[115]、ここに吉良家(義央系)は断絶する事になった[116]。東条家(義叔系)が義央・義周亡きあと、三河吉良家の祭祀ほかを継承している[117]

赤穂浪士の遺児の処罰と赦免[編集]

赤穂浪士の遺児らも、15歳以上の男子は伊豆大島遠島、15歳未満の男子は縁のあるものにお預けとなり、15歳になるのを待って遠島という処分が幕府から下された[118]。(女子は構いなし[118])。

15歳以上の男子は4人(吉田伝内、中村忠三郎、間瀬惣八、村松政右衛門)おり、彼らは処分にしたがって遠島に処せられたが、赤穂浪士の名声は伊豆大島まで届いていた為、彼らの待遇は良かったと伝えられる[118]

間瀬惣八のみ伊豆大島で病死したが、残りの3人は浅野内匠頭の正室・瑤泉院をはじめとした旧赤穂藩の関係者の働きかけにより、宝永3年に赦免された。他の遺児たちも綱吉が死去した宝永6年に大赦とされた[119]

浅野大学家の再興[編集]

綱吉が死去した宝永6年8月には、内匠頭の実弟である浅野大学長広も赦免され、安房国朝夷郡平郡に500石を与えられた。赤穂新田3,000石から減封のうえ、播磨からも移封ではあるが、旗本として浅野大学家(長広系)は続く事になった[120][121]。その後、長栄で男系は絶え、長楽の代で断絶した[122]

大石大三郎の浅野本家召抱[編集]

大石内蔵助の三男である大三郎良恭(よしやす)も、広島の浅野宗家に内蔵助と同じ1500石で召抱えられた[123][121]。明和5年(1768年)3月18日に隠居。男子が2人あったが、小山良至(小山良速の孫)の五男良尚を養子に迎えて大石家の家督を継がせた。

その大石良尚は、後継男子(大石良完)とその嫡男が相次いで先立ち、自身も病んで大石家を去り、実家の小山家に帰って没した。嫡流が絶えた大石家は一旦断絶となった。ただし、寛政9年(1797年)以降に一族の横田温良が大石に改姓し、大石の名跡を再興した[124]という。

吉良家の高家再興[編集]

赤穂事件以来、三河吉良家が断絶していたため、武蔵吉良家の義俊は、姓を蒔田[125]から吉良に戻す許可を幕府に求めていたが、宝永7年(1710年)2月15日にこれが許された。武蔵吉良家は高家として幕末まで続く。

赤穂藩と吉良庄のその後[編集]

刃傷事件のあった元禄14年(1701年)に、下野国烏山藩より永井直敬が3万2000石で赤穂に入部する。5年後の宝永3年(1706年)に、永井氏は信濃国飯山藩へ転封となり赤穂を去っている。

同年、備中国西江原藩より森長直が2万石で入部。廃藩置県までの12代165年間、森氏が赤穂藩主として統治する[126]

その後の吉良庄は、西尾藩のほか大多喜藩や沼津藩などの飛び地、寺社領、天領といった様々な領主が統治する。吉良義央の弟・東条義叔は、兄の死後、吉良の祭祀[127]などは継承したが、知行500石は武蔵国児玉郡と賀美郡内にあり、吉良庄と直接の関係がなくなっている[128]

また、上野介の官名に因む、上野国白石の吉良家飛び地700石は、吉井藩、佐野藩、天領ほか、複数の旗本が統治した[129]

本願寺関係者の動き[編集]

吉良家と関係が深かった西本願寺は刃傷事件や討ち入り後、築地本願寺と書状を交わして吉良の傷の様子や浅野の心情など状況を把握しようとしていた


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最終更新日 : 2018-01-25 19:37:22

フェミニンスより

桂昌院の八百屋娘から将軍の側室への道

公開日:  最終更新日:2015/06/15

桂昌院

桂昌院
1624年生まれ(〜1705年8月11日)
画像引用元:桂昌院 – wikimedia

三代将軍の徳川家光の側室へ

 「玉の輿」の言葉は、桂昌院のお玉が由来しているという説もあるほど、彼女の生き様はシンデラストーリーといわれています。

 お玉、のちの桂昌院は八百屋の娘として生まれ、活発な生活を送っていました。彼女は本名を光子というのですが、玉のように明るく輝く少女をお玉と呼んでいました。

 そんなお玉に父の死という突然の不幸が訪れ、彼女の母は二人の娘を連れ奉公に出ました。奉公先の本荘太郎兵衛宗利の家で働いているうちにお玉の母は宗利の目にとまり、宗利の後妻となるのです。
このお玉の義父にあたる宗利は二条城家の家司であり、縁合ってお玉は家光の側室であるお梅の方の部屋子として仕えることとなります。その後、十三歳で江戸城大奥へと入り、十八歳のときにいきいきした姿のお玉が家光の目に止まり、寵愛を受けます。お玉は、亀松と一年後にのちの綱吉にあたる徳松を生みます。

 身分制度の厳しかった当時に男の子を生むことで、桂昌院として歴史に名を残すこととなりました。

桂昌院 藤原宗子

桂昌院 藤原宗子

  • 著者竹田 真砂子
  • 価格¥ 2,052(2015/12/17 09:20時点)
  • 出版日2007/03
  • 商品ランキング827,302位
  • 単行本258ページ
  • ISBN-104087753719
  • ISBN-139784087753714
  • 出版社集英社

桂昌院の綱吉への過保護な愛と綱吉の母へ愛情

 桂昌院の綱吉への過保護なまでの愛情は城内・城外でも評判になるほどでした。それは、綱吉の兄である亀松が三歳で夭逝し、桂昌院の愛が全て綱吉ひとりに注がれていたためです。しかし、この過保護さから綱吉は母に頼り、今で言うマザコンであったと言われています。

 一六八〇年に綱吉は五代目将軍となります。しかし、綱吉の母・桂昌院への愛は止まりません。将軍になった綱吉は、将軍である自分の母が八百屋の娘であることが胸に引っかかっていました。もちろんかわらず母のことは好きなのですが、身分制度が厳しかったこともあり、母の出自を受け入れることができずに悩んでいました。

 そんな綱吉の桂昌院への思いに気づいた柳沢吉保は朝廷に働きかけ、桂昌院に階級を与えるように仕向けました。その結果、桂昌院は従一位ととても名誉ある階級を得ることとなりました。


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最終更新日 : 2018-01-26 17:08:51

この本の内容は以上です。


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