閉じる


翻訳

アラン『大戦の思い出』(二十六) 高村昌憲 訳

   第二十二章

 

  私はヴィニェヴィルで長い期間を過ごしました。そこでは既に無線電信の職人になっていたCに再会しました。私たちはまさにそのことを話しましたが、私も同様に無線電信に従事していました。私たちは数々の困難にぶつかりました。そこから彼は目を眩ませる埃を抜け出ていました。しかし三十歳の頑固者は物分かりの良さは少しも望んでいません。私たちは希望を持つための誓いを繰返しました。そして最後に私は不気味な鉄道や、酷く貧しい下層民で一杯のガラス窓の無い貨車まで、雪景色の中を車で彷徨いました。その夜に私は肩にリュックサック背負って、バル=ル=ドックの舗道に滑り込んで、駅の監視員室まで這入り込もうと努めました。そこに私が出頭しなければならなかったのは、全ての通行禁止を見出すためでした。その様なものは兵隊の運命です。私は敵の障壁になることを強制されていましたが、伍長は私を少しも見ること無く、私の旅行許可証に日付と概要を記しました。私の戦争は終わりました。最早今では、私は兵舎での話しか話すべきではありません。私は広大な飛行場に降りました。そこでは全員が防衛していましたが、許可無しで出掛けるには少なくとも方法が七つあることを私は学びました。閉まりが悪い大きなバラックの中は、私には戦場よりも寒いものでした。しかし、私は色々なことを学びましたが、話したいのは取分け次のことです。教育するための技術は軍人たちの家にしかありません。何故でしょうか。何故ならば、理解する前に先ず学ばなければならないからです。そして、ここでは処罰が大変に厳しいものでした。全ての歩兵たちは手当たり次第に何でも学んだので、最早砲弾の音も聞きません。ところで私たちが学んだのは天気予報でしたが、それは色々な予想が当てにならないのと同じ様に解釈が厳しい学問でした。この学問は、先ず写しを取らなければならない五冊か六冊の手帳に全てが要約されていました。写しを取ることは大変に正しいことです。それは熟考する方法としては一番に良いことです。その次に気圧計や温度計やその他の全ての観測を行わなければなりませんでしたが、何度も行わなければなりませんでした。そのことも同じく正しいことです。というのも人は知る以上に信じることが早過ぎるからです。地図上の等圧線の曲線を引かなければなりませんでした。結局私は重くて太いペンのお陰で、電話で伝えることを正しく判断するしかありませんでした。しかし私の知識は無駄ではありませんでした。何故なら、夜の監視においても全てをやらなければならず、更に数字であったからです。

 私たちは、天気予報官の仕事を熱心に行うことで、殆ど全ての軍人の退屈から免れていました。しかしその偉大な率直さに、ついに犠牲者が出ました。軍艦にいたことがある大尉が私たち全員の上官でした。そしてその人は真の軍人でした。或る日、彼は正午に会議を行う命令を将校と飛行士たちに、正午の十五分前に出しましたが、私は気圧や風向きと同じで何も分かりません。私たちの中尉はそのことに関しては大変良く知っていて、数々の危惧があるそれらを強硬に披露しましたので、会議は行われませんでした。惨憺たる戦いになって仕舞いました。二時に中尉はランスへ送られることになりました。そして慌ただしく別れを私たちに告げました。私は絶対権力というものを知りました。私は、部下から上官への話を偶然に聞いた時に、この種のことが良く行われるのを予想しました。この単純な転任は、既婚者で毎晩自分の家で寝ていた者にとっては一種の不幸でした。ルイ十四世が支配していた様なやり方です。私たちも、意地悪な学者ぶった二人目の中尉の配下に置かれたのですから、同様に犠牲者でした。声が意地悪なのです。何故なら殆ど仕事に興味を示さなかったからです。そして彼は無礼であるだけ無知でしたので、私たちは彼を容易に罰しました。しかし私が言った様に、これは兵舎のお話です。時折、私は皮のベルトを締めて野菜屑を管理していた台所へ行きました。数々のキャベツの芯がある真ん中で、私は彫刻についての章を書いたのを思い出します。

 私は軍隊生活と共にそれも終わりましたが、天気予報について気付いた点を幾つかこの物語に少なくともつけ加えたいと思います。一つ目は、細かいことですが大変に奇妙なことです。それはパリでは南風が決して吹かないことです。風が南西部から北や東や南東へ吹く時、何時も北西側を通るのです。このことを私が言うと人々は信じられないと思いますが、そうでなかったことは少しもあり得なかったのです。そしてその特異性は、風向きが北から南西と南東の間を揺れることしか起きないので、記録する器具の構築にとっては重要なことが多くあるのです。私は天候の予測に関してもう一つのことを観察しました。それは翌日の予測よりも二週間先を予測することの方が容易であることです。地域的例外又は一次的例外に止まることがなければ、最初の場合でも気圧と風向きによって一般的な規定が予測されます。そして私が理解した様に屢々専門家も良く予想します。日々の連続が専門家に理性を与えます。ところが、翌日の予想は単純な農民に出来る予想と殆ど同じ成行きなのです。人は良く思考するので、総司令部は翌日とその夜の予想すら望みました。一人ひとりに大変強い服従の精神は、沢山の躊躇の後に慎重に霧と雨と晴れ間を混ぜながらも全ての危険を必ず告げていましたが、それは誰にも教えませんでした。それに反して、私は確かな俄雨が如何なるものかを知りましたが、それは鉄道列車の運行と殆ど同じ様に明らかなもので、一時間先を告げられるかも知れません。従って滑走路に沿った飛行場に俄雨を予想した後で、私たち自身がそこにいた時、私は静かな大空の下で腕時計を見たり、草の葉がそよぎ始めるのを窺ったりすることが出来ました。この種の予言が生じたのは取分けシャルトルからです。そこでは観測者が埃や麦藁の切れ端から小さな熱帯性低気圧の様相の下に俄雨になるのを見ました。結局のところその様にして私が学んだのは、殆ど雷雨になる絶対に過たないしるしが気圧による一律性を生んでいることであり、それは私が時々理解しようと試みていたことなのです。しかし、一九一七年一〇月に戦場から市民生活に戻ると、私は一日に二回受け取っていたメッセージが無くなりました。それらは私たちが天気予報を考察する材料として役立っていました。私はそこから農民風な方法に戻りました。しかし少なくとも私は観察することや、修正することや、道具を操作することを訓練させられましたし、それは軍隊式のやり方でした。つまり非常に厳密でした。もしも私が偶然に完全に軍職にいて銀行員であったなら、財政の未来を聡明に予言するのに何らの失敗もしないでしょう。聡明にということは、正確にと言いたくないのです。これは天気予報から私が教わったことです。いずれにしても私は財政や政治に対しては、雨に対するのと同じ様に、農民風のやり方に還元させられました。それは少なくとも大きくて明白なしるしに従って行動するもので、修正は小さいものです。政治に関しては労働者が予言すると同時に、支援する彼らのやり方が望まれるであろうことによるものです。それは純真な市民の幾つもの方法を十分に決定しますが、市民は偉大ではありません。しかし又、無価値で下らなくもないのです。

一九三一年記す

 

 私は、この一九三三年五月に、これらの頁を全て読み直しました。幾つかの調整は行うことになるでしょうが、これらの生彩ある意見を変える処は何処にもありません。それは或る人々には必ず気に入るものでしょうが、他の人々には気に入らないものかも知れません。命令するというやり方には数々の危険がありますし、服従するというやり方にも又、数々の危険があります。或る人々には数々の集団によって私が書いたものに倣って、それを熟考することに向けられるでしょうが、それは全て私が期待していることです。しかも、要するに私はそのことに強固な希望を持っているのです。(了)