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副キャプテン

 山崎は職員室と書いてある色褪せたプレートを一瞥してから弱々しくノックしゆっくりとドアをあけ覗き込むようにして中に入った。夏休み中で先生の姿もまばらだった。左側半分だけ蛍光灯が点いている。

「失礼します」グラウンドで出す声の十分の一位の声の大きさだ。

 五台の事務机を連ねた島が六つ並ぶ。その奥正面には教頭の机があり、その後ろにホワイトボードがあった。

『祝 野球部甲子園初出場』太く力強い文字でホワイトボードに書いてあった。それを見て少し誇らしくなった。

 その下に一回戦八月十日応援者とあり、その横に先生方の名前がずらりと書いてあった。二回戦と書かれた横は空白だった。少しだけさびしくなったが、職員室で誇らしく居心地のよさを感じたのははじめてかもしれない。

 左奥の机の島の方を見て呼び出された野球部監督の重光の姿を見つけた。重光は何やら書き物をしているようで大きな背中が丸く小さくなっていた。書き物に夢中なようで山崎が入ってきたことに気づいていない様子だ。山崎は重光の方へゆっくりと歩を進めた。

 重光の向かえの机にもう一人先生が座っている。音楽の山中先生だ。山中先生はブラスバンド部の顧問で甲子園ではアルプススタンドからのブラスバンドの応援を仕切ってくれた。若い女の先生で男子生徒から人気がある。山崎もお気に入りの先生だ。黒目の大きな瞳とぶつかって少し胸が跳ねた。

 山崎の存在に先に気づいてくれた山中が山崎に微笑みかけてから、目の前の本立ての上に首を伸ばし重光に声をかけてくれた。

「重光先生、野球部の生徒が来てますよ」透き通るきれいな声だった。

 重光は、その声でふっと顔をあげて山中に視線を向けた。山中が重光と目を合わせてから、視線を山崎の方に向けた。

「あっ、あーそうか」重光はそう言ってから山崎の方に振り向いた。

「もうそんな時間か」そう言ってから胸を張り両手をグッーと伸ばし「フゥーッ」と息を吐いた。

「監督、おはようございます」

「おっ、忙しいのにすまんな。まぁまぁ、座れや」声がつぶれて少し掠れた声だった。重光は自分の座る隣の机の椅子を引っ張り出して山崎の前につきだした。

「あっ、はい。失礼します」山崎も掠れた声を出して、重光が出してくれた椅子を引き寄せてどしっと腰を下ろした。椅子が山崎の体重に悲鳴をあげるようにキュッと鳴った。

「甲子園はやっぱりいいところだったな」机の上を片付けながら懐かしむように重光が言った。

「はい、最高の舞台でした。負けてしまいましたけどすごくいい経験になりました」山崎の頭にはホームベースから見渡す黒土とそこに浮かぶ白線、白いベース、緑の芝、そして黒くそびえ立つバックスクリーンが浮かんだ。

「もう一回、あの球場で野球がやりたいな」

「はい、絶対に」口元をキュッと引き締めた。

「みんなすごくかっこよかったわよ。また来年も頑張ってね」山中が立ち上がってきれいな透き通る声をかけてくれた。黒い瞳がキラキラと輝いて吸い込まれそうになった。

「はい、ありがとうございます。ブラスバンドの応援に勇気をもらいました」山崎は鼻の下を伸ばしていた。

「山中先生、来年もまたブラスバンドの応援お願いしますね」重光も目尻を下げて鼻の下が伸びていた。

「はい、ぜひ、喜んで」山中はそう言って、二人に笑みを送った。

 重光も山崎もグラウンドでは決して見せないような間の抜けた顔になっていた。

「それでは、わたしはお先に失礼しますね」山中は鞄に荷物を片付けながら言った。

「えっ、もう帰っちゃうんですか」重光が残念そうに言う。

「はい、今日はこれで。野球部頑張ってくださいね」

「はい、ありがとうございます。失礼します」山崎が立ち上がって頭を下げた。

「お疲れさまでした」重光も腰を上げて両手を腰に当て首をベコリと下げた。

「それじゃあ、また」山中はそう言ってドアへ向かった。ドアの前で一度振り返り微笑んで右手をヒラヒラと振ってから職員室を出ていった。

 二人は山中の後ろ姿に見とれて目で追っていた。山中が振り向いた時に笑みを返しドアから出ていくのを名残惜しそうに見ていた。

「ハァー」重光が閉まったドアを見てため息をついた。

 職員室の空気が色褪せたような気がした。二人はドアから視線を剥がして顔を合わせた。

「よーし、はじめるか」重光が腰を下ろし気持ちを切り替えるように両膝を叩いた。

「はい」山崎も椅子に腰を下ろし重光と向き合った。

 二人の表情はグラウンドに立つ時の表情に変わった。

「山崎、新チームも明日から始動だ。キャプテン、よろしく頼むな」

「はい、精一杯頑張ります」山崎は椅子に座ったまま背筋をキュッと伸ばした。

「あとな、山崎は生真面目だから、抱え込みすぎてパンクするんじゃないかと心配しているんだ」重光は眉の上あたりを掻きながら心配そうな表情を浮かべた。

「いえ、大丈夫です」

「そうか、まぁ、大丈夫だとは思うんだが、キャッチャーというポジションはいろいろと負担も大きいからな、困ったときは一人で抱え込まないで俺でもいいし、他の部員でもいいから相談しろよ」

「監督」両手を膝において少し前のめりになった。

「なんだ?」

「副キャプテンはどうするんですか」

 山崎がそう言うと重光はニヤリと笑みを浮かべ人指し指を立てて山崎に向けた。

「それなんだ。今日はそのことで来てもらったんだ。新チームは副キャプテンが決まらないままのスタートになってしまったから早く決めないといけないんだ」

「やっぱり、そうでしたか」

 山崎は重光から新チームのキャプテンの話を持ちかけられた時に副キャプテンは蓑田にしてほしいとお願いしていた。その蓑田が野球部を辞めると言ってきたと重光から聞いた。辞めるなと説得しようと思ったが自分ではうまくいかなかった。

 監督から蓑田に辞めずに副キャプテンとして頑張るように説得してほしかった。たぶん監督も同じ気持ちで今日呼び出したのだろう。これから蓑田をどう説得して副キャプテンにするのかを話し合うためのミーティングだ。山崎はそう思っていた。

「副キャプテンは蓑田になってほしいんです」

「そうか、そうか、気持ちはわかるがな、うーん、……」重光はそう言って困ったように宙に視線をやった。しばらく言葉が出てこなかった。

 山崎は嫌な予感がした。

「監督、蓑田は……」蓑田が辞めることが決まってしまったのか訊こうと思ったが怖くて訊けなかった。

「蓑田なぁ」重光はずっと宙に視線をやったまま山崎の方を見ようとしなかった。

 山崎は重光の困ったような表情をじっと見ていた。蓑田の辞めることが決まってしまったんだろうか。監督はとめる気はないんだろうか。

「蓑田に絶対野球部を続けてほしいんです。ですから、監督からも説得して下さい。蓑田を副キャプテンにして下さい」山崎は椅子から立ち上がって深々と頭を下げた。拳に力が入った。

「山崎、落ち着け。今はまず副キャプテンの話だ。蓑田の話はその後だ」重光の眉がハの字になっていた。

「副キャプテンは蓑田しかいません。ですから、あいつに野球部を続けさせることが先決です」

「心配しなくても蓑田は野球部に残るはずだ」

「えっ、蓑田、残りますか」

「ああ、残る。しかしだ」重光は両手を両ひざについて少し前のめりになって山崎の目を覗き込んだ。山中先生に見せていた目とは違い、爬虫類のような目になっていた。監督がこんな目をする時は逆らえない時だとわかっていた。

「は、はい」山崎は肩をすくめた。

「俺が考えてる副キャプテンは蓑田じゃない」

「えっ、……」山崎は目を丸くして言葉がでない。

「俺が思っている副キャプテンは蓑田じゃないんだ」重光がもう一度繰り返した。

「監督も蓑田を副キャプテンにするつもりだと思ってましたけど」エアコンの音にかき消されそうな声だった。

「ハハハ、そうか、そうか。副キャプテンは蓑田と考えたこともあったがな、やっぱり違う。あいつじゃない」

「僕は副キャプテンは蓑田しかないと思ってます」少し抵抗しようとするが声は小さいままだ。

「気持ちはわかるがな。でもな、違う」

「だ、誰、ですか」

「下山だ」

「えっ、し、下山……、ですか」ビックリして声が裏返った。絶対、下山はない。

「ビックリしたか」重光は笑っていた。

「はい」監督は冗談を言っている。山崎はそう信じたかった。

「冗談じゃないぞ。本気だぞ」

 山崎の頭に下山がバントのサインを無視した時のことが頭に浮かんだ。

「下山はチームの輪を乱しそうで心配です。副キャプテンは蓑田にして下さい」背筋を伸ばし両拳を膝に置き力を込めて言った。

「いや、下山だ」重光は腕を組んで、グッと胸を張った。

「本当に下山ですか」少し情けない声になった。

「あー、もう決めた」

「でも、なぜ下山なんですか」

 重光は腰を浮かせて座り直し背筋を伸ばした。一度視線をホワイトボードにやってから、視線を山崎に戻して話しはじめた。

「蓑田も山崎も周りからの信頼は厚い。それは俺もよくわかっている。ただな、お前たち二人は少しおとなしいんだ」

「おとなしい……、ですか?」

「そう。少し闘争心が足りないんだ。その点、下山はガッツを前面に出す。それが下山の魅力なんだ。下山みたいなタイプと山崎が組んだ方が面白いチームになると思うんだ」

「そうですか……」山崎は呟くように言ってから自分の足元に視線を落とした。

 山崎はそのまま彫刻のように体が固まり黙りこんでしまった。重光も黙って腕を組んで山崎の様子を見ていた。

「……」

「……」

「大丈夫だ」重光が堪えきれず山崎の坊主頭に手を置いた。

「下山、ちゃんとやってくれますか」視線を落としたまま言った。

「ああ、下山が副キャプテンになれば、みんな下山の本当の良さがきっとわかるはずだ。下山は上に立てば、きっと変わる。闘争心を出して、みんなを引っ張ってくれる。山崎とも上手くいくはずだ。そして、きっと新チームは下山に助けられる時がくる」

「バントのサインを無視した時に監督は怒ってたじゃないですか」下を向いたままボソボソとした声だ。

「確かに、あれは腹が立った。だがな、あの場面で思いきりスイングする下山の勇気が魅力なんだ。新チームにはあの勇気が必要なんだ」

「勇気ですか?」顔を上げて重光の方を見た。

「そう、あの勇気だ。もし山崎があの場面でバントのサインじゃなかったらどうした? どんなことを考えた?」

「やはりゲッツーが怖いので一二塁間に転がして最悪でもランナーを進めようとしたと思います。僕の足が速ければセーフティバントも考えますが」

「そうだろうな。蓑田も同じように考えただろう。俺もあの場面はゲッツーが一番怖かった。だからバントのサインにしたんだ。実はあの時、俺も弱気になっていたんだ。だから攻めの気持ちで送りバントのサインを出したわけじゃないんだ。ゲッツーが怖くて出したサインだ。下山を信頼してなかったのかもしれん」

「でも、あそこはバントのサインで正解だったと思います」

「しかし下山は違った。あそこで一気にたたみかけようとしたんだ。結果それで得点できたのも事実だ」

「それは結果論です。もしあそこでゲッツーにでもなっていたら流れが相手に行ってしまったかもしれません」

「そうかもしれん。ただな、下山のああいうのも新チームには必要なんだ。サインを無視することはいかんが、ポジティブな結果を考えて、結果を怖れずプレーする姿勢はきっと新チームを強くしてくれる。俺は下山のいいところをもっと引き出してやろうと思っている」

 山崎はまた下を向いて黙ってしまった。頭の中に下山の顔と蓑田の顔が怒ったり笑ったりして交互にあらわれグルグルとまわっていた。

 山崎には下山と二人でキャプテンと副キャプテンとしてやっていくことが想像できなかった。蓑田が辞めると聞いた時、蓑田じゃなく下山が辞めてくれればいいのにと思った。

 下山は蓑田とよく口論していた。そんな時、山崎はいつも蓑田に加勢した。自分がキャプテンで蓑田が副キャプテンになれば下山は浮いた存在になり孤立して居づらくなり辞めてくれるんじゃないか。そんなことを考えたこともあった。下山はチームの足を引っ張る存在だから辞めてほしいと思った。

 しかし、本当は下山の強気でポジティブな性格に嫉妬していただけかもしれない。自分達が下山をあーいう風にしてしまったのかもしれない。監督の言うように下山の良いところが出ればチームは強くなるのかもしれない。

 しばらくして覚悟を決めたようにフッと短く息を吐き顔を上げ重光に顔を向けた。

「わかりました。下山といっしょに頑張ります」

 それを聞いて重光がニヤリと笑みを浮かべた。

「よーし、ありがとう」重光が頭を下げてから右手を差し出した。山崎も右手を出し、力いっぱい重光の右手を握りしめた。

「これで副キャプテンは決まった。あとは蓑田だな」

「本当に蓑田は野球部続けますか?」

「大丈夫だ。今ごろは続ける気になってるはずだ」

「本当ですか」

「ああ、俺が刺客を送っておいたからな」重光は右の口角を上げて笑った。

 


刺客の魔力

 山崎が心配して電話をくれたのに、苛立ちをぶつけ一方的に電話を切ってしまった。

 一段と気が滅入って落ち込んだ。

「あーーー」倒れこむようにして枕に顔を埋めた。

 目を閉じると今でもあのシーンが浮かんでくる。ファーストの光山さんがひきつった顔をしながら自分の投げたボールに必死に飛び付いているあのシーンだ。

 長身の光山さんが目一杯ジャンプしても全く届いていなかった。瞬間、目の前が真っ暗になり、その後の事は全くと言っていいほど覚えていない。

 試合終了から今まで、誰一人自分がエラーしたことを責める者はいなかった。反対にみんなが優しくなったように感じた。それが余計に辛かった。下山以外はみんな自分に対して腫れ物にさわるような接し方だった。

 床に転がったままの携帯が、また鳴っていた。山崎だろうか。さっきの態度を謝るべきだろうなと思い、ベッドから体を起こし携帯を見た。床に放置されていたことへのクレームを言うかのように携帯は激しく鳴っていた。「ハァー」とため息をついてから携帯を拾いあげ画面の表示を見た。そこには『山崎』ではなく『板野さん』と出ていた。

「えっ」意外な人からの電話に一瞬目を見開いた。目を擦ってもう一度見た。やっぱり『板野さん』と出ている。

 板野さんから電話がかかってくることなど考えられない。自分が憧れていることを知った誰かのイタズラかもしれないと思った。しかし、『板野さん』と表示が出ているので板野さんの携帯からかかってきていることは間違いない。

 イタズラかもしれない。出ても大丈夫だろうか。憧れの先輩からの電話だ。早く出ないと切れてしまうのはもったいない。胸が二種類の感情でざわつく。震えだした指で通話のボタンを押した。

「もしもし」警戒するような声で蓑田は電話に出た。

「蓑田くん、お疲れー」いきなりハスキーな高い声が耳に飛び込んできた。何度も聞いた声だ。間違いなく野球部マネージャー板野里美先輩の声だ。

 野球部の練習中や試合の時に板野先輩が両手をメガホンのように口にあてグラウンドに向けて飛ばす声を何度も聞いた。蓑田が聞き間違えるはずはない。蓑田はどんなに苦しい時でも辛い場面でも、このハスキーな声を聞くと、水を得た魚のように息を吹き返しハツラツと元気になった。

 黒髪をポニーテールにし、日に焼けた顔から白い歯が覗く。切れ長な二重瞼から黒い瞳がキラキラと輝く。背丈は蓑田の肩くらいまでしかないが、小さな体から出るハスキーな声がグラウンド中に響き渡った。その声を聞くだけで野球部員たちは元気になった。特に蓑田はそうだった。蓑田にとって板野の存在は大きかった。

 蓑田の胸が今までとは違う暴れ方をはじめた。キュッと締め付けられそして胸の奥から熱いものがこみ上げてきた。

 蓑田は板野の声をグラウンドでは何度も聞いていたが、板野と直接話したことは数えるほどしかなかった。その数えるほどの会話も短い挨拶程度のものばかりだった。蓑田はその短い会話だけでも顔を真っ赤にし胸の暴れをおさえることが困難になっていた。

 その板野から直接電話がかかってきたのだ。急に憧れの先輩マネージャーからの電話に蓑田は直立不動になっていた。

「い、い、板野先輩ですよね」

「そうよ」

「ど、どうも。お疲れさまです」ペコリと頭を下げた。

「なんか、元気ないらしいわね」ハスキーな声がいつもより低い声になった。

「あ、いえ、そんなことありません。げ、元気です」

 板野が首を傾げながら横目で見て口元に笑みを浮かべている姿が蓑田の頭の中に浮かんだ。板野がたまに見せる仕草だ。二重瞼の切れ長な目で見られると、蓑田はいつも興奮していた。

「うぉー、板野先輩だーー」と心の中で叫んだ。

「うそ。エラーして落ち込んでるって聞いたんだけど」

「あ、そ、そうですね。落ち込んでるというか、先輩方には申し訳ないことをしたと思って反省してたんです。板野先輩申し訳ありませんでした」電話を強く握りながら深々と頭を下げた。

「謝らなくていいわよ。それより野球部辞めるって、それ本当なの」

「えっ、あーっ、えっと、一応そのつもりです。はい」口がカラカラになっていた。辞めると決めていたはずなのに、なぜか『一応そのつもり』とつけ加えていた。

「辞めるのもったいないよ。エラーしたくらいで辞めなくてもいいじゃない」

「あ、あ、はい。で、でも、あの試合、僕のせいで負けて、先輩方は引退が早くなってしまいましたから……、それで、僕が野球を続けるのは……、ちょっと……、どうかなと思いまして、……」

「そんなの仕方ないじゃない」

 蓑田が話しているのを遮るようにハスキーな声をかぶせてきた。

「仕方ない……、ですかね……?」

「そう。蓑田くんも必死でプレーしてたんだから。そうでしょ。わざとエラーして負けようと思ったわけじゃないでしょ」

「あっ、はい。そりゃもちろん。あの時は必死でした」蓑田は額に右手を当てた。汗で右手がべったりと濡れた。その手をズボンで拭った。

「じゃあ、続けましょ。決まりね」

「でも、あのエラーで、野球が怖くなりましたし、ちょっと野球が嫌いになったかもしれません」

「はぁー、何バカなこと言ってんの。そんな情けないこと言わないでよ」

 眉がハの字になっている板野の顔が浮かんだ。

「情けない……、ですか?」

「うん、情けない。そんな蓑田くん、嫌い」

「き、き、嫌いですか」声が裏返った。

「うん、大嫌い。だからそんな弱気なこと言わないで。いつもの蓑田くんに戻って。お願い」

「いつもの僕にですか」

「そう、いつもの蓑田くん。守備が上手くて、一、二年生をうまくまとめて、私たち先輩にも気を使ってくれた、強くて優しくて思いやりある蓑田くん」

「僕って、そうでしたかね?」口元がにやけてきた。

「そうよー、カッコいいー、蓑田くん」

 カッコいいと言われてゴクリの喉を鳴らした。

「そ、そうですか、カッコいいですか?」

「そう、だから辞めないでね」

「わ、わかりました。野球部を続けます」

「よーし、じゃあ、明日から新チームで頑張ってね」

「わかりました」

「山崎くん、心配してたわよ。すぐに電話してあげて。監督にはわたしから伝えておくから」

「はい、山崎に電話します。ありがとうございました」

「わたしは引退しても、卒業しても練習に顔出すからね。試合も応援に行くから、絶対頑張って」

「わ、わかりました。ぼ、ぼく、これからも必死で練習して、また甲子園に行きます。絶対行きます。板野先輩を甲子園に連れていきます」

「じゃあ、約束ね。今度、気晴らしに遊びに行こうか」

「え、えー、ぼ、ぼくと先輩で、ですか」

「うん、わたし達三年生で野球部の打ち上げやるから、その時においでよ。山崎くんも呼んであげて」

「あ、あー、み、みんな一緒に、ですよね」

「なに、みんなと一緒だと不満なの」

「い、いえ、そ、そんなことないですが……、板野先輩と二人っきりかなと、ちょっと思ったもんで……、はい」蓑田は頭をかいた。

「二人っきりで遊びに行ってもいいわよ。その代わり二度と弱音を吐かないこと」

「は、はい、絶対に弱音を吐きません」

 

『あらー、鼻の下伸ばして。こいつも単純なやつやな。わしら魔物よりも女の魔力の方が強烈みたいやなぁ。まっ、わしらはその程度の扱いにしてくれるのがありがたいわ。これから頑張って来年甲子園で出会おうな』

 


最後の夏 県予選

『甲子園の切符を手にするのはどちらの学校でしょうか? 二十年ぶり十二回目の甲子園を目指す名港商業か、二年連続二回目の甲子園を目指す友野高校か? まもなく試合開始です』

 

 友野高校のスターティングメンバー

 一番ショート 下山

 二番セカンド 蓑田

 三番センター 小宮山

 四番レフト 榊原

 五番キャッチャー 山崎

 六番ファースト 宮田

 七番ライト 大原

 八番サード 相馬

 九番ピッチャー 坂本

 

 両手を膝にあて円陣を組む友野高校の選手たち。その真ん中で山崎が地に視線を向けて声を張り上げた。

「ここまで来たら絶対に勝つ。いくぞー」

「ウォー」友野高校の円陣から発せられた声は球場全体に響き渡った。

 みんな気合い十分。これなら大丈夫だ、絶対に勝てる。山崎はそう思って円陣から離れたが、すぐに対戦相手の名港商業の円陣から自分たちよりも大きく気合いの入った声が山崎の耳に飛び込んできた。

「ウォーーーーーーー」サイレンのように長く大きな声が響き渡った。

 山崎は名港商業のベンチ前に視線をやった。名港商業は勢いがあるなと、口元を引き締めた。負けられない一戦だ。

 

 五回裏終了 友野高校0対0名港商業

 

 五回裏を終了して両チーム得点はゼロ。ヒット数もお互いに二本ずつ。手に汗にぎる投手戦。戦前の予想では五分と五分。名港商業は打撃のチームで友野高校はピッチャーを中心とした守りのチーム。打撃戦になれば名港商業が有利だが投手戦なら友野高校有利だと新聞が勝手に予想していた。

 監督の重光は相手投手はスタミナに不安があるはずだから僅差勝負なら後半にチャンスがまわってくると信じていた。しかし、油断は禁物だ。名港商業は準々決勝、準決勝と自慢の打撃が爆発して強豪校を倒して勢いに乗っている。打ちはじめると止まらない。

 地方新聞のスポーツ面には『名港商業、古豪復活』の文字が踊っていた。

 

 昨年の紙面を思い出す。『ミラクル友野高校』

 

 県大会を勝ち進む度に、その文字がドンドン大きくなっていった。その紙面に目を輝かせていた選手たちは一層気持ちが高まり対戦相手は、その勢いにのまれているのを感じた。そして昨年はその勢いのまま優勝することができた。

 今年は立場が変わった。相手の勢いを受け止める側になった。追われる立場になるとプレッシャーも半端ではなく辛いものなんだと、この一年間で重光は痛感した。

 新チームになってすぐの秋の大会は三回戦で敗退した。次の日の紙面には『夏優勝の友野高校、早くも敗退』とあった。それを見ただけで呼吸が困難になった。キリキリと胃が痛かった。グラウンドに行くのが怖くなった。この頃から胃薬が欠かせなくなった。

 毎年のように甲子園に出場する監督は、どんな精神力をしているのだろうか? 自分とはまったく次元の違う化け物たちなのだろうと思った。

 

 この試合、ここまでは名港商業の打線をピッチャーの坂本が沈黙させてくれている。しかし勢いにのっているチームだ。今は沈黙しているが、ひとつきっかけを与えてしまうとこのチームは止まらない。何とか先制して、完全に相手の勢いを消したい。

 

 球場の整備が入る。少しリラックスさせようと、ベンチ前で選手たちを円にして地面に座らせた。重光は膝を折って選手全員の顔を見渡した。みんな日に焼けて目がギラギラと輝いている。口元には笑みが浮かんでいる。きっと大丈夫だ。彼らもこの一年間プレッシャーと戦ってきたはずだ。よくここまて頑張ってくれた。きっとこの経験は彼らの将来の肥やしになるはずだ。

 

「ここまで坂本が相手の勢いを止めてくれている。ここまでは、うちのペースだ。後半は絶対うちが有利になる。あとは、この回だ。この回が勝負だ」

「はい」

「じゃあ、思い切っていけ」

「はいーっ」全員の元気な声を聞いてから立ち上がりベンチに引っ込んだ。ペットボトルのフタを開け水を口に流し込んだ。口の中が冷えて気持ちいい。自分でも気づかなかったが相当喉が渇いていたようだ。

「フゥー」前半でだいぶ神経をすり減らした。

 ベンチ前では山崎を中心に円陣を組んで、声を張り上げ守備位置へと散っていった。

 こいつらは元気だ。絶対に勝てる。守備位置へと散っていく選手の背番号に視線を泳がせた。

 

 ここまで試合に動きはないが六回の攻撃は両チームとも打順は三巡目で一番バッターからだ。この回がポイントになる。六回表をゼロで抑えれば裏にチャンスがくるはずだ。

 坂本の投球練習を仁王立ちで腕を組んでじっと見つめていた。五回までと変わりなくボールに切れがある。

 

《六回の表、名港商業の攻撃は一番センター大隣くん》

 

 この大隣という選手は体は小さいがバットコントロールが抜群にうまいしパンチ力もある。そして一番怖いのは走力だ。塁に出すとやっかいだ。

「このバッターは、絶対に塁に出すなよ。要注意の選手だぞ。慎重に、慎重にな」仁王立ちのまま坂本に念を送るように呟いた。

 坂本と目が合って何度も頷いて見せた。坂本が大きく頷いた。坂本に通じたようだ。

 

「うわーっ、しまった」重光が額に右手を当てて天を見上げた。俺が坂本に変な意識をさせてしまったのかもしれない。

 

『あーっと、また完全なボールです。大隣くんに対してストレートのファーボールです。解説の沢井さん、この回の坂本くんに何か変化はありますか』

『大隣くんが足が速いので塁に出してはいけないと慎重になり過ぎたのかもしれませんね』 

 

 キャッチャーの山崎が立ち上がり、坂本に向けて肩を上下させた。

 坂本はそれを見て笑みを浮かべてから、胸を張って肩をグルリと回した。

 

『ノーアウトでランナーが一塁です。沢井さん、名港商業は願ってもないランナーが出ました。ここはどんな作戦にでるでしょうか』

『そーですね、大隣くんの足を考えると盗塁もあるかもしれませんが、友野高校のキャッチャー山崎くんも肩がいいですからね。やはりここは確実に送ってくると思います。ランナー二塁にして三番、四番に期待すると思いますね』

 

 ストライクが入らない。こんなはずじゃない。絶対出したくないバッターだったのに。監督が大事なイニングだと言ってたのに、俺は何してんだよ。

「クソー」坂本はロージンを投げつけた。

 

『二番、栗林くん、早くも送りバントの構えです』

 

 送ってくるか? これまでの名港商業の攻撃は多彩だ。盗塁、エンドラン、送りバント、なんでもやってくる。しかし、ここは送りバントだろう。決めつけるのは危険だから、ちょっと様子を見よう。山崎が坂本にサインを送る。

 坂本がセットポジションに入ってからファーストへすばやい牽制をする。大隣は楽々とファーストへ戻る。

 走る気は無さそうだな、やっぱり送ってくるのか。それなら初球は内角高めストレートだ。ボール球でいい。

 

『坂本くん、栗林くんに対して第一球を投げました』

 

 栗林は送りバントの構えのまま、内角の速いボールにバットを合わせた。バントするには難しいコースだったが、ボールの勢いを上手く殺して三塁手前に転がした。

 

『栗林くん、上手いバントです。ボールが完全に死んでいます。坂本くんとサードの相馬くんがボールをとりにいく』

 

 坂本がすばやくマウンドをおりてボールを素手でとる。やばい、間に合うか。

 山崎が慌てて「ファーストー」と坂本に大声で指示を出す。坂本はセカンドを見ることなく、素早くファーストへボールを投げた。

 

『ピッチャーの坂本くんがボールをとってファーストへ投げる。栗林くんの足が速いぞ~。微妙なタイミング、どうだー』

 

 坂本からのボールがベースカバーに入った蓑田のグラブにおさまる。蓑田は目一杯体を伸ばしている。栗林がファーストを猛スピードで駆け抜ける。二人の間に風が起こった。微妙なタイミングだ。

 

 一塁塁審の右手が上がった。「アウトー」

 

『一塁は間一髪アウトー』実況が絶叫した。

 

「フゥー」ベンチから体を乗り出していた重光が息を吐く。体の力がふっと抜けた。「ワンアウト、ワンアウト」と声を上げてグラウンドに向かって人差し指を立てた。

 

『名港商業、スコアリングポジションにランナーを進めてバッターは三番木田くんです』

 

 怖いバッターだが今日は坂本には合っていない。大丈夫だ、坂本、強気でいこう。山崎がサインをおくる。

 

 バッター木田に対して、ファール二球で追い込んだ後、一球外角に落ちる球がボールになる。

 ツーボール、ワンストライクからの四球目。

 内角胸元に構えた山崎のミットに切れのあるストレートが吸い込まれる。

『パシッ』と山崎のミットが唸る。

 

『ワンボール、ツーストライクから内角直球が決まったー、木田くん、バットが出ません。三振です』

 

「坂本、ナイスボール」山崎が坂本にボールを返す。坂本がニヤリと笑みを浮かべて山崎からのボールを受けとる。ボールがグラブに入った瞬間、ギュッとグラブに力を込めた。そして次のバッターに視線をやった。

 次のバッターがネクストバッターズサークルからゆっくりと打席に向かう。丸太のような腕と熊のような体を見て弱気の虫が体中を走る。坂本は弱気の虫を追い払うように声を出した。「ウォーシィー」

 

『よばん~、ファースト高倉くん~』

 

 ここは勝負するのか、歩かせて次のバッターと勝負するのか、山崎はベンチの重光に視線をやった。重光は腕を組んだまま、目を見開いて顎を何度も前に突き出した。いけ勝負だ、目と顎で訴えていた。

 

『ツーアウト、ランナー二塁。バッターは四番の高倉くんです。今日ヒット一本打っています。準々決勝ではダメ押しのツーランホームラン、準決勝では決勝のタイムリーツーベースと当たっています。今大会絶好調のバッターにチャンスが回ってきました』

 

 初球は低めのスライダー、ボール球でいい。山崎がサインを送る。

 坂本は頷いてセットポジションから初球を投げた。

 

『坂本くん、第一球を投げました。外角のスライダー、外れてボール』

 

 高倉のバットがピクッと動いたが、簡単にボールを見極めていた。やはりこのバッターは調子が良さそうだ。攻めにくいなと山崎は思った。

 その後、外角のストレートでワンストライク。内角高めのストレートがはずれてボール。ツーボール、ワンストライクになった。そして四球目、山崎は外角のスライダーを要求した。カウントは悪くなるがボール球でもいい。甘いコースだけは禁物だ。

 

『ツーボール、ワンストライク。ピッチャーの坂本くん、セットポジションから第四球を投げました』

 

 外角のスライダーのつもりがスーッと真ん中に入ってきた。

「うわーっ」山崎が思わず悲鳴のような声をもらした。「や、やばい」

 絶好調のバッターは甘いボールを絶対逃さない。

 

『カッキーーーーン』乾いた金属音が響き渡る。

 

『打った~。打球はレフトへ~、高々の上がった~』

 

 打球はレフトへきれいな放物線を描いて飛んでいった。スラッガーらしい打球だ。

 

『レフトの榊原くんは見上げるだけ~。先制点は名港商業の四番高倉くんのバットから生まれました~』

 

 坂本は呆然と放物線へ描くボールの行方を見ていた。レフトスタンドでボールがはね、審判が腕をグルグル回しているのを確認してから、がっくりと両手を膝に当て下を向いた。坂本の顔中から汗がポタポタと落ちてマウンドの土に染み込んでいく。

「クソー」今度は天を見上げた。汗が目にしみた。

 重光がタイムをかけベンチから伝令がとんでいった。山崎もマウンドへと向かった。

 

 六回表終了 友野高校0対2名港商業

 

 六回裏、友野高校の攻撃。二点のビハインド。何とか早く追い付きたい。

 

『六回の裏、友野高校も打順よく一番の下山くんからです。沢井さん、友野高校としては流れを変えたいところですね』

『そうですね、その為には下山くんを塁に出したいですね。彼は足もありますし長打もあります。積極的な選手ですので流れを変えるには、もってこいの選手だと思います』

 

 下山がゆっくりとバッターボックスへと向かう。

 俺の一発で流れを変えてやる。下山がバッターボックスに入る前に力強くスイングして、ヘルメットをかぶりなおしバットのグリップをギュッと握りしめた。

「初球で仕留めてやる」

 

『名港商業としては得点した後のイニングです。このバッターは大事ですね』

『下山くんは思い切りがいいですから、初球は慎重に入ったほうがいいですね』

『名港商業のピッチャー岡林くん、ふりかぶって第一球を投げました』

 

 岡林にとっては不用意な一球だった。先制したことで少し気が緩んだのか甘いコースに投げてしまった。

「よーし、もらった」

 下山は初球から打ちにいく。岡林の球威は落ちてる。甘いストレートだ。ボールを呼び込んで思い切りスイングした。完璧に捉えた打球だ。

 

『下山くん、打った~。痛烈な打球。打球はレフトポール際へ飛んだ~。ファールかフェアーか。フェアーなら文句なしのホームランだ~』

 

 三塁側友野高校のベンチが総立ちになってレフトポール際へ飛んでいくボールの行方を追う。ライナー性の鋭い打球はグングン伸びていく。伸びるにしたがってボールは左へと切れていく。

 

『フェアーかファールか』

 

「切れるなー」友野高校ベンチから声が飛ぶ。

「切れろー」名港商業ベンチからも声が飛ぶ。

 

『ボールはレフトポールに直撃してグラウンドに落ちました~。ホームラン~』

 

「よーし。やったー」友野高校のベンチ全員が両手を上げた。

 

『ホームランです。下山くん、見事なホームランだぁ。友野高校が一点を返しました~』

『このホームランは大きいですね』

 

 下山がゆっくりとダイヤモンドをまわる。三塁ベースを踏んでベンチを見た。みんながベンチから飛び出してガッツポーズをしている。ホームベースへと向かう時に次のバッターの蓑田の姿が目に入った。右手を上げて迎えてくれている。ホームベースを踏んでから蓑田が出してきた右手をパンと叩いた。

「ナイスホームラン」

「おぅ」下山は無愛想に返事してそのままベンチの方へと向かった。

「ナイスホームラン」山崎がベンチ前で下山に両手を出した。下山も両手を出してパンと両手を合わせた。

「あのピッチャー、前の回からコントロールも球威も落ちてっからよ。きっとお前でも打てるよ」下山は右の口角だけをキュッと上げた。

 

『蓑田くんがバッターボックスに入ります。友野高校としてはこのまま流れに乗りたいところです』

 

 この流れを止めないように、絶対に塁に出たい。ファーボールでもデッドボールでもエラーでも何でもいい。蓑田は一握りバットを短く持った。

 

『岡林くん、ホームランを打たれて動揺したのでしょうか。二番の蓑田くんにストレートのファーボールです。慌てて一塁側から伝令が向かいます。沢井さん、岡林くんのピッチングに変化はありますか』

『そうですね、前の回から少し疲れたのか球威が落ちてきたようですね。ボールも高めに浮き出してますのでね。下山くんが甘いボールを逃さずに打ちましたから、少し動揺していますかね』

 

 伝令の選手が一言二言話した後、岡林の尻をポンポンと叩いてベンチへと下がっていった。

 

『マウンド上の輪が解けました。岡林くんの顔から笑みがこぼれています。これで少し落ち着きましたでしょうか』

『連投の疲れもありますし球威が落ちてくるのは仕方ないと思います。後は丁寧に低めにコントロールしていくことでしょうね』

 

 三番の小宮山がバッターボックスに入る。ここは確実に送って四番榊原、五番山崎に期待する。小宮山はバントも上手い。必ず決めてくれるだろう。重光は迷うことなく送りバントのサインを出した。

 

『小宮山くん、バントしました。これはいいバンドだー、岡林くん、セカンドはあきらめてファーストへ。ファーストはアウト。ワンアウトランナー二塁です。友野高校、同点のランナーをセカンドへ進めました』

 

 小宮山は跳び跳ねるようにしてベンチにかえってきた。

「ナイスバントー」ベンチから声が飛ぶ。小宮山がみんなと手を合わす。パンパンと手を合わす音がベンチを活気づけた。

 四番の榊原がバッターボックスへと向かう。「フゥー」と息を吐いた。相手の四番がチャンスにホームランを打った。自分の頭の上を軽々と越えていった。一歩も動けない完璧なホームランだった。自分は四番に抜擢されてから全く打てていない。今度は自分の番だ。初球をライトスタンドへ放り込んでやる。いや、豪快にバックスクリーンだ。

 

『友野高校、ワンアウトランナー二塁でバッターは四番の榊原くん。友野高校としては、ここで同点に追い付きたいところですね』

 

 ホームランで一気に逆転だ。四番の意地を見せてやる。榊原がいつも以上に大きく構えた。

 

『岡林くん、セットポジションからセカンドランナーをみて、第一球を投げました』

 

 よーし、きた。榊原は内角の高め、少しボール気味の球を強引に打ちにいった。

 

『打ったー。打球はライトへー、いやー』

 

 しかし完全に詰まらされた。ライトまでも届かない。セカンドが手を上げた。

 榊原は一塁まで全速で走ったが、ボールはセカンドのグラブに簡単におさまった。

 榊原は天を見上げた。「クソー、ボール球だったぁ」

 ピッチャーの岡林を見るとニヤッと笑っているように見えた。

「クソーッ」岡林を助けてしまった。

 

《ごばん~、キャッチャー山崎くん》

 

 山崎がバッターボックスに向かう。ここで追い付かないとまた相手に流れがいく。大事な打席だ。絶対に力むなよ、バッターボックスに入る前に胸に手を当て自分に言い聞かせた。

 

『榊原くんは倒れましたが、怖いバッターが続きます。沢井さん、バッテリーは何を注意すればいいでしょうか』

『榊原くんに対して内角のボール球でうちとりましたから、同じように焦らずボール球を上手く使うことでしょうね』

 

 山崎はツーストライクをとられるまでバットが出なかった。追い込まれてからはボールをしっかりと見極めて、厳しいボールは上手くファールで逃げた。粘って十球目スリーボールツーストライクからボールは内角の甘いコースにきた。

「よしっ、もらった」山崎は思いきりスイングした。

 ボールは内角の甘いコースからストンと落ちた。最後は岡林渾身のフォークボールだ。

 

『山崎くん、空振り、三振~。岡林くん粘った~。最後に素晴らしいフォークボールを投げました』

 

 六回裏終了 友野高校1対2名港商業

 

 七回は両チーム無得点。 七回裏が終わって友野高校一点のビハインドのまま。

 

 七回裏終了 友野高校1対2名港商業

 

 八回表はツーアウトからヒットとファーボールで一二塁のピンチを迎えたが次のバッターの二遊間の痛烈な打球を蓑田が横っ飛びで捕球しセカンドでアウトにした。

 

 八回表終了 友野高校 1対2 名港商業

 

『友野高校セカンドの蓑田くんの今のファインプレーは大きいですね』

『そうですね、流れが名港商業にいきかけてましたので、あれが抜けて一点入ると完全に名港商業のペースになりましたからね。蓑田くんナイスプレーです』

『八回裏は友野高校好打順。一番の下山くんからです。前の打席で見事なホームランを放っています』

『名港商業としては、このバッターは大事ですよ』

 

「もう一発、放り込んでくる」下山がそう言って打席へと向かった。

 名港商業バッテリーも警戒して、ボールから入る。ワンボールからの二球目、長打を警戒して外角のストレート。

 

『あーっと、下山くん。意表をつくプッシュバントだぁ。岡林くんがボールをとりにいくが追い付かない。ファーストの高倉くんがボールをとったがファーストに投げられない。内野安打ー』

 下山がファーストを駆け抜けてからガッツポーズをする。「よーし」

 

『ノーアウトランナー一塁。友野高校、同点のランナーが出ました』

 

 下山が一塁ベース上で、してやったりといった表情で笑みを浮かべた。

 山崎がベンチから下山に向かって右手の拳を握り高々と上げた。下山も軽くそれに応えるように右手を上げた。

 

『さぁ、友野高校、大事なランナーが出ました。ここはどんな作戦に出るでしょうか』

『やはり終盤ですし、送りバントだと思いますね』

 

 監督のサインを見る。やはり送りバントだ。しっかり送らないと、失敗すると良い流れを止めてしまう。

 蓑田は硬直した体をほぐすように二回、三回と素振りをしてからバッターボックスに入った。

 バントの構えに入る。ファーストとサードが前に来るのが見えた。プレッシャーがかかる。足がガクガクと震えだした。

 岡林がファーストへゆっくりと牽制球を投げた。下山はファーストベースへ戻る。蓑田はバッターボックスを外して屈伸する。今の牽制球の間は蓑田にとって有り難かった。少し気持ちを落ち着かせることができた。

 

『岡林くん、第一球を投げました』

 

 蓑田はバントした。ボールは前進してきたサードへと転がった。少し打球が強くなった。セカンドは微妙なタイミングになりそうだ。サードがボールをとってセカンドへ体を向けた。一瞬投げようとしたが躊躇してファーストへ投げた。

 

『友野高校、送りバント成功です』

 

「蓑田、ナイスバント」ベンチからファーストを走り抜けた蓑田に声が飛ぶ。

 蓑田は「フゥー」と息を吐いて胸に手を当てた。「決まってよかったー」

 三番小宮山がヒットでランナー一三塁とチャンスが広がる。

 四番榊原の当たりはあわやホームランかというライトへのフライ。タッチアップから下山がかえり同点に追い付いた。友野高校のベンチがお祭り騒ぎになった。

 そして五番山崎に打席がまわる。下山が厳しい表情で山崎のところへ近づいた。何やら会話を交わし離れ際に下山が山崎の胸に軽く拳をあてた。山崎は頷いてから下山の拳を軽くはらい、ゆっくりとバッターボックスへ向かった。

 

『山崎くん、打ったー。痛烈な打球がレフトへ~』

 

 

 八回裏終了 

 

 

『九回表名港商業の攻撃です。ツーアウト、ランナーがありません』

 

『打ったー、打球はショートへ』

 

「よしっ」キャッチャーの山崎が声を上げた。力のない打球がショートの下山の正面へ飛んでいった。

 下山は前進して軽快に打球をさばきファーストへ矢のような送球をする。ファーストの宮田のミットにボールが吸い込まれていく。一瞬、球場が静まり返る。ミットがバシッと力強い音をたてた。一塁塁審の右手が上がった瞬間、球場がどーっと地響きをあげた。

 山崎が拳を握りミットをポーンと叩いてから、両手を高く上げて天を見上げた。

「決まったー」青空に吸い込まれそうな感覚になった。入道雲が「おめでとう」と自分に笑いかけてくれているように見えた。スーっと体の力が抜けていった。

 ピッチャーの坂本を見ると力強く両手を高々と上げている。背の高い坂本が一段と大きく見えた。その姿が少しかすんで見えた。目頭をギューとおさえてから坂本のもとへ駆け寄った。ショートの下山もセカンドの蓑田もファーストの宮田もサードの相馬もみんなが集まっていった。

 みんなの姿もかすんで見えた。

 

 八回裏の打席に入る前、下山が近づいてきた。

「お前、責任感強すぎんだよ。前の打席もガチガチだったじゃねえか。結果なんていいから、初球を思いきり打ってこいよ。ここまでこれたのはお前のおかげなんだから、ダメでも気にすんな」

 そう言われて気分が楽になった。とりあえず思い切り打とうと打席に入った。初球、甘いボールがきたので思い切りバットを振り切った。ホームランにはならなかったが、フェンス直撃のタイムリーツーベース。セカンドベースで両手を高々と上げたら、下山がベンチの奥で親指を立てていた。その時も下山の姿がかすんで見えた。恥ずかしいからすぐに手で涙を拭った。

 

『試合終了です。友野高校が三対二で名港商業を下し、二年連続県大会優勝を決め、甲子園の切符を手にしました』

 

 

 


最後の夏 組合せ抽選会

 セピア色の照明が優しい光を落とす静謐なホール。真っ赤なシートだけが存在感をアピールし、これだけがこれから始まるセレモニーの興奮を感じさせている。今は誰も座っていないこのシートも組合せ抽選会を心待ちにしているようだ。一時間後には、球児たちで埋めつくされ、この真っ赤なシートの上に白と黒の色が混ざり込む。白と黒のあちらこちらからどよめきが起こり、それがホール内に反響する。その時、彼らの顔もシートのように赤く染まるのだろう。

 

 大阪市北区中之島にある大阪フェスティバルホールは、全国高校野球選手権大会組み合わせ抽選会の始まりを静かに待っていた。

 

 試合だけでなく、このホールにも毎年ドラマが起こる。優勝候補同士の対決、因縁の対決、隣県対決、等々。

 負ければ終わりのトーナメント。監督、選手たちにとっては日程や対戦相手が決まる緊張の時だ。

 

 選手たちがぞくぞくと入場し真っ赤な座席に腰を下ろす。ワクワクとドキドキの感情を隣の選手と共有し楽しむようにひそひそと会話を始める。これまで時間が止まっていたようなセピア色の静謐な薄暗いホールが呼吸をはじめた。

 

 友野高校の選手もシートに腰を下ろし、少しリラックスした表情で抽選の始まりを待っていた。

 正面の壇上は眩しいほどに明るく照らされ、奥には全国高校野球選手権大会組み合わせと書いてある大きなボードが白く照らされ浮き上がって見える。その壇上の隅の方に遠慮がちに座る山崎の姿が見えた。

 膝の上に組んでいる自分の両手に視線を落としているように見える。もしかすると目を閉じているのかもしれない。

「おい、山崎見ろよ。緊張してるぞ。あいつ大丈夫かよ、ハハハ」下山が壇上に向かって指をさして笑った。

 

 そう、山崎だけはワクワクした気持ちになれず、ドキドキの緊張だけで掌は汗でびっしょり濡れていた。何度も生唾を飲み込み、自分の順番を待っていた。

 

 山崎の順番が回ってきた。山崎は立ち上がり緊張した足取りでゆっくりと壇上を歩き抽選箱の前に立った。そして抽選箱に手をつっこんだ。

 さぁ、緊張の時だ。対戦相手が決まる。試合の日程が決まる。

 

 友野高校の選手たちもひそひそ話を中断し緊張した面持ちで真っ白に輝く壇上の山崎に視線を集中させた。

 山崎がくじを引く。

 手を合わせている蓑田、腕を組んでいる下山、胸に手を当てている坂本、みんなの視線が山崎の手元に集中した。山崎が札を持って舞台正面に立った。

 みんなが息を呑んだ。

 

「友野高校、10のA」少し震えた声がホールに響き渡った。

 山崎は、少し笑みを浮かべようとしていたが、右の口角だけが上がり歪んでいた。

 

 瞬間、「ウワー」「ヒェー」「オー」「エーッ」といったいろんな声が各シートから上がり、それらが反響しホール全体を埋めつくした。

 静まりかえっていた抽選会場に今日一番のどよめきが起こり、ホールがはじめて暴れだした。

 その理由は友野高校にあったわけではない。プロ注目、今大会屈指の好投手を擁する優勝候補の相手が決まったからだ。

 奥の大きなボードの10のBの位置には優勝候補の昌徳高校の札がかかっていた。その隣にどこの学校が入るのだろうかと会場内は興味津々、戦々恐々だったのだ。

 昌徳高校は五年連続六回目の甲子園出場で、ここ最近、力をつけ甲子園の常連校になった学校だ。そして毎年のように好選手をそろえ、優勝を狙える力を備えて出場していた。卒業生にはプロで活躍する選手も数人いる。これまでの甲子園最高成績は昨年のベスト4。これまで何度も優勝候補に名を連ねたのだが優勝の経験はない。今年はプロ注目の今大会ナンバーワン左腕野々村を擁し優勝を狙っている。

 野々村は地方大会でノーヒットノーランを達成し、その試合で最速158キロを記録した。

 

 友野高校の初戦は三日目の第三試合。対戦相手は強豪の昌徳高校に決まった。

 抽選で昌徳高校との対戦が決まった瞬間、友野高校の選手達から「えーっ」と悲鳴に近い声が上がった。

 頭を抱える者、天を仰ぐもの、うなだれる者、苦笑いする者、ガッツポーズする者、各々が違うリアクションをしていた。

 

 

「せっかく甲子園にきたのに、これじゃあまた初戦敗退だな」

「初戦はもうちょっと弱い学校とやりたかったよな」

「うちはクジ運悪いよな。158キロのボールなんてみたことないよ。打てるわけないよ」

 抽選会の後、宿舎ではそんな弱気な声がちらほらとこぼれていた。

 クジを引いた山崎は苦い笑みを浮かべて口を歪めた。

「何、弱気になってんだよ。せっかく甲子園で試合ができるんだ。強豪校と試合する方が面白いじゃないか。あの野々村の158キロのボールをバッターボックスで見れるんだぜ、楽しみじゃないか。それに野々村からホームランでも打ったら一生自慢できるぜ」副キャプテンの下山だけは昌徳高校との対戦を喜んでいた。

「けどな、昌徳だぞ。勝てるわけないだろ。ボコボコにやられるぞ」ピッチャーの坂本が頭を抱えた。

「昌徳の今年の打線は大したことないよ。坂本なら抑えられる。お前がゼロに抑えてくれれば勝てるよ」

「なに勝手なこと言ってんだよ。絶対勝てないよ」

「そんなの、わかるかよ。去年の港星学院だって強豪だったぞ。先輩達は港星学院を最後まで追い詰めたじゃねえか。あの試合だってあいつが暴投しなけりゃ勝ってたぜ」

 下山が蓑田に向けて顎を突きだした。

「まっ、そうだけど」坂本は気遣うように蓑田に視線をやった。

 蓑田は顔を歪めた。「フゥー」と息を吐き、「そうだ、去年は俺の暴投がなければ港星学院にも勝てたんだ。去年の借りを返すには昌徳高校のような強豪とやる方がいい」

「蓑田、なかなか強気になったな」下山が笑う。

「この一年、お前にいじめられたせいだ」蓑田も笑う。

「相手どうこうより、自分たちの野球を目一杯やることだ。それに相手が強い方が気持ちは高ぶるはずだ。去年の先輩達がそうだった。勝つために必死で戦ってた」山崎が言う。

「よし、これから野々村対策だ。よーし、勝つぞー。勝ったら注目されるぞー」下山がパーンと膝を叩いて立ち上がった。

「まぁ、相手が相手だから、負けても、誰も文句言わないだろ」宮田が言うと下山が宮田を睨んだ。

「最初から負けるつもりで試合するな。絶対に勝つんだよ。そのためにこれから準備するんだ」

「下山の言う通りだ。勝つためにどうするかを考えろ。相手が強ければ強いほど、自分たちの力を最大限に発揮するための準備が大切になる。そしてその準備することがお前たちの将来にきっと役立つはずだ」みんなの会話を聞いていた重光が最後に口を挟んだ。

「よし、夕食後にミーティングだ。それまで一旦解散だ」山崎が両手をメガホンにして声を張り上げた。

 


リラックスの時

「フゥー、疲れた~」

 練習を終え宿泊するホテルの部屋に戻った蓑田はバッグをドンと床に落として、ぐったりと椅子の背もたれに体をあずけ足を前につきだして座った。

 部屋に入った瞬間、きれいにメイクされたベッドが目に飛び込んできたので、ベッドに思い切りヘッドスライディングしたいという欲求がわいてきたが、泥と汗にまみれた自分のユニフォーム姿を見て、さすがにそれは躊躇した。

 いっしょに部屋に入った山崎はバッグを床に置いてから首をまわしたり、腰をひねったり、アキレス腱を伸ばしたりとストレッチを始めた。それらが一通り終わると台の下に設置してあるサイコロ型の小さな冷蔵庫からペットボトルのミネラルウォーターを取り出し椅子に腰掛けた。よく冷えたペットボトルのフタをあけるとクイッと一口飲んで「フゥー」と息を吐いた。

 隣でだらしなく座る蓑田が「俺もくれ~」と右手を差し出した。山崎はもう一口飲んでから、ペットボトルを蓑田の出す右手に渡した。

「ホイ」

「サンキュー」

 蓑田はペットボトルを受けとると逆さまになるほど傾け一気に飲み干してしまった。山崎はその様子を眉をハの字にし口角を上げながら見ていた。

「冷蔵庫にもう一本入ってたぞ」

 山崎はそう言って、腰を屈め冷蔵庫から新しいミネラルウォーターを取り出した。

「いや、もう大丈夫。スッキリした」

 空になったペットボトルをガラスのテーブルの上に置いた。

「フン、俺が飲みたいんだよ。お前が全部飲むとは思わなかったよ」

「あー、ごめん、ごめん。山崎にはついつい甘えちゃうんだよな」蓑田は坊主頭を掻いた。

「別にいいけど」そう言って山崎はミネラルウォーターを一口飲んで宙を眺めた。

「それにしても、今日はみんな気合いが入ってたよな」蓑田が座り直して姿勢を正してから言った。

「みんなの目の色が一日で変わったからビックリしたわ」

「みんなが必死で練習するから、俺もクタクタになった」蓑田は、また座る姿勢を崩し腕をダランと下げ顎を上げた。「ハァー、疲れたー」

「ミノ、先にシャワー浴びてこいよ」

「いーよ、ヤマ、先にいけよ」

「俺、今から、ちょっと母ちゃんに電話すっから」山崎が携帯を持ち上げ蓑田の方にかざした。

「あっ、そうか、わかった。じゃあ、お先に~。ハァー、疲れた~」蓑田が立ち上がり浴室へと向かった。

「おぅ、ゆっくり疲れとれよ」

「はいよ~」蓑田は山崎の方を見ないでヒラヒラと手を振って浴室へと消えていった。

 山崎がドアが閉まるのを確認してから母親に電話をかけた。

 母親はすぐに電話に出た。

「はいはい、茂樹、お疲れさんだねぇ」

「ああ」

「昨日の抽選会、テレビで観たわよ。相手の学校、強いらしいじゃない?」

「ああ、まあ、ピッチャーが、プロ注目のピッチャーだからな」

「知ってる。野々村って子でしょ。予選の頃からテレビでよくやってた。160キロ以上のボールが投げれるピッチャーだって。ドラフトの目玉だ、日本の宝だ、大切に育てないといけない、だって。本当、うるさかったわ。うちの茂樹だって宝だよって、テレビに向かって怒鳴りたかったわ」

「ハハハ、で、怒鳴らなかったの」

「さすがにね、一人でテレビに怒鳴ってたらバカみたいじゃない」

「確かに」

「野々村って子、この間もテレビに出てて、甲子園では160キロを出します、て言ってたわ。背も高くてイケメンで、女の子からも人気あるみたいね。まっ、茂樹にはかなわないだろうけどね」

「ハハ」山崎は苦笑いを浮かべた。

 そのテレビは山崎も見ていた。甲子園に出場する注目選手を紹介する番組だった。番組で一番長い時間をとってたのが野々村だった。インタビューで目標は?と訊かれて『全国制覇して昌徳高校に新しい歴史を刻むことと甲子園で160キロを出すことです』と力強く話していた。怪物と言われる男だが、顔だけ見てると目がクリクリしていて女の子みたいだ。インタビューの間もニコニコと笑みを絶やさず、アイドルのインタビューのようだった。たまに、はにかむ顔が人気の理由らしい。山崎も抽選会の後のインタビューで、はにかんでみようとしたが、どうもうまくいかなかった。はにかむというより、ひきつった笑みになってしまった。

「ところで、どう? 体調とか大丈夫?」

「ああ、大丈夫。元気、元気」

「宿舎の食事は?」

「うん、美味しいよ」

「そう、それなら良かった。試合の日はお父さんと二人で甲子園に応援行くからね」

「父さん、来れるの?」

「うん、大丈夫だって。去年は仕事で行けなかったから、今年は絶対行くって、張り切ってる」

「そう、父さん、仕事忙しそうだもんな」

「でも、茂樹のカッコいい姿、生で見ないともったいないって言ってた」

「カッコいいとこ見せれるかな」

「大丈夫よ。私たちにとっては、茂樹の姿は全てがカッコいいから。野々村なんて全然カッコよくないわ」

「ハハ……」頭を掻きながらまた苦く笑う。

「お爺ちゃんとお婆ちゃんはテレビで応援するって言ってたわ」

「そう」

「お婆ちゃんは昨日の抽選会を録画してて、あなたの出てるシーンばかり何度もみてるみたい」

「婆ちゃんらしいな」

「そうね、みんな喜んでるわ。頑張ってね」

「まぁ、頑張るけど簡単な相手じゃないからな」

「あまり難しく考えないで、相手は強いんだから、負けてもしかたないじゃない。甲子園で楽しんで野球やればいいのよ」

「うん、でも監督は絶対勝つつもりで試合に挑めって言ってるからな」

「へぇー、それって勝利至上主義ってやつ? プロじゃないんだから」受話器の向こうで眉をひそめる母親の顔が浮かんだ。感情の変化が激しい母親は、さっきまでの晴れ渡った感情から曇り空に変わったようだ。この後、嵐になることがよくあることを山崎はわかっている。

「勝利至上主義ってわけじゃないんだけどね」

「じゃあ、負けてもいいじゃない。勝っても負けても参加することに意義があるっていうじゃない。相手が強いんだし、それでいいじゃない」

 声のトーンで少しずつ嵐へ近づいていくのがわかる。

「参加することに意義があるって、それって、オリンピックじゃない」

「そんなの、どうでもいいのよ。勝つことが全てではないってことが言いたいの。勝利至上主義だと最近問題になってる暴力とか体罰とかにつながるでしょ。甲子園だからって、いい格好する必要ないのよ。負けてもいいの。わたしから監督に文句言ってあげようか」

「大丈夫だよ。監督は勝利至上主義なんかじゃないよ」

「じゃあ、負けてもいいじゃない」

「監督が言いたいのは勝つための準備をして試合に挑めってことなんだ」

「それが勝利至上主義でしょ」

「ちょっと違うよ。監督は、本当は勝ち負けにこだわってるわけじゃないんだ。試合に挑む俺たちの気持ちにこだわっているんだよ。勝つために準備する気持ちを持ってほしいってことなんだよ」

「ふーん、よくわからないけど」

「勝て、じゃなくて俺たちに勝ちたいと思ってほしいんだよ。勝つって目標がある方が努力するでしょ。その努力をしてほしいってこと」

「あぁ、そうなの」

「せっかく与えられた甲子園という大舞台で野々村という凄いピッチャーと対戦出来るんだ。こんな経験、そうそう出来るもんじゃない。それを中途半端な気持ちで挑むのはもったいないんだ。勝ちたいと思って試合に挑む方が俺たちの気持ちも盛り上がって努力する。きっとそれが俺たちの成長に繋がるんだ」

「ふーん、茂樹も知らない間に立派なこと言うようになったね」

 嵐になる前に気持ちが冷めてくれたようだ。

「組み合わせが決まってから野々村をどう攻略するかとか、みんなで映像をみながら必死で考えたよ。野々村は何度みても凄いピッチャーなんだ。それで、みんな段々興奮してきて今日の練習はすごく盛り上がったよ。練習終わってからも、さっきまで野々村をイメージしてみんなで素振りしたりしてた。相手が強ければ強いほど、そして勝ちたい気持ちが強くなればなるほど、みんなが一つになれるんだなと思った」

「あー、そうなの。とりあえず、あなたが楽しめてるならお母さんはそれでいいわ」

 

 視界の端に蓑田の姿が入ってきた。視線を向けると蓑田が浴室から出てきたところで、にこりとこちらに笑みを送ってきた。

「うん、じゃあ、そろそろ俺シャワー浴びてくるわ。この後ミーティングもあるし」

「はーい、電話ありがとうね」

 

「おふくろさんか?」蓑田がパンツ一丁のまま坊主頭をバスタオルで拭いている。すでに乾いているので、バスタオルで拭いてもあまり意味がないように思えた。

「あー、たまに電話しとかないとな。ここまで野球やらせてもらったから感謝もしてるし」

「ヤマは親思いだよな。なんか、すごい大人だよ。野球部みんなに気配りもできるし、キャプテンとしてみんなをまとめてるし、本当凄い」蓑田がバスタオルを肩にかけベッドに腰を下ろした。

「そんなことないよ。キャプテンやって一年間大変だったけどミノにいっぱい助けてもらった。本当ありがとう」椅子に座ったまま膝に手を置いて山崎が頭を下げた。

「あらたまって、そんな……、照れるなぁ」蓑田が坊主頭を掻いた。

「ハハハ、俺も照れるわ」山崎は下を向いておでこを掻いた。

「でも、あと少しで終わりだな」

「そうだな……」山崎が宙に視線をやった。「負けたら……、終わりなんだよな」

「少しでも長くみんなと野球がしたい。だから絶対野々村を攻略したい」蓑田が宙に向かって叫んだ。

「あー、みんな同じ気持ちだ。最後にやっとみんなが同じ気持ちなった気がする。ある意味、こうなれたのは野々村のおかげかもな。あいつが凄いから、みんなの目の色が変わったんだと思う。みんなであいつを攻略しないといけない、そう思うようになったんだ。でないと、俺たちの夏は終わってしまうから」

「そうだな。最初は昌徳に決まって弱気なこと言ってた奴もいたけど、やっぱりみんな勝ちたいんだよ。少しでも長く一緒に野球がやりたいんだ。野々村の映像をみて、みんなの気持ちに火がついたんだと思う」

「野々村の弱点は終盤だ。少し制球が乱れる」

「うん」野々村のピッチングの映像が蓑田の頭に浮かんだ。

「それに坂本も絶好調だ。きっと相手の打線をおさえてくれる」

「2対1で友野高校の勝利。これでどう?」

「うん、いいね。そんな試合にしたい」

「きっと、そうなる」

 お互い顔を見て頷いた。

「じゃあ、俺もシャワー浴びてくるな」山崎は立ち上がり浴室へ向かおうとした。

「いってらー」蓑田が右手をヒラヒラとした。

「あっ、そういえば、さっきミノの携帯鳴ってたわ。メールじゃないかな」

「あっ、そう。後で携帯見てみるわ」多分あいつからだ、と蓑田は思った。

 蓑田は山崎が風呂のドアを閉めたのを確認してから携帯のメールを開いた。

 

『今日の調子はどう? 野々村攻略はできそうかな? ミノっちならきっとやってくれるよね。暇な時があったら声が聞きたいなぁ』

 

「やっぱり~」蓑田の頬が緩んだ。そして、すぐに電話をした。

 コール二回で相手が電話に出た。

「もしもし~、里美~」

「ミノっち、お疲れ~。元気~」

「うん、元気、元気~。里美の声聞いて一段と元気~」

「よかった~。チームの雰囲気はどう? 昨日は昌徳に決まって、みんな元気ないって言ってたけど」

「いや、今はみんな燃えてる。野々村を打ち崩すんだって必死で練習してる」

「そうか~、それならよかったわ。最後だもんね。やるしかないよ」

「そう、みんな最後の夏を少しでも長くいっしょに戦いたいから、気持ちがひとつになった気がする」

「そう、それはよかった」

「去年の先輩たちもこんな気持ちだったんだろ?」

「うん、みんな少しでも長くいっしょに野球をやろうって言ってた。野口くんも間宮くんも、すごーく燃えてた」

「それなのに、俺の暴投で終わらせちゃったんだもんなぁ」

「あー、また言ってる。もう終わったこと。みんな気にしてないから」

「うん、わかってんだけど、ついつい思い出すよ。あの時の暴投のシーンが今でも頭に浮かぶことがあるんだ。もしあの試合に勝ってたら先輩たち、どこまで勝ち進めたんだろうな、とも思う」

「どうかな。次の相手も強かったしね」

「あの時、俺の所にボールが飛んでこなかったらよかったのにと思うこともあるんだ。けど……」蓑田が言葉につまった。

「けど?」

「うん。けど、もし、俺が暴投してなかったら、今ごろ『里美』なんて呼んでないかもしれないなぁって思う。今でも「板野先輩」のままだったのかもしれないなぁって」

「そうね、わたしも監督に頼まれなかったら、ミノに声掛けなかっただろうね」

「そういう意味じゃ、俺、良かったのかな」

「さぁ、わかんない」

「なに、それ」

「別に。それより山崎くんは?」

「元気だよ。今シャワー浴びてる」

「山崎くんもキャプテンとしてよーく頑張ったよね」

「うん、山崎はやっぱり凄いよ」

 浴室のドアに視線をやると、ちょうどドアが開いて山崎が出てきた。上半身は裸だ。顔から吹き出てくる汗をバスタオルで必死で拭いている。

「あっ、山崎、出てきたわ。じゃあ、また」

「あ、うん。山崎くんにもよろしく。みんな頑張ってね」

「わかった、頑張る」

 蓑田が携帯の通話終了のボタンを押して携帯をベッドの上に置いた。

「ヤマ、すっきりしたか」

「ああ、けど、アツい、アツい」

 汗かきの山崎は上半身、汗びっしょりになっていた。

「シャワー浴びたとこなのに、もう汗かいてるぞ」

「あー、アツいからな。ハァー、アツいアツい」

「この辺りがエアコンの風がきて気持ちいいぞ」

 蓑田は自分が座っている場所をあけ体を横にずらし、あけた場所を右手でパンパンと叩いた。

「サンキュー」山崎が蓑田の隣に座りエアコンの風に当たった。「あー涼しい風がくる~」エアコンの風が山崎の顔に当たって目を細めている。「気持ちいいけど、やっぱりアツいアツい」

「これでどうだ」蓑田が立ち上がって肩にかけていたバスタオルを外して山崎に風を送るように両手でバタバタと仰いだ。

「サンキュー。けど、まだまだ、アツいアツい」

「えー、暑がり過ぎだ~」蓑田は眉をハの字にして仰ぐバスタオルのスピードをあげた。

「お前のせいだよ」山崎が蓑田に顎を向けた。

「なんで? こんなに必死に仰いでんだぞ」一段と仰ぐスピードを上げたが、すぐに力尽きた。「フゥー、もう限界。休憩だ」また、山崎の隣に座った。

「さっきの電話だよ」山崎が蓑田を横目で見た。

「えっ」蓑田が山崎に顔を向けた。

「さっきの電話、板野先輩だろ」蓑田のほっぺたを思い切りつねった。

「ふああっ、ふぉうだへど」ほっぺたをつねられたままで上手く発音できない。

「やっぱりな。アツいはずだわ」山崎がほっぺたをつねった手を外し、蓑田の頭をパンとはたいた。

「痛えな」

「鼻の下伸ばして嬉しそうな顔しやがって」

「鼻の下なんて伸ばしてねぇし」

「あーぁ、ミノはいいなぁ」山崎はベッドに横たわった。「さっきも、里美~、とかやってたんだろうなぁ」寝転がったまま、ベッドにある枕を抱きしめながら言った。

「やってねぇし」

「羨ましいなぁー」

「ヤマは誰か好きな娘いないのかよ」

「俺? そうだなぁ」

「いんのかよ」

「音楽の山中先生かな」

「えっ、年上じゃねえか」

「お前だって板野先輩は年上だろ」

「さと……、あっ、い、板野先輩は学年は上だけど、生まれた年は一緒だからな」

「えっ、今、さとみって言いかけた? ハハハ。やっぱりアツいアツい」

「うっせえなぁ。それよりヤマと山中先生だと歳が離れすぎだろ」

「うーん、山中先生って何歳だろ」

「二十五歳くらい?」

「わかんないけど、歳なんて関係ないよ」

「今年もブラスバンドの応援で来てくれるんだろ」

「そうみたいだ」

「じゃあ、『山中先生、僕がホームラン打ったら付き合ってください』ってのはどう?」

「うるせぇ」

「照れんなよ」

 

 その時、山崎の携帯がせわしなく鳴った。携帯を手にした山崎の顔から笑顔が消えていった。

「誰?」

「や、やばい。監督だ。監督とミーティングの時間だ。まじでやばい、ミノ、俺、先に行くな」

 山崎は慌ててジャージを着て部屋を後にした。

 

 

 

 

 



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