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最後の夏 県予選

『甲子園の切符を手にするのはどちらの学校でしょうか? 二十年ぶり十二回目の甲子園を目指す名港商業か、二年連続二回目の甲子園を目指す友野高校か? まもなく試合開始です』

 

 友野高校のスターティングメンバー

 一番ショート 下山

 二番セカンド 蓑田

 三番センター 小宮山

 四番レフト 榊原

 五番キャッチャー 山崎

 六番ファースト 宮田

 七番ライト 大原

 八番サード 相馬

 九番ピッチャー 坂本

 

 両手を膝にあて円陣を組む友野高校の選手たち。その真ん中で山崎が地に視線を向けて声を張り上げた。

「ここまで来たら絶対に勝つ。いくぞー」

「ウォー」友野高校の円陣から発せられた声は球場全体に響き渡った。

 みんな気合い十分。これなら大丈夫だ、絶対に勝てる。山崎はそう思って円陣から離れたが、すぐに対戦相手の名港商業の円陣から自分たちよりも大きく気合いの入った声が山崎の耳に飛び込んできた。

「ウォーーーーーーー」サイレンのように長く大きな声が響き渡った。

 山崎は名港商業のベンチ前に視線をやった。名港商業は勢いがあるなと、口元を引き締めた。負けられない一戦だ。

 

 五回裏終了 友野高校0対0名港商業

 

 五回裏を終了して両チーム得点はゼロ。ヒット数もお互いに二本ずつ。手に汗にぎる投手戦。戦前の予想では五分と五分。名港商業は打撃のチームで友野高校はピッチャーを中心とした守りのチーム。打撃戦になれば名港商業が有利だが投手戦なら友野高校有利だと新聞が勝手に予想していた。

 監督の重光は相手投手はスタミナに不安があるはずだから僅差勝負なら後半にチャンスがまわってくると信じていた。しかし、油断は禁物だ。名港商業は準々決勝、準決勝と自慢の打撃が爆発して強豪校を倒して勢いに乗っている。打ちはじめると止まらない。

 地方新聞のスポーツ面には『名港商業、古豪復活』の文字が踊っていた。

 

 昨年の紙面を思い出す。『ミラクル友野高校』

 

 県大会を勝ち進む度に、その文字がドンドン大きくなっていった。その紙面に目を輝かせていた選手たちは一層気持ちが高まり対戦相手は、その勢いにのまれているのを感じた。そして昨年はその勢いのまま優勝することができた。

 今年は立場が変わった。相手の勢いを受け止める側になった。追われる立場になるとプレッシャーも半端ではなく辛いものなんだと、この一年間で重光は痛感した。

 新チームになってすぐの秋の大会は三回戦で敗退した。次の日の紙面には『夏優勝の友野高校、早くも敗退』とあった。それを見ただけで呼吸が困難になった。キリキリと胃が痛かった。グラウンドに行くのが怖くなった。この頃から胃薬が欠かせなくなった。

 毎年のように甲子園に出場する監督は、どんな精神力をしているのだろうか? 自分とはまったく次元の違う化け物たちなのだろうと思った。

 

 この試合、ここまでは名港商業の打線をピッチャーの坂本が沈黙させてくれている。しかし勢いにのっているチームだ。今は沈黙しているが、ひとつきっかけを与えてしまうとこのチームは止まらない。何とか先制して、完全に相手の勢いを消したい。

 

 球場の整備が入る。少しリラックスさせようと、ベンチ前で選手たちを円にして地面に座らせた。重光は膝を折って選手全員の顔を見渡した。みんな日に焼けて目がギラギラと輝いている。口元には笑みが浮かんでいる。きっと大丈夫だ。彼らもこの一年間プレッシャーと戦ってきたはずだ。よくここまて頑張ってくれた。きっとこの経験は彼らの将来の肥やしになるはずだ。

 

「ここまで坂本が相手の勢いを止めてくれている。ここまでは、うちのペースだ。後半は絶対うちが有利になる。あとは、この回だ。この回が勝負だ」

「はい」

「じゃあ、思い切っていけ」

「はいーっ」全員の元気な声を聞いてから立ち上がりベンチに引っ込んだ。ペットボトルのフタを開け水を口に流し込んだ。口の中が冷えて気持ちいい。自分でも気づかなかったが相当喉が渇いていたようだ。

「フゥー」前半でだいぶ神経をすり減らした。

 ベンチ前では山崎を中心に円陣を組んで、声を張り上げ守備位置へと散っていった。

 こいつらは元気だ。絶対に勝てる。守備位置へと散っていく選手の背番号に視線を泳がせた。

 

 ここまで試合に動きはないが六回の攻撃は両チームとも打順は三巡目で一番バッターからだ。この回がポイントになる。六回表をゼロで抑えれば裏にチャンスがくるはずだ。

 坂本の投球練習を仁王立ちで腕を組んでじっと見つめていた。五回までと変わりなくボールに切れがある。

 

《六回の表、名港商業の攻撃は一番センター大隣くん》

 

 この大隣という選手は体は小さいがバットコントロールが抜群にうまいしパンチ力もある。そして一番怖いのは走力だ。塁に出すとやっかいだ。

「このバッターは、絶対に塁に出すなよ。要注意の選手だぞ。慎重に、慎重にな」仁王立ちのまま坂本に念を送るように呟いた。

 坂本と目が合って何度も頷いて見せた。坂本が大きく頷いた。坂本に通じたようだ。

 

「うわーっ、しまった」重光が額に右手を当てて天を見上げた。俺が坂本に変な意識をさせてしまったのかもしれない。

 

『あーっと、また完全なボールです。大隣くんに対してストレートのファーボールです。解説の沢井さん、この回の坂本くんに何か変化はありますか』

『大隣くんが足が速いので塁に出してはいけないと慎重になり過ぎたのかもしれませんね』 

 

 キャッチャーの山崎が立ち上がり、坂本に向けて肩を上下させた。

 坂本はそれを見て笑みを浮かべてから、胸を張って肩をグルリと回した。

 

『ノーアウトでランナーが一塁です。沢井さん、名港商業は願ってもないランナーが出ました。ここはどんな作戦にでるでしょうか』

『そーですね、大隣くんの足を考えると盗塁もあるかもしれませんが、友野高校のキャッチャー山崎くんも肩がいいですからね。やはりここは確実に送ってくると思います。ランナー二塁にして三番、四番に期待すると思いますね』

 

 ストライクが入らない。こんなはずじゃない。絶対出したくないバッターだったのに。監督が大事なイニングだと言ってたのに、俺は何してんだよ。

「クソー」坂本はロージンを投げつけた。

 

『二番、栗林くん、早くも送りバントの構えです』

 

 送ってくるか? これまでの名港商業の攻撃は多彩だ。盗塁、エンドラン、送りバント、なんでもやってくる。しかし、ここは送りバントだろう。決めつけるのは危険だから、ちょっと様子を見よう。山崎が坂本にサインを送る。

 坂本がセットポジションに入ってからファーストへすばやい牽制をする。大隣は楽々とファーストへ戻る。

 走る気は無さそうだな、やっぱり送ってくるのか。それなら初球は内角高めストレートだ。ボール球でいい。

 

『坂本くん、栗林くんに対して第一球を投げました』

 

 栗林は送りバントの構えのまま、内角の速いボールにバットを合わせた。バントするには難しいコースだったが、ボールの勢いを上手く殺して三塁手前に転がした。

 

『栗林くん、上手いバントです。ボールが完全に死んでいます。坂本くんとサードの相馬くんがボールをとりにいく』

 

 坂本がすばやくマウンドをおりてボールを素手でとる。やばい、間に合うか。

 山崎が慌てて「ファーストー」と坂本に大声で指示を出す。坂本はセカンドを見ることなく、素早くファーストへボールを投げた。

 

『ピッチャーの坂本くんがボールをとってファーストへ投げる。栗林くんの足が速いぞ~。微妙なタイミング、どうだー』

 

 坂本からのボールがベースカバーに入った蓑田のグラブにおさまる。蓑田は目一杯体を伸ばしている。栗林がファーストを猛スピードで駆け抜ける。二人の間に風が起こった。微妙なタイミングだ。

 

 一塁塁審の右手が上がった。「アウトー」

 

『一塁は間一髪アウトー』実況が絶叫した。

 

「フゥー」ベンチから体を乗り出していた重光が息を吐く。体の力がふっと抜けた。「ワンアウト、ワンアウト」と声を上げてグラウンドに向かって人差し指を立てた。

 

『名港商業、スコアリングポジションにランナーを進めてバッターは三番木田くんです』

 

 怖いバッターだが今日は坂本には合っていない。大丈夫だ、坂本、強気でいこう。山崎がサインをおくる。

 

 バッター木田に対して、ファール二球で追い込んだ後、一球外角に落ちる球がボールになる。

 ツーボール、ワンストライクからの四球目。

 内角胸元に構えた山崎のミットに切れのあるストレートが吸い込まれる。

『パシッ』と山崎のミットが唸る。

 

『ワンボール、ツーストライクから内角直球が決まったー、木田くん、バットが出ません。三振です』

 

「坂本、ナイスボール」山崎が坂本にボールを返す。坂本がニヤリと笑みを浮かべて山崎からのボールを受けとる。ボールがグラブに入った瞬間、ギュッとグラブに力を込めた。そして次のバッターに視線をやった。

 次のバッターがネクストバッターズサークルからゆっくりと打席に向かう。丸太のような腕と熊のような体を見て弱気の虫が体中を走る。坂本は弱気の虫を追い払うように声を出した。「ウォーシィー」

 

『よばん~、ファースト高倉くん~』

 

 ここは勝負するのか、歩かせて次のバッターと勝負するのか、山崎はベンチの重光に視線をやった。重光は腕を組んだまま、目を見開いて顎を何度も前に突き出した。いけ勝負だ、目と顎で訴えていた。

 

『ツーアウト、ランナー二塁。バッターは四番の高倉くんです。今日ヒット一本打っています。準々決勝ではダメ押しのツーランホームラン、準決勝では決勝のタイムリーツーベースと当たっています。今大会絶好調のバッターにチャンスが回ってきました』

 

 初球は低めのスライダー、ボール球でいい。山崎がサインを送る。

 坂本は頷いてセットポジションから初球を投げた。

 

『坂本くん、第一球を投げました。外角のスライダー、外れてボール』

 

 高倉のバットがピクッと動いたが、簡単にボールを見極めていた。やはりこのバッターは調子が良さそうだ。攻めにくいなと山崎は思った。

 その後、外角のストレートでワンストライク。内角高めのストレートがはずれてボール。ツーボール、ワンストライクになった。そして四球目、山崎は外角のスライダーを要求した。カウントは悪くなるがボール球でもいい。甘いコースだけは禁物だ。

 

『ツーボール、ワンストライク。ピッチャーの坂本くん、セットポジションから第四球を投げました』

 

 外角のスライダーのつもりがスーッと真ん中に入ってきた。

「うわーっ」山崎が思わず悲鳴のような声をもらした。「や、やばい」

 絶好調のバッターは甘いボールを絶対逃さない。

 

『カッキーーーーン』乾いた金属音が響き渡る。

 

『打った~。打球はレフトへ~、高々の上がった~』

 

 打球はレフトへきれいな放物線を描いて飛んでいった。スラッガーらしい打球だ。

 

『レフトの榊原くんは見上げるだけ~。先制点は名港商業の四番高倉くんのバットから生まれました~』

 

 坂本は呆然と放物線へ描くボールの行方を見ていた。レフトスタンドでボールがはね、審判が腕をグルグル回しているのを確認してから、がっくりと両手を膝に当て下を向いた。坂本の顔中から汗がポタポタと落ちてマウンドの土に染み込んでいく。

「クソー」今度は天を見上げた。汗が目にしみた。

 重光がタイムをかけベンチから伝令がとんでいった。山崎もマウンドへと向かった。

 

 六回表終了 友野高校0対2名港商業

 

 六回裏、友野高校の攻撃。二点のビハインド。何とか早く追い付きたい。

 

『六回の裏、友野高校も打順よく一番の下山くんからです。沢井さん、友野高校としては流れを変えたいところですね』

『そうですね、その為には下山くんを塁に出したいですね。彼は足もありますし長打もあります。積極的な選手ですので流れを変えるには、もってこいの選手だと思います』

 

 下山がゆっくりとバッターボックスへと向かう。

 俺の一発で流れを変えてやる。下山がバッターボックスに入る前に力強くスイングして、ヘルメットをかぶりなおしバットのグリップをギュッと握りしめた。

「初球で仕留めてやる」

 

『名港商業としては得点した後のイニングです。このバッターは大事ですね』

『下山くんは思い切りがいいですから、初球は慎重に入ったほうがいいですね』

『名港商業のピッチャー岡林くん、ふりかぶって第一球を投げました』

 

 岡林にとっては不用意な一球だった。先制したことで少し気が緩んだのか甘いコースに投げてしまった。

「よーし、もらった」

 下山は初球から打ちにいく。岡林の球威は落ちてる。甘いストレートだ。ボールを呼び込んで思い切りスイングした。完璧に捉えた打球だ。

 

『下山くん、打った~。痛烈な打球。打球はレフトポール際へ飛んだ~。ファールかフェアーか。フェアーなら文句なしのホームランだ~』

 

 三塁側友野高校のベンチが総立ちになってレフトポール際へ飛んでいくボールの行方を追う。ライナー性の鋭い打球はグングン伸びていく。伸びるにしたがってボールは左へと切れていく。

 

『フェアーかファールか』

 

「切れるなー」友野高校ベンチから声が飛ぶ。

「切れろー」名港商業ベンチからも声が飛ぶ。

 

『ボールはレフトポールに直撃してグラウンドに落ちました~。ホームラン~』

 

「よーし。やったー」友野高校のベンチ全員が両手を上げた。

 

『ホームランです。下山くん、見事なホームランだぁ。友野高校が一点を返しました~』

『このホームランは大きいですね』

 

 下山がゆっくりとダイヤモンドをまわる。三塁ベースを踏んでベンチを見た。みんながベンチから飛び出してガッツポーズをしている。ホームベースへと向かう時に次のバッターの蓑田の姿が目に入った。右手を上げて迎えてくれている。ホームベースを踏んでから蓑田が出してきた右手をパンと叩いた。

「ナイスホームラン」

「おぅ」下山は無愛想に返事してそのままベンチの方へと向かった。

「ナイスホームラン」山崎がベンチ前で下山に両手を出した。下山も両手を出してパンと両手を合わせた。

「あのピッチャー、前の回からコントロールも球威も落ちてっからよ。きっとお前でも打てるよ」下山は右の口角だけをキュッと上げた。

 

『蓑田くんがバッターボックスに入ります。友野高校としてはこのまま流れに乗りたいところです』

 

 この流れを止めないように、絶対に塁に出たい。ファーボールでもデッドボールでもエラーでも何でもいい。蓑田は一握りバットを短く持った。

 

『岡林くん、ホームランを打たれて動揺したのでしょうか。二番の蓑田くんにストレートのファーボールです。慌てて一塁側から伝令が向かいます。沢井さん、岡林くんのピッチングに変化はありますか』

『そうですね、前の回から少し疲れたのか球威が落ちてきたようですね。ボールも高めに浮き出してますのでね。下山くんが甘いボールを逃さずに打ちましたから、少し動揺していますかね』

 

 伝令の選手が一言二言話した後、岡林の尻をポンポンと叩いてベンチへと下がっていった。

 

『マウンド上の輪が解けました。岡林くんの顔から笑みがこぼれています。これで少し落ち着きましたでしょうか』

『連投の疲れもありますし球威が落ちてくるのは仕方ないと思います。後は丁寧に低めにコントロールしていくことでしょうね』

 

 三番の小宮山がバッターボックスに入る。ここは確実に送って四番榊原、五番山崎に期待する。小宮山はバントも上手い。必ず決めてくれるだろう。重光は迷うことなく送りバントのサインを出した。

 

『小宮山くん、バントしました。これはいいバンドだー、岡林くん、セカンドはあきらめてファーストへ。ファーストはアウト。ワンアウトランナー二塁です。友野高校、同点のランナーをセカンドへ進めました』

 

 小宮山は跳び跳ねるようにしてベンチにかえってきた。

「ナイスバントー」ベンチから声が飛ぶ。小宮山がみんなと手を合わす。パンパンと手を合わす音がベンチを活気づけた。

 四番の榊原がバッターボックスへと向かう。「フゥー」と息を吐いた。相手の四番がチャンスにホームランを打った。自分の頭の上を軽々と越えていった。一歩も動けない完璧なホームランだった。自分は四番に抜擢されてから全く打てていない。今度は自分の番だ。初球をライトスタンドへ放り込んでやる。いや、豪快にバックスクリーンだ。

 

『友野高校、ワンアウトランナー二塁でバッターは四番の榊原くん。友野高校としては、ここで同点に追い付きたいところですね』

 

 ホームランで一気に逆転だ。四番の意地を見せてやる。榊原がいつも以上に大きく構えた。

 

『岡林くん、セットポジションからセカンドランナーをみて、第一球を投げました』

 

 よーし、きた。榊原は内角の高め、少しボール気味の球を強引に打ちにいった。

 

『打ったー。打球はライトへー、いやー』

 

 しかし完全に詰まらされた。ライトまでも届かない。セカンドが手を上げた。

 榊原は一塁まで全速で走ったが、ボールはセカンドのグラブに簡単におさまった。

 榊原は天を見上げた。「クソー、ボール球だったぁ」

 ピッチャーの岡林を見るとニヤッと笑っているように見えた。

「クソーッ」岡林を助けてしまった。

 

《ごばん~、キャッチャー山崎くん》

 

 山崎がバッターボックスに向かう。ここで追い付かないとまた相手に流れがいく。大事な打席だ。絶対に力むなよ、バッターボックスに入る前に胸に手を当て自分に言い聞かせた。

 

『榊原くんは倒れましたが、怖いバッターが続きます。沢井さん、バッテリーは何を注意すればいいでしょうか』

『榊原くんに対して内角のボール球でうちとりましたから、同じように焦らずボール球を上手く使うことでしょうね』

 

 山崎はツーストライクをとられるまでバットが出なかった。追い込まれてからはボールをしっかりと見極めて、厳しいボールは上手くファールで逃げた。粘って十球目スリーボールツーストライクからボールは内角の甘いコースにきた。

「よしっ、もらった」山崎は思いきりスイングした。

 ボールは内角の甘いコースからストンと落ちた。最後は岡林渾身のフォークボールだ。

 

『山崎くん、空振り、三振~。岡林くん粘った~。最後に素晴らしいフォークボールを投げました』

 

 六回裏終了 友野高校1対2名港商業

 

 七回は両チーム無得点。 七回裏が終わって友野高校一点のビハインドのまま。

 

 七回裏終了 友野高校1対2名港商業

 

 八回表はツーアウトからヒットとファーボールで一二塁のピンチを迎えたが次のバッターの二遊間の痛烈な打球を蓑田が横っ飛びで捕球しセカンドでアウトにした。

 

 八回表終了 友野高校 1対2 名港商業

 

『友野高校セカンドの蓑田くんの今のファインプレーは大きいですね』

『そうですね、流れが名港商業にいきかけてましたので、あれが抜けて一点入ると完全に名港商業のペースになりましたからね。蓑田くんナイスプレーです』

『八回裏は友野高校好打順。一番の下山くんからです。前の打席で見事なホームランを放っています』

『名港商業としては、このバッターは大事ですよ』

 

「もう一発、放り込んでくる」下山がそう言って打席へと向かった。

 名港商業バッテリーも警戒して、ボールから入る。ワンボールからの二球目、長打を警戒して外角のストレート。

 

『あーっと、下山くん。意表をつくプッシュバントだぁ。岡林くんがボールをとりにいくが追い付かない。ファーストの高倉くんがボールをとったがファーストに投げられない。内野安打ー』

 下山がファーストを駆け抜けてからガッツポーズをする。「よーし」

 

『ノーアウトランナー一塁。友野高校、同点のランナーが出ました』

 

 下山が一塁ベース上で、してやったりといった表情で笑みを浮かべた。

 山崎がベンチから下山に向かって右手の拳を握り高々と上げた。下山も軽くそれに応えるように右手を上げた。

 

『さぁ、友野高校、大事なランナーが出ました。ここはどんな作戦に出るでしょうか』

『やはり終盤ですし、送りバントだと思いますね』

 

 監督のサインを見る。やはり送りバントだ。しっかり送らないと、失敗すると良い流れを止めてしまう。

 蓑田は硬直した体をほぐすように二回、三回と素振りをしてからバッターボックスに入った。

 バントの構えに入る。ファーストとサードが前に来るのが見えた。プレッシャーがかかる。足がガクガクと震えだした。

 岡林がファーストへゆっくりと牽制球を投げた。下山はファーストベースへ戻る。蓑田はバッターボックスを外して屈伸する。今の牽制球の間は蓑田にとって有り難かった。少し気持ちを落ち着かせることができた。

 

『岡林くん、第一球を投げました』

 

 蓑田はバントした。ボールは前進してきたサードへと転がった。少し打球が強くなった。セカンドは微妙なタイミングになりそうだ。サードがボールをとってセカンドへ体を向けた。一瞬投げようとしたが躊躇してファーストへ投げた。

 

『友野高校、送りバント成功です』

 

「蓑田、ナイスバント」ベンチからファーストを走り抜けた蓑田に声が飛ぶ。

 蓑田は「フゥー」と息を吐いて胸に手を当てた。「決まってよかったー」

 三番小宮山がヒットでランナー一三塁とチャンスが広がる。

 四番榊原の当たりはあわやホームランかというライトへのフライ。タッチアップから下山がかえり同点に追い付いた。友野高校のベンチがお祭り騒ぎになった。

 そして五番山崎に打席がまわる。下山が厳しい表情で山崎のところへ近づいた。何やら会話を交わし離れ際に下山が山崎の胸に軽く拳をあてた。山崎は頷いてから下山の拳を軽くはらい、ゆっくりとバッターボックスへ向かった。

 

『山崎くん、打ったー。痛烈な打球がレフトへ~』

 

 

 八回裏終了 

 

 

『九回表名港商業の攻撃です。ツーアウト、ランナーがありません』

 

『打ったー、打球はショートへ』

 

「よしっ」キャッチャーの山崎が声を上げた。力のない打球がショートの下山の正面へ飛んでいった。

 下山は前進して軽快に打球をさばきファーストへ矢のような送球をする。ファーストの宮田のミットにボールが吸い込まれていく。一瞬、球場が静まり返る。ミットがバシッと力強い音をたてた。一塁塁審の右手が上がった瞬間、球場がどーっと地響きをあげた。

 山崎が拳を握りミットをポーンと叩いてから、両手を高く上げて天を見上げた。

「決まったー」青空に吸い込まれそうな感覚になった。入道雲が「おめでとう」と自分に笑いかけてくれているように見えた。スーっと体の力が抜けていった。

 ピッチャーの坂本を見ると力強く両手を高々と上げている。背の高い坂本が一段と大きく見えた。その姿が少しかすんで見えた。目頭をギューとおさえてから坂本のもとへ駆け寄った。ショートの下山もセカンドの蓑田もファーストの宮田もサードの相馬もみんなが集まっていった。

 みんなの姿もかすんで見えた。

 

 八回裏の打席に入る前、下山が近づいてきた。

「お前、責任感強すぎんだよ。前の打席もガチガチだったじゃねえか。結果なんていいから、初球を思いきり打ってこいよ。ここまでこれたのはお前のおかげなんだから、ダメでも気にすんな」

 そう言われて気分が楽になった。とりあえず思い切り打とうと打席に入った。初球、甘いボールがきたので思い切りバットを振り切った。ホームランにはならなかったが、フェンス直撃のタイムリーツーベース。セカンドベースで両手を高々と上げたら、下山がベンチの奥で親指を立てていた。その時も下山の姿がかすんで見えた。恥ずかしいからすぐに手で涙を拭った。

 

『試合終了です。友野高校が三対二で名港商業を下し、二年連続県大会優勝を決め、甲子園の切符を手にしました』

 

 

 


最後の夏 組合せ抽選会

 セピア色の照明が優しい光を落とす静謐なホール。真っ赤なシートだけが存在感をアピールし、これだけがこれから始まるセレモニーの興奮を感じさせている。今は誰も座っていないこのシートも組合せ抽選会を心待ちにしているようだ。一時間後には、球児たちで埋めつくされ、この真っ赤なシートの上に白と黒の色が混ざり込む。白と黒のあちらこちらからどよめきが起こり、それがホール内に反響する。その時、彼らの顔もシートのように赤く染まるのだろう。

 

 大阪市北区中之島にある大阪フェスティバルホールは、全国高校野球選手権大会組み合わせ抽選会の始まりを静かに待っていた。

 

 試合だけでなく、このホールにも毎年ドラマが起こる。優勝候補同士の対決、因縁の対決、隣県対決、等々。

 負ければ終わりのトーナメント。監督、選手たちにとっては日程や対戦相手が決まる緊張の時だ。

 

 選手たちがぞくぞくと入場し真っ赤な座席に腰を下ろす。ワクワクとドキドキの感情を隣の選手と共有し楽しむようにひそひそと会話を始める。これまで時間が止まっていたようなセピア色の静謐な薄暗いホールが呼吸をはじめた。

 

 友野高校の選手もシートに腰を下ろし、少しリラックスした表情で抽選の始まりを待っていた。

 正面の壇上は眩しいほどに明るく照らされ、奥には全国高校野球選手権大会組み合わせと書いてある大きなボードが白く照らされ浮き上がって見える。その壇上の隅の方に遠慮がちに座る山崎の姿が見えた。

 膝の上に組んでいる自分の両手に視線を落としているように見える。もしかすると目を閉じているのかもしれない。

「おい、山崎見ろよ。緊張してるぞ。あいつ大丈夫かよ、ハハハ」下山が壇上に向かって指をさして笑った。

 

 そう、山崎だけはワクワクした気持ちになれず、ドキドキの緊張だけで掌は汗でびっしょり濡れていた。何度も生唾を飲み込み、自分の順番を待っていた。

 

 山崎の順番が回ってきた。山崎は立ち上がり緊張した足取りでゆっくりと壇上を歩き抽選箱の前に立った。そして抽選箱に手をつっこんだ。

 さぁ、緊張の時だ。対戦相手が決まる。試合の日程が決まる。

 

 友野高校の選手たちもひそひそ話を中断し緊張した面持ちで真っ白に輝く壇上の山崎に視線を集中させた。

 山崎がくじを引く。

 手を合わせている蓑田、腕を組んでいる下山、胸に手を当てている坂本、みんなの視線が山崎の手元に集中した。山崎が札を持って舞台正面に立った。

 みんなが息を呑んだ。

 

「友野高校、10のA」少し震えた声がホールに響き渡った。

 山崎は、少し笑みを浮かべようとしていたが、右の口角だけが上がり歪んでいた。

 

 瞬間、「ウワー」「ヒェー」「オー」「エーッ」といったいろんな声が各シートから上がり、それらが反響しホール全体を埋めつくした。

 静まりかえっていた抽選会場に今日一番のどよめきが起こり、ホールがはじめて暴れだした。

 その理由は友野高校にあったわけではない。プロ注目、今大会屈指の好投手を擁する優勝候補の相手が決まったからだ。

 奥の大きなボードの10のBの位置には優勝候補の昌徳高校の札がかかっていた。その隣にどこの学校が入るのだろうかと会場内は興味津々、戦々恐々だったのだ。

 昌徳高校は五年連続六回目の甲子園出場で、ここ最近、力をつけ甲子園の常連校になった学校だ。そして毎年のように好選手をそろえ、優勝を狙える力を備えて出場していた。卒業生にはプロで活躍する選手も数人いる。これまでの甲子園最高成績は昨年のベスト4。これまで何度も優勝候補に名を連ねたのだが優勝の経験はない。今年はプロ注目の今大会ナンバーワン左腕野々村を擁し優勝を狙っている。

 野々村は地方大会でノーヒットノーランを達成し、その試合で最速158キロを記録した。

 

 友野高校の初戦は三日目の第三試合。対戦相手は強豪の昌徳高校に決まった。

 抽選で昌徳高校との対戦が決まった瞬間、友野高校の選手達から「えーっ」と悲鳴に近い声が上がった。

 頭を抱える者、天を仰ぐもの、うなだれる者、苦笑いする者、ガッツポーズする者、各々が違うリアクションをしていた。

 

 

「せっかく甲子園にきたのに、これじゃあまた初戦敗退だな」

「初戦はもうちょっと弱い学校とやりたかったよな」

「うちはクジ運悪いよな。158キロのボールなんてみたことないよ。打てるわけないよ」

 抽選会の後、宿舎ではそんな弱気な声がちらほらとこぼれていた。

 クジを引いた山崎は苦い笑みを浮かべて口を歪めた。

「何、弱気になってんだよ。せっかく甲子園で試合ができるんだ。強豪校と試合する方が面白いじゃないか。あの野々村の158キロのボールをバッターボックスで見れるんだぜ、楽しみじゃないか。それに野々村からホームランでも打ったら一生自慢できるぜ」副キャプテンの下山だけは昌徳高校との対戦を喜んでいた。

「けどな、昌徳だぞ。勝てるわけないだろ。ボコボコにやられるぞ」ピッチャーの坂本が頭を抱えた。

「昌徳の今年の打線は大したことないよ。坂本なら抑えられる。お前がゼロに抑えてくれれば勝てるよ」

「なに勝手なこと言ってんだよ。絶対勝てないよ」

「そんなの、わかるかよ。去年の港星学院だって強豪だったぞ。先輩達は港星学院を最後まで追い詰めたじゃねえか。あの試合だってあいつが暴投しなけりゃ勝ってたぜ」

 下山が蓑田に向けて顎を突きだした。

「まっ、そうだけど」坂本は気遣うように蓑田に視線をやった。

 蓑田は顔を歪めた。「フゥー」と息を吐き、「そうだ、去年は俺の暴投がなければ港星学院にも勝てたんだ。去年の借りを返すには昌徳高校のような強豪とやる方がいい」

「蓑田、なかなか強気になったな」下山が笑う。

「この一年、お前にいじめられたせいだ」蓑田も笑う。

「相手どうこうより、自分たちの野球を目一杯やることだ。それに相手が強い方が気持ちは高ぶるはずだ。去年の先輩達がそうだった。勝つために必死で戦ってた」山崎が言う。

「よし、これから野々村対策だ。よーし、勝つぞー。勝ったら注目されるぞー」下山がパーンと膝を叩いて立ち上がった。

「まぁ、相手が相手だから、負けても、誰も文句言わないだろ」宮田が言うと下山が宮田を睨んだ。

「最初から負けるつもりで試合するな。絶対に勝つんだよ。そのためにこれから準備するんだ」

「下山の言う通りだ。勝つためにどうするかを考えろ。相手が強ければ強いほど、自分たちの力を最大限に発揮するための準備が大切になる。そしてその準備することがお前たちの将来にきっと役立つはずだ」みんなの会話を聞いていた重光が最後に口を挟んだ。

「よし、夕食後にミーティングだ。それまで一旦解散だ」山崎が両手をメガホンにして声を張り上げた。

 


リラックスの時

「フゥー、疲れた~」

 練習を終え宿泊するホテルの部屋に戻った蓑田はバッグをドンと床に落として、ぐったりと椅子の背もたれに体をあずけ足を前につきだして座った。

 部屋に入った瞬間、きれいにメイクされたベッドが目に飛び込んできたので、ベッドに思い切りヘッドスライディングしたいという欲求がわいてきたが、泥と汗にまみれた自分のユニフォーム姿を見て、さすがにそれは躊躇した。

 いっしょに部屋に入った山崎はバッグを床に置いてから首をまわしたり、腰をひねったり、アキレス腱を伸ばしたりとストレッチを始めた。それらが一通り終わると台の下に設置してあるサイコロ型の小さな冷蔵庫からペットボトルのミネラルウォーターを取り出し椅子に腰掛けた。よく冷えたペットボトルのフタをあけるとクイッと一口飲んで「フゥー」と息を吐いた。

 隣でだらしなく座る蓑田が「俺もくれ~」と右手を差し出した。山崎はもう一口飲んでから、ペットボトルを蓑田の出す右手に渡した。

「ホイ」

「サンキュー」

 蓑田はペットボトルを受けとると逆さまになるほど傾け一気に飲み干してしまった。山崎はその様子を眉をハの字にし口角を上げながら見ていた。

「冷蔵庫にもう一本入ってたぞ」

 山崎はそう言って、腰を屈め冷蔵庫から新しいミネラルウォーターを取り出した。

「いや、もう大丈夫。スッキリした」

 空になったペットボトルをガラスのテーブルの上に置いた。

「フン、俺が飲みたいんだよ。お前が全部飲むとは思わなかったよ」

「あー、ごめん、ごめん。山崎にはついつい甘えちゃうんだよな」蓑田は坊主頭を掻いた。

「別にいいけど」そう言って山崎はミネラルウォーターを一口飲んで宙を眺めた。

「それにしても、今日はみんな気合いが入ってたよな」蓑田が座り直して姿勢を正してから言った。

「みんなの目の色が一日で変わったからビックリしたわ」

「みんなが必死で練習するから、俺もクタクタになった」蓑田は、また座る姿勢を崩し腕をダランと下げ顎を上げた。「ハァー、疲れたー」

「ミノ、先にシャワー浴びてこいよ」

「いーよ、ヤマ、先にいけよ」

「俺、今から、ちょっと母ちゃんに電話すっから」山崎が携帯を持ち上げ蓑田の方にかざした。

「あっ、そうか、わかった。じゃあ、お先に~。ハァー、疲れた~」蓑田が立ち上がり浴室へと向かった。

「おぅ、ゆっくり疲れとれよ」

「はいよ~」蓑田は山崎の方を見ないでヒラヒラと手を振って浴室へと消えていった。

 山崎がドアが閉まるのを確認してから母親に電話をかけた。

 母親はすぐに電話に出た。

「はいはい、茂樹、お疲れさんだねぇ」

「ああ」

「昨日の抽選会、テレビで観たわよ。相手の学校、強いらしいじゃない?」

「ああ、まあ、ピッチャーが、プロ注目のピッチャーだからな」

「知ってる。野々村って子でしょ。予選の頃からテレビでよくやってた。160キロ以上のボールが投げれるピッチャーだって。ドラフトの目玉だ、日本の宝だ、大切に育てないといけない、だって。本当、うるさかったわ。うちの茂樹だって宝だよって、テレビに向かって怒鳴りたかったわ」

「ハハハ、で、怒鳴らなかったの」

「さすがにね、一人でテレビに怒鳴ってたらバカみたいじゃない」

「確かに」

「野々村って子、この間もテレビに出てて、甲子園では160キロを出します、て言ってたわ。背も高くてイケメンで、女の子からも人気あるみたいね。まっ、茂樹にはかなわないだろうけどね」

「ハハ」山崎は苦笑いを浮かべた。

 そのテレビは山崎も見ていた。甲子園に出場する注目選手を紹介する番組だった。番組で一番長い時間をとってたのが野々村だった。インタビューで目標は?と訊かれて『全国制覇して昌徳高校に新しい歴史を刻むことと甲子園で160キロを出すことです』と力強く話していた。怪物と言われる男だが、顔だけ見てると目がクリクリしていて女の子みたいだ。インタビューの間もニコニコと笑みを絶やさず、アイドルのインタビューのようだった。たまに、はにかむ顔が人気の理由らしい。山崎も抽選会の後のインタビューで、はにかんでみようとしたが、どうもうまくいかなかった。はにかむというより、ひきつった笑みになってしまった。

「ところで、どう? 体調とか大丈夫?」

「ああ、大丈夫。元気、元気」

「宿舎の食事は?」

「うん、美味しいよ」

「そう、それなら良かった。試合の日はお父さんと二人で甲子園に応援行くからね」

「父さん、来れるの?」

「うん、大丈夫だって。去年は仕事で行けなかったから、今年は絶対行くって、張り切ってる」

「そう、父さん、仕事忙しそうだもんな」

「でも、茂樹のカッコいい姿、生で見ないともったいないって言ってた」

「カッコいいとこ見せれるかな」

「大丈夫よ。私たちにとっては、茂樹の姿は全てがカッコいいから。野々村なんて全然カッコよくないわ」

「ハハ……」頭を掻きながらまた苦く笑う。

「お爺ちゃんとお婆ちゃんはテレビで応援するって言ってたわ」

「そう」

「お婆ちゃんは昨日の抽選会を録画してて、あなたの出てるシーンばかり何度もみてるみたい」

「婆ちゃんらしいな」

「そうね、みんな喜んでるわ。頑張ってね」

「まぁ、頑張るけど簡単な相手じゃないからな」

「あまり難しく考えないで、相手は強いんだから、負けてもしかたないじゃない。甲子園で楽しんで野球やればいいのよ」

「うん、でも監督は絶対勝つつもりで試合に挑めって言ってるからな」

「へぇー、それって勝利至上主義ってやつ? プロじゃないんだから」受話器の向こうで眉をひそめる母親の顔が浮かんだ。感情の変化が激しい母親は、さっきまでの晴れ渡った感情から曇り空に変わったようだ。この後、嵐になることがよくあることを山崎はわかっている。

「勝利至上主義ってわけじゃないんだけどね」

「じゃあ、負けてもいいじゃない。勝っても負けても参加することに意義があるっていうじゃない。相手が強いんだし、それでいいじゃない」

 声のトーンで少しずつ嵐へ近づいていくのがわかる。

「参加することに意義があるって、それって、オリンピックじゃない」

「そんなの、どうでもいいのよ。勝つことが全てではないってことが言いたいの。勝利至上主義だと最近問題になってる暴力とか体罰とかにつながるでしょ。甲子園だからって、いい格好する必要ないのよ。負けてもいいの。わたしから監督に文句言ってあげようか」

「大丈夫だよ。監督は勝利至上主義なんかじゃないよ」

「じゃあ、負けてもいいじゃない」

「監督が言いたいのは勝つための準備をして試合に挑めってことなんだ」

「それが勝利至上主義でしょ」

「ちょっと違うよ。監督は、本当は勝ち負けにこだわってるわけじゃないんだ。試合に挑む俺たちの気持ちにこだわっているんだよ。勝つために準備する気持ちを持ってほしいってことなんだよ」

「ふーん、よくわからないけど」

「勝て、じゃなくて俺たちに勝ちたいと思ってほしいんだよ。勝つって目標がある方が努力するでしょ。その努力をしてほしいってこと」

「あぁ、そうなの」

「せっかく与えられた甲子園という大舞台で野々村という凄いピッチャーと対戦出来るんだ。こんな経験、そうそう出来るもんじゃない。それを中途半端な気持ちで挑むのはもったいないんだ。勝ちたいと思って試合に挑む方が俺たちの気持ちも盛り上がって努力する。きっとそれが俺たちの成長に繋がるんだ」

「ふーん、茂樹も知らない間に立派なこと言うようになったね」

 嵐になる前に気持ちが冷めてくれたようだ。

「組み合わせが決まってから野々村をどう攻略するかとか、みんなで映像をみながら必死で考えたよ。野々村は何度みても凄いピッチャーなんだ。それで、みんな段々興奮してきて今日の練習はすごく盛り上がったよ。練習終わってからも、さっきまで野々村をイメージしてみんなで素振りしたりしてた。相手が強ければ強いほど、そして勝ちたい気持ちが強くなればなるほど、みんなが一つになれるんだなと思った」

「あー、そうなの。とりあえず、あなたが楽しめてるならお母さんはそれでいいわ」

 

 視界の端に蓑田の姿が入ってきた。視線を向けると蓑田が浴室から出てきたところで、にこりとこちらに笑みを送ってきた。

「うん、じゃあ、そろそろ俺シャワー浴びてくるわ。この後ミーティングもあるし」

「はーい、電話ありがとうね」

 

「おふくろさんか?」蓑田がパンツ一丁のまま坊主頭をバスタオルで拭いている。すでに乾いているので、バスタオルで拭いてもあまり意味がないように思えた。

「あー、たまに電話しとかないとな。ここまで野球やらせてもらったから感謝もしてるし」

「ヤマは親思いだよな。なんか、すごい大人だよ。野球部みんなに気配りもできるし、キャプテンとしてみんなをまとめてるし、本当凄い」蓑田がバスタオルを肩にかけベッドに腰を下ろした。

「そんなことないよ。キャプテンやって一年間大変だったけどミノにいっぱい助けてもらった。本当ありがとう」椅子に座ったまま膝に手を置いて山崎が頭を下げた。

「あらたまって、そんな……、照れるなぁ」蓑田が坊主頭を掻いた。

「ハハハ、俺も照れるわ」山崎は下を向いておでこを掻いた。

「でも、あと少しで終わりだな」

「そうだな……」山崎が宙に視線をやった。「負けたら……、終わりなんだよな」

「少しでも長くみんなと野球がしたい。だから絶対野々村を攻略したい」蓑田が宙に向かって叫んだ。

「あー、みんな同じ気持ちだ。最後にやっとみんなが同じ気持ちなった気がする。ある意味、こうなれたのは野々村のおかげかもな。あいつが凄いから、みんなの目の色が変わったんだと思う。みんなであいつを攻略しないといけない、そう思うようになったんだ。でないと、俺たちの夏は終わってしまうから」

「そうだな。最初は昌徳に決まって弱気なこと言ってた奴もいたけど、やっぱりみんな勝ちたいんだよ。少しでも長く一緒に野球がやりたいんだ。野々村の映像をみて、みんなの気持ちに火がついたんだと思う」

「野々村の弱点は終盤だ。少し制球が乱れる」

「うん」野々村のピッチングの映像が蓑田の頭に浮かんだ。

「それに坂本も絶好調だ。きっと相手の打線をおさえてくれる」

「2対1で友野高校の勝利。これでどう?」

「うん、いいね。そんな試合にしたい」

「きっと、そうなる」

 お互い顔を見て頷いた。

「じゃあ、俺もシャワー浴びてくるな」山崎は立ち上がり浴室へ向かおうとした。

「いってらー」蓑田が右手をヒラヒラとした。

「あっ、そういえば、さっきミノの携帯鳴ってたわ。メールじゃないかな」

「あっ、そう。後で携帯見てみるわ」多分あいつからだ、と蓑田は思った。

 蓑田は山崎が風呂のドアを閉めたのを確認してから携帯のメールを開いた。

 

『今日の調子はどう? 野々村攻略はできそうかな? ミノっちならきっとやってくれるよね。暇な時があったら声が聞きたいなぁ』

 

「やっぱり~」蓑田の頬が緩んだ。そして、すぐに電話をした。

 コール二回で相手が電話に出た。

「もしもし~、里美~」

「ミノっち、お疲れ~。元気~」

「うん、元気、元気~。里美の声聞いて一段と元気~」

「よかった~。チームの雰囲気はどう? 昨日は昌徳に決まって、みんな元気ないって言ってたけど」

「いや、今はみんな燃えてる。野々村を打ち崩すんだって必死で練習してる」

「そうか~、それならよかったわ。最後だもんね。やるしかないよ」

「そう、みんな最後の夏を少しでも長くいっしょに戦いたいから、気持ちがひとつになった気がする」

「そう、それはよかった」

「去年の先輩たちもこんな気持ちだったんだろ?」

「うん、みんな少しでも長くいっしょに野球をやろうって言ってた。野口くんも間宮くんも、すごーく燃えてた」

「それなのに、俺の暴投で終わらせちゃったんだもんなぁ」

「あー、また言ってる。もう終わったこと。みんな気にしてないから」

「うん、わかってんだけど、ついつい思い出すよ。あの時の暴投のシーンが今でも頭に浮かぶことがあるんだ。もしあの試合に勝ってたら先輩たち、どこまで勝ち進めたんだろうな、とも思う」

「どうかな。次の相手も強かったしね」

「あの時、俺の所にボールが飛んでこなかったらよかったのにと思うこともあるんだ。けど……」蓑田が言葉につまった。

「けど?」

「うん。けど、もし、俺が暴投してなかったら、今ごろ『里美』なんて呼んでないかもしれないなぁって思う。今でも「板野先輩」のままだったのかもしれないなぁって」

「そうね、わたしも監督に頼まれなかったら、ミノに声掛けなかっただろうね」

「そういう意味じゃ、俺、良かったのかな」

「さぁ、わかんない」

「なに、それ」

「別に。それより山崎くんは?」

「元気だよ。今シャワー浴びてる」

「山崎くんもキャプテンとしてよーく頑張ったよね」

「うん、山崎はやっぱり凄いよ」

 浴室のドアに視線をやると、ちょうどドアが開いて山崎が出てきた。上半身は裸だ。顔から吹き出てくる汗をバスタオルで必死で拭いている。

「あっ、山崎、出てきたわ。じゃあ、また」

「あ、うん。山崎くんにもよろしく。みんな頑張ってね」

「わかった、頑張る」

 蓑田が携帯の通話終了のボタンを押して携帯をベッドの上に置いた。

「ヤマ、すっきりしたか」

「ああ、けど、アツい、アツい」

 汗かきの山崎は上半身、汗びっしょりになっていた。

「シャワー浴びたとこなのに、もう汗かいてるぞ」

「あー、アツいからな。ハァー、アツいアツい」

「この辺りがエアコンの風がきて気持ちいいぞ」

 蓑田は自分が座っている場所をあけ体を横にずらし、あけた場所を右手でパンパンと叩いた。

「サンキュー」山崎が蓑田の隣に座りエアコンの風に当たった。「あー涼しい風がくる~」エアコンの風が山崎の顔に当たって目を細めている。「気持ちいいけど、やっぱりアツいアツい」

「これでどうだ」蓑田が立ち上がって肩にかけていたバスタオルを外して山崎に風を送るように両手でバタバタと仰いだ。

「サンキュー。けど、まだまだ、アツいアツい」

「えー、暑がり過ぎだ~」蓑田は眉をハの字にして仰ぐバスタオルのスピードをあげた。

「お前のせいだよ」山崎が蓑田に顎を向けた。

「なんで? こんなに必死に仰いでんだぞ」一段と仰ぐスピードを上げたが、すぐに力尽きた。「フゥー、もう限界。休憩だ」また、山崎の隣に座った。

「さっきの電話だよ」山崎が蓑田を横目で見た。

「えっ」蓑田が山崎に顔を向けた。

「さっきの電話、板野先輩だろ」蓑田のほっぺたを思い切りつねった。

「ふああっ、ふぉうだへど」ほっぺたをつねられたままで上手く発音できない。

「やっぱりな。アツいはずだわ」山崎がほっぺたをつねった手を外し、蓑田の頭をパンとはたいた。

「痛えな」

「鼻の下伸ばして嬉しそうな顔しやがって」

「鼻の下なんて伸ばしてねぇし」

「あーぁ、ミノはいいなぁ」山崎はベッドに横たわった。「さっきも、里美~、とかやってたんだろうなぁ」寝転がったまま、ベッドにある枕を抱きしめながら言った。

「やってねぇし」

「羨ましいなぁー」

「ヤマは誰か好きな娘いないのかよ」

「俺? そうだなぁ」

「いんのかよ」

「音楽の山中先生かな」

「えっ、年上じゃねえか」

「お前だって板野先輩は年上だろ」

「さと……、あっ、い、板野先輩は学年は上だけど、生まれた年は一緒だからな」

「えっ、今、さとみって言いかけた? ハハハ。やっぱりアツいアツい」

「うっせえなぁ。それよりヤマと山中先生だと歳が離れすぎだろ」

「うーん、山中先生って何歳だろ」

「二十五歳くらい?」

「わかんないけど、歳なんて関係ないよ」

「今年もブラスバンドの応援で来てくれるんだろ」

「そうみたいだ」

「じゃあ、『山中先生、僕がホームラン打ったら付き合ってください』ってのはどう?」

「うるせぇ」

「照れんなよ」

 

 その時、山崎の携帯がせわしなく鳴った。携帯を手にした山崎の顔から笑顔が消えていった。

「誰?」

「や、やばい。監督だ。監督とミーティングの時間だ。まじでやばい、ミノ、俺、先に行くな」

 山崎は慌ててジャージを着て部屋を後にした。

 

 

 

 

 


最後の夏 甲子園初戦 一回表

 友野高校のスターティングメンバー

 一番ショート 下山

 二番セカンド 蓑田

 三番センター 小宮山

 四番キャッチャー 山崎

 五番レフト 榊原

 六番ファースト 宮田

 七番ライト 西原

 八番サード 相馬

 九番ピッチャー 坂本

 

 昌徳高校のスターティングメンバー

 一番ショート 菊田

 二番センター 宮中

 三番ライト 大平

 四番ファースト 大井

 五番レフト 下條

 六番サード 水木

 七番セカンド 山内

 八番キャッチャー 近藤

 九番ピッチャー 野々村

 

《一回の表、昌徳高校の攻撃は一番ショート菊田くん、ショート菊田くん》

 球場内に透き通った声がこだまする。主審が右手を上げて試合開始を告げた。

 三塁側アルプススタンドから力強いブラスバンドの演奏が始まった。

 

『さぁ、試合開始です。一回表、昌徳高校の攻撃は一年生のショート菊田くんです。高崎さん、一年生で一番ショートをまかされるのは凄いですよね』

『そうですね、予選を観させてもらいましたが、足もありますし、守備もいいですし、バッティングも非凡なものがあります。一年生とは思えない本当に楽しみな選手ですね』

『昌徳高校は野々村くんばかりが注目されていますがこの一年生の菊田くんも注目の選手です』

 

「この一年生は気を付けろよ。一年生でまだ体は小さいが油断するな。足もあるし、以外とパンチ力もあるからな。まっ、ストレートには強いけど変化球に対しては、まだまだ一年生だ。脆さもある」 

 坂本は、監督の言葉を思い出していた。昌徳打線の対策のためのバッテリーミーティングの時だった。ホテルの会議室に自分と山崎、宮田、塚原、笹本の五人が一番前のテーブルに横一列に座り、前のテレビに映る菊田の予選の映像をみている時の言葉だった。

 たしか、あのミーティングの時、めずらしく山崎が遅れてきた。「遅れてすいません」と会議室に入り、慌てて自分の隣に汗びっしょりのまま座った。監督が山崎に「これ見ながらしっかり聞いておけ」と山崎の前に一冊のノートをポンと置いた。山崎がノートを開いたので、覗きこむとビッシリと昌徳高校の選手のデータが書き込まれていた。あのミーティングは抽選会の次の日だったのに、監督は一日であれだけのことを調べあげたんだと驚いた。

 

 山崎のサインを覗き込んだ。初球は外角低めストレートか。ストレートでカウントをとって、最後は変化球で三振といきたいところだな。山崎もそんなプランなんだろう。体も軽いし、意外と緊張もしていない。いい感じだ。

「よーし」野々村に負けてたまるか。

 長身の坂本は気合い充分で大きくふりかぶった。

 

『坂本くん、ふりかぶって第一球を投げました』

 

「おりゃぁー」坂本がめずらしく声をあげた。しかし、力が入りすぎた感がある。フォームがバラバラになり、アウトステップになってしまった。

 

『あーっ、ボールはキャッチャー山崎くんの構えるミットとは逆の方向にきました~』

 

 坂本は力が入りすぎ、左バッター菊田のアウトコース低めに投げようとしたボールがインコースに入ってきた。いや、インコースどころか、ボールは菊田の体めがけて向かってきた。

 

「あーっ」思わず山崎が声をあげた。

 菊田は打つ気満々で踏み込んでいったが、慌てて体を後ろへ下げた。

《ドン》

 鈍い音がしてボールは菊田の足元にポトリと落ちた。アルプススタンドのブラスバンドの演奏が止み球場が静まりかえった。

 菊田はその場に倒れこんだ。山崎は顔を歪めてガクッと首を折った。

「まじかよ」下山がマウンドの坂本のもとへと向かう。

 蓑田は黙ってマウンドへと走って行った。サードの相馬も続いてマウンドへ行った。ファーストの宮田は倒れる菊田の方へ向かった。

 

『あーっと、デッドボールです。ボールは菊田くんの足に当たったでしょうか? 菊田くん倒れこんでしまいました。痛そうですが大丈夫でしょうか』

 

 山崎が菊田の横で屈んで苦しそうな菊田の顔を覗き込んだ。

「すいません。大丈夫ですか」

 菊田は顔を歪めて太ももの辺りを右手で押さえている。左手はぎゅっと拳を握っている。両校ベンチからスプレーを持った選手が菊田のもとに駆け寄った。ベンチから出てきた昌徳高校の選手が菊田の太ももにスプレーをかけはじめる。

 山崎はその横で様子を見ていた。菊田も心配だが坂本も心配だ。視線を坂本にやった。帽子をとってこっちを見ている。顔面が蒼白だ。坂本の横には蓑田と下山、相馬が立っていた。

 

「おいおい、力みすぎ。野々村より先に160キロでも投げようと思ったのかよ」下山が笑いながら坂本の尻をグラブで叩いた。

「さっ、切り替え、切り替え」蓑田も坂本に声をかけて肩をポンと叩いてから、坂本の顔を覗きこみニターと笑った。

「ああ」坂本は笑顔をつくっていたが、蓑田に目を合わせないで倒れる菊田の方に体を向けたまま宙を見ていた。

「大丈夫、大丈夫」「いける、いける」蓑田と下山、相馬はそう言いながら守備位置へと戻っていった。

 

 蓑田は一年前の自身の暴投の時のことを思い出した。あの時、みんなから声をかけられたが、全く耳に入っていなかった。今の坂本は大丈夫だろうか? 「切り替え、切り替え」「いける、いける」とかけた声は坂本に届いたのだろうか。セカンドの守備位置から坂本の後ろ姿を見た。大きな体の坂本が小さく見えた。

 

 菊田が右足をかばうようにゆっくりと立ち上がった。

「大丈夫?」山崎が心配そうに声をかけた。

「はい、大丈夫です」菊田は山崎に向けて小さな笑顔をつくって見せた。少し右足を引きずりながらファーストベースへと歩き始めた。球場から拍手が起こった。歩きはじめは足を引きずっていたが、数歩歩いてからは右足の状態を確かめるように地面を強く踏みしめて歩いていた。最後は駆け足でファーストベースへ向かった。ファーストベースについて屈伸をしてその場で跳ねた。

 坂本がファーストベースに立った菊田に向かって、もう一度頭を下げた。「すいませんでした」

 菊田は「大丈夫です」とヘルメットをとって頭を下げた。球場全体が大きな拍手の渦に包まれた。

 

『菊田くん、大丈夫そうですね』

『そうですね、当たったのが太ももなので肉の多いところですし、よけかたもうまかったですから大丈夫だと思います』

『ボールのよけかたがうまいのも、やはりセンスを感じますね』

『そうですね。甲子園の初打席、普通はガチガチになって体が動かないものですが、菊田くんは落ち着いてましたね。しっかりボールに反応していましたよ』

『さぁ、試合再開です』

 

 ノーアウト一塁だ。やっぱりここは送ってくるだろうな。山崎が初球のサインを出す。バッターの宮中は送りバントの構えだ。

 

『ノーアウトランナー一塁で、バッターは二番宮中くんです。高崎さん、ここは送ってきますかね』

『そうですね、先制点がほしいですから、定石なら送りバントですが、ランナーの菊田くんは足がありますしバッターの宮中くんは器用なバッターですから、バントと決めつけるのはよくないですね。少し様子をみた方がいいでしょうね』

『セットポジションから、坂本くん、一塁へ速い牽制。菊田くんはベースにもどります。友野高校バッテリーとしてはこれでいいわけですね』

『そうです』

 

 走る気配は無さそうだが、一球様子をみよう。山崎はサインを出し外角へのボールを要求した。坂本は頷いたが、少し顔を歪めたように見えた。坂本、大丈夫か。山崎は唇を噛んだ。

 

『坂本くん、サインに頷いて、セットポジションから第一球を投げました』

 

 ボールは山崎の構えたミットより外角高めへ大きく外れる。

 山崎は飛び上がって腕を目一杯伸ばしミットを出した。ボールは山崎のミットの先になんとか収まった。

 ボールをとってから一塁ランナーの菊田を目で牽制してから、「フゥー」と息を吐いた。

 

『大きくはずれましたが、山崎くん、よくとりました』

 

 二球目はスライダー、ワンバウンドするボールを山崎が今度は身を挺して止めた。

 三球目はすっぽぬけて高めに浮いた。これでスリーボール。まだストライクがとれていない。

 

『スリーボールになりました。坂本くんストライクが入りません。デッドボールが引きずってますかね』

『そのようですね。坂本くん、頭が真っ白になってるかもしれませんね』

 

「坂本、何してんだ。バントさせろ」ショートのポジションから下山が右手と左手グラブをメガホンにして声をあげる。

「坂本、そうそう、リラックス、リラックス」蓑田も同じようにして声をかける。

 坂本が二人の方を向いて二度三度頷いたが、いつもの坂本の表情ではなかった。これが甲子園の恐さだ。

 セットポジションから坂本が四球目を投げたが高めにぬけた。

 

『あーっと、これもはっきりとわかるボールです。ストレートのファーボールです。ノーアウトでランナー一二塁です』

 

 とりあえず、ストライクがほしい。そしてまずアウト一つとりたい。坂本、落ち着け、あせることない。いつも通りでいいんだ。山崎は心の中で地団駄を踏んだ。

 

 相手は野々村だ。絶対に一点もやれないのに俺は何してんだ。坂本は頭の中で野々村と闘っていた。野々村のバッタバッタと三振をとっていた予選の映像が頭のなかで流れていた。

 

『三番の大平くん、ここも送りバントの構えです』

 

 すでに汗びっしょりの坂本がセットポジションにはいった。

 

『坂本くん、セットポジションから大平くんにたいして第一球を投げました』

 

 ほぼ、真ん中高めだがストライクゾーンにボールがきた。大平はバントしてサード側へうまく転がした。

 

『大平くん、バントしました。ボールはサード側に転がった。いいバントだ』

 

 坂本がマウンドをおりてボールをとりにいく。サードの相馬も前にくるが、坂本の方が先にボールに追いついた。

 

「ファーストー」山崎がキャッチャーミットをメガホンがわりに口にあて右手でファーストを指さす。

 

 野々村が相手だ。一点もやれないんだよ。サードでアウトにするしかないんだ。坂本には山崎の声が耳に入っていない。ボールをとって体を捻りサードへ投げようとした。ランナーの菊田は足が速い。すでにサード手前まで来ていた。坂本は捻った体を戻しファーストへ送球した。

 

『坂本くん、一瞬サードに投げようとしましたが、ファーストへ送球する。これは微妙なタイミングだぞ~』

 

 打者走者の大平はファーストを駆け抜けた。ベースカバーに入った蓑田が坂本から送球されたボールをとる。

 

『アウトか、セーフか。微妙なタイミングだ~』

 

 一塁塁審の手がスーっと横に広がった。

「セーフ」

 山崎も坂本も蓑田もみんな天を見上げた。

 

『ファーストセーフだぁ~。オールセーフです。ノーアウト満塁です。昌徳高校、チャンスが広がります。友野高校にとっては初回から大ピンチです』

 

 山崎の顔が歪んだ。

 タイムをとって、友野高校ベンチから伝令が出る。

 

『友野高校、早くも守備のタイムをとりました。伝令に背番号12番の控えキャッチャー二年生の笹本くんがマウンドへ向かいます』

 

 一塁側ベンチから伝令の笹本が出てきた。丸い体を揺らしながらマウンドに向かってきた。山崎と蓑田、下山、宮田、相馬もマウンドに集まった。

「あのー、監督からです」伝令の笹本がトーンの高い声を発した。

 笹本は頬にたっぷりついた肉のせいで目が押し上げられ恵比寿さんのような顔をしている。笹本も緊張はしているのだろうがニコニコした顔をしている。山崎はその顔を見て少し頬を緩ませた。

「監督、なんて? 早く言え」下山が笹本の肉のついた紅い頬をつまむ。いつも見る光景だ。これで場の雰囲気が和む。下山は笹本を可愛がっている。笹本は顔に似合わず下山譲りの負けん気の強さとガッツを前面に出したプレーをする。下山はそんな笹本を気に入っている。

「フフフ」坂本がニヒルに笑った。やっといつもの坂本にもどったと山崎が目を細めた。

「あっ、はい。一点は仕方ないから、中間守備で、外野は定位置より深めでいいそうです」

「内野ゴロで一点、ワンヒットで二点かー」蓑田が天を仰いだ。

「バッターは四番大井だ。簡単なバッターじゃない。やむを得ないだろう」山崎が返した。

 坂本は「俺のせいですまんな」とまた表情がこわばり小さな声になった。

「すまん、じゃねえよ。そんなことより普通に投げりゃいいんだ。野々村と張り合うから力むんだ」下山が坂本の頭に拳を落としてから、「笹本、お前も坂本を一発ゴツンとやっとけ」と続けた。

「い、いえ、そ、そ、そんな先輩に向かって出来るわけありません」笹本が真剣に返すのを見て、下山が「冗談に決まってるだろ」と今度は笹本の頭をコツンとやった。

 みんなに笑みがこぼれた。

「坂本のボールには力があるから、いつも通りに投げればいいんだ。お前のボールはそうそう打たれない。まだ点を取られたわけじゃないし。もし取られても取りかえせばいい」山崎が言う。

「でも、相手は野々村だぞ」坂本が言う。

「野々村くらい打てるよ。俺たちの打撃を信用しろっつうの。わかった? 最後に代打の神様笹本が打ってくれるよ。なっ」下山が笹本に顔を近づけて、ニッと唇を広げた。

「相手は関係ない。坂本らしくいこう」蓑田が坂本の背中に手をあてた。

「うん、わかった。もう大丈夫だ」坂本がボールをグラブにパンパンと二度叩きつけた。最後に笹本に「ありがとう」と言って紅い頬をつねった。

 笹本は細い目を一段と細くして、「先輩頑張ってください」そう言ってベンチへ走っていった。丸い後ろ姿がユサユサと揺れるのが愛らしい。

 

『さぁ、ノーアウト満塁で試合再開です。友野高校の守備は中間守備ですね』

『一点もやりたくないですが、四番の大井くんですからね。傷口を広げたくないですから、やむを得ないでしょうね』

 

 坂本は山崎のサインを見る。初球は外角のスライダー。サインに頷いてからセットポジションに入る。三塁ランナーを見てから、初球を投げた。外角いっぱいにスライダーを投げ込んだ。

 

『ストライーク』この試合はじめて球審の右手が上がった。それも最高のボールだ。坂本が立ち直った。これが笹本効果だ。

 これまでもピンチで笹本が伝令に来るとムードがガラッと変わることがあった。友野高校のムードメーカーだ。控えのキャッチャーでスタメンで出場することはないが貴重な存在だ。

 

「ナイスボール」セカンドの蓑田から声が飛んだ。

 

 よし、ナイスボールだ。山崎は坂本に向かって何度も頷く。次のボールだ。内角のストレートだ。これが決まれば、このバッターは抑えられる。山崎が内角ストレートのサインを出した。

 

 内角ストレートか。胸元にズバッと決めるぞ。少し冷静さを取り戻した坂本は山崎のサインに頷いて、セットポジションに入った。三塁ランナーを目で牽制して、「フゥーー」と長い息を吐いた。

 

『坂本くん、セットポジションから第二球を投げました』

 

 坂本はバッター大井の内角胸元をめがけて、思いきり腕を振った。少し真ん中よりだが悪いコースではない。

 バッターの大井は内角のストレートを待っていたかのようだ。難しいコースだが、体をうまく回転させてボールをとらえた。

 

『内角のストレート。大井くん、打った~。打球はレフトポール際へ上がった~。これは大きいぞ~』

 

「ウワァー」と山崎が声を上げる。

「えー」と坂本は打球の行方を追った。

 

『レフト、榊原くん。懸命にボールを追っていきます。フェンスに背中をつけました。ボールを見上げたままレフトポール際で足が止まりました』

 

「頼む。とってくれ」山崎がボールの行方を追う。

「切れろ~」坂本が叫ぶ。

 

 レフトの榊原がボールを見上げている。真っ青の空からボールが落ちてくる。

 

『ファールかフェアか。レフトフライかホームランか』

 

「たのむー」山崎がレフトの榊原を見ながら声を出す。

 

 レフトの榊原がグラブを出す。ボールはグラブに吸い込まれていった。

 

『レフトの榊原くん、フェンスいっぱいのところでボールをとりました。レフトフライです。三塁ランナーの菊田くん、それを見てタッチアップからゆっくりホームイン。昌徳高校先制!』

 

 山崎は「フゥー」と息を吐いた。先制点は許したがホームランにならなくてよかった。坂本のボールは悪くなかった。完全に内角ストレートを狙われていた。俺のせいだ。

 山崎は気をとりなおし、「ワンアウト、ワンアウト」と人差し指を立てて内外野に声をかけた。

 

《六番、サード水木くん、サード水木くん》

 

『バッターは水木くん。昌徳高校としては、もう一点ほしいところですね』

『そうですね。一点で終わるのと二点、三点とるのとでは違ってきますからね。特にさっきの当たりがホームランになりませんでしたから、昌徳高校としては一点で終わりたくないですね』

『逆に友野高校としては一点で食い止めたいところです』

 

 一点とられたことは忘れろ。このバッターに集中しよう。山崎が坂本に目で訴えた。坂本もそれに応えるように頷いた。

 

 水木に対してワンボール、ワンストライクからの三球目だった。左バッターの水木は内角低めのスライダーを引っかけることなく坂本の足元に鋭く打ち返した。打球は二游塁へ飛んだ。

 

『水木くん、打った~。痛烈なピッチャーがえし』

 

 蓑田が打球を追う。一年前のあの打球と同じコースだ。あの時より打球は速い。蓑田は横っ飛びでグラブを出した。

『バシッ』グラブにボールが収まった。

 

『セカンドの蓑田くん、横っ飛びでボールをとりました~』

 

 蓑田は体を起こし二塁ベースに入る下山にボールを投げる。

 

『蓑田くん、体を起こし素早くセカンドへ。セカンド、ホースアウト』

 

 下山が蓑田からのボールをとって華麗にファーストへ投げる。

 

『ショート下山くんからファーストへ』

 

 打者走者の水木も懸命に走る。最後はヘッドスライディングする。

 

 一塁塁審がしばらく固まっている。そして、右手を上げた。

「アウトー」

 球場がどよめいた。

 

『ダブルプレーだ。蓑田くんの超ファインプレーでピンチをしのぎました。これは大きなプレーです。打ちも打ったり、とりもとったりです。初回から素晴らしいプレーが出ました~』

 

 一回表終了 昌徳高校 1対0 友野高校

 


最後の夏 怪物野々村攻略へ

 友野高校のピッチャー坂本は立ち上がりこそ不安定で一点を失ったが、二回以降は立ち直り、九回まで投げて打たれたヒットは七本、与えた四死球は五つ、奪った三振は四つ。二回以降はランナーは許すものの要所を締めて無失点で切り抜けている。伝令の笹本にとって忙しい試合だった。

 一方、友野高校打線は八回まで野々村から打ったヒットは二本、もらった四死球が三つ。奪われた三振は十六個を数える。そして、得点はゼロだ。

 野々村のこの試合の最高球速は、二回裏四番山崎の二球目に投じたボールが計測した159キロだ。野々村は自己最速を更新したが目標にあげた160キロは出ていない。

 

 九回裏の攻撃を迎える前に、山崎は、監督がミーティングで野々村の攻略方法を唾を飛ばしながら熱く話していたのを思い出していた。

「野々村、あいつは怪物だ。簡単には打てないだろう。三振ばかりになるかもしれない。しかし、三振することを恐れることはない。思いきり三振すればいい。ストレート、スライダー、チェンジアップ。野々村のボールはどれも一級品で高校生離れしている。うちは、どんなボールにファールして食らいつき粘り強く攻撃するのが信条だが、それは野々村に対しては通用しない。しっかり狙い球を絞ってそのボールだけを待つしかない。狙い球がこなければ、あっさり三球三振でも構わない。それくらい割りきるしかない。そのかわり、狙い球が来たら迷わず思いきりバットを振りぬけ。そうすれば野々村を打てる。それと野々村の弱点はスタミナだ。後半コントロールも乱れるし球威も落ちる。後半まで接戦に持ち込めば、後半に攻略できる」

 野々村のボールは予想以上だ。山崎は二回裏の最初の打席でそれを感じた。

 山崎は狙い球がきたと、思いきりスイングし、ボールを捉えたと思ったのだが、バットがボールに当たった瞬間、バットが球威に負けて、自分の方がバックネットへ飛ばされるのではないかと感じた。完全に振り遅れ、球威に押された打球は野々村の前にコロコロと情けなく転がっていた。山崎は腰砕けになった体を起こし全力でファーストへと走ったが、塁間の半分走ったところで、ファーストにボールが渡っていた。

 監督がミーティングで話していた「三振が多くなる」これはやはり当たった。「狙い球を絞れば打てる」は残念ながら野々村のボールはバッターボックスで直に見るのと映像で見るのとでは別物だった。「野々村の弱点はスタミナだ。後半攻略できる」はどうなるのだろうか。確かに七回、八回は野々村の球速は落ちているしボールも浮きはじめていたが、それでも

打てなかった。残りの攻撃はこの九回裏のみ。ここまで坂本がよく踏ん張って後半勝負の接戦には持ち込めたと思う。あとは攻略できるか、だ。九回は六番の宮田からの打順で自分まで回って来ない。ベンチから声を張り上げ同点、逆転を信じるしかない。もう一度、あの打席に立ちたいと思いながら、宮田がバッターボックスに向かう背中を見た。

 

 九回裏は六番の宮田からだったが、野々村の球威に負けて詰まったセカンドゴロに倒れた。次のバッター西原はスリーボールツーストライクまで粘ったが、最後は148キロのストレート高めのボール玉に手を出してしまい空振りの三振。

 野々村のボールはスピードが落ちコントロールが微妙に狂い始めているが、それでも簡単に打てるわけがなかった。九回裏もすでにツーアウトになった。

 

『さぁ、三日目第三試合も大詰め、九回裏の友野高校の攻撃もツーアウトランナーがありません。得点差はわずかに一点。両チーム合わせてここまでの得点は、初回、昌徳高校四番大井くんの犠牲フライによる一点のみです』

 

 最後のバッターになるのか、八番の相馬がバッターボックスに向かう。

「相馬、ファーボールでもデッドボールでも何でもいいから塁に出てくれ」下山がベンチの一番前で顔の前で両手を合わせた。

 相馬はバットを一握り短く持ち、何度も素振りを繰り返した。バッターボックスに入り野々村に向かって「ウォー」と声を張り上げた。

 

『相馬くんも気合いが入っています。野々村くんはここまで完璧なピッチングですが、得点差は一点、まだわかりません。高崎さん、野球は何が起こるかわかりませんよね』

『そうですね。友野高校はまだ諦めてはいけませんよ。そして昌徳高校は最後まで気を抜かないことですね。野球は本当になにが起こるかわかりませんよ。特に甲子園というところは魔物が棲んでいますからね』

 

『えー試合やな~。こんな試合みてたら、わしら魔物はウズウズしてくるなぁ。なんか、かき回してやりたくなるなぁ』

 

 八番の相馬はワンーボールツーストライクから三球連続でボールを見極めファーボールで塁に出た。

 

『あっと、ファーボールです。ツーアウトから友野高校同点のランナーが出ました。野々村くん、最後のボールははっきりとボールとわかる球でした。少し勝ちを意識したのでしょうか』

『野々村くん、前の回から少し疲れが出てるようですし、勝ちを意識して力んでしまったんでしょうね』

 

 ツーアウト、ランナー一塁。バッターは坂本のところで代打が送られる。代打はムードメーカー笹本だ。

 

『友野高校、ここで代打ですね。ここまでよく投げてきましたピッチャーの坂本くんに代わって二年生の笹本くんですね。この試合、何度もピンチの場面で伝令に走りピンチを救いましたが、ここはバットで期待に応えたいところです』

 

「笹本、絶対に俺まで回せよ」

 ネクストバッターズサークルから下山が掠れた声で笹本に檄を飛ばした。

 笹本は丸い体をくるりと回して、ネクストバッターズサークルの下山の方に体を向けた。紅い頬が上がり細い目を一段と細くし笑みを浮かべた。

「下山先輩、任せて下さい」右手で厚い胸をドンと叩いた。

 笹本はちょこちょことした足取りで、左のバッターボックスに入った。バッターボックスに入った途端、人が変わったような鋭い目で野々村を睨み付け、「ウォー」とバットを野々村の方に向けて吠えた。

 

 笹本は粘りをみせた。スリーボールツーストライクからきわどい球を二球ファールにした。

 

『高崎さん、友野高校も粘り強いですね』

『素晴らしい粘りです。今年の友野高校の強さは、地方大会からのこの粘り強さですね。それがここにきて出ています』

『友野高校、地方大会では劣勢の試合でも後半粘っての逆転が目立ちました。その粘りがここにきて出ています』

 

 粘り強さは今年の友野高校の特徴だ。新チームの頃は、劣勢になるとすぐに諦めムードになるチームだったが、下山の負けん気の強さとがむしゃらさがチームに浸透していった。絶対に負けない、諦めないという強い気持ちをみんなが持つようになっていった。

 野々村が笹本に投じた八球目。外角高めに浮いたボールを笹本はコースに逆らわずジャストミートした。

 

『笹本くん、打った~。痛烈な打球が三遊間の真ん中を抜けていきます』

 

「よっしゃー、笹本~、よう打った~」下山が右手を突き上げた。

「笹本、ナイスバッティング~」蓑田もつられて右手をあげて、ネクストバッターズサークルへと向かった。

 下山がバッターボックスに向かう前に蓑田に声を掛けてきた。

「蓑田、俺は絶対にお前に回す。だから……、」少し声が震えていた。「絶対、去年の借りを返せよ」

 下山はヘルメットを深くかぶり下を向いて蓑田の肩を叩いてからバッターボックスへと向かった。蓑田は下山の表情を見ようとしたが見えなかった。

「う、うん、わかった」蓑田はそう言ったが下山は、すでに背中を向けていた。

「下山~」蓑田が大きな声で呼ぶと下山が振り向いた。

「なに?」

「これまで……、いろいろ、ありがとうな」

「ふん、それはこっちのセリフだ。ありがとな。この打席でお前に恩返しするよ。いや罪滅ぼしかな」

 下山は薄く笑みを浮かべ、そのままバッターボックスへと小走りで向かった。バッターボックスに立ち、昌徳高校の野々村に向かって声を張り上げた。

「うっしゃー、こーい」

 

 野々村がサインに頷いて、セットポジションに入った。少し間をおいて二塁ランナーを見てから初球を投げこんだ。

 下山は初球から積極的に打ちにいった。積極的に初球から打ちにいくところが下山の魅力だ。

 しかし、下山のフルスイングも低めスライダーに空をきった。野々村はここにきてギアーを上げたかのように切れのいいスライダーを投げてきた。

 下山は空振りしたあと、「クソー」と自分の頭をヘルメットの上からポンポンと右手で叩いた。

 バッターボックスに入り直し肩を上下してから息を「フーッ」と吐いて顔の前にバットを立てて目を閉じた。

「絶対に蓑田にまわしたい。頼む」バットに願いを込めた。

 また、野々村に向かって声を張り上げた。

「うっしゃー、こーい」

 二球目は外角ストレート。バットが出かかったが、寸前で止まった。きわどいが少し外れている。ボールだ。

 三球目は内角へストレート。きわどいコースにバットが出ない。判定はストライクだ。これで追い込まれた。ワンボールツーストライク。

 

「クソー、厳しいコースだ。さすが野々村だけど、俺は絶対にこいつを打つ」

 下山は、一度バッターボックスを外し素振りを繰り返してからバッターボックスに入りなおし、足元をならした。

「よーし、こーい」

 四球目、スライダーがきた。ストライクゾーンから低めへ鋭く曲がる。下山のバットは止まらない。下山の体制は完全に崩されたが、必死で食らいつこうとする。

 

『あーっ、と空振り~、三……、いや……』

 

「ファール、ファール」審判が両手を大きく上げた。

 下山はかろうじてバットに当て、ボールはキャッチャーの足元に転がっていた。

 三塁側アルプスから歓声が上がったあと、ファールの判定に一塁側アルプスからどよめきが起こった。

 

『なかなか、おもしろなってきたな。こんな試合は、やっぱりわしの出番やな。魔物らしいこと、どっかでしたくなってきたわ』

 

「下山、ナイス粘り~」蓑田は叫んだ。

「おーぅ、絶対に打つぞぉ。蓑田、しっかり準備しとけよ。お前下手くそなんやから、ボーッとしてたら三振するぞ」バッターボックスで野々村に視線をやったまま蓑田に声をかけた。

 

 五球目、またスライダーが外角にきた。さっきより少しコースは甘い。下山は体制を崩されたが、なんとか食らいついて引っかけるようにバットに当てた。

 

『下山君、打った~。打球は三游間へ。面白いところに飛んだ~。ショート菊田君、回りこんでよく追いついた~。深い位置からファーストへ~。タイミングはきわどいぞ~。アウトか? セーフか?』

 

 俊足の下山はヘッドスライディングでファーストベースに飛び込んだ。ファーストベース付近に甲子園の土が舞い上がる。下山の顔と胸は真っ黒になっていた。一塁ベース上で横たわったまま、左手でファーストベースにタッチし右手を横に広げてセーフをアピールしファースト塁審を見上げた。

 そして、ファースト塁審の手が大きく横に開いた。

 

『セーフ、セーフ、セーフだ~。下山君、執念のヘッドスライディングだ~。まだ友野高校の夏は終わりませ~ん。ツーアウト満塁です。友野高校、怪物野々村くんに食い下がります』

 

 下山は起き上がり、蓑田に向かって、真っ黒な顔から白い歯を覗かせて右腕を突き上げた。

 蓑田は、それを見て何度も何度も頷いた。「下山、やっぱりお前はすごいよ」熱いものが胸のなかで暴れている。そして大きく息を吐く。

「絶対に去年の借りを返す」

 

『九回裏ツーアウト満塁。友野高校、一打逆転のチャンスがやってきました』

 

「下山の執念に絶対にこたえるんだ」蓑田は心のなかで呟いた。

 

 昌徳高校がタイムをとり伝令がマウンドに向かった。

 

 蓑田はこれまでの厳しい練習や下山と口論を繰り返してきた一年間を思い出した。バットに願いを込めるように顔の前にバットを立てた。

 下山にはこの一年間何度も「下手くそ」と言われた。最初は腹が立っていたが、いつの間にか、そう言われることで気が楽になっていた。

「打たせてくれ」バットに向かってそう呟いた。

 

 マウンドに集まっていた昌徳高校の選手の輪が解けた。昌徳高校の選手達はみんな笑っていた。

 蓑田も負けずと笑顔をつくってから、バッターボックスに向かった。

「よーし、こい」ピッチャーに向かって声を張り上げたが下山や笹本ほどの迫力はない。少し声が震え、そしてその後、足がガクガクと震えだした。

 

『バッターは蓑田くん。高崎さん、ここではバッターの蓑田くんはどういうことを心掛ければいいでしょうか』

『そうですね、決してボールに手を出さないことですね。特に低めのスライダーを見極めることが出来るかでしょうね。それを見極められると野々村くんのストレートのスピードも落ちていますから、バッテリーとしては厳しくなります』

『蓑田君はここまでヒットはありません。ここでこの試合初ヒットが出れば、同点、もしくは逆転サヨナラという場面です』

 

 ピッチャー野々村がセットポジションに入る。

 

『ピッチャーの野々村くん、第一球を投げました。アウトコース低めのスライダーです』

 

 蓑田は頭の中が真っ白になってしまっていた。初球から打ちにいったが、低めのワンバウンドする明らかなボール球に空振りした。

 

『完全なボールのスライダーに蓑田くん、空振りです。高崎さん、手が出てしまいましたね』

『そうですね、この球を見極めないと、蓑田くん、厳しいですよ。少し力を抜いた方がいいでしょうね』

 

「こらー、蓑田、お前、相変わらず下手くそやなぁ。下手くそのくせしてビビってんじゃねえよ」下山がファーストベースの上に立って両手をメガホンにして叫んだ。

「うるさいなー」蓑田が下山に返した。

「やかましい、下手くそ、お前がヒット打てるなんてみんな思ってないから、とりあえずバットに当てるくらいしろよ。当てれば何が起こるかわからんからな」

「下手くそ下手くそって、一年間、聞き飽きたよ」蓑田の口から白い歯が覗いた。

 

 二球目は真ん中高めに外れてボール。

 三球目の内角ストレートはバックネットにファール。

 四球目は低めのスライダーにバットが止まりボール。

 

『蓑田君、ここはバットがよく止まりました。高崎さん蓑田くん、今はよく見ましたね』

『そうですね、少し落ち着いたようですね』

 

 五球目は野々村の方が力んで高めに大きく外れた。

 これで九回裏ツーアウト満塁スリーボールツーストライク、次が勝負の一球になる。

 

『さぁ、泣いても笑っても最後の一球です。高崎さん、しびれる展開ですね』

『そうですね、ここはピッチャーもバッターも結果を怖れず思いきりプレーしてほしいです』

『さぁ、野々村くん、セットポジションから第六球を投げました』

 

 内角のストレートが少し甘く入ってきた。蓑田はバットを出しにいく。少しつまらされた打球は三遊間へ飛んだ。ショート菊田の守備範囲だ。

 

『打った~。打球はショートへ。ショートの菊田くん、軽快なフットワークで打球の正面に入る』

 

 野々村が「よしっ」とグラブを叩いた。

 球場にいる選手、観衆、審判の視線が菊田に集まる。

 この試合菊田は一年生とは思えない軽快な守備を魅せている。ここでも軽快に打球の正面に入った。

 

 蓑田は全力でファーストへ走る。「クソー、完全につまらされた~」

 

 菊田がグラブを出す。

 

『あーっ、打球が菊田くんの前ではねた~』

 

 打球は菊田の手前でポーンと跳ねた。菊田はそれに対応しようとグラブを上げたが、ボールは菊田のグラブを嫌がるように、それより高く跳ねて、菊田の肩に当たった。

 

『打球はイレギュラーして菊田くんの肩に当たり、後ろに転がりました~』

 

 三塁ランナー相馬が同点のホームを踏む。そして逆転のランナー笹本も三塁を蹴ってホームへ向かってくる。丸い体を揺すってホームへと向かう。笹本は見た目では想像できないくらいに足が速い。

 

『レフトの下條くんがボールをとってホームへ投げる』

 

 笹本がヘッドスライディングする。レフトからのボールは間に合わない。笹本はユニフォームを真っ黒にしてホームベースをタッチした。

 

『セーフ、セーフ、セーフだぁ。サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ~』

 

 一塁ベースを駆け抜けた蓑田は、振り返り、笹本がホームにスライディングしている姿、相手のキャッチャーが肩を落としている姿、球審が右手を広げている姿を順番に見てから右腕を上げてガッツポーズした。セカンドベースにいた下山も蓑田に向かってガッツポーズした。

 

『なんということでしょう。ショート菊田くんの前でボールが高く跳ねました。やはり、やはり、ここ甲子園には魔物が棲んでいまーす。試合終了です。友野高校が九回裏、蓑田くんの逆転サヨナラタイムリーヒットで勝利しました』

 

 蓑田は軽い足取りでスキップでもするようにホームベースへともどっていった。ベンチから出てきた山崎に頭を何度も叩かれた。

 蓑田は、頭を叩かれながらショートに視線をやると、そこで立ち上がれないでいる菊田の姿があった。横で野々村が菊田の肩を叩いて笑っていた。菊田は野々村に抱えられてゆっくりと立ち上がり整列のためホームへとふらついた足取りで向かってきた。

 菊田の姿を見て、蓑田は去年の自分を思い出した。

 菊田と野々村が列に加わった。両チーム挨拶を交わし握手した。野々村は笑っていた。蓑田は菊田の表情を見ようとしたが下を向いたままで見えなかった。

 

 昌徳高校の選手がベンチ前で土を集めていたが、菊田の姿はそこになかった。

 

 

 

 



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