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第3章 教育の後期

 前回の、

 

(1)集中による個性の獲得

 

 に引き続き、

 

(2)因果律の洗練による合理性への接近

 

 をお送りします。 


(2)因果律の洗練による合理性への接近

体験から経験へ

 

 次に時間軸について見ていこう。


 教育の初期においては、まだ経験とは言いがたい"体験"が主体のなかで蓄積され、その蓄積のなかで作り上げられる「イメージ」が、教育の中期における教示内容を受け入れるための媒体となっていた。そして、この媒体を通して主体は教示内容を暗記する。ゆえに、教育の中期までに、主体は知覚能力として「体験と暗記」を備えているということになるだろう。


 すでに教育の初期で語ったことだが、経験が体験と異なるのは、経験が、自らが体験したことの意味や意義を把握することであるのに対して、体験は、感覚的に知覚したことが、心的に意義づけられることなく、そのまま記憶のなかに保存される――つまり体験が体験のままで保存される――点である。


 しかし、この「教育の後期」に至って、主体はようやく体験を経験に変化させることができるようになる。また、主体のなかで意義づけられていない点では、ただただ暗記しただけの教示内容(知識)もまた体験と似たようなものであったが、これもまた、ここに至って経験へと変化させることができるようになるのである。

 

 


意義を与える因果律

 

 ところで、意義づけられるとは、換言すれば、主体によって、それが「認識される」ということである。認識するとは「その体験や知識が、時間的な前後関係にあって、自分にとり、どのような役割(意義)を持つことになるか」を理解することだからだ。


 そして、かかる「認識」をするためには、私たちは、ある一つの"形式"を満たさなければならない。それこそ本節における主題となる「因果律」という形式である。


 因果律とは"原因と結果の連鎖"あるいは"問提と帰結の連鎖"のことであり、「~によって~が起こる」とか「~があるとすれば、その前に~がなければおかしい」といった思考パターンが連なることを言う。


 つまり「かくかくの原因によって、しかじかの結果が起こる」とか「かくかくの帰結があるとすれば、それにはしかじかの前提がなければおかしい」といった流れが成立するので――原"因"と結"果"に"律"せられた形式――因果律と呼ぶことができるわけだ。


 そしてまた、ある結果は次に起こることの原因となり、ある帰結は次に展開する状態の前提となる。そのようにして"原因と結果""前提と帰結"が連続していく訳である。

 

 


目的を持った自主的人間

 

 このような因果律は、また「~ということが前提としてあるならば、そのあと~といったことが起こるだろう」という予測的なイメージを主体のなかで生じさせることになる。


 そして、この予測的なイメージが、主体をして「時間のなかで起こる事象を企画する」とか「時間のなかで生きる自分を企画する」といった形での自主性を主体に与えるのである。つまり主体は「~を実現するために、その前提となる~をしよう」ということを考えるようになる訳だ。


 ある程度の予測的イメージがなければ、人間は、自らの行為や人生を企画することはできないし、また、このような企画的自主性――目的を持ち、それに近づくよう邁進すること――を持たない限り、人生は、時の流れに惰性的に流されるだけのものになってしまう。

 

 しかるに、教育の後期の課題は「自我の獲得」であり、自我とは自主性の確立に他ならない。よって、他律的に動かされる(惰性的に流される)ことなどは決して主体に許されないのである。


 こうして、因果律という形式による「認識」、そして、かかる認識よって生まれる「経験」が、教育の後期の主題となることが理解される。


 まとめると「体験や知識は"因果律"によって、主体にその意義を"認識"され、それによって、体験、知識から"経験"へと姿を変える」ということである。


 そして、その経験の内容を見れば、そこには、すでに経過したこと(過去)を因果律によって捉えることばかりでなく、さらに、これからのこと(未来)も因果的に予測する、ということまでもが含まれている。

 

 そして、この予測的イメージが、時間的自主性の最たるものである企画性、つまり目的に近づくために邁進するという形での自主性(=自我)を生み出していくのである。

 

 


自ら求める気持ち

 

 因果的な認識によって、体験や知識を経験に高めるようになる始まりは、日常生活のなかで「これは、どうして、どのようにして起こったのだろう」とか「この一般に認められている情報は、はたして本当のことなのだろうか」といった疑問を、さまざまな対象に向けて抱くことである。ここに経験の原点がある。

 

 そして、その答えを自らの探究や調査によって得ようとするならば、その主体のなかではすでに、体験や知識は、経験へと変わり始めていると言えるだろう。


 もっとも、小さな子供も「どうして」を繰り返し口にすることがある。三歳ぐらいにはその問いかけの頻度がピークに達するが、しかし、それは労せずして他人に答えを求めるものであり、自ら努力を払って答えを探究するという自主性を持った「どうして」ではあり得ないだろう。それに対し、ここで求められているのは、まさに答えを自ら求めようとする姿勢なのである。


 自主的な「どうして」の探究-簡単なことに思えるかもしれないが、しかし、これをしていない人がいかに多いことか。

 

 驚くほど多くの人たちが、与えられた情報に何ら疑問を持たずに生きている。探究というに相応しいほどの「原因の究明」や「結果の予想」をしている人はほとんどいないというのが実情ではないだろうか。そこには、ただ周りからもたらされる情報に流されて生きる受動的な人間像がある。


 いや、私はべつに懐疑論者になることの勧めをしている訳ではない。ただ、本当のことを知りたいと思う気持ちを育んでいってもらいたいのである。

 

 


時が流れるとき

 

 ところで、因果律を駆使するようになると――体験が認識により経験のレベルに達すると――主体の前で"時間が流れる"ようになってくる。因果律、すなわち「原因→結果→原因→結果」という連鎖は、そのまま一条の時の流れであり、したがって、因果律が用いられる際には、時間の流れもまた、これに伴って必ず現れてくるのである。


 このようなことを言うと、


 「時間が流れているのは当たり前じゃないか。因果律うんぬんを持ち出さなくとも、誰にとっても時間は流れている」と反発なさる方が出てくるかもしれない。


 しかし実際にはそうでもなく、時間的自主性を持たない体験や知識のレベル、つまり「教育の初期」や「教育の中期」にある人たちにとっては、時間は。"流れている"体のものではないのである。その最も極端な"流れていない"時間の事例はやはり幼児のものであるが、それは大体次のようなものだ。


「幼児は現在に生きているといわれるように"今"だけが問題であり、以前はどうだったか、これからどうなるかということは、まったくわからない――というよりは知らないのである。


 幼児は、時間をバラバラな独立したもののように考える。(中略)時間経過は連続的でなく、飛躍的で、月が変われば何か実質的な変化が起こるように感じる。「あした」が「きょう」になることが理解しがたい。まして時間を抽象的な量として理解することは不可能である」(浅見千鶴子、稲毛教子、野田雅子『乳幼児の発達心理、3~6歳』より)


 もちろん大人になれば、ここまで極端に"時間が流れない"ということはない。しかし、たとえ時計上は時間が流れていても、因果律によって物事を見ようとしない者にとっては、時間は、そのところどころの断片的印象しか与えないものであり、あえてそのような時間を全体として捉えれば"ふと気づけば過ぎていた"程度のものでしかないのである。


 古代ローマの哲学者であるセネカは言っている、


 「どんな善いことのためにも〔時間が〕使われないならば、結局最後になって否応なしに気づかされることは、今まで消え去っているとは思わなかった人生が最早すでに過ぎ去っていることである。全くそのとおりである。われわれは短い人生を受けているのではなく、われわれがそれを短くしているのである」

 

「〔経験でない」そのほかの期間はすべて人生ではなく時間に過ぎない」


 と。(セネカ『人生の短さについて』より)
 

 

 

自主性によって流れる時間

 

 右の言葉からも分かるとおり、流れているのと過ぎているのとでは随分と大きな違いがあると言えるだろう。


 因果律によって時間が流れている人間にとっては、その流れの道筋(原因結果の連鎖)が見えているので「ふと気づけば過ぎていた」ということがない。いわば流れに合わせて川を泳ぎ、余裕を持って辺りを見回しているのが彼のあり方なのである(もちろん未来に思いを馳せ、過去を顧みるときには、一時的に時の流れから外れることになるだろうけれども)。


 これに対して、時間(人生)が「ふと気づけば過ぎていた」というケースは、いわば知らぬうちに時間に流されていたということであり、明らかに自主性の喪失を意味している。

 

 もっとイメージ的なたとえをするならば、すなわち泳ぎ(因果律)を知らないために河流に押し流され、水面下に沈むような形で溺れ、たまに頭を水面上に出したときにだけ辺りの景色を目にする、というのが彼のあり方なのである。


 この、たまに水面から顔を出すときが"ふと気づく"ときであり、そのように"ふと気づく"と、前に見たときには景色がまるで変わってしまっていることすらある。


 そのため彼は思う「こんなにも移動していたのか(歳をとっていたのか)」と。しかし、そうしてふと気づいても、だからといってそれ以上のことをする訳ではない。彼はあくまでも惰性的であり、それゆえ結構な衝撃を感じても、すぐにまた時間の流れに溺れていくのである。


 こうしてみると"流れる"と"過ぎる(流される)"との間にある相違が、いかに大きなものであるのかが分かる。それは主体における時間的自主性の有無が生み出す相違であるが、となると、いかに時計が客観的な時を刻もうとも、時間の流れというものは、確固たる客観的事実というよりは、よほど主体の心の産物としてのニュアンスが強いものであることになるだろう。


 すなわち、時間的自主性(因果律による認識)を持たない者は、また時の流れを持つこともないのである。換言すれば「教育の初期」や「教育の中期」にある者は、いまだ「流れる時間」を持っていないということになる。

 

 


合理性への接近

 

 それに対して「教育の後期」にある主体は、確かに「流れる時間」を持っている。


 しかし、その時間の流れが"つつがない(抵抗がない)"ものであるどうかは、現状ではまだ定かではない。


 つまり、因果律を用い始めたばかりで、まだ使い慣れていない、使いこなれていない、といった場合、時間は流れ出したものの、その流れはいまだにたどたどしく、ときにつっかえ、また往々にして止まってしまうこともあるだろう、ということである。


 こうした不都合は、教育の後期が進展していくにしたがって――つまり後期のさらに後期になった頃には――より改善されて流れがスムーズになっていくだろうが、最終的な解決は、獲得目的が獲得実現となる「自我の確立」の段階にいたって、初めて与えられることになるだろう。


 すなわち、自我の確立における時間軸の内容は「合理性の確立」であるが、かかる合理性こそが"つつがなく流れる時間"を実現するものなのである。


 したがって、教育の後期にあっては、因果律という形式をできるだけ充足させることによって、合理性に接近することを目指す他はない(※)。

 

※哲学者カントが因果律と言う場合、そこでは原因と結果の結びつきに必然性が求められる。すなわち「その結果の原因はそれであらねばならない」と。


 しかし、私が因果律という場合には、原因と結果の結びつきには蓋然性しか求めない。すなわち「その結果の原因はそれであり得る」と。ゆえに一口に因果律と言っても、カントと私とでは理解の仕方が異なる。


 そして、因果律に必然性を求めた場合、私はこれを合理性と呼ぶのである。私の場合でも、合理性にあっては、原因と結果の結びつきに「それであらねばならない」が求められるということだ。そして、かかる合理性は自我の確立の段階でないと成立しない。


既刊作品のご案内

キリストの再臨

 

 写真つきのエッセイ集であるが、もう3年近く前の作品になる。軽い読み物なので簡単に読み終えてしまえるのが良いところだろう。ふと見れば、4500以上の閲覧数になっていた。福音書シリーズの『インターレグナム』が2000を超えた程度だから、かなり差が出来ている。

 

 同系統の新しいものを作りたい気持ちはあるのだが、写真を撮るのが億劫で、どうも作業が始まらない。そのため、この3年前の作品を、いまだに紹介し続けることになるのだが…

 

 


奥付



【2019-02-11】アルベド② 教育の段階


http://p.booklog.jp/book/125779


著者 : 正道
著者プロフィール:http://p.booklog.jp/users/seidou1717/profile


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