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最後の夏 怪物野々村攻略へ

 友野高校のピッチャー坂本は立ち上がりこそ不安定で一点を失ったが、二回以降は立ち直り、九回まで投げて打たれたヒットは七本、与えた四死球は五つ、奪った三振は四つ。二回以降はランナーは許すものの要所を締めて無失点で切り抜けている。伝令の笹本にとって忙しい試合だった。

 一方、友野高校打線は八回まで野々村から打ったヒットは二本、もらった四死球が三つ。奪われた三振は十六個を数える。そして、得点はゼロだ。

 野々村のこの試合の最高球速は、二回裏四番山崎の二球目に投じたボールが計測した159キロだ。野々村は自己最速を更新したが目標にあげた160キロは出ていない。

 

 九回裏の攻撃を迎える前に、山崎は、監督がミーティングで野々村の攻略方法を唾を飛ばしながら熱く話していたのを思い出していた。

「野々村、あいつは怪物だ。簡単には打てないだろう。三振ばかりになるかもしれない。しかし、三振することを恐れることはない。思いきり三振すればいい。ストレート、スライダー、チェンジアップ。野々村のボールはどれも一級品で高校生離れしている。うちは、どんなボールにファールして食らいつき粘り強く攻撃するのが信条だが、それは野々村に対しては通用しない。しっかり狙い球を絞ってそのボールだけを待つしかない。狙い球がこなければ、あっさり三球三振でも構わない。それくらい割りきるしかない。そのかわり、狙い球が来たら迷わず思いきりバットを振りぬけ。そうすれば野々村を打てる。それと野々村の弱点はスタミナだ。後半コントロールも乱れるし球威も落ちる。後半まで接戦に持ち込めば、後半に攻略できる」

 野々村のボールは予想以上だ。山崎は二回裏の最初の打席でそれを感じた。

 山崎は狙い球がきたと、思いきりスイングし、ボールを捉えたと思ったのだが、バットがボールに当たった瞬間、バットが球威に負けて、自分の方がバックネットへ飛ばされるのではないかと感じた。完全に振り遅れ、球威に押された打球は野々村の前にコロコロと情けなく転がっていた。山崎は腰砕けになった体を起こし全力でファーストへと走ったが、塁間の半分走ったところで、ファーストにボールが渡っていた。

 監督がミーティングで話していた「三振が多くなる」これはやはり当たった。「狙い球を絞れば打てる」は残念ながら野々村のボールはバッターボックスで直に見るのと映像で見るのとでは別物だった。「野々村の弱点はスタミナだ。後半攻略できる」はどうなるのだろうか。確かに七回、八回は野々村の球速は落ちているしボールも浮きはじめていたが、それでも

打てなかった。残りの攻撃はこの九回裏のみ。ここまで坂本がよく踏ん張って後半勝負の接戦には持ち込めたと思う。あとは攻略できるか、だ。九回は六番の宮田からの打順で自分まで回って来ない。ベンチから声を張り上げ同点、逆転を信じるしかない。もう一度、あの打席に立ちたいと思いながら、宮田がバッターボックスに向かう背中を見た。

 

 九回裏は六番の宮田からだったが、野々村の球威に負けて詰まったセカンドゴロに倒れた。次のバッター西原はスリーボールツーストライクまで粘ったが、最後は148キロのストレート高めのボール玉に手を出してしまい空振りの三振。

 野々村のボールはスピードが落ちコントロールが微妙に狂い始めているが、それでも簡単に打てるわけがなかった。九回裏もすでにツーアウトになった。

 

『さぁ、三日目第三試合も大詰め、九回裏の友野高校の攻撃もツーアウトランナーがありません。得点差はわずかに一点。両チーム合わせてここまでの得点は、初回、昌徳高校四番大井くんの犠牲フライによる一点のみです』

 

 最後のバッターになるのか、八番の相馬がバッターボックスに向かう。

「相馬、ファーボールでもデッドボールでも何でもいいから塁に出てくれ」下山がベンチの一番前で顔の前で両手を合わせた。

 相馬はバットを一握り短く持ち、何度も素振りを繰り返した。バッターボックスに入り野々村に向かって「ウォー」と声を張り上げた。

 

『相馬くんも気合いが入っています。野々村くんはここまで完璧なピッチングですが、得点差は一点、まだわかりません。高崎さん、野球は何が起こるかわかりませんよね』

『そうですね。友野高校はまだ諦めてはいけませんよ。そして昌徳高校は最後まで気を抜かないことですね。野球は本当になにが起こるかわかりませんよ。特に甲子園というところは魔物が棲んでいますからね』

 

『えー試合やな~。こんな試合みてたら、わしら魔物はウズウズしてくるなぁ。なんか、かき回してやりたくなるなぁ』

 

 八番の相馬はワンーボールツーストライクから三球連続でボールを見極めファーボールで塁に出た。

 

『あっと、ファーボールです。ツーアウトから友野高校同点のランナーが出ました。野々村くん、最後のボールははっきりとボールとわかる球でした。少し勝ちを意識したのでしょうか』

『野々村くん、前の回から少し疲れが出てるようですし、勝ちを意識して力んでしまったんでしょうね』

 

 ツーアウト、ランナー一塁。バッターは坂本のところで代打が送られる。代打はムードメーカー笹本だ。

 

『友野高校、ここで代打ですね。ここまでよく投げてきましたピッチャーの坂本くんに代わって二年生の笹本くんですね。この試合、何度もピンチの場面で伝令に走りピンチを救いましたが、ここはバットで期待に応えたいところです』

 

「笹本、絶対に俺まで回せよ」

 ネクストバッターズサークルから下山が掠れた声で笹本に檄を飛ばした。

 笹本は丸い体をくるりと回して、ネクストバッターズサークルの下山の方に体を向けた。紅い頬が上がり細い目を一段と細くし笑みを浮かべた。

「下山先輩、任せて下さい」右手で厚い胸をドンと叩いた。

 笹本はちょこちょことした足取りで、左のバッターボックスに入った。バッターボックスに入った途端、人が変わったような鋭い目で野々村を睨み付け、「ウォー」とバットを野々村の方に向けて吠えた。

 

 笹本は粘りをみせた。スリーボールツーストライクからきわどい球を二球ファールにした。

 

『高崎さん、友野高校も粘り強いですね』

『素晴らしい粘りです。今年の友野高校の強さは、地方大会からのこの粘り強さですね。それがここにきて出ています』

『友野高校、地方大会では劣勢の試合でも後半粘っての逆転が目立ちました。その粘りがここにきて出ています』

 

 粘り強さは今年の友野高校の特徴だ。新チームの頃は、劣勢になるとすぐに諦めムードになるチームだったが、下山の負けん気の強さとがむしゃらさがチームに浸透していった。絶対に負けない、諦めないという強い気持ちをみんなが持つようになっていった。

 野々村が笹本に投じた八球目。外角高めに浮いたボールを笹本はコースに逆らわずジャストミートした。

 

『笹本くん、打った~。痛烈な打球が三遊間の真ん中を抜けていきます』

 

「よっしゃー、笹本~、よう打った~」下山が右手を突き上げた。

「笹本、ナイスバッティング~」蓑田もつられて右手をあげて、ネクストバッターズサークルへと向かった。

 下山がバッターボックスに向かう前に蓑田に声を掛けてきた。

「蓑田、俺は絶対にお前に回す。だから……、」少し声が震えていた。「絶対、去年の借りを返せよ」

 下山はヘルメットを深くかぶり下を向いて蓑田の肩を叩いてからバッターボックスへと向かった。蓑田は下山の表情を見ようとしたが見えなかった。

「う、うん、わかった」蓑田はそう言ったが下山は、すでに背中を向けていた。

「下山~」蓑田が大きな声で呼ぶと下山が振り向いた。

「なに?」

「これまで……、いろいろ、ありがとうな」

「ふん、それはこっちのセリフだ。ありがとな。この打席でお前に恩返しするよ。いや罪滅ぼしかな」

 下山は薄く笑みを浮かべ、そのままバッターボックスへと小走りで向かった。バッターボックスに立ち、昌徳高校の野々村に向かって声を張り上げた。

「うっしゃー、こーい」

 

 野々村がサインに頷いて、セットポジションに入った。少し間をおいて二塁ランナーを見てから初球を投げこんだ。

 下山は初球から積極的に打ちにいった。積極的に初球から打ちにいくところが下山の魅力だ。

 しかし、下山のフルスイングも低めスライダーに空をきった。野々村はここにきてギアーを上げたかのように切れのいいスライダーを投げてきた。

 下山は空振りしたあと、「クソー」と自分の頭をヘルメットの上からポンポンと右手で叩いた。

 バッターボックスに入り直し肩を上下してから息を「フーッ」と吐いて顔の前にバットを立てて目を閉じた。

「絶対に蓑田にまわしたい。頼む」バットに願いを込めた。

 また、野々村に向かって声を張り上げた。

「うっしゃー、こーい」

 二球目は外角ストレート。バットが出かかったが、寸前で止まった。きわどいが少し外れている。ボールだ。

 三球目は内角へストレート。きわどいコースにバットが出ない。判定はストライクだ。これで追い込まれた。ワンボールツーストライク。

 

「クソー、厳しいコースだ。さすが野々村だけど、俺は絶対にこいつを打つ」

 下山は、一度バッターボックスを外し素振りを繰り返してからバッターボックスに入りなおし、足元をならした。

「よーし、こーい」

 四球目、スライダーがきた。ストライクゾーンから低めへ鋭く曲がる。下山のバットは止まらない。下山の体制は完全に崩されたが、必死で食らいつこうとする。

 

『あーっ、と空振り~、三……、いや……』

 

「ファール、ファール」審判が両手を大きく上げた。

 下山はかろうじてバットに当て、ボールはキャッチャーの足元に転がっていた。

 三塁側アルプスから歓声が上がったあと、ファールの判定に一塁側アルプスからどよめきが起こった。

 

『なかなか、おもしろなってきたな。こんな試合は、やっぱりわしの出番やな。魔物らしいこと、どっかでしたくなってきたわ』

 

「下山、ナイス粘り~」蓑田は叫んだ。

「おーぅ、絶対に打つぞぉ。蓑田、しっかり準備しとけよ。お前下手くそなんやから、ボーッとしてたら三振するぞ」バッターボックスで野々村に視線をやったまま蓑田に声をかけた。

 

 五球目、またスライダーが外角にきた。さっきより少しコースは甘い。下山は体制を崩されたが、なんとか食らいついて引っかけるようにバットに当てた。

 

『下山君、打った~。打球は三游間へ。面白いところに飛んだ~。ショート菊田君、回りこんでよく追いついた~。深い位置からファーストへ~。タイミングはきわどいぞ~。アウトか? セーフか?』

 

 俊足の下山はヘッドスライディングでファーストベースに飛び込んだ。ファーストベース付近に甲子園の土が舞い上がる。下山の顔と胸は真っ黒になっていた。一塁ベース上で横たわったまま、左手でファーストベースにタッチし右手を横に広げてセーフをアピールしファースト塁審を見上げた。

 そして、ファースト塁審の手が大きく横に開いた。

 

『セーフ、セーフ、セーフだ~。下山君、執念のヘッドスライディングだ~。まだ友野高校の夏は終わりませ~ん。ツーアウト満塁です。友野高校、怪物野々村くんに食い下がります』

 

 下山は起き上がり、蓑田に向かって、真っ黒な顔から白い歯を覗かせて右腕を突き上げた。

 蓑田は、それを見て何度も何度も頷いた。「下山、やっぱりお前はすごいよ」熱いものが胸のなかで暴れている。そして大きく息を吐く。

「絶対に去年の借りを返す」

 

『九回裏ツーアウト満塁。友野高校、一打逆転のチャンスがやってきました』

 

「下山の執念に絶対にこたえるんだ」蓑田は心のなかで呟いた。

 

 昌徳高校がタイムをとり伝令がマウンドに向かった。

 

 蓑田はこれまでの厳しい練習や下山と口論を繰り返してきた一年間を思い出した。バットに願いを込めるように顔の前にバットを立てた。

 下山にはこの一年間何度も「下手くそ」と言われた。最初は腹が立っていたが、いつの間にか、そう言われることで気が楽になっていた。

「打たせてくれ」バットに向かってそう呟いた。

 

 マウンドに集まっていた昌徳高校の選手の輪が解けた。昌徳高校の選手達はみんな笑っていた。

 蓑田も負けずと笑顔をつくってから、バッターボックスに向かった。

「よーし、こい」ピッチャーに向かって声を張り上げたが下山や笹本ほどの迫力はない。少し声が震え、そしてその後、足がガクガクと震えだした。

 

『バッターは蓑田くん。高崎さん、ここではバッターの蓑田くんはどういうことを心掛ければいいでしょうか』

『そうですね、決してボールに手を出さないことですね。特に低めのスライダーを見極めることが出来るかでしょうね。それを見極められると野々村くんのストレートのスピードも落ちていますから、バッテリーとしては厳しくなります』

『蓑田君はここまでヒットはありません。ここでこの試合初ヒットが出れば、同点、もしくは逆転サヨナラという場面です』

 

 ピッチャー野々村がセットポジションに入る。

 

『ピッチャーの野々村くん、第一球を投げました。アウトコース低めのスライダーです』

 

 蓑田は頭の中が真っ白になってしまっていた。初球から打ちにいったが、低めのワンバウンドする明らかなボール球に空振りした。

 

『完全なボールのスライダーに蓑田くん、空振りです。高崎さん、手が出てしまいましたね』

『そうですね、この球を見極めないと、蓑田くん、厳しいですよ。少し力を抜いた方がいいでしょうね』

 

「こらー、蓑田、お前、相変わらず下手くそやなぁ。下手くそのくせしてビビってんじゃねえよ」下山がファーストベースの上に立って両手をメガホンにして叫んだ。

「うるさいなー」蓑田が下山に返した。

「やかましい、下手くそ、お前がヒット打てるなんてみんな思ってないから、とりあえずバットに当てるくらいしろよ。当てれば何が起こるかわからんからな」

「下手くそ下手くそって、一年間、聞き飽きたよ」蓑田の口から白い歯が覗いた。

 

 二球目は真ん中高めに外れてボール。

 三球目の内角ストレートはバックネットにファール。

 四球目は低めのスライダーにバットが止まりボール。

 

『蓑田君、ここはバットがよく止まりました。高崎さん蓑田くん、今はよく見ましたね』

『そうですね、少し落ち着いたようですね』

 

 五球目は野々村の方が力んで高めに大きく外れた。

 これで九回裏ツーアウト満塁スリーボールツーストライク、次が勝負の一球になる。

 

『さぁ、泣いても笑っても最後の一球です。高崎さん、しびれる展開ですね』

『そうですね、ここはピッチャーもバッターも結果を怖れず思いきりプレーしてほしいです』

『さぁ、野々村くん、セットポジションから第六球を投げました』

 

 内角のストレートが少し甘く入ってきた。蓑田はバットを出しにいく。少しつまらされた打球は三遊間へ飛んだ。ショート菊田の守備範囲だ。

 

『打った~。打球はショートへ。ショートの菊田くん、軽快なフットワークで打球の正面に入る』

 

 野々村が「よしっ」とグラブを叩いた。

 球場にいる選手、観衆、審判の視線が菊田に集まる。

 この試合菊田は一年生とは思えない軽快な守備を魅せている。ここでも軽快に打球の正面に入った。

 

 蓑田は全力でファーストへ走る。「クソー、完全につまらされた~」

 

 菊田がグラブを出す。

 

『あーっ、打球が菊田くんの前ではねた~』

 

 打球は菊田の手前でポーンと跳ねた。菊田はそれに対応しようとグラブを上げたが、ボールは菊田のグラブを嫌がるように、それより高く跳ねて、菊田の肩に当たった。

 

『打球はイレギュラーして菊田くんの肩に当たり、後ろに転がりました~』

 

 三塁ランナー相馬が同点のホームを踏む。そして逆転のランナー笹本も三塁を蹴ってホームへ向かってくる。丸い体を揺すってホームへと向かう。笹本は見た目では想像できないくらいに足が速い。

 

『レフトの下條くんがボールをとってホームへ投げる』

 

 笹本がヘッドスライディングする。レフトからのボールは間に合わない。笹本はユニフォームを真っ黒にしてホームベースをタッチした。

 

『セーフ、セーフ、セーフだぁ。サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ~』

 

 一塁ベースを駆け抜けた蓑田は、振り返り、笹本がホームにスライディングしている姿、相手のキャッチャーが肩を落としている姿、球審が右手を広げている姿を順番に見てから右腕を上げてガッツポーズした。セカンドベースにいた下山も蓑田に向かってガッツポーズした。

 

『なんということでしょう。ショート菊田くんの前でボールが高く跳ねました。やはり、やはり、ここ甲子園には魔物が棲んでいまーす。試合終了です。友野高校が九回裏、蓑田くんの逆転サヨナラタイムリーヒットで勝利しました』

 

 蓑田は軽い足取りでスキップでもするようにホームベースへともどっていった。ベンチから出てきた山崎に頭を何度も叩かれた。

 蓑田は、頭を叩かれながらショートに視線をやると、そこで立ち上がれないでいる菊田の姿があった。横で野々村が菊田の肩を叩いて笑っていた。菊田は野々村に抱えられてゆっくりと立ち上がり整列のためホームへとふらついた足取りで向かってきた。

 菊田の姿を見て、蓑田は去年の自分を思い出した。

 菊田と野々村が列に加わった。両チーム挨拶を交わし握手した。野々村は笑っていた。蓑田は菊田の表情を見ようとしたが下を向いたままで見えなかった。

 

 昌徳高校の選手がベンチ前で土を集めていたが、菊田の姿はそこになかった。

 

 

 

 


結局、甲子園には魔物はいなかった

 試合終了 昌徳高校 1対2x 友野高校

 

 試合終了後、蓑田はベンチでバットやグラブを片付けながら昌徳高校のベンチに視線をやり菊田の姿を探した。ベンチの隅で帽子を深くかぶり俯いている菊田の姿をみつけた。泣いているのだろうか。

 去年の自分を思い出した。ほとんど記憶にないが嗚咽していたのは確かだ。みんなに申し訳なかった。野球が恐くてやめたいと思った。

 今の菊田も辛く申し訳ない気持ちなのだろうか。いや、それ以上かもしれない。怪物野々村を擁し優勝候補と期待されたチーム。勝って当たり前と思われていたチームのレギュラーで唯一の一年生だ。イレギュラーしたとはいえ、後ろに逸らしてしまった。前に落としていたらアウトになって勝利していたかもしれない。アウトにできなくてもサヨナラ負けにはならず同点止まりだったかもしれない。そう考えて辛い気持ちになっているのではないだろうか。

 しかし、去年の俺とは違い記録はエラーではなく、ヒットなんだ。菊田よ、気にすることはない。

「野球やめるなよ。きっといいことあるから」菊田の姿を遠くで見ながら蓑田は呟いた。

 

 全員でグラウンドに向かって一礼しグラウンドを後にした。

 監督がマスコミのインタビューを受けていた。蓑田も決勝のサヨナラタイムリーを打ったということでインタビューを受けた。

「サヨナラタイムリーヒット、おめでとうございます」そう言われて、複雑な心境だった。

「ラッキーでした」と作り笑顔を浮かべて答えた。菊田のことを思うと喜べなかった。無愛想なインタビューになりインタビューしてくれている人も眉がハの字にしているのがわかった。話を盛り上げようとしてくれるのはわかるがやめてくれ、早く終わってくれと思った。

 息苦しいインタビューが終わってトイレに駆け込むと、洗面台でバシャバシャと顔を洗う背番号6が見えた。昌徳高校のユニフォームだ。菊田だ。おしっこが漏れそうだったが、今声をかけないと一生会うことはないだろう。声を掛けようか悩みながら背番号6が揺れるのを見つめた。菊田が顔を上げ背番号6が正面をむいた。背番号6の向こうの鏡に映る菊田はタオルで顔を拭きはじめた。拭く手をとめて鏡を覗きこんだ時に目が合った。

「あっ」菊田は目が合った瞬間、声をあげた。続けて「すいません。どうぞ」と言ってその場をあけた。蓑田が洗面台の順番を待っているのと勘違いしたようだ。

「あっ、いや」蓑田は何て声を掛ければいいか悩んでいたら、菊田が蓑田に気づいて先に声をかけた。

「あのっ、友野高校のセカンドの蓑田さん、ですよね」

「あっ、そう。菊田くんだね」

「あっ、はい、昌徳高校の菊田です。今日はナイスゲームでしたね。お疲れさまでした」菊田が笑みを浮かべながら頭を下げた。嗚咽をもらしている様子はなかった。

「そ、そうだな。お疲れさま」

「次の試合も頑張ってください」と右手を出してきた。笑みが満面に広がっていた。

「あ、ありがとう」蓑田は慌てて右手を出した。本当にこいつ一年生かと思うくらい落ち着いていた。去年の自分とはえらい違いだと思った。

 蓑田は菊田になにか声を掛けてやろうと思った。今日のイレギュラーのことに触れるべきか悩んだが、それはやめることにした。

「実は、去年うちは初戦で負けたんだ。それもあとアウト一つで勝てたのに俺の暴投で負けたんだよ」

「あっ、はい知ってます」菊田の日に焼けた真っ黒な顔から白い歯が覗いている。

「えっ、知ってるんだ」

「はい、去年あの試合はテレビでリアルタイムでみてましたし、今年になってからもスポーツニュースで流れてましたから」

 蓑田も去年のあのシーンがテレビで放映されたのは知っていた。

『あのエラーから一年、友野高校は忘れ物を取りに甲子園に帰ってきた』そんな内容で放映されていたらしい。

 しかし、蓑田はその映像をみたくなかったので、詳しくは知らない。

「俺の暴投のシーンが流れてたのかー。ちょっと恥ずかしいな」

「僕はしっかりみましたよ」菊田はニヤニヤと笑っている。

「そうなんだ」

「蓑田さん、打球に追い付くまでは、すごく素早くてグラブさばきも完璧だったのに、なぜかファーストへ投げる瞬間、体がファースト側に正面に向いてしまって、ギクシャクした動きになってましたよね。ボールをとってから慎重になりすぎたみたいに見えました」

「そ、そうかな」自分ではわからなかったが、そんなにギクシャクしてたのか。それに、なんなんだ、この一年生は? すげえな。俺よりしっかりしてるじゃないか。

 けど、ここは、先輩らしくアドバイスしておこう。

「で、さぁ」

「あっ、はい」

「俺は、あの暴投で野球をやめようとも思ったんだけど」

「えっ、そうだったんですか」

「うん、でもな、野球部のみんなのおかげで野球を続けることができた。そして、自分で言うのも、なんだけど、あのおかげですごく成長できたよ」

「そうですか。良かったですね」

「うん、良かった。だから菊田くんも今日のエラーで落ち込んで野球をやめるなんて思わないで、来年取り返すつもりで頑張ってくれよな」

 エラーと言ってしまったが、エラーではない。イレギュラーヒットだ。しまった、と蓑田は言いなおそうと思ったがタイミングを失った。

「ご心配していただいて、ありがとうございます。明日からイレギュラーしたくらいでエラーしないように練習に励みます。そして日本一のショートになります」白い歯をさっきより大きく覗かせていた。

「あっ、そ、そうか。が、がんばってな。それに、あれはエラーじゃないよな。イレギュラーしたもんな」

「でも、エラーみたいなもんでしょ。ボールを後ろに逸らしちゃいましたから。上手いショートなら、とれなくても体の前におとしています。後ろには逸らしません」

「そ、そうか。日本一のショートか」

「はい、日本一、いや世界一目指さないとダメですかね」

「うん、そうだな。世界一目指して頑張ってな」

「あれ打ったのは、蓑田さんでしたよね」

「そ、そうだけど」

「ヒーローですね」

 菊田は満面の笑みを浮かべているので悪気は無さそうだが、蓑田には嫌味のようにきこえた。

「いや、けど、やっぱりクリーンヒットじゃないからな。あれは、甲子園の魔物のおかげかな」

「甲子園の魔物……、ですか? ヘェー」菊田は意味深な笑みを浮かべて視線を宙にやった。魔物なんか信じてるのかよといった表情に見えた。

「甲子園の魔物は信じない?」

「うーん、そうですね。魔物がいるとしたら、甲子園じゃなくて自分のなかにいるんだと思います」

「自分のなかに魔物?」

「はい、あの打球をとる時、よし、これで勝ったと思ってボールから目を離してしまいました。僕が打球をとる前に勝ったと思ってしまった気持ち、それが魔物の正体だと思います」

「でも、イレギュラーしたのは魔物の仕業じゃないかな」

「イレギュラーは野球にはつきものですよ。魔物のせいじゃありません。それも頭にいれておくべきでした」

「すごいね」

「じゃあ、いきます。次の試合応援してます。蓑田さん、頑張ってください」

「ありがとう」

「失礼します」

 菊田は深々と頭を下げてトイレから出ていった。

 

 

 友野高校の次の対戦相手は、またも優勝候補。甲子園春夏合わせて六度の優勝を誇る相陰学園だ。野々村のような怪物ではないが安定感抜群の技巧派サウスポー川原と右の本格派遠藤を擁し、二人とも簡単には攻略できるピッチャーではない。打線は下位まで切れ目のない強力打線だ。投打にバランスのとれたチームだ。

 

 友野高校対相陰学園の試合は、初回から動いた。

 坂本はいきなり相陰学園のプロ注目の四番打者三浦にツーランホームランを浴びて二点の先制点を許した。

 二回はゼロで切り抜けたが、三回にはタイムリーツーベースとスクイズで三点を失った。

 三回までで五点のリードを許した。坂本の調子は悪くなかったが相陰打線はボール玉には手を出さないしきわどいコースはカットする。甘いコースを待って確実に仕止めてくる。盗塁、バント、エンドランとバッティング以外でも攻撃力のレベルは高い。坂本も自分の投球ができなくなっていた。

 二番手で投げた宮田も六回につかまった。満塁から走者一掃のタイムリーツーベースを打たれて得点差は八点になった。

 友野高校も七回に山崎のタイムリーヒットで一点返したが、八回に相陰学園二番手で登板していたピッチャーの遠藤にバックスクリーンに飛び込むソロホームランを浴びた。

 結局 友野高校 1対9 相陰学園 完敗だった。

 

 こんなスキのないチームと試合したのははじめてだった。相陰学園は、その後も勝ち上がり甲子園七度目の優勝を果たした。蓑田は相陰学園に勝てるチームなんてあるんだろうかと思った。あの攻撃は半端ないと思った時、野々村のピッチングが頭を過った。

 もし、二回戦で友野高校が昌徳高校に負けていて、昌徳高校と相陰学園が対戦していたら、どうなったのだろうか。

 怪物野々村VS相陰学園打線。注目の試合になっただろう。

 組合せ抽選会のあと、順当なら、この対決が二回戦でみられると、多くの高校野球ファンはワクワクしていたはずだ。

 しかし、順当にいかないのもスポーツの面白さだ。特に高校野球は何が起こるかわからない。

 菊田はバカにするかもしれないが、魔物が邪魔をすることがあるのだ。友野高校が昌徳高校にまさかのサヨナラ勝ちをして、夢の対決を期待していた多くの高校野球ファンは残念に思ったかもしれない。蓑田も昌徳高校と相陰学園、両方と対戦して、両校の凄さを肌で感じた。この二校が対戦したら、すごい試合になるんだろうなと思った。

 野々村のピッチングと相陰学園のしぶとくスキのない野球。興奮する試合になったことは間違いない。

 全くスキがなかった相陰学園にも魔物があらわれて邪魔をすることがあるのだろうか? 甲子園での試合をみるかぎり全くそんなことはなかった。魔物はえこひいきして相陰学園にはあらわれないのだろうか?

 菊田の言葉を思い出した。

「魔物がいるとしたら、甲子園じゃなくて自分のなかにいるんだと思います」

 確かにそうかもしれない。甲子園という大舞台で自分を見失い、そこに魔物が顔を出すのだ。それを頭にいれて練習し準備しておかないといけないんだろう。優勝経験豊富なスター選手が揃った相陰学園の選手たちはそれができているのだ。

 蓑田には、そこまでの経験も技術も精神力もなかっただけだ。しかし、魔物に邪魔をされてしくじってもいい。それも経験だ。きっと、それも魔物がくれた自分を大きくしてくれる未来へのプレゼントなのかもしれない。

 蓑田にとってはみんなに迷惑をかけたのは申し訳なかったが、魔物のおかげで良い経験ができたと、今になって思う。

「魔物よありがとう。けど、これからの人生は魔物に邪魔されないような準備をしておくよ。もし邪魔されても落ち込むことなく、前を向くよ」

 


夏のあとがき

『九回裏、ツーアウトランナー二塁三塁。一打出れば逆転サヨナラの場面です』

 

 小学二年生の翔太はプロ野球中継をテレビの前に釘づけになってみていた。応援するジャガーズが一点をリードしているが、最終回サヨナラ負けのピンチをむかえ、翔太は祈るように両手を合わせていた。

「翔太、目を悪くするから後ろでみなさい」キッチンに立つ母親から注意されるが、全く耳には入っていない。

「お父さんが近くでみるから翔太も真似するんじゃない」父親も翔太の隣にあぐらをかきテレビの前に陣取っていた。

「この試合終わったらな」翔太の隣で同じポーズで応援する父親がテレビ画面から目を離さずに言った。

「はぁー」母親は同じポーズでテレビの前に並ぶ二人を呆れるように見ていた。

 

『打った~。打球は三遊間に飛んだ~』

 

「うわー、ヤバーイ」翔太は悲鳴をあげた。

「ショートとれー」父親も叫んだ。

 

『ショートがまわりこんで打球に追い付いたー』

 

「よーし、さすが菊田~」翔太が叫んだ。

 

『おーっと、打球がイレギュラーして大きくはねたー』

 

「うそー」

 

『ショートの菊田、そのボールを軽快なグラブさばきでとりました』

 

「よしっ」

 

『三遊間の深い所から一塁へ、矢のような送球』

 

「アウトになれー」胸の前で合わす翔太の両手は汗ばんでいた。

 

『ファーストは間一髪アウトでーす』

 

「よーし、勝ったー。フゥー、危なかった。でもさすが菊田だー」翔太は汗ばんだ両手をあげて喜んだ。隣の父親とハイタッチした。

 

『スリーアウト、試合終了です。最後は、さすが、三年連続ゴールデングラブの菊田の守備でした。ヒットゾーンの当たりも難なくさばいてみせます』

 

「やっぱり、すげえな菊田は。俺も菊田みたいなプロ野球選手になりたいな」

 翔太はプロ野球で活躍する菊田のプレーに目を輝かせていた。

 

「今の菊田があるのも俺のおかげだなぁ」父親は母親の忠告通り後ろに下がりソファに腰掛けながら言った。

 翔太もそれにならって父親の隣に座った。

「お父さん、菊田選手と知り合いなのか」

「ハハハ、まぁな。高校の時、甲子園で対戦したことがあるんだよ」

「えっ、本当?」翔太は父親の顔をじっと見た。その後、母親に視線をやった。母親が首を傾げたのを見て、また父親の顔を見た。

「なに、翔太は信じてないのか」

「うーん、信じられない。お母さん、本当?」翔太はもう一度、母親に視線をやった。

「甲子園で対戦したのは本当だけどね。お父さんのおかげで菊田選手の今があるかは疑問かな」

「何言ってんの。菊田との試合の後、菊田がエラーして落ち込んでたから、俺がちょっとアドバイスしてやったんだ」

「うそでしょ」翔太が目を丸くして父親の顔を覗きこんだ。

「うそじゃないよ、本当だよ。菊田がエラーして落ち込んで野球やめるって言ってたのを俺が止めたんだ。これくらいのことでやめるな、これをバネにして、これから練習に励めって言ってやったんだよ」

「それ、本当なら、お父さん、すごいよ」

「ハハハ、本当に決まってるだろ。翔太はお父さんのこと見直したか?」

「うん、すごい」

「翔太にそう言ってもらって父さんも嬉しいよ」

「お母さん、お父さんが菊田選手にアドバイスしたことは知ってるの?」

「うーん、どうなのかな。試合のあと菊田選手に偶然トイレで会って話ししたのはきいてたけど。別にお父さんと話したから菊田選手の今があるわけじゃないと思うけど」

「いいや、菊田はあの試合でエラーして野球をやめるかもしれなかったんだぞ。俺のアドバイスのおかげで野球を続けてるんだって。あの時、菊田は俺に約束したんだ。こんなことでくじけずに野球を続けます。そして日本一のショート、いや世界一のショートになります。そう言ったんだ」

「そうかなぁ。菊田選手は、あなたと違ってそんな柔なタイプじゃなかったと思うけど」

「いーや、俺が見た時、菊田は泣きじゃくってたんだぞ」

「ふーん」

「なに、その顔。信用してないのか」

「菊田選手って、あの時、悔しそうにはしてたけど泣いてるように見えなかったから」

「アルプスから見てるだけじゃわからないよ。菊田も今でこそスーパースターだけど、高校生の頃は子供だったからな」

「あなたの方こそ、その前の年にエラーして落ち込んで泣いてたじゃない。わたしが声掛けてなかったら、野球やめてたでしょ」

「翔太の前で、でまかせ言うな」

「でまかせじゃないでしょ」

「あれは、ちょっと悩んでただけだ。里美こそ俺に声掛けるチャンスだと思ってたんじゃないのか」

「ふん、なに偉そうに言ってんの。わたしはあの時、全くそんな気なかったからね。監督に頼まれたから、仕方なく声掛けたんだからね」

 

『おいおい、子供の前やぞ。夫婦喧嘩するなよな。どっちにしろ、すべては、わし、魔物がお前らを成長させるためにやったことや。菊田はあの試合でわしのイタズラに対応出来なかったけど、その後ポジティブにとらえて練習に取り組み、今の菊田選手がある。蓑田はフラフラしたけど、周りの仲間に支えられながら成長して、周りの有り難さに気付くことができた。わしも計算外やったけど、監督が蓑田に送りこんだ刺客と結婚して幸せにもなれたしな。まっ、全てうまくいったわ。それから、わしは菊田の言うとおり、甲子園にいるわけやない。みんなの心に潜んでるんや。だから、いつ姿見せるかわからん。普段から心の準備はしといた方がええで』

 


この本の内容は以上です。


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