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目次

 

◆お題作品『憂』

 

 ・明けない夜を見に行きたい                  荻野柚夾   

 

 ・ジューンブライド                        雪兎 

 

 ・追憶                            伊倉よね

 

 ・哀Need憂                          香月日向

 

 ・海の日常                          猫宮麻呂

 

 ・蓮華の愛を貴女に                      ユルング

 

 

◆通常作品

 

 ・不審者に注意                        杉原太蔵 

 

 ・それは再会の感動ではなく                  杉原太蔵

 

 ・アレルギー                         田代 霞 

 

 ・順路                            笠原ざわ 

 

 ・スクリュードライバー                    如月深琴 

 

 ・一生のお願い                         炬燵猫

 

・キャラバン                       佐久間 佳雪

 

・パラダイムシフト                      守目冥人

 

・夏は短し君は、                       大島治輔

 


お題

 

 

 

 

 

 

三十回お題作品集

        お題「



明けない夜を見に行きたい

  

明けない夜を見に行きたい

 

                                            萩野柚來

 

 

 

 誰しもに、人生には必ず忘れられない出会いがあるという話を昔、誰かに聞いたことがある。その言葉を聞いたとき、私はなんて当たり前のことをこの人は言うのだろうって、ほんの少し馬鹿にしていた。私にとってのそれは、その時もうすでに体験しているものだったから。私にとってのその出会いは、きっと素晴らしいものだった。忘れられない出会い、というか、忘れたくない出会いだった。だけど……。

 

 机の上に伏せられていた、うっすらと埃を被った大判の写真立てを手に取った。写真立てと言っても、飾られているものは写真ではなく絵である。枠を指でなぞると、なぞった指に埃がついた。伏せていたために絵が見える面には塵一つついていない。汚れた指で触ると、アクリル板が黒ずんだ。数か月に一度、こうしてこの絵を見ることが癖になっている。ぼんやりと眺めながら考える。この絵を描いたあの子は今、どこで何をしているのだろう。

 

 

 

 私が忘れられない出会いってものを体験したのは、中学二年生の頃。私が通っていた学校は、特別都会というわけでも田舎というわけでもない、程よい環境に位置していた。市内では割と辺鄙なところに建てられていたためか、小、中学校と顔ぶれはあまり変わらず、人間関係はだいぶ楽だった。中学二年生って、世間では中二病とか言われるようになる人も多いらしいけれど、私の記憶では周りにそんな人はいなかった。長い付き合いの人が多い環境にいると、おちおち中二病なんかになっていられない。わざわざ自分の居場所をなくすような真似はしたくないと、みんな考えていたんだろう。私たちは、周りの大人が思っていたよりも、きっとずっと大人びていた。

 

 で、この学校の特徴。転校生が頻繁に来る。付近に自衛隊の基地があって、そこに配属された人の子供が転校してくるのだ。小学校の頃から転校生は多かったので、私たちの間では、日常茶飯事とまではいかなくとも慣れっこになっていた。そして、私が忘れられない出会いをしたのは、そういうような転校生の一人だった。

 

 夏休み明け、始業式の全校集会。校長先生の話とか、夏休み中の生活についてとかの話の後、司会進行役の先生が改まってこう言った。

 

「今日は、明日から皆さんの仲間入りをする転校生の紹介をしたいと思います」

 

 この時期の転校生は珍しいな、と思いながら話を聞く。学年やクラスが変わる春休み明けを見計らって転校してくる人が多いのだ。もちろん、転校の手続きとか家庭の事情とかで例外もいるのだけれど。

 

「はじめまして。ミウラウミ、って言います。これからよろしくお願いします」

 

 第一印象は、ポニーテールが似合う子だな、ということだった。特別美人というわけでもないけれど、愛嬌がある顔立ちだ。自己紹介もうまくやっていたし、ちゃんと学校に馴染めるだろう。

 

「はい、ウミさんありがとう。ウミさんは二年生、ということで、二年一組に入ってもらいます」

 

 先生の言葉で二年一組、私のクラスの生徒が沸く。教室に戻ったら、おそらく彼女は質問攻めだ。いくら転校生に慣れていても、興味が湧かない訳ではない。数日は忙しい日々を過ごすのだろう。教室に戻るよう指示が出され、集会が終わる。彼女は先生と一緒に、後から来るはずだ。裾が捲れていたスカートを直しつつ、床から立ち上がる。まだまだ残暑は続きそうで、この集会中にも具合を悪くしている人がいた。ふと窓の外を見やると、夏はまだまだこれからと言わんばかりの日差しが瞳に飛び込んできた。

 

 

 

 それからの数日、彼女は私が思った通り、質問攻めにあった。どこから来たの、前の学校の制服は、最近読んだ漫画は、彼氏はいる、今度遊ぼうよ、エトセトラエトセトラ。それらの一つ一つに彼女は冗談を交えながらも丁寧に答えていき、結果的に私が思っていたよりも早くにクラスに馴染んだ。ポニーテールが似合う、という私の第一印象はあながち間違いでもなかったようで、彼女はとても運動神経がよく、体育の授業では一つに縛った綺麗な髪の毛を揺らしながら、誰よりも先を駆けていた。これは皆に好かれるタイプだな、と直感した。

 

 ここまでの話からは、私と彼女との接点はないように思えるだろう。実際、彼女が転校してきてから数か月はほとんど話もしなかった気がする。席も離れていたし、特別仲良くする理由がない。私は特定のグループに属したりすることもなく、割とクラスメイトとはつかず離れずの付き合いをしていたが、彼女はクラスの人気者的な立ち位置になっていたためにいつも同じ友人とつるんでいた。もう出来上がっているグループにわざわざ首を突っ込む理由だってなかったから、私から彼女に話しかけに行くこともないし、また彼女も私に用事などあるはずもなく、お互いにただのクラスメイト程度の認識しかしていなかった。

 

 

 

 季節が移ろい、肌寒さを感じる秋がやってきた。クローゼットの奥の奥にしまい込んでいたカーディガンをそろそろ引っ張り出すことを考え始める時期、私と彼女に転機が訪れる。

 

 学校の帰り道でのことだった。友人と丁字路で別れ、一人家へと歩みを進める。住宅街の中のこじんまりとしたスペースに申し訳程度に置かれている公園の前に差し掛かった時のことだった。ベンチに座る人影が見えて、思わず足を止めてしまう。ここの公園で人影を見るのは初めてのことだった。ベンチと古いブランコ、それに数本の街灯のみ置かれているここの公園は、近くに住んでいる子供たちでさえ使うことをためらうような、独特の雰囲気を昼夜問わず醸し出している。公園って言うと利用する子供の防犯のために地域の人の目が届くような場所に作られるようなものだけれど、ここの公園は背が高い木々に覆われ、出入り口以外からは中の様子がほとんど見えなくなっている。近くに住む私でさえあまりここで遊んだ記憶はない。そんな公園に、人がいる。興味本位でこっそりと中の様子を窺う。座っている人影は、じっと俯いている。何をしているのだろう、と見ていると、思わぬ発見をした。その人影は、どうやらスカートを身に着けているようなのだ。しかもよくよく目を凝らすと、私が通う学校の指定スカート。この辺に住んでいる人ならほとんど顔見知りだったから、誰だろう、と考えを巡らせる。現在時刻、午後五時ちょっと前。この時間に学校外にいるということは、私と同じように部活に入っていないのだろう。一年生の間は必ず何かしらの部活に入ることになっているし、この辺りには同校の先輩は住んでいなかったはずだから、おそらくここにいるのは同級生。そこまで推理して、公園内に足を踏み入れた。家に帰っても暇だし、その人影が何をしているのか、気になったのだ。

 

 後になってこの時の自分の行動を振りかえってみると、われながら大した勇気だな、と思う。もしも予想が外れて、全然知らない人だったらどうするつもりだったんだろう。

 

 やっほー、と声をかけようとして、喉まで出かかった声が止まる。公園にいたその人影は、スケッチブックに絵を描いていたから俯いていたのだ。問題はそこではない。絵を描いていたその人は、あのウミちゃんだった。気配を察知したウミちゃんは勢いよくスケッチブックを閉じ、顔を上げ、私を見、それから目をまんまるに見開いた。そりゃそうだ。ほとんど話したことのないクラスメイトと学校の外で会って、しかも近づいてこられたら、誰でも同じ顔をするだろう。気まずい沈黙が流れる。なんとかこの場の収拾をつかせたくて、脳みそをフル回転させるけれど、全然いい案が思い浮かばない。

 

「えっと、あの……ウミちゃん、だよね」

 

「うん」

 

 しどろもどろになりながらも話しかけるが、全然会話が続かない。どうしよう、といよいよ焦り始めたころ、ウミちゃんの方から私に話しかけてきた。

 

「ね、立ち話もなんだし、よかったら隣においでよ」

 

 

 

 思わぬ展開になってしまった、と隣にいるウミちゃんを横目に思う。私とウミちゃんは、何を話すわけでもなく、並んでベンチに座っていた。ウミちゃんがぼんやりと空を見上げていたので、つられて私も顔を上げる。秋の日は釣瓶落とし、って言うけれど、本当に日が落ちてくるのが早い。ついこの間まで午後五時を過ぎても明るかったのに、今ではもう目を凝らせば星が見えるほど夜が近づいてきている。

 

数分の沈黙。この場を作り出してしまったのは私だし、何かしらの行動を起こすべきかな、と思いながらも躊躇してしまう。だって、ここにいるウミちゃんは学校で見ている姿とは違う雰囲気を纏っていた。そのとき、惑う私に気づかぬウミちゃんが、突然沈黙をさらう。

 

「葵ちゃんはどうしてここに?」

 

 どう答えるか一瞬迷い、結局素直に答えることにする。

 

「この公園が面してる道路、私の通学路なの。たまたま公園の中に人影が見えたから、珍しいなって思って……」

 

「そっか、葵ちゃんの家こっちの方なんだね」

 

「うん。……実はさっきちらっと見えちゃったんだけど、ウミちゃん、絵を描いていたよね」

 

「バレたか」

 

 そういって舌を出すウミちゃんは、やっぱり学校で見る彼女と変わらないように思える。

 

「ウミちゃん、運動もできる上に絵も描けるんだね」

 

「そんな大したものは描けないよ。ただ、好きなんだ」

 

「さっきは何の絵を描いてたの?」

 

 そう質問すると、ほんの少し彼女の顔が曇る。聞かない方がよかったかな、と思い謝罪すると、ウミちゃんは首を振った。

 

「謝らないで。わたし、他人に絵を見せたことがほとんどないからさっきは少し戸惑っちゃったけど、実は誰かに自分の絵の感想を聞いてみたいなってずっと前から思ってたの」

 

 そう言って、私が来た時に荒々しく閉じてしまったスケッチブックのページを丁寧に繰る。今日描いていたページを見せてくれるようだ。

 

「さっき描いてたのは、これなんだけど」

 

 彼女が私の前にスケッチブックを差し出す。それを見て、うわ、と危うく声に出してしまうところだった。すごくきれい。これはここの公園をモデルにしたのだろうか。よく似ている場所で、ジャングルジムのてっぺんに座った女性が満月に向かって煙草を燻らせている。ジャングルジムの錆びている感じだとか、一本だけ描かれた街灯に群がる虫だとか、紫煙の背景への溶け込み具合だとか、すごく細かく描きこまれている。スケッチブックから、煙草と夜の匂いがしてきそうだった。

 

「これ……ウミちゃんが描いたの」

 

 そう絞り出すだけで精いっぱいだった。自分の陳腐な言葉でこの絵を飾りたくないと思ってしまった。私は素人だけれどわかる。この絵はすごい。一言言って黙ってしまった私を見て、ウミちゃんが不安げな表情をしていることに気づき、慌てて言う。

 

「ごめん、見とれちゃって何もコメントできなかった」

 

「本当? すごく嬉しい。実はここ最近、なんだか全然ピンと来なくて、描いては消して描いては消してを繰り返すばかりだったけど、やっとこれだって思えるものができたなってわたしも思ってたの」

 

 照れた笑みを浮かべながら話すウミちゃんを見て、唐突にさっき感じた違和感に気づく。学校でのウミちゃんはたくさんの友人に囲まれて、いつも楽しそうにしている。でも、その実たまにどこか遠くに想いを馳せるような、そういう表情を見せることがあった。周りにいる人はおそらく気づいていないだろう。彼女は自分が時々そういう顔をしていると自覚していて、皆にバレないようにしているらしかった。ほとんど話したことのない私が気づくのもおかしな話だけれど──いや、ほとんど話したことのない私だから、気づいたのかもしれない、とふと思う。近くにあるものは、意外にも遠くにあるものより見えづらいのだ。

 

 話を戻すけれど、ここにいるウミちゃんはそういった類の雰囲気を纏っている。でも、その方が自然体のように見えた。学校での彼女が無理をしているってわけでもないと思うけれど。

 

 会話がふっと途切れる。そういえば、部活は大丈夫なのだろうか。何部に所属しているかはわからないけれど、彼女の運動神経を知ったクラスメイトからたくさんの勧誘を受けていたことはまだ記憶に新しい。

 

「ウミちゃん、今日部活オフなの?」

 

「えっ、わたし帰宅部だよ」

 

 驚いたようにそう返すウミちゃんを見て、私もまた驚いていた。てっきりウミちゃんは何かしらの部活に所属しているものだと思っていた。というか、あれらの勧誘の全てを断るなんて逆にすごいな、と思う。

 

「葵ちゃんもそうでしょう。去年は何部だったの?」

 

入りたいと思うような部活がなくて、一年生の頃から帰宅部同然のよくわからないところに入っていた、と答えると、ウミちゃんは笑いながら言った。

 

「わたしもそうだよ。入りたいところがなくって」

 

 でも、あんなに運動神経が良くて、しかもこんなに絵だって上手いのに。そう思っていると、私が考えていたことを汲み取ったのかウミちゃんが言う。

 

「確かに、美術部に入ろうかなって考えていた時期もあったんだけどね。美術部でさ、友達とわいわい絵を描くよりも、わたしはこうやって一人で絵と向き合っているのが好きなの」

 

 その気持ちはわからないでもない。本当に好きなものを他人と共有するのって、気恥ずかしいというか、自分の奥の方をさらけ出しているようですこしだけ怖い。そこまで考えて、私はさっき彼女に絵を見せてもらったことを思い出す。

 

「ウミちゃんの大事な絵、簡単に見せてとか言っちゃってごめん」

 

「気にしないで。絵をより良くするためには他人の感想が必要だって、わたしもずっと考えてたんだけどなかなか勇気が出なくって。それに、あの、なんていうか……葵ちゃんになら見られてもいいかなって」

 

 驚いた。私、ウミちゃんにそんなことを言ってもらえるようなこと、何かしたっけ。どう返してよいかわからず、ありがと、とだけ言うとウミちゃんは焦ったように続けた。

 

「変なこと言ってごめん。葵ちゃんなら忌憚なく意見を言ってくれるかなあと思って」

 

ほとんど話したことがない故に、というやつだろうか。確かに、普段から一緒にいる友人よりは、私のようにほとんど話したことのないクラスメイトに見せた方が絵の批評としては正確なものが得られるのかもしれない。

 

「葵ちゃん、わたしとクラスで一度だけ話した時のこと覚えてる?」

 

 そんなことあったっけ、と記憶を巡らす私を置いて、ウミちゃんは話し始める。

 

「たったの一回だけなんだけどね。私が転校してきてすぐのことだったよ」

 

 

 

 改めて、はじめまして。ミウラウミ、って言います。そう言ってウミちゃんは黒板に自分の名前を書き始める。三浦憂望、と丁寧な文字が書き連ねられていくのを、ぼんやりと眺める。珍しいけれどいい名前だな、と思った。隣県のどこそこから来ました、仲良くしてもらえると嬉しいです──といった当たり障りのない自己紹介を終えた憂望ちゃんへの質問の場が設けられると、皆が一斉に手を挙げる。大変だな、と思いつつ、まあこれで授業が潰れるならラッキーと私はうたた寝を決め込む。

 

 それから暫くして、授業終了のチャイムが鳴る。確か次は移動教室だったはずだ。目を開いて周囲の様子を窺うと、皆教科書を準備していた。中にはもう移動し始めている人もいる。この休み時間、外部からパンを売りに来てくれる人たちがいるとかで、移動のついでにパンを買おうとする人たちは授業が終わると同時に教室を出てしまうのだ。十分の休み時間はとても短い。私は用事もないしのんびり行こう、と思っていると、いつの間にか教室内の人はほとんどいなくなっていた。そろそろ私も出るか、と用意していると教室に憂望ちゃんが入ってくる。あれ、さっき教室を出ていかなかったっけ、と不思議に思っていると、憂望ちゃんが話しかけてきた。次の教室教えてもらってもいい、と。曰く、トイレに行っている間に皆に置いて行かれてしまったらしい。それならちょうど私も出ようとしていたところだったから一緒に行こうと告げると、あからさまにほっとした顔をする。はじめてきた学校で教室に戻るとほとんど人がいないって、下手なホラーよりも怖いだろう。

 

「名前、なんていうのか聞いてもいい?」

 

「わたし? 葵だよ。みんなからはあお、って呼ばれたりしてる」

 

「葵ちゃんね、覚えた。わたしは……って、さっき自己紹介したか」

 

「憂望ちゃんでしょ。私も覚えてるよ、珍しいけどいい名前だね」

 

 教室までの道のり、会話しながら歩を進める。すると、憂望ちゃんが少し驚いたようにこう言った。

 

「珍しいとはよく言われるけど、いい名前だねって初めて言われた」

 

「そう? だって憂望、って心配して思いやる、って意味でしょう。確かに憂って漢字はあんまり名前向きではないかもしれないけれど」

 

「すごい、初対面で名前の由来まで言い当てられるの初めて」

 

 おどけた様子で彼女が言うのと、目的地にたどり着いたのはほぼ同時だった。それじゃ、と言うと、ありがとうと声が返ってくる。教室に入り、彼女はさっき話していた女子のところへ、私は後ろの方の窓際の席へ。それが私たちのたった一度の会話だった。

 

 

 

 そうだ、思い出した。数か月前の、他愛もない会話。だけど、それがどうしたのだろう。

 

「その時、わたし自分でもわからないけど葵ちゃんのこと、すごく……ううん、なんていうか……こういう表現が正しいかわからないけど、好きだなって思って。」

 

「人にそんなこと言われたのはじめて。すごく嬉しい……、ありがとう」

 

 なんだかどんな顔をしていいのかわからない。でもそれは憂望ちゃんも同じだったようで、互いの視線が公園を彷徨う。

 

「恥ずかしいついでに言っちゃおうかなあ。わたし、葵ちゃんがちょっとだけ羨ましくて」

 

「私を羨む要素、ある?」

 

「あるよ。葵ちゃん、身軽そうだなって」

 

「そんな、猫じゃないんだから」

 

「へへ、でもそう思ったの。わたし、学校でいつも決まった友人と一緒にいるでしょう。その友達のこと、嫌いってわけでは全くないんだけど、たまに……本当にたまに、こう、一人にしてもらいたいかなって、そう思っちゃうんだ」

 

「どれだけ仲が良くても、人に疲れちゃうことってあるよね」

 

「うん……わかってもらえて嬉しい。わたし、すごくわがままなの。一人は好きだけど独りは嫌で、だから転校してすぐ友達をたくさん作ろうって思ってたんだけど……」

 

 そこまで言って、言葉を止める。憂望ちゃんは突然履いていた靴から踵だけ抜き出し、勢いよく片足だけ遠くへ飛ばしてしまった。綺麗な放物線を描いて飛んだローファーは、着地した先で横倒しになる。

 

作りすぎちゃったみたい、と吐息と共に吐き出された言葉がやけに私の耳に残る。私はあんまり特定の仲が良い人、というものがいない。話そうと思えば誰とでも話せるから、それで不便はしてこなかったし、その方が自分には合っていた。憂望ちゃんももしかしたら転校してくる前は私みたいなタイプだったのかな、と思う。

 

「だから、葵ちゃんが羨ましくって。ずっと葵ちゃんみたいになりたいなって思ってたの」

 

 そっか、とだけ言う。それから、私たちはぽつぽつと会話を続けた。憂望ちゃんの前の学校のこと。今日の数学の授業のこと。憂望ちゃんがこれまでに描いてきた絵のこと。聞くと、絵は全て独学らしい。描きたいものを描くと、自然とああいう作風になるって憂望ちゃんは何でもないことのように言ったけれど、それって結構すごいことじゃないかな、と思う。そして、沈黙。今度は気まずくなかった。びゅう、と風が吹き抜ける。気づかないうちに、夜の気配が色濃くなっている。公園の街灯にも、明かりが灯っていた。すると突然、隣に座っていた憂望ちゃんがベンチから立ち上がり、さっき飛ばした靴に、器用に片足で飛び跳ねながら向かって行く。そうして再び靴を履き、こちらへ向き直る。

 

「今日、葵ちゃんとここで話せてすごく嬉しかった。ありがとう、もしよければ学校でもよろしく」

 

「憂望ちゃんって、いつもここで絵を描いてるの?」

 

 つい、そう聞いてしまったのはこの公園での憂望ちゃんとの会話がとても居心地の良いものだったからだ。お互い、様々なことを話したけれど深くまでは追及しない。憂望ちゃんは距離感の測り方がとても上手い。友人がたくさんいるだけあって、ちゃんとその辺をわきまえているようだった。

 

「うん。前は家で描いたりもしてたけど、外で描いた方が煮詰まらないし、それにここは全然人が来ないし」

 

 まあ葵ちゃんは来たけどね、といたずらっぽく笑いながら言う。

 

「葵ちゃん、たまに遊びに来てよ。絵の感想も聞きたいし」

 

「いいの?」

 

「それはこっちのセリフ。わたしなら雨でも降らない限り毎日のようにここにいるから、いつでも来て」

 

「じゃあ、たまに見に来ちゃおうかな」

 

 そう言って、私もベンチから立ち上がり、二人で示し合わせたように出口へと向かう。もう夜だ。早く帰らないと。

 

「わたし、こっちだから」

 

 そう言って、私に別れを告げると憂望ちゃんは私に背を向けて歩き出す。私も家へと帰るべく、憂望ちゃんとは反対方向へと足を踏み出した。

 

 

 

 それから私たちは一週間に一度くらいの頻度で、公園で会うようになった。公園では、憂望ちゃんは絵を描き、私は学校で出された宿題をしたり、図書室で借りた本を読んだりする。私が飽きると憂望ちゃんの手元を邪魔にならないようにのぞき込んでみたり、反対に憂望ちゃんが休憩するときはお喋りしたり、私が読んでいた本の内容を話したりした。沈黙が一時間くらい続くこともあったけれど、居心地は悪くなかった。こうしてみると随分仲良くなったように思えるけれど、私たちは学校では相変わらずほとんど会話をしなかった。今考えると、学校外で時々会う関係というものに私たちは価値を見出していたのだろう。

 

 そんな関係が続き、冬がやってきた。私たちは未だに公園で会う関係を続けている。変わったことと言えば、一週間に一度だった会う頻度が三日に一度になったことくらいだった。そんなある日のこと。私たちは、今日も公園で各々のやりたいことをやっていた。ふと、隣で絵を描いていた憂望ちゃんの手が止まる。何か、冷たいものが頬に当たる感覚。私も今日図書室で借りてきたばかりの本を読む手を止め、空を見上げる。落ちてきたもの、それは雪だった。

 

「雪だ」

 

「今年初、かな」

 

 今日、挨拶以外で初めてこのとき言葉を交わした私たちはそれからしばらくの間、並んで空を見上げていた。灰色の空から落ちてくる雪は、ちらほらと周囲を漂っている。そういえば、そろそろ冬休みが始まる。休みはいいけど宿題はやだな。自由研究、何しようかなあ。本は濡れないようにとリュックにしまってしまったので、することがなくなってしまった私はぼんやりと空を眺めながら考える。

 

「憂望ちゃんは、冬休みの自由研究何するの?」

 

「まだ考え中。でも、どうせなら冬しかできないことがいいな」

 

 スケッチブックを私同様しまいながら、憂望ちゃんはそう答える。冬しかできないことかあ。うーん。雪の結晶の観察とか、ベタだけどネタ被りしそうだし……。考えていると、憂望ちゃんが口を開いた。

 

「ねえ、自由研究一緒にやらない?」

 

「いいけど……」

 

 こういうのって、憂望ちゃんは引く手あまたな感じがするけれど、私と一緒にやっていいのかな。それこそ前言っていた友達とかに誘われたりしてないんだろうか。

 

「わたしなら大丈夫だよ、葵ちゃんとやりたいの」

 

 そうまで言われたら断る理由もない。今日のうちに、決められることは決めてしまおうという話になって私たちは話し合いを始めた。

 

 結局、自由研究は星空観察をしよう、ということになった。決め手は、憂望ちゃんが星座望遠鏡をもっているということ、それから星ならば冬にしか見られないものもあるし、冬しかできないことに入るという私の意見だった。かなり長く話していたため、もう真っ暗だ。雪はいつの間にか止んでいた。電球が切れかかっているのか、街灯はストロボのように明滅していて夜の公園の不気味さを際立たせている。日程は天気予報を見ながらまた相談、ということにして、私たちはいつものベンチから立ち上がる。

 

「じゃあ、また明日学校でね」

 

 いつも公園前で私たちが交わす言葉。学校で話すことはやっぱりほとんどないし、連絡先だって交換してはいないけれど、お互いクラスで姿を認識すると視線が交わることもあった。クラスメイトの誰も知らない、不思議な関係。奇妙な居心地の良さを感じるこの関係性を、私は大切にしたいと思うようになっていった。

 

 

 

 つつがなく日々は過ぎ、冬休みに入る。今日からしばらくは学校に行かなくてもよいという開放感からか、今日も今日とて公園で会っていた私たちの口数は普段よりも多かった。

 

「ね、星空観察いつやろうか」

 

「四日後とか、どう? 月もまだ痩せてるだろうし、天気予報だと晴れだったよ」

 

「いいね、そうしよう」

 

 そこで一度会話が途切れると、憂望ちゃんの目が私の膨らんだリュックに留まる。

 

「それ、何が入ってるの? いつもより膨らんでる気がするけど……」

 

「実はね……ふふ、見てこれ。お父さんのおさがりなんだけど」

 

 そう告げて私がバッグから取り出したのは、一台のカメラ。父が新調すると言っていたので、それまで父が使っていたものをねだってみたらあっさりもらえた。父はどうやらフィルムタイプの一眼レフが欲しかったようで、デジタルタイプの今私が持っているこの一眼レフは本命ではなかったらしい。このご時世にフィルムか、と思わなくもないけれど、父が凝り性なのは今に知ったことではないのでありがたく譲り受けた。カメラのいろははわからないけれど、きれいな写真がどんなものかは見ればわかる。それに私は一つの物事に熱中するタイプだったから、憂望ちゃんにカメラを見せた時には、自分が撮った写真もある程度他人に見せられるくらいには成長していた。

 

 憂望ちゃんに撮った写真見せてよ、と言われたので、自分の中でもよく撮れたな、と思っているものを選んで見せる。

 

「これとか私、好きだなあ」

 

 そう言って憂望ちゃんが指差したものは、学校からの帰り道に撮った夕暮れの写真だった。きれいなグラデーションがかかった空に、一等星がきらりと光っている。私も気に入っている写真だった。

 

「本当? じゃあ、現像したら憂望ちゃんにもあげるよ」

 

「いいの? 嬉しい、じゃあわたしからも何か、絵をあげるよ」

 

 申し出は嬉しいけれど、とても美しい彼女の絵と始めたばかりのど素人な私の写真では、果たして釣り合いがとれるのだろうかと私が頭を悩ませている間に憂望ちゃんは会話を進める。

 

「あっ、でもどうせならこれから描く絵をプレゼントしたいなあ。ね、星空観察の日までに新しいものを描くからさ、それと交換じゃだめ?」

 

 きらきらした目で見つめられるともう何も言えなくて、私はただ頷く。やった、とはしゃぐ憂望ちゃんを見て、喜んでもらえるならいいかと思う。憂望ちゃんは早速絵を描く用意をし始めている。私もリュックから本を取り出した。

 

 

 

 あれから時は流れ、もう星座観察の当日になってしまった。もうすっかり夜の帳が下りきった空の下、いつもの公園へと急ぐ。一度公園で落ち合ってから、もっと広い空き地に行こう、と話していた。今日は星座観察にはもってこいの満天の星空だったけれど、いつもの公園は木々に囲まれて星を見るには視界が悪い。

 

 公園に着くと、まだ誰もいなかった。集合時間、五分前。もう少し待てば憂望ちゃんも来るだろうと思い、いつものベンチに腰掛ける。

 

 

 

 しばらくそのまま待っていたが、憂望ちゃんはなかなか来ない。腕時計を見ると、もう集合時間を二十分過ぎている。連絡先を交換していなかったことを、今更だが後悔した。周囲を見に行くべきか考えつつ、入違いになった時のことを考えて動き出せないでいたその時。公園に、憂望ちゃんが入ってきた。だけど、明らかにいつもと違う。とても疲れているように見えた。

 

「待たせてごめん」

 

「私は大丈夫、そんなに待ってないよ。憂望ちゃんこそ疲れてるように見えるけど、大丈夫? 星座観察、別な日にする?」

 

「大丈夫。今日やろう」

 

そう言いながらも、憂望ちゃんは私の隣に腰を下ろす。あれこれと詮索しない方がいいかな、と思い、私からは何も聞かなかった。少しして、憂望ちゃんは立ち上がる。私もそれに続き、二人無言のまま空き地へと歩き出した。

 

数分歩くと、目的地に着いた。ここなら街灯も少ないし、星もよく見える。荷物を下ろした憂望ちゃんが、星座望遠鏡を手渡してくれる。

 

「じゃあ始めようか」

 

 二人で星座盤を見ながら星々を確認して、望遠鏡を覗きながらそれぞれが形作る星座をノートにメモする。冬の澄んだ空気が、星々の光を研ぎ澄ませていた。私は持ってきていたカメラで写真を撮った。夜空を撮るには私にはわからない設定がいろいろと必要らしく、家を出る前に父に手伝ってもらった。おそらくきれいに撮れるはずだ。シャッターを押し、撮った写真を確認する。うん、きれい。これなら大丈夫だろうとそのまま連続してシャッターを切る。自由研究には、共同でやってもいいが最後のまとめは各々でしなければならないというルールがある。写真を撮り終わると、私たちは並んで地面に腰を下ろし、持ってきたノートに今書けることは今のうちに書こうとペンを走らせた。

 

 とりあえず、いまできることはやった。ふう、と一息ついて、ペンを筆箱へとしまう。隣の憂望ちゃんも、ほとんど同時に書き終えたようだった。ノートをリュックにしまっている。なんだか疲れた、と思い、リュックを枕にして地面に寝転がると、思わぬ絶景が広がっていた。視点が変わるとこんなにも見え方が変わるのかと驚く。吸い込まれそうな漆黒の夜空に輝く星々。すごくきれいで、少しだけ怖い。もしも今、重力がひっくり返ってしまったら、私はあの中に吸い込まれてしまうのだろうか、なんて馬鹿なことを考える。そんなわたしの隣で、しばらくの間は座っていた憂望ちゃんも同じように寝転がると、喋り始めた。

 

「今見えてる星って、一体いつ光ったものなのかなあ」

 

「ううん……気が遠くなるほど昔だって先生がこの前言ってたけど、実際はどれくらいかな」

 

「今、リアルタイムで光ってる星の光が届くのもずっと後なんでしょ? 少し寂しいね」

 

「うん……今の輝きが届く頃も、誰かがここで星を見てくれたらいいのに」

 

「おそらくその時にはこの場所、なくなってると思うけど」

 

「そっか、そうだね」

 

 それからしばらく、私たちは黙って夜空を見上げていた。憂望ちゃんがいるし、近くには民家だってあるのに、なんだかすごく寂しい。何故だかそのとき強く、目を離さないで、今この瞬間の星空を、空気を、孤独を、しかと心に刻んでおこう、と思った。

 

 時を忘れてお互い夜空に見入っていたが、雪がちらつき始めたため名残惜しいが身体を起こす。あ、そうだという声と共に、憂望ちゃんはリュックを漁り始める。ちょっとの間ごそごそとやってから、はい、と私に向けてラミネート加工された絵を差し出す。そこに描かれていたのは、朝と夜の間の時間、昇り始めた太陽と、空にうっすらと残る星、そしてその下で輝く海と砂浜でファインダーを覗き込む女の子。この絵も本当にきれいで、なんだかもらうのが申し訳なくなってくる。

 

「これ、もらっちゃっていいの?」

 

「葵ちゃんのために描いたんだから、もらってくれなきゃ怒るよ。ね、気にしないで受け取って」

 

 そうまで言われて受け取らないのは逆に悪い。私はそれと交換で、前に憂望ちゃんがきれいだと言っていた写真を現像したものを差し出す。ありがと、と言って受け取った憂望ちゃんは、しげしげとそれを眺め、それから丁寧にリュックにしまった。

 

「よし、もう遅いし帰ろうか」

 

 

 

 それから私たちは荷物を片付け、空き地を出た。いつもの公園に来た当初、顔色が悪かった憂望ちゃんも、星座観察している間にすっかりいつもの調子に戻っていた。横に並んでいる今もいつも通りに見えて、少しだけ安心する。

 

「じゃあ、また今度ね」

 

 私がいつものように別れの言葉を言うと、憂望ちゃんはこちらへ向き直った。どうしたのかな、と思っていると、そのまま動きを止めてしまう。風が、私たちの間を通り抜けた。

 

「葵ちゃん」

 

「どうしたの」

 

 続きを促すけれど、それからしばらく沈黙が続いた。そういえば、憂望ちゃんと一緒にいるときに居心地の悪さを感じるのは久しぶりだと考える。互いに一緒にいる時間は、初めの頃よりもかなり長くなっていた。

 

 憂望ちゃんは、うろうろと地面を彷徨っていた視線を思い切ったように上げると、私の目を見ては視線を外すことを二、三度繰り返した。そして口を開く。

 

「また来年も……一緒に、こうやって星を見に来ない?」

 

「そんなこと、もちろんいいよ。今度は夏にでも見に来よう」

 

 なんだ、そんなことくらい言ってくれればいいのにと思いつつ、返事をする。すると、ほっとしたようによかった、と呟く声が聞こえた。断られるとでも思ったのだろうか。

 

「葵ちゃん、わたし、冬休みの間あんまり公園にいないかも」

 

「わかった。私もおそらく家に居ろって言われるから、あんまり行けないと思う」

 

会話しているうちに、親に告げてきた帰宅時間がすぐそこまで近づいていることに気づく。

 

「じゃあ、今度こそまたね」

 

「うん……また」

 

 私は、家へと歩き出した。振り返らなかった。憂望ちゃんが歩き出す音はしばらくの間聞こえてこなかった。

 

 

 

 冬休み明け、始業式。結局、あれから私たちは冬休み中に会うことは一度もなかった。私は私で家に居たし、一度だけ公園を覗いてみた時も憂望ちゃんはタイミングが悪く、いないようだった。星空観察のときに撮った写真を渡したかったけれど、会えなければどうしようもない。自由研究の提出は始業式の次の週だったから、学校で渡せばいいだろう、と考えていた。

 

 始業式を終え、教室に戻ると、担任の先生の話が始まる。早く終わらないかな、と思いながら何気なく教室に視線を彷徨わせていると、ふといつもは合う視線が今日はないことに気づいた。憂望ちゃんが来ていない。珍しいな、と思っていると私の耳に、先生の声が飛び込んできた。

 

「えー、それから三浦憂望さんですが、家庭の都合ということで冬休みの間に転校、ということになりました。皆さんと過ごした時間は短かったですが、お世話になりましたと伝えてください、と言われたので──」

 

 それからの話は全く耳に入ってこなかった。転校。転校? 何も聞いていない。冬休みの間に転校って、私はその冬休みの間に会ったのに。自由研究を一緒にしたのに。頭の中がぐちゃぐちゃになって、何も考えられなかった。

 

先生の話を全て上の空で聞き流し、学校が終わるとすぐさまいつもの公園へと向かう。誰もいない。ただ、いつも通りベンチが一つとブランコがあるだけの簡素な公園。まるで私の方がいつも通りじゃないように感じさせるそれらが恨めしかった。上がった息を鎮めるため、一人静かにベンチに座った。

 

 

 

 そうして呼吸を落ち着かせていると、絡まっていた思考がゆっくりと動き出した。ああ、もう憂望ちゃんは学校に来ないんだな、という事実が自分の中で咀嚼されていく。そして理解した途端、泣きたくなった。どうしてかな、私より、こういうときに泣くのはいつも学校で周りにいた女子たちがふさわしいんじゃないかな、と思いつつ、喉元にこみあげてくる塊が飲み込めなかった。多分、もう会えない。そうだろう。彼女がどこへ行ってしまったのか、私にはわからなかった。連絡先も、何もかも、彼女について私はあまりにも何も知らなかった。

 

 そうして不意に、星座観察が終わった帰り際に取り付けられた口約束を思い出す。おそらく、あれも叶えられることはないだろう。来年も一緒に夜空を見ようって、そう言った彼女に、私はそんなこと、って言ってしまったのだ。全然そんなことじゃなかった。もっと、もっと何か気の利いた言葉をかけてあげればよかった。だってあの夜、彼女は様子がおかしかった。でも見ないふりをしてしまった。その方が楽だったし、余計なことを言って関係を崩したくなかった。彼女が煩わしく思うような友人の一人には、成り下がりたくなかった。憂望ちゃんは私を見て羨ましいって言ってくれたけれど、私の方が彼女を羨ましいと、ずっと思っていた。彼女は、たとえ友人を面倒くさいと思っていても、逃げなかった。突然話しかけてきた私のことだって、蔑ろにはしなかった。人にちゃんと向き合っていた。向き合ってくれた。けれど、私はそういうものに今まで向き合ってこなかった。面と向かったことがなかった。だからだ。あの夜、私にはなんて声をかければいいのかわからなかった。本当は、憂望ちゃんと本当に本当の友達になりたかったのに、いつだって足を一歩踏み出せなかった。躊躇っているうちに全ては過去へ流されてしまって、私にはもうどうすることもできなかった。いつか、憂望ちゃんが言っていた言葉を思い出す。一人は好きだけど独りは嫌。きっと私もそうだ。彼女と何も変わらない。私はこの公園で憂望ちゃんと会うことで、気づかないふりをしていた自分の孤独感を埋めていた。私と憂望ちゃんの違いはきっとただ一つだけで、それは人と向き合う勇気をもっているか、いないか。それだけだった。

 

 

 

 それから私は、宵の口に雪がちらつくまでずっと一人、もう私のほかには座る人がいなくなってしまったベンチで考えていた。

 

 宿題を提出しなくてもよかった憂望ちゃんが、私に自由研究を持ち掛けてきた理由──。

 


ジューンブライド

 

ジューンブライド

 

                雪兎

 

 

 

白い雨傘くるりと回して

 

子供が煩く歌いだす

 

もたり ぐたりと 足跡を残して

 

あーあ

 

なんだか 酷く煩わしいのだ

 

 

 

僕の吐き出すため息ひとつ

 

鈍色の糸が絡めとる

 

しとり しとりと 質量を増して

 

あーあ

 

なんだか 酷く重苦しいのだ

 

 

 

窓に書かれた誰かの落書き

 

差し手のいない相合傘

 

ほたり ひたりと 傘が泣き出す

 

あーあ

 

なんだか 酷く寒々しいのだ

 

 

 

ウェディングドレスを纏った君が

 

知らない誰かの隣で笑う

 

はらり ひらりと 花を舞わせて

 

あーあ

 

なんだか 酷く泣き出したいのだ

 

 

 

やっぱり僕は君が好きで

 

叶えようともしなかった僕の怠慢で

 

あーあ

 

それでも 貴方を想って泣くだけは

 

どうか 許してほしいと思ってしまうのだ

 

 

 

水たまりに溶かす雫の一粒くらい

 

許してほしいと思ってしまうのだ

 


追憶

 

追憶

 

伊倉よね

 

 

 

 初めのころはレポートにうんざりしていたのに、今はもう、慣れてしまった。

 

 そんなことを、図書館の席が徐々に埋まるのを見て私は思う。見てわかるのだ、私だって来たばかりのころは空席を見つけるのに少しばかり苦労したから。経験したことならば自ずとわかるだろう。

 

 ちら、と画面の右端に目を向ける。……随分と長く居座っていたようだ。小腹も空いたし、文字数もかなり増えている。丁度いい頃合いだろう。私はパソコンを閉じて立ち上がった。

 

 

 

 空はゆるりとオレンジ色に染め上げられている。外に出て無意識に息を吸った。閉鎖空間にいたからだろうか、喉を流れていく空気がいとおしい。澄んでいるのに奥でまとわりつく香りにどこか安堵しているのもそれのせいだろう。この感覚はどこかで感じたような気がする。明日の天気でも暗示しているのだろうか。……明日の天気。明日。引っ掛かりを覚えてスマホを起動させる。ロック画面に表示されたものを見て、そうだ、そういえば明日は一限からあるんだった、と思い出した。取りたかった授業をひとりで取ったんだった。

 

男子の賑やかな声が耳に届く。自転車の甲高いブレーキ音がする。ああそういえばタームの変わり目、ちょっと浮かれていたときもあったな、なんて考える。長期休みがないのに授業が増えたり減ったりすることが、どうも新鮮で楽しみだった。ああいや、高校までで長期休みのあとに授業が変わるなんてないってことは百も承知、二百も合点。とにかくここに来て初めてのことなんだから、胸が高鳴るのは当然と考えるのがいい。決して、それをまわりに隠していたりなんて、しなかったとも。それに、ちょっとした失敗というか、ほんの些細なことなのだが、月曜一限の講義がなくなったのを忘れて飛び起きたことがある。急いで支度をしているときに思い出すのはこの上なく辛かった。絶望した、と言い換えてもいい。何せ家を出る時間が四時間半ほど違うのだ。できればもっと布団にくるまって微睡んでいたかったのに。……今年は、去年とは反対の意味で絶望的起床、なんてことがなければいいのだけど。

 

ああ、いけない。寄り道をしてしまった。こんなことを思い出したくて開いたんじゃない、明日の天気が気になってスマホを開いたのだ──というところで、かしゃん、と音がした。横目でそちらのほうを見ると、向こう側の歩道で女性が自転車のそばに立っていた。立っているだけなのにどうも目が離せない。簡潔に述べると、きれいな人だったのだ。

 

しかしながら、違和感を覚える。正門方向を向いて停めているし、女性は自転車から離れようとしない。否、離れられないのだ、と気づくのにそう時間はかからなかった。彼女の服の──スカートの──白いチュールレースが、チェーンに絡まっていたのだ。彼女が後輪のうしろを回るとサドルの上でぴんと張られていたそれがしゃらりと揺れて落ちる。一方ではふわりと笑うのにもう一方では満足に踊れやしない。

 

女性は何度かチュールを引っ張ったりチェーンのあたりに顔を近づけたりしていたが、しばらくしてスマホを取り出した。誰かに電話しているように見えるが、少しして耳からスマホを離した。……背中が、少し丸まっていた。

 

「あの」

 

何やってるんだろう、わたし。

 

足は勝手に動いていた。喉も勝手に動いていた。だから仕方ないのだ、と言い聞かせた。

 

俯いていた彼女の目元はうっすらとあかく滲んでいる。私よりほんの少し背が高いが、化粧の薄いところと不安げなその表情から一年生だろうと思った。

 

「どうかしましたか」

 

「ええと、その、スカートが絡まってしまって」

 

 意外と大人っぽい声だった。心にくんと針がかけられたような感覚がある。

 

「取れない、ですか」

 

「何度か引っ張ってはいるんですけど、チェーンの下に入ってしまって」

 

 改めてそちらを見ると、なるほど、三段変速のギアがついているようだった。そうしてそれを切り替えた拍子に挟まってしまったと思われた。遠目からは真っ白に見えたスカートも今は油で黒く汚れている。勿体ないなあ。

 

「はい。私も、そう思います」

 

「あ、……もしかして、声に出てました?」

 

 彼女は沈黙したまま私から視線を外した。すみません、と謝ってすぐ、かわいいスカートだし、とっても良く似合っていますから、と慌てて付け足した。

 

「私もこれはお気に入りだったので、申し訳ないことをしたな、と思って」

 

「そうでしたか。残念でしたね」

 

 事実、彼女によく似合っていた。ふんわりと揺れ動くチュールがすらっとしたというより華奢な彼女の体型をカバーして心地が良い。それから差し色になっているレモンイエローのカーディガンのゆったりとした袖口、それが女子っぽくて可愛いらしい。スカートをあまり履かず、今日もシャツにスラックスの私とは大違いである。

 

 彼女はほかにどんな服を着るのだろう。ストライプのワンピースとか、ベイクドピンクのスカートとか似合うんじゃないだろうか。

 

「……てますか?」

 

「はい?」

 

「ハサミ。持ってますか?」

 

「あ、はい」

 

突然話しかけられて驚いた。自分から話しかけたのに意識がどこかへ行ってしまっていたとは先輩として情けないな、なんて思ったりした。しかしながら、ハサミ、ハサミか。突拍子もないその言葉にいくらかの疑問を感じながら、ポーチから折りたたみ式のハサミを取り出す。普段使うスリムなペンケースにも折りたためるものならと購入したのだが、結局入らなかった。面倒ではあるが、大きめのポーチに付箋やスティックのりと一緒に入れて持ち歩いている。たったいま取り出した円柱型のそれをケースにいれたまま差し出した。

 

「切りづらいかもですけど」

 

「いえ、大丈夫です」

 

 檸檬色のカーディガンから白磁の腕がすうっと伸びて、ハサミに触れる。中指の先と先とがあたって、爪の滑らかなカーブを思う。つややかな桜色に光る親指のそれが小さく震えるたび、セロファンを貼りつけているみたいにオーロラ色になってゆらゆら輝いている。

 

「ありがとうございます」

 

小さく首を揺らしているのを見て、会釈だったのかと気づくのに少しの時間を有した。その間に、彼女はおもむろに腰を曲げ、そして、チュールに刃を添わせていた。

 

「なにやってるんですか」

 

 思わず声をあげた。あげてから後悔して、顔に熱が集まっていくのを嫌でも感じる。視界がしらけて、手先が痺れていく。

 

「切っちゃおうと思って。このままじゃ、帰れませんから」

 

「でもそれお気に入りだって……」

 

彼女はちいさく揺れた。まっすぐな長い黒髪が風に攫われてみだらに踊るのを、耳にかけることなくそのままにして俯いていた。これ以上、言葉は紡げなかった。

 

「だって、そうするしかないじゃないですか」

 

ただひとことそう聞こえて、チュールは静かに悲鳴を上げた。

 

 

 

ありがとうございました、と彼女からハサミを手渡された。そうして一人歩いて消えていく背中をぼんやりと見ていた。

 

薄いそのレースを、わたしのハサミを使って切り裂いていく。前に進むのはつらかろう、時々くいとスカートをつまんでこらえるようにしている。傷口の三日月になるのをただ眺めている。

 

差し出されたハサミはさらに大きく揺れる。彼女の柔くしっとりした指のはらの冷たさにおかしくなってしまうかと思う。かたちばかりの感謝を述べるくちびるのつややかな、加えて伏せられた瞼と涙袋のぼかしたような、あかく染まったそれの、言いようのない、熱。視線が逸らせなくなる。喉元を絞められたように息ができなくなる。

 

あの瞬間に思う。ただ空虚なこころのなかを、ただわたしという存在で埋めてしまうことができたなら。その愁いを帯びた闇に、光を差すことができるだろうか。

 

──なにを、馬鹿な、ことを。

 

今ではもう過ぎたこと。影はすでに消え、存在の証明さえかなわない。名前も、学年も、学部もわからない。できることはもうない。ほら、もう声を思い出すことだって。

 

彼女の記憶が上書きされていくように、空にぶちまけられていたオレンジ色のペンキも濃紺で塗りつぶされていく。風はいっそう澄んだ香りに変わっている。金星がわたしを見つめている。……もうすぐ夜が来る。

 

レポートで悩んだり、授業の変わるのに高揚したり。そんな気持ちは風に吹かれて、土に埋もれて見えなくなる。だからきっと、あのひとのこともいつしか些細なことに成り果ててしまうのだと思う。そんな予感がしていた。

 

 

 

それでも私は、彼女のその表情を、後ろ姿を。

 

今でも鮮明に覚えている。

 

 

 

 

 

 

 

あとがき

 

 かなわない恋をします

 

 過ぎ去った過去に思いをはせます

 

これが私なりの憂いのかたちであります

 



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