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どんづまり    さとうのりお

 

だから日本人は馬鹿だっていわれんだ!脳ミソ腐ってんじゃねぇのか

 

南方から帰還した父は日に日に日本人嫌いになっていった

 

 またあんな事言って

 困った父ちゃんだねぇ

 私を膝に抱いて笑いながら母が言う

 私も下から母の顔を覗きこみながらアハハと笑う

 

でもこんなのはこどもの妄想だ

私は母をしらない

母は私よりも自由を選んだのだ

 

私はそっと外に出て小さな裏庭にまわった

貧乏な家には不釣り合いの大きな犬が飼われていた

近づいて首輪から鎖を外した

 

なぜそんなことをしたのか分からない

犬は少しの間私を見ていたが

やがて小雨の闇夜の中に消えていった

運が良ければ自由に生きていけるだろう

運が悪ければ野犬捕獲人に捕まって殺されるだろう

 

私はまたそっと家の中に入って

買ってもらったばかりの玩具を壊しはじめた


専念すべき証拠    高村昌憲

 

一等賞を勝ち取ることは他人を相手にして

同一の条件に基づき各々を比べることです

各々を比較するには同一の基準を見付けて

誰も明瞭に理解できて便利なのが数字です

 

九五点は九〇点よりも優れているのですが

九五点が何時も自分であることを望みます

九秒〇七で走る人は九秒〇八よりも速いが

同時に走った時に勝てないこともあります

 

賞を貰った作品は優れていると言われるが

賞を貰った人は必ずしも優れてはいません

作品は神様のように何時も作品のままだが

人が変わらずに生きることはあり得ません

 

それでも凡人は他人に勝つために競争して

一時の勝利が永遠の勝利のように感じます

それでも狂人は常に賞や名誉を欲しがって

一生懸命になるのが美しいことと信じます

 

一等賞はあなたではないと平静に思考して

一生懸命にスリや泥棒にならないで下さい

賞や名誉には専念すべき証拠が無いと見て

真に専念できる楽しいものを探して下さい


三浦逸雄の世界(四十四)

三浦逸雄「白い風」8号(アクリル・紙)2019


敗戦の頃の日々(前編)    神宮清志

 

船橋に引っ越して

 昭和一九年の春、母と兄とわたしの三人家族は東京都世田谷区の船橋に引っ越した。その辺は小田急線と京王線のちょうど中間点にあたり、駅には遠い。よって東京郊外に広がる農村という地帯だった。それまで住んでいた八幡山とはごく近かったが、学区域の関係で、経堂小学校(国民学校)に転校となった。

 住んだ家は篠崎家の若夫婦のために作られた家だったが、ご主人の勇さんが兵隊に取られて、奥さんが母屋のほうで暮らすようになり、空家になったのでわれわれ三人家族がそこに住むことになったのである。篠崎家は近郷でも有数の農家で、母方の遠い親戚に当たっていて、間借りする代わりに母は百姓仕事を手伝うこととなった。母は毎日、手甲を巻いて野良仕事に出て行った。父はわたしが二歳の時に他界しており、母が働いて三人家族を支えていた。

 この地区は農家が多く、言葉も田舎言葉である。すこぶるのんびりとして、人がよく親切な人たちであった。市街地に住んでいた学童のすべてが例外なく疎開した中で、どういうわけかこの地からはあまり行かなかった。おかげで、戦争のさなかとはいえ牧歌的で平和な一年半を過ごすことが出来た。焼夷弾とか爆弾は市街地ほど多く落とされなかった。よって近隣で罹災した家はなかった。

 田んぼの向こうには小川があって、そこにはフナやドジョウのような小魚もいたし、エビガニが無数に捕れた。どこにでもいる蛙を捕まえて皮をむいて糸につけて川に垂れると、たちまちエビガニが食いついてきた。それを茹でて真っ赤になったのを、尻尾のところだけもぎって食べる。戦後しばらくして食糧事情がよくなってきた頃に、レストランで海老フライを食べたら、エビガニとまったく同じ味だった。途端に戦中のことどもを思い出して、食べられなくなった。今もって海老料理は避けている。

 稲が実る頃に、田んぼに大量に発生するイナゴも格好の食糧になった。輪切りにした竹筒を口に結わえた袋を持って田んぼに行き、イナゴを竹の中に入れるとそのまま袋の中に入ってしまう。人が近付くとイナゴは本能的に稲の後ろ側にくるりと回って隠れる。そこを狙ってさっと捕まえるのが要領である。袋に入れたまましばらくつるしておいてから、炒って佃煮にして食べると香ばしい味がして美味かった。

 うちのすぐ隣が小さな雑木林で、木の根元から太い蔓が出ているところを掘ると、山芋を掘り出すことが出来た。しかし山芋は奥へ行くほど太くなっており、これをすべて掘り出すのは容易なことではない。半日以上かけて、終いには大人たちも手伝いに来てようやく掘りあげることができた。

 こんなに自然と慣れ親しんで生活出来たのはこの船橋時代だけで、わたしにとっては生涯の貴重な宝である。飢えに苦しむこともなかったし、周囲の人たちはみな親切だった。飢えに苦しみ、人々の冷たさに悩みを深めたのは戦後、町に引っ越してからのことである。戦争が厳しい状況にあったこのときほど、皮肉にも平和で長閑なことはなかった。綺麗な青空はいつもわれわれの上で、力強くひろがっていた。

 

敵機来襲

 昭和二〇年の冬の朝のこと、空襲警報が鳴ってみな防空頭巾をかぶって避難の態勢でいると、飛行機の爆音がけたたましいばかりに響いた。どんよりとした雲が低く垂れ込め、寒い空気がピリッと緊張を強いていた。その真っ黒い雲の間からいきなり敵機が姿を現した。二機の双発機が低空飛行してお互いに交差するように飛び交い、何度も行っては戻りして嘲笑うかのごとくに飛び回った。およそ一〇〇メートルくらいの高度で飛び、バリバリバリっという空気をつんざくようなプロペラの音の凄さに圧倒された。ビリビリとあたりの空気がゆれていた。黒いずんぐりした機体は逞しく、四人乗りくらいに見えた。これは後に分かったことだが、ノースアメリカンB25という五人乗りの軍用機である。こんなに低空飛行されては、近くの高射砲陣地も手の出しようがなかった。これが米軍との最初の遭遇である。というより圧倒的な軍事力のすごさを見せつけた瞬間でもあり、欧米文化というものの力強さを実感させた出会いだった。

 そのあたりから毎日のように米軍機がやってくるようになった。「ポー」と鳴り響く警戒警報とともに、はるか西の空にB29の編隊が現れた。銀色に輝く大型飛行機の大編隊が、富士山の上空を通過すると右折して真っ直ぐ東京方面に向けて飛んできた。B29は一〇人乗りくらいで四発のプロペラを付けていた。「空飛ぶ要塞」といわれ、空襲の立役者だ。はるか一万メートルの上空を白い機体が青空に貼り付いたように見え、それがゆっくり移動してゆく。近くの高射砲陣地からしきりに撃つ音が鳴り、はるか上空の敵機の周辺に小さい白い煙の固まりが開くので、それが高射砲の外れだと分かった。こんな光景が昼夜を問わずに展開された。夜は東の空が燃え盛る火の海で真っ赤になり、火の壁が出来たように見えた。

 空家になった家を、隣町まで解体しに行ったことがあった。立派な二階家に綱をつけてみなで引っ張り、壊してからその材木をリヤカーに積んで帰ってきた。延焼を防ぐ意味があったのかもしれないが、もったいないことをしたものである。壊すときはその一帯がすべて壊されていたから、あるいは強制立ち退きされたのかもしれない。

 わたしは直接襲われたことはなかったが、P51という戦闘機が、しばしば人々の頭上に急降下して機銃掃射して飛び去った。その恐ろしさはたとえようもなく、その弾丸に当たって即死したり、重傷を負ったという話は毎日のように聞かされた。ほとんどが焼け野原になると、米軍機はところかまわず爆弾や焼夷弾を落としていった。焼け跡に爆弾・焼夷弾を落とす様は、積んできたごみを棄ててゆくようだった。

 爆弾が落ちてくるときの音は、一キロくらい先だとゴォーっという飛行機の爆音に似ていた。至近距離だとヒュルヒュルヒュルっという空気を斬り裂くような音がして、その恐ろしさは言葉に表せないほどだ。すぐ裏の畑に落ちたときの地面のゆれの凄さと爆音のすさまじさときたら、本当に足がすくみ、全身総毛立った。落ちた跡は大きな穴がすり鉢型に広がっていた。ときどき不発弾が落ちて、こんもりと饅頭のように土が盛り上がっていた。するとその周辺に縄が張られ、立ち入り禁止にしてから決死隊と称する人たちが掘り出しに行った。

 夏も近付いた頃のある夜、何百発とも知れぬ焼夷弾が空一面に花火のように広がり、頭上に降ってきた。風に流されながらゆっくりゆっくりと無数の火の玉が迫ってくる、その恐ろしさはたとえようのないものである。サワサワサワという夕立に似た音が無気味に圧倒していた。しだいに地上に近付くと、あたり一面が昼間のように明るくなり、ただそれに見とれているほかなかった。ところがその大半は風に流されてわれわれの頭上を通過して、町のほうへ行ってしまった。何発かが傍に落ちた。田んぼの中と、となりの農家の屋根に落ちたのは確認できた。幸い瓦屋根だったのですぐに消し止めることが出来た。

 焼夷弾にも不発弾が多く、それらはいたるところに積み上げられていた。六角形をした筒型の焼夷弾が、戦後になっても何百本と放置されていた。それを玩具にして遊んでいるうちに、爆発して指が吹っ飛んだ子供も居た。(続く)


昭和は遠くなりにけり?(4)  高島りみこ

 

成人式の振り袖の代わりに、父と二人でヨーロッパツアーに出かけた一九八〇年。フランクフルトに到着した私たち一行は休む間もなく、小雨の降りしきる中、ライン下りの船に乗せられた。私が船上でビールを飲んでいると、小学生くらいにしか見えなかったのだろうか、周りの人たちに大変驚かれたものだ。

 ドイツ一泊目は古い伝統的な建物をホテルに改造したところだった。案内された部屋に入ると、そこにはダブルベッドがドドンと置かれてあった。ちょっと待ってください。私たち同じ名字の男女ですが、夫婦じゃありません。父娘なんですっ!と思ったが、父は「娘とひとつベッドで眠れるなんてラッキー」と嬉しそうにしている。申し訳ないが、こちとら小学生じゃないんだから「一緒に寝るなんてありえないからっ!」と速攻却下し父には一人、だだっ広いダブルベッドを使ってもらい、私は部屋の隅にあった予備の小さな簡易ベッドで眠ることとなった。まあ、娘は健全に成長していたわけですよ。

 このホテルの周辺は田園風景が広がり、街道の木々には雨に濡れたサクランボが赤く鈴なりになっていた。六月のヨーロッパの美しい景色として私の記憶に残っている。

 翌日はデュッセルドルフでの国際印刷・メディア印刷展「ドルッパ」の見学から始まり、夕刻にはケルンに到着。眼前には世界最大のゴシック建築・ケルン大聖堂が威厳をもって佇んでいた。夜の食事は、ツアーあるあるのドイツの伝統料理を食べさせるレストランで、豚足料理が自慢の店に連れて行かれた。幼い頃から肉が苦手な私は豚足を見たのも初めてで、足先の載った皿を驚愕の目で見つめ、その豚足を齧ってみたのか、別な料理にしてもらったのかは記憶から抹消されている。

 次の日、高速列車TGVに乗ってケルンからフランスのパリに到着。ルーブル美術館やら、モンマルトルの丘、ノートルダム大聖堂など、パリの観光名所をこれでもかと引きずり回されたが、記憶に残っているのは長ネギのマリネ(「ポワロー葱のヴィネグレットソース」というらしい)が殊更においしかったことと、その頃嵌まって読んでいたルイ=フェルディナン・セリーヌの原書を買うことができたことくらいだ。原書を読みこなす語学力などあるはずもなく、その後に読むことはなかった。フランス装だったセリーヌの本を自分で上製本に作り替えて、今も家のどこかに眠っている。たぶん開かれることなく、このまま永遠の眠りにつくものと思われる。ブランド物には全く興味がなかったから、他のツアー客が免税店に走っていくのを醒めた目で見つめていた。

 そして飛行機でツアー最後の訪問国、イギリスへと向かう。ドイツ、フランスは二泊だったが、イギリスはなんとロンドン一泊という超強硬日程で、ほぼバスから降りることなく市内観光を終え、ローストビーフの専門店へ。またしても苦手な肉ということでローストビーフの味などまったく覚えていない。付け合わせの野菜が砂を嚙んでいて、ジャリッとした……なんて、どうでもいいことを覚えている。

 アテネ、バンコクを経由して無事に成田に降り立ち、この旅は終わりを迎えたのだった。

 

ちょうどその頃パンクロックにも嵌まっていた私は、ひょんなことからロックミュージックのミニコミ誌の仲間に入れてもらった。その時の仲間の一人が、この「風狂」に詩作品を寄せている「さとうのりお」だから、彼との付き合いもかれこれ四十年近くになろうとしている。まさに腐れ縁である。

 高円寺駅から徒歩二分ほどのアパートの一室を事務所として使っていた。二階建てで十二部屋ほどあったかと思うが、二階の部屋はそれぞれに内階段がついていて、小さいながらもそれぞれ個別の庭もあり、当時としてはかなりモダンな造りだった。事務所だったが、全然知らない人間が寝ていたりしてかなりアバウトな場所だった。地方から東京にやってきて、泊まるところがなかったミュージシャンの卵を泊めていたのだろう。その中の一人にパンクバンド「スターリン」のヴォーカル遠藤ミチロウもいた。スターリンの本格的な事務所が決まるまで、ミチロウはしばらく私たちの事務所に逗留していた。その後三十年近く会うことはなかったが、先日、闘病生活から帰還することなく亡くなられた。心からご冥福をお祈りいたします。

 私たちの作っていたミニコミ誌の雑誌名は「Twist & Shout」で、三号で廃刊となった。スターリンの全国ツアー珍道中記があったり、訳の分からないダジャレのページがあったりと、相当にマニアックな雑誌だったと思う。私は新宿のライブハウスで一週間ぶっ続けで行われた、日本のインディーズ勢揃いのライブを取材ということで、ただで観させていただき、かなりレアな体験を記事にしたのだった。今でもたまにSNSなどで「Twist & Shout」の表紙を見かけたり、色あせたこの雑誌を持ってきて、「この高島さんて、高島さんですか?」と訊ねられることがあると、懐かしさと不意を突かれた恥ずかしさでいっぱいになるのだった。(続く)



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