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 ふたりがまだ新婚のころ、妹の誕生日パーティに僕も招待された。パーティといっても三人きりの小規模なものだ。妹が駅まで迎えに来てくれ、スーパーでワインとチーズを見繕ってマンションに向かった。リビングに入ると風船が七つ、天井にくっつく格好で浮かんでいた。乾杯のあと、寛司が一本の棒をプレゼントだと言って妹に手渡した。直径一センチ、長さ三〇センチほどのプラスチックの先端につまようじがテープで留めてある。
「なにこれ?」
「好きな風船を一個だけ割って」
「一個だけって、まさかほかはハズレ?」
 うん、と寛司は頷いた。
 赤、オレンジ、黄、青、緑、紫、群青。中に物が入っていれば陰影がそれと教えてくれそうだが、風船はどれも色が濃く、内側の様子などまるでわからなかった。
「真下に立って、落ちてきたらちゃんとキャッチして」
 寛司の指示に従って妹はオレンジの風船の下を選び、中腰になったと思うや、ためらいもせず棒を突き上げた。パン! オレンジ色が弾け、落ちてきた物が床でちいさな音をたてた。金のピアスだった。確認のため残りの六つも割ったが、ちゃんと空っぽだった。
「毎年これだと、どんどん大掛かりになっていきそうだな」
 僕の指摘に、寛司はただほほえむだけだった。
「そのうち一軒家とかが目の前でポンって建ったりして」妹も悪のりした。「兄ちゃんにもこれくらい甲斐性あったらね」
「俺もやってたよ、こういう演出。でも、やりすぎると飽きられんだよ」
「えー、そこは努力してほしい」
「次はそうする」
「ほんと、兄ちゃんもはやく誰か見つけなよ」
 寛司はずっと笑ってるだけだった。

9

 喫茶店に戻ると寛司がいた。ブレンドを飲んでいた。運ばれてきた水を僕は一息に飲み干して、汗を手の甲で拭いながらオ・レ・グラッセを注文した。テーブルには僕のデジカメが置かれていて、僕も寛司のものを隣に並べた。
「麻薬取引みたいだ」
「ずいぶん小さなアタッシュ」と寛司は返した。
 オ・レ・グラッセが来るまで長い時間がかかった。店内は一時間前と変わらず賑やかだった。自分のデジカメを引き取り、「あとで見るか」と独り言みたいにつぶやいた。寛司も「そうしよう」とつぶやいてカメラをしまった。カウンターに視線を飛ばすが、店主は相変わらず真剣な顔付きでコーヒーをたてていた。
「これ」
 寛司の声に前へ向き直ると、冷水の入ったコップがこちらに押し出された。遠慮無く飲み干してから、店員を呼んで水を注ぎ足してもらった。
「寛司、いつ戻った?」
「え?」
「汗ひとつかいてないみたいだから」
「近場で済ませたから、案外早くて」
「そうか」
 オ・レ・グラッセが運ばれてきたときには僕の汗もすっかりひいていた。一口飲んだところで寛司が立ち上がった。
「じゃあ」
「え? ああ」
 僕も立ち上がった。伝票に手を伸ばそうとする寛司を制して、払っておくよ、と言った。
「ありがとう」
 笑う寛司のポロシャツは襟が曲がっていて、僕は手をのばし、毎度の癖をなおしてやった。
「ありがとう」
 それでおしまいだった。いっときの弟が姿を消すと、僕は席に座り、オ・レ・グラッセの不思議にしばらく思いを巡らせていた。ミルクとコーヒーが、どうすればこれほどしっかり分離していられるのか。尋ねれば、調べれば、簡単に明らかになるだろう。でも、本当に知りたいわけでもない。半分飲んだところで僕はカメラの電源を入れた。再生モードに切り替えるとディスプレイがまばたきするように黒くなり、最初の一枚がぱっと開いた。
 妹が写っていた。
 インテリアショップのウインドウの前を、僕の知らない男と歩く妹が。
 僕は顔をあげた。店内を見渡し、息を吸って、もう一度手元に視線を落とした。
 よく晴れた、光をいっぱいにとりこんだ場面。隣を歩く男は寛司とまるで違うタイプの、線が細く、髪のやわらかそうな、やさしげな風貌で、自分を疑った経験などなさそうな、つややかな顔だった。年齢は、写真からはちっとも読み取れない。若く見えるが、妹よりずっと上、僕より、寛司より年上かもしれなかった。
 二枚目の写真にもふたりが写っていた。
 時刻は移り、夕方を思わせる赤っぽさが画面に溶けている。妹は、男の袖を指先でつかんでいた。妹が離したがらずにいるものを、僕は見てとった。恋に似た、しかしもっと直情的で肉体的な展望のまぶされた感情。人気のない路地を切り取った一枚は妹と男を安住させるための囲いも同然で、周囲など、ふたりの前ではどんな意味もない。
 水気のないスポンジを喉へぎゅう詰めに押しこまれる感覚があった。
 画面の端に表示された総枚数はきっかり「10」で、ボタンを押せばもっと決定的な場面が現れるのだろう。
 オ・レ・グラッセを飲み干し、僕は丹念に残りの写真を見ていった。
 子どものできない妹に、子どもを欲しがった寛司たち。そして妹は、よそに着地点を見つけた。離婚まで視野に入れての大ジャンプだったのかどうか、考え出すとキリがない。他人の時間は写真に映った場面と同じでその周辺を想像するのは困難だ。カメラを持った僕は、でも、寛司と同じ場所に立つことができた。いや、時系列でいえば寛司が僕と同じ場所に立ったのだ。どうでもいいことだ。
 電源を落として、カメラをテーブルに置いた。
 最後の手品の目的は告発ではなく、謝罪なのだと僕は解釈した。憤りや、やるせない心情もあるにはあるだろう。人は誰しも受け止めてくれる相手を求めるもので、受け止め側に永住できる人間は少ない。一流の手品師がそれだろう。タネを仕込んだことも、どんな手管で魔法を可能にしたのかも、一切をつぐんで飲み込むことができる人間。元に戻すだけでは、まだ二流なのだ。
 テーブルに横たわるデジカメの底面が目に入り、ひとつ確かめたいことが出てきた。
 カバーを開けてSDカードを抜き出してみると、僕の物ではなかった。当然だ。寛司は一〇枚の撮影を持ちかけ、僕といっしょに外へ出てすぐに店へ戻ってきたのだろう。そして事前に用意しておいたSDカードと入れ換えて僕の帰りを待った。僕は小さなメモリを指先につまんだまま、妹から預かってきた封筒の中身もこんなものだったんじゃないかと想像した。そして、それ以上考えるのをやめた。僕の関心は、僕のSDカードはどこに消えたのか、という点に移っていた。寛司の性格を考えれば、このあとどこかで一〇枚きっちり撮影してから送り返してきそうだ。たとえば新天地で、自分は大丈夫であることを報せるような写真たちを。結局、寛司のカメラでなにひとつ撮影しなかった自分を僕は後悔し始めていたが、しかし、追い掛けてカメラをぶんどってやり直すわけにもいかない。
 妹の盗撮写真が入ったSDカードを途中で処分していこうと思い、ポケットに押し込んだ。この出来事をいつまで妹に黙っていられるか、自信はない。なにしろ僕は二流ですらない。
 カメラをバッグに戻し、席を立った。伝票を持ち上げると、その下から僕のSDカードが出てきた。
 駅のごみ箱にふたつとも捨てて帰った。


この本の内容は以上です。


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