びんそうしき 便奏式
便奏式 びんそうしき。
公式令便奏式に規定された律令制下の公文書の一つ。
下から天皇に奏上する文書で、太政官から天皇に上奏する事柄のうち、特に物品の下賜などの簡単軽微な事柄について、少納言から奏する時に用いる。事柄が軽微なので、必ずしも文書を作成せずとも、口奏でも良かったが、奏上後に、この書式による文書を作っておく必要があった。
ただ、延暦九(790)年五月十四日付の内侍宣(『類聚符宣抄』六)によれば、「進奏之紙、臭悪者多」として、少納言が叱責されているから、やはり紙に書いて奏する方が多かったのであろう。ただし、実例は現存しない。なお、天皇の行幸中、皇太子が留守として監国する時は、この式に準じ、奏を啓に、勅を令にかえて用いるというが、この実例も存在しない。
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ふしん 普請
普請 ふしん。
土木・建築工事のこと。本来は、仏教用語で、禅宗寺院で多くの人々に請い、労役に服してもらうこと。
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ふどき 風土記
風土記 ふどき。
風土記は、地方のことを書き記した書物の意の普通名詞であるが、日本では、和銅六(713)年に元明天皇の詔によって諸国に命じて郡郷の名の由来・土地の肥痩・産物・古伝説などを記して撰進させた地誌をいい、本来は、地方より中央官庁への報告公文書(解(げ)の書式をとる)であった。
風土は、ある地方の気候や地味・地勢などのありさま、気候と土地の生産力、土地の生活環境などの意で、大陸では『後漢書』以下の文献にしばしば見える。
一例として、『後漢書』循吏・衛颯伝には「民居二深山一浜二渓谷一、習二其風土一」とある。
風土記という書名も、周処撰の「風土記」という書名が、晋書〈周処伝〉・隋書〈経籍志〉・文選〈李善注〉に見える。
和銅6年の元明天皇の詔というのは、『続日本紀』に「(和銅六年)五月甲子(二日)。畿内(うちつくに)ト七(なな)ツノ道(みち)トノ諸(もろもろ)ノ国(くに)・郡(こほり)・郷(さと)、名(な)ハ著(つ)ケヨ二好(よ)キ字(な)ヲ一、其(そ)ノ郡内(くぬち)ニ所ノレ生(な)レル、銀(しろがね)・銅(あかがね)・彩色(いろとり)・草(くさ)・木(き)・禽(とり)・獣(けだもの)・魚(うを)・虫(むし)等(ら)ノ物(もの)ハ、具(つぶさ)ニ録(しる)シ二色目(しなじな)ヲ一、及(また)、土地(つち)ノ沃(こ)エタルト塉(や)セタルト、山(やま)・川(かは)・原(はら)・野(の)ノ名号(な)ノ所由(よれるよし)、又(また)、古老(ふるおきな)ノ相伝(つた)フル旧聞(ふること)異(あた)シ事(こと)、載(しる)シテ二于史籍(ふみ)ニ一言(マヲ)シテ上(たてまつ)レ」とあるのに因る。
ここに、「畿内七道諸国郡郷、名著好字」とあるところは、一般に「畿内七道諸国ノ郡郷名ニハ好キ字ヲ著ケ」と読まれているが、植垣節也氏は、『ここでそう解したのでは、「名は好き字を著けよ」と範囲から国が除かれ、郡と郷の名だけに関する命令になってしまう。ところが実際には諸国の反応はは、木の国が紀伊の国に、津の国が摂津の国に、改名改字を行っているのである』として、「畿内と七つの道との諸の国・郡・郷、名は好き字を著けよ」と解読されている。
現伝する古事記は、完本としては出雲国風土記が唯一で、省略本として常陸・播磨・豊後・肥前があり、ほかに、原本が散逸してしまい元の姿では伝来せず、他の本に引用されることによって復元できる逸文も、江戸時代初期の林羅山以下多くの学者によって採集が続けられている。
出雲国風土記の巻末記は、
「 天平(てんぴやう)五年(ねん)二月(きさらぎ)卅日(みそか)勘(かむが)ヘ造ル。
秋鹿(あいか)ノ郡(こほり)ノ人(ひと) 神宅(みやけ)ノ臣(おみ)金(かな)太理(たり)
国(くに)ノ造(みやつこ)ニシテ帯(お)ビタルニ意宇(おう)ノ郡(こほり)ノ大領(おほみやつこ)ヲ一外(げ)正(しやう)六(ろく)位(ゐ)上(じやう)勲(くん)十二等(とう) 出雲(いづも)ノ臣(おみ)広嶋(ひろしま)」
となっていて、公文書解(げ)の末尾の書式を示している。
また、常陸国風土記の総記の冒頭は、
「常陸(ひたち)ノ国(くに)ノ司(つかさ)ノ解(げ)。申(まを)スニ古老(ふるおきな)ノ相伝(あひつた)フル旧聞(ふること)ヲ一事(こと)。
問(と)フニ二国郡(くにこほり)ノ旧事(ふること)ヲ一、古老(ふるおきな)ノ答(こた)ヘテ曰(い)ハク、古者(いにしへは)、自(よ)リ二相模(さがむ)ノ国(くに)足柄(あしがら)ノ岳坂(やまさか)一以東(ひむがし)ノ諸(もろもろ)ノ県(あがた)ハ、惣(す)ベテ称(い)ヒキ二我姫(あづま)ノ国(くに)ト一。是(こ)ノ当時(とき)、不(ず)レ言(い)ハ二常陸(ひたち)ト一。唯(ただ)、称(い)ヒテ二新治(にひばり)・筑波(つくは)・茨城(うばらき)・那賀(なか)・久慈(くじ)・多珂(たか)ノ国(くに)ト一、各(おのもおのも)遣(や)リテ二造(みやつこ)・別(わけ)ヲ一令(し)メキ二検(か)校(と)ラ一。」
とあって、ここには明確に「常陸国司解」とある。
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ふよげゆじょう 不与解由状
不与解由状 ふよげゆじょう。
国司・在京諸司・役僧の交替に際して、後司が前司に対して直ちに解由状を与えることができない場合に作成される文書。
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ぶんげん 分限 「ぶげん」ともいう
分限 ぶんげん。 「ぶげん」ともいう。
社会における身分的・経済的地位をさす言葉。
身分・身の程・分際などの意味で、鎌倉時代ごろから、この思想はあったとされるが、身の程にあった振舞を分限相応といい、江戸時代になると、武士は禄高、農民は持高などに最も具体的に表示される分限に従って言行を律することが特に強調された。
分限相応の振舞は、封建社会の特徴的な思想であり、封建社会では、分限に従って一身の言行を律することは、最もふさわしい生き方として称えられた。また、富あるいは富者の意味に用いられることもあり、分限者などの使い方があり、この場合は「ぶけん」と読んだらしい。
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