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敗戦の頃の日々(前編)    神宮清志

 

船橋に引っ越して

 昭和一九年の春、母と兄とわたしの三人家族は東京都世田谷区の船橋に引っ越した。その辺は小田急線と京王線のちょうど中間点にあたり、駅には遠い。よって東京郊外に広がる農村という地帯だった。それまで住んでいた八幡山とはごく近かったが、学区域の関係で、経堂小学校(国民学校)に転校となった。

 住んだ家は篠崎家の若夫婦のために作られた家だったが、ご主人の勇さんが兵隊に取られて、奥さんが母屋のほうで暮らすようになり、空家になったのでわれわれ三人家族がそこに住むことになったのである。篠崎家は近郷でも有数の農家で、母方の遠い親戚に当たっていて、間借りする代わりに母は百姓仕事を手伝うこととなった。母は毎日、手甲を巻いて野良仕事に出て行った。父はわたしが二歳の時に他界しており、母が働いて三人家族を支えていた。

 この地区は農家が多く、言葉も田舎言葉である。すこぶるのんびりとして、人がよく親切な人たちであった。市街地に住んでいた学童のすべてが例外なく疎開した中で、どういうわけかこの地からはあまり行かなかった。おかげで、戦争のさなかとはいえ牧歌的で平和な一年半を過ごすことが出来た。焼夷弾とか爆弾は市街地ほど多く落とされなかった。よって近隣で罹災した家はなかった。

 田んぼの向こうには小川があって、そこにはフナやドジョウのような小魚もいたし、エビガニが無数に捕れた。どこにでもいる蛙を捕まえて皮をむいて糸につけて川に垂れると、たちまちエビガニが食いついてきた。それを茹でて真っ赤になったのを、尻尾のところだけもぎって食べる。戦後しばらくして食糧事情がよくなってきた頃に、レストランで海老フライを食べたら、エビガニとまったく同じ味だった。途端に戦中のことどもを思い出して、食べられなくなった。今もって海老料理は避けている。

 稲が実る頃に、田んぼに大量に発生するイナゴも格好の食糧になった。輪切りにした竹筒を口に結わえた袋を持って田んぼに行き、イナゴを竹の中に入れるとそのまま袋の中に入ってしまう。人が近付くとイナゴは本能的に稲の後ろ側にくるりと回って隠れる。そこを狙ってさっと捕まえるのが要領である。袋に入れたまましばらくつるしておいてから、炒って佃煮にして食べると香ばしい味がして美味かった。

 うちのすぐ隣が小さな雑木林で、木の根元から太い蔓が出ているところを掘ると、山芋を掘り出すことが出来た。しかし山芋は奥へ行くほど太くなっており、これをすべて掘り出すのは容易なことではない。半日以上かけて、終いには大人たちも手伝いに来てようやく掘りあげることができた。

 こんなに自然と慣れ親しんで生活出来たのはこの船橋時代だけで、わたしにとっては生涯の貴重な宝である。飢えに苦しむこともなかったし、周囲の人たちはみな親切だった。飢えに苦しみ、人々の冷たさに悩みを深めたのは戦後、町に引っ越してからのことである。戦争が厳しい状況にあったこのときほど、皮肉にも平和で長閑なことはなかった。綺麗な青空はいつもわれわれの上で、力強くひろがっていた。

 

敵機来襲

 昭和二〇年の冬の朝のこと、空襲警報が鳴ってみな防空頭巾をかぶって避難の態勢でいると、飛行機の爆音がけたたましいばかりに響いた。どんよりとした雲が低く垂れ込め、寒い空気がピリッと緊張を強いていた。その真っ黒い雲の間からいきなり敵機が姿を現した。二機の双発機が低空飛行してお互いに交差するように飛び交い、何度も行っては戻りして嘲笑うかのごとくに飛び回った。およそ一〇〇メートルくらいの高度で飛び、バリバリバリっという空気をつんざくようなプロペラの音の凄さに圧倒された。ビリビリとあたりの空気がゆれていた。黒いずんぐりした機体は逞しく、四人乗りくらいに見えた。これは後に分かったことだが、ノースアメリカンB25という五人乗りの軍用機である。こんなに低空飛行されては、近くの高射砲陣地も手の出しようがなかった。これが米軍との最初の遭遇である。というより圧倒的な軍事力のすごさを見せつけた瞬間でもあり、欧米文化というものの力強さを実感させた出会いだった。

 そのあたりから毎日のように米軍機がやってくるようになった。「ポー」と鳴り響く警戒警報とともに、はるか西の空にB29の編隊が現れた。銀色に輝く大型飛行機の大編隊が、富士山の上空を通過すると右折して真っ直ぐ東京方面に向けて飛んできた。B29は一〇人乗りくらいで四発のプロペラを付けていた。「空飛ぶ要塞」といわれ、空襲の立役者だ。はるか一万メートルの上空を白い機体が青空に貼り付いたように見え、それがゆっくり移動してゆく。近くの高射砲陣地からしきりに撃つ音が鳴り、はるか上空の敵機の周辺に小さい白い煙の固まりが開くので、それが高射砲の外れだと分かった。こんな光景が昼夜を問わずに展開された。夜は東の空が燃え盛る火の海で真っ赤になり、火の壁が出来たように見えた。

 空家になった家を、隣町まで解体しに行ったことがあった。立派な二階家に綱をつけてみなで引っ張り、壊してからその材木をリヤカーに積んで帰ってきた。延焼を防ぐ意味があったのかもしれないが、もったいないことをしたものである。壊すときはその一帯がすべて壊されていたから、あるいは強制立ち退きされたのかもしれない。

 わたしは直接襲われたことはなかったが、P51という戦闘機が、しばしば人々の頭上に急降下して機銃掃射して飛び去った。その恐ろしさはたとえようもなく、その弾丸に当たって即死したり、重傷を負ったという話は毎日のように聞かされた。ほとんどが焼け野原になると、米軍機はところかまわず爆弾や焼夷弾を落としていった。焼け跡に爆弾・焼夷弾を落とす様は、積んできたごみを棄ててゆくようだった。

 爆弾が落ちてくるときの音は、一キロくらい先だとゴォーっという飛行機の爆音に似ていた。至近距離だとヒュルヒュルヒュルっという空気を斬り裂くような音がして、その恐ろしさは言葉に表せないほどだ。すぐ裏の畑に落ちたときの地面のゆれの凄さと爆音のすさまじさときたら、本当に足がすくみ、全身総毛立った。落ちた跡は大きな穴がすり鉢型に広がっていた。ときどき不発弾が落ちて、こんもりと饅頭のように土が盛り上がっていた。するとその周辺に縄が張られ、立ち入り禁止にしてから決死隊と称する人たちが掘り出しに行った。

 夏も近付いた頃のある夜、何百発とも知れぬ焼夷弾が空一面に花火のように広がり、頭上に降ってきた。風に流されながらゆっくりゆっくりと無数の火の玉が迫ってくる、その恐ろしさはたとえようのないものである。サワサワサワという夕立に似た音が無気味に圧倒していた。しだいに地上に近付くと、あたり一面が昼間のように明るくなり、ただそれに見とれているほかなかった。ところがその大半は風に流されてわれわれの頭上を通過して、町のほうへ行ってしまった。何発かが傍に落ちた。田んぼの中と、となりの農家の屋根に落ちたのは確認できた。幸い瓦屋根だったのですぐに消し止めることが出来た。

 焼夷弾にも不発弾が多く、それらはいたるところに積み上げられていた。六角形をした筒型の焼夷弾が、戦後になっても何百本と放置されていた。それを玩具にして遊んでいるうちに、爆発して指が吹っ飛んだ子供も居た。(続く)


昭和は遠くなりにけり?(4)  高島りみこ

 

成人式の振り袖の代わりに、父と二人でヨーロッパツアーに出かけた一九八〇年。フランクフルトに到着した私たち一行は休む間もなく、小雨の降りしきる中、ライン下りの船に乗せられた。私が船上でビールを飲んでいると、小学生くらいにしか見えなかったのだろうか、周りの人たちに大変驚かれたものだ。

 ドイツ一泊目は古い伝統的な建物をホテルに改造したところだった。案内された部屋に入ると、そこにはダブルベッドがドドンと置かれてあった。ちょっと待ってください。私たち同じ名字の男女ですが、夫婦じゃありません。父娘なんですっ!と思ったが、父は「娘とひとつベッドで眠れるなんてラッキー」と嬉しそうにしている。申し訳ないが、こちとら小学生じゃないんだから「一緒に寝るなんてありえないからっ!」と速攻却下し父には一人、だだっ広いダブルベッドを使ってもらい、私は部屋の隅にあった予備の小さな簡易ベッドで眠ることとなった。まあ、娘は健全に成長していたわけですよ。

 このホテルの周辺は田園風景が広がり、街道の木々には雨に濡れたサクランボが赤く鈴なりになっていた。六月のヨーロッパの美しい景色として私の記憶に残っている。

 翌日はデュッセルドルフでの国際印刷・メディア印刷展「ドルッパ」の見学から始まり、夕刻にはケルンに到着。眼前には世界最大のゴシック建築・ケルン大聖堂が威厳をもって佇んでいた。夜の食事は、ツアーあるあるのドイツの伝統料理を食べさせるレストランで、豚足料理が自慢の店に連れて行かれた。幼い頃から肉が苦手な私は豚足を見たのも初めてで、足先の載った皿を驚愕の目で見つめ、その豚足を齧ってみたのか、別な料理にしてもらったのかは記憶から抹消されている。

 次の日、高速列車TGVに乗ってケルンからフランスのパリに到着。ルーブル美術館やら、モンマルトルの丘、ノートルダム大聖堂など、パリの観光名所をこれでもかと引きずり回されたが、記憶に残っているのは長ネギのマリネ(「ポワロー葱のヴィネグレットソース」というらしい)が殊更においしかったことと、その頃嵌まって読んでいたルイ=フェルディナン・セリーヌの原書を買うことができたことくらいだ。原書を読みこなす語学力などあるはずもなく、その後に読むことはなかった。フランス装だったセリーヌの本を自分で上製本に作り替えて、今も家のどこかに眠っている。たぶん開かれることなく、このまま永遠の眠りにつくものと思われる。ブランド物には全く興味がなかったから、他のツアー客が免税店に走っていくのを醒めた目で見つめていた。

 そして飛行機でツアー最後の訪問国、イギリスへと向かう。ドイツ、フランスは二泊だったが、イギリスはなんとロンドン一泊という超強硬日程で、ほぼバスから降りることなく市内観光を終え、ローストビーフの専門店へ。またしても苦手な肉ということでローストビーフの味などまったく覚えていない。付け合わせの野菜が砂を嚙んでいて、ジャリッとした……なんて、どうでもいいことを覚えている。

 アテネ、バンコクを経由して無事に成田に降り立ち、この旅は終わりを迎えたのだった。

 

ちょうどその頃パンクロックにも嵌まっていた私は、ひょんなことからロックミュージックのミニコミ誌の仲間に入れてもらった。その時の仲間の一人が、この「風狂」に詩作品を寄せている「さとうのりお」だから、彼との付き合いもかれこれ四十年近くになろうとしている。まさに腐れ縁である。

 高円寺駅から徒歩二分ほどのアパートの一室を事務所として使っていた。二階建てで十二部屋ほどあったかと思うが、二階の部屋はそれぞれに内階段がついていて、小さいながらもそれぞれ個別の庭もあり、当時としてはかなりモダンな造りだった。事務所だったが、全然知らない人間が寝ていたりしてかなりアバウトな場所だった。地方から東京にやってきて、泊まるところがなかったミュージシャンの卵を泊めていたのだろう。その中の一人にパンクバンド「スターリン」のヴォーカル遠藤ミチロウもいた。スターリンの本格的な事務所が決まるまで、ミチロウはしばらく私たちの事務所に逗留していた。その後三十年近く会うことはなかったが、先日、闘病生活から帰還することなく亡くなられた。心からご冥福をお祈りいたします。

 私たちの作っていたミニコミ誌の雑誌名は「Twist & Shout」で、三号で廃刊となった。スターリンの全国ツアー珍道中記があったり、訳の分からないダジャレのページがあったりと、相当にマニアックな雑誌だったと思う。私は新宿のライブハウスで一週間ぶっ続けで行われた、日本のインディーズ勢揃いのライブを取材ということで、ただで観させていただき、かなりレアな体験を記事にしたのだった。今でもたまにSNSなどで「Twist & Shout」の表紙を見かけたり、色あせたこの雑誌を持ってきて、「この高島さんて、高島さんですか?」と訊ねられることがあると、懐かしさと不意を突かれた恥ずかしさでいっぱいになるのだった。(続く)


パンケとペンケ     宿谷志郎

 

パンケとペンケ (三)

ヒゲおやじは昨夜寝ついたばかりに現れた。

ところで、あなたは神様ですか?・・・と聞いてみると「まあ、そうだ」と優しく笑う。

我らが民族にとって、身のまわりのすべてが神なのだ。水も空気も怖い生き物もすべてが神で、いつもそれらをあがめ敬いながら暮らしている。

では、あなたは何の神様ですか?・・・と聞くと、両手で長い着物の裾をガバッと持ちあげた。

あっ。本当に驚いた。

わしはハリガネムシの神さ。

ハリガネムシってあの寄生虫の?
ハハハと笑いながら、ハリガネムシの神様は「寄生虫はお前じゃないか?」と、ニンマリすかさず言った。

まいったなあ。確かに僕は故郷に、両親に寄生し、妻に寄生し、優しい友に甘え、仕事とかいってお得意さんに寄生して生きて来た。

やっぱりハリガネムシの神様はお見通しか。

なんて思いながら眠ってしまった。

 

 

 

 

パンケとペンケ(四)

そろそろ寝ようか。睡眠薬はもう無いし安定剤でもいいかと、一服やったところでハリガネムシの神様が僕の肩をたたく。

なんかやたら嬉しそうに「あれから半年、ついに生まれたぞ」と言う。

何が生まれたんですかときくと「言っただろう、我らが里の守り神じゃよ」と言う。
もうそんな時間が経ったんですかと思いつつ「おめでとうございます」とついお追唱。

「玉のような赤ちゃんじゃ」

あれっ、かわいいけど指がないと言うと「この子たちは妖精だからな。妖精には指はいらんのじゃ」と答える。

「男の子は67日に生まれ、女の子は918日に生まれた。男の子はパンケ、女の子はペンケじゃよ」

かわいいのおとデレデレ勝手なことを言い「では」とか言ってカマキリのお腹にもぐってしまった。

 

 


アラン『大戦の思い出』(二十六) 高村昌憲 訳

   第二十二章

 

  私はヴィニェヴィルで長い期間を過ごしました。そこでは既に無線電信の職人になっていたCに再会しました。私たちはまさにそのことを話しましたが、私も同様に無線電信に従事していました。私たちは数々の困難にぶつかりました。そこから彼は目を眩ませる埃を抜け出ていました。しかし三十歳の頑固者は物分かりの良さは少しも望んでいません。私たちは希望を持つための誓いを繰返しました。そして最後に私は不気味な鉄道や、酷く貧しい下層民で一杯のガラス窓の無い貨車まで、雪景色の中を車で彷徨いました。その夜に私は肩にリュックサック背負って、バル=ル=ドックの舗道に滑り込んで、駅の監視員室まで這入り込もうと努めました。そこに私が出頭しなければならなかったのは、全ての通行禁止を見出すためでした。その様なものは兵隊の運命です。私は敵の障壁になることを強制されていましたが、伍長は私を少しも見ること無く、私の旅行許可証に日付と概要を記しました。私の戦争は終わりました。最早今では、私は兵舎での話しか話すべきではありません。私は広大な飛行場に降りました。そこでは全員が防衛していましたが、許可無しで出掛けるには少なくとも方法が七つあることを私は学びました。閉まりが悪い大きなバラックの中は、私には戦場よりも寒いものでした。しかし、私は色々なことを学びましたが、話したいのは取分け次のことです。教育するための技術は軍人たちの家にしかありません。何故でしょうか。何故ならば、理解する前に先ず学ばなければならないからです。そして、ここでは処罰が大変に厳しいものでした。全ての歩兵たちは手当たり次第に何でも学んだので、最早砲弾の音も聞きません。ところで私たちが学んだのは天気予報でしたが、それは色々な予想が当てにならないのと同じ様に解釈が厳しい学問でした。この学問は、先ず写しを取らなければならない五冊か六冊の手帳に全てが要約されていました。写しを取ることは大変に正しいことです。それは熟考する方法としては一番に良いことです。その次に気圧計や温度計やその他の全ての観測を行わなければなりませんでしたが、何度も行わなければなりませんでした。そのことも同じく正しいことです。というのも人は知る以上に信じることが早過ぎるからです。地図上の等圧線の曲線を引かなければなりませんでした。結局私は重くて太いペンのお陰で、電話で伝えることを正しく判断するしかありませんでした。しかし私の知識は無駄ではありませんでした。何故なら、夜の監視においても全てをやらなければならず、更に数字であったからです。

 私たちは、天気予報官の仕事を熱心に行うことで、殆ど全ての軍人の退屈から免れていました。しかしその偉大な率直さに、ついに犠牲者が出ました。軍艦にいたことがある大尉が私たち全員の上官でした。そしてその人は真の軍人でした。或る日、彼は正午に会議を行う命令を将校と飛行士たちに、正午の十五分前に出しましたが、私は気圧や風向きと同じで何も分かりません。私たちの中尉はそのことに関しては大変良く知っていて、数々の危惧があるそれらを強硬に披露しましたので、会議は行われませんでした。惨憺たる戦いになって仕舞いました。二時に中尉はランスへ送られることになりました。そして慌ただしく別れを私たちに告げました。私は絶対権力というものを知りました。私は、部下から上官への話を偶然に聞いた時に、この種のことが良く行われるのを予想しました。この単純な転任は、既婚者で毎晩自分の家で寝ていた者にとっては一種の不幸でした。ルイ十四世が支配していた様なやり方です。私たちも、意地悪な学者ぶった二人目の中尉の配下に置かれたのですから、同様に犠牲者でした。声が意地悪なのです。何故なら殆ど仕事に興味を示さなかったからです。そして彼は無礼であるだけ無知でしたので、私たちは彼を容易に罰しました。しかし私が言った様に、これは兵舎のお話です。時折、私は皮のベルトを締めて野菜屑を管理していた台所へ行きました。数々のキャベツの芯がある真ん中で、私は彫刻についての章を書いたのを思い出します。

 私は軍隊生活と共にそれも終わりましたが、天気予報について気付いた点を幾つかこの物語に少なくともつけ加えたいと思います。一つ目は、細かいことですが大変に奇妙なことです。それはパリでは南風が決して吹かないことです。風が南西部から北や東や南東へ吹く時、何時も北西側を通るのです。このことを私が言うと人々は信じられないと思いますが、そうでなかったことは少しもあり得なかったのです。そしてその特異性は、風向きが北から南西と南東の間を揺れることしか起きないので、記録する器具の構築にとっては重要なことが多くあるのです。私は天候の予測に関してもう一つのことを観察しました。それは翌日の予測よりも二週間先を予測することの方が容易であることです。地域的例外又は一次的例外に止まることがなければ、最初の場合でも気圧と風向きによって一般的な規定が予測されます。そして私が理解した様に屢々専門家も良く予想します。日々の連続が専門家に理性を与えます。ところが、翌日の予想は単純な農民に出来る予想と殆ど同じ成行きなのです。人は良く思考するので、総司令部は翌日とその夜の予想すら望みました。一人ひとりに大変強い服従の精神は、沢山の躊躇の後に慎重に霧と雨と晴れ間を混ぜながらも全ての危険を必ず告げていましたが、それは誰にも教えませんでした。それに反して、私は確かな俄雨が如何なるものかを知りましたが、それは鉄道列車の運行と殆ど同じ様に明らかなもので、一時間先を告げられるかも知れません。従って滑走路に沿った飛行場に俄雨を予想した後で、私たち自身がそこにいた時、私は静かな大空の下で腕時計を見たり、草の葉がそよぎ始めるのを窺ったりすることが出来ました。この種の予言が生じたのは取分けシャルトルからです。そこでは観測者が埃や麦藁の切れ端から小さな熱帯性低気圧の様相の下に俄雨になるのを見ました。結局のところその様にして私が学んだのは、殆ど雷雨になる絶対に過たないしるしが気圧による一律性を生んでいることであり、それは私が時々理解しようと試みていたことなのです。しかし、一九一七年一〇月に戦場から市民生活に戻ると、私は一日に二回受け取っていたメッセージが無くなりました。それらは私たちが天気予報を考察する材料として役立っていました。私はそこから農民風な方法に戻りました。しかし少なくとも私は観察することや、修正することや、道具を操作することを訓練させられましたし、それは軍隊式のやり方でした。つまり非常に厳密でした。もしも私が偶然に完全に軍職にいて銀行員であったなら、財政の未来を聡明に予言するのに何らの失敗もしないでしょう。聡明にということは、正確にと言いたくないのです。これは天気予報から私が教わったことです。いずれにしても私は財政や政治に対しては、雨に対するのと同じ様に、農民風のやり方に還元させられました。それは少なくとも大きくて明白なしるしに従って行動するもので、修正は小さいものです。政治に関しては労働者が予言すると同時に、支援する彼らのやり方が望まれるであろうことによるものです。それは純真な市民の幾つもの方法を十分に決定しますが、市民は偉大ではありません。しかし又、無価値で下らなくもないのです。

一九三一年記す

 

 私は、この一九三三年五月に、これらの頁を全て読み直しました。幾つかの調整は行うことになるでしょうが、これらの生彩ある意見を変える処は何処にもありません。それは或る人々には必ず気に入るものでしょうが、他の人々には気に入らないものかも知れません。命令するというやり方には数々の危険がありますし、服従するというやり方にも又、数々の危険があります。或る人々には数々の集団によって私が書いたものに倣って、それを熟考することに向けられるでしょうが、それは全て私が期待していることです。しかも、要するに私はそのことに強固な希望を持っているのです。(了)

 


執筆者のプロフィール(五十音順)

 

出雲 筑三(いずもつくぞう)

一九四四年六月、東京都世田谷区下北沢生まれ。千葉工業大学工業化学科卒。混迷と淘汰のたえない電子部品の金めっき加工を手掛けた四十五年を無遅刻無欠勤で通過した。芝中時代は実用自転車1000mタイムトライアルで東京都中学新記録で優勝、インターハイでは自転車ロードレースでチーム準優勝、立川競輪場での個人2000m速度競争において総理大臣杯で三位となった。趣味として歴史と城物語をこよなく信奉し、日本百名城に挑戦中である。仕事面では日本で最初の水質第種公害防止管理者免許を取得、そのご東京都一級公害防止管理者、職業訓練指導員免許など金属表面処理技術者として現役で勤務している。三行詩集『走れ満月』(二〇一一年三月)・『波涛を越えて』(二〇一二年九月)・『五島海流』(二〇一七年五月)を出版。埼玉県所沢市在住四〇年になる。日本詩人クラブ・時調の会・世界詩人会議各会員。

 

高 裕香(こうゆうか)

一九五八年二月二一日生まれ、大阪市出身。幼い頃から、日曜日になると父親に大阪城公園に連れていってもらい公園中を駆けめぐる。菜の花畑やレンゲ畑で ちょうちょうやトンボを追いかけたり、おたまじゃくし、ザリガニを取って遊んでいた自然児。なんとなく父からルソー教育を受けていた。五歳からピアノを習う。大阪基督教学院の児童教育学科を卒業後小学校教員になる。現在、東京韓国学校で日本語の講師を務めている。日本語教育学会会員。ヤマハピアノPSTA指導者。「心のアルバム」・「虹の架け橋」・「赤い月」・「日韓文化交流合同詩集」などのアンソロジー詩集に参加。二〇〇七年度「民団文化賞」優秀賞受賞。二〇〇九年、二〇一一年度「民団文化賞」佳作賞受賞。日本詩人クラブ・時調の会・世界詩人会議各会員。

 

さとう のりお

1950年、新潟県生まれ。

1974年、セツモードセミナー卒。

日本詩人クラブ会員

「山脈」同人

 

宿谷 志郎(しゅくやしろう)

一九四七年東京都青梅市に生まれる。一九七〇年群馬県高崎市に転居。名曲喫茶「あすなろ」(催華国氏経営)を経てデザイン事務所に勤務。群馬交響楽団のPRを担当し演奏会のポスターなどをデザインする。一九七七年広告代理店を設立し医薬品、検査機器の広告をはじめ編集、イベントなどを手がける。トヨタ財団助成の「シビックトラストフォーラム」に参加。まちづくりのための資金づくりについて学ぶ。自治体学会創設に市民の立場で参加。一九八七年東京・青山に編集プロダクションを設立し主に書籍の制作。高村昌憲氏の「パープル」に関わり、一九九九年「風狂の会」に参加。大分県経済誌「アド経」に一年間エッセイを連載。明星大学教授・清宮義博氏の『花々の花粉の形態』などを出版。二〇一二年廃業。一年半の休養後、革工芸(革絵)を始める。二〇一七年より北海道に半年の移住を繰り返し専念。趣味はフルート。よく聴く音楽はバッハ、モーツアルトの作品。

 

神宮 清志(じんぐうきよし)

一九三七年一月九日、盧溝橋事件のあった年、徳富蘆花の住処の近く(東京府千歳村)で生まれ、幼年時代をそこで過ごした。二歳で父に死に別れ、敗戦前後の混乱の中、引っ越すこと十回あまり、小学校時代から働き、冬でも素足で過ごすという貧困の中で育った。大学卒業後サラリーマンとなって暮らしは安定し、三十歳代半ばに能面師に弟子入り、以後三人の師匠についた。個展四回、団体展出品多数、最近では創作面も作り、イエス、ジャンヌ・ダルク等も作成した。能面制作はほぼ毎日ながら、最近は視力・体力の衰えもあり午前中のみ、午後は筋肉トレーニングとボールルームダンスに打ち込んでいる。いっぽう随筆同人誌「蕗」に四十年ほど在籍して、二百二十編の随筆を発表してきた。手作業をしていると、思いと考えが限りなく浮かんできて、書かずにいられない。いわば物狂おしいため息のようなものか。

 

高島 りみこ(たかしまりみこ)

一九六〇年高知県生まれ、東京都中野区在住。

日本詩人クラブ、日本現代詩人会会員

詩誌「山脈」「花」同人

詩集『海を飼う』(二〇一八年 待望社 第32回福田正夫賞)

装幀家(高島鯉水子)

究極の趣味はキックボクシング(アマチュア)!最近は試合に出ていないが…

 

高村 昌憲(たかむらまさのり)

一九五〇年三月、静岡県浜松市生まれ。明治大学文学部(仏文専攻)卒業。詩集『螺旋』(一九七七年)、『六つの文字』(二〇〇四年)、『七〇年代の雨』(二〇一〇年)。評論集『現代詩再考』(A&E・二〇〇四年)。翻訳『アランの「エチュード」』(創新社・一九八四年)、アラン『初期プロポ集』(土曜美術社出版販売・二〇〇五年)、ジャン・ヴィアル『教育の歴史』(文庫クセジュ971・白水社・二〇〇七年)。共同編纂『齋藤怘詩全集』(土曜美術社出版販売・二〇〇七年)。一九九八年「現代詩と社会性─アラン再考─」が詩人会議新人賞(評論部門)。二〇一二年からパブーの電子書籍に、随想集『アランと共に』(全3巻)及びアラン作品の翻訳『一ノルマンディー人のプロポ』(全5巻)『神々』『わが思索のあと』『思想と年齢』『ガブリエル詩集』『精神と情熱とに関する八十一章』などを登録。日本詩人クラブ会員・日本仏学史学会理事

 

長尾 雅樹(ながおまさき)

一九四五年生まれ 岩手県出身

詩と思想研究会所属

既刊詩集

『悲傷』『山河慟哭』『長尾雅之詩集』

日本詩人クラブ理事長

 

なべくら ますみ

一九三九年 東京世田谷生 日本大学文理学部国文学科卒業 

日本現代詩人会・日本詩人クラブ・時調の会各会員

欅自由詩の会同人

詩集『同じ空』『城の川』『色分け』『人よ 人』『川沿いの道』『なべくらますみ詩集』『大きなつゞら』

エッセー集『コリア スケッチラリー』(共著)

訳詩集『花たちは星を仰ぎながら生きる』(韓国・呉世榮)他

 

詩夏至(はらしげし)

詩人・歌人・俳人・小説家。一九六四年生まれ。東京都中野区在住。著書に詩集『波平』『現代の風刺二五人詩集』(共著)、句集『マルガリータ』『火の蛇』(第十回日本詩歌句随筆評論大賞俳句部門努力賞)、歌集『レトロポリス』(第十回日本詩歌句随筆評論大賞短歌部門大賞)『ワルキューレ』等。小説集『永遠の時間、地上の時間』。

日本詩人クラブ・日本詩歌句協会各理事。

日本現代詩人会・日本短歌協会・現代俳句協会各会員。

 

三浦 逸雄(みうらいつお) 

一九四五年四月二日 札幌郡琴似町で生まれる。

一九六七年上京し 高円寺フォルム美術研究所、新宿美術研究所に通う。

一九七〇年スペインに渡り、マドリードの美術サークルCircro de bellas artesで人体デッサンをかさねる。帰国前の一年は、ベラスケス、グレコ、ゴヤ、ムリーリョを見るために、プラド美術館へ足繁く通う。一九八三年に帰国。

一九七五年以降、現代画廊(東京・銀座)、東邦画廊(東京・京橋)他で作品を発表する。

(以上)



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