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リラックスの時

「フゥー、疲れた~」

 練習を終え宿泊するホテルの部屋に戻った蓑田はバッグをドンと床に落として、ぐったりと椅子の背もたれに体をあずけ足を前につきだして座った。

 部屋に入った瞬間、きれいにメイクされたベッドが目に飛び込んできたので、ベッドに思い切りヘッドスライディングしたいという欲求がわいてきたが、泥と汗にまみれた自分のユニフォーム姿を見て、さすがにそれは躊躇した。

 いっしょに部屋に入った山崎はバッグを床に置いてから首をまわしたり、腰をひねったり、アキレス腱を伸ばしたりとストレッチを始めた。それらが一通り終わると台の下に設置してあるサイコロ型の小さな冷蔵庫からペットボトルのミネラルウォーターを取り出し椅子に腰掛けた。よく冷えたペットボトルのフタをあけるとクイッと一口飲んで「フゥー」と息を吐いた。

 隣でだらしなく座る蓑田が「俺もくれ~」と右手を差し出した。山崎はもう一口飲んでから、ペットボトルを蓑田の出す右手に渡した。

「ホイ」

「サンキュー」

 蓑田はペットボトルを受けとると逆さまになるほど傾け一気に飲み干してしまった。山崎はその様子を眉をハの字にし口角を上げながら見ていた。

「冷蔵庫にもう一本入ってたぞ」

 山崎はそう言って、腰を屈め冷蔵庫から新しいミネラルウォーターを取り出した。

「いや、もう大丈夫。スッキリした」

 空になったペットボトルをガラスのテーブルの上に置いた。

「フン、俺が飲みたいんだよ。お前が全部飲むとは思わなかったよ」

「あー、ごめん、ごめん。山崎にはついつい甘えちゃうんだよな」蓑田は坊主頭を掻いた。

「別にいいけど」そう言って山崎はミネラルウォーターを一口飲んで宙を眺めた。

「それにしても、今日はみんな気合いが入ってたよな」蓑田が座り直して姿勢を正してから言った。

「みんなの目の色が一日で変わったからビックリしたわ」

「みんなが必死で練習するから、俺もクタクタになった」蓑田は、また座る姿勢を崩し腕をダランと下げ顎を上げた。「ハァー、疲れたー」

「ミノ、先にシャワー浴びてこいよ」

「いーよ、ヤマ、先にいけよ」

「俺、今から、ちょっと母ちゃんに電話すっから」山崎が携帯を持ち上げ蓑田の方にかざした。

「あっ、そうか、わかった。じゃあ、お先に~。ハァー、疲れた~」蓑田が立ち上がり浴室へと向かった。

「おぅ、ゆっくり疲れとれよ」

「はいよ~」蓑田は山崎の方を見ないでヒラヒラと手を振って浴室へと消えていった。

 山崎がドアが閉まるのを確認してから母親に電話をかけた。

 母親はすぐに電話に出た。

「はいはい、茂樹、お疲れさんだねぇ」

「ああ」

「昨日の抽選会、テレビで観たわよ。相手の学校、強いらしいじゃない?」

「ああ、まあ、ピッチャーが、プロ注目のピッチャーだからな」

「知ってる。野々村って子でしょ。予選の頃からテレビでよくやってた。160キロ以上のボールが投げれるピッチャーだって。ドラフトの目玉だ、日本の宝だ、大切に育てないといけない、だって。本当、うるさかったわ。うちの茂樹だって宝だよって、テレビに向かって怒鳴りたかったわ」

「ハハハ、で、怒鳴らなかったの」

「さすがにね、一人でテレビに怒鳴ってたらバカみたいじゃない」

「確かに」

「野々村って子、この間もテレビに出てて、甲子園では160キロを出します、て言ってたわ。背も高くてイケメンで、女の子からも人気あるみたいね。まっ、茂樹にはかなわないだろうけどね」

「ハハ」山崎は苦笑いを浮かべた。

 そのテレビは山崎も見ていた。甲子園に出場する注目選手を紹介する番組だった。番組で一番長い時間をとってたのが野々村だった。インタビューで目標は?と訊かれて『全国制覇して昌徳高校に新しい歴史を刻むことと甲子園で160キロを出すことです』と力強く話していた。怪物と言われる男だが、顔だけ見てると目がクリクリしていて女の子みたいだ。インタビューの間もニコニコと笑みを絶やさず、アイドルのインタビューのようだった。たまに、はにかむ顔が人気の理由らしい。山崎も抽選会の後のインタビューで、はにかんでみようとしたが、どうもうまくいかなかった。はにかむというより、ひきつった笑みになってしまった。

「ところで、どう? 体調とか大丈夫?」

「ああ、大丈夫。元気、元気」

「宿舎の食事は?」

「うん、美味しいよ」

「そう、それなら良かった。試合の日はお父さんと二人で甲子園に応援行くからね」

「父さん、来れるの?」

「うん、大丈夫だって。去年は仕事で行けなかったから、今年は絶対行くって、張り切ってる」

「そう、父さん、仕事忙しそうだもんな」

「でも、茂樹のカッコいい姿、生で見ないともったいないって言ってた」

「カッコいいとこ見せれるかな」

「大丈夫よ。私たちにとっては、茂樹の姿は全てがカッコいいから。野々村なんて全然カッコよくないわ」

「ハハ……」頭を掻きながらまた苦く笑う。

「お爺ちゃんとお婆ちゃんはテレビで応援するって言ってたわ」

「そう」

「お婆ちゃんは昨日の抽選会を録画してて、あなたの出てるシーンばかり何度もみてるみたい」

「婆ちゃんらしいな」

「そうね、みんな喜んでるわ。頑張ってね」

「まぁ、頑張るけど簡単な相手じゃないからな」

「あまり難しく考えないで、相手は強いんだから、負けてもしかたないじゃない。甲子園で楽しんで野球やればいいのよ」

「うん、でも監督は絶対勝つつもりで試合に挑めって言ってるからな」

「へぇー、それって勝利至上主義ってやつ? プロじゃないんだから」受話器の向こうで眉をひそめる母親の顔が浮かんだ。感情の変化が激しい母親は、さっきまでの晴れ渡った感情から曇り空に変わったようだ。この後、嵐になることがよくあることを山崎はわかっている。

「勝利至上主義ってわけじゃないんだけどね」

「じゃあ、負けてもいいじゃない。勝っても負けても参加することに意義があるっていうじゃない。相手が強いんだし、それでいいじゃない」

 声のトーンで少しずつ嵐へ近づいていくのがわかる。

「参加することに意義があるって、それって、オリンピックじゃない」

「そんなの、どうでもいいのよ。勝つことが全てではないってことが言いたいの。勝利至上主義だと最近問題になってる暴力とか体罰とかにつながるでしょ。甲子園だからって、いい格好する必要ないのよ。負けてもいいの。わたしから監督に文句言ってあげようか」

「大丈夫だよ。監督は勝利至上主義なんかじゃないよ」

「じゃあ、負けてもいいじゃない」

「監督が言いたいのは勝つための準備をして試合に挑めってことなんだ」

「それが勝利至上主義でしょ」

「ちょっと違うよ。監督は、本当は勝ち負けにこだわってるわけじゃないんだ。試合に挑む俺たちの気持ちにこだわっているんだよ。勝つために準備する気持ちを持ってほしいってことなんだよ」

「ふーん、よくわからないけど」

「勝て、じゃなくて俺たちに勝ちたいと思ってほしいんだよ。勝つって目標がある方が努力するでしょ。その努力をしてほしいってこと」

「あぁ、そうなの」

「せっかく与えられた甲子園という大舞台で野々村という凄いピッチャーと対戦出来るんだ。こんな経験、そうそう出来るもんじゃない。それを中途半端な気持ちで挑むのはもったいないんだ。勝ちたいと思って試合に挑む方が俺たちの気持ちも盛り上がって努力する。きっとそれが俺たちの成長に繋がるんだ」

「ふーん、茂樹も知らない間に立派なこと言うようになったね」

 嵐になる前に気持ちが冷めてくれたようだ。

「組み合わせが決まってから野々村をどう攻略するかとか、みんなで映像をみながら必死で考えたよ。野々村は何度みても凄いピッチャーなんだ。それで、みんな段々興奮してきて今日の練習はすごく盛り上がったよ。練習終わってからも、さっきまで野々村をイメージしてみんなで素振りしたりしてた。相手が強ければ強いほど、そして勝ちたい気持ちが強くなればなるほど、みんなが一つになれるんだなと思った」

「あー、そうなの。とりあえず、あなたが楽しめてるならお母さんはそれでいいわ」

 

 視界の端に蓑田の姿が入ってきた。視線を向けると蓑田が浴室から出てきたところで、にこりとこちらに笑みを送ってきた。

「うん、じゃあ、そろそろ俺シャワー浴びてくるわ。この後ミーティングもあるし」

「はーい、電話ありがとうね」

 

「おふくろさんか?」蓑田がパンツ一丁のまま坊主頭をバスタオルで拭いている。すでに乾いているので、バスタオルで拭いてもあまり意味がないように思えた。

「あー、たまに電話しとかないとな。ここまで野球やらせてもらったから感謝もしてるし」

「ヤマは親思いだよな。なんか、すごい大人だよ。野球部みんなに気配りもできるし、キャプテンとしてみんなをまとめてるし、本当凄い」蓑田がバスタオルを肩にかけベッドに腰を下ろした。

「そんなことないよ。キャプテンやって一年間大変だったけどミノにいっぱい助けてもらった。本当ありがとう」椅子に座ったまま膝に手を置いて山崎が頭を下げた。

「あらたまって、そんな……、照れるなぁ」蓑田が坊主頭を掻いた。

「ハハハ、俺も照れるわ」山崎は下を向いておでこを掻いた。

「でも、あと少しで終わりだな」

「そうだな……」山崎が宙に視線をやった。「負けたら……、終わりなんだよな」

「少しでも長くみんなと野球がしたい。だから絶対野々村を攻略したい」蓑田が宙に向かって叫んだ。

「あー、みんな同じ気持ちだ。最後にやっとみんなが同じ気持ちなった気がする。ある意味、こうなれたのは野々村のおかげかもな。あいつが凄いから、みんなの目の色が変わったんだと思う。みんなであいつを攻略しないといけない、そう思うようになったんだ。でないと、俺たちの夏は終わってしまうから」

「そうだな。最初は昌徳に決まって弱気なこと言ってた奴もいたけど、やっぱりみんな勝ちたいんだよ。少しでも長く一緒に野球がやりたいんだ。野々村の映像をみて、みんなの気持ちに火がついたんだと思う」

「野々村の弱点は終盤だ。少し制球が乱れる」

「うん」野々村のピッチングの映像が蓑田の頭に浮かんだ。

「それに坂本も絶好調だ。きっと相手の打線をおさえてくれる」

「2対1で友野高校の勝利。これでどう?」

「うん、いいね。そんな試合にしたい」

「きっと、そうなる」

 お互い顔を見て頷いた。

「じゃあ、俺もシャワー浴びてくるな」山崎は立ち上がり浴室へ向かおうとした。

「いってらー」蓑田が右手をヒラヒラとした。

「あっ、そういえば、さっきミノの携帯鳴ってたわ。メールじゃないかな」

「あっ、そう。後で携帯見てみるわ」多分あいつからだ、と蓑田は思った。

 蓑田は山崎が風呂のドアを閉めたのを確認してから携帯のメールを開いた。

 

『今日の調子はどう? 野々村攻略はできそうかな? ミノっちならきっとやってくれるよね。暇な時があったら声が聞きたいなぁ』

 

「やっぱり~」蓑田の頬が緩んだ。そして、すぐに電話をした。

 コール二回で相手が電話に出た。

「もしもし~、里美~」

「ミノっち、お疲れ~。元気~」

「うん、元気、元気~。里美の声聞いて一段と元気~」

「よかった~。チームの雰囲気はどう? 昨日は昌徳に決まって、みんな元気ないって言ってたけど」

「いや、今はみんな燃えてる。野々村を打ち崩すんだって必死で練習してる」

「そうか~、それならよかったわ。最後だもんね。やるしかないよ」

「そう、みんな最後の夏を少しでも長くいっしょに戦いたいから、気持ちがひとつになった気がする」

「そう、それはよかった」

「去年の先輩たちもこんな気持ちだったんだろ?」

「うん、みんな少しでも長くいっしょに野球をやろうって言ってた。野口くんも間宮くんも、すごーく燃えてた」

「それなのに、俺の暴投で終わらせちゃったんだもんなぁ」

「あー、また言ってる。もう終わったこと。みんな気にしてないから」

「うん、わかってんだけど、ついつい思い出すよ。あの時の暴投のシーンが今でも頭に浮かぶことがあるんだ。もしあの試合に勝ってたら先輩たち、どこまで勝ち進めたんだろうな、とも思う」

「どうかな。次の相手も強かったしね」

「あの時、俺の所にボールが飛んでこなかったらよかったのにと思うこともあるんだ。けど……」蓑田が言葉につまった。

「けど?」

「うん。けど、もし、俺が暴投してなかったら、今ごろ『里美』なんて呼んでないかもしれないなぁって思う。今でも「板野先輩」のままだったのかもしれないなぁって」

「そうね、わたしも監督に頼まれなかったら、ミノに声掛けなかっただろうね」

「そういう意味じゃ、俺、良かったのかな」

「さぁ、わかんない」

「なに、それ」

「別に。それより山崎くんは?」

「元気だよ。今シャワー浴びてる」

「山崎くんもキャプテンとしてよーく頑張ったよね」

「うん、山崎はやっぱり凄いよ」

 浴室のドアに視線をやると、ちょうどドアが開いて山崎が出てきた。上半身は裸だ。顔から吹き出てくる汗をバスタオルで必死で拭いている。

「あっ、山崎、出てきたわ。じゃあ、また」

「あ、うん。山崎くんにもよろしく。みんな頑張ってね」

「わかった、頑張る」

 蓑田が携帯の通話終了のボタンを押して携帯をベッドの上に置いた。

「ヤマ、すっきりしたか」

「ああ、けど、アツい、アツい」

 汗かきの山崎は上半身、汗びっしょりになっていた。

「シャワー浴びたとこなのに、もう汗かいてるぞ」

「あー、アツいからな。ハァー、アツいアツい」

「この辺りがエアコンの風がきて気持ちいいぞ」

 蓑田は自分が座っている場所をあけ体を横にずらし、あけた場所を右手でパンパンと叩いた。

「サンキュー」山崎が蓑田の隣に座りエアコンの風に当たった。「あー涼しい風がくる~」エアコンの風が山崎の顔に当たって目を細めている。「気持ちいいけど、やっぱりアツいアツい」

「これでどうだ」蓑田が立ち上がって肩にかけていたバスタオルを外して山崎に風を送るように両手でバタバタと仰いだ。

「サンキュー。けど、まだまだ、アツいアツい」

「えー、暑がり過ぎだ~」蓑田は眉をハの字にして仰ぐバスタオルのスピードをあげた。

「お前のせいだよ」山崎が蓑田に顎を向けた。

「なんで? こんなに必死に仰いでんだぞ」一段と仰ぐスピードを上げたが、すぐに力尽きた。「フゥー、もう限界。休憩だ」また、山崎の隣に座った。

「さっきの電話だよ」山崎が蓑田を横目で見た。

「えっ」蓑田が山崎に顔を向けた。

「さっきの電話、板野先輩だろ」蓑田のほっぺたを思い切りつねった。

「ふああっ、ふぉうだへど」ほっぺたをつねられたままで上手く発音できない。

「やっぱりな。アツいはずだわ」山崎がほっぺたをつねった手を外し、蓑田の頭をパンとはたいた。

「痛えな」

「鼻の下伸ばして嬉しそうな顔しやがって」

「鼻の下なんて伸ばしてねぇし」

「あーぁ、ミノはいいなぁ」山崎はベッドに横たわった。「さっきも、里美~、とかやってたんだろうなぁ」寝転がったまま、ベッドにある枕を抱きしめながら言った。

「やってねぇし」

「羨ましいなぁー」

「ヤマは誰か好きな娘いないのかよ」

「俺? そうだなぁ」

「いんのかよ」

「音楽の山中先生かな」

「えっ、年上じゃねえか」

「お前だって板野先輩は年上だろ」

「さと……、あっ、い、板野先輩は学年は上だけど、生まれた年は一緒だからな」

「えっ、今、さとみって言いかけた? ハハハ。やっぱりアツいアツい」

「うっせえなぁ。それよりヤマと山中先生だと歳が離れすぎだろ」

「うーん、山中先生って何歳だろ」

「二十五歳くらい?」

「わかんないけど、歳なんて関係ないよ」

「今年もブラスバンドの応援で来てくれるんだろ」

「そうみたいだ」

「じゃあ、『山中先生、僕がホームラン打ったら付き合ってください』ってのはどう?」

「うるせぇ」

「照れんなよ」

 

 その時、山崎の携帯がせわしなく鳴った。携帯を手にした山崎の顔から笑顔が消えていった。

「誰?」

「や、やばい。監督だ。監督とミーティングの時間だ。まじでやばい、ミノ、俺、先に行くな」

 山崎は慌ててジャージを着て部屋を後にした。

 

 

 

 

 


最後の夏 甲子園初戦 一回表

 友野高校のスターティングメンバー

 一番ショート 下山

 二番セカンド 蓑田

 三番センター 小宮山

 四番キャッチャー 山崎

 五番レフト 榊原

 六番ファースト 宮田

 七番ライト 西原

 八番サード 相馬

 九番ピッチャー 坂本

 

 昌徳高校のスターティングメンバー

 一番ショート 菊田

 二番センター 宮中

 三番ライト 大平

 四番ファースト 大井

 五番レフト 下條

 六番サード 水木

 七番セカンド 山内

 八番キャッチャー 近藤

 九番ピッチャー 野々村

 

《一回の表、昌徳高校の攻撃は一番ショート菊田くん、ショート菊田くん》

 球場内に透き通った声がこだまする。主審が右手を上げて試合開始を告げた。

 三塁側アルプススタンドから力強いブラスバンドの演奏が始まった。

 

『さぁ、試合開始です。一回表、昌徳高校の攻撃は一年生のショート菊田くんです。高崎さん、一年生で一番ショートをまかされるのは凄いですよね』

『そうですね、予選を観させてもらいましたが、足もありますし、守備もいいですし、バッティングも非凡なものがあります。一年生とは思えない本当に楽しみな選手ですね』

『昌徳高校は野々村くんばかりが注目されていますがこの一年生の菊田くんも注目の選手です』

 

「この一年生は気を付けろよ。一年生でまだ体は小さいが油断するな。足もあるし、以外とパンチ力もあるからな。まっ、ストレートには強いけど変化球に対しては、まだまだ一年生だ。脆さもある」 

 坂本は、監督の言葉を思い出していた。昌徳打線の対策のためのバッテリーミーティングの時だった。ホテルの会議室に自分と山崎、宮田、塚原、笹本の五人が一番前のテーブルに横一列に座り、前のテレビに映る菊田の予選の映像をみている時の言葉だった。

 たしか、あのミーティングの時、めずらしく山崎が遅れてきた。「遅れてすいません」と会議室に入り、慌てて自分の隣に汗びっしょりのまま座った。監督が山崎に「これ見ながらしっかり聞いておけ」と山崎の前に一冊のノートをポンと置いた。山崎がノートを開いたので、覗きこむとビッシリと昌徳高校の選手のデータが書き込まれていた。あのミーティングは抽選会の次の日だったのに、監督は一日であれだけのことを調べあげたんだと驚いた。

 

 山崎のサインを覗き込んだ。初球は外角低めストレートか。ストレートでカウントをとって、最後は変化球で三振といきたいところだな。山崎もそんなプランなんだろう。体も軽いし、意外と緊張もしていない。いい感じだ。

「よーし」野々村に負けてたまるか。

 長身の坂本は気合い充分で大きくふりかぶった。

 

『坂本くん、ふりかぶって第一球を投げました』

 

「おりゃぁー」坂本がめずらしく声をあげた。しかし、力が入りすぎた感がある。フォームがバラバラになり、アウトステップになってしまった。

 

『あーっ、ボールはキャッチャー山崎くんの構えるミットとは逆の方向にきました~』

 

 坂本は力が入りすぎ、左バッター菊田のアウトコース低めに投げようとしたボールがインコースに入ってきた。いや、インコースどころか、ボールは菊田の体めがけて向かってきた。

 

「あーっ」思わず山崎が声をあげた。

 菊田は打つ気満々で踏み込んでいったが、慌てて体を後ろへ下げた。

《ドン》

 鈍い音がしてボールは菊田の足元にポトリと落ちた。アルプススタンドのブラスバンドの演奏が止み球場が静まりかえった。

 菊田はその場に倒れこんだ。山崎は顔を歪めてガクッと首を折った。

「まじかよ」下山がマウンドの坂本のもとへと向かう。

 蓑田は黙ってマウンドへと走って行った。サードの相馬も続いてマウンドへ行った。ファーストの宮田は倒れる菊田の方へ向かった。

 

『あーっと、デッドボールです。ボールは菊田くんの足に当たったでしょうか? 菊田くん倒れこんでしまいました。痛そうですが大丈夫でしょうか』

 

 山崎が菊田の横で屈んで苦しそうな菊田の顔を覗き込んだ。

「すいません。大丈夫ですか」

 菊田は顔を歪めて太ももの辺りを右手で押さえている。左手はぎゅっと拳を握っている。両校ベンチからスプレーを持った選手が菊田のもとに駆け寄った。ベンチから出てきた昌徳高校の選手が菊田の太ももにスプレーをかけはじめる。

 山崎はその横で様子を見ていた。菊田も心配だが坂本も心配だ。視線を坂本にやった。帽子をとってこっちを見ている。顔面が蒼白だ。坂本の横には蓑田と下山、相馬が立っていた。

 

「おいおい、力みすぎ。野々村より先に160キロでも投げようと思ったのかよ」下山が笑いながら坂本の尻をグラブで叩いた。

「さっ、切り替え、切り替え」蓑田も坂本に声をかけて肩をポンと叩いてから、坂本の顔を覗きこみニターと笑った。

「ああ」坂本は笑顔をつくっていたが、蓑田に目を合わせないで倒れる菊田の方に体を向けたまま宙を見ていた。

「大丈夫、大丈夫」「いける、いける」蓑田と下山、相馬はそう言いながら守備位置へと戻っていった。

 

 蓑田は一年前の自身の暴投の時のことを思い出した。あの時、みんなから声をかけられたが、全く耳に入っていなかった。今の坂本は大丈夫だろうか? 「切り替え、切り替え」「いける、いける」とかけた声は坂本に届いたのだろうか。セカンドの守備位置から坂本の後ろ姿を見た。大きな体の坂本が小さく見えた。

 

 菊田が右足をかばうようにゆっくりと立ち上がった。

「大丈夫?」山崎が心配そうに声をかけた。

「はい、大丈夫です」菊田は山崎に向けて小さな笑顔をつくって見せた。少し右足を引きずりながらファーストベースへと歩き始めた。球場から拍手が起こった。歩きはじめは足を引きずっていたが、数歩歩いてからは右足の状態を確かめるように地面を強く踏みしめて歩いていた。最後は駆け足でファーストベースへ向かった。ファーストベースについて屈伸をしてその場で跳ねた。

 坂本がファーストベースに立った菊田に向かって、もう一度頭を下げた。「すいませんでした」

 菊田は「大丈夫です」とヘルメットをとって頭を下げた。球場全体が大きな拍手の渦に包まれた。

 

『菊田くん、大丈夫そうですね』

『そうですね、当たったのが太ももなので肉の多いところですし、よけかたもうまかったですから大丈夫だと思います』

『ボールのよけかたがうまいのも、やはりセンスを感じますね』

『そうですね。甲子園の初打席、普通はガチガチになって体が動かないものですが、菊田くんは落ち着いてましたね。しっかりボールに反応していましたよ』

『さぁ、試合再開です』

 

 ノーアウト一塁だ。やっぱりここは送ってくるだろうな。山崎が初球のサインを出す。バッターの宮中は送りバントの構えだ。

 

『ノーアウトランナー一塁で、バッターは二番宮中くんです。高崎さん、ここは送ってきますかね』

『そうですね、先制点がほしいですから、定石なら送りバントですが、ランナーの菊田くんは足がありますしバッターの宮中くんは器用なバッターですから、バントと決めつけるのはよくないですね。少し様子をみた方がいいでしょうね』

『セットポジションから、坂本くん、一塁へ速い牽制。菊田くんはベースにもどります。友野高校バッテリーとしてはこれでいいわけですね』

『そうです』

 

 走る気配は無さそうだが、一球様子をみよう。山崎はサインを出し外角へのボールを要求した。坂本は頷いたが、少し顔を歪めたように見えた。坂本、大丈夫か。山崎は唇を噛んだ。

 

『坂本くん、サインに頷いて、セットポジションから第一球を投げました』

 

 ボールは山崎の構えたミットより外角高めへ大きく外れる。

 山崎は飛び上がって腕を目一杯伸ばしミットを出した。ボールは山崎のミットの先になんとか収まった。

 ボールをとってから一塁ランナーの菊田を目で牽制してから、「フゥー」と息を吐いた。

 

『大きくはずれましたが、山崎くん、よくとりました』

 

 二球目はスライダー、ワンバウンドするボールを山崎が今度は身を挺して止めた。

 三球目はすっぽぬけて高めに浮いた。これでスリーボール。まだストライクがとれていない。

 

『スリーボールになりました。坂本くんストライクが入りません。デッドボールが引きずってますかね』

『そのようですね。坂本くん、頭が真っ白になってるかもしれませんね』

 

「坂本、何してんだ。バントさせろ」ショートのポジションから下山が右手と左手グラブをメガホンにして声をあげる。

「坂本、そうそう、リラックス、リラックス」蓑田も同じようにして声をかける。

 坂本が二人の方を向いて二度三度頷いたが、いつもの坂本の表情ではなかった。これが甲子園の恐さだ。

 セットポジションから坂本が四球目を投げたが高めにぬけた。

 

『あーっと、これもはっきりとわかるボールです。ストレートのファーボールです。ノーアウトでランナー一二塁です』

 

 とりあえず、ストライクがほしい。そしてまずアウト一つとりたい。坂本、落ち着け、あせることない。いつも通りでいいんだ。山崎は心の中で地団駄を踏んだ。

 

 相手は野々村だ。絶対に一点もやれないのに俺は何してんだ。坂本は頭の中で野々村と闘っていた。野々村のバッタバッタと三振をとっていた予選の映像が頭のなかで流れていた。

 

『三番の大平くん、ここも送りバントの構えです』

 

 すでに汗びっしょりの坂本がセットポジションにはいった。

 

『坂本くん、セットポジションから大平くんにたいして第一球を投げました』

 

 ほぼ、真ん中高めだがストライクゾーンにボールがきた。大平はバントしてサード側へうまく転がした。

 

『大平くん、バントしました。ボールはサード側に転がった。いいバントだ』

 

 坂本がマウンドをおりてボールをとりにいく。サードの相馬も前にくるが、坂本の方が先にボールに追いついた。

 

「ファーストー」山崎がキャッチャーミットをメガホンがわりに口にあて右手でファーストを指さす。

 

 野々村が相手だ。一点もやれないんだよ。サードでアウトにするしかないんだ。坂本には山崎の声が耳に入っていない。ボールをとって体を捻りサードへ投げようとした。ランナーの菊田は足が速い。すでにサード手前まで来ていた。坂本は捻った体を戻しファーストへ送球した。

 

『坂本くん、一瞬サードに投げようとしましたが、ファーストへ送球する。これは微妙なタイミングだぞ~』

 

 打者走者の大平はファーストを駆け抜けた。ベースカバーに入った蓑田が坂本から送球されたボールをとる。

 

『アウトか、セーフか。微妙なタイミングだ~』

 

 一塁塁審の手がスーっと横に広がった。

「セーフ」

 山崎も坂本も蓑田もみんな天を見上げた。

 

『ファーストセーフだぁ~。オールセーフです。ノーアウト満塁です。昌徳高校、チャンスが広がります。友野高校にとっては初回から大ピンチです』

 

 山崎の顔が歪んだ。

 タイムをとって、友野高校ベンチから伝令が出る。

 

『友野高校、早くも守備のタイムをとりました。伝令に背番号12番の控えキャッチャー二年生の笹本くんがマウンドへ向かいます』

 

 一塁側ベンチから伝令の笹本が出てきた。丸い体を揺らしながらマウンドに向かってきた。山崎と蓑田、下山、宮田、相馬もマウンドに集まった。

「あのー、監督からです」伝令の笹本がトーンの高い声を発した。

 笹本は頬にたっぷりついた肉のせいで目が押し上げられ恵比寿さんのような顔をしている。笹本も緊張はしているのだろうがニコニコした顔をしている。山崎はその顔を見て少し頬を緩ませた。

「監督、なんて? 早く言え」下山が笹本の肉のついた紅い頬をつまむ。いつも見る光景だ。これで場の雰囲気が和む。下山は笹本を可愛がっている。笹本は顔に似合わず下山譲りの負けん気の強さとガッツを前面に出したプレーをする。下山はそんな笹本を気に入っている。

「フフフ」坂本がニヒルに笑った。やっといつもの坂本にもどったと山崎が目を細めた。

「あっ、はい。一点は仕方ないから、中間守備で、外野は定位置より深めでいいそうです」

「内野ゴロで一点、ワンヒットで二点かー」蓑田が天を仰いだ。

「バッターは四番大井だ。簡単なバッターじゃない。やむを得ないだろう」山崎が返した。

 坂本は「俺のせいですまんな」とまた表情がこわばり小さな声になった。

「すまん、じゃねえよ。そんなことより普通に投げりゃいいんだ。野々村と張り合うから力むんだ」下山が坂本の頭に拳を落としてから、「笹本、お前も坂本を一発ゴツンとやっとけ」と続けた。

「い、いえ、そ、そ、そんな先輩に向かって出来るわけありません」笹本が真剣に返すのを見て、下山が「冗談に決まってるだろ」と今度は笹本の頭をコツンとやった。

 みんなに笑みがこぼれた。

「坂本のボールには力があるから、いつも通りに投げればいいんだ。お前のボールはそうそう打たれない。まだ点を取られたわけじゃないし。もし取られても取りかえせばいい」山崎が言う。

「でも、相手は野々村だぞ」坂本が言う。

「野々村くらい打てるよ。俺たちの打撃を信用しろっつうの。わかった? 最後に代打の神様笹本が打ってくれるよ。なっ」下山が笹本に顔を近づけて、ニッと唇を広げた。

「相手は関係ない。坂本らしくいこう」蓑田が坂本の背中に手をあてた。

「うん、わかった。もう大丈夫だ」坂本がボールをグラブにパンパンと二度叩きつけた。最後に笹本に「ありがとう」と言って紅い頬をつねった。

 笹本は細い目を一段と細くして、「先輩頑張ってください」そう言ってベンチへ走っていった。丸い後ろ姿がユサユサと揺れるのが愛らしい。

 

『さぁ、ノーアウト満塁で試合再開です。友野高校の守備は中間守備ですね』

『一点もやりたくないですが、四番の大井くんですからね。傷口を広げたくないですから、やむを得ないでしょうね』

 

 坂本は山崎のサインを見る。初球は外角のスライダー。サインに頷いてからセットポジションに入る。三塁ランナーを見てから、初球を投げた。外角いっぱいにスライダーを投げ込んだ。

 

『ストライーク』この試合はじめて球審の右手が上がった。それも最高のボールだ。坂本が立ち直った。これが笹本効果だ。

 これまでもピンチで笹本が伝令に来るとムードがガラッと変わることがあった。友野高校のムードメーカーだ。控えのキャッチャーでスタメンで出場することはないが貴重な存在だ。

 

「ナイスボール」セカンドの蓑田から声が飛んだ。

 

 よし、ナイスボールだ。山崎は坂本に向かって何度も頷く。次のボールだ。内角のストレートだ。これが決まれば、このバッターは抑えられる。山崎が内角ストレートのサインを出した。

 

 内角ストレートか。胸元にズバッと決めるぞ。少し冷静さを取り戻した坂本は山崎のサインに頷いて、セットポジションに入った。三塁ランナーを目で牽制して、「フゥーー」と長い息を吐いた。

 

『坂本くん、セットポジションから第二球を投げました』

 

 坂本はバッター大井の内角胸元をめがけて、思いきり腕を振った。少し真ん中よりだが悪いコースではない。

 バッターの大井は内角のストレートを待っていたかのようだ。難しいコースだが、体をうまく回転させてボールをとらえた。

 

『内角のストレート。大井くん、打った~。打球はレフトポール際へ上がった~。これは大きいぞ~』

 

「ウワァー」と山崎が声を上げる。

「えー」と坂本は打球の行方を追った。

 

『レフト、榊原くん。懸命にボールを追っていきます。フェンスに背中をつけました。ボールを見上げたままレフトポール際で足が止まりました』

 

「頼む。とってくれ」山崎がボールの行方を追う。

「切れろ~」坂本が叫ぶ。

 

 レフトの榊原がボールを見上げている。真っ青の空からボールが落ちてくる。

 

『ファールかフェアか。レフトフライかホームランか』

 

「たのむー」山崎がレフトの榊原を見ながら声を出す。

 

 レフトの榊原がグラブを出す。ボールはグラブに吸い込まれていった。

 

『レフトの榊原くん、フェンスいっぱいのところでボールをとりました。レフトフライです。三塁ランナーの菊田くん、それを見てタッチアップからゆっくりホームイン。昌徳高校先制!』

 

 山崎は「フゥー」と息を吐いた。先制点は許したがホームランにならなくてよかった。坂本のボールは悪くなかった。完全に内角ストレートを狙われていた。俺のせいだ。

 山崎は気をとりなおし、「ワンアウト、ワンアウト」と人差し指を立てて内外野に声をかけた。

 

《六番、サード水木くん、サード水木くん》

 

『バッターは水木くん。昌徳高校としては、もう一点ほしいところですね』

『そうですね。一点で終わるのと二点、三点とるのとでは違ってきますからね。特にさっきの当たりがホームランになりませんでしたから、昌徳高校としては一点で終わりたくないですね』

『逆に友野高校としては一点で食い止めたいところです』

 

 一点とられたことは忘れろ。このバッターに集中しよう。山崎が坂本に目で訴えた。坂本もそれに応えるように頷いた。

 

 水木に対してワンボール、ワンストライクからの三球目だった。左バッターの水木は内角低めのスライダーを引っかけることなく坂本の足元に鋭く打ち返した。打球は二游塁へ飛んだ。

 

『水木くん、打った~。痛烈なピッチャーがえし』

 

 蓑田が打球を追う。一年前のあの打球と同じコースだ。あの時より打球は速い。蓑田は横っ飛びでグラブを出した。

『バシッ』グラブにボールが収まった。

 

『セカンドの蓑田くん、横っ飛びでボールをとりました~』

 

 蓑田は体を起こし二塁ベースに入る下山にボールを投げる。

 

『蓑田くん、体を起こし素早くセカンドへ。セカンド、ホースアウト』

 

 下山が蓑田からのボールをとって華麗にファーストへ投げる。

 

『ショート下山くんからファーストへ』

 

 打者走者の水木も懸命に走る。最後はヘッドスライディングする。

 

 一塁塁審がしばらく固まっている。そして、右手を上げた。

「アウトー」

 球場がどよめいた。

 

『ダブルプレーだ。蓑田くんの超ファインプレーでピンチをしのぎました。これは大きなプレーです。打ちも打ったり、とりもとったりです。初回から素晴らしいプレーが出ました~』

 

 一回表終了 昌徳高校 1対0 友野高校

 


最後の夏 怪物野々村攻略へ

 友野高校のピッチャー坂本は立ち上がりこそ不安定で一点を失ったが、二回以降は立ち直り、九回まで投げて打たれたヒットは七本、与えた四死球は五つ、奪った三振は四つ。二回以降はランナーは許すものの要所を締めて無失点で切り抜けている。伝令の笹本にとって忙しい試合だった。

 一方、友野高校打線は八回まで野々村から打ったヒットは二本、もらった四死球が三つ。奪われた三振は十六個を数える。そして、得点はゼロだ。

 野々村のこの試合の最高球速は、二回裏四番山崎の二球目に投じたボールが計測した159キロだ。野々村は自己最速を更新したが目標にあげた160キロは出ていない。

 

 九回裏の攻撃を迎える前に、山崎は、監督がミーティングで野々村の攻略方法を唾を飛ばしながら熱く話していたのを思い出していた。

「野々村、あいつは怪物だ。簡単には打てないだろう。三振ばかりになるかもしれない。しかし、三振することを恐れることはない。思いきり三振すればいい。ストレート、スライダー、チェンジアップ。野々村のボールはどれも一級品で高校生離れしている。うちは、どんなボールにファールして食らいつき粘り強く攻撃するのが信条だが、それは野々村に対しては通用しない。しっかり狙い球を絞ってそのボールだけを待つしかない。狙い球がこなければ、あっさり三球三振でも構わない。それくらい割りきるしかない。そのかわり、狙い球が来たら迷わず思いきりバットを振りぬけ。そうすれば野々村を打てる。それと野々村の弱点はスタミナだ。後半コントロールも乱れるし球威も落ちる。後半まで接戦に持ち込めば、後半に攻略できる」

 野々村のボールは予想以上だ。山崎は二回裏の最初の打席でそれを感じた。

 山崎は狙い球がきたと、思いきりスイングし、ボールを捉えたと思ったのだが、バットがボールに当たった瞬間、バットが球威に負けて、自分の方がバックネットへ飛ばされるのではないかと感じた。完全に振り遅れ、球威に押された打球は野々村の前にコロコロと情けなく転がっていた。山崎は腰砕けになった体を起こし全力でファーストへと走ったが、塁間の半分走ったところで、ファーストにボールが渡っていた。

 監督がミーティングで話していた「三振が多くなる」これはやはり当たった。「狙い球を絞れば打てる」は残念ながら野々村のボールはバッターボックスで直に見るのと映像で見るのとでは別物だった。「野々村の弱点はスタミナだ。後半攻略できる」はどうなるのだろうか。確かに七回、八回は野々村の球速は落ちているしボールも浮きはじめていたが、それでも

打てなかった。残りの攻撃はこの九回裏のみ。ここまで坂本がよく踏ん張って後半勝負の接戦には持ち込めたと思う。あとは攻略できるか、だ。九回は六番の宮田からの打順で自分まで回って来ない。ベンチから声を張り上げ同点、逆転を信じるしかない。もう一度、あの打席に立ちたいと思いながら、宮田がバッターボックスに向かう背中を見た。

 

 九回裏は六番の宮田からだったが、野々村の球威に負けて詰まったセカンドゴロに倒れた。次のバッター西原はスリーボールツーストライクまで粘ったが、最後は148キロのストレート高めのボール玉に手を出してしまい空振りの三振。

 野々村のボールはスピードが落ちコントロールが微妙に狂い始めているが、それでも簡単に打てるわけがなかった。九回裏もすでにツーアウトになった。

 

『さぁ、三日目第三試合も大詰め、九回裏の友野高校の攻撃もツーアウトランナーがありません。得点差はわずかに一点。両チーム合わせてここまでの得点は、初回、昌徳高校四番大井くんの犠牲フライによる一点のみです』

 

 最後のバッターになるのか、八番の相馬がバッターボックスに向かう。

「相馬、ファーボールでもデッドボールでも何でもいいから塁に出てくれ」下山がベンチの一番前で顔の前で両手を合わせた。

 相馬はバットを一握り短く持ち、何度も素振りを繰り返した。バッターボックスに入り野々村に向かって「ウォー」と声を張り上げた。

 

『相馬くんも気合いが入っています。野々村くんはここまで完璧なピッチングですが、得点差は一点、まだわかりません。高崎さん、野球は何が起こるかわかりませんよね』

『そうですね。友野高校はまだ諦めてはいけませんよ。そして昌徳高校は最後まで気を抜かないことですね。野球は本当になにが起こるかわかりませんよ。特に甲子園というところは魔物が棲んでいますからね』

 

『えー試合やな~。こんな試合みてたら、わしら魔物はウズウズしてくるなぁ。なんか、かき回してやりたくなるなぁ』

 

 八番の相馬はワンーボールツーストライクから三球連続でボールを見極めファーボールで塁に出た。

 

『あっと、ファーボールです。ツーアウトから友野高校同点のランナーが出ました。野々村くん、最後のボールははっきりとボールとわかる球でした。少し勝ちを意識したのでしょうか』

『野々村くん、前の回から少し疲れが出てるようですし、勝ちを意識して力んでしまったんでしょうね』

 

 ツーアウト、ランナー一塁。バッターは坂本のところで代打が送られる。代打はムードメーカー笹本だ。

 

『友野高校、ここで代打ですね。ここまでよく投げてきましたピッチャーの坂本くんに代わって二年生の笹本くんですね。この試合、何度もピンチの場面で伝令に走りピンチを救いましたが、ここはバットで期待に応えたいところです』

 

「笹本、絶対に俺まで回せよ」

 ネクストバッターズサークルから下山が掠れた声で笹本に檄を飛ばした。

 笹本は丸い体をくるりと回して、ネクストバッターズサークルの下山の方に体を向けた。紅い頬が上がり細い目を一段と細くし笑みを浮かべた。

「下山先輩、任せて下さい」右手で厚い胸をドンと叩いた。

 笹本はちょこちょことした足取りで、左のバッターボックスに入った。バッターボックスに入った途端、人が変わったような鋭い目で野々村を睨み付け、「ウォー」とバットを野々村の方に向けて吠えた。

 

 笹本は粘りをみせた。スリーボールツーストライクからきわどい球を二球ファールにした。

 

『高崎さん、友野高校も粘り強いですね』

『素晴らしい粘りです。今年の友野高校の強さは、地方大会からのこの粘り強さですね。それがここにきて出ています』

『友野高校、地方大会では劣勢の試合でも後半粘っての逆転が目立ちました。その粘りがここにきて出ています』

 

 粘り強さは今年の友野高校の特徴だ。新チームの頃は、劣勢になるとすぐに諦めムードになるチームだったが、下山の負けん気の強さとがむしゃらさがチームに浸透していった。絶対に負けない、諦めないという強い気持ちをみんなが持つようになっていった。

 野々村が笹本に投じた八球目。外角高めに浮いたボールを笹本はコースに逆らわずジャストミートした。

 

『笹本くん、打った~。痛烈な打球が三遊間の真ん中を抜けていきます』

 

「よっしゃー、笹本~、よう打った~」下山が右手を突き上げた。

「笹本、ナイスバッティング~」蓑田もつられて右手をあげて、ネクストバッターズサークルへと向かった。

 下山がバッターボックスに向かう前に蓑田に声を掛けてきた。

「蓑田、俺は絶対にお前に回す。だから……、」少し声が震えていた。「絶対、去年の借りを返せよ」

 下山はヘルメットを深くかぶり下を向いて蓑田の肩を叩いてからバッターボックスへと向かった。蓑田は下山の表情を見ようとしたが見えなかった。

「う、うん、わかった」蓑田はそう言ったが下山は、すでに背中を向けていた。

「下山~」蓑田が大きな声で呼ぶと下山が振り向いた。

「なに?」

「これまで……、いろいろ、ありがとうな」

「ふん、それはこっちのセリフだ。ありがとな。この打席でお前に恩返しするよ。いや罪滅ぼしかな」

 下山は薄く笑みを浮かべ、そのままバッターボックスへと小走りで向かった。バッターボックスに立ち、昌徳高校の野々村に向かって声を張り上げた。

「うっしゃー、こーい」

 

 野々村がサインに頷いて、セットポジションに入った。少し間をおいて二塁ランナーを見てから初球を投げこんだ。

 下山は初球から積極的に打ちにいった。積極的に初球から打ちにいくところが下山の魅力だ。

 しかし、下山のフルスイングも低めスライダーに空をきった。野々村はここにきてギアーを上げたかのように切れのいいスライダーを投げてきた。

 下山は空振りしたあと、「クソー」と自分の頭をヘルメットの上からポンポンと右手で叩いた。

 バッターボックスに入り直し肩を上下してから息を「フーッ」と吐いて顔の前にバットを立てて目を閉じた。

「絶対に蓑田にまわしたい。頼む」バットに願いを込めた。

 また、野々村に向かって声を張り上げた。

「うっしゃー、こーい」

 二球目は外角ストレート。バットが出かかったが、寸前で止まった。きわどいが少し外れている。ボールだ。

 三球目は内角へストレート。きわどいコースにバットが出ない。判定はストライクだ。これで追い込まれた。ワンボールツーストライク。

 

「クソー、厳しいコースだ。さすが野々村だけど、俺は絶対にこいつを打つ」

 下山は、一度バッターボックスを外し素振りを繰り返してからバッターボックスに入りなおし、足元をならした。

「よーし、こーい」

 四球目、スライダーがきた。ストライクゾーンから低めへ鋭く曲がる。下山のバットは止まらない。下山の体制は完全に崩されたが、必死で食らいつこうとする。

 

『あーっ、と空振り~、三……、いや……』

 

「ファール、ファール」審判が両手を大きく上げた。

 下山はかろうじてバットに当て、ボールはキャッチャーの足元に転がっていた。

 三塁側アルプスから歓声が上がったあと、ファールの判定に一塁側アルプスからどよめきが起こった。

 

『なかなか、おもしろなってきたな。こんな試合は、やっぱりわしの出番やな。魔物らしいこと、どっかでしたくなってきたわ』

 

「下山、ナイス粘り~」蓑田は叫んだ。

「おーぅ、絶対に打つぞぉ。蓑田、しっかり準備しとけよ。お前下手くそなんやから、ボーッとしてたら三振するぞ」バッターボックスで野々村に視線をやったまま蓑田に声をかけた。

 

 五球目、またスライダーが外角にきた。さっきより少しコースは甘い。下山は体制を崩されたが、なんとか食らいついて引っかけるようにバットに当てた。

 

『下山君、打った~。打球は三游間へ。面白いところに飛んだ~。ショート菊田君、回りこんでよく追いついた~。深い位置からファーストへ~。タイミングはきわどいぞ~。アウトか? セーフか?』

 

 俊足の下山はヘッドスライディングでファーストベースに飛び込んだ。ファーストベース付近に甲子園の土が舞い上がる。下山の顔と胸は真っ黒になっていた。一塁ベース上で横たわったまま、左手でファーストベースにタッチし右手を横に広げてセーフをアピールしファースト塁審を見上げた。

 そして、ファースト塁審の手が大きく横に開いた。

 

『セーフ、セーフ、セーフだ~。下山君、執念のヘッドスライディングだ~。まだ友野高校の夏は終わりませ~ん。ツーアウト満塁です。友野高校、怪物野々村くんに食い下がります』

 

 下山は起き上がり、蓑田に向かって、真っ黒な顔から白い歯を覗かせて右腕を突き上げた。

 蓑田は、それを見て何度も何度も頷いた。「下山、やっぱりお前はすごいよ」熱いものが胸のなかで暴れている。そして大きく息を吐く。

「絶対に去年の借りを返す」

 

『九回裏ツーアウト満塁。友野高校、一打逆転のチャンスがやってきました』

 

「下山の執念に絶対にこたえるんだ」蓑田は心のなかで呟いた。

 

 昌徳高校がタイムをとり伝令がマウンドに向かった。

 

 蓑田はこれまでの厳しい練習や下山と口論を繰り返してきた一年間を思い出した。バットに願いを込めるように顔の前にバットを立てた。

 下山にはこの一年間何度も「下手くそ」と言われた。最初は腹が立っていたが、いつの間にか、そう言われることで気が楽になっていた。

「打たせてくれ」バットに向かってそう呟いた。

 

 マウンドに集まっていた昌徳高校の選手の輪が解けた。昌徳高校の選手達はみんな笑っていた。

 蓑田も負けずと笑顔をつくってから、バッターボックスに向かった。

「よーし、こい」ピッチャーに向かって声を張り上げたが下山や笹本ほどの迫力はない。少し声が震え、そしてその後、足がガクガクと震えだした。

 

『バッターは蓑田くん。高崎さん、ここではバッターの蓑田くんはどういうことを心掛ければいいでしょうか』

『そうですね、決してボールに手を出さないことですね。特に低めのスライダーを見極めることが出来るかでしょうね。それを見極められると野々村くんのストレートのスピードも落ちていますから、バッテリーとしては厳しくなります』

『蓑田君はここまでヒットはありません。ここでこの試合初ヒットが出れば、同点、もしくは逆転サヨナラという場面です』

 

 ピッチャー野々村がセットポジションに入る。

 

『ピッチャーの野々村くん、第一球を投げました。アウトコース低めのスライダーです』

 

 蓑田は頭の中が真っ白になってしまっていた。初球から打ちにいったが、低めのワンバウンドする明らかなボール球に空振りした。

 

『完全なボールのスライダーに蓑田くん、空振りです。高崎さん、手が出てしまいましたね』

『そうですね、この球を見極めないと、蓑田くん、厳しいですよ。少し力を抜いた方がいいでしょうね』

 

「こらー、蓑田、お前、相変わらず下手くそやなぁ。下手くそのくせしてビビってんじゃねえよ」下山がファーストベースの上に立って両手をメガホンにして叫んだ。

「うるさいなー」蓑田が下山に返した。

「やかましい、下手くそ、お前がヒット打てるなんてみんな思ってないから、とりあえずバットに当てるくらいしろよ。当てれば何が起こるかわからんからな」

「下手くそ下手くそって、一年間、聞き飽きたよ」蓑田の口から白い歯が覗いた。

 

 二球目は真ん中高めに外れてボール。

 三球目の内角ストレートはバックネットにファール。

 四球目は低めのスライダーにバットが止まりボール。

 

『蓑田君、ここはバットがよく止まりました。高崎さん蓑田くん、今はよく見ましたね』

『そうですね、少し落ち着いたようですね』

 

 五球目は野々村の方が力んで高めに大きく外れた。

 これで九回裏ツーアウト満塁スリーボールツーストライク、次が勝負の一球になる。

 

『さぁ、泣いても笑っても最後の一球です。高崎さん、しびれる展開ですね』

『そうですね、ここはピッチャーもバッターも結果を怖れず思いきりプレーしてほしいです』

『さぁ、野々村くん、セットポジションから第六球を投げました』

 

 内角のストレートが少し甘く入ってきた。蓑田はバットを出しにいく。少しつまらされた打球は三遊間へ飛んだ。ショート菊田の守備範囲だ。

 

『打った~。打球はショートへ。ショートの菊田くん、軽快なフットワークで打球の正面に入る』

 

 野々村が「よしっ」とグラブを叩いた。

 球場にいる選手、観衆、審判の視線が菊田に集まる。

 この試合菊田は一年生とは思えない軽快な守備を魅せている。ここでも軽快に打球の正面に入った。

 

 蓑田は全力でファーストへ走る。「クソー、完全につまらされた~」

 

 菊田がグラブを出す。

 

『あーっ、打球が菊田くんの前ではねた~』

 

 打球は菊田の手前でポーンと跳ねた。菊田はそれに対応しようとグラブを上げたが、ボールは菊田のグラブを嫌がるように、それより高く跳ねて、菊田の肩に当たった。

 

『打球はイレギュラーして菊田くんの肩に当たり、後ろに転がりました~』

 

 三塁ランナー相馬が同点のホームを踏む。そして逆転のランナー笹本も三塁を蹴ってホームへ向かってくる。丸い体を揺すってホームへと向かう。笹本は見た目では想像できないくらいに足が速い。

 

『レフトの下條くんがボールをとってホームへ投げる』

 

 笹本がヘッドスライディングする。レフトからのボールは間に合わない。笹本はユニフォームを真っ黒にしてホームベースをタッチした。

 

『セーフ、セーフ、セーフだぁ。サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ~』

 

 一塁ベースを駆け抜けた蓑田は、振り返り、笹本がホームにスライディングしている姿、相手のキャッチャーが肩を落としている姿、球審が右手を広げている姿を順番に見てから右腕を上げてガッツポーズした。セカンドベースにいた下山も蓑田に向かってガッツポーズした。

 

『なんということでしょう。ショート菊田くんの前でボールが高く跳ねました。やはり、やはり、ここ甲子園には魔物が棲んでいまーす。試合終了です。友野高校が九回裏、蓑田くんの逆転サヨナラタイムリーヒットで勝利しました』

 

 蓑田は軽い足取りでスキップでもするようにホームベースへともどっていった。ベンチから出てきた山崎に頭を何度も叩かれた。

 蓑田は、頭を叩かれながらショートに視線をやると、そこで立ち上がれないでいる菊田の姿があった。横で野々村が菊田の肩を叩いて笑っていた。菊田は野々村に抱えられてゆっくりと立ち上がり整列のためホームへとふらついた足取りで向かってきた。

 菊田の姿を見て、蓑田は去年の自分を思い出した。

 菊田と野々村が列に加わった。両チーム挨拶を交わし握手した。野々村は笑っていた。蓑田は菊田の表情を見ようとしたが下を向いたままで見えなかった。

 

 昌徳高校の選手がベンチ前で土を集めていたが、菊田の姿はそこになかった。

 

 

 

 


結局、甲子園には魔物はいなかった

 試合終了 昌徳高校 1対2x 友野高校

 

 試合終了後、蓑田はベンチでバットやグラブを片付けながら昌徳高校のベンチに視線をやり菊田の姿を探した。ベンチの隅で帽子を深くかぶり俯いている菊田の姿をみつけた。泣いているのだろうか。

 去年の自分を思い出した。ほとんど記憶にないが嗚咽していたのは確かだ。みんなに申し訳なかった。野球が恐くてやめたいと思った。

 今の菊田も辛く申し訳ない気持ちなのだろうか。いや、それ以上かもしれない。怪物野々村を擁し優勝候補と期待されたチーム。勝って当たり前と思われていたチームのレギュラーで唯一の一年生だ。イレギュラーしたとはいえ、後ろに逸らしてしまった。前に落としていたらアウトになって勝利していたかもしれない。アウトにできなくてもサヨナラ負けにはならず同点止まりだったかもしれない。そう考えて辛い気持ちになっているのではないだろうか。

 しかし、去年の俺とは違い記録はエラーではなく、ヒットなんだ。菊田よ、気にすることはない。

「野球やめるなよ。きっといいことあるから」菊田の姿を遠くで見ながら蓑田は呟いた。

 

 全員でグラウンドに向かって一礼しグラウンドを後にした。

 監督がマスコミのインタビューを受けていた。蓑田も決勝のサヨナラタイムリーを打ったということでインタビューを受けた。

「サヨナラタイムリーヒット、おめでとうございます」そう言われて、複雑な心境だった。

「ラッキーでした」と作り笑顔を浮かべて答えた。菊田のことを思うと喜べなかった。無愛想なインタビューになりインタビューしてくれている人も眉がハの字にしているのがわかった。話を盛り上げようとしてくれるのはわかるがやめてくれ、早く終わってくれと思った。

 息苦しいインタビューが終わってトイレに駆け込むと、洗面台でバシャバシャと顔を洗う背番号6が見えた。昌徳高校のユニフォームだ。菊田だ。おしっこが漏れそうだったが、今声をかけないと一生会うことはないだろう。声を掛けようか悩みながら背番号6が揺れるのを見つめた。菊田が顔を上げ背番号6が正面をむいた。背番号6の向こうの鏡に映る菊田はタオルで顔を拭きはじめた。拭く手をとめて鏡を覗きこんだ時に目が合った。

「あっ」菊田は目が合った瞬間、声をあげた。続けて「すいません。どうぞ」と言ってその場をあけた。蓑田が洗面台の順番を待っているのと勘違いしたようだ。

「あっ、いや」蓑田は何て声を掛ければいいか悩んでいたら、菊田が蓑田に気づいて先に声をかけた。

「あのっ、友野高校のセカンドの蓑田さん、ですよね」

「あっ、そう。菊田くんだね」

「あっ、はい、昌徳高校の菊田です。今日はナイスゲームでしたね。お疲れさまでした」菊田が笑みを浮かべながら頭を下げた。嗚咽をもらしている様子はなかった。

「そ、そうだな。お疲れさま」

「次の試合も頑張ってください」と右手を出してきた。笑みが満面に広がっていた。

「あ、ありがとう」蓑田は慌てて右手を出した。本当にこいつ一年生かと思うくらい落ち着いていた。去年の自分とはえらい違いだと思った。

 蓑田は菊田になにか声を掛けてやろうと思った。今日のイレギュラーのことに触れるべきか悩んだが、それはやめることにした。

「実は、去年うちは初戦で負けたんだ。それもあとアウト一つで勝てたのに俺の暴投で負けたんだよ」

「あっ、はい知ってます」菊田の日に焼けた真っ黒な顔から白い歯が覗いている。

「えっ、知ってるんだ」

「はい、去年あの試合はテレビでリアルタイムでみてましたし、今年になってからもスポーツニュースで流れてましたから」

 蓑田も去年のあのシーンがテレビで放映されたのは知っていた。

『あのエラーから一年、友野高校は忘れ物を取りに甲子園に帰ってきた』そんな内容で放映されていたらしい。

 しかし、蓑田はその映像をみたくなかったので、詳しくは知らない。

「俺の暴投のシーンが流れてたのかー。ちょっと恥ずかしいな」

「僕はしっかりみましたよ」菊田はニヤニヤと笑っている。

「そうなんだ」

「蓑田さん、打球に追い付くまでは、すごく素早くてグラブさばきも完璧だったのに、なぜかファーストへ投げる瞬間、体がファースト側に正面に向いてしまって、ギクシャクした動きになってましたよね。ボールをとってから慎重になりすぎたみたいに見えました」

「そ、そうかな」自分ではわからなかったが、そんなにギクシャクしてたのか。それに、なんなんだ、この一年生は? すげえな。俺よりしっかりしてるじゃないか。

 けど、ここは、先輩らしくアドバイスしておこう。

「で、さぁ」

「あっ、はい」

「俺は、あの暴投で野球をやめようとも思ったんだけど」

「えっ、そうだったんですか」

「うん、でもな、野球部のみんなのおかげで野球を続けることができた。そして、自分で言うのも、なんだけど、あのおかげですごく成長できたよ」

「そうですか。良かったですね」

「うん、良かった。だから菊田くんも今日のエラーで落ち込んで野球をやめるなんて思わないで、来年取り返すつもりで頑張ってくれよな」

 エラーと言ってしまったが、エラーではない。イレギュラーヒットだ。しまった、と蓑田は言いなおそうと思ったがタイミングを失った。

「ご心配していただいて、ありがとうございます。明日からイレギュラーしたくらいでエラーしないように練習に励みます。そして日本一のショートになります」白い歯をさっきより大きく覗かせていた。

「あっ、そ、そうか。が、がんばってな。それに、あれはエラーじゃないよな。イレギュラーしたもんな」

「でも、エラーみたいなもんでしょ。ボールを後ろに逸らしちゃいましたから。上手いショートなら、とれなくても体の前におとしています。後ろには逸らしません」

「そ、そうか。日本一のショートか」

「はい、日本一、いや世界一目指さないとダメですかね」

「うん、そうだな。世界一目指して頑張ってな」

「あれ打ったのは、蓑田さんでしたよね」

「そ、そうだけど」

「ヒーローですね」

 菊田は満面の笑みを浮かべているので悪気は無さそうだが、蓑田には嫌味のようにきこえた。

「いや、けど、やっぱりクリーンヒットじゃないからな。あれは、甲子園の魔物のおかげかな」

「甲子園の魔物……、ですか? ヘェー」菊田は意味深な笑みを浮かべて視線を宙にやった。魔物なんか信じてるのかよといった表情に見えた。

「甲子園の魔物は信じない?」

「うーん、そうですね。魔物がいるとしたら、甲子園じゃなくて自分のなかにいるんだと思います」

「自分のなかに魔物?」

「はい、あの打球をとる時、よし、これで勝ったと思ってボールから目を離してしまいました。僕が打球をとる前に勝ったと思ってしまった気持ち、それが魔物の正体だと思います」

「でも、イレギュラーしたのは魔物の仕業じゃないかな」

「イレギュラーは野球にはつきものですよ。魔物のせいじゃありません。それも頭にいれておくべきでした」

「すごいね」

「じゃあ、いきます。次の試合応援してます。蓑田さん、頑張ってください」

「ありがとう」

「失礼します」

 菊田は深々と頭を下げてトイレから出ていった。

 

 

 友野高校の次の対戦相手は、またも優勝候補。甲子園春夏合わせて六度の優勝を誇る相陰学園だ。野々村のような怪物ではないが安定感抜群の技巧派サウスポー川原と右の本格派遠藤を擁し、二人とも簡単には攻略できるピッチャーではない。打線は下位まで切れ目のない強力打線だ。投打にバランスのとれたチームだ。

 

 友野高校対相陰学園の試合は、初回から動いた。

 坂本はいきなり相陰学園のプロ注目の四番打者三浦にツーランホームランを浴びて二点の先制点を許した。

 二回はゼロで切り抜けたが、三回にはタイムリーツーベースとスクイズで三点を失った。

 三回までで五点のリードを許した。坂本の調子は悪くなかったが相陰打線はボール玉には手を出さないしきわどいコースはカットする。甘いコースを待って確実に仕止めてくる。盗塁、バント、エンドランとバッティング以外でも攻撃力のレベルは高い。坂本も自分の投球ができなくなっていた。

 二番手で投げた宮田も六回につかまった。満塁から走者一掃のタイムリーツーベースを打たれて得点差は八点になった。

 友野高校も七回に山崎のタイムリーヒットで一点返したが、八回に相陰学園二番手で登板していたピッチャーの遠藤にバックスクリーンに飛び込むソロホームランを浴びた。

 結局 友野高校 1対9 相陰学園 完敗だった。

 

 こんなスキのないチームと試合したのははじめてだった。相陰学園は、その後も勝ち上がり甲子園七度目の優勝を果たした。蓑田は相陰学園に勝てるチームなんてあるんだろうかと思った。あの攻撃は半端ないと思った時、野々村のピッチングが頭を過った。

 もし、二回戦で友野高校が昌徳高校に負けていて、昌徳高校と相陰学園が対戦していたら、どうなったのだろうか。

 怪物野々村VS相陰学園打線。注目の試合になっただろう。

 組合せ抽選会のあと、順当なら、この対決が二回戦でみられると、多くの高校野球ファンはワクワクしていたはずだ。

 しかし、順当にいかないのもスポーツの面白さだ。特に高校野球は何が起こるかわからない。

 菊田はバカにするかもしれないが、魔物が邪魔をすることがあるのだ。友野高校が昌徳高校にまさかのサヨナラ勝ちをして、夢の対決を期待していた多くの高校野球ファンは残念に思ったかもしれない。蓑田も昌徳高校と相陰学園、両方と対戦して、両校の凄さを肌で感じた。この二校が対戦したら、すごい試合になるんだろうなと思った。

 野々村のピッチングと相陰学園のしぶとくスキのない野球。興奮する試合になったことは間違いない。

 全くスキがなかった相陰学園にも魔物があらわれて邪魔をすることがあるのだろうか? 甲子園での試合をみるかぎり全くそんなことはなかった。魔物はえこひいきして相陰学園にはあらわれないのだろうか?

 菊田の言葉を思い出した。

「魔物がいるとしたら、甲子園じゃなくて自分のなかにいるんだと思います」

 確かにそうかもしれない。甲子園という大舞台で自分を見失い、そこに魔物が顔を出すのだ。それを頭にいれて練習し準備しておかないといけないんだろう。優勝経験豊富なスター選手が揃った相陰学園の選手たちはそれができているのだ。

 蓑田には、そこまでの経験も技術も精神力もなかっただけだ。しかし、魔物に邪魔をされてしくじってもいい。それも経験だ。きっと、それも魔物がくれた自分を大きくしてくれる未来へのプレゼントなのかもしれない。

 蓑田にとってはみんなに迷惑をかけたのは申し訳なかったが、魔物のおかげで良い経験ができたと、今になって思う。

「魔物よありがとう。けど、これからの人生は魔物に邪魔されないような準備をしておくよ。もし邪魔されても落ち込むことなく、前を向くよ」

 


夏のあとがき

『九回裏、ツーアウトランナー二塁三塁。一打出れば逆転サヨナラの場面です』

 

 小学二年生の翔太はプロ野球中継をテレビの前に釘づけになってみていた。応援するジャガーズが一点をリードしているが、最終回サヨナラ負けのピンチをむかえ、翔太は祈るように両手を合わせていた。

「翔太、目を悪くするから後ろでみなさい」キッチンに立つ母親から注意されるが、全く耳には入っていない。

「お父さんが近くでみるから翔太も真似するんじゃない」父親も翔太の隣にあぐらをかきテレビの前に陣取っていた。

「この試合終わったらな」翔太の隣で同じポーズで応援する父親がテレビ画面から目を離さずに言った。

「はぁー」母親は同じポーズでテレビの前に並ぶ二人を呆れるように見ていた。

 

『打った~。打球は三遊間に飛んだ~』

 

「うわー、ヤバーイ」翔太は悲鳴をあげた。

「ショートとれー」父親も叫んだ。

 

『ショートがまわりこんで打球に追い付いたー』

 

「よーし、さすが菊田~」翔太が叫んだ。

 

『おーっと、打球がイレギュラーして大きくはねたー』

 

「うそー」

 

『ショートの菊田、そのボールを軽快なグラブさばきでとりました』

 

「よしっ」

 

『三遊間の深い所から一塁へ、矢のような送球』

 

「アウトになれー」胸の前で合わす翔太の両手は汗ばんでいた。

 

『ファーストは間一髪アウトでーす』

 

「よーし、勝ったー。フゥー、危なかった。でもさすが菊田だー」翔太は汗ばんだ両手をあげて喜んだ。隣の父親とハイタッチした。

 

『スリーアウト、試合終了です。最後は、さすが、三年連続ゴールデングラブの菊田の守備でした。ヒットゾーンの当たりも難なくさばいてみせます』

 

「やっぱり、すげえな菊田は。俺も菊田みたいなプロ野球選手になりたいな」

 翔太はプロ野球で活躍する菊田のプレーに目を輝かせていた。

 

「今の菊田があるのも俺のおかげだなぁ」父親は母親の忠告通り後ろに下がりソファに腰掛けながら言った。

 翔太もそれにならって父親の隣に座った。

「お父さん、菊田選手と知り合いなのか」

「ハハハ、まぁな。高校の時、甲子園で対戦したことがあるんだよ」

「えっ、本当?」翔太は父親の顔をじっと見た。その後、母親に視線をやった。母親が首を傾げたのを見て、また父親の顔を見た。

「なに、翔太は信じてないのか」

「うーん、信じられない。お母さん、本当?」翔太はもう一度、母親に視線をやった。

「甲子園で対戦したのは本当だけどね。お父さんのおかげで菊田選手の今があるかは疑問かな」

「何言ってんの。菊田との試合の後、菊田がエラーして落ち込んでたから、俺がちょっとアドバイスしてやったんだ」

「うそでしょ」翔太が目を丸くして父親の顔を覗きこんだ。

「うそじゃないよ、本当だよ。菊田がエラーして落ち込んで野球やめるって言ってたのを俺が止めたんだ。これくらいのことでやめるな、これをバネにして、これから練習に励めって言ってやったんだよ」

「それ、本当なら、お父さん、すごいよ」

「ハハハ、本当に決まってるだろ。翔太はお父さんのこと見直したか?」

「うん、すごい」

「翔太にそう言ってもらって父さんも嬉しいよ」

「お母さん、お父さんが菊田選手にアドバイスしたことは知ってるの?」

「うーん、どうなのかな。試合のあと菊田選手に偶然トイレで会って話ししたのはきいてたけど。別にお父さんと話したから菊田選手の今があるわけじゃないと思うけど」

「いいや、菊田はあの試合でエラーして野球をやめるかもしれなかったんだぞ。俺のアドバイスのおかげで野球を続けてるんだって。あの時、菊田は俺に約束したんだ。こんなことでくじけずに野球を続けます。そして日本一のショート、いや世界一のショートになります。そう言ったんだ」

「そうかなぁ。菊田選手は、あなたと違ってそんな柔なタイプじゃなかったと思うけど」

「いーや、俺が見た時、菊田は泣きじゃくってたんだぞ」

「ふーん」

「なに、その顔。信用してないのか」

「菊田選手って、あの時、悔しそうにはしてたけど泣いてるように見えなかったから」

「アルプスから見てるだけじゃわからないよ。菊田も今でこそスーパースターだけど、高校生の頃は子供だったからな」

「あなたの方こそ、その前の年にエラーして落ち込んで泣いてたじゃない。わたしが声掛けてなかったら、野球やめてたでしょ」

「翔太の前で、でまかせ言うな」

「でまかせじゃないでしょ」

「あれは、ちょっと悩んでただけだ。里美こそ俺に声掛けるチャンスだと思ってたんじゃないのか」

「ふん、なに偉そうに言ってんの。わたしはあの時、全くそんな気なかったからね。監督に頼まれたから、仕方なく声掛けたんだからね」

 

『おいおい、子供の前やぞ。夫婦喧嘩するなよな。どっちにしろ、すべては、わし、魔物がお前らを成長させるためにやったことや。菊田はあの試合でわしのイタズラに対応出来なかったけど、その後ポジティブにとらえて練習に取り組み、今の菊田選手がある。蓑田はフラフラしたけど、周りの仲間に支えられながら成長して、周りの有り難さに気付くことができた。わしも計算外やったけど、監督が蓑田に送りこんだ刺客と結婚して幸せにもなれたしな。まっ、全てうまくいったわ。それから、わしは菊田の言うとおり、甲子園にいるわけやない。みんなの心に潜んでるんや。だから、いつ姿見せるかわからん。普段から心の準備はしといた方がええで』

 


この本の内容は以上です。


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