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四 過去Ⅰ

 

どうしてなの?

 

 俺は忙しいんだ。

 

 今日は、休みの日でしょう?

 

 人が休んでいるときに働かないと、俺たちの商売はなりたたないんだ。

 

 でも、人が働いている時も、働いているじゃない。

 

 君だって、同じ職場で働いていたじゃないか。この業界がどういう状況か、この仕事がどんなものかよくわかっているはずだ。

 

 それを言われると、美里は黙ってしまう。確かに、夫の働いている会社は忙しいし、経営的には厳しい環境だ。同業者同士が顧客の獲得のために、激烈な競争をしていることは自分も知っている。独身時代は、その忙しい合間を縫って、二人で会う時間を作っていた。だからこそ、会えた時の、一緒にいる時間の喜びは倍にも、三倍にもなった。

 

 それが、結婚して、生活の基盤が同一になると、一緒にいることが普通になる。会うのは、いるのは当たり前だ。美里は妊娠し、子育てに専念するため会社を退職した。このことで、互いの共通の部分が半分になった。

 

美里は子どものために一生懸命になり、夫は会社のために、働くために、家族を養うために一生懸命になった。同じ家で暮らしていても、一生懸命の対象が異なった。特に、男性は、自分の子どもが生まれたという事実に満足し、自分の子どもが成長するということに無頓着に、無関心になるのかもしれない。

 

 そんなことないよ。俺だって、子どもは可愛いよ。だから、休みの日は、いつも家族で一緒にいるじゃないか。

 

 確かに、休みの日は一緒にいる。だが、その休みの日がないのだ。会社としては週休二日制だが、実際は、クライアントとの打ち合わせや接待などで、休みの日にも家にいることはほとんどない。美里が育児に一生懸命になればなるほど、反比例するかのように、夫は子育てから遠ざかっていくように思えた。

 

 だって、君がいるじゃないか。二人とも育児に専念すれば生活ができないだろう?だから、互いが得意な方、できる方をやっているだけじゃないか。その方が効率的だろう。

 

 夫の言い分にも一理はある。でも、子育てに効率性は必要なのだろうか。結果的に、効率的だったとは言えるかもしれない。だけど、子育てくらい非効率的な仕事はない。

 

 赤ちゃんは、お腹が空けば泣いてお乳を欲しがる。おしっこやうんこをして気持ち悪ければ叫び出す。眠たければぐずる。その期間は、ほぼ、一人の親がかかりきりになる。一対一だ。しかも、病気や体調を崩せば、医師や看護師が関り、健全に成長しているかどうか、と保健師も関わってくる。一対一どころか、一対複数だ。それも大の大人が何人も関りを持たないと成長しないのだ。効率とは全く反対に位置する。

 

 こうして、美里と夫との心の隙間と物理的な距離は少しずつずれていき、最後には、修復不可能なぐらいに離れてしまった。それでも、列車のレールのように平行であれば、まだ、何とかなる。お互いに前にさえ進んでいれば目的地には到着するからだ。だが、美里と夫はそのレールの幅が進めば進むほど八の字の裾のように広がっていく。交わるどころか離れていく一方だ。お互いの顔を見ることさえもなくなった。もう元には戻れない。

 

他の惑星の人々が地球を訪れ、空には自動運転の飛行自動車が飛び交い、ホテルやデパートなどでも、AIが搭載されたロボットが受付やガードマンなどになり、人間たちに話し掛けてくる。また、言語が異なる地球人同士だけでなく、他の惑星の人々とも耳に装着した自動翻訳装置などで会話ができるようになった。そんな科学が高度に発達した時代にも関わらず、美里と夫のように、男と女、夫婦、家族などが、真の意味での心の交流を図ることは昔と変わらず今も困難であった。

 

 紆余曲折、本当は、七転八倒で、壁にぶつかり続けたものの、最終的には、美里と夫は離婚という形を選択した。子どもの親権は美里が持ち、養育費は夫が支払うことになった。見かけ上は円満な解決方法だった。だが、物理的にも、精神的にも、美里と夫とは円満なつきあいは途絶えた。

 

 美里は夫の元を離れ、実家に戻ってきた。いくら実家とは言え、生活費は必要だ。父や母は既に退職し、年金生活だ。その年金額では、両親二人だけの生活ならば可能なものの、美里と子ども二人を加えた五人での生活は苦しかった。夫の養育費はあるものに、それは子どもたちの教育費に消えた。少なくとも、美里は自分と子ども二人分の生活費を、食い扶持を稼がないといけなかった。

 

 美里は、夫との関係が悪化していく中で、ただ指を咥えているだけでなく、まずは、なんとか関係を修復できないかと、心のトレーニング、相手の気持ちを忖度する勉強に取り組んでいた。勉強は終了し、資格は取得できたものの、その勉強の効果は、夫との関係修復ではなく、離婚という関係断絶の形となり、実際の生活には活かすことはできなかった。

 

その学校での卒業論文が「壊れかけた家族の修復方法」というのは皮肉な結果だ。実際には「壊れかけた家族」ではなく「壊れてしまった夫婦関係」だったのだが。ただし、実体験を経ることで、失敗例として、相手の気持ちをケアするにはどうすべきなのかという技術や技能を体に刻み付けることができたのかもしれない。

 

 美里は離婚という痛手を負ってまで取得したその資格を活かしたかった。障がい者や認知症の患者などのケアをしたいと考えていた矢先に見つけたのが、この仕事だった。ハートケア士求む!あなたの資格を活かしませんか。というフレーズだった。すぐに募集内容を確認する。

 

「お客様は、地球人を始め、他の惑星の人々です。特殊な機械を使うことで、お客様と心を交流させて、お客様の心を癒します。肉体的なマッサージなどはありません」

 

「働く時間は自由です。あなたの希望の時間で働くことができます。心を通わせる特殊な機械や仕事着なども、会社が全て提供しますので、皆さんは何の準備も必要ありません。また、仕事場へは車で送迎します」というのが謳い文句だった。

 

これなら自分にもできるのではないか。自分の資格を活かせるのではないか。ただし、本音は仕事内容よりも、お金が、給料が高いというのが一番の動機でもあった。お金が高いということは、相手のお客さんの質も高いということか。また、時間も拘束されない。必要な時に行けばいい。子どもがまだ小さい美里にとっては都合がいい。

 

心を通わせる特殊な機械、というのが少し気にはなったものの、自分で準備をする必要がないことはありがたい。仕事着も準備してくれるらしい。多分、白衣かそれに似た何かだろう。自分の私服にも限りがあるので、その仕事着は使わせてもらいたい。不安はほとんどが払しょくできた。よし、やってみよう。

 

 早速、会社に連絡して、面接を受ける。ガラス張りの部屋には、全身白服の男、そう支配人と黒服の里美が交差するように数体映っていた。

 


この本の内容は以上です。


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