目次
はじめに
第一部 私と台湾
日本語は私と台湾の架け橋(アンディチャン)
台湾の楽しい思い出 (池田徳三郎)
何故台中市は大好きなのだろうか?(池田徳三郎)
台湾に残る狛犬たちを訪ねて(市来訓子)
私を台湾へ導いてくれた台中のご縁(伊勢寛)
埔里で日本語教師をして (伊藤直哉 )
いりぐち(大竹千紘)
台湾の神社に魅惑された私 (金子展也)
慰霊訪問団に参加した孫の感想(小菅亥三郎)
ドライブと温泉(駒井教雄)
私の台湾人生(酒井充子)
私の台湾史(佐藤晋)
台湾の日本語世代からのエール(佐藤民雄)
台湾へ出向(鈴木誠真)
台湾へ留学の思い出(高橋美代子)
お爺ちゃんとの思い出(舘量子)
台湾の世相の変化(陳秋蘭)
台湾の鐡道に魅せられて (戸井智博)
私と台湾(飛石秀樹)
台湾物語(中須賀重幸)
台湾と中国のはざまで揺れた心(中山孔明)
台湾と祖父母と私(永峯美津保)
環島(西川洋美) 
私と台湾 (丹羽文生)
台湾との邂逅(福田真人)
変わるものと変わらないもの(松尾功子)
台湾を歩いて(松任谷秀樹)
台湾で観たお月さま(森順子)
台湾は台湾 (李中元)
私と台湾のご縁(山本幸男)
私と台湾のかかわり (山元與一 )
日本語と私(林玫芳 )
台湾で見つけた人生の目標 (若尾彩加)
第二部 湾生と日本語人
私の一生(木村英一)
故郷の川(島崎義行)
暖かい台湾の心(瀬戸省三)
勇気ある質問(泰一則)
台中にて(堀部二三男)
二つの故郷(溝口啓二郎)
詩「戦後60年」(許育誠)
皇太子殿下のご成婚に期待をかけて(許昭栄)
昔の夢にふける(洪伯若)
冬(曹劉金花)
回顧(游大坤)
母の思い出(李栄子)
終戦当時の思い出 (李英妹)
詩「故郷」(劉心心)
私達と日本語(林陳佩芳)
僕の軍隊経験(林啓三)
私の少女時代(林翆華)
水産学校(林彦卿)
編集後記
編集後記
奥付
奥付

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私を台湾へ導いてくれた台中のご縁(伊勢寛)

 

私を台湾へ導いてくれた台中のご縁

 

仙台市 伊勢 寛

 

  私はかつて台湾で短期語学留学を繰り返していた時期があり、台南・屏東・苗栗で生活した経験があります。本当に有意義な時間で、日本語世代のお年寄りたちと親交を深めたり、東日本大震災への支援に感謝する活動を行ったり、語学の傍ら様々なことに挑戦していました。

 

その間、台湾全土にたくさんの友達ができましたが、ここで書くのはそれよりもずっと前の物語です。実をいうと、私を台湾へ導いてくれたのは台中の友人たちです。今回はそんな台中のご縁について書こうと思います。

  

➀「おばあちゃんはあの時代を楽しんでいた」A姉弟

  学生の頃、夏休みにニュージーランドへ語学留学をしていた時の話です。台湾人のA姉弟と仲良くなり、生まれて初めて台湾人の友達(後に苗栗の客家人だと知る)ができました。英語のクラスは、日本人・台湾人・中国人・韓国人がいて、親日・反日がはっきり別れていました。ディベートをすると、韓国人は議題と関係ないことでも何かと歴史的なことを持ち出して日本を悪く言い出し、中国人がそれを煽るという構図でした。しかし、台湾人の彼らはそういうことは一切しませんでした。

  ある時思い切って、A姉弟の姉の方に聞いてみました。

 「台湾だって昔日本だったでしょ。韓国人の言うことはどう思う?」

 「少なくとも私のおばあちゃんはあの時代を楽しんでいたと思う。おばあちゃんは日本語が話せるし、家には畳の部屋もあるよ」

 衝撃でした。それまで台湾のことはほとんど知らなかったのですが、A姉弟のおかげで台湾に強い関心を持つようになりました。

 

 留学を終えてからしばらくは彼らと連絡を取らなかったのですが、5年くらい経ったある日、ふと懐かしくなって連絡してみたところ、A姉弟の姉はアメリカに、弟は台中にいることがわかりました。その時、私は仕事でタイにいたので、いつか台湾へ行って再会することを約束しました。後に、台中でA姉弟と再会できた時は本当に嬉しかったです。みんなで逢甲夜市へ遊びに行き、苗栗の実家にもお邪魔させてもらいました。残念ながらおばあちゃんは他界されていましたが、本当に畳の部屋があり、おばあちゃんの国民学校時代の写真が飾られていました。

 

②タイで一緒に働いたB老師・C老師

  タイの大学で日本語を教える仕事をしていた時の話です。同僚に台湾人のB老師がいました。「私は台湾語のネイティブだ。中国語より台湾語の方が得意だ」という人で、時々私に台湾語を教えてくれました。最初に習ったフレーズは、「ゴワシーリップンラン」(我是日本人)でした。タイで台湾語を習ったおかげで、私の台湾語の発音は非常にいいと、台湾人からよく言われます。

 

ところで、タイの大学では外国人講師は長期休業中の帰国が許されていたので、日本からタイへ戻るとき台湾に寄ってB老師と会う約束をしました。台中にお住まいとのことだったので、朝馬のバスターミナルでB老師と待ち合わせして、案内されて台中をあちこち巡りました。あの頃は中国語も全然わからず、台湾で見るもの全てが新鮮で、驚きと興奮の連続でした。B老師のお母さんが老人協会のようなところが開講している日本語教室に通っていて、飛び入りで授業もさせてもらえました。授業と言っても、昔の懐かしい歌をみんなで歌っただけなのですが、この体験で台湾にどっぷりはまり、いつか台湾に住みたいと思うようになりました。B老師とは退職後音信不通になってしまいましたが、風の噂で、台湾に帰ってから出家して仏門に入られたと聞きました。

 

B老師の後任として赴任してきたのが、同じく台湾人のC老師です。その頃タイ全土に中国政府肝煎りの孔子学院が設置され、中国語教育から台湾人教師が駆逐されていましたので、台湾人講師の派遣はC老師あたりが最後だったのかも知れません。そのC老師は「私は台湾語は話せない」という人(後にお父さんが外省人だと知る)で、台湾人にもいろんな人がいるのだなぁと知るきっかけになりました。

 

私がタイの大学を退職してから、C老師とも連絡が途絶えていたのですが、東日本大震災の折「心配している」とメールをいただき、再び連絡を取るようになりました。震災で台湾から多大な支援を受けたことも相まって、日本の真の友人は台湾だと強く思うようになりました。それから、台湾の人たちに感謝の気持ちを伝えるためにはちゃんと語学を勉強しなければという思いで、中国語の勉強を始めたのです。C老師とはタイでは英語で会話していましたが、今では中国語で会話できます。

 

そのC老師は台湾へ帰国後結婚して台中に住んでいましたので、台中のお宅へも高雄のご実家にお邪魔させてもらったことがあります。C老師のお父さんとも仲良くなったのですが、おっしゃっていたことが印象に残っています。

 

「戦前大陸の天津に住んでいたのだけれど、家の隣に日本の兵隊さんが住んでいて、いつも可愛がってもらっていた。あの兵隊さんにまた会いたいなぁ。お礼が言いたいから探してほしい」

 ステレオタイプ化された外省人のイメージとかけ離れていて驚きましたが、嬉しく思いましたし、本当に台湾にはいろんな人がいるのだと改めて思いました。

 

③「日本人は冷たいけどあなたは違う」と言ってくれたD副店長

 

 A姉弟の弟の方が台中で働いていて、「職場に日本語が話せる人がいるから来てほしい」と言うので、市政北三路にある某日系ゴルフ用品店にお邪魔しました。そこで知り合ったのがD副店長(現在は店長)です。日本の大学を卒業していて、日本語も堪能なのですが、日本にいた時は日本人の友達がほとんどいなかったとのこと。「日本人はシャイ。冷たい。でもあなたは違う。あなたいい人」と言ってくれて、すぐ打ち解けました(笑) お店の店員さんたちとも仲良くなって、仕事が終わってからみんなで食事に行ったりしました。実は私は20代の頃は人と関わるのが苦手で交友関係も狭かったのですが、台湾にたくさんの友達ができたことで、苦手を克服することができました。台湾に来たときはいつもこのお店に立ち寄って、楽しい時間を過ごさせてもらっていました(だいぶ仕事の邪魔をしていたと思います…)。

 

思い出深いのは、D副店長に鹿港を案内してもらった時のこと。鹿港の名所を巡っただけでなく、実家にもお邪魔させてもらいました。翌日南投の東埔へ行く予定があったので、バス停まで送ってもらったのですが、D副店長は「中国語もわからないのにひとりで行くの? 東埔までどうやって行くの? バスの乗り方わかるの?」と言って、バスが来るまでバス停を離れようとしません。私が「大丈夫。子どもじゃない。筆談するから心配いらない」と言いましたが、全く聞きいれてくれませんでした(笑)

 

 ちなみに、その時東埔まで行ったのは温泉に入りたかったからじゃありません。学生時代に北海道のアイヌ文化の研究をしていた時、調査のため泊まっていたアイヌ民宿に原住民のブヌン族の人たちが来ていて、仲良くなりました。ほとんどの人が「中国語より日本語の方がわかる」と言っていたのが驚きでした。ある時ふと思い立って、何年も前に一緒に撮った写真を持って、交換した名刺の住所を頼りに東埔まで突撃訪問してみたのです。その方は原住民委員会の顧問をしていた方でしたが、突然の訪問にも快くもてなしてくれました。この時、村で日本語を話すおばあちゃんに出会ってお話を伺ったことが、台湾日本語世代のお年寄りたちと交流の嚆矢です。

 

 以上のように、私がまだ台湾をよく知らなかった若い頃に知り合った台湾の友人が、みな台中に縁がある人たちだったという奇跡。そして、台中の友人たちが私を温かく受け入れてくれたからこそ台湾にのめり込むことができ、今の私があります。喜早さんの「臺中伍圓の會」に参加させていただくにあたり、私の台湾の原点となる台中でのご縁を、改めて大切にしたいと思いました。本当にありがとうございました。


埔里で日本語教師をして (伊藤直哉 )

 

                埔里で日本語教師をして

 

         南投県 伊藤直哉

 

1、はじめに

 

 現在、台中及び埔里にて日本語教師をさせてもらっている伊藤直哉と申します。  

台湾に来た当初、台北で語学の勉強と、その後は大学院にて研究をしておりました。台湾中部に来るようになったきっかけは、中部の大学から講師としてお誘いを頂いた為であります。ここ台湾中部に来て早10年、まったく人脈(友人)のない状態から、現在は至る所に友人ができ、多くの人に支えられ、有意義な毎日を過ごしております。

 

2、埔里に来てから

 

ここでは私が埔里で行ってきた人々の意識改革についてお話させて頂きます。 

 当時の埔里では、日本語学習塾がなく日本語教育環境が整っていない環境のため、人々は「日本語を勉強したいが、いい先生がいない」や「いい塾がないから私はダメ」だなどという声を聞いておりました。まさに環境が整っていない=我々にはできない、といった風潮があり、その為日本語の勉強できないというものでした。

 

 埔里に来てまず行ったことは、日本語を教える以前に、人々の考え方を変える必要がありました。自分は出来る、または埔里ででも出来るという考えです。それらを生徒に身につけさせるための努力の日々が始まりました。それらは日本語を教える以前の作業です。台北のように沢山の塾が存在し、多くの教師や生徒がいる環境であれば、そのような作業を行うは必要ありません。ですが埔里ではこのレベルから作業する必要がありました。

 

 まず行った事は、勉強は楽しい事だと教えることから始まりました。今までは先生からやらされて行う勉強に慣れてしまっていた生徒を、自らするものだという考えを学ばせました。それらには勉強を行う動機が必要でした。その為、なぜ日本語を勉強するのか、なぜ勉強が大切なのかという事を学ばせ、如何に本人にやる気を起こさせるかが課題となりました。それらは元々のネガティブな感情をポジティブに変える作業ですから、簡単なことではありません。

 

 これらの考えを伝えるにはただ一つ、生徒を信じ、教え続ける事でした。生徒を必ず成功させるという思いで日々努力し、日本語を教え続けました。多くの生徒が集まりは消えを繰り返し、私自身も何度も心が折れそうになりましたが、次第に私の努力を理解してくれる生徒が一人二人と現れ始め、一人で始めた日本語の授業も徐々に多くの生徒が集まるようになってきました。心の変化が現れてきたのです。生徒たちの勉強する意識や雰囲気が変わるのが感じ取れました。

 

 次は結果です、勉強を行う限りは結果が求められます。結果を出さなければただのボランティア活動をしているにすぎません。私は次に生徒たちには日本語能力試験を受けるように動機付けを行いました。そしてその結果次第では、日本に交換留学やワーキングホリデーに行けるという目標を与えたのです。夢を与える事で生徒のやる気を起こさせる方法です。実際成功している台湾人の先輩が日本で活躍している姿などを見せ、私達でもできるという勇気を与えたのです。

 

 結果、日本語能力試験においてはN1合格者も出し、多くの学生を交換留学やワーキングホリデーで日本に送り出すことができました。結果が出たときは、生徒のみならず生徒の親御さん、そして私自身も達成感でいっぱいとなり、頑張ってきた甲斐があったと実感できます。

 

3、最後に

 

 以上が私の埔里で行っている日本語教育です。目標がなくてはやる気が出ません。これは何をするにしてもそうです。人から与えられた課題をこなすのではなく、自ら夢や目標を見つけ、それに向かって努力する。そしてその手助けをするのが我々教員の仕事だと思っています。基本的に私は生徒に対してはこのような指導を続けております。

 

 人々の意識が変わり、その結果環境も変わり、現在埔里では多くの生徒が日本語を勉強しており、その礎となることができました。埔里で日本語教育を通して、両国にとって利益のある社会貢献ができていることを誇りに思っております。これからも多くの台湾人を育成する為に努力をし続けていきたいと思っております。

 


いりぐち(大竹千紘)

 

                 「 い り ぐ ち 」

 

                   

           千葉県 大竹 千紘


-出会い

ひょんなことから私の中で台湾という存在が次第に大きくなりました。始まりは、インターネットで見つけた大叔父に関する記事からです。 私とは100歳以上年齢差があり、もちろん生前会ったことはない大叔父。

祖母から話を聞いていましたが、まさかその大叔父が台湾で銅像になっているなんて。生前会う夢は叶わなかったけれども、せめて銅像に会えたら、大叔父が台中市新社区で手掛けた白冷圳を自分の目で見ることができたら.. そんな興味と好奇心がきっかけで、私は台湾に惹かれていきました。


2度の渡航

念願叶い、銅像の大叔父に対面したのは平成2910月。当初は個人で白冷圳を巡る予定でしたが、ご縁もあって、現地の方々と共に白冷圳周遊ツアーの催行に至りました。大叔父が指揮を執った白冷圳を水源から終着地まで一通り訪れ、食事をともにお話を聞く機会も設けて頂きました。

白冷圳の完成により農業用水や生活が潤ったこと、1999年の台湾中部大地震による水路倒壊で改めてその恩恵を実感したこと。私も当時に思いを馳せながら、貴重なお話を聞かせて貰いました。建設当時は、日々の生活さえも想像に及ばない程の苦労があったと拝察します。その尽力の結果、水路ができ土地が潤沢となったことはもちろん、100年以上先の祖先である私たちと台湾を繋ぐきっかけとなるなんて、きっと大叔父は想像しなかったことでしょう。帰り際「来年の白冷圳文化節に参加してほしい」とお声をかけて頂き、次回の約束をして帰国の途に就きました。


2度目の渡航は、平成3010月。


1度目訪台時の約束を果たすべく、白冷圳建設を祝うお祭り・白冷圳文化節に参加した2回目。 何よりも、想像以上に大きなお祭りで驚きました。地元の方による演奏や踊り、演劇を楽しみ白冷圳が愛されている様子を垣間見ることが出来ました。

そして私たちが白冷圳建設に関わったかのように、始終歓待して下さいました。 私も例外ない日本人のようで、そのご厚意に遠慮し、何やら恥ずかしいような申し訳ないような経験したことのない気持ちでいっぱいでした。

加えて「来年もこの先も参加してほしい」との言葉を頂き、2回目の訪台も終了しました。

2度に渡る台湾訪問後、私自身は建設と全く無関係であるのに何故これほど歓迎されるのか、有難いと思うと同時に、ふと素朴な疑問が湧きました。

 

そしてそれは、大叔父の軌跡が世代を超え今なお、台湾と日本を結び付けているという事実への敬意からではないか、という考えが浮かんだのです。更に今を生きる私たちは、この先も繋がりを絶やさず、なおかつ育んでいく使命を担っているのではないか、と。私の心に引っかかっていた遠慮や恐れ多い気持ちは全くもって不要なものでした。それよりも、このご縁を後世へ伝えるために自分に何ができるのか、そう考えるきっかけとなりました。


-新たな発見とこれから

訪台以降、家族や親戚とも台湾の話題を共有する機会が増え、大叔父の弟にあたる祖父と祖母達も昔台湾に住んでいたということを初めて知りました。 私が今生かされているのは、そのようなルーツがあったようです。 今はもう当時の話を聞くことは叶いませんが、いつか祖父達の所縁の地も訪ねてみたいと思っています。 この出来事以降、私が台湾をより身近に感じたことは言うまでもありません。


そして今現在、私は農業に携わっています。


それは従来の土耕農業とは異なり植物の水耕栽培と魚の養殖を掛け合わせた新しい農法で、台湾では「魚菜共生」、欧米等では「アクアポニックス」と呼ばれています。国連の農業支援活動の1つとしても採用されており、世界中に広まりつつあります。しかし日本を含むアジアはこれからで、今後の広がりが期待されています。 私の目標の1つは、近い将来、台中でもこの魚菜共生を実践することです。 願わくは白冷圳の水を使って。


大叔父が築いてくれた軌跡から、次は私が台湾と日本の架け橋になる番です。そのために、私にできることを小さくても少しずつ、始めていければと思っています。数年前には予期せぬ未来が、今は待ち遠しくて仕方がありません。


私と台湾、まだ始まったばかりです


 

  

 

 

 

 



台湾の神社に魅惑された私 (金子展也)

                                      台湾の神社に魅惑された私 

 

                                                    埼玉県 金子展也

 

 台湾に駐在していたころ、当時の本社の社長から「少なくとも駐在員は、その国の文化を知れ」といわれたことがある。またたま、2002年、台湾北西部の金宝山に東洋の歌姫といわれたテレサ・テン(鄧麗君)のお墓を見に行った帰りに、金瓜石(きんかせき)に神社の遺構があるというので立ち寄った。何もわからずに、黄金博物館横の参道を登り始めると、灯籠と鳥居に遭遇し、参道の先に延びる山腹を見上げると、城壁のような上に鳥居の一部が見えた。一目散に石段を登りつめると、アテネのパルテノン神殿を彷彿させるコンクリートの石柱が目の前に現れた。これらは拝殿の柱に使用されたものであった。鳥居の柱には「昭和拾貮年七月吉日 金瓜石鑛山事業所職員一同」と刻まれていた。かつては東北アジア第1の金山と呼ばれ、明治29年(1896)に田中長兵衛率いる田中組によって採掘がおこなわれた。昭和11年(1936)には金5トン、銀15トン、そして銅11000トンを産出した日本鉱業の構内神社であった。

 

金瓜石神社の遺構が頭から離れないなか、たまたま雑誌に掲載されていた神社遺構や遺物の記事に接して神社跡地に対する興味と一種の懐かしさを抱きつつ、週末を利用して所在地がわかる神社跡地を訪ねるようになった。せいぜい2030ヶ所と鷹をくくっていた。ところが、台湾総督府が昭和18年(1943)に発行した『台湾に於ける神社及宗教』により201ヶ所の神社(遥拝所含む)一覧表を見つけて驚いた。5年間の駐在期間を終え、帰国後も調査を継続し、15年が過ぎた。これまでの私の調査では、私設神社や本殿だけの小さな神社(祠)や小・公学校校内神社などを含めるとその数は約400ヶ所になり、これまで380ヶ所を訪れた。これまでの調査・研究の集大成として昨年5月に『台湾に渡った日本の神々』を出版することができた。この中で、台湾総督府が公認した神社を含めて230ヶ所を紹介した。

 

神社跡地を調査する過程で、当時の多種多様な日本人の生活空間に数多くの神社が造営されたことから、「ひょっとして神社を調査することで、日本統治時代の台湾の産業史及び社会史に迫ることができるのではないか」と考えるようになった。台湾神宮など、正式な社格を持つ神社とは別に官営企業(樟脳、林業、酒造)、水力発電所から民間企業(製糖業、鉱業など)、さらには軍隊、移民村、小・公学校、先住民部落、刑務所、遊廓、デパート、動物園などありとあらゆる場所に土地守護神としての神社が造営された。これらの神社造営の背景とわずかに残された神社遺構と遺物から当時の台湾で起きたドラマの数々を垣間見ることが出来た。その一例として宜蘭神社跡地に残された遺物から製糖会社の歴史の一部について述べてみたい。

 

宜蘭神社跡地の一部は員山公園と忠烈祠になっている。忠烈祠内には当時の宜蘭庁にあった神社の資料センターにもなっており、貴重な情報が残っている。忠烈祠に至る石段前には、神社遺物として狛犬や神馬(しんめ)、さらには石灯籠の一部がオブジェの様に多く残されている。特に石段前のブロンズで出来た狛犬は非常に珍しい。当時の本殿に至る石段手前に「奉獻 台南製糖株式会社」と刻まれた灯籠の一部がある。

なぜこのような場所に()()製糖の奉納物があるのであろうか。さらに市内の分昌廟に「馬到成功」として残る神馬

(石段前の神馬は複製品である)があるが、この神馬を奉納したのが昭和製糖であった。これら製糖会社と宜蘭はどのような関係があったのであろうか。


 宜蘭神社跡地の一部は員山公園と忠烈祠になっている。忠烈祠内には当時の宜蘭庁にあった神社の資料センターにもなっており、貴重な情報が残っている。忠烈祠に至る石段前には、神社遺物として狛犬や神馬(しんめ)、さらには石灯籠の一部がオブジェの様に多く残されている。特に石段前のブロンズで出来た狛犬は非常に珍しい。当時の本殿に至る石段手前に「奉獻 台南製糖株式会社」と刻まれた灯籠の一部がある。なぜこのような場所に()()製糖の奉納物があるのであろうか。さらに市内の分昌廟に「馬到成功」として残る神馬(石段前の神馬は複製品である)があるが、この神馬を奉納したのが昭和製糖であった。これら製糖会社と宜蘭はどのような関係があったのであろうか。

 

 

明治35年(19026月に「台湾糖業奨励規則」が発布され、新渡戸稲造は殖産局長に任命された。そしてこれまでの水牛が旧式の石車を引いて廻る旧式製糖から新式製糖産業に対する資本投下が本島及び内地より矢継ぎ早に行われた。折から、日露戦争後のにわか景気に沸き、明治38年(1905)に陳中和など台湾の有力者5人により資本金24万円で鳳山(現在の高雄市鳳山)に新興製糖、また、阿緱(現在の屏東県屏東)では蘇雲梯などが6万円を投じで南昌製糖を興した。内地の資本家も台湾の製糖事業の有望性に着眼し、明治39年(1906)には明治製糖、翌年には塩水港製糖及び東洋製糖が設立された。また、少し遅れて明治42年(1909)には新高製糖、林本源製糖、大日本製糖、翌年には帝国製糖や中央製糖など主要な製糖会社が設立された。

 

 

数多くの本島人及び内地人による投資が矢継ぎ早に行われた中で、本島人である陳鴻鳴(ちんこうめい)により、明治39年に当時の台南庁噍吧(タバニー)永興製糖が創立され、明治42年(1909)に初めての圧搾が開始された。明治45年(1912)には圧搾能力を上げるために英国資本系の怡記洋行(The Bain & Company)から新式圧搾機械を購入するが、当初予定されていた能力300トンを大幅に下回る180トン程度しか実現できなかったため、怡記洋行と係争問題に発展する。さらに、同年6月の豪雨により曾文溪が増水し、同社の鉄橋が流失し、多大な損失を負い、経営危機に陥った。

 

 

大正2年(1913)に永興製糖の事業を継承することにより、資本金300万円で台南製糖が創立され、噍吧と呼ばれた新化郡玉井庄に本社を置いた。大正4年(1915)に勃発した西来庵(しらいあん)事件により、現地での労働力を失しなってしまう。さらに、玉井は地理的に交通手段の便が悪く自社の軽便鉄道の敷設ができず、雨季には鉄道の橋梁を流失する。また、既に、台南の各地は外の大手製糖会社により甘蔗(サトウキビ)作付け地盤が固められており、台南製糖が事業を拡大する余地は少なかった。大正5年(1916)に台南製糖はこれまで大手製糖会社が見向きもしなかった宜蘭の合名会社宜蘭製糖所の傘下にある七張庄製糖所の事業を継承した。その後、宜蘭製糖所を羅東郡五結庄二結(現在の二結郷)に移設し、同時に本社をそれまでの噍吧から宜蘭に移転する。大正7年(191812月には甘蔗のバガス(搾汁後の搾りカス)を利用して製紙工場を建設し、翌年の5月に操業を開始した。その後、昭和8年(19337月に製紙工場を新たに台湾紙業株式会社として設立したが、昭和10年(1935)に内地の王子紙業株式会社が四結に台湾興業株式会社を創設し、台湾紙業は合併される。 

 

 

順調に進んだ製糖事業も、欧州大戦(大正37年)後の世界経済恐慌による糖価暴落及びその後の事業拡大で資金調達が出来なくなり、遂に大正14年(1925)に破産宣言を行った。そして台南製糖は昭和2年(1927)、新たに誕生した昭和製糖に事業が継承される。その昭和製糖は昭和8年に新竹及び沙轆(しゃろく)の製糖会社と合併し、本社をそれまでの宜蘭から台中州の苗栗に移すが、昭和14年(1939)に大日本製糖と合併し、宜蘭工場は二結製糖所と呼ばれることになった。目まぐるしく変動する業界で、昭和17年(1942)に米作への作付け転換を推進する総督府の要請により、宜蘭工場の閉鎖を余儀なくされた。製糖工場の設備機材は全て船で南シナ海北部の海南島に移す予定であったが、途中で米軍の攻撃により海底深く沈没した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 


慰霊訪問団に参加した孫の感想(小菅亥三郎)

 

        慰霊訪問団に参加した孫の感想

 

                    福岡市 小菅亥三郎

 

 私は平成11年から20年間継続し慰霊を目的に台湾への訪問を続けております。この企画は100%民間主体です。わが国の公的機関から1円の予算措置も講じられておりませんが、これが私たちの団体の健全性を将来に亘っても担保する必要にして最低限の条件であると思います。名もない市井の人の依頼心なき善意の結集がどれほど強力な力を発揮するかが鮮明に把握できる環境の構築保持こそがこの慰霊訪問の原動力であるからです。

 

 この団の目的はあくまで大東亜戦争で亡くなられた元台湾人日本兵軍人軍属33000余柱の慰霊におくということです。かつて天皇陛下の臣民として、わが国のために戦い尊い命を捧げられた台湾人の皆様の勲を、戦後の日本人である私たちが現地・台湾で顕彰するというところがポイントであると思います。

 

 過去、幾世紀にも及ぶアジアにおける欧米列強(白色人種・ユダヤ)による植民地支配の軛から、黄色人種を解放するという世界史的な偉業に貢献した彼らを、私たち・日本人が発掘し顕彰し続けなくて一体誰がこの作業をするのか、私はこの問題意識と使命感こそが団の魂と思っております。

 

 最後に家族交流・兄弟交流について一言申し上げます。私たちは現地の人々と一緒に慰霊祭を執り行いますが、ともすると戦死者を「犠牲者」として把えがちな現代の風潮とは逆に、お国のために、そして共通の目的のために殉じた「英雄」として顕彰してきております。かくあってこそ慰霊祭の場は、私たちが彼らと同胞の契りを結ぶ格好の機会になり得るのです。ここから両者の間に家族交流・兄弟交流の関係が芽生えるにはさして時間はかかりません。団の目的からして必然的結果といえばそれまでですが、両者の関係はここまで昇華させなければまごころの交流はないと思います。

 

 お互いにたった一つしかない命を楯(たて)に、大東亜の解放という壮挙に生死を賭け、世界史のうねりを大きく変えた若かりし日の実績を正しく認知し、その価値を共有することこそが誠の家族交流・兄弟交流の基盤を構築していくものと確信し、私たち訪問団は今年もわが国を代表し、この行事を実行していく所存です。台湾に思いを寄せる多くの皆さまのご教示、ご支援をお願いする次第です。

 

 以下に、一昨年と昨年続けて2年続けて参加した私の孫の感想文を掲載致します。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

日本と台湾の永遠の友好を願って「日本の一角」に起つ

 

                 第二班 田口班 茅野櫻(中学2年)

 

 私は今回初めてこの慰霊訪問団に参加しました。まだお腹の中にいた頃に一度行ったことがあるそうですが、もちろん覚えていません。私はこの旅に参加して「楽しい」よりも「嬉しい」の方が多かったです。

 

 まず、台湾の方が日本語を上手に話していること。次にその方々が日本についていろんなことを知ってくれていること。私はこの2つが特に嬉しかったです。

 

 私は台湾について、祖父や母から教えてもらった少しのことしか知りません。日本のことを日本人よりも好きでいてくれる台湾の国のこと、人のこと、歴史のことなどたくさん知りたいと思いました。

 

 今回の旅で私が心に残っている場所は、六士先生のお墓です。私は将来、海外青年協力隊に入り、世界の困っている子供達に勉強を教えたいと思っています。六士先生は台湾の子供達に教育をしに来たのに殺されてしまったと聞き、すごく悲しくなりました。でも、それと同時に立派なお墓があることが嬉しかったです。

 

 台湾での5日間、私はたくさんの人に会いました。その中には、母が「台湾での私のお父さんとお母さんよ」といって紹介してくれた方や、日本で兵士をしていた方、小学校の校長先生、看護婦だった方など尊敬できる方がたくさんいました。そんな方々と名刺を交換して当時の話などを聞いて、私たちが今、学校で習っている歴史とは違うことに悲しい、悔しいと思いました。そして、私は正しいことを学ばないといけないと思いました。また、祖父がお寺やお墓の前で読んでいた祭文の「日台の生命の絆死守せんと 吾日本の一角に起つ」の言葉が心に残りました。

 

 私も日本と台湾の永遠の友好を願って「日本の一角」に起ち、これからも日華()親善友好慰霊訪問団に参加したいと思いました。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

私はおじいちゃんがおじいちゃんで良かったです

 

                 第二班 田口班 茅野慧(小学6年)

 

 私は今年初めて日華()親善友好慰霊訪問団に参加し台湾に行きました。これが私にとって初めての海外旅行です。私が訪問団に参加しようと思ったきっかけは、参加した人の感想文を読んでとても感動し、興味を持ったからです。

 

 私が心に残ったのは5つあります。1つ目は「台湾日本関係協会主催歓迎夕食会」で外務省の李恵珊さんが、おばあちゃんの誕生日を祝ってくれたことです。まるで自分のことのようにうれしかったし、おじいちゃんとおばあちゃんを誇りに思いました。またその中で、李さんが言っていた「恩返し」という言葉です。日本人でも恩返しという言葉はあまり使わないので驚きました。そして、李さんは日本や日本人を心から好きなんだなと思いました。

 

 2つ目は潮音寺です。あの突風の中で国旗を持つのは大変でした。でも、訪問団の人たちも風に耐えて立っていたのですごいなと思いました。

 

 3つ目は宝覚寺です。日本の人たちが90年前に立てた木造のお寺を、台湾の人たちは建て替えるのではなくて、「日本人が建ててくれたから」と寺を覆う蔵を建てて下さったことに感動しました。私は台湾の方々が日本のことを守って下さっているように思えました。

 

 4つ目は南天山濟化宮の位牌の数です。私は本当に4万柱もあるのか気になったので、位牌の数を計算してみました。すると、約34千柱くらいありました。私はそれに対して、日本が他国の戦死者をお寺で祀っているとはあまり聞きませんが、台湾は日本の戦死者をちゃんと祀っている事に、感謝の気持ちでいっぱいになりました。

 

 5つ目は鹽水國民小學校です。私は学校で南京大虐殺は本当の話だった、真珠湾攻撃は日本が予告せずにやった等の、反日的なことを教えられています。学校のみんなは、日本は最低だ、中国はかわいそうだと思っています。私は日本の小学生なのに、私よりも日本らしい教育を受けている台湾の小学生達がうらやましいと思いました。また私は、日本の子なのに日本のことを誇りに思えないのはとても悔しいです。

 

 私は訪問団としての5日間で、本当にたくさんのことを学びました。きっと普通の小学校生活では学べないと思います。私はおじいちゃんがおじいちゃんで良かったと思っています。もしも、おじいちゃんがいなかったら、今頃私は日本のことが大嫌いだったと思います。おじいちゃんがこういうことを真剣に考えてくれるお陰で、私も本当の歴史が知れたし、台湾でたくさんの良い人たちに出会うことができたからです。

 

 私は台湾で学んだことを学校の友達に伝えたいと思っています。また台湾に行きたいです。これからも「日華()親善友好慰霊訪問団」が長く続くことと、日本と台湾の国交がもと通りになることを願っています。

 

 

 

尊敬される国に戻りたい

 

           第二班 柴崎班 茅野櫻(中学3年)

 

 私が今回、台湾慰霊訪問の旅に参加して一番強く感じたことは「尊敬される国に戻りたい」ということです。

 

 台湾の方々は、私たちが行くととても喜んで下さり、盛大な歓迎をして下さいました。また、昔の日本と台湾のことなど、慣れない日本語で一所懸命教えて下さいました。日本のことが大好きで、とても尊敬してくれて

 

いるんだなと感じる機会がたくさんありました。とても嬉しかったです。でも、それと同時に今の日本は台湾の方々の期待に応えることができるのだろうかと不安になりました。

 

 私は最近、「カエルの楽園」という本を田口さんから薦められて読んでみました。とても面白くて一気読みしました。でもカエル達の世界を今の日本におきかえてみると、とても恐ろしくなりました。この本のように、今の日本はバラバラで、中国、韓国、北朝鮮、ロシアなどたくさんの国に国土を奪われたり、狙われたりしているのに、国民は危機感を持っていません。このままでは、尊敬されるどころかバカにされてしまいます。

 

 今の日本の状況を少しでも良くするためには、私たちの取り組みをもっと伝え、広げていくことが大切だと思います。日本が明治の頃のように活気があふれ、尊敬される国に戻ることを願って、これからも毎年参加していきたいです。

 

 

私達にもできること

 

          第二班 柴崎班 茅野慧(中学1年)

 

 私がこの台湾慰霊訪問の旅に参加するのは今年で2回目です。2回目なので去年と違う見方で訪問することが出来ました。また、2回目で慣れていたけれど、やはり台湾に行くと改めてすごいなと思うことが多かったです。

 

 特に私がすごいと思ったのは、まず台湾の方々が上手な日本語を話されることです。台湾ではどのお寺に行っても、どこの食事会に呼ばれても、ほとんどの方が上手な日本語を話されていました。その中には、今の日本人の知らない「教育勅語」や「軍人勅諭」などを暗唱している人もいました。台湾の方々は日本のことを本当に信頼してくれていて、心の底から感動できる旅でした。

 

 でも、戦争で亡くなられた日本人のためにお寺を建てたり、日本人に親切にしてくださる台湾の方々に、私たちは国として何かをしたでしょうか。台湾の兵隊さんのためにお寺を建てましたか。何もできていませんでした。

 

 ただでさえ国交が断たれている今、台湾とではなく、中国と仲を深めようとしている人の方が多いです。

 

 そんな中、20年前、祖父がこの慰霊訪問団を立ち上げ、こんなにも団員が増えています。この慰霊訪問団は祖父のたくさんの努力と、たくさんの方々の協力のお陰だと思っています。今では、台湾と日本を繋ぐ数少ない存在となってしまいました。これからは、台湾と日本の国交が回復する事と、この慰霊訪問団が末永く続くように、私も参加していきたいです。

 

 

 

 



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