閉じる


はじめに

「私は未だ、何も成し遂げていない」と、そう思って泣きそうになる夜がある。そんな時には、この第三福音書のことを考えることにしている。そうして、


「私は、ここで人類未踏の場所に辿り着いたのだ。私はこの書の中で『神とは何か』という問いに答えを出した。それは、これまで誰もやったことのないことだ。それを私は成し遂げた。それだけでも、今回の人生の意義は十分あったのではないか」


 と自分を励ますことにしている。


 したがって、この第三福音書には、私の存在意義のすべてが込められている。この書は、私の命そのものである。


 たしかに難解かもしれない。本書の内容を理解できる人は、もしかしたら誰もいないのかもしれない。


 また、教育的見地から言えば、このような書を著すことは、取り返しがつかないほどの“間違い”なのかもしれない。ただ本書を読んだだけで「自分は神を知った。これ以上なにも学ぶ必要もない」と思い上がる輩が、今後現れるかもしれないからだ。


 しかし、そうした危険を冒してでも、なお宗教史は、私に求めたのだ。この時代に「人間が神の認識に辿り着く」という、モニュメンタルな業績が打ち立てられることを。


 いや、それを神が求めたのだ。だから神は、その意図を裏書きするために、GW170817という徴を私に与えてくれた。すなわち神は、おのれの姿を「黄金」という形で顕わしてくださったのである。


 錬金術において、神とは黄金である。第三福音書は錬金術の書である。そして、それを著した私は、紛れもなく錬金術師である。


 それだから神は、救世主降臨予言の年(2017年)に、その年の私の誕生日(8月17日)に、無尽蔵な「黄金の生成」を告げられたのである。中性子星合体という天体現象によって、私の座標(170817)に黄金の徴を付けてくれたのである。

 

 錬金作業を成功させるためには星辰の力を借りなければならない

 

  ユング『心理学と錬金術』

   池田紘一、鎌田道生訳より


 私と神とは「黄金」を媒介にして一体となっている。だから人々よ、刮目して本書を見よ。これは神に認められた「奇跡の書」である。


序 弁証法としての錬金術

 

錬金術の正反合

 

 これから『ヘルメスの杖』は、上巻の「小錬金術」から、下巻の「大錬金術」に移行することになる。


 巻を改めたところで、もう一度「錬金術全体の過程」を確認しておくことにしよう。そのために、上巻の「分化から総合へ」で用いた、アンドレ―ア・アロマティコの文章を、もう一度ここで眺めてみたい。


 ただし今回は、同文を「ヘーゲルの弁証法」というフィルターを通して眺めてみたい。ヘーゲルの弁証法とは、正反合の流れ、あるいは、定立、反定立、総合、の流れである。

 

 アロマティコの原文(種村季弘監修)は次のようなものである。

 

 まずカオス状態にある物質を手に入れ、それを純化し(中略)物質を形作っているさまざまな要素を分離し、分類してから、もう一度調和のとれた形で統一し直さなければならない。


 これが物質を賢者の石に変える霊的作業である。

 

 これをヘーゲルの弁証法に当てはめてみよう。

 

 まずカオス状態にある物質を手に入れ

  =定立としての「混在的一者」

 

 それを純化し、物質を形作っているさまざまな要素を分離し、分類してから

  =反定立としての「自我の確立」

 

 もう一度調和のとれた形で統一し直さなければならない

  =総合としての「アルベド」

 

 これが物質を賢者の石に変える霊的作業である。

 

 


二つの座標の総合

 

 上記のように整理すれば、アルベドが、「混在的一者」という定立と、「自我の確立」という反定立との“総合”であることが、分かりやすくなるだろう。私がアルベドを「総合的一者」と呼ぶのは、一つには、こうした背景があるからである。


 さて「総合されている」ということは、そのうちに、定立と反定立の両要素を含んでいることを意味する。したがって、この場合は「アルベドは一者であることを保ちながら、そのうちに“分化した無数の自我”を含んでいる」ということになるだろう。


 むしろ「自我確立の経験を持っている者が、混在的一者のような“一者性”の体験を持つと、それが“総合的一者”たるアルベドの経験に昇華される」と言ったほうが正確だろうか。


 すなわち、自我の確立を経ていると、曖昧なはずの“一者化体験”の内実が、クリアーに、詳細に見えてくるということである。彼が見れば、一見茫漠たる眺めの中に、次第に無数の自我が浮かび上がって見えてくる、そういうことだ。


 もちろん、そうなるためには、「アルベド侵入」という、分化性と一者性を媒介する段階を、その前に踏まなければならない。そうした媒介過程を持たないかぎり、分化性と一者性は反目したままだからである。


 その点で私は、決して安易な話をしているのではない。やはり座標6,7,8、があってこその、座標9アルベド、なのである。


 いずれにしても、総合的一者の内実については、本文で詳らかにするつもりである。

 

 


アルベドは「賢者の石」にあらず

 

 ここでは先行して、一つの修正を施しておきたい。それはアロマティコが、どうやらアルベドのことを「賢者の石」と呼んでいることに関してである。「もう一度調和のとれた形で統一し直さなければならない。これが物質を賢者の石に変える霊的作業である」と。


 それというのも、賢者の石の別名は「赤い石」だからである。


 そもそも錬金術には「赤化」という言葉が用意されている。それが「ルベド」である。それはアルベドの次の段階にして、最高の段階である。私の「ヘルメスの杖」においては、座標10として扱われている真理だ。


 しかもルベドは、その内容が、結晶のような中心点を持っている。まるで石英(石)の結晶のように。


 したがって、要するにルベドは、赤くて石のような真理なのである。ここまでハッキリ言っているのである。であれば、これをもって「赤い石」たる「賢者の石」と呼ばないのは、明らかにおかしいことだ。


 どうせだから、ここで明確に定義しておこう。賢者の石とはルベドのことである、と。

 

 


不滅の霊薬

 

 アルベド(白化)の錬金術的象徴は、どちらかと言えば「エリクシル」であろう。


 これは白い液体であり、不滅の霊薬と呼ばれている。飲めば永遠の命が与えられるということだ。また「自我の確立」を、神の体の“ヘソ”と喩えた私としては、アルベドの象徴としてのエリクシルを“母乳”に喩えずにはいられない。


 なぜならアルベドは、人体に当てはめれば“胸の高さ”にある真理であり、なおかつ、それは“霊的な母性”の表れだからである。これは「恩寵の原理」を読めば、すでに明らかであろう。


 そして、母の胸から出る白い液体と言えば、それは母乳に他ならない。つまりエリクシルとは霊的、神的な母乳なのである。


 ギリシア神話によると、幼児ヘラクレスに掴まれた女神ヘラの乳房は、その痛みのために揺れ、夜空に母乳を撒き散らしたという。それがミルキーウェイ(天の川)になったというのが神話の顛末である。

 

 だから夜空を見上げ、天の川の荘厳さを眺めれば、神的な母乳の何たるかが“雰囲気として”伝わるかもしれない。


 また、もともと水(液体)は、火(男性原理)と対照的な象徴である。つまり古来から、水は「女性原理の表れ」として用いられてきたのである。


 しかも、その水が白いというのだ。よって、エリクシルを“女性原理の最大表出である”アルベドの象徴と考えることに、議論の余地はないだろう。

 

 


今後の流れ

 

 さて、アルベドは、小錬金術としては「総合」にあたる。つまり、混在的一者(定立)と自我の確立(反定立)を総合したものである。


 しかし、その同じアルベドが、大錬金術では「定立」となる。すなわち、弁証法における第一段階である。

 

 その定立としてのアルベドが、今度は反定立としての「更新されたニグレド」を呼び寄せる。この更新されたニグレドは、またの名を「虚無」という。


 そして、定立としてのアルベドと、反定立としてのニグレド(虚無)が総合されて、ついに「ルベド」が現出する。小錬金術でも「正反合」の流れがあったが、大錬金術で再び「正反合」が繰り返されるのである。


 これが基本的な本書「大錬金術」の流れだと言えるだろう。


座標9 アルベド

 

 あらゆる色を内包する一つの色、すなわち白色に変ずるかである。これによって作業過程の最初の主要目的が達成される。つまり「アルベド(白化)」「白色チンキ」「白色葉土」「白色石」等が得られる。


 そして、これだけでもう目的のすべてが達成されたとでも言わんばかりに、この状態を高く評価する錬金術師たちも多い。


 とはいえ実際にはこれは銀ないし月の状態にすぎず、この後なお太陽の状態にまで高められなくてはならないのである。「アルベド(白化)」はいわば夜明け前の薄明()であって、「ルベド(赤化)」に至ってはじめて日の出になる。

 

  ユング『心理学と錬金術』
   池田紘一・鎌田道生訳より

 

 

ユングはこのように言うが、アルベドを太陽になぞらえるならば、むしろ「真昼の白日」と言ったほうがいいだろう。というのも、アルベドは、すべての影(黒)を救済の光で包み、光一元の世界をつくるからである。


 であれば、疑いようもなく、夜明け前の薄明よりも、真昼の白日のほうが、それを象徴するのに適している。真昼に南中した太陽のもとでは、地面は、ほとんど影を作りようがない。つまり、そこには、ほぼ暗い要素が存在しないからである。


 ただし、太陽の状態になぞらえるとき、ルベドが日の出であることには異議はない。ルベドはまさしく曙光であり、暁である。それは暗闇からの光の創造であり、夜からの黎明の創造である。


 もっとも、時系列的には、たしかにユングの「夜明け前→日の出」が自然だろう。そこでは時間がちゃんと順行している。


 それに対して、私がいう「真昼→日の出」だと、時系列を逆行することになる。これは不自然といえば、不自然な話である。


 とはいえ、今論じているのは、飽くまでも霊的な象徴の話なのだ。そこに自然科学的な常識を持ち込んでも仕方あるまい。


 なんとなれば、私たちはルベドにおいて、現代から、世界創造の瞬間にまで遡るのである。それは少なく見積もっても138億年分の逆行となる。それに比べたら、真昼から日の出から逆行するなど、訳もない話ではないだろうか。


第1章 空間的に見るアルベド(無限)

 かの一なるもの永遠にして、多に分かたる、
 しかも一にして、永遠に唯一つなり。
 一の中に多を見出し、多を一のごとく感ぜよ。
 さらば、芸術の初めと終わりとを会得せん。

 

  『ゲーテ詩集』高橋健二訳より 
 


(1)ヘン・カイ・パン(全にして一)

恩寵の続き

 

 では、座標8,9の続きを話すとしよう。胎児化した主体と、霊的な母性原理の表れとなったアルベドが、妊婦(子宮内胎児)のように合一した後の話である。

 

 そのとき主体の心には、アルベドの内容がなだれ込み、これまで想像もつかなかった光景が現出する。


 では、主体はそのとき何を見るのだろう?


 まず空間的に見れば、それは「無限」である。そのときの主体の実感としては、宇宙の存在すべてが、彼の意識になだれ込んでくるようなイメージだ。しかも彼の意識は、それを容易に受容できるほど、無限界に拡大してゆくのである。


 ついには、宇宙の存在すべてが主体の心を満たす。事実、無限に含まれない存在はないので、そこには“全て”が含まれている。逆に、存在の“全て”を数え上げたら、それは「無限」と呼ぶしかあるまい。


 ただし、その「全てである無限」は、同時に「一つのもの」でもある。


 このように言うと、おそらく読者は混乱してしまうだろう。しかし「無限であり、かつ一つである」というこの矛盾は、もっとも大切な、アルベドの空間的特質なのである。

 

 


無数に砕かれた一つの岩

 

 喩えて言ってみよう。


 一つの岩を砕けば、そのとき石が複数できる。その石は「一つ、二つ、三つ」と数えられる。


 その複数の石を砕けば、さらに石の数は増える。礫(小石)と呼んでよいそれは、一応「何十、何百」と数えられるだろう。かなり骨は折れると思うが、無理ではない。


 しかし、こうした礫が“砂”になるまで、砕ききればどうだろう。礫を砕いて、砕いて、砕きつくすのだ。そうすれば当然、砂の数は、どうにも数えきれないものになる。


 この場合、計測者の“心理にとって”その数は、まるで無限大のように多く感じられることだろう。

 

 地道に歩行者の計測をしていられる者も、無数の砂相手では、さすがにカウント計を投げ出してしまうに違いない。そういう意味で、そこには一種の「無限」が現出しているのである。

 

 


砂を集めた一つの岩

 

 ところがだ。その無数の砂を集めて、機器でもって圧縮したとする。すると、そのとき眼前に現れるのは、たった一つの「砂岩」なのである。


 そこには難しい技術が必要になるかもしれない。しかし実際にその「砂を集めて圧縮する技術」を持っている者にとっては、無限大とも思われた砂は、たった一つの砂岩なのである。


 そのように、無限のものを「それを包括的に眺められるだけの視野」を持った者が眺めると、それはむしろ一つに見える。つまりアルベド体験者にとっての無限は、そのまま“一なるもの”になりうるのである。


 このことを、古代のギリシア人は「ヘン・カイ・パン」と表現した。「全にして一」という意味だ。かかる「ヘン・カイ・パン」は、古代ギリシアに憧憬を感じていたヘーゲル、シェリング、ヘルダーリンの合言葉としても知られている。


 とくにヘーゲルが説いた絶対精神(神)は、無限にして一なる「アルベド的な神」であったと言うことが出来るだろう。

 

 


他の微生物を食べるアメーバ

 

 もう一つ「無限にして一なるもの」の喩えの仕方があるとすれば、次のようなものだろう。


 小さな容器があり、そこに100匹の微生物が入れられているとする。微生物は何事もなく動き回っていた。


 ところが、そこに新種のアメーバが一匹放り込まれた。アメーバも、もちろん微生物である。


 しかしこのアメーバは大変貪欲で、他の微生物を、どんどん自分の体内に取り込んでしまう。つまり、もといた微生物たちは、みなアメーバに食べられてしまう運命なのだ。


 そうして、もともと「100匹の微生物とアメーバ」だったものが「80の微生物とアメーバ」となる。

 

 さらにそれが「50の微生物とアメーバ」となり「10の微生物とアメーバ」となる。その間、アメーバの体は、取り込んだ微生物の数ぶんだけ大きくなる。


 そしてついに、アメーバが、微生物の“最後の一匹”を取り込んだとする。すると当然、そのとき容器の中にいるのは、アメーバ一匹である。


 その一匹のあとに数えられる“数”はない。しかし、その一匹は、もはや微生物とは呼べないぐらいの大きさになっている。アメーバは大いに太ったのである。

 

 


一の次に数えるべき数がない

 

 アルベド体験者は、無限という規模で、このアメーバと同じことを行う。つまり、無限のものが主体の心に取り込まれて、ついには相対者がいなくなるのだ。一人である彼の次に、数えるべき何者もいなくなる。彼は、自ら無限を吸い込んで一となる


 というよりは、アルベドの座標には、常に、そういう「無限を包括する一者性」が存在しているのだ。


 しかし、そこに新参者として合一した主体にとっては、少し事情が異なる。

 

 すなわち彼は「無限を包括する一者性」と完全なるシンクロが果たされるまでの間、上記のような「吸収拡大ストーリー」を味わわなければならない、ということである。


 そして実際に、そのような吸収拡大を経て、主体が、完全にアルベドとシンクロしたとする。これによって“そこでは”主体である一者だけがあって、その次を数えられる何者もいなくなってしまう。


 そうだとすれば、主体は純粋な「一なるもの」である。一から先(二以降)を持たない、彼と並ぶ者を持たない、ゆえに相対するものを持たない「絶対的な一」である。


 しかし、その一が無限と同じだけの重みをもっているのもまた事実である。だからこそそれは「無限にして一」とか「全にして一」という風に表現されるのである。



読者登録

正道さんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について