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 手品教室の講師は四十半ばの猫に似た顔立ちの男性マジシャンで、いつも同じ黒いビロードのジャケットを着ていたという。いくつものタネが仕込まれた一張羅だった。百貨店主催のカルチャースクールで見つけた講座で、レッスンは隔週、受講者は寛司を含めて五人。一度の授業で一つか二つのマジックを教わる。専用の道具は不要で、フェイスタオルやゴムボール、新聞紙、ジュースなどを持参した。「日用品でできるマジック」がテーマだった。
 寛司と僕はすっかり打ち解け、仕事帰りに落ち合って飲みに行くこともあり、手品教室の話も飲んでるときに聞いた。
「慌てないことが基本だって最初に叩き込まれて、一度タネを仕込んだなら、あとは流れの中で最適な瞬間をじっと待つこと。見せたい部分だけを見せるためには、その場ですぐに驚かせようなんて考えてはいけない。場の流れを制御するのはプロにも難しいんだから、素人ならなおさらだって」
「じゃあ、無駄に終わるタネもあるわけ?」
「あるある。あと、マジックの仕上げは元に戻すことだって言われた。お札破ったり、剣突き刺したり、コップの水を消したりするけど、どれもやりっぱなしじゃない、確実に復元できることが前提で、見る側もそれは期待してるってか信頼してるっていうか、つまりさ、ほんとは誰も変化なんて望んでないんだ」
 おしぼり鳩のマジックを僕は教わったが、誰かに披露したりはしなかった。手品によって寛司との仲が深まることもなかった。僕たちを結びつけたのは読書と写真だった。小説を貸し借りするのが習慣となり、古書店を巡るときにも寛司の傾向を購入の検討材料に入れるようになった。
 写真について言えば、僕は構図を優先する。寛司は直感でシャッターを切った。構えて指先に力を加えるまでの時間がまるで違う。
 初めてコンパクトデジカメを手にいれたとき、一日にきっかり一〇枚撮影するというルーチンを寛司は自らに課したそうだ。最初の数日は被写体を慎重に吟味した。悩みに悩んで切り取った場面は夜店で買ったおもちゃのように、翌朝には色褪せて見えた。ある日を境に、即座にシャッターを切るようになった。気にかかるものが視界に入ると反射的にレンズを向け、画面を見ずにボタンを押す。そんな乱暴なやり方でも、ハズレを引く率は日に日に減っていったという。
 僕も一日一〇枚に挑んでみたが、仕事で遂行できない日が続き、ひと月と続かず頓挫した。掻き集めた写真たちをディスプレイ上に並べてみれば、僕の写真は額に入れるもので、寛司のそれは記憶に近い。妹を撮ったものもいくつか見せられた。どれも知らない顔だった。

5

「寛司は中身知ってんの?」
 渡したばかりの封筒を僕は指さした。
「想像はつく。にいさんは?」
「知らない」
「気になる? ならここで開けるけど」
「いいよ」
「見ちゃダメって言われてる?」
「じゃないけど」
 寛司は封筒を手に取り、軽く振ってみせた。カシャカシャと軽い音が響いた。万国旗だの一輪の花だのが出てきそうだったが、そこにはタネも仕掛けもなかった。
 コーヒーを飲んでしまった。女性客たちの笑い声は絶えず、愉快な空気の襞に隠れるように僕らは会話を続けた。
「ところでにいさん、すこし時間ある? これから……、一時間くらい」
「あるけど」
「デジカメ持ってる?」
「ああ」
 僕はバッグから黒いコンデジを出した。これから一時間で一〇枚の写真を撮影してこないかと寛司が提案した。互いのデジカメを交換して。
「なんで」
「記念みたいじゃない?」
「記念?」
「そう。今日の心情を写真に託して贈りあう」
「なんか、あれだな、俺と寛司の別れ話みたいな」
 そして僕たちは、いったん店を出た。
 喫茶店は傾斜のきつい坂道の途中にあって、僕が上へ、寛司が下へ向かった。外の暑さは乱暴なほどで、日陰を飛び石みたいに渡り歩いた。並びには雑居ビルがしばらく続き、その先にパチスロの店が一軒あった。賭け事にのめりこむ人々は絵になるかもしれないと思い、オレンジの看板を目指しながら、そこで採取できるだろう構図を想像した。だが、大音量のマーチを浴びると気後れしてしまった。店内で遊ぶこともなく撮影していれば追い出されるに決まっている。隠し撮りでは満足いく場面など撮れない。そもそも、一時間で一〇枚は難題だ。
 道が平坦な場所に出て建物たちの背が低くなった。影は短く、僕は壁に寄り添って歩いた。白い壁が続いた。寛司たちの披露宴を思い出した。
 白々しいほどの好天の日。生活感の抜け落ちた高級住宅街に紛れた式場でのこと。白壁と濃緑色の樹木に囲われた夢の国。親族紹介に出席するため早めに到着した僕はカメラ片手に庭園をうろついた。噴水近くの茂みに、ねぼけまなこのこびとの置物を見つけた。こういう写真もあっていいかと判断してその場にしゃがみこみ、最適なアングルを徐々に追い詰めるように探っていった。納得できる絵がディスプレイにはまったとき、シャッターを切った。画面が暗転し、撮影したばかりの一枚が表示された。
「いいの撮れました?」
 背後から声をかけられ、びっくりして振り返ると光沢感のあるグレーの衣裳を着た寛司が僕を見下ろしていた。
「花嫁は準備中だし、出歩くのはみっともないとスタッフに言われましたけど、にいさんの姿が見えたものだから」
 寛司はそう説明して、はにかんでみせた。

6

 離婚を妹から報されたとき、僕は胃袋をさっと奪い取られたような感覚を味わった。自分の離婚とまるで別物に感じられた。
「まだ決定じゃないけど」緩衝材のつもりか、電話越しに妹はゆっくりと告げた。「でも、駄目だと思う」
「そうか」
「決まったらまた連絡するけど」
「ああ」
 帰省のスケジュールみたいに言うんだな、と僕は思った。
「なにか聞いてる?」
「聞いてない。なにも聞いてない」
「へえ、なんでも話してんのかと思った」
「そんな性格じゃないだろ」
「とりあえず、おかあさんの一周忌終わってからになると思うけど……」
 寛司の母親が亡くなったのは夏の盛りのことだった。老父を独居させるわけにもいかず、妹としては同居でも構わないという覚悟だったが、結局は施設に入ってもらった。寛司からでも、妹からでもなく、うちの母から伝わってきた情報だ。寛司の母親が、子どもを産めない嫁など不要だと言い続けていたこともそのときに知ったが、僕はなにも知らないことになっている。
 電話を通しての沈黙ほど雄弁なものはない。携帯をあてていない側の耳に周囲の音がはっきりと飛びこんできて、妹の頭に渦巻いているであろう言葉たちが羽音を鳴らしながらこちらに殺到してくる感覚に襲われる。
「言いたいことあるなら言えばいいじゃないか」僕が先に口を開いた。
「そこは……、ややこしい話だから」
「なんだその管が詰まったみたいな話し方」
「だって、ぜんぶ説明するなんて無理じゃん。兄ちゃんだってわかるでしょ? 兄ちゃんたちの離婚の原因があの人の浮気だけだったなんて言えないんじゃないの?」
 いっぺんに、記憶が蘇る。
 遅くに帰宅した妻が服を脱いだとき、背中にマジックで男の名前が書かれているのを僕は見た。その場で追及すると妻は友人と賭けをして、その罰ゲームなのだと説明した。僕は自力で証拠をかきあつめた。妻を尾行し、デジカメでふたりの場面をおさえ、相手の素性を調べ、ネット経由で攻撃を仕掛けた。責任の所在も大義名分もなにもかもがゴミ袋に詰め込まれたようにいっしょくたになった。離婚が成立すると周囲の人間は僕を励ますべく、いささか硬い表情で飲みに誘ってきた。そのたび、事の顛末を可能な限りおもしろおかしく語ってみせたが、事実は変容しなかった。
「でもさ、べつに寛司と会うの禁止とか言わないから」
「え?」
「兄ちゃんと寛司が会うのは構わない」
「構わなくないだろ」
「平気だって。憎しみあって別れるんでもないから」
「友達に戻るとか?」
「ねえ、そんな冗談みたいに言わないでほしいんだけど」
「俺も会うことはないよ」
「なんで? あんな仲いいのに」
「そういう感じじゃないよ」
「そういうって、どういう?」
「どうっていうか」
「好きにしてくれてかまわないけど、なんか、悪いね、せっかくの弟」
「いいよ、べつに」
「つうかさ、終わってみると手品みたいだね」
 妹の声が、少し軽く響いた。
「なにが? 結婚?」
「うん。まばたきしてるあいだにぜんぶがすごくいいものにすりかわってただけ、みたいな」
「まがいものってことか」
「実際たのしい出来事じゃないし」
「そのうち変わるよ」
「兄ちゃんは? もう変わった?」
「俺は……、最初からそんなに悲観してない」
「だっけ」
「憎みつづけるのだって、案外たいへんだって」
「ふうん」
「ていうか、さっきの、おまえの話さ、手品っぽいていうの? ちょっと違う気がした。寛司の説だと手品の前提は元に戻すことで……、ああ、そうか、戻ったのは戻ったのか」
「独身に?」
「経歴には残るけど」
「手品と違うよ。死ぬまで消えないよ」

7

 二十分が過ぎても僕は一枚も撮影できずにいた。喧噪から距離を取り、マンションたちの足下をうろついて、日陰から見上げると水色の空まで濁って映った。さらに五分ほど歩く。汗がぷつぷつと滲み出る。誰かの家から塀越しに迫り出してきている松の木の下に立ち、寛司のデジカメを見た。シャンパンゴールドの、角の塗装が削れたデジカメ。寛司はどこか遠くへ引っ越すつもりじゃないだろうか。老父の手をひき、遠いところへ。手品師の礼儀として、なにもかもを元に戻して。だとすれば、なにを撮ればいいというのか。いっそなにも撮らないのが正しい選択かもしれない。
 とつぜんの思いつきに、頬がゆるむのが自分でもわかった。
 必死になって撮った一〇枚より、からっぽのほうが雄弁に語るだろう。
 携帯で時間を確かめる。まだ三〇分近く残っていた。どこかで時間を潰す。そして、ちゃんと撮ってきた顔でデジカメを返し、別れる。一流の手品師みたいに。


8


 ふたりがまだ新婚のころ、妹の誕生日パーティに僕も招待された。パーティといっても三人きりの小規模なものだ。妹が駅まで迎えに来てくれ、スーパーでワインとチーズを見繕ってマンションに向かった。リビングに入ると風船が七つ、天井にくっつく格好で浮かんでいた。乾杯のあと、寛司が一本の棒をプレゼントだと言って妹に手渡した。直径一センチ、長さ三〇センチほどのプラスチックの先端につまようじがテープで留めてある。
「なにこれ?」
「好きな風船を一個だけ割って」
「一個だけって、まさかほかはハズレ?」
 うん、と寛司は頷いた。
 赤、オレンジ、黄、青、緑、紫、群青。中に物が入っていれば陰影がそれと教えてくれそうだが、風船はどれも色が濃く、内側の様子などまるでわからなかった。
「真下に立って、落ちてきたらちゃんとキャッチして」
 寛司の指示に従って妹はオレンジの風船の下を選び、中腰になったと思うや、ためらいもせず棒を突き上げた。パン! オレンジ色が弾け、落ちてきた物が床でちいさな音をたてた。金のピアスだった。確認のため残りの六つも割ったが、ちゃんと空っぽだった。
「毎年これだと、どんどん大掛かりになっていきそうだな」
 僕の指摘に、寛司はただほほえむだけだった。
「そのうち一軒家とかが目の前でポンって建ったりして」妹も悪のりした。「兄ちゃんにもこれくらい甲斐性あったらね」
「俺もやってたよ、こういう演出。でも、やりすぎると飽きられんだよ」
「えー、そこは努力してほしい」
「次はそうする」
「ほんと、兄ちゃんもはやく誰か見つけなよ」
 寛司はずっと笑ってるだけだった。

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