目次
はじめに
第一部 私と台湾
日本語は私と台湾の架け橋(アンディチャン)
台湾の楽しい思い出 (池田徳三郎)
何故台中市は大好きなのだろうか?(池田徳三郎)
台湾に残る狛犬たちを訪ねて(市来訓子)
私を台湾へ導いてくれた台中のご縁(伊勢寛)
埔里で日本語教師をして (伊藤直哉 )
いりぐち(大竹千紘)
台湾の神社に魅惑された私 (金子展也)
慰霊訪問団に参加した孫の感想(小菅亥三郎)
ドライブと温泉(駒井教雄)
私の台湾人生(酒井充子)
私の台湾史(佐藤晋)
台湾の日本語世代からのエール(佐藤民雄)
台湾へ出向(鈴木誠真)
台湾へ留学の思い出(高橋美代子)
お爺ちゃんとの思い出(舘量子)
台湾の世相の変化(陳秋蘭)
台湾の鐡道に魅せられて (戸井智博)
私と台湾(飛石秀樹)
台湾物語(中須賀重幸)
台湾と中国のはざまで揺れた心(中山孔明)
台湾と祖父母と私(永峯美津保)
環島(西川洋美) 
私と台湾 (丹羽文生)
台湾との邂逅(福田真人)
変わるものと変わらないもの(松尾功子)
台湾を歩いて(松任谷秀樹)
台湾で観たお月さま(森順子)
台湾は台湾 (李中元)
私と台湾のご縁(山本幸男)
私と台湾のかかわり (山元與一 )
日本語と私(林玫芳 )
台湾で見つけた人生の目標 (若尾彩加)
第二部 湾生と日本語人
私の一生(木村英一)
故郷の川(島崎義行)
暖かい台湾の心(瀬戸省三)
勇気ある質問(泰一則)
台中にて(堀部二三男)
二つの故郷(溝口啓二郎)
詩「戦後60年」(許育誠)
皇太子殿下のご成婚に期待をかけて(許昭栄)
昔の夢にふける(洪伯若)
冬(曹劉金花)
回顧(游大坤)
母の思い出(李栄子)
終戦当時の思い出 (李英妹)
詩「故郷」(劉心心)
私達と日本語(林陳佩芳)
僕の軍隊経験(林啓三)
私の少女時代(林翆華)
水産学校(林彦卿)
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回顧(游大坤)

 

回顧

 

                          台北市 游大坤

 

私が生まれた時は日本人であった。日本人として、教育の義務、兵役の義務も果たして来た。しかし、私の心の奥に中国と言う祖国を持っていた為か、時には思想が悪いといわれた事もある。今にして思えば、同じ頃、生粋の日本人の中にも反戦論者もいたし、神社参拝を拒否する者まで居たのだから、私一人が思想云々とは不思議な話である。勿論、予料練にも、予備学生にも志願せず、のうのうと学徒出陣の命令が出る迄暮らしていたのだから、忠君愛国の端くれにも入れて貰えなかったかも知れない。

  

六十を迎えたから、人生の整理期に入ったと思う。私が人生を回顧するのに、今は台湾人であっても、日本人であった頃を空白にする事は出来ない。

  

日本は変わった、その変化が余りにも多く、しかも日本人自身が良く気づかない面も多々ある。例をあげて見よう。「けふがくかふで、てふてふを見ました」明治のおじいさん、少しぼけている、と言うだろうか、或は外国人だから不明瞭のまま相槌を打ってくれるだろうか。では新かな使いで書いて見よう。「きょう、がっこうで、ちょうちょうを見ました。」即ち「今日、学校で蝶々を見ました。」である。私が怪しげな日本語を使用した、と誤解しては困る。昔は前のほうが正しいかな使いであったのだ。戦後フイリッピンで三十年間戦闘を継続した兵隊さんが、いきなり日本に帰って来たら、言葉を忘れかけていたと言う。ペルーと一緒に日本に来た外人が明治初期に再度日本を訪問したと仮定するなれば「刀をさげていたあの丁髷(ちょんまげ)さんが見当たらないが。」と質問したくなるであろう。今時、お侍さんの風態で街を歩くと、道を行く人はチンドン屋が通るとしか思わないだろう。今頃「俺は士族でござる」と鼻にかけていたら笑われる。終戦後、四十年を経過している。終戦の年に生れた赤ちゃんは今頃四十歳のおじさん、おばさんになっている。世の中の変化は当然あって然るべきだ。子供がいつの間にか大人になった、と驚かないのは側において育っているからである。たまにしか見ない親戚の人が、まあ!この間よちよち歩きのあの子が、と驚くのは、たまにしか見ないから、その差が特に目に付くのである。山の中にいては森が見えないのである。吉野山の桜は山の外からでなくては満開の味を、その雄大さを知ることができない。奥千本の中に閉じこんで桜を論ずるならば日本至る処でそれが出来る。限られた何本かの桜を例にして千本の桜の味は表現できないのである。私は日本に入国したり、出国したり、日本人であったり、なかったりで、ちょうど吉野山に入ったり出たりしているつもりで、日本を論じたり批判したりしてみたい。或いは別の趣がある事を期待しながら。

  

靖国神社の大鳥居に台湾阿里山奉納、と書いているのは国辱だ、と台湾の新聞に出ていた。まるで取り返したら日本帝国に五十年支配された史実が帳消しになる、と言わんばかりだ。しかし第一、台湾に持ち帰っても薪{まき}にするならいざ知らず、鳥居以外に使用したら、その美的感覚は消えるのである。又使い処もない。

 

 左右二本の柱に笠木を渡した靖国神社の神明鳥居は名実共に「空を衝く様な大鳥居、こんな立派なお社に、神と祭られ、勿体なさに」と身の引きしまる思いがする傑作である。大柱二本、笠木一本、貫一本、と四本の木材から出来ている鳥居の木材は、同じ山からでも得がたい。同じ阿里山の檜であって、太さと長さが足りたら良い、だけには行かない。同じ岡でなければ色合いが合わないのである。その他、質等の問題もあるから、鳥居を造るための檜材を発注しても、値段を張っただけで得られるものではない。鳥居は神明鳥居とか木島鳥居に関係なく、木材で造るなら、以上の配慮が必要である。こんな意味で靖国神社の鳥居は、日本にとって国宝的存在であると言える。

 

 

 

 

 


母の思い出(李栄子)

                          母の思い出

 

                       

                        台北市 李栄子

 

 「うさぎうさぎ何見て跳ねる

 

十五夜お月様見て跳―ねる」

 

 毎年八月になりますと懐かしい幼年時代を思い出し、つい口ずざんでしまいます。あの頃は人生で一番楽しい時で、思い出が走馬灯の様に次々と出て来ます。縁側は嵐か冬の寒い時しか閉めません。平和な時代でした。

  

 八月十五日には縁側にテーブルを二つ並べて、私は山の麓で切って来て芒の花を花瓶に挿して、お月様の歌を歌っていると、お月様の中からうさぎの餅つきが出てきて、弟妹に「見てごらん、兎が餅をついているよ。」と言うのです。みんなで大賑いしながら、お母さんがお萩を作ってくれるのを待っていました。私は十人兄弟の長女ですので、お手伝いしたり、子守りをしたり、たいへんでした。

 

時が変わるり、お月見も変化し、若者達の「フンイキ」も違います。月の世界に行けるようになり、何でもお金の時代になり、昔のロマンチックな気分も薄くなり、月餅とお月様を結び付ける事も少なくなりました。

 

「どこどこの月餅がおいしい。」とか「一個何百元でも食べで見たい。」とか若者同志で遊びに行くことが楽しみで、バーベキューなどで賑やかに楽しんでいるようです。

 

 

思えば、むかし父の誕生日が十五夜と近い日で、結婚後、父に会う日がお月見より嬉しくて、里帰りをしました。当時はいまと違って、里帰りは、一年に何回かで、たまに婚家に用事が出来た時などお祝い物を送ると、父は不機嫌になり「栄ちゃん、帰れないなら品物を返しなさい」と言ってひねくれます。「やっぱり親孝行に帰らなくては」と思って遅れても父に、甘えて帰りました。

 

父が早く亡くなったので、母が可哀想なので、父が生きている時よりも、よく帰りました。でも、母を慰めに帰ったのに、(お父さん子でしたので、私は、何時までも、悲しくたまりません。)母に会うたびに「お前のように、くよくよしていたら、妹弟がまだ何人残ってる。結婚してない。ママはどうするの?しっかりしなさい。」と反対に励まされました。母は「強い」です。母は十人の子供を皆自分一人手で育てました。里帰りもせず、一生懸命に子供を育ててくれたのです。「御恩返しをしなくては」と、私達は毎年母の誕生日には、母の側にいて上げました。

 

その後、母亡き後十人の子の内で六十歳、七十歳、八十歳の誕生日には、母を忍んで、十人が集まることを、約束したわけではないけど、今でも、兄は七十八歳、末弟は、来年六十歳でまた集まります。母の下さった私達の宝物、十人兄弟姉妹は、お金で買えられません。私達は思い出をたくさん集めては母を忍んで、昼食をとり、二次会は、カラオケで十人の家族も一緒に賑わいます。

 

お母様有難う。神様感謝します。いつまでも私達をお守りください。

 

      20031016

 

 

 

 

 


終戦当時の思い出 (李英妹)

            終戦当時の思い出             

                     高雄市 李 英妹

  

南投県の双冬学園に疎開していた私は、そこで終戦を迎え11月末に父に連れられて故郷に帰って来ました。既に変わっていた町を見る暇も無く、仲良しのお友達とお別れの挨拶をする時間もなく、急に台北転勤に成った父の後を追って台北に来ました。

 

本当に慌ただしい毎日の中で、日本人だった台湾人は何時の間にか中国人になっていたのでした。

 

疎開以来、来た事のない台北の町はごった返していました。

町はみな傷ついていました。そして黙々として笑い声の無い町になっていました。

日本語しか話せなかった私達は、他人に聞かれたら怒鳴られるのが怖いのでお話もせずに、大人の側でおとなしくしていました。

 

父は台北の本社に、姉は当時教員をしておりましたが父の転勤で、200人に一人の女性しか採用しない省政府の試験に通り既に就職しておりました。終戦で私が未だ疎開地にいた少しの間に台湾も随分変わって言語習得の早い、そして職場の関係で父と姉は随分と頑張ったのでしょうね。多少なり北京語が話せる様でした。

 

落ち着かない生活の中に、学校は既に復校しており日本時代に残された学生は二百人余りその中に女学生が八人だけでした。男生徒ばかりの学校の女生徒が混ざって何だか変な感じでした。新制女子師範から一年下って学校に戻る様にと言われましたが、一年下るのも嫌だし唐校長も私達を残したいと言うお気持も御座いましたので、今迄の台北師範に残りたいと云う意味を書いてもらった手紙を持って八人で談判に行きました。

 

手紙を出して、「好不好」「好不好」としか云えなかったので、身振り手振りを加えたあの頃の談判を今思い出しますと随分滑稽な事でした。「残って宜しい」との返事を貰って校長先生がとても喜んで下さった事を覚えております。

 

台湾で始めての男女共学でした、そして始まったのは新しい中国教育でした。

 男生徒の中に、北京語の話せる人が四人位おりました。私は自分が話せないので、何時も羨ましく思っておりました。授業の始まる前に一人一人名前を呼ばれますが、皆同じく聞こえて「有」と三・四人が同時に返事をして立ち上がり、皆ビックリして又皆座ってしまう事も度々でした。先生も心得て居ますので笑っているだけ。

  

ある朝、どういう風廻しか私に領隊(級長の様な役目)という命令の紙が一枚渡されましたが、何か分からないので男生徒に聞いて見ますと或る人に「北京語も台湾語も話せないのにこんな事を引き受けたら駄目だ」と叱られたので、泣く泣く教官に、「我不会做、不想做」(できないから、やりたくない)と断りに行きましたら、台湾語・北京語交じりに何かと説明して下さり、最後は先生が手伝うからと手振り身振りを合わせて、丸められて代表役を務めさせられた事も懐かしい思い出です。

  

又、戦争で習えなかったピアノの授業が、此処に残された日本人の先生が私達を教えて下さっておりました。私は、同級生より少し遅れて復校しましたので、ピアノも少し遅れておりました、ある朝少し早めに学校へ行ってピアノ教室で練習しておりましたら、練習不足できちんと弾けなくて聞いて耳障りだったのでしょうか。私は人が入って来たのも知らないで夢中で練習していたらしくその人が後に来て、頭の上から手をピアノに伸ばして「此処は、こうやって弾くのだ」と云って、ポンポンピアノを叩いて師範してくれましたが、私しかいないと安心して練習していた所の出来事にビックリした私は何処を教えてくれたのも知らずに、どうしたらよいのか、一言も言わずに頭を下げておりました。

 

その人は、云い終わると俯いて何も云えない私を見て直ぐに出て行きました。

 こっそり見ると、髪の毛がグチャグチャした背の高い人でした。私は其の人が出て行くと直ぐピアノの本を閉じて、足音を忍ばせて教室を出て行きました。同級生が来て其の事を言いますと皆大笑いでした。

 

どうして「怒鳴らなかったの」と言われて、私は俯いて声も出なかった位怖かったのにと心の中で恨めしく思いました。学生時代の忘れられない思い出です。

 

その後は授業以外は、その教室に行く事もなく、ピアノは進歩しませんでしたが、

 娘や孫達にはピアノ位は少し弾けて、疲れた時や頭がスッキリしない時は自分を諌める様にと習わせました。

 

 ピアノの代わりに四月の卒業までの短い間、絵を少し描きました。

 

皆、負けない様に北京語を習い講習会に参加して勉強しましたが、毎日お習字の宿題等があったりして卒業の四月を目の前にしても私達の北京語はなかなか進歩しませんでした。 

 

卒業試験は、四ヶ月の中国式の授業をもとに始まりした。

音楽は李金土先生で発声の試験と楽譜を読む簡単な事で済み、ピアノの試験はなかった様に覚えております。体操は温先生でバレーボールをお互いに渡して行く試験でしたが、丁度その日は、靴を濡らして(当時は未だ随意に靴が買えなかった)母の中ヒールをはいて行き試験に出会って、裸足ではおかしいのでそのまま靴を履いて走ったり、飛んだりして、失敗もせずヒールも折れなかった事は、幸いな事でこれも思い出せは随分無茶な事でした。


 一番愉快だったのは、四ヶ月の勉強を終えた筆記試験の時でした。男の学生から「先生は女の子に甘いから試験の内容をこっそり聞き出して来る様に」と頼まれました。試みにと行きましたら、「女の子だから特別に」と教えて下さったのです。

「但し、男の学生に分からせたらいけないよ」との約束でしたが、男の学生の頼みでしたので待ち構えていた方にそれを渡し、答案を研究して、ほしい人に廻したものです。試験当日同じ答えを書いた人は何人いたかしら。そして同じ答えと作文を採点された先生は、どう思われたでしょうか。

 

沢山の楽しかった事辛かった事、そして失敗事を残して皆無事に卒業して社会に出て活躍が始まったのでした。 あの当時は、私には言葉が話せないと言う事が一番苦しい事でした。

其の為学校の推薦で台大か師大に進学出来る機会を、自信が無くて断った事は今になっても未だ悔しく思っております。

 

 卒業後は、直ぐ家の近くの昔の幸小学校の教員になりました。

 初日は、一生懸命に覚えた一行だけの初対面の挨拶もそこそこに、台を降りてしまい

緊張した一日でした。

 当時は未だ日本教育の名残があり、暫くは日本語台湾語交じりの授業でしたが、早く北京語を覚える為に講習会と云うものがあり先生方はそれに参加して、発音・文法・作文等を習い翌日は早速それを利用して、子供達に教えました。文章を書くのに接続詞や形容詞が難しくて頭を痛めました。


ある日弟が帰って来て、老師が「明天没有学校、你們不要来上学」(明日は休みだから登校しなくてよい)と言ったけど、学校はちゃんとあるのにどうして「没有学校」と言っているのかと不思議そうに言っていたので、私も考えて見ましたら、台湾語を直訳、北京語にした言葉でした。こう云う言葉が沢山あって面白い時代でした。

 

五年生の受け持ちでしたので、家事の課目に女学校で習ったお裁縫の基礎を教え、材料の無い時期に廃物利用で簡単な上着を、手縫いで作ったり、寒天を作ったりして、女生徒を喜ばせたものでした。まだ軌道に乗っていない時でしたので、わりと開放的でした。

 

初めての林間学校が夏休みに開かれて、私も其れに参加出来る機会が与えられました。その後は、此の林間学校の行事も無くなった様でした。

 

選ばれた生徒、教員、教育局、市政府の役員、医者二人に、看護師等が一緒に成って授業したり、運動したり、絵を描いたりして楽しく過ごしました。

  

寝癖の悪い子達が風邪を引かない様に夜は何度も起きて布団を被せたり、子供達が怪我をしない様細心の注意を払って毎日を過ごし、子供を育てる事の難しさ、責任、和気あいあいと云う言葉の真実さを切実に身に感じさせられ、私には大きな収穫でした。


其の時もまだ北京語が皆、良く話せなかったので台湾語、日本語混じりの毎日でした。 付属小学校から、自分の学校に帰って来る様にと言われて、民国三十七年(1948年)八月に付属小で教える事に成りました。


其の頃百人位の教員の中、台湾人は男の先生が五人、女の先生二人だけでした。

外省人の先生とは、習慣から生活様式等、何もかも違い話も各地(大抵は福建省)の方言の訛りが強く、聞き取れない事も度々で私は台湾の先生の後を追って助けを請う事が多く有りました。

 

一年生を受け持たされた私は、子供達と始めから北京語の勉強をやり直しました。

 注音(日本のアイウエオに当る)から始まり。一字一字口の開き方、紙を口に当てて、息の入れ方、鼻から出る音の練習、其れに声母二十一字、韻母十六字から成り、加えて結合韻母二十二音、四つの音調―・/・\・∨・を正確に教えなければ成らなかった。


丸一ヶ月の時間を掛けて毎日練習し、その後も機会の有る度に教科書に合わせて練習しました。当時、附小の生徒は試験を受けて入って来る制度でしたが、クラスの中には有名人の子や孫が多かったので親も台湾の学校はどんな風かと心配と興味もあったのでしょう。


私の教室の机の後ろに、家から椅子を持って来て二十人位の親が座ったり立ったりして授業を見ているのには、新米の私にはとても緊張させられました。

でも、皆教養が有ってやさしく愉快な人ばかりで、文句を云われたことも無く、間違った所があった時等、休み時間に「先生ちょっと」と言って、人に気づかれない様に教えてくれたりしたのには、とても感謝しました。ある親達は、子供と一緒に勉強している方々もいて、何かと聞かれる事がある時等、出来る親が代わりに答えてくれたり、親同士が教え合って居るのを見て微笑ましい感じを受けました。


誰もが早く台湾の現状に慣れようとしたのでしょうね、そして子供と同じく正しい北京語を話したかったのでしょうと思いました。

其の頃の学校の方針は、まだ日本時代のを受け継いでいる様に思いましたが、段々と一切が中国的に軌道に乗ってきて実験班とか、色々の研究が次々に始まり私達も其の波に乗って、言葉の困難を通り、毎日の勉強と努力に励まなければ成りませんでした。

こうして振り返って見ますと、戦争中に鍛えられた負けじ魂と若かったから、どんな辛い事も切り抜けられたのですね。この年になって字も文も思う様に書けなくなって「若い」と云う事はとても尊いものだとつくづく感じさせられます。

 

 若い人は後で後悔しない様、今のうちに頑張ってくださいね。(了)


 

 

 


 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


詩「故郷」(劉心心)

 

             「故 郷

                            劉心心

 

 

半世紀以前のある日、学校の先生は生徒に言いました。

 

「今日からお前たちはみんな日本人だ。北の方、東海の向う。

 

天皇陛下のおわす内地が、お前たちが忠誠を尽くすべき

 

国家。」

 

  

40年前のある日、学校の先生が学生に言いました。

 

「今日からお前たちはみんな中国人だ。西の方、台湾海峡の

 

向う。中国大陸がお前たちの愛する祖国。」

 

  

20年前の学生は友達に言いました。

 

「東の方、太平洋の向うに広大な土地がある。みんな一緒に

 

移住しよう。みんなでアメリカ人になるんだ。我々のドリームはアメリカにある。」

 

 今の大人たちは自分のアメリカの子供に言いました。

 

「太平洋の向うの小さな小さな海島、緑濃き山々、清らかな

 

流れ、純朴な人々。あそこがお前たちの故郷。我々の真の

 

国土なのだ。」

 

 暖かい母親の懐(ふところ)よ。赤子の揺りかごよ、

 

懐はいずこに。揺りかごは?

 

寂しい台湾人よ、流浪の台湾人よ。

 

どうして、お前の故郷はいつも海の向うでなければ

 

ならないのだろう。

 


私達と日本語(林陳佩芳)

 

           私達と日本語                

                          林陳 佩芳

 

台湾が日本の植民地だったとき、私たちは日本国民だと、日本語を「国語」として教えられ、国語を話すことを要求され、奨励され、家庭内で日本語を常用するものは、「国語の家」と言われました。

 

 終戦後、祖国中国の統治を受けるようになると、今度の国語は「北京語」です。昔国語の家に育った私たちは、今度は北京語と台湾語を常用することになりましたが、台湾語は先祖代々の言葉、たやすくその環境にもどれましたが、北京語は遥か北方の言葉、直接社会との接触の少ない家庭主婦は、生活の必要に迫られず、すぐには話せませんでした。それでも子供たちの進学と共に、子供達の口から、北京語は家庭内に持ち込まれ、家庭主婦たる私たちも、だんだん北京語がわかるようになりました。

  

中国大陸から来た人達は、多かれ少なかれ日本軍のために、心身を傷つけられたことのある人々です。台湾人が、日本語を使うのを聞くと、あからさまに憎悪の情を表し、叱りつけたり、にらんでいく人もありましたし、公然と新聞や雑誌で非難する人もありました。祖国中国の懐にかえったのに、いつまでもかつての統治者の言葉を話すのは、彼らにとってきっと耳障りだったのでしょう。それ故に私達は公の場所では、つとめて日本語を使うのを遠慮しましたが、家の中では、同じ日本教育を受けた者同志、つい日本語が交じります。

 

 その結果、私達の年輩の人達は、北京語、台湾語、日本語の交じった会話が、何時の間にかこの三十余年の言葉になりました。それ故私達の子供達も、日本語は話せずとも、簡単な単語はいくらか知り、知らず知らずのうちに使用していることがあります。時々町を歩いていたり、市場などで、日本語を知らないはずの人達が、話す中に日本語を交えているのを聞くと、オヤッと振り返ってみたりします。

  

テレビの影響力は強く、その普及と共に私達の北京語も上達し、見、聞き、話すことも、一応不自由しなくなりました。家を離れて勉学中の子供達との文通も、一応意識が通じるほどの中国文が書けるようになりましたが、台北方面の多くの家庭は、日用語が殆ど北京語です。

 

近年は、日本とは国交断絶をしましたが、お互いに関係を持っているので、観光、貿易、或いは学術上の必要から、若い人達も第二外国語として、英語の次に日本語を学ぶ者が多くなりました。

  

今年の初め、満二歳に満たない孫が、二ヶ月近く日本に滞在して、帰国しましたら、なんと日本語を上手に話すのです。びっくりしました。しかし大部分のお話しには、台湾語をちゃんと忘れずにいてくれています。日本から帰った日、独りで遊んでいた孫が「オウマチャン トウ シチャッタ」と言いました。私は何のことかとキョトンとしました。私が不審に思っているので「アマァ オウマチャン トウ シチャンッタヨ」と

二、三回言いました。彼の目の前に倒れている玩具の小馬を見て、彼が何を言っているのか判りました。「トウ」は倒れるの台湾語で、孫はお馬が倒れちゃったと、私に言ったのです。彼はまた日本語の祖母は「バアチャン」で台湾の祖母は「アマァ」だとはっきり区別しています。また我が家のダックスフンドが小犬を産んだとき、「シャオ コウチャン」「シャオ コウ チャン」と大喜びで小犬を抱いたり、さわったりするのです。シャオコウは小狗の北京語で、小さい者はチャン、可愛いものはチャンと呼ぶのだと、ちゃんと知っているようです。

  

テレビの広告を見ては、その歌を真似る幼児ですが、将来この子達は、北京語、台湾語、英語、日本語を使っている親たちよりも、もっと多くの言葉を使用することでしょう。

  

<久しぶりに啄木歌集を手にして>

 夢にまで見たとは言わないが、従兄何金生氏夫婦と、親友の兄上にすすめられ、励まされて、「三十一文字」に感情や景色、遭遇などを表すことを試みて以来、久しく忘れていた啄木の歌がしきりに懐かしく思い出され、その歌集を今一度読んでみたいと思うようになった。

 

思えば久しく忘れもし、ご無沙汰もしていた「和歌」である。戦時中の女学生だった私達は、作文の時間に先生から「五、七、五、七、七」の口調を教えられ、何度か作らされたと覚えている。和歌のうわべしか本当は知らないのだが、それを長年「生活の芸術」として「和歌」を作っている従兄夫婦からしきりにすすめられた時、私はちゅうちょした。

  

終戦後祖国中国に管轄されて三十余年、私達は自分の先祖の言葉、文化を理解することに努力した。

 

学業を終戦前におえているので国語(北京語)は一応、見、聞き、話せても。書くことは難しく、充分には意志表示が出来ない。もし詩や歌を詠むのなら、中国字で、中国の詩を!歌を!作ってみたいものだと私は良く思うのだが、残念ながら心余りあれど力足らず、漢文の基礎のない悲しさ、やはり漢詩の出来ない自分である。それに純粋の日本語とは三十余年ご無沙汰をしている。

 

 しばらく躊躇した後物は試しと、忘れていた日本語を、一生懸命思い出しながら、指折り作ったのが、父の一周忌の礼拝を詠んだ和歌で、台北からの帰りの汽車の中で、窓外に眼をやりながら、心の中で言葉探しをし、指を折りつつ字数を数えて作ったものである。そばに座っている夫は、口を動かしてブツブツ言いながら、しきりに指を折っている私の姿に「どうしたの?」と聞いた。私は「いいえ、別に」と答えただけで夢中だった。そして父の一周忌の一ヵ月半後、今度は亡き次女の命日に、私は娘を偲び悼んで、また指折りつつ何首かをつくった。皮肉なことに娘がこの世を去った日は、私達をこよなく愛してくれた父の誕生日だった。だから父亡きあと、娘の命日は父の誕生日にもなるのである。この私にとって万感迫り感慨無量の日、その気持ちを何首かの和歌にうたってみた。こうして私は和歌を作り始め、その作品を求められるままに、従兄夫婦に見せて指導と批評を頼んだり、親友の兄上にも見ていただいたりした。嫂上は啄木の和歌を何首か写してくださった。私は実はそれで啄木の和歌を思いだしていたのだった。もう一度啄木の歌をもっとたくさん詠んでみたい。

 



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