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三浦逸雄の世界(四十六)

三浦逸雄「月のもとに」8号(アクリル・紙)2019


敗戦直後の日々     神宮清志

 

   学校が再開されて 

早くも秋の風が肌に心地よい九月はじめに学校へ登校した。しかしそれまで陸軍が使用していた校舎はまだ荒れ放題、学校の態をなしていなかった。ある教室には木刀が山と積んであり、それを見つけた上級生が剣鍔(けんつば)を取って、ポケットにしまっていた。泥棒のし放題だったのだ。それとその頃のすさんだ空気には、剣鍔を集めることが好まれていた。 

それから少し経ったある日、わたしたちは一つの教室に集められて、音楽の授業を受けた。生徒は一学年に三〇人も居ただろうか。どういうわけか机と椅子がまったくなかった。床の上に座って車座になり、先生を見上げていた。女の先生が黒板に歌詞を書いて、ピアノで曲を教えてくれた。みなは大きな声で合唱した。 

 

土手のすかんぽジャワ更紗 昼は蛍がねんねする 

僕ら小学尋常科 今朝も通ってまた戻る 

 

この歌を先生の指導でなんとか覚えたわたしたちは、何度も繰り返し歌った。声を揃えて思い切り大きい声を出して歌った。このときの明るい気分を忘れない。いかにも平和になったという実感が充ち満ちた瞬間ではなかったかと思う。というより小学校へ行ってから、音楽の授業を受けたという記憶がなかった。みなで合唱するという楽しさは戦後にこそはじまったのだと思う。その最初の歌がこれだった。 

 

少しずつ学校の授業が始まりつつあるころ、わたしたちの一家はまた引っ越すことになった。兵隊にとられていた若者が復員してくることになり、わたしたち一家が借りていた家を空けなければならなくなったのである。農家の親切にすがって暮らした牧歌的な日々が過ぎて、戦後の混乱からしだいに回復してゆくなかで、いよいよ極貧を余儀なくされた少年時代を迎えることになる。戦争中はみな命の危険を感じながら、同じ運命共同体の中で暮らしていた。そうした桎梏が取れて、しだいに貧富の差が現れ、屈辱に耐えて生きることになる。 

船橋から宮坂二丁目に引っ越したのは敗戦の年の秋、わたしが小学校三年のときである。そこは小田急線「豪徳寺」と「経堂」の中間点のやや豪徳寺寄り、当時の我が家は崖の上にあり、その北に畑が広がり小川が流れていた。一台の馬車に荷物を積んで、この家に到着したときの母の暗い顔を覚えている。わたしもまた暗い気持ちになった。ひどいボロ家だったからだ。白いモルタルの外壁はあちこちで剥げ落ち、下見板が剥き出しになっていた。玄関の柱は腐って、ガラスの割れた引き戸を開けるのに苦労する状態、とても玄関といえるものではなかった。その家は八畳・六畳・三畳の三部屋があり、三世帯七人で住んだ。 

経堂小学校には毎日のように疎開先から帰ってくる生徒が現れ、その都度机を入れたり落ち着かなかった。戦後最初に担任として登場したのが、山田義春先生という若い特攻隊がえりの熱血漢である。この先生にわたしは好かれなかった。体が弱くよく休んだのと、すこぶる意気地がなかったのがいけなかった。もっともこれでは誰にも好かれなくて当然だったかもしれない。しかし殊のほかわたしには厳しく、つらく当たるように感じた。 

教科書が無くて、とりあえず先輩のお古で間に合わせることになった。しかしそれを手に入れるのが容易ではなかった。あの手この手を使ってなんとか入手したり、場合によっては書き写したりした。しかし戦争中の教科書は内容に問題があって、上からの指導で直す必要があった。とくに国語などが問題で、紙を貼るように指示されたページがたくさんあった。紙を貼るのが大変で、後には墨で塗りつぶしたりした。 

秋も深まるにつれて生徒の数がますます増えてゆき、教室に入りきれないくらいになった。一つの机を三人で使うようなことにさえなっていった。三学期になって、いよいよ教室にあふれるようになってくると、低学年については午前と午後の二部に分けて、四時限ずつの授業を行った。先生も大変な仕事だったにちがいない。 

四年になると二クラスとなり、わたしたち二組には金川朝茂先生という静かで優しい先生が担任になられた。戦争が終わった翌年以後、先生方も少しずつ増えていった。教室も少しゆったりして、しだいに整えられた。クラスメートも大人しい目立たない生徒たちで埋まった感があり、わたしは学校が好きになっていった。   

飢えに苦しむ

いっぽうこの三、四年のころがもっとも飢えに苦しんだときである。一日一食が普通で、それさえ満足に食えないことがあった。母は袋貼りの内職で細々と稼いでいた。この作業をわたしもよく手伝った。やがて栄養失調で鳥目になった。夕方遅くなって学校から帰るとき、あたりが真の闇のようになり、ほとんど見えなくなった。うちの近くは道がひどく悪くて、ただでさえ歩くのに困難なところである。ぬかるみを歩いていて、足元が見えないのだ。ここで挫けてはならないと自分に言い聞かせて、真剣にうちへたどり着いた。遠くに見える電灯と、うちの屋根に当たったわずかな光が頼りだった。 

またあるとき、足に怪我を負った。膝のあたりから血が流れた。その血の薄いこと、水に赤の絵の具を溶かしたようだった。どくどくと流れるというのが普通だろうに、すーっと何の抵抗もなく痩せ細った脛を伝って流れ落ちた。これを見た大人がもう駄目だとささやきあっているのが聞こえた。子供が死ぬときは、昨日まで普通にしていたのが、あっという間に死んでしまうものだ。そうしたことが周辺にもあった。わたしは死のすぐ近くに居たことは間違いない。 

やや太った子供が居て、ときどき一緒に遊んだ。名前が定かではないが、あるいはイシバシ君といったような気がする。寡黙で大人しく目立たない少年だった。彼は力なく歩き、表情が乏しく生気がなかった。一緒にどこかへ行くことがあった。蓋の取れた陸軍の水筒を持っていて、その蓋の代りに親指を差し込んでぶら下げていた。唯一の宝物のように大事にしていた。その彼が死んだと聞いた。飢えて死んだのである。太っていると思っていたのは、むくんでいたのだ。あのだるそうな歩き方、光りのない目つきを思い出す。 

そんな折り、うちの庭に一匹のかえるが居た。それを捕まえると、腰のところから切って、脚を火にあぶって食べた。白身の肉が太い骨からぽろぽろととれて、くせのないいい味だと思った。そのかえるの脚一本で、わたしの命がつながったのかもしれない。翌朝、かえるのギャッギャッという鳴き声を聞いた。見ると昨夜食べたかえるの上半身が、前脚で一メートルくらい歩いて臓物を引きずっているのだ。わたしに命を与えてくれたかえるの凄絶な姿は、今でもはっきりとよみがえってくる。 

あるとき金川先生がうちを訪れ、一合の米を差し出した。これは学校の困った生徒のために届けられたものだけれど、神宮君に食べてもらおうと思って持ってきた、という意味のことを言われた。その優しい目を忘れない。母は何度も深くお辞儀をした。この米は貴重品で、何度にも分けていろいろなものを混ぜて食べた。 

配給制度があって、近所の数軒毎に班分けされ、食料品を分け合って受け取った。配給品の中には、家畜の飼料である「ふすま(小麦の皮の屑)」とか、大豆粉といったものがあった。大豆粉というのは、大豆油を絞ったあとの大豆粕を粉にひいたもので、ふすまと並んでもっとも食べにくいものである。とうもろこしの粉が比較的食べやすいほうで、フライパンで焼いて食べた。フライパンにひく油がないので、かぼちゃの葉を敷くとくっつかなかった。外米という代物も食べられたものではなかった。 

米軍の放出品であるベーコンの缶詰は、上等品の中の上等品である。同じ放出品の中に、チョコレートがあったけれど、食べているうちに中から虫が出てきた。ベーコンも缶詰の缶が錆びていたし、とっくに期限の切れた不良品が回されたらしい。これが副食品とかお菓子として食べられるという状況ではなく、それだけで何日分の食糧配給品なのだ。配給はしばしば遅配になり、ときには欠配になることさえあった。 

それを補うのは買出しと闇市の品々である。人々は大きなリュックに食料品を詰めてどこかから帰ってきた。うちの母も残り少ない着物を持って農家に何かしら食べ物を分けてもらいに行った。芽の出たサツマイモを貰ってきたこともあった。それで五日くらい食いつないだ。それが無くなるとなんとも心細かった。 

小田急線豪徳寺駅と東急世田谷線(当時は玉川線)山下駅の間が闇市となり、もの凄い活況を呈していた。見ているだけで面白かったので、毎日のように闇市をうろついた。新鮮な魚とかこんにゃくあるいは偽の甘味品、あらゆるものがあふれていた。客を呼ぶ売り声が飛び交い、賑やかな光景が毎日繰り広げられた。 

父親の居る家庭では、それらによって食卓が豊かになっていったようである。しだいにその差が出てくると、かえって空腹感がいや増すのだった。「赤いリンゴに口びるよせて」という唄が大流行したが、腹が減った身には、妙に心にしみるものがあった。 

配給の粉食が次第に食卓に載るようになり、いかに不味いとはいえ栄養にはなる。ひどいものばかり食べているのに、またあるとき怪我をして出血したら、どくどくと濃い血が流れた。そのとき命が助かったのだという実感をもつことができた。本当にひどいものしか食べていないのに、とそのとき不思議な気がした。どんなものからでも滋養は取れるものなのだ、と今でも思う。ちなみに庭に生えてくる雑草で食べられないものはない。毒草でない限り、食料にはなる。ただし不味いばかりでなく、あくが強くて食べにくい。調味料とか、食用油があれば、結構食べられるところだが、塩しかないので調理のしようがなかった。塩といっても薄汚れた岩塩の塊が配給になり、それを水に溶かしたものを使っていた。 

極貧の中で

 三年のときは一学年に一クラスだったが、四年になると二クラスになり、五年になると三クラスに増えた。わたしは三組・島良一先生のクラスになった。島先生は絵の先生で、わたしは絵が得意だったので、それまでほどには劣等感を増幅しないで済んだようだ。「青葉展」という展覧会が毎年行われ、そこで「金賞」を得たことがあった。小学校時代を通じて一番嬉しかったことである。このとき、それを決めるために各教室を委員の先生方が回って歩いた。わたしは美術部だったので同行していた。このとき正善達三という先生が、わたしの絵を暖かみがあると賞賛してくれてすぐに金賞に選んでくれた。この言葉も本当に嬉しかったし、その後ずいぶん励みになったことは確かだ。絵の道具がほとんどなく、クレヨンとクレパスを教室の中で拾って使っていた。そのためクレヨンとクレパスを混ぜて使い、手元にある色だけで絵を描いていた。それでも充分に楽しかった。クラスの中にはすでに高級な水彩とかパステル画を描く者も現れていた。 

母はうちでやる手内職をやめて、工場勤めに出るようになった。「同愛会」という袋とか造花を製造する会社で、うちからすぐ近いところにあった。忙しいと晩くなることも多くなってきた。そこでうちの掃除とか夕食の支度などはわたしの仕事になった。 

あの当時の一般の小学生には靴下に縁がなかった。上流階級のお坊ちゃまお嬢ちゃまが、もっぱら履いていた。わたしたちはひたすらつぎの当たったぼろ足袋を使っていた。しかしそれも途切れがちであり、一冬素足で過ごしたことがある。銭湯に行くことは稀で、年に数回であった。極貧とはそうしたものである。 

そのころは今と違って、冬の寒さはより厳しく、朝起きたとき部屋の中で零下二度になった。霜は厚く降りて、それが融ける昼間は道がぬかって歩きにくかった。そんな中で素足で生活することのつらさは想像しがたいと思うが、案外慣れてしまえばそれほどでもないものだ。「人はどのようなことにでも慣れることの出来る存在である」とは、ドストイェフスキーが『死の家の記録』の中で書いている。まったく同感である。 

貧そのものは慣れることも耐えることもできる。しかし、問題は「貧ゆえの」というところだ。貧はしばしば人の軽侮の的になりがちである。これは耐えがたいし、慣れるということはなかった。心の傷は癒しようがないものがある。哀れな存在というものはときに苛めの対象になる。哀れなものを見ると人は苛めたくなるという、いけない習性がある。自分がその対象になってしまうことのつらさ、これは耐え難い。そればかりか深い心の傷がいつまでも残る。 

素足で歩いていると、その姿に哀れさを感じて、ときに同情の言葉がかけられる。「まあ、可哀相に」といった近所の奥様の言葉にも、したたかに傷つくのだった。そうした言葉には一つの優越感が隠されており、そのことを敏感に感じると同時に、劣等感をいやがうえにも刺激されることになってしまう。 

ノミ、シラミにはずいぶん悩まされた。ノミとシラミに食われた跡が皮膚一面に残り、人前で裸になれなかった。シラミにたかられると、たちまち下着の縫い目に卵を生みつけ、それが孵るといっせいに血を吸い出す。その痒さはたまらない。シラミ退治にはいくら時間があっても足りなかった。回虫にもこの当時はみなやられ、何十匹も出ることがあった。DDTもお馴染みだった。それを体中に吹きかけられ、真っ白になったこともある。 

遠足、修学旅行、卒業写真といったものも縁が無かった。いつもわたしだけが欠席した。そのため記念写真というものがまったく残っていない。正月に小遣いを貰うことはなかった。正月のように子供達の喜ぶときが、もっともつらいときだった。 

稼ぐ必要に迫られて、仕事をした。生まれてはじめてやった仕事は行商である。石鹸を売って歩いた。三〇円で仕入れて、四〇円で売った。これがいっこうに売れないのである。よそのうちに行って「石鹸を買ってください」というと、必ず断られた。いつまで歩いてもいっこうに買ってくれるうちはない。とうとうわたしは知り合いのおばさんのうちに行って、買ってもらった。 

わたしが行商をしていることは、たちまち学校のクラスの一部に知れてしまった。それを揶揄軽蔑する生徒が現れたとき、断固阻止してくれたのが山下武雄君である。山下君はわたしの仲良しの一人ではあったが、クラスの中で強いほうでもなく、勉強ができるほうでもなく、リーダーシップの取れる位置には程遠い存在だった。にもかかわらず彼の真剣な説得で、わたしへの蔑みはぴたりと止んだ。あるとき乱暴な少年が汚いたびを履いた足を、転がったわたしの鼻先に突きつけてきた。そのとき塩井妙子さんという女の子が猛烈に非難し、言葉激しく詰め寄ってついにやめさせた。妙子さんは情熱的な大きい眸をもった子で、体も大きくドッジボールの選手に選ばれていた。 

「あの頃は苛めも無くてよかったわね」その後同窓会などでこんな声を聞く。それは今のあまりに常軌を逸した苛めと比べての発言であることは言うまでもない。しかし苛めというものは、それを受けた者でなければ分からない。わたしは書いたように、クラスの中の味噌っかす的存在だったので、常に苛めの対象だったという強烈な思いが残っている。四年の担任だった金川先生も含め、だいたいの級友と先生はわたしが苛められていることは知っていた。子供の社会では苛めはある程度不可避のものであろう。自然なことだとさえ思う。では何故それが事件にまで至らなかったのか。大きな問題にならなかったのか。それは「やめろ」と声をかける生徒が居たからだと思う。山下武雄君とか塩井妙子さんのように知らぬふりをせずに堂々と立ち向かっていく生徒が居たということの意味は大きいはずだ。当時はそのような指導もなされていた。 

現代の何が問題かといえば、知らぬふりをするクラスの大多数にあると思う。苛める者も苛められる者もごく少数でしかない。関わることを避け、見て見ぬふりをする大部分のクラスメートたち、これが事件にまで野放しにする温床を作っているとみる。(了)


昭和は遠くなりにけり?(6)   高島りみこ

 

大学を無事に卒業したものの、就職活動などまったくしていなかった私は、三月の卒業と同時に職探しを始めたのだった。思い返すと空恐ろしいほどのマイペースだが、「まあ、なんとかなるさ」の時代でもあった。絵描きになろうと思っていたから、職探しにさしたる熱意もなく、求職雑誌を片手にいくつかの会社に願書を出し面接に向かった。同級生たちは美術教師になった人が多かったようだ。私自身は教員に向いているタイプではないと考えていたから、教員免許は取得しなかった。中には電通に就職が決まったという同級生もいたが、デザインには興味がなかったので、「なんすか? 電通って?」なありさまだった。 

とはいえ美術系の就職先は限られている。なんだかんだいいながら結局のところ、市ヶ谷にあった小さなデザイン会社に就職が決まった。近年、電通のブラック企業振りが取り沙汰されているが、広告・デザイン業界は基本的にブラックである。とにかく拘束時間が異常に長い。朝は十時に出社だが、退社は終電で帰ることができれば御の字。終電を逃して相棒にオートバイで迎えに来てもらったり、市ヶ谷からタクシーに乗り自宅のある高円寺に向かうも手持ちのお金が底をつき、途中下車し家まで歩いて帰ったこともあった。当然、会社からタクシー代は支給されない。そんな日々が続くから、社員も十時には出社できず遅刻、残業が益々増えるという悪循環に陥っていった。同僚の中には寝袋を会社に持ち込み、泊まり込むという強者もいた。 

その会社はデザイン会社といっても元からなにかをデザインをするというより、もっぱら印刷原稿を作るといった〈版下屋(今となっては死語だが)〉の仕事が主流を占めていた。近隣の大手レコード会社からデザインの原案を受け取って、写植屋に文字原稿を渡して印画紙に打ち込んでもらい、その紙に特殊な糊を塗って台紙にペタペタ貼りつけるのだった。何度も直しが入ると、切ったり貼ったりでボロボロの痛々しい原稿ができあがった。パソコンはまだ個人が気軽に所有するような代物ではなく、ましてやパソコンでデザインするようになるなどとは夢にも思っていなかった。 

絵を描く時間などほとんど持てず、就職から半年後に私の気力は底をつきデザイン会社を去ることとなった。 

ひと月ほどは仕事に就かずプラプラしていたが、生活費も底をつきつつあったので父の経営する印刷会社に転がり込んだ。主な仕事は母が担っていた経理を引き継ぐことだったが、専門学校に行ったりすることもなく、見よう見まねで帳簿をつけた。パソコンで表計算ソフトを使えば試算表も楽にできたのだろうが、その頃は試算表の用紙に手書きで数字を入れて卓上計算機で計算していたから、なかなか数字が合わず苦労したものだ。現在でも会社の経理を担当しているが、今ではクラウド上の専用アプリを使っている。銀行口座とも紐づけされていて、即座に経理アプリに反映される。取引先への振込も当時は一件一件、振込用紙に振込先や口座番号を書き込み、小切手を切って銀行に持ち込んでいたが、こちらも今ではインターネットバンキングへと移行して、いつでもどこでも振込手続きができるようになった。手間と時間を省くことができ、この三十五年の間に数字を取り巻く世界は凄まじい進化を遂げたものだとつくづく思う。 

印刷会社なので時々、印刷原稿を作る仕事も回ってきた。ブラックデザイン会社での経験がここで活かされた。当初はデザイン会社の時のように文字組などは写植屋に外註に出していたが、小型のワードプロセッサの普及がそれを変えていった。書籍の本文組版は外註から内製へと移っていった。こういった流れの中で写植やフィルム製版という職種は淘汰されていった。しかし、必ずしも古いものが新しいものに取って代わられていくというわけではない。写植やオフセット印刷が主流になる前からあった、金属の活字を組んで印刷する活版印刷は、今も健在なのだから世の中というのは分からないものだ。活版印刷独特のインクの盛りが、マニアックな人たちの間で人気を博しているのだという。 

そして一九八六(昭和六十一)年、日本は夢のような時代を迎えた。バブル景気だ。今では考えられない好景気の時代……。時々、二十代の青年に「高島さん、バブルの時代ってどんなだったんですか? オレも経験したかったなぁ〜」といわれる時代が、この国にもあったのだ。 

ことは一九八〇年代前半から始まる。日本は円安が要因となり輸出が絶好調で貿易黒字大国となり、一方の輸出先のアメリカは国内産業が衰退し、両国間で貿易摩擦が発生。アメリカはプラザ合意を締結することで円高を誘導していった。日本の輸出産業は倒産するところが増え、景気は一時悪化した。その事態を受け日銀は景気回復を図るため金利を引き下げる政策を行った。それによって企業は銀行から容易に融資を受けることができるようになった。景気は回復し、余ったお金が土地購入や株式投資へと流れていった。一九八六年にアメリカの象徴的建物、ニューヨークのロックフェラー・センターを三菱地所が買収したニュースは、アメリカ人の少なからぬ反感を買ったものだ。そして中小企業の我が社にも、バブル景気のおこぼれがポロポロと落ちてきたのだった。(続く) 

 

参考文献

山下雅宏「ビジネスの考え方」https://yamashitamasahiro.com/archives/5683


パンケとペンケ     宿谷志郎

 

 

パンケとペンケ(七)

きれいなペンケの里を眺めてからしばらく経った。

横になってiPadを眺めていると、画面の右上のすみっこから突然ハリガネムシの神様が現れた。

「どうじゃ、イヨマンテ(クマ送りの祭り)を見に行かんか」と言う。

いいですね、行きます行きますと答えると、明日の昼に里の祭壇で待っていると言う。

祭壇は何ということはない、廃線になった胆振線(いぶりせん)の旧・蟠渓駅前の広場だ。徒歩3分。

行ってみると20人ほどの人が集まり、何やらワイワイガヤガヤやっている。大人たちは晴れ着を着て結構盛り上がっている。どうやらお酒もふるまわれるようだ。めったにないことなのでみんなウキウキしているのだ。

祭壇は三段式の土俵のようなもので、これから儀式が始まるぞという感じになっている。パンケちゃん、ペンケちゃんは大きなクマの背中に乗り、金太郎のように広場をグルグル回っている。ふたりはどうやら最高の気分。

オリの中には小さなクマがいて、首にひもをつけてひっぱり出し木につるし、殺して食べるという。

神様を食べちゃうんですか?・・・と言うと、ハリガネムシの神様は「これはな、なかなかデリケートな問題でな。クマの神はクマの身体の中に宿っている。我々が食べることでそのクマの魂がクマの身体を抜け出し初めて神となるのじゃ」クマの肉はクマの神からのムヤンケ(おみやげ・贈り物)なのだと言う。

でも何かやっぱりかわいそうですねと言うと「バカを言うな、生きるために自分で殺して食べる。当たり前のことじゃ。お前たちは誰かが殺したパック詰めの肉を、あれがいい、これがいいとか言って食べておろう」と叱られた。

たしかに、僕もやれ黄金豚(とん)、ルスツ豚、豊浦豚などと漁っていますからね。感謝して食べないといけませんね。そう言うと「分かればよろしい」とハリガネムシの神様はニコニコして頭をなでてくれた。

 

 

 

   パンケとペンケ(八)

昨夜、なんだか胸苦しくて目を覚ますと、何とペンケちゃんが僕のお腹の上に馬乗りになっている。

あれっ、ペンケちゃんおじさんはクマじゃないんだけどと言うと、ペンケちゃんは「クククッ」と笑う。

ペンケねえきのう918日に10歳になったの。明日からペンケの里に行くのよと嬉しそうに言う・・・そうか、もう10歳か。

「おめでとう。明日行っちゃうんだ。元気でね」「うん、おじさん遊びに来てね」と言うと天井の隅っこに飛んで行ってスッと消えてしまった。

しばらくしてペンケの里に行ってみた。

ペンケちゃんはチセの前の庭で一生懸命地面に絵をかいている。

僕に気づくと「ペンケねえお絵かきしてるの。お花の絵が好き。きれいな小石を並べてお花の形にするのも面白いよ。パンケ兄ちゃんはお船の絵が好きなの」・・・そう言ってシカの皮に描いたパンケちゃんの船の絵を見せてくれた。

「ステキでしょ、未来のお船だって。パンケ兄ちゃんのおせんべつよ」

「ここの人たちは字は書かないの。何でも口伝え。歌も踊りもむかし話もみんな子どもたちには口伝えで教えるのよ。歌も踊りも絵も木彫りもすごく上手」「パンケの里では焼き物もするよ」・・・パンケ焼きとペンケ織かあ、いいね。

 

 


アラン『芸術論集』(二) 高村昌憲 訳

 

第一部 創造的想像力について 

第一章 想像力 

 パスカルによると〈想像力〉は誤りの主です。同様にモンテーニュも「少しも見えないものを見たと信じている」人々のことを語りながら、その概念の核心に私たちを導き、普通一般の言語が要求するものに従ってどんな延長も私たちに見せています。何故なら、この言葉を慣例に従って理解すると、想像力とは単に、そして何よりも精神の観想的な力ではありませんし、取分け誤りと混乱が精神に入ってきますが、それは身体の動揺と同時でもあります。恐怖に見られる様に、そこでの想像力の影響は非常に有名であり、最初は拘縮、震え、発熱と悪寒、動悸、窒息といった身体そのものの疑う余地のない知覚に起因します。その時は原因になっているに違いないと思われる対象のイマージュが屢々全く曖昧で、何時も消えて行きます。それらを消すのは注意力であり、それらのイマージュは私たちの背後の見えない処で形作られるのであると理解して下さい。先ずは厳格に点検して見分けることが大切です。有りもしない対象の外見を呼び覚ますための力は、言われる程には長持ちしませんし信じられもしません。換言すれば想像力はその本来の性質に基づいても又、私たちを騙しているのを見分けることも大切です。 

 もしもそれに気を付けないとするなら、強力な想像力と言われるものには曖昧なものがあります。強力なものとは、その結果によって理解しなければならず、恐怖が示す様に容易に身体の不調を招いて病気になることさえあります。しかし、その伴奏となる顔付きと身振りと動作と言葉によってイマージュの濃度を判断するのは用心しなければなりません。興奮して情熱による激しい発作における巫女とも呼べる病気の様な状態は、それだけで雄弁で感動的で伝染性があります。それは、熱狂的な人々が描写するものはどんなものでも、見ていると非常に早く信じない様になる一つの理由になります。先の大戦中にメッツで群衆が古い一軒家の窓の内に解放軍を見たのを信じていたと、誰かが私に語りました。彼らは、見たと信じたのです。しかし何を見たのでしょうか。太陽の反射とか恐らく虹色の色彩です。強烈な希望が群衆から群衆へ送られて話を歪めたのです。しかし希望が彼らの知覚も歪めたと言うことは、知っていること以上を言うことになります。現代の心理学は、狂人や病人を余りに信じ過ぎたものである、主要な誤りから決して立ち直ることはないでしょう。 

 強烈な情熱とか単に証明するための情熱が私たちを駆り立てるや否や、余り自分自身を決して信じ過ぎない方が無難であると、私は付け加えて言います。何時も恐怖の事例を思い出しましょう。そこでは目覚めるための力が不確かで模索的である時でさえも、想像力の働きが非常に強いのです。その代わりに信じることはそれ故にまさしく想像力による狂気であり、証明させたり感動を生む偽の対象ですが、証明させたり間違って決定された印象を印象そのものによってその様に意味や確実さを与えたりするのも、感動であると考えることは理性的でもあります。柱時計の時を刻む音に人の声を想像する時も、何時も柱時計の時を刻む音しか聞きませんし、注意して聞くまでもありません。しかしその場合、恐らくどんな場合でも誤った判断は、人の声そのもので救済されますし、人の声は他のものに代えられる新しい対象を生みます。ここでは想像された事物を鍛えて作り上げます。作り上げられたその事物は、そのことだけで現実となり、少しも疑うことなく知覚されます。 

 それらのイマージュが何処からやって来るのか、これから何時かは言われ様に試みられるのでしょうが、語られる限りそれらのイマージュは存在していることになります。しかし最初に、想像力においての最も明らかな現実のものを考察するのは有益です。そして、それは一方では大変に圧制的に感受させる身体の反応を知るために色々なものを齎します。そして他方では感動に基づいて大変しっかりと支えられた偽りの判断力は、それに倣ってイマージュを探究しながら期待しても屢々無駄なものでもあります。 

 最初の視線を確信し、それを必要な処に導くのを目指して、私たちは間違っている知覚が完全に無い、想像力に関しての或る例を示すことにしましょう。二台の重い車がお互いに接近して、そのうちの一台にあなたが乗っていて殆ど衝突しそうな目にあったことが恐らくあったと思います。その瞬間に衝撃が予期されて実際に衝突しなかったとしても、あなたの身体は血が逆流して筋肉の内部では痙攣しているのを全身で感じましたが、脅迫的部分を最も感じていたのは足に違いありません。酷い混乱であり、そこに医者がいたなら、その部分に血圧の急上昇とか、運動をしていなくても筋肉の疲労の様なものを診察出来たに違いない程の非常に酷い混乱です。そして、もしもあなたがその様なことは大変に一般的なものと考えたなら、多少なりとも痛みと痕跡が一度に継続して傷害の可能性もあなたには嘘ではない様に思えるでしょう。ところが常に正確で極端でもある一般的な話し方に従うと、そこには想像力の影響もあります。あなたは熟考することも無く、自動装置となって信じたのであり、反応して仕舞ったのです。ところで、ここでは事故のイマージュは少しも形作られていません。車の進行は如何なる視覚障害もなく、正確に知覚されていました。しかし同様に良く考えることは、血や筋肉の動きはあなたの身体において未だ弱いイマージュを描いていましたが、予期された粉砕のイマージュは大変に現実味があったのです。 

 想像的なものの特色を示す諸要素の割合を正しく引戻すには、この例だけで十分です。身体のメカニズムがその力をそこに感じさせること、強い感動が身体の活動から切り離されずに、それと同時に本当の信念が先行して最後には対象も無く生み出されるのを感じて認識させることを私は理解します。その全体は或る意味では想像的ですが、身体の動揺によって極めて現実的で情熱的な期待という性格があります。注意力を引きつけて主に記憶の中で定着する、所謂一種のイマージュとか幻視とか幻聴となる場合の支配的な性格さえも再び見出すことが一番重要です。 

 この面から考えると想像力とは、本来のその性質から言うと狂気であり、狂わせるものです。先ず、身体の動揺と判断力がお互いに折り重なる様にして絶えず反応して、不安や恐怖や怒りとなって表すのは極めて明白です。そして身体の苛立ちと不規則の動きが、間違った判断を確信して仕舞った後で、私は危険であるとか、この男は私を軽蔑しているとか、この町は私に不幸を齎すだろうと思ってから、直ぐにこの判断には新しい動揺が続いて、その結果、行為が開始されたり抑制されたり反対されたりしますが、その様にして対象の欠く時がやって来るのです。そして、この動揺は情動を活気づけます。従って、もしも判断力が少しも対象を見出さなくても、少なくとも諸証明を見出します。何故なら震えも逃走も決して私の恐怖を癒やしてくれませんし、全くその逆であるからです。それ故に、身体における不規則も精神における誤りも、一方が他方を豊かにしながら、そこには想像力による現実の姿があるのであり、恐らく時間の幻視とかあるいはまさに誤って制御された知覚があり、これからはそのことを語らなければなりません。しかし先ずは情熱的で固有の描写的雄弁に対しての探究的な精神を守らなければなりませんでしたし、それらの幻視は又、物語よりももっと驚くべきものであると信じさせるに違いありません。もしも読者が慎重なこのやり方で良く見るなら、デカルトは想像力には多分対象が必要であることに気付いていて私たちに教えます。その様にして諸芸術は、常に彷徨して悲しい夢想にとっての薬として、既に現れているのです。(完)



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