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九 仲間Ⅱ

 

美里は椅子に座るとスマホを取り出した。右手の人さし指で画面を移動させる。美里が見ているのは小説だ。小説を読みたいから読んでいるのではない。指名されるまでの時間つぶしだ。仕事は原則、予約制だが、飛び込みの指名もあるため、予約がなくても、店に出ることはある。

 

そんな場合、いつ、指名の声がかかるかはわからないために、長編小説は読まない。短編小説か、または、エッセーのような短いものだ。読んでいながらも、常に、声が掛かることを意識しているため、心ここにあらずの状態だ。嫌味な言い方をすれば、まさに、心を売っている美里たちにはぴったしの状況だ。

 

そんなハートケア士に対して、売心婦と口汚くののしる人もいる。確かに、人の心を癒すことで対価を得ている。だが、それで何が悪いのだ。病気を治す医者が尊敬されるのに、人の心を癒すハーケア士が何故、蔑まれなければならないのか。同じように対価を得て、治療をしているだけではないのか。医者とハートケア士の人を救う手法や手段が違うだけなのだ。

 

ハートケア士を嫌悪する人たちは、好き嫌いという感情論だけで発言しているのではないか。誰も、それを理論的に、合理的には説明しようとはしない。それはできないのだ。心を売っているという行為自体が蔑みの対象なのか。しかし、皮肉なことに、そんなハートケア士非難論者に対しても、指名があれば、美里たちは心を癒してやらないといけない。そんなことを思いながら本を読むのだから、本の内容が頭に入らないのは、当然だ。

 

その時だ。美里のスマホの画面が暗くなった。誰かの影だ。

 

「何を読んでいるの?」

 

 やさしい声が耳に響いた。

 

 美里は驚いて顔を上げた。この店での待合室では、数人のハートケア士が滞在しているものの、微妙な距離感の中で座っていて、互いに会話をすることはほとんどない。

 

事務所に入ってくる時は、おはようございます、などの挨拶をするものの、その言葉は誰か特定の人に向けて挨拶をしたのではなく、この部屋に入るための合鍵のようなものなのだ。だから、挨拶の声に対して、先住者たちは条件反射のように、形ばかりの挨拶はするものの、入ってきた同業者の顔は見ようとはしない。

 

だからと言って、互いが喧嘩をしているというわけではないし、仲が悪いということでもない。ただ、お互いに大人の関係を望んでいるだけなのだ。必要ならば話すし、必要でなければ話さずに、自分の世界に閉じこもっている。その世界も、すぐに、店から指名を受けると、今度の客はどんな人だろうかと仕事モードに入る。そう、仕事に入る前に、束の間だけど、自分一人だけの安寧を味わいたいのだ。だから、美里も同じハートケア士から声を掛られるとは思っていなかった。

 

 話を掛けて来た彼女は、いつも、部屋の角で足を組んで座り、目をつぶって瞑想に耽っていた。それは、ヨガなのか、座禅なのかはわからない。美里はヨガのことも座禅のこともはあまり詳しくない。

 

美里は彼女のことを秘かに善女と呼んでいた。というのも、彼女は、受付のロボットから、今回は尼僧の姿で、次はアマゾネスの姿で、はてまたアンパンマンのどキンちゃんの姿で、と、その都度、全く脈絡のない、関係性のないコスチュームを要求されても、いつも穏やかな顔で受け入れた。

 

また、お客さんとの交流が終わった後、この事務所に帰ってきた時も、いつもと変わらない様子で、いつもどおりに、指定席である部屋の角の場所に行くと、半眼で、足を組んで座り続けていたからだ。

 

まさに、彼女こそ、この仕事をするために生まれたような人だと思っていた。これまでも、彼女とは、合図のような会釈をすることはあっても、話をしたことはなかった。その彼女が美里に初めて声を掛けてきたのだった。

 

 美里は少しとまどいながら「たいした本じゃないんです。ほんの暇つぶしです」と答える。

 

「それ、ダジャレ?」

 

 彼女が吉祥天女のような笑顔で美里にほほ笑んだ。

 

「いえ。ダジャレだなんて」

 

 美里は彼女の返答にびっくりした。人は自分が予想もしない答えが返ってきた時には、返す言葉がなく、どぎまぎして、相手の言葉をおうむ返しするしかない。

 

「たいした本とほんの暇つぶしだなんて、ダジャレじゃない」

 

 彼女の言葉に非難の感情はない。どちらからと言えば、おちゃめな感情だ。善女に、吉祥天女に、おちゃめだなんて失礼だと思いながら、彼女の絵に描いたような眉毛、切れ長の目、きりっとした鼻筋、口角が上がった口元、そして、道路でつまずき、誰かに見られていたこと知って、思わず赤面した時のようなえくぼを見ると、おちゃめとしか言いようがない。

 

「ええ、すいません。」

 

「謝ることはないわ。それとも、また、ダジャレで、タバコは吸いませんとでも言うの?」

 

 彼女の言葉で、ようやく美里の心は緊張が氷解し、産湯に浸かったように安心できた。そうだ、この安心感は、覚えてはいないけれど、母の胎内にいた時のようだ。

 

 それから、美里は彼女と話を続けた。彼女の名前はちひろさん。この事務所では、C1000番だそうだ。美里はM3333番。味気ない番号に比べ、名前を互いに呼び合うだけで、親密感が増すのはなぜだろう。また、今日はいい天気ね、だとかのたわいもない内容なのに、心が通じたようになるのはなぜだろう。

 

そうか。お客さんたちも、ハートケア士が自分の好みの服装をしてくれることで、遠慮なく心をさらけ出すことができるのだろう。そうでもないと、自分の黒い心や弱みなんて、他人にさらけ出すことはできないだろう。そのことを吉祥天女は既に知っていたのだ。そして、知っているだけではなく、実際に行動に移しているのだ。互いを信頼し、理解し合うためのコミュニケーションは質ではなく量なのだ。

 

 もちろん、彼女の本名がちひろだとは信じていない。実は、美里も本名は違う。番号があるにも関わらず、用心のために、美里という、源氏名を使っている。普段の会話で、M3333番と呼び合うことも可能だけれど、それでは、味気がない、情感が湧かない、このことから、お客さんや店のスタッフから名前を聞かれたら美里と名乗っている。

 

あたかも本名のように装うことで、相手に対して心を開いているように見せているだけなのかもしれない。たぶん、ちひろさんも同じだと思う。心を生身でさらけ出している分、名前ぐらいは、二重、三重の鎧を被っているのだ。それで、心の調和を図っているのだ。だからこそ、お客さんの要望に応じて、シンデレラにもなれるし、かぐや姫にもなれる。仕事の時は、本当に、鏡の国のアリスなのだ。

 

そして、自分をマリリンモンローとして受け入れ、相手を癒す代わりに、自分が傷つくのだ。その時、その場所で、美里は何にでも変われる。逆に、言えば、変われない者は、このハートケア士の仕事を続けられないだろう。この、今生きている世界からも脱落しかない。美里は、何とか縋り付き、がけっぷちに立っているのだ。

 

 だが、彼女はどうだ。ちひろさんはどうだ。話をする限りは、彼女は、美里とは違う様に思える。美里たちは地面に立っているけれど、ちひろさんは座禅したまま、宙に浮いているようだ。そう言えば、昔、昔、ある新興宗教の教祖が座禅したまま飛び上がって、すぐに地面に落ちてくるのに、空中浮揚していると誇大広告し、それを信じた信者たちとグルになって、一時期、反社会的勢力になった記事を読んだことがある。その教祖ではないけれど、ちひろさんも精神的には、美里たちと異なり、空中浮揚しているように思える。

 

 美里は、これまでの嫌な客や嫌な思い出などを詳しく話す。まるで、自分がお客さんのように。それに対して、ちひろさんは、それこそ、指名を受けた美里たちハートケア士と同じように、頷きながら、決して、反論することなく、否定することなく、美里の話を全て受け入れてくれた。おかげで美里の心は癒された。それこそ、ちひろさんに料金を支払わないといけない。そのことを話すと

 

「身内同士じゃないの。あたしもあなたの話を聞いて、あたしだけじゃなくて、みんなも同じような悩みや苦しみがあることを知って、癒されたわ」とほほ笑んでくれた。その言葉に、美里は、あんなに冷静なちひろさんでも自分と同じようにこの仕事に対して悩みなどを感じていることを知って安心した。

 

「あたし、嫌だ」

 

 突然、受付で大きな声がした。あるハートケア士がロボットに文句を言っている。

 

「なんで、あたしが尼僧にならないといけないの」

 

「お客様からの要望です」

 

「でも、尼僧は嫌です」

 

「それでは、今日は仕事がないかもしれませんよ」

 

「それでもいいです」

 

 ロボットと口論していたハートケア士は口を尖らし、感情むき出しの顔で、カンカンとハイヒールの足音を立てながら部屋の片隅に戻っていった。

 

 二体のロボットはそのハートケア士の背中を見つめるだけで、動こうとしない。完全にバグってしまっている。そうした対応方法がインプットされていないのか。ロボットにもハートケア士のように人の気持ちを推察できるような能力を習得させる必要があるが、まだ、そこまでの技術は開発されていない。

 

すると、そこに支配人が奥の事務所から現れた。ロボットがバグった場合、その情報が知らされるようだ。ロボットは支配人に指名を拒否されたハートケア士との対応の状況を説明している。支配人は分かったような顔で頷いた。そして、ロボットたちに何かを指示した。

 

「C1000番さん。C1000番さん。指名です。受付に来てください」とアナウンスが響いた。

 

「あら。呼ばれたみたい」

 

 ちひろさんはすくっと立ちあがると、

 

「それじゃあ、また」

 

と、お客でもない美里に対してもお辞儀をすると受付の方に向かった。そう、ちひろさん、C1000番は、この店で、ハートケア士が駄々をこねたり、嫌がったりした場合の最後の砦なのだ。美里が知る限り、見る限り、ちひろさんが断った例はない。もちろん、美里も断ったことはない。だけど、他のハートケア士が断ったお客さんまでのお鉢が回ってきたことはない。多分、ちひろさんが全部引き受けているのだろう。それだけ、ちひろさんは、この店に、支配人に信頼されているのだ。

 

「ちひろさん。頑張ってください」

 

 美里は、そうしたあまり望ましくない状況だからこそ、ちひろにエールを送る。

 

「ありがとう。頑張らないように頑張るわ」

 

 ちひろさんは両手を握り締め、胸に抱えるように、少女のような素振りをした。彼女のおちゃめな一面をまた見ることができた。それこそ、彼女から美里へのエールなのだろう。どんなことがあっても、全てを受け止めなさいと言うことなのだ。

 

「頑張らないように頑張るか・・・」

 

 美里はちひろさんの言葉を一旦飲み込んだ後、再び口から出して、反芻した。

 

 ちひろさんは、受付で、支配人から話を聞くと、支配人が頭を下げるのを手で遮りながら、お客さんからの指定の服装が入った袋を手に持つと、事務所から出ていく。その時、彼女は他のハートケア士には見えないように、手首だけを立てた小さなバイバイを美里に向って示した。美里も同じように小さなバイバイで返答する。その顔はさっきまでの微笑を浮かべた顔と同じであった。頑張らないように頑張る。まさに、彼女はその言葉を実践していた。

 


この本の内容は以上です。


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