閉じる


<<最初から読む

5 / 15ページ

エース間宮先輩

 蓑田は、あの試合を投げた先輩のエース間宮に謝りに行くことにした。

 試合終了後、謝りはしたが、蓑田は泣いているだけで、しっかりと言葉に出して謝れていなかった。

 謝った記憶さえ定かではなかった。自分が何を話したか、間宮に何を言われたかも覚えていなかった。

 自分の暴投のせいで試合に負けてしまい、間宮の最後の夏を終わらせてしまった。あの時、自分が暴投せずにアウトにしていれば、最低でももう一試合、間宮は甲子園のマウンドに立つことができたのだ。それを考えると鉛を飲み込んだような気分になる。

 

 普段の間宮は口数も少なく優しくクールな先輩で、蓑田は間宮が怒っている姿を見たことがなかった。

 試合中はピッチャーでありながら、みんなに気を配りながらチームを鼓舞していた。

 キャプテンの野口は間宮のことを陰のキャプテンだと言っていた。野口は気性が荒く蓑田もよく怒られたが、それを間宮がフォローしてくれていた。

 キャッチャーの山崎が間宮のことを「いつも勉強になる」と言っていた。山崎は自分がキャッチャーというポジションで新チームになった時のキャプテンになることを意識しての発言だろうと蓑田は思っていた。

 間宮は蓑田がエラーしてマウンドに謝りに行くとお尻をポンポンとグラブで叩いて「ナイスファイト」と言ってニヤリと笑ってくれた。いつもその笑顔に救われた。

 どんなピンチの場面でも冷静で顔色ひとつ変えずに投げていた。その姿がかっこよくて憧れの先輩だった。自分も間宮のような先輩になりたいと思っていたがそれは諦めることにした。

 

「間宮先輩、すいませんでした。僕のエラーのせいで負けてしまって」蓑田は直立不動で深々と頭を下げた。

「今さら何だよ、あの時も謝ってくれたじゃないか」あの時とは試合終了後の泣きじゃくっていた時のことだろう。

「いえ、あの時は泣いてるだけで、しっかりお詫びできていませんでした」また泣きそうになっていた。

「あの涙で充分蓑田の気持ちは伝わったよ」

「いえ、しっかりお詫びしないと、僕の気が済みません」

「そうか、じゃあこれで気が済んだか?」

「えっ、いや、まだ……」これで済ませていいものかと頭の中で色んなものがグルグルと回り言葉が出なくなり俯いてしまった。

「あれはナイスファイトだったなぁ。あの打球によく追いついたよ」間宮はあの場面を思い出すように遠くを見て言った。

「あ、はい、ありがとうございます。けど、その後が……、ダメでした」蓑田は一度顔を上げたがまた俯いてしまった。

「気にすんな。野球にエラーはつきものだ。完璧な人間なんていないんだし」

「でも、あそこは大事な場面でしたから。僕がアウトにしてれば、先輩方はもう一試合甲子園で野球が出来たのにと思うと……」蓑田はぎゅっと両拳を握り下を向いた。

「甲子園のマウンドで投げられたのは、みんなのおかげだ。俺はすごく満足してるし、蓑田やみんなに感謝してる。確かに悔しさはあるけど、それは来年蓑田らが甲子園初勝利してくれればそれでいい」

「あっ、は、はい」蚊の鳴くような声になってしまった。

「なに? 元気ないな。俺に申し訳ないと思うんなら、来年は甲子園初勝利することをここで約束しろよ」

「……」蓑田は俯いていた。

「ハァー」と間宮がため息をついた。

「すいません」蓑田はぎゅっと両拳を握った。

「蓑田、まさか責任感じて辞めるなんて言うなよな」

「いえ、責任とかじゃなくて……、そんなカッコいいことじゃなくて……」

「じゃあ、なに?」

「ただ、野球が怖くなったんです」

「怖い?」間宮の顔がめずらしく険しくなった。

「はい、またエラーしそうでボールが飛んでくるのが怖いんです」

「ハァー、何甘えたこと言ってんだよ」

「甘えてますか」

「そう、甘えだ」

「けど、僕は……」

「みんな怖いんだよ」間宮は蓑田の言葉を遮るように大きな声を出した。いつもクールな間宮らしくない怒声だった。

 蓑田はビックリして身を竦めた。

「みんな怖いんですか」身を竦めたまま間宮の顔を覗き込むように訊いた。

「そう、だから、練習するんだよ。それから……」

「あっ、はい」

「それが、楽しいんだよ。今辞めたらもったいない。やっと野球の怖さがわかったところだ。これから本当の楽しさがわかる」間宮が蓑田の肩に手をおいた。間宮はいつもの優しい表情にもどっていた。

「間宮先輩でも、怖いと思うんことがあるんですか」

「当たり前だ。いつも怖いと思ってる。あの場面でもストライクが入らないんじゃないかと腕が振れなくなってた」

「そんな風には見えませんでした。先輩は堂々としてるように見えました」

「全然。あの大河内ってバッターのスイングが速いからホームラン打たれそうで怖かったよ。それに、大河内の顔が怪物みたいでデッドボールでも当てたら殺されるんじゃないかとビビってた」

 間宮はニコニコと笑って蓑田の顔を見た。蓑田の表情に少し笑みが浮かんだのを見て続けた。

「けど、勇気を振り絞って山崎を信じてミットめがけて投げたんだ。結果を怖れないで思いきり投げた」

「そんな思いでマウンドに立っていたのに、それを僕のせいで台無しにしてしまいました」蓑田はまた深々と頭を下げた。

「それを言うなって。それが野球だから。怖いけど面白いんだ。だから辞めるなよ」

「え、あ、はい……」

 

『そう、怖いけど面白いんや。それを演出するんが、わしら魔物や。これを乗り越えないと、あんたは絶対に後悔する』

 

 蓑田は間宮と別れた帰り道、間宮には辞めるなと説得されたが、やっぱり続ける勇気は持てなかった。

「俺は、間宮先輩みたいに強くなれないよ」そう呟いた。

 


キャッチャー山崎

 机の上に放置していた携帯が鳴っていた。蓑田はベッドに横たわったまま一時間動かさなかった体を無理矢理起こし、読んでいた漫画本を枕元にポンと置いて立ち上がった。机の上の携帯を手にとった。メールが届いているようだ。

「ハァー」とため息をついてから、携帯を操作しながらベッドに腰を下ろした。

 キャッチャーの山崎からのメールだった。そろそろ来るかなと思っていた。見なくてもメールの内容は見当がつく。メールを開けるか、一瞬悩んだが指は勝手に動いていた。

『野球部辞めるって本当?』件名もなく本文にこれだけが入っていた。

「やっぱりな」蓑田はそう呟いてから机の上に立て掛けてある写真に視線をやった。甲子園出場の時に撮った記念写真だ。前から二番目右端に映る自分の姿とその隣の山崎に視線を集中させた。二人とも日に焼けた顔を凛々しく作っていた。充実感に満ちたいい表情だ。

 写真を撮る寸前までは、お互いに脇腹をくすぐりあい笑いを堪えたり吹き出したりと、はしゃいでいた。

「じゃあ、撮りまーす」とカメラを向けられた瞬間に二人ともキリッと凛々しい顔を作った。写真を撮り終えると、また顔をグシャグシャにして堪えていた笑いを吹き出した。一ヶ月程前のことだけど遠い昔に感じた。

 野球部を辞めることを山崎に相談してから監督に伝えるつもりだったが、山崎から返ってくる言葉は想像できたので相談するのをやめた。

 今、山崎からのメールを見て、相談しなかったことに後ろめたさのようなものを感じ胸に重くのしかかったが、相談していたらもっと重たいものがのしかかっただろう。

 今届いたメールにどう返信したらいいのだろうか、と坊主頭をボリボリと掻いた。。

 もし相談したら、山崎のことだから親身になって悩んでくれるだろう。野球を続けるように説得してくれるだろう。いっしょに頑張ろうと言ってくれるだろう。けど、今の自分にはそれに応える自信がない。

 

『あー、そうなんだ。ごめんな』

 蓑田は結局、何も思いつかなくて簡単にそっけなくメールを返した。最後に『ごめんな』といろんな思いをこめて付け加えた。

 

 山崎は、蓑田と同じ二年生で、あの試合にキャッチャーで出場していた。二年生で出場していたのは山崎と蓑田の二人だった。

 そして新チームのキャプテンは、山崎でほぼ決まっていた。山崎もそのつもりで、自分がキャプテンになったら副キャプテンは蓑田にやってほしいと言っていた。

 山崎と蓑田は中学の時からいっしょに野球をやっていた。中学の時の山崎はエースで四番、そしてキャプテンだった。

 高校に入ってからもピッチャーとして頑張っていたが、一年前に肩の強さを買われてキャッチャーにコンバートされた。その時、山崎はピッチャー失格だなと言って落ち込んでいた。落ち込む山崎を蓑田は元気づけた。

「ピッチャー失格なんかじゃないと思う。監督はヤマはキャッチャーに向いてると思ったんだよ。俺もヤマはキャッチャーに向いてると思う。だから落ち込まないで頑張れよ」そんなことを偉そうに言っていた。

 真面目で練習熱心な山崎は、すぐにキャッチャーとして上達しレギュラーになった。体は大きく肩の強い、そして周りを見て冷静に状況判断できる繊細な性格はキャッチャーに向いていたのだろう。

 野球センスのある山崎ならどのポジションでもレギュラーになれる。下手くそでミスを怖れながら必死で食らいついてる自分とは違う。だから今の自分の気持ちは山崎にはわかってもらえないだろう。このまま野球部を続けても自分はチームの足を引っ張るだけだ。

 携帯が鳴って、また山崎からのメールが届いた。

『絶対辞めるな。新チームで一緒に甲子園目指そうぜ』メールの最後に笑った絵文字がついていた。山崎が絵文字をつけたメールを自分に送るのは多分はじめてだろう。

 蓑田は肩を落とし、しばらくぼんやりと宙を見あげた。返す言葉が浮かばない。

 すぐにまた、携帯が鳴った。

『絶対辞めるな。暴投したくらいで責任を感じて辞める必要はない。それよりこれから頑張ってる姿を見せる方が先輩たちへの恩返しになるんだ』また絵文字付きだった。『がんばろー』みたいな絵文字だった。

「そんなのわかってるよ」蓑田は携帯をベッドに放り投げた。

「その自信が持てないんだよ」机の上の写真に向けて叫んだ。

 責任を感じて辞めるんじゃない。野球が怖くて嫌になったんだ。だから、そっとしておいてくれ。お前に俺の気持ちはわかんねぇんだよ。そのままベッドに寝そべって組んだ両手を枕にし天井をぼんやりと眺めていた。

 携帯がまた鳴り出した。今度は電話のようだ。

「ハァー、何なんだよ」

 体を起こしベッドの隅で叫んでいる携帯を見た。出るべきか悩んだが、いつかは話さないといけないと思い携帯を手にした。

「もしもし」タイヤから空気が漏れるような声になった。

「ミノか?」山崎の声は澄んだ明るい声だった。

「あー、俺に電話してんのに、当たり前だろ」

「いやー、メールの返信ないからさぁ」

「ごめん、ちょっと母ちゃんに用事頼まれてて見てなかった」嘘をついたが多分ばれている。

「そうか、そうか。忙しいのに悪いな。今は大丈夫か」

「あー」

「ミノ、元気出せよ。あれくらいのエラー気にすんなよ」

 いきなり本題に入ってきて、「あれくらいのエラー」という言葉にイラついた。 俺にとってはそんな軽いもんじゃない。

「そう思いたいよ」少し刺のある声になった。

「なに、イライラしてんだよ。これからいっしょに新チームで頑張ろうぜ」

「いーや、やめとく」

「なに言ってんだよ。そんなの俺が認めない」

「俺が認めない」という言葉にイライラが爆発した。

「お前に俺の気持ちなんてわかんないんだよ。野球が上手くて監督や先輩からチヤホヤされてるお前と下手くそな俺とは住む世界が違うんだ。だから、もう放っといてくれ」

 そう言って電話を切った。携帯をベッドに投げつけた。ベッドで跳ねて床に落ちた。

「蓑田は足が速いから羨ましい。守備範囲も広いし華麗でかっこいいよ。俺は足が遅いからみんなに迷惑かける」

 電話を切った後、一年前、山崎にそんなことを言われたことを思い出した。

 

 

 

「そんなやけになるなよ……」話している途中に電話が切れていることに気づいた。携帯を耳からゆっくりと離して通話終了のボタンを押した。山崎は肩を落とした。

「何でだよ」携帯に向かってそう呟いた。その後、ベッドに横たわって枕元に置いてあるスクラップブックを開いた。

《友野高校優勝。甲子園初出場決める》

 一ヶ月前の新聞記事だ。記事に載ってある写真には山崎と間宮が抱き合い、その横で嬉しそうに走ってくる蓑田の姿が写っている。

 あいつは足が速いし守備も上手い。バッティングだって速球でも変化球でも上手く打つのに、もったいないよ。俺なんて足は遅いしどんくさいし変化球は全く打てないのに。

 山崎は野球部に入部当時はピッチャーを希望していたが、ひとつ上には間宮先輩という絶対的なエースがいて、同じ歳には坂本、宮田というすごいピッチャーがいた。自分の出番はないのかなと悩んだが他のポジションを守れる自信がなかった。

 一年前、監督からキャッチャーをやれと言われたが、本当は嫌だった。ピッチャー失格だと言われたような気がしていた。足も遅いし守備も下手くそだから守れるポジションがなかったので、とりあえずキャッチャーをやらされるんだなと思った。

 その時、蓑田が励ましてくれた。すごく嬉しかった。キャッチャーとして頑張ってみようと必死で練習した。キャッチャーが楽しくなって、今はキャッチャーで良かったと思っている。

 そう思えるようになったのは蓑田のおかげだ。

 蓑田は中学の頃はショートを守っていた。蓑田の守備は華麗でかっこよかった。今はセカンドを守っているがセカンドでもかっこいい。新チームになったらショートの野口先輩が引退するので、もしかしたらまた蓑田のショートの華麗な守備が見れると思っていたのに。

 蓑田には辞めてほしくない。自分がキャプテンになって蓑田が副キャプテンで、もう一度甲子園の土を踏みたい。

 このスクラップブックに新しい新聞記事を追加したい。そこには蓑田の姿があってほしい。


副キャプテン

 山崎は職員室と書いてある色褪せたプレートを一瞥してから弱々しくノックしゆっくりとドアをあけ覗き込むようにして中に入った。夏休み中で先生の姿もまばらだった。左側半分だけ蛍光灯が点いている。

「失礼します」グラウンドで出す声の十分の一位の声の大きさだ。

 五台の事務机を連ねた島が六つ並ぶ。その奥正面には教頭の机があり、その後ろにホワイトボードがあった。

『祝 野球部甲子園初出場』太く力強い文字でホワイトボードに書いてあった。それを見て少し誇らしくなった。

 その下に一回戦八月十日応援者とあり、その横に先生方の名前がずらりと書いてあった。二回戦と書かれた横は空白だった。少しだけさびしくなったが、職員室で誇らしく居心地のよさを感じたのははじめてかもしれない。

 左奥の机の島の方を見て呼び出された野球部監督の重光の姿を見つけた。重光は何やら書き物をしているようで大きな背中が丸く小さくなっていた。書き物に夢中なようで山崎が入ってきたことに気づいていない様子だ。山崎は重光の方へゆっくりと歩を進めた。

 重光の向かえの机にもう一人先生が座っている。音楽の山中先生だ。山中先生はブラスバンド部の顧問で甲子園ではアルプススタンドからのブラスバンドの応援を仕切ってくれた。若い女の先生で男子生徒から人気がある。山崎もお気に入りの先生だ。黒目の大きな瞳とぶつかって少し胸が跳ねた。

 山崎の存在に先に気づいてくれた山中が山崎に微笑みかけてから、目の前の本立ての上に首を伸ばし重光に声をかけてくれた。

「重光先生、野球部の生徒が来てますよ」透き通るきれいな声だった。

 重光は、その声でふっと顔をあげて山中に視線を向けた。山中が重光と目を合わせてから、視線を山崎の方に向けた。

「あっ、あーそうか」重光はそう言ってから山崎の方に振り向いた。

「もうそんな時間か」そう言ってから胸を張り両手をグッーと伸ばし「フゥーッ」と息を吐いた。

「監督、おはようございます」

「おっ、忙しいのにすまんな。まぁまぁ、座れや」声がつぶれて少し掠れた声だった。重光は自分の座る隣の机の椅子を引っ張り出して山崎の前につきだした。

「あっ、はい。失礼します」山崎も掠れた声を出して、重光が出してくれた椅子を引き寄せてどしっと腰を下ろした。椅子が山崎の体重に悲鳴をあげるようにキュッと鳴った。

「甲子園はやっぱりいいところだったな」机の上を片付けながら懐かしむように重光が言った。

「はい、最高の舞台でした。負けてしまいましたけどすごくいい経験になりました」山崎の頭にはホームベースから見渡す黒土とそこに浮かぶ白線、白いベース、緑の芝、そして黒くそびえ立つバックスクリーンが浮かんだ。

「もう一回、あの球場で野球がやりたいな」

「はい、絶対に」口元をキュッと引き締めた。

「みんなすごくかっこよかったわよ。また来年も頑張ってね」山中が立ち上がってきれいな透き通る声をかけてくれた。黒い瞳がキラキラと輝いて吸い込まれそうになった。

「はい、ありがとうございます。ブラスバンドの応援に勇気をもらいました」山崎は鼻の下を伸ばしていた。

「山中先生、来年もまたブラスバンドの応援お願いしますね」重光も目尻を下げて鼻の下が伸びていた。

「はい、ぜひ、喜んで」山中はそう言って、二人に笑みを送った。

 重光も山崎もグラウンドでは決して見せないような間の抜けた顔になっていた。

「それでは、わたしはお先に失礼しますね」山中は鞄に荷物を片付けながら言った。

「えっ、もう帰っちゃうんですか」重光が残念そうに言う。

「はい、今日はこれで。野球部頑張ってくださいね」

「はい、ありがとうございます。失礼します」山崎が立ち上がって頭を下げた。

「お疲れさまでした」重光も腰を上げて両手を腰に当て首をベコリと下げた。

「それじゃあ、また」山中はそう言ってドアへ向かった。ドアの前で一度振り返り微笑んで右手をヒラヒラと振ってから職員室を出ていった。

 二人は山中の後ろ姿に見とれて目で追っていた。山中が振り向いた時に笑みを返しドアから出ていくのを名残惜しそうに見ていた。

「ハァー」重光が閉まったドアを見てため息をついた。

 職員室の空気が色褪せたような気がした。二人はドアから視線を剥がして顔を合わせた。

「よーし、はじめるか」重光が腰を下ろし気持ちを切り替えるように両膝を叩いた。

「はい」山崎も椅子に腰を下ろし重光と向き合った。

 二人の表情はグラウンドに立つ時の表情に変わった。

「山崎、新チームも明日から始動だ。キャプテン、よろしく頼むな」

「はい、精一杯頑張ります」山崎は椅子に座ったまま背筋をキュッと伸ばした。

「あとな、山崎は生真面目だから、抱え込みすぎてパンクするんじゃないかと心配しているんだ」重光は眉の上あたりを掻きながら心配そうな表情を浮かべた。

「いえ、大丈夫です」

「そうか、まぁ、大丈夫だとは思うんだが、キャッチャーというポジションはいろいろと負担も大きいからな、困ったときは一人で抱え込まないで俺でもいいし、他の部員でもいいから相談しろよ」

「監督」両手を膝において少し前のめりになった。

「なんだ?」

「副キャプテンはどうするんですか」

 山崎がそう言うと重光はニヤリと笑みを浮かべ人指し指を立てて山崎に向けた。

「それなんだ。今日はそのことで来てもらったんだ。新チームは副キャプテンが決まらないままのスタートになってしまったから早く決めないといけないんだ」

「やっぱり、そうでしたか」

 山崎は重光から新チームのキャプテンの話を持ちかけられた時に副キャプテンは蓑田にしてほしいとお願いしていた。その蓑田が野球部を辞めると言ってきたと重光から聞いた。辞めるなと説得しようと思ったが自分ではうまくいかなかった。

 監督から蓑田に辞めずに副キャプテンとして頑張るように説得してほしかった。たぶん監督も同じ気持ちで今日呼び出したのだろう。これから蓑田をどう説得して副キャプテンにするのかを話し合うためのミーティングだ。山崎はそう思っていた。

「副キャプテンは蓑田になってほしいんです」

「そうか、そうか、気持ちはわかるがな、うーん、……」重光はそう言って困ったように宙に視線をやった。しばらく言葉が出てこなかった。

 山崎は嫌な予感がした。

「監督、蓑田は……」蓑田が辞めることが決まってしまったのか訊こうと思ったが怖くて訊けなかった。

「蓑田なぁ」重光はずっと宙に視線をやったまま山崎の方を見ようとしなかった。

 山崎は重光の困ったような表情をじっと見ていた。蓑田の辞めることが決まってしまったんだろうか。監督はとめる気はないんだろうか。

「蓑田に絶対野球部を続けてほしいんです。ですから、監督からも説得して下さい。蓑田を副キャプテンにして下さい」山崎は椅子から立ち上がって深々と頭を下げた。拳に力が入った。

「山崎、落ち着け。今はまず副キャプテンの話だ。蓑田の話はその後だ」重光の眉がハの字になっていた。

「副キャプテンは蓑田しかいません。ですから、あいつに野球部を続けさせることが先決です」

「心配しなくても蓑田は野球部に残るはずだ」

「えっ、蓑田、残りますか」

「ああ、残る。しかしだ」重光は両手を両ひざについて少し前のめりになって山崎の目を覗き込んだ。山中先生に見せていた目とは違い、爬虫類のような目になっていた。監督がこんな目をする時は逆らえない時だとわかっていた。

「は、はい」山崎は肩をすくめた。

「俺が考えてる副キャプテンは蓑田じゃない」

「えっ、……」山崎は目を丸くして言葉がでない。

「俺が思っている副キャプテンは蓑田じゃないんだ」重光がもう一度繰り返した。

「監督も蓑田を副キャプテンにするつもりだと思ってましたけど」エアコンの音にかき消されそうな声だった。

「ハハハ、そうか、そうか。副キャプテンは蓑田と考えたこともあったがな、やっぱり違う。あいつじゃない」

「僕は副キャプテンは蓑田しかないと思ってます」少し抵抗しようとするが声は小さいままだ。

「気持ちはわかるがな。でもな、違う」

「だ、誰、ですか」

「下山だ」

「えっ、し、下山……、ですか」ビックリして声が裏返った。絶対、下山はない。

「ビックリしたか」重光は笑っていた。

「はい」監督は冗談を言っている。山崎はそう信じたかった。

「冗談じゃないぞ。本気だぞ」

 山崎の頭に下山がバントのサインを無視した時のことが頭に浮かんだ。

「下山はチームの輪を乱しそうで心配です。副キャプテンは蓑田にして下さい」背筋を伸ばし両拳を膝に置き力を込めて言った。

「いや、下山だ」重光は腕を組んで、グッと胸を張った。

「本当に下山ですか」少し情けない声になった。

「あー、もう決めた」

「でも、なぜ下山なんですか」

 重光は腰を浮かせて座り直し背筋を伸ばした。一度視線をホワイトボードにやってから、視線を山崎に戻して話しはじめた。

「蓑田も山崎も周りからの信頼は厚い。それは俺もよくわかっている。ただな、お前たち二人は少しおとなしいんだ」

「おとなしい……、ですか?」

「そう。少し闘争心が足りないんだ。その点、下山はガッツを前面に出す。それが下山の魅力なんだ。下山みたいなタイプと山崎が組んだ方が面白いチームになると思うんだ」

「そうですか……」山崎は呟くように言ってから自分の足元に視線を落とした。

 山崎はそのまま彫刻のように体が固まり黙りこんでしまった。重光も黙って腕を組んで山崎の様子を見ていた。

「……」

「……」

「大丈夫だ」重光が堪えきれず山崎の坊主頭に手を置いた。

「下山、ちゃんとやってくれますか」視線を落としたまま言った。

「ああ、下山が副キャプテンになれば、みんな下山の本当の良さがきっとわかるはずだ。下山は上に立てば、きっと変わる。闘争心を出して、みんなを引っ張ってくれる。山崎とも上手くいくはずだ。そして、きっと新チームは下山に助けられる時がくる」

「バントのサインを無視した時に監督は怒ってたじゃないですか」下を向いたままボソボソとした声だ。

「確かに、あれは腹が立った。だがな、あの場面で思いきりスイングする下山の勇気が魅力なんだ。新チームにはあの勇気が必要なんだ」

「勇気ですか?」顔を上げて重光の方を見た。

「そう、あの勇気だ。もし山崎があの場面でバントのサインじゃなかったらどうした? どんなことを考えた?」

「やはりゲッツーが怖いので一二塁間に転がして最悪でもランナーを進めようとしたと思います。僕の足が速ければセーフティバントも考えますが」

「そうだろうな。蓑田も同じように考えただろう。俺もあの場面はゲッツーが一番怖かった。だからバントのサインにしたんだ。実はあの時、俺も弱気になっていたんだ。だから攻めの気持ちで送りバントのサインを出したわけじゃないんだ。ゲッツーが怖くて出したサインだ。下山を信頼してなかったのかもしれん」

「でも、あそこはバントのサインで正解だったと思います」

「しかし下山は違った。あそこで一気にたたみかけようとしたんだ。結果それで得点できたのも事実だ」

「それは結果論です。もしあそこでゲッツーにでもなっていたら流れが相手に行ってしまったかもしれません」

「そうかもしれん。ただな、下山のああいうのも新チームには必要なんだ。サインを無視することはいかんが、ポジティブな結果を考えて、結果を怖れずプレーする姿勢はきっと新チームを強くしてくれる。俺は下山のいいところをもっと引き出してやろうと思っている」

 山崎はまた下を向いて黙ってしまった。頭の中に下山の顔と蓑田の顔が怒ったり笑ったりして交互にあらわれグルグルとまわっていた。

 山崎には下山と二人でキャプテンと副キャプテンとしてやっていくことが想像できなかった。蓑田が辞めると聞いた時、蓑田じゃなく下山が辞めてくれればいいのにと思った。

 下山は蓑田とよく口論していた。そんな時、山崎はいつも蓑田に加勢した。自分がキャプテンで蓑田が副キャプテンになれば下山は浮いた存在になり孤立して居づらくなり辞めてくれるんじゃないか。そんなことを考えたこともあった。下山はチームの足を引っ張る存在だから辞めてほしいと思った。

 しかし、本当は下山の強気でポジティブな性格に嫉妬していただけかもしれない。自分達が下山をあーいう風にしてしまったのかもしれない。監督の言うように下山の良いところが出ればチームは強くなるのかもしれない。

 しばらくして覚悟を決めたようにフッと短く息を吐き顔を上げ重光に顔を向けた。

「わかりました。下山といっしょに頑張ります」

 それを聞いて重光がニヤリと笑みを浮かべた。

「よーし、ありがとう」重光が頭を下げてから右手を差し出した。山崎も右手を出し、力いっぱい重光の右手を握りしめた。

「これで副キャプテンは決まった。あとは蓑田だな」

「本当に蓑田は野球部続けますか?」

「大丈夫だ。今ごろは続ける気になってるはずだ」

「本当ですか」

「ああ、俺が刺客を送っておいたからな」重光は右の口角を上げて笑った。

 


刺客の魔力

 山崎が心配して電話をくれたのに、苛立ちをぶつけ一方的に電話を切ってしまった。

 一段と気が滅入って落ち込んだ。

「あーーー」倒れこむようにして枕に顔を埋めた。

 目を閉じると今でもあのシーンが浮かんでくる。ファーストの光山さんがひきつった顔をしながら自分の投げたボールに必死に飛び付いているあのシーンだ。

 長身の光山さんが目一杯ジャンプしても全く届いていなかった。瞬間、目の前が真っ暗になり、その後の事は全くと言っていいほど覚えていない。

 試合終了から今まで、誰一人自分がエラーしたことを責める者はいなかった。反対にみんなが優しくなったように感じた。それが余計に辛かった。下山以外はみんな自分に対して腫れ物にさわるような接し方だった。

 床に転がったままの携帯が、また鳴っていた。山崎だろうか。さっきの態度を謝るべきだろうなと思い、ベッドから体を起こし携帯を見た。床に放置されていたことへのクレームを言うかのように携帯は激しく鳴っていた。「ハァー」とため息をついてから携帯を拾いあげ画面の表示を見た。そこには『山崎』ではなく『板野さん』と出ていた。

「えっ」意外な人からの電話に一瞬目を見開いた。目を擦ってもう一度見た。やっぱり『板野さん』と出ている。

 板野さんから電話がかかってくることなど考えられない。自分が憧れていることを知った誰かのイタズラかもしれないと思った。しかし、『板野さん』と表示が出ているので板野さんの携帯からかかってきていることは間違いない。

 イタズラかもしれない。出ても大丈夫だろうか。憧れの先輩からの電話だ。早く出ないと切れてしまうのはもったいない。胸が二種類の感情でざわつく。震えだした指で通話のボタンを押した。

「もしもし」警戒するような声で蓑田は電話に出た。

「蓑田くん、お疲れー」いきなりハスキーな高い声が耳に飛び込んできた。何度も聞いた声だ。間違いなく野球部マネージャー板野里美先輩の声だ。

 野球部の練習中や試合の時に板野先輩が両手をメガホンのように口にあてグラウンドに向けて飛ばす声を何度も聞いた。蓑田が聞き間違えるはずはない。蓑田はどんなに苦しい時でも辛い場面でも、このハスキーな声を聞くと、水を得た魚のように息を吹き返しハツラツと元気になった。

 黒髪をポニーテールにし、日に焼けた顔から白い歯が覗く。切れ長な二重瞼から黒い瞳がキラキラと輝く。背丈は蓑田の肩くらいまでしかないが、小さな体から出るハスキーな声がグラウンド中に響き渡った。その声を聞くだけで野球部員たちは元気になった。特に蓑田はそうだった。蓑田にとって板野の存在は大きかった。

 蓑田の胸が今までとは違う暴れ方をはじめた。キュッと締め付けられそして胸の奥から熱いものがこみ上げてきた。

 蓑田は板野の声をグラウンドでは何度も聞いていたが、板野と直接話したことは数えるほどしかなかった。その数えるほどの会話も短い挨拶程度のものばかりだった。蓑田はその短い会話だけでも顔を真っ赤にし胸の暴れをおさえることが困難になっていた。

 その板野から直接電話がかかってきたのだ。急に憧れの先輩マネージャーからの電話に蓑田は直立不動になっていた。

「い、い、板野先輩ですよね」

「そうよ」

「ど、どうも。お疲れさまです」ペコリと頭を下げた。

「なんか、元気ないらしいわね」ハスキーな声がいつもより低い声になった。

「あ、いえ、そんなことありません。げ、元気です」

 板野が首を傾げながら横目で見て口元に笑みを浮かべている姿が蓑田の頭の中に浮かんだ。板野がたまに見せる仕草だ。二重瞼の切れ長な目で見られると、蓑田はいつも興奮していた。

「うぉー、板野先輩だーー」と心の中で叫んだ。

「うそ。エラーして落ち込んでるって聞いたんだけど」

「あ、そ、そうですね。落ち込んでるというか、先輩方には申し訳ないことをしたと思って反省してたんです。板野先輩申し訳ありませんでした」電話を強く握りながら深々と頭を下げた。

「謝らなくていいわよ。それより野球部辞めるって、それ本当なの」

「えっ、あーっ、えっと、一応そのつもりです。はい」口がカラカラになっていた。辞めると決めていたはずなのに、なぜか『一応そのつもり』とつけ加えていた。

「辞めるのもったいないよ。エラーしたくらいで辞めなくてもいいじゃない」

「あ、あ、はい。で、でも、あの試合、僕のせいで負けて、先輩方は引退が早くなってしまいましたから……、それで、僕が野球を続けるのは……、ちょっと……、どうかなと思いまして、……」

「そんなの仕方ないじゃない」

 蓑田が話しているのを遮るようにハスキーな声をかぶせてきた。

「仕方ない……、ですかね……?」

「そう。蓑田くんも必死でプレーしてたんだから。そうでしょ。わざとエラーして負けようと思ったわけじゃないでしょ」

「あっ、はい。そりゃもちろん。あの時は必死でした」蓑田は額に右手を当てた。汗で右手がべったりと濡れた。その手をズボンで拭った。

「じゃあ、続けましょ。決まりね」

「でも、あのエラーで、野球が怖くなりましたし、ちょっと野球が嫌いになったかもしれません」

「はぁー、何バカなこと言ってんの。そんな情けないこと言わないでよ」

 眉がハの字になっている板野の顔が浮かんだ。

「情けない……、ですか?」

「うん、情けない。そんな蓑田くん、嫌い」

「き、き、嫌いですか」声が裏返った。

「うん、大嫌い。だからそんな弱気なこと言わないで。いつもの蓑田くんに戻って。お願い」

「いつもの僕にですか」

「そう、いつもの蓑田くん。守備が上手くて、一、二年生をうまくまとめて、私たち先輩にも気を使ってくれた、強くて優しくて思いやりある蓑田くん」

「僕って、そうでしたかね?」口元がにやけてきた。

「そうよー、カッコいいー、蓑田くん」

 カッコいいと言われてゴクリの喉を鳴らした。

「そ、そうですか、カッコいいですか?」

「そう、だから辞めないでね」

「わ、わかりました。野球部を続けます」

「よーし、じゃあ、明日から新チームで頑張ってね」

「わかりました」

「山崎くん、心配してたわよ。すぐに電話してあげて。監督にはわたしから伝えておくから」

「はい、山崎に電話します。ありがとうございました」

「わたしは引退しても、卒業しても練習に顔出すからね。試合も応援に行くから、絶対頑張って」

「わ、わかりました。ぼ、ぼく、これからも必死で練習して、また甲子園に行きます。絶対行きます。板野先輩を甲子園に連れていきます」

「じゃあ、約束ね。今度、気晴らしに遊びに行こうか」

「え、えー、ぼ、ぼくと先輩で、ですか」

「うん、わたし達三年生で野球部の打ち上げやるから、その時においでよ。山崎くんも呼んであげて」

「あ、あー、み、みんな一緒に、ですよね」

「なに、みんなと一緒だと不満なの」

「い、いえ、そ、そんなことないですが……、板野先輩と二人っきりかなと、ちょっと思ったもんで……、はい」蓑田は頭をかいた。

「二人っきりで遊びに行ってもいいわよ。その代わり二度と弱音を吐かないこと」

「は、はい、絶対に弱音を吐きません」

 

『あらー、鼻の下伸ばして。こいつも単純なやつやな。わしら魔物よりも女の魔力の方が強烈みたいやなぁ。まっ、わしらはその程度の扱いにしてくれるのがありがたいわ。これから頑張って来年甲子園で出会おうな』

 


最後の夏 県予選

『甲子園の切符を手にするのはどちらの学校でしょうか? 二十年ぶり十二回目の甲子園を目指す名港商業か、二年連続二回目の甲子園を目指す友野高校か? まもなく試合開始です』

 

 友野高校のスターティングメンバー

 一番ショート 下山

 二番セカンド 蓑田

 三番センター 小宮山

 四番レフト 榊原

 五番キャッチャー 山崎

 六番ファースト 宮田

 七番ライト 大原

 八番サード 相馬

 九番ピッチャー 坂本

 

 両手を膝にあて円陣を組む友野高校の選手たち。その真ん中で山崎が地に視線を向けて声を張り上げた。

「ここまで来たら絶対に勝つ。いくぞー」

「ウォー」友野高校の円陣から発せられた声は球場全体に響き渡った。

 みんな気合い十分。これなら大丈夫だ、絶対に勝てる。山崎はそう思って円陣から離れたが、すぐに対戦相手の名港商業の円陣から自分たちよりも大きく気合いの入った声が山崎の耳に飛び込んできた。

「ウォーーーーーーー」サイレンのように長く大きな声が響き渡った。

 山崎は名港商業のベンチ前に視線をやった。名港商業は勢いがあるなと、口元を引き締めた。負けられない一戦だ。

 

 五回裏終了 友野高校0対0名港商業

 

 五回裏を終了して両チーム得点はゼロ。ヒット数もお互いに二本ずつ。手に汗にぎる投手戦。戦前の予想では五分と五分。名港商業は打撃のチームで友野高校はピッチャーを中心とした守りのチーム。打撃戦になれば名港商業が有利だが投手戦なら友野高校有利だと新聞が勝手に予想していた。

 監督の重光は相手投手はスタミナに不安があるはずだから僅差勝負なら後半にチャンスがまわってくると信じていた。しかし、油断は禁物だ。名港商業は準々決勝、準決勝と自慢の打撃が爆発して強豪校を倒して勢いに乗っている。打ちはじめると止まらない。

 地方新聞のスポーツ面には『名港商業、古豪復活』の文字が踊っていた。

 

 昨年の紙面を思い出す。『ミラクル友野高校』

 

 県大会を勝ち進む度に、その文字がドンドン大きくなっていった。その紙面に目を輝かせていた選手たちは一層気持ちが高まり対戦相手は、その勢いにのまれているのを感じた。そして昨年はその勢いのまま優勝することができた。

 今年は立場が変わった。相手の勢いを受け止める側になった。追われる立場になるとプレッシャーも半端ではなく辛いものなんだと、この一年間で重光は痛感した。

 新チームになってすぐの秋の大会は三回戦で敗退した。次の日の紙面には『夏優勝の友野高校、早くも敗退』とあった。それを見ただけで呼吸が困難になった。キリキリと胃が痛かった。グラウンドに行くのが怖くなった。この頃から胃薬が欠かせなくなった。

 毎年のように甲子園に出場する監督は、どんな精神力をしているのだろうか? 自分とはまったく次元の違う化け物たちなのだろうと思った。

 

 この試合、ここまでは名港商業の打線をピッチャーの坂本が沈黙させてくれている。しかし勢いにのっているチームだ。今は沈黙しているが、ひとつきっかけを与えてしまうとこのチームは止まらない。何とか先制して、完全に相手の勢いを消したい。

 

 球場の整備が入る。少しリラックスさせようと、ベンチ前で選手たちを円にして地面に座らせた。重光は膝を折って選手全員の顔を見渡した。みんな日に焼けて目がギラギラと輝いている。口元には笑みが浮かんでいる。きっと大丈夫だ。彼らもこの一年間プレッシャーと戦ってきたはずだ。よくここまて頑張ってくれた。きっとこの経験は彼らの将来の肥やしになるはずだ。

 

「ここまで坂本が相手の勢いを止めてくれている。ここまでは、うちのペースだ。後半は絶対うちが有利になる。あとは、この回だ。この回が勝負だ」

「はい」

「じゃあ、思い切っていけ」

「はいーっ」全員の元気な声を聞いてから立ち上がりベンチに引っ込んだ。ペットボトルのフタを開け水を口に流し込んだ。口の中が冷えて気持ちいい。自分でも気づかなかったが相当喉が渇いていたようだ。

「フゥー」前半でだいぶ神経をすり減らした。

 ベンチ前では山崎を中心に円陣を組んで、声を張り上げ守備位置へと散っていった。

 こいつらは元気だ。絶対に勝てる。守備位置へと散っていく選手の背番号に視線を泳がせた。

 

 ここまで試合に動きはないが六回の攻撃は両チームとも打順は三巡目で一番バッターからだ。この回がポイントになる。六回表をゼロで抑えれば裏にチャンスがくるはずだ。

 坂本の投球練習を仁王立ちで腕を組んでじっと見つめていた。五回までと変わりなくボールに切れがある。

 

《六回の表、名港商業の攻撃は一番センター大隣くん》

 

 この大隣という選手は体は小さいがバットコントロールが抜群にうまいしパンチ力もある。そして一番怖いのは走力だ。塁に出すとやっかいだ。

「このバッターは、絶対に塁に出すなよ。要注意の選手だぞ。慎重に、慎重にな」仁王立ちのまま坂本に念を送るように呟いた。

 坂本と目が合って何度も頷いて見せた。坂本が大きく頷いた。坂本に通じたようだ。

 

「うわーっ、しまった」重光が額に右手を当てて天を見上げた。俺が坂本に変な意識をさせてしまったのかもしれない。

 

『あーっと、また完全なボールです。大隣くんに対してストレートのファーボールです。解説の沢井さん、この回の坂本くんに何か変化はありますか』

『大隣くんが足が速いので塁に出してはいけないと慎重になり過ぎたのかもしれませんね』 

 

 キャッチャーの山崎が立ち上がり、坂本に向けて肩を上下させた。

 坂本はそれを見て笑みを浮かべてから、胸を張って肩をグルリと回した。

 

『ノーアウトでランナーが一塁です。沢井さん、名港商業は願ってもないランナーが出ました。ここはどんな作戦にでるでしょうか』

『そーですね、大隣くんの足を考えると盗塁もあるかもしれませんが、友野高校のキャッチャー山崎くんも肩がいいですからね。やはりここは確実に送ってくると思います。ランナー二塁にして三番、四番に期待すると思いますね』

 

 ストライクが入らない。こんなはずじゃない。絶対出したくないバッターだったのに。監督が大事なイニングだと言ってたのに、俺は何してんだよ。

「クソー」坂本はロージンを投げつけた。

 

『二番、栗林くん、早くも送りバントの構えです』

 

 送ってくるか? これまでの名港商業の攻撃は多彩だ。盗塁、エンドラン、送りバント、なんでもやってくる。しかし、ここは送りバントだろう。決めつけるのは危険だから、ちょっと様子を見よう。山崎が坂本にサインを送る。

 坂本がセットポジションに入ってからファーストへすばやい牽制をする。大隣は楽々とファーストへ戻る。

 走る気は無さそうだな、やっぱり送ってくるのか。それなら初球は内角高めストレートだ。ボール球でいい。

 

『坂本くん、栗林くんに対して第一球を投げました』

 

 栗林は送りバントの構えのまま、内角の速いボールにバットを合わせた。バントするには難しいコースだったが、ボールの勢いを上手く殺して三塁手前に転がした。

 

『栗林くん、上手いバントです。ボールが完全に死んでいます。坂本くんとサードの相馬くんがボールをとりにいく』

 

 坂本がすばやくマウンドをおりてボールを素手でとる。やばい、間に合うか。

 山崎が慌てて「ファーストー」と坂本に大声で指示を出す。坂本はセカンドを見ることなく、素早くファーストへボールを投げた。

 

『ピッチャーの坂本くんがボールをとってファーストへ投げる。栗林くんの足が速いぞ~。微妙なタイミング、どうだー』

 

 坂本からのボールがベースカバーに入った蓑田のグラブにおさまる。蓑田は目一杯体を伸ばしている。栗林がファーストを猛スピードで駆け抜ける。二人の間に風が起こった。微妙なタイミングだ。

 

 一塁塁審の右手が上がった。「アウトー」

 

『一塁は間一髪アウトー』実況が絶叫した。

 

「フゥー」ベンチから体を乗り出していた重光が息を吐く。体の力がふっと抜けた。「ワンアウト、ワンアウト」と声を上げてグラウンドに向かって人差し指を立てた。

 

『名港商業、スコアリングポジションにランナーを進めてバッターは三番木田くんです』

 

 怖いバッターだが今日は坂本には合っていない。大丈夫だ、坂本、強気でいこう。山崎がサインをおくる。

 

 バッター木田に対して、ファール二球で追い込んだ後、一球外角に落ちる球がボールになる。

 ツーボール、ワンストライクからの四球目。

 内角胸元に構えた山崎のミットに切れのあるストレートが吸い込まれる。

『パシッ』と山崎のミットが唸る。

 

『ワンボール、ツーストライクから内角直球が決まったー、木田くん、バットが出ません。三振です』

 

「坂本、ナイスボール」山崎が坂本にボールを返す。坂本がニヤリと笑みを浮かべて山崎からのボールを受けとる。ボールがグラブに入った瞬間、ギュッとグラブに力を込めた。そして次のバッターに視線をやった。

 次のバッターがネクストバッターズサークルからゆっくりと打席に向かう。丸太のような腕と熊のような体を見て弱気の虫が体中を走る。坂本は弱気の虫を追い払うように声を出した。「ウォーシィー」

 

『よばん~、ファースト高倉くん~』

 

 ここは勝負するのか、歩かせて次のバッターと勝負するのか、山崎はベンチの重光に視線をやった。重光は腕を組んだまま、目を見開いて顎を何度も前に突き出した。いけ勝負だ、目と顎で訴えていた。

 

『ツーアウト、ランナー二塁。バッターは四番の高倉くんです。今日ヒット一本打っています。準々決勝ではダメ押しのツーランホームラン、準決勝では決勝のタイムリーツーベースと当たっています。今大会絶好調のバッターにチャンスが回ってきました』

 

 初球は低めのスライダー、ボール球でいい。山崎がサインを送る。

 坂本は頷いてセットポジションから初球を投げた。

 

『坂本くん、第一球を投げました。外角のスライダー、外れてボール』

 

 高倉のバットがピクッと動いたが、簡単にボールを見極めていた。やはりこのバッターは調子が良さそうだ。攻めにくいなと山崎は思った。

 その後、外角のストレートでワンストライク。内角高めのストレートがはずれてボール。ツーボール、ワンストライクになった。そして四球目、山崎は外角のスライダーを要求した。カウントは悪くなるがボール球でもいい。甘いコースだけは禁物だ。

 

『ツーボール、ワンストライク。ピッチャーの坂本くん、セットポジションから第四球を投げました』

 

 外角のスライダーのつもりがスーッと真ん中に入ってきた。

「うわーっ」山崎が思わず悲鳴のような声をもらした。「や、やばい」

 絶好調のバッターは甘いボールを絶対逃さない。

 

『カッキーーーーン』乾いた金属音が響き渡る。

 

『打った~。打球はレフトへ~、高々の上がった~』

 

 打球はレフトへきれいな放物線を描いて飛んでいった。スラッガーらしい打球だ。

 

『レフトの榊原くんは見上げるだけ~。先制点は名港商業の四番高倉くんのバットから生まれました~』

 

 坂本は呆然と放物線へ描くボールの行方を見ていた。レフトスタンドでボールがはね、審判が腕をグルグル回しているのを確認してから、がっくりと両手を膝に当て下を向いた。坂本の顔中から汗がポタポタと落ちてマウンドの土に染み込んでいく。

「クソー」今度は天を見上げた。汗が目にしみた。

 重光がタイムをかけベンチから伝令がとんでいった。山崎もマウンドへと向かった。

 

 六回表終了 友野高校0対2名港商業

 

 六回裏、友野高校の攻撃。二点のビハインド。何とか早く追い付きたい。

 

『六回の裏、友野高校も打順よく一番の下山くんからです。沢井さん、友野高校としては流れを変えたいところですね』

『そうですね、その為には下山くんを塁に出したいですね。彼は足もありますし長打もあります。積極的な選手ですので流れを変えるには、もってこいの選手だと思います』

 

 下山がゆっくりとバッターボックスへと向かう。

 俺の一発で流れを変えてやる。下山がバッターボックスに入る前に力強くスイングして、ヘルメットをかぶりなおしバットのグリップをギュッと握りしめた。

「初球で仕留めてやる」

 

『名港商業としては得点した後のイニングです。このバッターは大事ですね』

『下山くんは思い切りがいいですから、初球は慎重に入ったほうがいいですね』

『名港商業のピッチャー岡林くん、ふりかぶって第一球を投げました』

 

 岡林にとっては不用意な一球だった。先制したことで少し気が緩んだのか甘いコースに投げてしまった。

「よーし、もらった」

 下山は初球から打ちにいく。岡林の球威は落ちてる。甘いストレートだ。ボールを呼び込んで思い切りスイングした。完璧に捉えた打球だ。

 

『下山くん、打った~。痛烈な打球。打球はレフトポール際へ飛んだ~。ファールかフェアーか。フェアーなら文句なしのホームランだ~』

 

 三塁側友野高校のベンチが総立ちになってレフトポール際へ飛んでいくボールの行方を追う。ライナー性の鋭い打球はグングン伸びていく。伸びるにしたがってボールは左へと切れていく。

 

『フェアーかファールか』

 

「切れるなー」友野高校ベンチから声が飛ぶ。

「切れろー」名港商業ベンチからも声が飛ぶ。

 

『ボールはレフトポールに直撃してグラウンドに落ちました~。ホームラン~』

 

「よーし。やったー」友野高校のベンチ全員が両手を上げた。

 

『ホームランです。下山くん、見事なホームランだぁ。友野高校が一点を返しました~』

『このホームランは大きいですね』

 

 下山がゆっくりとダイヤモンドをまわる。三塁ベースを踏んでベンチを見た。みんながベンチから飛び出してガッツポーズをしている。ホームベースへと向かう時に次のバッターの蓑田の姿が目に入った。右手を上げて迎えてくれている。ホームベースを踏んでから蓑田が出してきた右手をパンと叩いた。

「ナイスホームラン」

「おぅ」下山は無愛想に返事してそのままベンチの方へと向かった。

「ナイスホームラン」山崎がベンチ前で下山に両手を出した。下山も両手を出してパンと両手を合わせた。

「あのピッチャー、前の回からコントロールも球威も落ちてっからよ。きっとお前でも打てるよ」下山は右の口角だけをキュッと上げた。

 

『蓑田くんがバッターボックスに入ります。友野高校としてはこのまま流れに乗りたいところです』

 

 この流れを止めないように、絶対に塁に出たい。ファーボールでもデッドボールでもエラーでも何でもいい。蓑田は一握りバットを短く持った。

 

『岡林くん、ホームランを打たれて動揺したのでしょうか。二番の蓑田くんにストレートのファーボールです。慌てて一塁側から伝令が向かいます。沢井さん、岡林くんのピッチングに変化はありますか』

『そうですね、前の回から少し疲れたのか球威が落ちてきたようですね。ボールも高めに浮き出してますのでね。下山くんが甘いボールを逃さずに打ちましたから、少し動揺していますかね』

 

 伝令の選手が一言二言話した後、岡林の尻をポンポンと叩いてベンチへと下がっていった。

 

『マウンド上の輪が解けました。岡林くんの顔から笑みがこぼれています。これで少し落ち着きましたでしょうか』

『連投の疲れもありますし球威が落ちてくるのは仕方ないと思います。後は丁寧に低めにコントロールしていくことでしょうね』

 

 三番の小宮山がバッターボックスに入る。ここは確実に送って四番榊原、五番山崎に期待する。小宮山はバントも上手い。必ず決めてくれるだろう。重光は迷うことなく送りバントのサインを出した。

 

『小宮山くん、バントしました。これはいいバンドだー、岡林くん、セカンドはあきらめてファーストへ。ファーストはアウト。ワンアウトランナー二塁です。友野高校、同点のランナーをセカンドへ進めました』

 

 小宮山は跳び跳ねるようにしてベンチにかえってきた。

「ナイスバントー」ベンチから声が飛ぶ。小宮山がみんなと手を合わす。パンパンと手を合わす音がベンチを活気づけた。

 四番の榊原がバッターボックスへと向かう。「フゥー」と息を吐いた。相手の四番がチャンスにホームランを打った。自分の頭の上を軽々と越えていった。一歩も動けない完璧なホームランだった。自分は四番に抜擢されてから全く打てていない。今度は自分の番だ。初球をライトスタンドへ放り込んでやる。いや、豪快にバックスクリーンだ。

 

『友野高校、ワンアウトランナー二塁でバッターは四番の榊原くん。友野高校としては、ここで同点に追い付きたいところですね』

 

 ホームランで一気に逆転だ。四番の意地を見せてやる。榊原がいつも以上に大きく構えた。

 

『岡林くん、セットポジションからセカンドランナーをみて、第一球を投げました』

 

 よーし、きた。榊原は内角の高め、少しボール気味の球を強引に打ちにいった。

 

『打ったー。打球はライトへー、いやー』

 

 しかし完全に詰まらされた。ライトまでも届かない。セカンドが手を上げた。

 榊原は一塁まで全速で走ったが、ボールはセカンドのグラブに簡単におさまった。

 榊原は天を見上げた。「クソー、ボール球だったぁ」

 ピッチャーの岡林を見るとニヤッと笑っているように見えた。

「クソーッ」岡林を助けてしまった。

 

《ごばん~、キャッチャー山崎くん》

 

 山崎がバッターボックスに向かう。ここで追い付かないとまた相手に流れがいく。大事な打席だ。絶対に力むなよ、バッターボックスに入る前に胸に手を当て自分に言い聞かせた。

 

『榊原くんは倒れましたが、怖いバッターが続きます。沢井さん、バッテリーは何を注意すればいいでしょうか』

『榊原くんに対して内角のボール球でうちとりましたから、同じように焦らずボール球を上手く使うことでしょうね』

 

 山崎はツーストライクをとられるまでバットが出なかった。追い込まれてからはボールをしっかりと見極めて、厳しいボールは上手くファールで逃げた。粘って十球目スリーボールツーストライクからボールは内角の甘いコースにきた。

「よしっ、もらった」山崎は思いきりスイングした。

 ボールは内角の甘いコースからストンと落ちた。最後は岡林渾身のフォークボールだ。

 

『山崎くん、空振り、三振~。岡林くん粘った~。最後に素晴らしいフォークボールを投げました』

 

 六回裏終了 友野高校1対2名港商業

 

 七回は両チーム無得点。 七回裏が終わって友野高校一点のビハインドのまま。

 

 七回裏終了 友野高校1対2名港商業

 

 八回表はツーアウトからヒットとファーボールで一二塁のピンチを迎えたが次のバッターの二遊間の痛烈な打球を蓑田が横っ飛びで捕球しセカンドでアウトにした。

 

 八回表終了 友野高校 1対2 名港商業

 

『友野高校セカンドの蓑田くんの今のファインプレーは大きいですね』

『そうですね、流れが名港商業にいきかけてましたので、あれが抜けて一点入ると完全に名港商業のペースになりましたからね。蓑田くんナイスプレーです』

『八回裏は友野高校好打順。一番の下山くんからです。前の打席で見事なホームランを放っています』

『名港商業としては、このバッターは大事ですよ』

 

「もう一発、放り込んでくる」下山がそう言って打席へと向かった。

 名港商業バッテリーも警戒して、ボールから入る。ワンボールからの二球目、長打を警戒して外角のストレート。

 

『あーっと、下山くん。意表をつくプッシュバントだぁ。岡林くんがボールをとりにいくが追い付かない。ファーストの高倉くんがボールをとったがファーストに投げられない。内野安打ー』

 下山がファーストを駆け抜けてからガッツポーズをする。「よーし」

 

『ノーアウトランナー一塁。友野高校、同点のランナーが出ました』

 

 下山が一塁ベース上で、してやったりといった表情で笑みを浮かべた。

 山崎がベンチから下山に向かって右手の拳を握り高々と上げた。下山も軽くそれに応えるように右手を上げた。

 

『さぁ、友野高校、大事なランナーが出ました。ここはどんな作戦に出るでしょうか』

『やはり終盤ですし、送りバントだと思いますね』

 

 監督のサインを見る。やはり送りバントだ。しっかり送らないと、失敗すると良い流れを止めてしまう。

 蓑田は硬直した体をほぐすように二回、三回と素振りをしてからバッターボックスに入った。

 バントの構えに入る。ファーストとサードが前に来るのが見えた。プレッシャーがかかる。足がガクガクと震えだした。

 岡林がファーストへゆっくりと牽制球を投げた。下山はファーストベースへ戻る。蓑田はバッターボックスを外して屈伸する。今の牽制球の間は蓑田にとって有り難かった。少し気持ちを落ち着かせることができた。

 

『岡林くん、第一球を投げました』

 

 蓑田はバントした。ボールは前進してきたサードへと転がった。少し打球が強くなった。セカンドは微妙なタイミングになりそうだ。サードがボールをとってセカンドへ体を向けた。一瞬投げようとしたが躊躇してファーストへ投げた。

 

『友野高校、送りバント成功です』

 

「蓑田、ナイスバント」ベンチからファーストを走り抜けた蓑田に声が飛ぶ。

 蓑田は「フゥー」と息を吐いて胸に手を当てた。「決まってよかったー」

 三番小宮山がヒットでランナー一三塁とチャンスが広がる。

 四番榊原の当たりはあわやホームランかというライトへのフライ。タッチアップから下山がかえり同点に追い付いた。友野高校のベンチがお祭り騒ぎになった。

 そして五番山崎に打席がまわる。下山が厳しい表情で山崎のところへ近づいた。何やら会話を交わし離れ際に下山が山崎の胸に軽く拳をあてた。山崎は頷いてから下山の拳を軽くはらい、ゆっくりとバッターボックスへ向かった。

 

『山崎くん、打ったー。痛烈な打球がレフトへ~』

 

 

 八回裏終了 

 

 

『九回表名港商業の攻撃です。ツーアウト、ランナーがありません』

 

『打ったー、打球はショートへ』

 

「よしっ」キャッチャーの山崎が声を上げた。力のない打球がショートの下山の正面へ飛んでいった。

 下山は前進して軽快に打球をさばきファーストへ矢のような送球をする。ファーストの宮田のミットにボールが吸い込まれていく。一瞬、球場が静まり返る。ミットがバシッと力強い音をたてた。一塁塁審の右手が上がった瞬間、球場がどーっと地響きをあげた。

 山崎が拳を握りミットをポーンと叩いてから、両手を高く上げて天を見上げた。

「決まったー」青空に吸い込まれそうな感覚になった。入道雲が「おめでとう」と自分に笑いかけてくれているように見えた。スーっと体の力が抜けていった。

 ピッチャーの坂本を見ると力強く両手を高々と上げている。背の高い坂本が一段と大きく見えた。その姿が少しかすんで見えた。目頭をギューとおさえてから坂本のもとへ駆け寄った。ショートの下山もセカンドの蓑田もファーストの宮田もサードの相馬もみんなが集まっていった。

 みんなの姿もかすんで見えた。

 

 八回裏の打席に入る前、下山が近づいてきた。

「お前、責任感強すぎんだよ。前の打席もガチガチだったじゃねえか。結果なんていいから、初球を思いきり打ってこいよ。ここまでこれたのはお前のおかげなんだから、ダメでも気にすんな」

 そう言われて気分が楽になった。とりあえず思い切り打とうと打席に入った。初球、甘いボールがきたので思い切りバットを振り切った。ホームランにはならなかったが、フェンス直撃のタイムリーツーベース。セカンドベースで両手を高々と上げたら、下山がベンチの奥で親指を立てていた。その時も下山の姿がかすんで見えた。恥ずかしいからすぐに手で涙を拭った。

 

『試合終了です。友野高校が三対二で名港商業を下し、二年連続県大会優勝を決め、甲子園の切符を手にしました』

 

 

 



読者登録

スー爺さんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について