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翻訳

アラン『芸術論集』(二) 高村昌憲 訳

 

第一部 創造的想像力について 

第一章 想像力 

 パスカルによると〈想像力〉は誤りの主です。同様にモンテーニュも「少しも見えないものを見たと信じている」人々のことを語りながら、その概念の核心に私たちを導き、普通一般の言語が要求するものに従ってどんな延長も私たちに見せています。何故なら、この言葉を慣例に従って理解すると、想像力とは単に、そして何よりも精神の観想的な力ではありませんし、取分け誤りと混乱が精神に入ってきますが、それは身体の動揺と同時でもあります。恐怖に見られる様に、そこでの想像力の影響は非常に有名であり、最初は拘縮、震え、発熱と悪寒、動悸、窒息といった身体そのものの疑う余地のない知覚に起因します。その時は原因になっているに違いないと思われる対象のイマージュが屢々全く曖昧で、何時も消えて行きます。それらを消すのは注意力であり、それらのイマージュは私たちの背後の見えない処で形作られるのであると理解して下さい。先ずは厳格に点検して見分けることが大切です。有りもしない対象の外見を呼び覚ますための力は、言われる程には長持ちしませんし信じられもしません。換言すれば想像力はその本来の性質に基づいても又、私たちを騙しているのを見分けることも大切です。 

 もしもそれに気を付けないとするなら、強力な想像力と言われるものには曖昧なものがあります。強力なものとは、その結果によって理解しなければならず、恐怖が示す様に容易に身体の不調を招いて病気になることさえあります。しかし、その伴奏となる顔付きと身振りと動作と言葉によってイマージュの濃度を判断するのは用心しなければなりません。興奮して情熱による激しい発作における巫女とも呼べる病気の様な状態は、それだけで雄弁で感動的で伝染性があります。それは、熱狂的な人々が描写するものはどんなものでも、見ていると非常に早く信じない様になる一つの理由になります。先の大戦中にメッツで群衆が古い一軒家の窓の内に解放軍を見たのを信じていたと、誰かが私に語りました。彼らは、見たと信じたのです。しかし何を見たのでしょうか。太陽の反射とか恐らく虹色の色彩です。強烈な希望が群衆から群衆へ送られて話を歪めたのです。しかし希望が彼らの知覚も歪めたと言うことは、知っていること以上を言うことになります。現代の心理学は、狂人や病人を余りに信じ過ぎたものである、主要な誤りから決して立ち直ることはないでしょう。 

 強烈な情熱とか単に証明するための情熱が私たちを駆り立てるや否や、余り自分自身を決して信じ過ぎない方が無難であると、私は付け加えて言います。何時も恐怖の事例を思い出しましょう。そこでは目覚めるための力が不確かで模索的である時でさえも、想像力の働きが非常に強いのです。その代わりに信じることはそれ故にまさしく想像力による狂気であり、証明させたり感動を生む偽の対象ですが、証明させたり間違って決定された印象を印象そのものによってその様に意味や確実さを与えたりするのも、感動であると考えることは理性的でもあります。柱時計の時を刻む音に人の声を想像する時も、何時も柱時計の時を刻む音しか聞きませんし、注意して聞くまでもありません。しかしその場合、恐らくどんな場合でも誤った判断は、人の声そのもので救済されますし、人の声は他のものに代えられる新しい対象を生みます。ここでは想像された事物を鍛えて作り上げます。作り上げられたその事物は、そのことだけで現実となり、少しも疑うことなく知覚されます。 

 それらのイマージュが何処からやって来るのか、これから何時かは言われ様に試みられるのでしょうが、語られる限りそれらのイマージュは存在していることになります。しかし最初に、想像力においての最も明らかな現実のものを考察するのは有益です。そして、それは一方では大変に圧制的に感受させる身体の反応を知るために色々なものを齎します。そして他方では感動に基づいて大変しっかりと支えられた偽りの判断力は、それに倣ってイマージュを探究しながら期待しても屢々無駄なものでもあります。 

 最初の視線を確信し、それを必要な処に導くのを目指して、私たちは間違っている知覚が完全に無い、想像力に関しての或る例を示すことにしましょう。二台の重い車がお互いに接近して、そのうちの一台にあなたが乗っていて殆ど衝突しそうな目にあったことが恐らくあったと思います。その瞬間に衝撃が予期されて実際に衝突しなかったとしても、あなたの身体は血が逆流して筋肉の内部では痙攣しているのを全身で感じましたが、脅迫的部分を最も感じていたのは足に違いありません。酷い混乱であり、そこに医者がいたなら、その部分に血圧の急上昇とか、運動をしていなくても筋肉の疲労の様なものを診察出来たに違いない程の非常に酷い混乱です。そして、もしもあなたがその様なことは大変に一般的なものと考えたなら、多少なりとも痛みと痕跡が一度に継続して傷害の可能性もあなたには嘘ではない様に思えるでしょう。ところが常に正確で極端でもある一般的な話し方に従うと、そこには想像力の影響もあります。あなたは熟考することも無く、自動装置となって信じたのであり、反応して仕舞ったのです。ところで、ここでは事故のイマージュは少しも形作られていません。車の進行は如何なる視覚障害もなく、正確に知覚されていました。しかし同様に良く考えることは、血や筋肉の動きはあなたの身体において未だ弱いイマージュを描いていましたが、予期された粉砕のイマージュは大変に現実味があったのです。 

 想像的なものの特色を示す諸要素の割合を正しく引戻すには、この例だけで十分です。身体のメカニズムがその力をそこに感じさせること、強い感動が身体の活動から切り離されずに、それと同時に本当の信念が先行して最後には対象も無く生み出されるのを感じて認識させることを私は理解します。その全体は或る意味では想像的ですが、身体の動揺によって極めて現実的で情熱的な期待という性格があります。注意力を引きつけて主に記憶の中で定着する、所謂一種のイマージュとか幻視とか幻聴となる場合の支配的な性格さえも再び見出すことが一番重要です。 

 この面から考えると想像力とは、本来のその性質から言うと狂気であり、狂わせるものです。先ず、身体の動揺と判断力がお互いに折り重なる様にして絶えず反応して、不安や恐怖や怒りとなって表すのは極めて明白です。そして身体の苛立ちと不規則の動きが、間違った判断を確信して仕舞った後で、私は危険であるとか、この男は私を軽蔑しているとか、この町は私に不幸を齎すだろうと思ってから、直ぐにこの判断には新しい動揺が続いて、その結果、行為が開始されたり抑制されたり反対されたりしますが、その様にして対象の欠く時がやって来るのです。そして、この動揺は情動を活気づけます。従って、もしも判断力が少しも対象を見出さなくても、少なくとも諸証明を見出します。何故なら震えも逃走も決して私の恐怖を癒やしてくれませんし、全くその逆であるからです。それ故に、身体における不規則も精神における誤りも、一方が他方を豊かにしながら、そこには想像力による現実の姿があるのであり、恐らく時間の幻視とかあるいはまさに誤って制御された知覚があり、これからはそのことを語らなければなりません。しかし先ずは情熱的で固有の描写的雄弁に対しての探究的な精神を守らなければなりませんでしたし、それらの幻視は又、物語よりももっと驚くべきものであると信じさせるに違いありません。もしも読者が慎重なこのやり方で良く見るなら、デカルトは想像力には多分対象が必要であることに気付いていて私たちに教えます。その様にして諸芸術は、常に彷徨して悲しい夢想にとっての薬として、既に現れているのです。(完)