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俊夫「ふわー、ええ天気やなあ。桜も咲いて気持ちええなあ」

幸恵「あんた、おはよう。ご機嫌やね」

俊夫「そらそうや、こんな朝を待ってたんや。今日からは自由の身。わくわくするわ」

幸恵「ほんまに四十五年間もお勤め、お疲れさん。ゆっくりしてや」

俊夫「ありがたいなあ。ええ嫁やなあ」

幸恵「洗面所で鏡とにらめっこしとらんと。朝ご飯できてるよ」

俊夫「ええ嫁やなあ。しかし俺の髪の毛どこへ行ってしもたんやろ」

幸恵「今頃何言うてんの。もうとっくにどこかへいってるやないの」

俊夫「いやな、ずっとバタバタしてたやろ。ゆっくり鏡見たらおそろしい」

幸恵「それも勲章。ええやないの。その歳でふさふさしてたら気持ち悪いし」

俊夫「ええ嫁やなあ」

幸恵「みーちゃんもごはんよ。はあい」

みー「にゃあ」

俊夫「こいつ、おれが撫でたろおもたらプイと向こうへ行きよる」

幸恵「そらしゃーないわ。単身赴任でほとんどいなかったんやもん」

俊夫「ああ飯うまかった。味噌汁も最高や。うわ、コーヒーまでつくんか。モーニングサービスやな。新聞ゆっくり読むわ。ほんまええ嫁や」

みー「みゃー」

幸恵「はいはい、もうちょっとほしいんか?ちょっとやで、肥るからな」

俊夫「昼飯も楽しみやなあ」

幸恵「おうどんでええ?」

俊夫「ええでええで、幸恵の炊いた揚げ、うまいもんなあ、久しぶりやなあ。ネギたっぷりで頼むわ」

 

俊夫「もう梅雨明けかあ。暑い。おーい、お茶くれ。冷たいやつ」

みー「にゃあ」

幸恵「あらみいちゃん、おなかすいたん?」

俊夫「なんや、俺は無視か。猫の方が大事か」

幸恵「ほらほらみいちゃん、ちょっと待ってな、今、炒めもんしとうから」

みー「にゃあ」

俊夫「お茶くれー」

幸恵「はい、みいちゃん、おまちどうさん、おいしいで」

俊夫「おい!」

幸恵「うわ、びっくりした。どないしたん?口パクパクさせて」

俊夫「せやからお茶」

幸恵「グラス持って怖い顔して、どないしてんな」

俊夫「せやからお茶て言うてるやないか」

幸恵「なに?お茶が飲みたいん?」

俊夫「なんか!俺をバカにしとんのか」

幸恵「うわ、こわ!顔真っ赤やで」

俊夫「怖い顔にも真っ赤にもなるやろ。さっきから言うてるやないか」

幸恵「もう少し大きな声で言うてくれる?よう聞こえへん」

俊夫「これ以上大きな声出るかいな。早よ、お茶や。どなって喉カラカラや」

幸恵「はい麦茶。いっつも冷蔵庫に入れてるから。汗かいてる間に自分で飲んで」

俊夫「あーうまい。麦茶飲むのに疲れてもた」

幸恵「あんたが口バクバクしてるけど、声聞こえへんのよ」

俊夫「えらいことやないか。急いで耳鼻科行ってこなあかん」

みい「にゃあ」

幸恵「おいしかったの?もっと?しゃーないねえ、ちょっとだけやで」

俊夫「聞こえへんて、猫の声は聞こえてるやないか」

幸恵「インタホン鳴ったわ。はあい!」

俊夫「聞こえてるやないか」

 

耳鼻科医「その後、調子はいかがですか?」

幸恵「ありがとうございます。特に体調悪くないのですが、夫の声だけが聞こえないのです」

耳鼻科医「前回にもいろいろ検査させていただきましたが、耳自体には全く問題ありません。更年期障害も考えられますが。むしろストレスかと。幸いここは総合病院ですので、神経科にカルテ回します」

幸恵「えええ!わ、わたし、頭がヘンに!えええー」

 

俊夫「蝉も終わりや。夏中うるさかったなあ。昼にカップラーメンはまずい。あのええ嫁はどないなってもたんや」

幸恵「ただいま」

俊夫「おかえり、どないやった、耳鼻科は?」

幸恵「………

俊夫「聞こえへんのやな。ほら紙に書いた。読んで」

幸恵「夫源病やて」

俊夫「何?それ、えっ!」

幸恵「疲れたから寝るね。このパンフレット読んで」

みー「にゃあ」

幸恵「みいちゃんごめんね、お昼ご飯もろてないん?かわいそうに」

みー「にゃあにゃあ」

幸恵「ほら。食べたら一緒にお昼寝しょ」

俊夫「あのええ嫁はどないなってもたんや」

 

俊夫「パンフレットて。なんじゃフゲンビョウて。えーなになに、夫の何気ない言動や夫そのものの存在が妻の強いストレスになって起こる病気。なんじゃあこれ!そしたら、なにか!おれが悪いんか!長い勤め、やっと終えてゆっくりしたい思てんのがあかんちゅうんかあ!おれが俺の家におったらあかんちゅうんか!」

 

幸恵「ふわあ、ぐっすり寝てもとったわ。晩御飯、レトルトカレーにしてね」

俊夫「えー、レトルトて、そないなもん。あっ!いや、ええで。ビール自分で出すわ」

 リリーン

俊夫「電話や!あっ、電話は聞こえるんや」

幸恵「もしもし、いやー、綾、久しぶりやなあ!えっ、ランチ、ええなあ、うーん、そやけどお昼、うーん、やめとくわ、出にくいんや。ごめんな、みんなええなあ、ゆっくりできて。そしたらな、よろしゅう言うてな」

俊夫「これか!ストレス?俺か!」

 

俊夫「『男の料理教室』今日が初めてです。よろしくお願いします」

松田「あー、ぼくは三年めです。どうぞよろしく」

俊夫「なんか嫁さんが『夫源病』とか言われて。訳分からんし、腹たつし」

松田「いや、そらそら!実はうちもです」

俊夫「えっ、お宅も」

松田「いや、困ってしまって、僕、今は、あっちこっち出かけてます。そしたらどうです、家内、うそみたいに元気になりましたよ」

俊夫「そんなもんですかなあ」

松田「どうです?帰りにちょっと一杯」

俊夫「よろしいなあ。飲みに出ることもなくなってしもて」

松田「それがダメなんです。ご飯を毎日家で食べたらダメです」

俊夫「そんなあほな。暴力振るうわけでもなく、まして浮気してるわけでもない。家でおとなしゅうご飯食べる。これがあきませんのか?」

松田「理不尽な気もしますが、とにかく亭主が家にいることがダメみたいです」

俊夫「えらいことになってしもうて。定年後の夢がパーやがな」

松田「まあお近づきに。哀しい亭主に乾杯!」

俊夫「もう、やけ酒や」

松田「こうして飲んで帰ってごらんなさい。奥さん、きっとルンルンしておられますよ」

俊夫「晩飯いらんて電話したら、嫁さんの声、トーンが高かったわ。電話は聞こえるんやわ。どないなっとんのや!あほくさ」

松田「しかし、つまりませんねえ。仕事は厳しかったですからねえ。家内がどれだけ理解してくれてるんだか」

俊夫「まだわけが分かりませんわ。新聞や週刊誌の記事が目に留まって読んでみますけど、

『退職後の生きがいづくり』『熟年夫婦の危機』『夫在宅症候群』とか、なんなんや思いますなあ」

松田「まあなんとか距離とって平和共存しないと亭主はお先真っ暗です」

俊夫「料理は役にたちますかなあ」

松田「役に立つというか、作ったものを昼飯に食べて帰るから、それが家内には喜ばれてますね」

俊夫「あーなるほど」

松田「家のことすべてほっていた報いとか言われても、なんともねえ」

俊夫「まあ何もしなさすぎたかなと反省はしとります。わし、子供のおむつ替えたこともないんですわ。母親も長生きしましたからなあ。嫁もたいへんやったやろと」

 

俊夫「そしたら料理、行ってきます」

幸恵「いってらっしゃい。ごゆっくり」

俊夫「うおっ、聞こえとるやないか」

 

俊夫「ただいまあ」

幸恵「………

みー「にゃあ」

幸恵「みーちゃんどないしたん?あら、おかえりなさい。遅いから心配してた」

俊夫「ただいまは聞こえへんのか、どない考えてもおかしい」

みー「にゃあ」

幸恵「はいはい、うん?読むの?これ」

幸恵「また松田さんと飲んできた。来週から週三日アルバイトも決めてきた。ひやー、どないしましたん」

俊夫「それで昼の弁当。頼めるか。あかん、書くわ」

幸恵「はいはいお安い御用よ。そうなん、週三日、またみーちゃんと二人のお昼」

俊夫「なんかにやにやしてるなあ。聞こえへんからええけど」

 

俊夫「ふわー、ええ天気やなあ。梅満開で、ええにおい。気持ちええなあ」

幸恵「ほんま、思い切って出てきてよかったわ」

俊夫「山の空気はやっぱええなあ」

幸恵「ほんまや、梅の香りって最高や」

俊夫「えっ、幸恵、わしの声聞こえてるんか!」

幸恵「いやほんま!どないしたんやろ」

俊夫「どないしたんやろって、それでまともやないか」

幸恵「ほんまや。あはは」

俊夫「なんか目から水が出てきよった。この間、鶏のワイン煮ちゅう料理なろたんや。今度作ったるわ」

幸恵「えらいおしゃれな料理やなあ。楽しみや」

俊夫「あはは」

幸恵「うふふ」

俊夫「ええ嫁やなあ」

幸恵「ええ旦那やなあ」


この本の内容は以上です。


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