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長島(5) 《妖怪》対「聖なる同盟」

長島(5) 《妖怪》対「聖なる同盟」

 

  「森や野村なら、の野球観」というものがある。「マルちゃんのレフト起用は、野村さんや森さんなら絶対やらない」という態の野球観である(長島(4) 流れをつくる《手》参照)。「この野球観」の密かな跳梁跋扈ぶりは「長島(4) 流れをつくる《手》」や「長島(3) 唯我独尊」の中で取り上げた。「この野球観」とは対照的な(とされている)、「試合下手な、老いた監督」が掲げる「唯我独尊」野球に対しては、折りに触れて「追悼の密勅」が下される。非正統であり、「宇宙人スタイル」(長島(3) 唯我独尊)であり、常人の理解の及ばない存在は《妖怪》とされ、討伐の対象に選ばれる。そしてこの討伐に加わるのは純正の「森や野村なら、の野球観の徒」ばかりではない。

  

  「長島(4) 流れをつくる《手》」の中でこう述べたことがある。

  

(「森や野村なら、の野球観」は)時には長島ファンでさえ、野球を語りつつ、意識的にか、無意識的にか、拠って立っており、それに拠って立つしかないかに思われる野球観である。

 

 実に「この野球観」は長島ファンにまで根を張っている。その格好の実例を「自称」長島ファンの言動に見ることができる。「森や野村なら、の野球観」に立って世を見渡せば、今なお止まない長島の不撓の活躍ぶりはある種《妖怪の徘徊》に見紛いもするが、長島ファンと自称するこの人物も、長島に《妖怪=討伐の対象》を見て取れると思わされている。

  

  ところが、「私は長嶋さんと同年のファンの一人として、(続投決定を)めでたいと祝う気分にはどうしてもなれない」と語るこの人物は、自分が見ているつもりのものは幻影ではないし、見えていると感じている意識は夢の中の意識でもないと確言できるほど自身の判断力に自信を持てないことを、更に、あるものが見えていると自分では思っていても、《私にはそれが見える》、と明言するだけの気概を欠いていることを端無くも露呈することになる。

  

  同類の挙措言動に出会ったことがある。既視感ではなく、実の体験だ。その時の印象を私は次のように書いた。

  

相対峙していると見せかけながら、実際には居所を相手に知らせずに射かける狙撃者/実は対局者であるのに「岡目八目の物言い」を装う…
(長島(4) 流れをつくる《手》)

 

  この人物は一見そのそぶりを毫も見せず《妖怪》払いに取り掛かる。

 

 たまたま、ナベツネさんの留任発言があった翌二日、TBSラジオの早朝人気番組「森本毅郎スタンバイ」で、続投の賛否を電話でリスナーに問うた。私もパーソナリティーで居合わせたが、賛否は半々だった。

  反対派は、監督としての技量に疑問を持ち、「強い巨人」をつくるために辞めるべきだという意見が目立ったが、賛成派にも、

 

「私はアンチ巨人なので、続投は大賛成です。よい選手がそろっているにもかかわらず、長嶋監督が動くといつも負けてくれるので、これはぜひ続投でしょう」(川崎市・四十一歳・男)

というのがあった。
(「岩見隆夫のサンデー時評:辞めたほうがいいです」『サンデー毎日』1999年9月19日号)(太字強調は引用者。以下、太字強調はすべて引用者。)

 

  《妖怪》退治の錦の御旗は地を埋め尽くして林立し、《妖怪》を攻囲しているかに思える。名高い一節が浮かんだ。

 

一匹の妖怪がヨーロッパを徘徊している。共産主義という妖怪が。古いヨーロッパのあらゆる権力、教皇にツァーリ、メッテルニヒにギゾー、フランスの急進派にドイツの警察が、この妖怪の追討という聖なる目的のために同盟を結んでいる。(『共産党宣言』横井順訳)

 

  「共産主義」を攻囲した連合軍は「教皇にツァーリ、メッテルニヒにギゾー、フランスの急進派にドイツの警察」であった。牽強付会の気味を承知の上で、現代の日本を徘徊する《妖怪》の追討に立ち上がり、錦の御旗を掲げる聖なる同盟を以下に紹介する。攻囲陣の実態をお目にかけられるはずである。

 

  先陣は「教皇にツァーリ」ならぬ「浦和市・五十歳・男」と見えるが、実は「浦和市・五十歳・男」を楯にした岩見隆夫である。見かけのこうした繕いに隠された事情についてはやがて明らかになる。こうした「繕い」と「森や野村なら、の野球観」との関係も。

 

「多分、長嶋さんに辞めてほしくないと言ってるのは四十代以上の人だと思うんです。いまの若い子たちに長嶋ファンはほとんどいないんですよね。これから巨人ファンを支える若い人たちには、やっぱり強い巨人じゃないとだめだと思います。だから勝てない長嶋巨人じゃだめです。いますぐ辞めるべきだ」(浦和市・五十歳・男)

世代論である。若いファンには長嶋さんに対する人間的な思い入れはなく、同情心もない。試合下手な、老いた監督としか映っていない。(同コラム)

 

  「相対峙していると見せかけながら、実際には居所を相手に知らせずに射かける狙撃者」(長島(4) 流れをつくる《手》)の手口である。「五十歳・男」に「若い子たちに長嶋ファンはほとんどいない、強い巨人じゃないとだめ、勝てない長嶋巨人じゃだめ」と言わせ、その「五十歳・男」を前に押し出し、遮蔽物としながら、狙いは、「若いファンに(長嶋は)試合下手な、老いた監督としか映っていない」という陰からの一撃である。

 

  もっとも、この一撃も遮蔽物の陰に体をすっぽり隠したまま、腕だけ高く掲げての銃撃に似て、到底、的の近くに弾が飛んだとは思えない。長島の「試合下手」は検証されていないし、これからも当分検証されそうにはない。というのも、長島の指揮と、他の諸監督の指揮を比較検討し、監督としての仕事ぶりの優劣を検証するという類の作業を行おうというプロ野球関係者(プロ野球解説者を含め)が近々現われようとも思えないからだ。

 

  結局「試合下手」とは「優勝できない」と同義でしかない。それなら話は早い。「優勝できなかったからやめるべきだ」と「優勝できなかったが続けるべきだ」という主張同士、声を張り上げ合うまでのことで、声の大きいほうの勝ちだ。

 

  このことに比べれば、長島が老いているのいないのは些末な問題である。長島は60を過ぎているから老いてもいよう。問題は肉体年齢ではなく、精神の問題であって、長島には若いころのような野球に対する情熱がもはやないし、選手を怒鳴り散らし、時には殴るだけの気力も激しさももはや失われている、というのであれば、長島の野球に対する情熱は常人(現役の選手を含めた他の野球関係者)の比ではないし、声を張り上げることも怒鳴り散らすことも、殴ることだって相変わらずそれが必要であり、その気になれば今の長島にはできるし、機に臨んでは怒声をあげ、腕を振り回し脚を蹴り上げているだろうし、そもそも選手を怒鳴り殴ることと、優勝することには何の関係もない、という自明の事実を指摘しておくだけだ。

 

   岩見は何故直言しないのか、「私には長嶋さんは試合下手な、老いた監督としか映っていない」と。「長嶋さんと同年のファンの一人」(岩見の同コラム)であり続けながら、「長島監督は選手としては最高なんですが、監督としては…」(長島(3) 唯我独尊)と言うことに何の差し障りもないのだから。ただし、ここでも一言言っておかねばならないのは、「監督としては…」には "I am a dog."ほどの意味しかないということだ。

 

  第二陣は「メッテルニヒにギゾー」ならぬ「川崎市・六十一歳・女」と見え、ここでも実は「川崎市・六十一歳・女」を楯にした岩見隆夫である。

 

「続投は歓迎だと思いますが、選手がミスをしたときは、ガツンと怒るというきつい態度を示してほしい。ちょっと温和すぎるのではないでしょうか」(川崎市・六十一歳・女)

ファンは一見、やさしい。温和すぎる、(ほかにも同類の批評があった)と好意的に表現する。厳しさに欠ける、とは言わない。しかし、これはもはや同情心でしかなく、勝負師の姿を長嶋さんに見ていない。(同コラム)

 

   長島のどの部分をどの角度から見れば温和に見えるのか。テレビ番組に出演しているにこやかな長島、どんな場合にも、どんな相手にも、元部下や若年の相手にさえ礼儀正しく、丁寧な言葉遣いで明るく饒舌に、時には言葉の展開にいささかの破綻を示しつつも意に介することなく滔々と語る私服姿の長島のことを語っているとしか思えないこのおばあちゃんの感想を、岩見は旗印に押し立てる。

 

   しかし、ここでも岩見は「私は長島は厳しさに欠けると思っている。私は勝負師の姿を長島に見ることはできない」とは明言しない。思ってはいても明言しない岩見に対抗する次のような声は当然のことながら引きもきらない。「私は長島は厳しさに欠けると思わない。私は勝負師の姿を長島にこそ見ることができる」。

 

   続くは「フランスの急進派にドイツの警察」ならぬ「栃木県小山市・三十五歳・男」、ここでももちろん実態は「栃木県小山市・三十五歳・男」を楯にした岩見隆夫である。

 

  「自分から来季は身を引くように申し出るべきでしょう。マンネリ化しすぎている気がしますよ」(栃木県小山市・三十五歳・男)(同コラム)

 

  岩見は決して自分の言葉では語らない。「私にはマンネリ化しすぎている気がする」とは。岩見に対抗するかのような声がそここから聞こえる。「長島はいつになってもぶっ飛んでる。」

 

   こうして三鋒を揮った後、岩見は続ける。

 

三つの意見とも同感である。(同コラム)

 

   なぜ自分の旗印を掲げないのか。「三つの意見とも実は私の意見である」と。そう、なぜ自分の旗印を掲げないのか。私は以前次のように書いた。

 

「私は野村や森と野球観を共有している」と初めに一言述べさせることを妨げているもの、自分の拠って立つ場所を隠したまま、実は対局者であるのに「岡目八目の物言い」を装わせるもの、恐らくそれもまた広く根深く浸透している「野村や森なら、の野球観」である。(長島(4) 流れをつくる《手》)

 

  岩見にも「野村や森なら、の野球観」が「憑いている」。それだけのことだ。

 

  さらにこんな思わぬ遊軍が控えている。

 

六月十一日(金)から始まる甲子園での阪神・巨人三連戦を前に、TBSテレビ「ニュース23」の中で巨人、阪神に一言というインタビューを一般人を対象に行っていた。中学生ほどの肥えた男の子(余り利発そうには見えなかった、といえば偏見の優った見方だが、スポーツとは比較的縁が薄そうであった、というのは外見から下せる十分蓋然性のある判断だ、と思う?!)がインタビューに応えて、「巨人は監督がねえ」。インタビュアーの「長島監督の偉大さを知っているんですか」に対してその少年は「長島監督は選手としては最高なんですが、監督としては…」。(長島(3) 唯我独尊)

 

  攻囲されている《妖怪》は、「選手としては最高なんですが、監督としては…」の長島である。「その人柄はいいのだが、監督としての手腕となると、…」、そんな《監督としての実態を欠いている》と見なされている愛すべき長島。《妖怪》とは「実態を欠いた(と見なされている)存在」であった。

 

  「と見なしている」のは何ものか。

 

  《妖怪》追討に立ち上がった「聖なる同盟」の攻囲陣か。攻囲陣の「軍勢」とされている「浦和市・五十歳・男」、「川崎市・六十一歳・女」、「栃木県小山市・三十五歳・男」、あるいはその陰に隠れた岩見隆夫なのか。「長島監督は選手としては最高なんですが、監督としては…」と語る「中学生ほどの肥えた男の子」なのか。

 

「マルちゃんのレフト起用は、野村さん(阪神監督)や森さん(前西部監督)なら絶対やらない。たまたまうまくいっているけど、拙守が原因で落とす試合がいくつか出てくると思う。少なくとも投手には精神的に大きな負担になっているはず」と語る「巨人担当記者」(長島(4) 流れをつくる《手》)

 

なのか。

 

   いずれもその「何もの」には該当しない。遊軍を含め、実際に攻囲の配置についている(実体は、「つかされている」)軍勢のいずれにも自立的意志は欠けている。長島に《監督としての実態を欠いている》という宣告を倦むことなく下し続け、「中学生ほどの肥えた男の子」のみならず、彼ら一同が我知らず《妖怪》討伐の攻囲の陣形につくよう導いたその姿を現さぬ「何もの」か、それをこそ紛れもない『妖怪』と称さねばならない。

 

  共産主義討伐に立ち上がった「聖なる同盟」は今や歴史的存在と化した。共産主義もまた、と断ずることは今は控え、《妖怪》と『妖怪』がこれから辿る道筋を楽しみに見つめることにする。

 

 

 記 99年10月4日

 


この本の内容は以上です。


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