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5

「寛司は中身知ってんの?」
 渡したばかりの封筒を僕は指さした。
「想像はつく。にいさんは?」
「知らない」
「気になる? ならここで開けるけど」
「いいよ」
「見ちゃダメって言われてる?」
「じゃないけど」
 寛司は封筒を手に取り、軽く振ってみせた。カシャカシャと軽い音が響いた。万国旗だの一輪の花だのが出てきそうだったが、そこにはタネも仕掛けもなかった。
 コーヒーを飲んでしまった。女性客たちの笑い声は絶えず、愉快な空気の襞に隠れるように僕らは会話を続けた。
「ところでにいさん、すこし時間ある? これから……、一時間くらい」
「あるけど」
「デジカメ持ってる?」
「ああ」
 僕はバッグから黒いコンデジを出した。これから一時間で一〇枚の写真を撮影してこないかと寛司が提案した。互いのデジカメを交換して。
「なんで」
「記念みたいじゃない?」
「記念?」
「そう。今日の心情を写真に託して贈りあう」
「なんか、あれだな、俺と寛司の別れ話みたいな」
 そして僕たちは、いったん店を出た。
 喫茶店は傾斜のきつい坂道の途中にあって、僕が上へ、寛司が下へ向かった。外の暑さは乱暴なほどで、日陰を飛び石みたいに渡り歩いた。並びには雑居ビルがしばらく続き、その先にパチスロの店が一軒あった。賭け事にのめりこむ人々は絵になるかもしれないと思い、オレンジの看板を目指しながら、そこで採取できるだろう構図を想像した。だが、大音量のマーチを浴びると気後れしてしまった。店内で遊ぶこともなく撮影していれば追い出されるに決まっている。隠し撮りでは満足いく場面など撮れない。そもそも、一時間で一〇枚は難題だ。
 道が平坦な場所に出て建物たちの背が低くなった。影は短く、僕は壁に寄り添って歩いた。白い壁が続いた。寛司たちの披露宴を思い出した。
 白々しいほどの好天の日。生活感の抜け落ちた高級住宅街に紛れた式場でのこと。白壁と濃緑色の樹木に囲われた夢の国。親族紹介に出席するため早めに到着した僕はカメラ片手に庭園をうろついた。噴水近くの茂みに、ねぼけまなこのこびとの置物を見つけた。こういう写真もあっていいかと判断してその場にしゃがみこみ、最適なアングルを徐々に追い詰めるように探っていった。納得できる絵がディスプレイにはまったとき、シャッターを切った。画面が暗転し、撮影したばかりの一枚が表示された。
「いいの撮れました?」
 背後から声をかけられ、びっくりして振り返ると光沢感のあるグレーの衣裳を着た寛司が僕を見下ろしていた。
「花嫁は準備中だし、出歩くのはみっともないとスタッフに言われましたけど、にいさんの姿が見えたものだから」
 寛司はそう説明して、はにかんでみせた。

6

 離婚を妹から報されたとき、僕は胃袋をさっと奪い取られたような感覚を味わった。自分の離婚とまるで別物に感じられた。
「まだ決定じゃないけど」緩衝材のつもりか、電話越しに妹はゆっくりと告げた。「でも、駄目だと思う」
「そうか」
「決まったらまた連絡するけど」
「ああ」
 帰省のスケジュールみたいに言うんだな、と僕は思った。
「なにか聞いてる?」
「聞いてない。なにも聞いてない」
「へえ、なんでも話してんのかと思った」
「そんな性格じゃないだろ」
「とりあえず、おかあさんの一周忌終わってからになると思うけど……」
 寛司の母親が亡くなったのは夏の盛りのことだった。老父を独居させるわけにもいかず、妹としては同居でも構わないという覚悟だったが、結局は施設に入ってもらった。寛司からでも、妹からでもなく、うちの母から伝わってきた情報だ。寛司の母親が、子どもを産めない嫁など不要だと言い続けていたこともそのときに知ったが、僕はなにも知らないことになっている。
 電話を通しての沈黙ほど雄弁なものはない。携帯をあてていない側の耳に周囲の音がはっきりと飛びこんできて、妹の頭に渦巻いているであろう言葉たちが羽音を鳴らしながらこちらに殺到してくる感覚に襲われる。
「言いたいことあるなら言えばいいじゃないか」僕が先に口を開いた。
「そこは……、ややこしい話だから」
「なんだその管が詰まったみたいな話し方」
「だって、ぜんぶ説明するなんて無理じゃん。兄ちゃんだってわかるでしょ? 兄ちゃんたちの離婚の原因があの人の浮気だけだったなんて言えないんじゃないの?」
 いっぺんに、記憶が蘇る。
 遅くに帰宅した妻が服を脱いだとき、背中にマジックで男の名前が書かれているのを僕は見た。その場で追及すると妻は友人と賭けをして、その罰ゲームなのだと説明した。僕は自力で証拠をかきあつめた。妻を尾行し、デジカメでふたりの場面をおさえ、相手の素性を調べ、ネット経由で攻撃を仕掛けた。責任の所在も大義名分もなにもかもがゴミ袋に詰め込まれたようにいっしょくたになった。離婚が成立すると周囲の人間は僕を励ますべく、いささか硬い表情で飲みに誘ってきた。そのたび、事の顛末を可能な限りおもしろおかしく語ってみせたが、事実は変容しなかった。
「でもさ、べつに寛司と会うの禁止とか言わないから」
「え?」
「兄ちゃんと寛司が会うのは構わない」
「構わなくないだろ」
「平気だって。憎しみあって別れるんでもないから」
「友達に戻るとか?」
「ねえ、そんな冗談みたいに言わないでほしいんだけど」
「俺も会うことはないよ」
「なんで? あんな仲いいのに」
「そういう感じじゃないよ」
「そういうって、どういう?」
「どうっていうか」
「好きにしてくれてかまわないけど、なんか、悪いね、せっかくの弟」
「いいよ、べつに」
「つうかさ、終わってみると手品みたいだね」
 妹の声が、少し軽く響いた。
「なにが? 結婚?」
「うん。まばたきしてるあいだにぜんぶがすごくいいものにすりかわってただけ、みたいな」
「まがいものってことか」
「実際たのしい出来事じゃないし」
「そのうち変わるよ」
「兄ちゃんは? もう変わった?」
「俺は……、最初からそんなに悲観してない」
「だっけ」
「憎みつづけるのだって、案外たいへんだって」
「ふうん」
「ていうか、さっきの、おまえの話さ、手品っぽいていうの? ちょっと違う気がした。寛司の説だと手品の前提は元に戻すことで……、ああ、そうか、戻ったのは戻ったのか」
「独身に?」
「経歴には残るけど」
「手品と違うよ。死ぬまで消えないよ」

7

 二十分が過ぎても僕は一枚も撮影できずにいた。喧噪から距離を取り、マンションたちの足下をうろついて、日陰から見上げると水色の空まで濁って映った。さらに五分ほど歩く。汗がぷつぷつと滲み出る。誰かの家から塀越しに迫り出してきている松の木の下に立ち、寛司のデジカメを見た。シャンパンゴールドの、角の塗装が削れたデジカメ。寛司はどこか遠くへ引っ越すつもりじゃないだろうか。老父の手をひき、遠いところへ。手品師の礼儀として、なにもかもを元に戻して。だとすれば、なにを撮ればいいというのか。いっそなにも撮らないのが正しい選択かもしれない。
 とつぜんの思いつきに、頬がゆるむのが自分でもわかった。
 必死になって撮った一〇枚より、からっぽのほうが雄弁に語るだろう。
 携帯で時間を確かめる。まだ三〇分近く残っていた。どこかで時間を潰す。そして、ちゃんと撮ってきた顔でデジカメを返し、別れる。一流の手品師みたいに。


8


 ふたりがまだ新婚のころ、妹の誕生日パーティに僕も招待された。パーティといっても三人きりの小規模なものだ。妹が駅まで迎えに来てくれ、スーパーでワインとチーズを見繕ってマンションに向かった。リビングに入ると風船が七つ、天井にくっつく格好で浮かんでいた。乾杯のあと、寛司が一本の棒をプレゼントだと言って妹に手渡した。直径一センチ、長さ三〇センチほどのプラスチックの先端につまようじがテープで留めてある。
「なにこれ?」
「好きな風船を一個だけ割って」
「一個だけって、まさかほかはハズレ?」
 うん、と寛司は頷いた。
 赤、オレンジ、黄、青、緑、紫、群青。中に物が入っていれば陰影がそれと教えてくれそうだが、風船はどれも色が濃く、内側の様子などまるでわからなかった。
「真下に立って、落ちてきたらちゃんとキャッチして」
 寛司の指示に従って妹はオレンジの風船の下を選び、中腰になったと思うや、ためらいもせず棒を突き上げた。パン! オレンジ色が弾け、落ちてきた物が床でちいさな音をたてた。金のピアスだった。確認のため残りの六つも割ったが、ちゃんと空っぽだった。
「毎年これだと、どんどん大掛かりになっていきそうだな」
 僕の指摘に、寛司はただほほえむだけだった。
「そのうち一軒家とかが目の前でポンって建ったりして」妹も悪のりした。「兄ちゃんにもこれくらい甲斐性あったらね」
「俺もやってたよ、こういう演出。でも、やりすぎると飽きられんだよ」
「えー、そこは努力してほしい」
「次はそうする」
「ほんと、兄ちゃんもはやく誰か見つけなよ」
 寛司はずっと笑ってるだけだった。

9

 喫茶店に戻ると寛司がいた。ブレンドを飲んでいた。運ばれてきた水を僕は一息に飲み干して、汗を手の甲で拭いながらオ・レ・グラッセを注文した。テーブルには僕のデジカメが置かれていて、僕も寛司のものを隣に並べた。
「麻薬取引みたいだ」
「ずいぶん小さなアタッシュ」と寛司は返した。
 オ・レ・グラッセが来るまで長い時間がかかった。店内は一時間前と変わらず賑やかだった。自分のデジカメを引き取り、「あとで見るか」と独り言みたいにつぶやいた。寛司も「そうしよう」とつぶやいてカメラをしまった。カウンターに視線を飛ばすが、店主は相変わらず真剣な顔付きでコーヒーをたてていた。
「これ」
 寛司の声に前へ向き直ると、冷水の入ったコップがこちらに押し出された。遠慮無く飲み干してから、店員を呼んで水を注ぎ足してもらった。
「寛司、いつ戻った?」
「え?」
「汗ひとつかいてないみたいだから」
「近場で済ませたから、案外早くて」
「そうか」
 オ・レ・グラッセが運ばれてきたときには僕の汗もすっかりひいていた。一口飲んだところで寛司が立ち上がった。
「じゃあ」
「え? ああ」
 僕も立ち上がった。伝票に手を伸ばそうとする寛司を制して、払っておくよ、と言った。
「ありがとう」
 笑う寛司のポロシャツは襟が曲がっていて、僕は手をのばし、毎度の癖をなおしてやった。
「ありがとう」
 それでおしまいだった。いっときの弟が姿を消すと、僕は席に座り、オ・レ・グラッセの不思議にしばらく思いを巡らせていた。ミルクとコーヒーが、どうすればこれほどしっかり分離していられるのか。尋ねれば、調べれば、簡単に明らかになるだろう。でも、本当に知りたいわけでもない。半分飲んだところで僕はカメラの電源を入れた。再生モードに切り替えるとディスプレイがまばたきするように黒くなり、最初の一枚がぱっと開いた。
 妹が写っていた。
 インテリアショップのウインドウの前を、僕の知らない男と歩く妹が。
 僕は顔をあげた。店内を見渡し、息を吸って、もう一度手元に視線を落とした。
 よく晴れた、光をいっぱいにとりこんだ場面。隣を歩く男は寛司とまるで違うタイプの、線が細く、髪のやわらかそうな、やさしげな風貌で、自分を疑った経験などなさそうな、つややかな顔だった。年齢は、写真からはちっとも読み取れない。若く見えるが、妹よりずっと上、僕より、寛司より年上かもしれなかった。
 二枚目の写真にもふたりが写っていた。
 時刻は移り、夕方を思わせる赤っぽさが画面に溶けている。妹は、男の袖を指先でつかんでいた。妹が離したがらずにいるものを、僕は見てとった。恋に似た、しかしもっと直情的で肉体的な展望のまぶされた感情。人気のない路地を切り取った一枚は妹と男を安住させるための囲いも同然で、周囲など、ふたりの前ではどんな意味もない。
 水気のないスポンジを喉へぎゅう詰めに押しこまれる感覚があった。
 画面の端に表示された総枚数はきっかり「10」で、ボタンを押せばもっと決定的な場面が現れるのだろう。
 オ・レ・グラッセを飲み干し、僕は丹念に残りの写真を見ていった。
 子どものできない妹に、子どもを欲しがった寛司たち。そして妹は、よそに着地点を見つけた。離婚まで視野に入れての大ジャンプだったのかどうか、考え出すとキリがない。他人の時間は写真に映った場面と同じでその周辺を想像するのは困難だ。カメラを持った僕は、でも、寛司と同じ場所に立つことができた。いや、時系列でいえば寛司が僕と同じ場所に立ったのだ。どうでもいいことだ。
 電源を落として、カメラをテーブルに置いた。
 最後の手品の目的は告発ではなく、謝罪なのだと僕は解釈した。憤りや、やるせない心情もあるにはあるだろう。人は誰しも受け止めてくれる相手を求めるもので、受け止め側に永住できる人間は少ない。一流の手品師がそれだろう。タネを仕込んだことも、どんな手管で魔法を可能にしたのかも、一切をつぐんで飲み込むことができる人間。元に戻すだけでは、まだ二流なのだ。
 テーブルに横たわるデジカメの底面が目に入り、ひとつ確かめたいことが出てきた。
 カバーを開けてSDカードを抜き出してみると、僕の物ではなかった。当然だ。寛司は一〇枚の撮影を持ちかけ、僕といっしょに外へ出てすぐに店へ戻ってきたのだろう。そして事前に用意しておいたSDカードと入れ換えて僕の帰りを待った。僕は小さなメモリを指先につまんだまま、妹から預かってきた封筒の中身もこんなものだったんじゃないかと想像した。そして、それ以上考えるのをやめた。僕の関心は、僕のSDカードはどこに消えたのか、という点に移っていた。寛司の性格を考えれば、このあとどこかで一〇枚きっちり撮影してから送り返してきそうだ。たとえば新天地で、自分は大丈夫であることを報せるような写真たちを。結局、寛司のカメラでなにひとつ撮影しなかった自分を僕は後悔し始めていたが、しかし、追い掛けてカメラをぶんどってやり直すわけにもいかない。
 妹の盗撮写真が入ったSDカードを途中で処分していこうと思い、ポケットに押し込んだ。この出来事をいつまで妹に黙っていられるか、自信はない。なにしろ僕は二流ですらない。
 カメラをバッグに戻し、席を立った。伝票を持ち上げると、その下から僕のSDカードが出てきた。
 駅のごみ箱にふたつとも捨てて帰った。


この本の内容は以上です。


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