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3

 二度目に会ったときも寛司の襟は折れ曲がっていた。結婚式の二週間ほど前、東京でのことだ。
 妹に呼ばれ、日本家屋を模した居酒屋へ行った。ふたりはまだで、先にビールを飲み始めた。一杯目を飲み終えるころに妹たちが到着した。「すみません、おそくなって」寛司が頭をさげた。白とグレーのチェックのシャツの右襟がみっともない形をつくって、あらぬ方向を指している。妹は口も開かず、どかっと座った。結婚中止の報せでも持ってきたかと僕は訝しんだ。寛司はベレー帽を被っており、一向に脱ぐ気配もなかった。
「もうさ、兄ちゃんやってくんないかな」唐突に、妹が言った。
「なにを?」
「両親への手紙。もー、やだ。めんどくせー」
 ビールを注文し、乾杯したあとも妹の話題は感謝の手紙に腹が立つというばかりで、寛司はといえば運ばれてきた料理を取り分けたりしていた。そんなにイヤなら段取りから外せという僕の助言を、妹は尖った目つきで押しのけた。
「そんなわけにいかないのわかってんでしょ? 自分ときもやってたじゃん」
「失敗例を参考にすべきとは思わないけどな」
「はいはい」
 妹がトイレに立つと、寛司はチーズフライをひとつ右手にとった。見ると、左の掌を開いて上に向けている。そこへフライを載せた。とっくに冷えているだろうから心配はなかったが、なにをやっているのかわからなかった。
「イタダキマス」
 甲高い声がどこからか聞こえてきた。寛司の声は低いはずだし、なにより彼の口は微動だにしていない。なんか言った? そう訊こうとした矢先に寛司の左手は五本の指を折り曲げてチーズフライを覆い隠した。そして、さも波打っているかのように指を順番に動かし、その動作にあわせて「ムシャムシャ」と、やはり甲高い声が聞こえた。最後に「ゴチソウサマ」とその声は言った。真顔で脈絡なく腹話術を披露する寛司を僕は面白く見ていたわけだが、それで終わりじゃなかった。閉じた左手の指を端から開いていくと、なにもなかった。チーズフライどころか、衣のかけらひとつ落ちていない。
「手品?」
 こちらの問いに答えるかわりに寛司は握り拳をつくった右手をテーブルの上に置いた。指が開かれるとそこにチーズフライが横たわっていた。無傷で。その姿が見えたのはわずか一瞬で、寛司はそれをぱくりと食べてしまった。頬に添えられた左手が彼の耳元へ近づき、「オイシー?」と訊く。寛司は咀嚼のリズムにあわせて何度かうなずいた。
「モウイッコ!」
 陽気な声が聞こえた。左手が、いつのまにかチーズフライをもうひとつ握っていた。寛司が大口を開き、今度はスローな動作でチーズフライを食べた。
「にいさんの趣味ってなんですか」
 前置きなく切り出され、ショーが終わったのだと僕は理解した。
「強いていうなら読書、あと、写真が少しかな」
「ぼくも同じです。でも読書も写真も趣味としては弱い、信頼が薄い印象あると思いませんか」
「信頼?」
「当たり障りなさすぎというか、私はつまらない人間ですって喧伝してるみたいな」
「ああ、まあ」
「だからぼくは手品教室に通ったんです」
「なに、もう手品の話?」
 戻ってきた妹は寛司の肩に手を置いて座った。
「それよりどうする? プレゼント」
 話題は手品から両親への贈り物へ移った。
 さらに一時間ほど過ぎただろうか。お色直しのあいだ、新郎はどうしていればいいのかと寛司に訊かれた。
「友達とかがビール持ってきてくれるから、新郎は新郎で楽しくやってりゃいいよ。時間になったらスタッフが連れ出してくれるし」
「そうだ、寛司、わたしがいないあいだに手品やれば?」閃いたというふうに妹が勧めた。
「いいよ、そんな」
「ね、鳩出してよ、鳩」
 シルクハットから真っ白な鳩がはばたく場面を想像し、それならめでたい席にぴったりかもしれないと僕は考えた。
「じゃあ」
 もったりとした口調で言ってから、寛司はベレー帽を脱いだ。頭の上に白い物体が載っていた。おしぼりで作った、不格好な鳥だった。妹が苦しそうに笑った。
「今やってなんて言ってないじゃん! ていうか、いつ? いつから仕込んでた?」
 妹がおしぼり鳥をつまみあげ、テーブルの上に置いた。僕も笑った。
 そうして寛司は僕の弟になった。

4

 手品教室の講師は四十半ばの猫に似た顔立ちの男性マジシャンで、いつも同じ黒いビロードのジャケットを着ていたという。いくつものタネが仕込まれた一張羅だった。百貨店主催のカルチャースクールで見つけた講座で、レッスンは隔週、受講者は寛司を含めて五人。一度の授業で一つか二つのマジックを教わる。専用の道具は不要で、フェイスタオルやゴムボール、新聞紙、ジュースなどを持参した。「日用品でできるマジック」がテーマだった。
 寛司と僕はすっかり打ち解け、仕事帰りに落ち合って飲みに行くこともあり、手品教室の話も飲んでるときに聞いた。
「慌てないことが基本だって最初に叩き込まれて、一度タネを仕込んだなら、あとは流れの中で最適な瞬間をじっと待つこと。見せたい部分だけを見せるためには、その場ですぐに驚かせようなんて考えてはいけない。場の流れを制御するのはプロにも難しいんだから、素人ならなおさらだって」
「じゃあ、無駄に終わるタネもあるわけ?」
「あるある。あと、マジックの仕上げは元に戻すことだって言われた。お札破ったり、剣突き刺したり、コップの水を消したりするけど、どれもやりっぱなしじゃない、確実に復元できることが前提で、見る側もそれは期待してるってか信頼してるっていうか、つまりさ、ほんとは誰も変化なんて望んでないんだ」
 おしぼり鳩のマジックを僕は教わったが、誰かに披露したりはしなかった。手品によって寛司との仲が深まることもなかった。僕たちを結びつけたのは読書と写真だった。小説を貸し借りするのが習慣となり、古書店を巡るときにも寛司の傾向を購入の検討材料に入れるようになった。
 写真について言えば、僕は構図を優先する。寛司は直感でシャッターを切った。構えて指先に力を加えるまでの時間がまるで違う。
 初めてコンパクトデジカメを手にいれたとき、一日にきっかり一〇枚撮影するというルーチンを寛司は自らに課したそうだ。最初の数日は被写体を慎重に吟味した。悩みに悩んで切り取った場面は夜店で買ったおもちゃのように、翌朝には色褪せて見えた。ある日を境に、即座にシャッターを切るようになった。気にかかるものが視界に入ると反射的にレンズを向け、画面を見ずにボタンを押す。そんな乱暴なやり方でも、ハズレを引く率は日に日に減っていったという。
 僕も一日一〇枚に挑んでみたが、仕事で遂行できない日が続き、ひと月と続かず頓挫した。掻き集めた写真たちをディスプレイ上に並べてみれば、僕の写真は額に入れるもので、寛司のそれは記憶に近い。妹を撮ったものもいくつか見せられた。どれも知らない顔だった。

5

「寛司は中身知ってんの?」
 渡したばかりの封筒を僕は指さした。
「想像はつく。にいさんは?」
「知らない」
「気になる? ならここで開けるけど」
「いいよ」
「見ちゃダメって言われてる?」
「じゃないけど」
 寛司は封筒を手に取り、軽く振ってみせた。カシャカシャと軽い音が響いた。万国旗だの一輪の花だのが出てきそうだったが、そこにはタネも仕掛けもなかった。
 コーヒーを飲んでしまった。女性客たちの笑い声は絶えず、愉快な空気の襞に隠れるように僕らは会話を続けた。
「ところでにいさん、すこし時間ある? これから……、一時間くらい」
「あるけど」
「デジカメ持ってる?」
「ああ」
 僕はバッグから黒いコンデジを出した。これから一時間で一〇枚の写真を撮影してこないかと寛司が提案した。互いのデジカメを交換して。
「なんで」
「記念みたいじゃない?」
「記念?」
「そう。今日の心情を写真に託して贈りあう」
「なんか、あれだな、俺と寛司の別れ話みたいな」
 そして僕たちは、いったん店を出た。
 喫茶店は傾斜のきつい坂道の途中にあって、僕が上へ、寛司が下へ向かった。外の暑さは乱暴なほどで、日陰を飛び石みたいに渡り歩いた。並びには雑居ビルがしばらく続き、その先にパチスロの店が一軒あった。賭け事にのめりこむ人々は絵になるかもしれないと思い、オレンジの看板を目指しながら、そこで採取できるだろう構図を想像した。だが、大音量のマーチを浴びると気後れしてしまった。店内で遊ぶこともなく撮影していれば追い出されるに決まっている。隠し撮りでは満足いく場面など撮れない。そもそも、一時間で一〇枚は難題だ。
 道が平坦な場所に出て建物たちの背が低くなった。影は短く、僕は壁に寄り添って歩いた。白い壁が続いた。寛司たちの披露宴を思い出した。
 白々しいほどの好天の日。生活感の抜け落ちた高級住宅街に紛れた式場でのこと。白壁と濃緑色の樹木に囲われた夢の国。親族紹介に出席するため早めに到着した僕はカメラ片手に庭園をうろついた。噴水近くの茂みに、ねぼけまなこのこびとの置物を見つけた。こういう写真もあっていいかと判断してその場にしゃがみこみ、最適なアングルを徐々に追い詰めるように探っていった。納得できる絵がディスプレイにはまったとき、シャッターを切った。画面が暗転し、撮影したばかりの一枚が表示された。
「いいの撮れました?」
 背後から声をかけられ、びっくりして振り返ると光沢感のあるグレーの衣裳を着た寛司が僕を見下ろしていた。
「花嫁は準備中だし、出歩くのはみっともないとスタッフに言われましたけど、にいさんの姿が見えたものだから」
 寛司はそう説明して、はにかんでみせた。

6

 離婚を妹から報されたとき、僕は胃袋をさっと奪い取られたような感覚を味わった。自分の離婚とまるで別物に感じられた。
「まだ決定じゃないけど」緩衝材のつもりか、電話越しに妹はゆっくりと告げた。「でも、駄目だと思う」
「そうか」
「決まったらまた連絡するけど」
「ああ」
 帰省のスケジュールみたいに言うんだな、と僕は思った。
「なにか聞いてる?」
「聞いてない。なにも聞いてない」
「へえ、なんでも話してんのかと思った」
「そんな性格じゃないだろ」
「とりあえず、おかあさんの一周忌終わってからになると思うけど……」
 寛司の母親が亡くなったのは夏の盛りのことだった。老父を独居させるわけにもいかず、妹としては同居でも構わないという覚悟だったが、結局は施設に入ってもらった。寛司からでも、妹からでもなく、うちの母から伝わってきた情報だ。寛司の母親が、子どもを産めない嫁など不要だと言い続けていたこともそのときに知ったが、僕はなにも知らないことになっている。
 電話を通しての沈黙ほど雄弁なものはない。携帯をあてていない側の耳に周囲の音がはっきりと飛びこんできて、妹の頭に渦巻いているであろう言葉たちが羽音を鳴らしながらこちらに殺到してくる感覚に襲われる。
「言いたいことあるなら言えばいいじゃないか」僕が先に口を開いた。
「そこは……、ややこしい話だから」
「なんだその管が詰まったみたいな話し方」
「だって、ぜんぶ説明するなんて無理じゃん。兄ちゃんだってわかるでしょ? 兄ちゃんたちの離婚の原因があの人の浮気だけだったなんて言えないんじゃないの?」
 いっぺんに、記憶が蘇る。
 遅くに帰宅した妻が服を脱いだとき、背中にマジックで男の名前が書かれているのを僕は見た。その場で追及すると妻は友人と賭けをして、その罰ゲームなのだと説明した。僕は自力で証拠をかきあつめた。妻を尾行し、デジカメでふたりの場面をおさえ、相手の素性を調べ、ネット経由で攻撃を仕掛けた。責任の所在も大義名分もなにもかもがゴミ袋に詰め込まれたようにいっしょくたになった。離婚が成立すると周囲の人間は僕を励ますべく、いささか硬い表情で飲みに誘ってきた。そのたび、事の顛末を可能な限りおもしろおかしく語ってみせたが、事実は変容しなかった。
「でもさ、べつに寛司と会うの禁止とか言わないから」
「え?」
「兄ちゃんと寛司が会うのは構わない」
「構わなくないだろ」
「平気だって。憎しみあって別れるんでもないから」
「友達に戻るとか?」
「ねえ、そんな冗談みたいに言わないでほしいんだけど」
「俺も会うことはないよ」
「なんで? あんな仲いいのに」
「そういう感じじゃないよ」
「そういうって、どういう?」
「どうっていうか」
「好きにしてくれてかまわないけど、なんか、悪いね、せっかくの弟」
「いいよ、べつに」
「つうかさ、終わってみると手品みたいだね」
 妹の声が、少し軽く響いた。
「なにが? 結婚?」
「うん。まばたきしてるあいだにぜんぶがすごくいいものにすりかわってただけ、みたいな」
「まがいものってことか」
「実際たのしい出来事じゃないし」
「そのうち変わるよ」
「兄ちゃんは? もう変わった?」
「俺は……、最初からそんなに悲観してない」
「だっけ」
「憎みつづけるのだって、案外たいへんだって」
「ふうん」
「ていうか、さっきの、おまえの話さ、手品っぽいていうの? ちょっと違う気がした。寛司の説だと手品の前提は元に戻すことで……、ああ、そうか、戻ったのは戻ったのか」
「独身に?」
「経歴には残るけど」
「手品と違うよ。死ぬまで消えないよ」

7

 二十分が過ぎても僕は一枚も撮影できずにいた。喧噪から距離を取り、マンションたちの足下をうろついて、日陰から見上げると水色の空まで濁って映った。さらに五分ほど歩く。汗がぷつぷつと滲み出る。誰かの家から塀越しに迫り出してきている松の木の下に立ち、寛司のデジカメを見た。シャンパンゴールドの、角の塗装が削れたデジカメ。寛司はどこか遠くへ引っ越すつもりじゃないだろうか。老父の手をひき、遠いところへ。手品師の礼儀として、なにもかもを元に戻して。だとすれば、なにを撮ればいいというのか。いっそなにも撮らないのが正しい選択かもしれない。
 とつぜんの思いつきに、頬がゆるむのが自分でもわかった。
 必死になって撮った一〇枚より、からっぽのほうが雄弁に語るだろう。
 携帯で時間を確かめる。まだ三〇分近く残っていた。どこかで時間を潰す。そして、ちゃんと撮ってきた顔でデジカメを返し、別れる。一流の手品師みたいに。



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