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阪神甲子園球場

 ここは高校野球の聖地、阪神甲子園球場。

 黒く光るグラウンドの上に四角いベースがポツン、ポツン、ポツンと白く浮かんで見える。

 本塁から一塁ベースと三塁ベースにむかって光線のように伸びる白い線。白と黒のコントラスト、芸術作品のように美しい。

 視線を外野に移すと鮮やかな緑の天然芝。水を含んだ天然芝が太陽に照らされキラキラと緑を強調して輝いている。

 吸い込まれるような真っ青な空から真夏の太陽がグラウンドを照らし続けた。

 アルプススタンドの上空から筋肉質な入道雲がグラウンドを覗き込む。気まぐれに、太陽を隠しグラウンドに影を落とす。そこに浜風が吹き込んで、一瞬暑さが和らぐ。

 グラウンド全体を見守るように立つ黒いバックスクリーン。

 バックスクリーンの左側には友野高校と港星学院両校のスターティングメンバーが白く浮かび上がっている。右側にも友野高校、港星学院の文字が白く浮かび上がり黒と白のコントラストが美しい。

 右側の友野高校、港星学院の横のスコアの箇所は、今はまだ黒いままだ。

 これから毎年のように、似ているけれど、少し違う筋書きのないドラマが巻き起こり、ここに白いスコアが刻まれていく。

 

 そして毎年、このドラマを演出するかのように現れるのが、そう、甲子園の魔物だ。

 

『甲子園には魔物が棲んでいまーす』テレビやラジオでよく耳にする魔物。この試合でも現れるのだろうか? そしてどっちに見方するのだろうか?

 

 静まりかえったグラウンドに審判が姿を現す。

 初出場の友野高校の真っ白なユニフォーム姿の選手が一塁側ベンチ前に一列に並んだ。少し遅れて甲子園の常連校の港星学院のグレーのユニフォームも三塁側ベンチ前に並んだ。

「よーし、行くぞぉー」

「ウォー」

 両校の選手が声を張り上げてホームベース前へとダッシュして整列した。

 両校乱れなく真っ直ぐに並んだあと、帽子をとり頭を下げ、グラウンドに散った。

《お待たせいたしました。ただ今より……》透き通るような声の場内アナウンスが流れた。

 初出場の友野高校と強豪港星学院の試合、新しいドラマが今始まろうとしている。

 


初出場初勝利へ

『全国高校野球選手権大会、二日目第一試合も大詰めをむかえています』

《よばん~、ライト~、大河内くん~》

『守る、初出場友野高校、一点リードですが、九回裏ツーアウト満塁の大ピンチです。そして攻める港星学院にとっては最も頼りになるバッター、四番の大河内君が打席に向かいます。解説の田辺さん、すごい試合になりましたね』

『そうですね。ここはピッチャーもバッターもこれまでやってきたこと全てをぶつけてほしいです』

 

 友野高校対港星学院の試合。得点は6対5、友野高校が1点リードのままむかえた最終回。

 前評判では港星学院が有利と予想されていたのだが、初回に港星学院のエース宮田の不安定な立ち上がりを友野高校がうまく攻めて5点を先制したのが大きかった。

 その後、港星学院が追い上げるも友野高校が1点リードで最終回までもってきた。あと少し踏ん張れれば友野高校は甲子園初勝利だ。

 しかし、それはそんなに簡単なことではなかった。

 

『おもろい試合やなぁー。こういう試合こそ、わしら魔物の出番やでぇー。さぁーてと、どのタイミングで登場したろかな。この試合、一段と盛り上げたるでー』

 

 友野高校二年生、セカンドを守る蓑田は甲子園初勝利を目前にし、緊張し体が思うように動かない。

「フゥー」と息を吐いて、グラブをバンバンと叩いたが、今度は足が震えはじめた。その場でピョンピョンと跳ねてみた。しかし、震えは酷くなり足が地面についている感覚がなくなった。

「やばい、ダメだ~」蓑田は心臓が潰されるんじゃないかと思うくらい苦しくなって胸に手を当てた。

 一塁側のアルプススタンドをみると両手を合わせて祈るようなポーズをする女子生徒、暑いのに学ラン姿の男子生徒、ベンチ入りしなかった野球部員、それらの視線がグラウンドを一段と暑くしていた。

 三塁側アルプススタンドからは大音量で音楽が響いている。

 両方のアルプススタンドから期待と不安がヒシヒシと熱を帯びて伝わってくる。

 

 ピッチャーの間宮は、ここまできたら自分を信じて山崎のミットめがけて投げるしかない。低めに投げれば大丈夫だ、と自分に言い聞かせるようにして目の高さまで持ってきたボールに向かって呟いた。

「絶対に高く浮くなよ」

 

『田辺さん、間宮君は少し投げにくそうですね』

『そうですね、今日はおさえているとはいえ、強打者の大河内君ですからね。高めは禁物ですし、間宮君得意の低めスライダーも三塁にランナーがいますので、ワンバウンドしてワイルドピッチになるのが怖いですからね。本当に投げにくい場面です』

『三塁ランナーが返れば同点、二塁ランナーまで返れば逆転サヨナラの場面です』

 

「絶対に後ろにそらさないで、前で止めます。だから思いきり腕を振って低めに投げてください」キャッチャーの山崎はマスク越しに間宮に向かって目で訴えた。

 間宮は山崎のマスク越しの真剣な眼差しを見て、ニコリと笑みを浮かべ頷いた。

「山崎、大丈夫だ。お前のリード通りに構えたところに投げ込むから」

 間宮はゆっくりとプレートに足をおき、両手を胸の前において、「フーッ」と息を吐いた。

 

『間宮くん、セットポジションから、第一球を投げました』

 

 山崎の出したサインは低めのスライダー。間宮の投げたボールは山崎の構えたミットめがけて向かっている。スライダーの切れもよさそうだ。

 大河内は積極的に初球から打ちにいく。さすがプロ注目の四番バッター、スイングスピードが速い。

 

『大河内君、初球から打ちにいったー。しかし、外角のスライダーワンバウンドする球に空振りー。キャッチャーの山崎君もしっかりボールを前に止めたー』

『山崎君、いいですよ。手前でワンバウンドする難しいボールでしたけど、よく体全体でボールを止めました。こういうプレイはピッチャーの間宮君に勇気を与えますね』

 

 山崎は間宮に向かって何度も頷いてからボールを返した。

「間宮さん、ナイスボールです」

 間宮は山崎からのボールを受け取り、グラブを前につきだした。

「山崎、お前こそナイスだ」

 

「大河内~、リラックス、リラックスー。力んでんぞー」港星学院ベンチから大河内に向かって声が飛ぶ。

 大河内がベンチの声に頷いてから、ヘルメットのツバを手にかけて深くかぶり直した。バッターボックスに入る前に肩を上下させ「フーッ」と息を吐いた。

 暑い、けど、気持ちいい。この対決を楽しめばいい。

「そうだ。リラックス、野球ができることに感謝して楽しもう」大河内は、そう呟いて、ニカッと笑った。

 

 このバッターは今日の間宮さんのスライダーには合っていない。甘いコースは禁物だけど、最後はスライダーで、今みたいに空振りがとれるはずだ。後はそこまでどう組み立てるかだなぁ。次はインコースへきわどいところ、ボールでもいい。それをファールにでもしてくれれば、こっちが有利だ、きっと抑えられる。山崎はそう考えて大河内の内角胸元にミットを構えた。

 

 間宮が山崎のサインをみる。内角ストレートかぁ。デッドボールが怖いな。間宮が一瞬弱気になった。

「間宮さん思いきってインコースへ投げて下さい。ストライクはいりません、ボールでもいいです」山崎はマスク越しに目で訴える。

 

 間宮はなかなか首を縦にふらない。しかし、横にもふらない。しばらく悩んでプレートをはずした。ロージンバッグに手をやってからボールの感触を確かめるように手の中でボールをくるくると回した。

 

『田辺さん、ここも間宮君は投げにくそうにしていますね』

『そうですね、大河内君は強打者ですから、甘い球は投げられませんし、慎重になって当然でしょうね』

 

 もう一度山崎のサインを見た。サインは変わらないインコースストレートだ。

「よしっ」間宮は覚悟を決めて首を小さく縦に振った。

 

『間宮くん、セットポジションに入る、三塁ランナーを見て、二塁ランナーにも目をやりました。大河内くんに対して、足を上げて第二球を投げました』

「絶対に抑えてやるー」

「よーし、打ち返すー」

 間宮と大河内の間でお互いの意地がぶつかり合い激しく火花が散った。アルプススタンドからの声援もピークだ。一塁側は祈るように手を合わせ、三塁側からは声援が飛ぶ。

『インコース、ストレート。少し甘く入ったかー』

 やばい、甘い、真ん中にきた。山崎は一瞬、目を閉じた。

 大河内は獲物をとらえたかのような目をしてバットを鋭く振りだした。

「よーし、もらったー」

 大河内が振りだしたバットはボールを真芯で捉えた。

『カッキィーーン』乾いた金属音が球場内に響いた。

『打った~、痛烈な打球はレフトへーーーー、高く舞い上がったーーー、これは大きい、大きいぞーー、グーーンと伸びる』

 球場が一瞬静まり返った。球場にいる全ての目が打球の行方を追った。打球はレフトスタンドへ向かってグングンと伸びていく。しかし、伸びるにつれて風に流されていった。

『あー、しかし、打球は左へと切れていく~。ファール、ファールだぁ』

「くそーっ」大河内は一塁ベースを回ったところで天を仰いだ。

 静まりかえった球場が、一気にドーッとざわついた。

 間宮は「フーッ」と息を吐く。

「すげぇ打球だなぁ」山崎はマスクをとり、汗を拭う。

 危なかったが、これで追い込んだ。まだこっちにツキがある。山崎は気持ちを切り替えた。

 三球目は高めのつり球で様子をみることにした。山崎の構えたミットにズバッとストレートがきた。

 大河内のバットはピクリともしなかった。山崎は嫌な予感がした。大河内は力みが消えて冷静になってきている。これまでの打席の大河内と少し違う。次の一球、外角スライダーで空振りがとれるだろうか。一瞬悩んだが、他に選択する球は思い浮かばなかった。

 山崎が間宮にサインをおくる。予定通り外角スライダー、低めにくれば大丈夫だ。山崎は低く低くとゼスチャーで示した。

 ピッチャーの間宮はキャッチャー山崎のサインに頷いた。セットポジションに入る。長い間合い。球場が静まり返る。間宮は自分に観衆の視線が集まっているのを感じた。投げられない。間宮は一旦プレートをはずす。

『間宮君、投げられません。エース対四番、九回裏ツーアウト満塁。勝負の一球です』

「ツーアウト、ツーアウト」山崎は声を張り上げ弱気の虫をはねのけた。

 間宮はもう一度セットポジションに入る。

「これまでの全てを出しきる。それだけだ。結果を恐れるな」間宮はそう呟いてから思いっきり腕を振って山崎のミット目がけてボールを投げ込んだ。

 外角のスライダーが低めにくるが、山崎の構えたミットの位置より少し高い。大河内ならバットが届いてしまう。

「やばい」山崎は声をもらした。

 大河内は少し体制を崩されながらもボールを芯でとらえた。鋭い打球が間宮の足元に向かって飛んだ。

『大河内君、打ったー。打球はピッチャー間宮君の足元を抜けるー』

 大丈夫だ、この当たりなら守備範囲の広い蓑田なら追いついてくれる。山崎はそう信じて打球を目で追った。

 セカンドの蓑田は必死でホールを追う。よしとれる。蓑田はそう思った。

 体を低くして土埃をたてながら、ボールの正面に体を滑り込ませた。そして、何とかボールはグラブに収まった。

『セカンドの蓑田君、よく追い付いたー』

 よーし、これをファーストに投げれば、試合終了だ。そして甲子園初勝利だ。

 蓑田はグラブに入ったボールを右手に持ちかえ、ファーストに体を向けた。

 その時だった。

 えっ、うっ、右腕が思うように動かない。投げ方がわからない。ダ、ダメだ、は、早く投げないと、セーフになってしまう。

「ウォーッ」ファーストへ投げたつもりだった。

『あーっと、ボールが大きく逸れたぁー。ファースト光山君、飛びつくが、とれなーーい。ボールはファールゾーンを転々としている~』

 うわぁーっ、や、やっちまった。暴投だ。

『サードランナーが、今同点のホームを踏む、そして逆転のセカンドランナーもサードを回ってホームへ返ってくる~』

『ライトからボールが返ってきた~』

 山崎がボールを取りタッチにいく。

『判定は、セーフ、セーフ、セーフだ~。サヨナラ、サヨナラ、サヨナラだ~、逆転サヨナラ~。九回裏ツーアウトから港星学院が逆転~。友野高校の初勝利の夢は消えてしまいました~。やはり、やはり、ここ甲子園には魔物が棲んでいまーす』 

 


野球をやめたい

「なにー、野球部をやめる、だと~」監督の重光は右手で自分の帽子のツバをあげて、爬虫類のような目で蓑田を睨み付けた。

「は、はい、僕の暴投のせいで甲子園で負けてしまいました。僕がこれ以上野球を続けるのは、先輩達に申し訳ないです」蓑田は帽子を取り直立不動で俯いていた。

 

『はぁー、こいつ何言い出すんや。そんなことで野球を辞められたら、わしら、魔物が悪者になるんやけどなぁ』

 

「あれはなぁ、甲子園の魔物のイタズラだ。お前が一人苦しむことじゃない。これくらいのことで野球やめてたら、みんな野球やめないといけなくなるぞ」

 

『おーっ、監督さん、その通り。よー、わかっとる』

「でも、自信が無くなったんです」

 

『おい、おい、おい、あれくらいで自信無くすなよ。あんたら野球少年が、わしら魔物のせいで自信なくして野球をやめられると、これから、わしらは出にくくなるやないか。わしらが、たまーに顔出すから野球は面白味を増すんやで』

 

「たかが、野球だ。怖れず、楽しめばいいんだ。野球にエラーはつきものだし、甲子園の魔物もつきものなんだ。たまたま、お前が魔物に目をつけられただけだ。あの試合、あの時、お前は魔物に選ばれたわけだ。ただそれだけのことだ」重光はそう言ってグラウンドに腰を下ろし胡座をかいだ。

「魔物に選ばれたんですか」直立不動の

まま重光を見下ろした。

「まぁ、座れや」

「はい」

 蓑田は腰を下ろし正座しようとしたが重光から足を崩せと言われ、胡座をかいて重光と向かい合った。

「そう、だから、アハハハハと笑い飛ばしておけ」

 

『そうそう、いーねぇ、監督さん。監督さんのいう通り。野球を楽しんでくれ。わしらはババ抜きのババみたいな存在やと思って楽しんで笑い飛ばしてくれよ。この試合は俺が魔物に選ばれちまった。アハハハハとね』

 

「監督、少し考えさせてください」

 

『おいおい、何を考えるんや。そんな必要ないんやから野球を続けろー。これを乗り越えたら、あんた一段と大きくなれるんやでー。あんたを一段と大きく成長させるために、わしはあんたを選んだんやでー』

 

「よーし、わかった」重光は立ち上がった。

「好きにしろ」重光はそのまま立ち去っていった。

 蓑田も立ち上がり重光の背中にむかって頭を下げた。

「監督、有り難うございました」

 

『監督まで、何言ってんのー。バカかー。考えるまでもないってー、続けろー』


ライバル下山

「蓑田、野球部やめるって本当か」

 同学年で同じセカンドのポジション、ライバルの下山が蓑田に声をかけた。

 

 下山は蓑田の暴投で負けたあの試合、アルプススタンドにいた。サヨナラ負けが決まった瞬間、膝から崩れ落ちて立ち上がることの出来ない蓑田を見てニヤニヤと一人笑っていた。

 山崎に抱えられ泣きじゃくり、アルプススタンドに向かって挨拶する蓑田に、「ふん、ざまあみろ」と呟いていた。

 

 県大会では蓑田より下山の方が試合に出場していたが、甲子園出場が決まって下山はベンチ入りを外された。

 甲子園のベンチ入りメンバーが発表された帰り道「なんで、俺が外されたんだよぉー」橋の上から川の流れだけが聞こえる暗闇に向かって叫んだ。その叫び声が谷間に響いた後、また、おだやかな川の流れだけが聞こえてきた。その音が自分を嘲笑っているように聞こえた。

「やっぱり、野球部やめようかな。どうせ試合に出してもらえないし」

 空を見上げると三日月も自分を嘲笑ってるように見えた。

「はぁー」一段と虚しくなってため息をついた。

「あの試合のせいだ」そう呟いた。

「送りバントのサインのせいだー」もう一度、橋の欄干を握りしめ暗闇に向かって叫んだ。

 

 県大会を勝ち進み準々決勝の試合だった。スターティングメンバーに下山は名前を連ねた。あと三つ勝てば甲子園。学校関係者達も、もしかして甲子園初出場の夢が叶うのではないかと、応援に熱が入ってきた試合だった。

 下山の先制タイムリーヒットなどで五点をとり、五対二で友野高校がリードしてむかえた七回裏。

 ノーアウト一二塁のチャンスに下山に打席が回ってきた。この試合二本のヒットを打っていて打撃は好調だ。試合も三点リードしている。ここで一本打てばダメ押し点がとれる。先制点は自分のタイムリーヒットで叩きだした。ここでダメ押し点を叩き出せば学校中のヒーローになれる。

「よーし、俺が決めてやる」

 そう思ってバッターボックスに向かった。バッターボックスの手前まできて、ヘルメットを両手で持ち上げ右腕で汗を拭った。ヘルメットを深くかぶってからベンチに視線をやり、監督のサインを確認した。

 絶好調の俺には、ヒッティングのサインだと思っていたが、監督からのサインは送りバントだった。

 なんで俺にバントなんだ。ベンチの方を見たまま、呆然と立ち尽くし、バッターボックスに入ろうとしなかった。しばらく監督を睨み付けていた。

「打たせてくれ」目で訴えた。

 しかし、監督はもう一度送りバントのサインを出した。

 下山はベンチに体を向けたまま動こうとしない。

 審判に促されてバッターボックスに入った。足元をならして相手ピッチャーを睨み付けた。いつもより腕を高く上げて、股を広げてスラッガーのように大きく構えた。

「バントなんかしない。デカイのをかっ飛ばす」下山は呟いた。

 相手ピッチャーも疲れている。バントでなくここで一気に打ち崩すべきだ。ファーボールの後の初球をとらえてやる。

 相手ピッチャーがセットポジションにはいる。少し間をおいてファーストへ牽制球を投げた。

 下山は大きく構えたまま微動だにしない。

「しもやまー」

 ベンチから声がしたが、振り向きもしなかった。

 相手ピッチャーがキャッチャーのサインに頷き、もう一度セットポジションに入る。ファーストランナーを見て、セカンドランナーもみた。足が上がって初球が投げられた。サードとファーストはバントを警戒して少し前にきた。

 下山は足を高く上げて豪快にバットを振りぬいた。

「よーし、もらったー」

 内角ストライクゾーンから体にくい込んでくるボールに詰まらされたが、ボールは左中間にフラフラと飛んだ。当たりはよくなかったが飛んだコースが良かった。レフトとセンターが懸命に追いかける。

「落ちろー」下山はファーストへ走りながら叫んだ。

 ボールはレフトとセンターの間にポトリと落ちた。

 サードコーチはグルグルと手を回す。セカンドランナーは一気にホームへと向かってきた。レフトからホームにボールが返ってきたが、そのボールが大きく逸れてファールグラウンドに転がった。

 セカンドランナーはホームを踏んでガッツポーズした。友野高校が一点を追加した。下山もセカンドベースまで達した。

 セカンドベース上でベンチにむかってガッツポーズをしたがベンチから下山を見ている者はいなかった。ベンチはホームインした選手とタッチして盛り上がっていた。

「チェッ、なんだよ、俺に感謝しろよ」ベンチに向けて舌打ちした。

 ベンチの方を睨んでいると、控えだった蓑田が出てきて審判に何かを告げてから下山の方へと全力で走ってきた。

「あいつ、何しに来るんだ」

 

《友山高校のセカンドランナー下山君に代わり、蓑田君。セカンドランナーは蓑田君》

 場内アナウンスが流れた。

 

「下山、交代だ」蓑田は眉間に皺を寄せていた。

「なんで、俺に代走なんだよ。お前より俺の方が走塁上手いだろ」

「お前がサイン無視するからだろ。みんな怒ってるぞ」

「やかましいわー。クソー」蓑田を睨み付けた。

「お疲れ、早く下がれよ」

「うぁーっ」下山はヘルメットをとって空に向かって声をあげた。

 下山はベンチに戻って椅子を蹴とばしヘルメットを地面に叩きつけた。ヘルメットが鈍い音をたてて転がり椅子の下でクルクルと回っていた。

 キャプテンの野口が下山のところに来た。

「お前、バントのサイン、無視したよな」野口は下山の胸ぐらを掴んでおでこがぶつかるくらいに顔を近づけた。

「す、すいません。無視したんじゃなくて、見落したんです。さっき蓑田に言われて、はっとしました」

 野口は下山の胸ぐらを掴んだ右手に力を入れ、もう一度顔を近づけ、睨み付けた。

「いいや、お前はサインを無視した」

 下山は野口の目を避けるように俯いた。

「すいません。見落しです」

「フン」野口はこれ以上言っても無駄な気がした。気持ちを切り替えて試合に集中することにした。下山の胸ぐらを掴んでいた右手を突き飛ばすようにして離した。下山は後ろによろめいて、その勢いのまま椅子にドンと腰を落とした。

「すいませんでした」下山はみんなに向かって大きな声で詫びたが、誰も下山の方を見ないでグラウンドを見ていた。

 大きな歓声が聞こえてきた。次のバッターがスクイズを決めて一点追加した後、セカンドランナーの蓑田が好走塁をみせて一気にホームに向かいヘッドスライディングした。審判の右手が横にひらいた。

「セーフ、セーフ、セーフ」

 見事にツーランスクイズが決まった。

 蓑田が跳ねるようにしてベンチへとかえってきた。

「蓑田、ナイスラン」ベンチのみんなから声が飛んだ。

 

「下山、明日からは蓑田を使うからな」監督の重光がグラウンドに視線をやったまま下山に告げた。

「な、なんでですか? 俺は今絶好調なんですけど」

 下山が椅子から立ち上がり重光の隣に来て抗議するが、重光はグラウンドを見たまま、下山の方を見なかった。

「お前の調子なんて知らん。俺はチーム全体の調子を上げたいんだ。チーム全体の調子を上げることが、どういうことなのか、それをお前が理解するまで、俺はお前を使わん」

 

 それから準決勝、決勝と勝ち上がり友野高校は初優勝したが、下山がその後の試合に出ることはなかった。

 

 アルプススタンドから甲子園のグラウンドに立つ蓑田の姿を見て涙が出るくらい悔しかった。

 俺の方が絶対うまいのに、なんでセカンドを守るのは蓑田なんだ。

 アルプススタンドからみんなが友野高校に声援を送るなか、一人、友野高校が負けることを願っていた。

 それも蓑田がミスして負ける。監督が蓑田を選んだことを後悔してほしいと思っていた。そして、その通りになった。甲子園初勝利目前に蓑田のミスで負けた。下山は思い通りになったとほくそ笑んだ。

 

「あんな大事なとこでエラーしたから……、俺、なんか野球が怖くなった」蓑田は遠くを見て言った。

「じゃあ、仕方ないな。とめても無駄だろ」下山はニヤリと右の口角を上げた。「さっさとやめろ」と心のなかで呟いた。

 これで新チームのセカンドは俺のものだ、と思った。

「俺は守備が下手くそだから、ベンチ入りは、お前の方が良かったかもな」

「守備かぁ」下山がそう呟いた後、顔を歪めていた。

 なに偉そうに言ってんだよ。守備だけじゃない、バッティングだって走塁だって俺はお前より上だ。

「この下手くそが」蓑田に聞こえないように呟いた。

「何か言ったか」

「いーや、まっ、野球は守りがしっかりしないとな」目を合わさずに言った。

「今まで、ありがとな。お前のおかげで、ここまで頑張れたよ」蓑田は右手を差し出した。

「お、おう」下山も右手を出し握手をした。

 いつもは、ここでお互いに意地をはり喧嘩寸前になるのだが、蓑田の元気ない姿に下山は少し戸惑った。

 本当にやめるのか? こいつがいなくなると張り合いがなくなるかもしれないなと、蓑田の後ろ姿を見て思った。

 


エース間宮先輩

 蓑田は、あの試合を投げた先輩のエース間宮に謝りに行くことにした。

 試合終了後、謝りはしたが、蓑田は泣いているだけで、しっかりと言葉に出して謝れていなかった。

 謝った記憶さえ定かではなかった。自分が何を話したか、間宮に何を言われたかも覚えていなかった。

 自分の暴投のせいで試合に負けてしまい、間宮の最後の夏を終わらせてしまった。あの時、自分が暴投せずにアウトにしていれば、最低でももう一試合、間宮は甲子園のマウンドに立つことができたのだ。それを考えると鉛を飲み込んだような気分になる。

 

 普段の間宮は口数も少なく優しくクールな先輩で、蓑田は間宮が怒っている姿を見たことがなかった。

 試合中はピッチャーでありながら、みんなに気を配りながらチームを鼓舞していた。

 キャプテンの野口は間宮のことを陰のキャプテンだと言っていた。野口は気性が荒く蓑田もよく怒られたが、それを間宮がフォローしてくれていた。

 キャッチャーの山崎が間宮のことを「いつも勉強になる」と言っていた。山崎は自分がキャッチャーというポジションで新チームになった時のキャプテンになることを意識しての発言だろうと蓑田は思っていた。

 間宮は蓑田がエラーしてマウンドに謝りに行くとお尻をポンポンとグラブで叩いて「ナイスファイト」と言ってニヤリと笑ってくれた。いつもその笑顔に救われた。

 どんなピンチの場面でも冷静で顔色ひとつ変えずに投げていた。その姿がかっこよくて憧れの先輩だった。自分も間宮のような先輩になりたいと思っていたがそれは諦めることにした。

 

「間宮先輩、すいませんでした。僕のエラーのせいで負けてしまって」蓑田は直立不動で深々と頭を下げた。

「今さら何だよ、あの時も謝ってくれたじゃないか」あの時とは試合終了後の泣きじゃくっていた時のことだろう。

「いえ、あの時は泣いてるだけで、しっかりお詫びできていませんでした」また泣きそうになっていた。

「あの涙で充分蓑田の気持ちは伝わったよ」

「いえ、しっかりお詫びしないと、僕の気が済みません」

「そうか、じゃあこれで気が済んだか?」

「えっ、いや、まだ……」これで済ませていいものかと頭の中で色んなものがグルグルと回り言葉が出なくなり俯いてしまった。

「あれはナイスファイトだったなぁ。あの打球によく追いついたよ」間宮はあの場面を思い出すように遠くを見て言った。

「あ、はい、ありがとうございます。けど、その後が……、ダメでした」蓑田は一度顔を上げたがまた俯いてしまった。

「気にすんな。野球にエラーはつきものだ。完璧な人間なんていないんだし」

「でも、あそこは大事な場面でしたから。僕がアウトにしてれば、先輩方はもう一試合甲子園で野球が出来たのにと思うと……」蓑田はぎゅっと両拳を握り下を向いた。

「甲子園のマウンドで投げられたのは、みんなのおかげだ。俺はすごく満足してるし、蓑田やみんなに感謝してる。確かに悔しさはあるけど、それは来年蓑田らが甲子園初勝利してくれればそれでいい」

「あっ、は、はい」蚊の鳴くような声になってしまった。

「なに? 元気ないな。俺に申し訳ないと思うんなら、来年は甲子園初勝利することをここで約束しろよ」

「……」蓑田は俯いていた。

「ハァー」と間宮がため息をついた。

「すいません」蓑田はぎゅっと両拳を握った。

「蓑田、まさか責任感じて辞めるなんて言うなよな」

「いえ、責任とかじゃなくて……、そんなカッコいいことじゃなくて……」

「じゃあ、なに?」

「ただ、野球が怖くなったんです」

「怖い?」間宮の顔がめずらしく険しくなった。

「はい、またエラーしそうでボールが飛んでくるのが怖いんです」

「ハァー、何甘えたこと言ってんだよ」

「甘えてますか」

「そう、甘えだ」

「けど、僕は……」

「みんな怖いんだよ」間宮は蓑田の言葉を遮るように大きな声を出した。いつもクールな間宮らしくない怒声だった。

 蓑田はビックリして身を竦めた。

「みんな怖いんですか」身を竦めたまま間宮の顔を覗き込むように訊いた。

「そう、だから、練習するんだよ。それから……」

「あっ、はい」

「それが、楽しいんだよ。今辞めたらもったいない。やっと野球の怖さがわかったところだ。これから本当の楽しさがわかる」間宮が蓑田の肩に手をおいた。間宮はいつもの優しい表情にもどっていた。

「間宮先輩でも、怖いと思うんことがあるんですか」

「当たり前だ。いつも怖いと思ってる。あの場面でもストライクが入らないんじゃないかと腕が振れなくなってた」

「そんな風には見えませんでした。先輩は堂々としてるように見えました」

「全然。あの大河内ってバッターのスイングが速いからホームラン打たれそうで怖かったよ。それに、大河内の顔が怪物みたいでデッドボールでも当てたら殺されるんじゃないかとビビってた」

 間宮はニコニコと笑って蓑田の顔を見た。蓑田の表情に少し笑みが浮かんだのを見て続けた。

「けど、勇気を振り絞って山崎を信じてミットめがけて投げたんだ。結果を怖れないで思いきり投げた」

「そんな思いでマウンドに立っていたのに、それを僕のせいで台無しにしてしまいました」蓑田はまた深々と頭を下げた。

「それを言うなって。それが野球だから。怖いけど面白いんだ。だから辞めるなよ」

「え、あ、はい……」

 

『そう、怖いけど面白いんや。それを演出するんが、わしら魔物や。これを乗り越えないと、あんたは絶対に後悔する』

 

 蓑田は間宮と別れた帰り道、間宮には辞めるなと説得されたが、やっぱり続ける勇気は持てなかった。

「俺は、間宮先輩みたいに強くなれないよ」そう呟いた。

 



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