目次
はじめに
第一部 私と台湾
日本語は私と台湾の架け橋(アンディチャン)
台湾の楽しい思い出 (池田徳三郎)
何故台中市は大好きなのだろうか?(池田徳三郎)
台湾に残る狛犬たちを訪ねて(市来訓子)
私を台湾へ導いてくれた台中のご縁(伊勢寛)
埔里で日本語教師をして (伊藤直哉 )
いりぐち(大竹千紘)
台湾の神社に魅惑された私 (金子展也)
慰霊訪問団に参加した孫の感想(小菅亥三郎)
ドライブと温泉(駒井教雄)
私の台湾人生(酒井充子)
私の台湾史(佐藤晋)
台湾の日本語世代からのエール(佐藤民雄)
台湾へ出向(鈴木誠真)
台湾へ留学の思い出(高橋美代子)
お爺ちゃんとの思い出(舘量子)
台湾の世相の変化(陳秋蘭)
台湾の鐡道に魅せられて (戸井智博)
私と台湾(飛石秀樹)
台湾物語(中須賀重幸)
台湾と中国のはざまで揺れた心(中山孔明)
台湾と祖父母と私(永峯美津保)
環島(西川洋美) 
私と台湾 (丹羽文生)
台湾との邂逅(福田真人)
変わるものと変わらないもの(松尾功子)
台湾を歩いて(松任谷秀樹)
台湾で観たお月さま(森順子)
台湾は台湾 (李中元)
私と台湾のご縁(山本幸男)
私と台湾のかかわり (山元與一 )
日本語と私(林玫芳 )
台湾で見つけた人生の目標 (若尾彩加)
第二部 湾生と日本語人
私の一生(木村英一)
故郷の川(島崎義行)
暖かい台湾の心(瀬戸省三)
勇気ある質問(泰一則)
台中にて(堀部二三男)
二つの故郷(溝口啓二郎)
詩「戦後60年」(許育誠)
皇太子殿下のご成婚に期待をかけて(許昭栄)
昔の夢にふける(洪伯若)
冬(曹劉金花)
回顧(游大坤)
母の思い出(李栄子)
終戦当時の思い出 (李英妹)
詩「故郷」(劉心心)
私達と日本語(林陳佩芳)
僕の軍隊経験(林啓三)
私の少女時代(林翆華)
水産学校(林彦卿)
編集後記
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奥付
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私の台湾人生(酒井充子)

 

            私の台湾人生 

 

                        東京都 酒井充子

 

台湾は1895年(明治28年)から1945年(昭和20年)までの51年間、日本の統治下にあった。日本語世代は、日本の教育システムにより日本語教育を受けた人々で、特に現時点で80歳以上の人たちは、日本の戦時体制のもと皇民化教育の影響も受けている。

 

「下関条約により台湾が日本に割譲された」という、歴史の教科書レベルの知識だけしか持ち合わせていなかった私は、今から12年前の1998年夏、初めて訪れた台湾で大きな衝撃を受けた。一本の台湾映画を見て、舞台となっていた台北を歩いてみたいと思い、ふらりと訪れたのが台湾との出合いだ。その旅先で、流暢な日本語で話しかけられた。子供のころにかわいがってくれた日本人教師がいて、戦後、連絡先がわからなくなってしまった。もしお元気なら会いたいと、バス停での立ち話で滔々と語られた。台湾のお年寄りは日本語が話せる人が多い、という程度の認識だった私は、あまりの流暢さに驚くとともに、当時戦後53年経っていたにもかかわらず、恩師を大切に思う気持ちを持ち続けている人がいるということに心を揺さぶられた。

 

 

このバス停での出会いをきっかけに、台湾と日本の歴史をきちんと知りたいと思い、自分なりに勉強を始めた。知らないことが多すぎて唖然とした。周囲の友人たちに聞いても台湾のことを考えたこともないという。日本に対する「悔しさと懐かしさ」が複雑に絡まりあった気持ちを抱えて生き、今も厳しくかつ優しい視線を日本に送り続けている人たちが台湾にいる。そのことを日本人に伝えたい、その一心から映画を作った。

 

 

映画には「私は今の若い日本人より日本人」という女性や、日本兵としてインパール作戦に参加し、なんとか生きて帰国したら自分の国が敵対国の中華民国になっていたという男性らが登場する。彼らの人生は、日本統治時代には日本人との差別があり、戦後は、中国国民党による台湾人の弾圧を経験するという過酷なものだった。日本の統治は日清戦争の結果として始まり、中国国民党の中華民国による統治は、連合国の委託という形で始まったもので、台湾人の民意はどこにも反映されていない。

 

 

台湾人としてのアイデンティティは日本統治時代に芽生え、戦後強固になっていったと言われている。特に日本語世代の人たちは自らの体験から「自分たちの国を持たなければだめだ」という思いが強い。しかし、今の台湾では「現状維持」を望む声が最も大きく、彼らの気持ちと乖離しているというのが現状だ。国連に加盟し、世界に「台湾」を認めてほしいと願う日本語世代は、「日本にも責任がある」という。敗戦国になったとはいえ、かつての領土に対する責任があると。いまの日本そして日本人にできることは、将来、台湾の2300万人の国民が民主的な方法で導き出す結果を支持することだと思う。

 

 

私は七年間も台湾に通いながら、台湾語も北京語もマスターすることなくきてしまった。不遜にも取材はすべて日本語で通したからだ。インタビューを日本語にしたのは、台湾の老人たちが流暢ながらも微妙にイントネーションが違う日本語を操る様子を伝えたかったから。私は彼らの日本語の流暢さに驚きながらも、ある種の違和感のようなものを常に感じていた。歴史の中で強制された言語で語られる言葉を、どのように受け止めればよいのか。スクリーンを通して訴えたかった。

 

いま、台湾でこの原稿を書いている。次作の撮影のためだ。日本統治下の台湾に生まれ、戦時中の1943年、日本に渡った郭茂林(かくもりん)という台湾人建築家の人生を追っている。来年90歳を迎える彼は、日本最初の超高層ビルとなった霞ヶ関ビル(1968年竣工)や新宿副都心開発、池袋のサンシャイン60の建設など、日本の超高層建築の黎明期を支え、台湾の李登輝元総統とともに台北の都市開発の礎を築いた人物なのだが、あまりその名を知られていない。彼の人生は日本の戦後復興から高度経済成長、台湾の民主化の時代と軌を一にする。建築という視点から、 日本と台湾の近現代史をあぶりだしたいと思っている。

 

そして、この次には、いまの若者たちの姿を追いたいと思っている。「台湾人生」で取材した日本語世代たちの思いを彼らは果たして受け継いでいるのか、いないのか。国際的に不安定な立場にある自国をどのような方向に導いていこうとしているのか。

 

わたしの「台湾人生」はまだまだ続く。

 

 

 

        

 

         (注)VIEWS 2010年秋号(第23号)掲載より転載 

 

        (http://www.wjwn.org/

 

 

 


私の台湾史(佐藤晋)

 

            私の台湾史

 

            東京都府中市 佐藤晋

 

 

私個人の台湾との繋がりはまだ二十年にも満たないが、少し視野を広げ、家族史という視点で眺めると、凡そ80年前にあった台湾とのご縁に遡ることが出来そうである。

 

昭和16年になると、時の政府は効率的な戦時体制構築を目的とした産業統制を進めるため、海運分野においては戦時海運管理要綱を閣議決定し、船舶や船員の管理制度の一元化を進めた。昭和173月には戦時海運管理令の公布、同年4月には船舶運営会が設立され、戦時海運事業の統制を担うこととなる。

 

 

私の母方の祖父は船員であった関係で、戦時中、船舶運営会の統制下、主に南方に物資・兵員の輸送を行っていたと見られる。「見られる」と書いたのは、当時、海外航路の船員は家族にも仕事内容や渡航先を伝えられることは禁じられ、何の情報ももたらされ無かったからである。 ただ、平成29年秋、祖父の元勤務先に依頼していた戦時中の乗船記録を開示して貰う事が出来、祖父の足跡の一端を知ることが出来た(とは言っても、乗船した船名、城仙期間、職位のみであったが)。

  

 昭和16128日の開戦半年前から既に洋上にあり、昭和20815日の終戦を跨ぎ、昭和224月に日本に帰国するまでの足掛け丸6年の乗船記録を見てみると、陸に上っていた時間は延べ5か月にも満たない。今の感覚で言えば「ブラック」な香りの芬々とするところだが、国運を賭した非常事態の連続する中、そのようなことを考える余裕もなかったことだろう。

 

連合軍に空を制圧された危険極まりない海から奇跡的に生還した祖父であったが、私の生まれる前に他界しており、祖父のことを直接は知らないが、家族から祖父の台湾に纏わる話を二つだけ、一つは実母から、一つは妻の母方の叔父から聞いたことがある。 

  

前者は祖父が戦後の日本と台湾の民間交易船の第一便の船長を担うという光栄に浴し新聞記事にもなったらしいという話。後者は、昭和181021日雨の神宮外苑で挙行された学徒出陣壮行会を経て台湾に通信将校として出征した妻の大叔父が、出征兵士への労いの挨拶をしに輸送船内を巡回していた祖父と遭ったことがあるという嘘のような話で、十年ほど前、法事の席で祖父のことを話した折、鹿児島出身の祖父の特徴的な苗字が記憶に残っていた大叔父が昨日のことのように反応したのを覚えている。

  

蛇足だが、この妻の大叔父、高砂族のとある酋長さんにえらく気に入られて「うちに婿入りして台湾に残れ」とかなり熱心に誘われた由。もしそのまま残っていたら、巡り巡って高砂族の親戚が居たことになったかもしれない。

 

 長い前置きになったが、私自身、自らの手で紡いだ、細やかな台湾史とはどんなものか。

  秋葉原のラジオ会館に時間があれば通っていた少年時代、とある輸入雑貨商で購入した小さなトランジスタラジオの裏側に「Made in Taiwan」と刻印してあった記憶があるが、恐らくそれが一番古い台湾体験だったのではないかと思う。

 

その次に思い出すのはずっと後年、昭和の終り頃所属していた大学のクラブの台湾国籍の友人が「俺、高校から日本なんだけど、その高校の修学旅行、行き先が中国で俺だけ行けなかったんだよね」という話を発端に彼の身の上から台湾のお国事情まで聞かせて貰ったことである。 また当時、業界団体の仕事で台湾を訪れた父が、台湾総統に就任された李登輝閣下ご挨拶させて頂く光栄に浴したと自慢げに話していた記憶もあるが、「総統」という呼称を聞いて宇宙戦艦ヤマトの「デスラー総統」、ナチスドイツの「ヒトラー総統」といった、マイナスイメージを持った記憶があり、無知蒙昧と罵倒されても仕方ない恥ずかしい記憶でもある。

  

高校生だった昭和50年代後半までに左巻き教育を受けて来た世代である私にとってすら不快感を抱かせる=結局は日本マスコミの自家中毒だった訳だが=ほど日本への諸隣国の風当たりが急激に強まった時代を経て、社会人になって後、アデン湾の機雷除去で活躍された海上自衛隊の落合閣下のご講演を平成3年に赴任中の広島でたまたま拝聴する機会があった。以来、私の頭の左巻きは巻き戻され真ん中からやや右寄りに落ち着いたと思う。

 

初めての海外駐在終えた平成十二年末に読むことになる小林よしのりの「台湾論」は台湾認識を新たなものにした。海外駐在時に出来た日本堪能な台湾の友人にも裏取の目的で読んで貰ったところ「二ヶ所だけ気になったが他は書いてある通り」と言われたことも大きい。

 

その後、広東省に駐在していた平成17年に、あのとんでもない官製反日デモに遭遇するが、それは帰任後、晴れて台湾担当となり、台湾への愛惜を倍加させる反応促進剤となった。  

台湾に足繁く出張する中で喜早さんに知遇を得て台中会で多くの日本語族の方々をご紹介頂いてお話を伺い、産経新聞に勤める大学同期に紹介して貰った同社台北支局長を介して「老台北」こと蔡焜燦先生に会わせて頂いたりと、積極的に日本語族に教えを乞うた。

 

 台湾で仕事をしつつ現実的な生活者としての台湾人を目の当たりにすることで、決してイデオロギーや綺麗ごとだけで台湾を一括りに出来るようなものではないことも改めて理解するきっかけとなり、友人の酒井充子監督が足掛け十年以上を掛けて撮って来たドキュメンタリの秀作/台湾三部作も、自分の頭の台湾人理解を助けてくれている。

  

台湾に心を寄せる多くの日本人同様、私に多くのことを教えて下さった日本語族の方々がこの十数年で体調を崩され、或いは鬼籍に入られたことから、日台の将来に危機感を募らせていたが、この十年で日本が次々と直面した未曾有の自然災害に際し、真心の籠った手を差し伸べてくれる真の友人を、こんなに近くに居たことを多くの日本が見つけられたことは、誤解を恐れずに言えば、神の一助であったのだと感じる。

  

今般、喜早さんが設立された「臺中五円の会」は新世代日台人の交流会としてその存在感を際立たせていくものと確信しつつ、幾ら時間とお金を掛け、神経をすり減らしてお付き合いしてもちっとも実が熟れて来ない、寧ろ腐敗していくような間柄のお国との関係を尻目に、まだ正式な国交を回復出来ていないにも関わらず、民間交流を軸に着々と積み上がる暖かい日台関係を猶更大事に、日本語族の方々が日本に送って下さって来た愛惜と叱咤激励を土台により充実した関係へと成長させて行ける我々でありたいと心から祈っている。

 

 


台湾の日本語世代からのエール(佐藤民雄)

 

     台湾の日本語世代からのエール

                             東京 佐藤 民男

 

 

 

 小学生からの質問で「一番好きな国はどこですか?」というようなものがあります。私は迷わず「台湾」と答えます。ややオーバーに言えば、台湾は私にとって第二の故郷といってもいいほどのところです。 

 

私は台北で暮らしていたことがあります。もう十五年ほど前のことです。当時、私は文科省の在外派遣教員として、台北日本人学校に赴任しておりました。日本と台湾の架け橋となっている喜早さんと知り合ったのもその頃です。

 

その二年間。私は毎朝、ガジュマルの街路樹のある中山北路を歩いて、学校まで通っていました。台北市内には大王ヤシという素敵な街路樹もあるのですが、私は毎日見ていた太く大きなガジュマルの街路樹が好きでした。

 

台湾の食べ物の美味しさは多くの人が語っています。私も例外ではなく、小籠包、マンゴー、台湾茶(台湾烏龍茶)、そして台湾ビールにハマりました。マンゴーが旬の時期は、弁当のデザートは毎日マンゴーでした。

 

「先生のお弁当のデザートは毎日マンゴーだね」

 

小学三年生の子供に言われましたことを昨日のことのように思い出します。

 

そんな素敵な台湾は、かつて日本に統治されていました。けれども、反日ではありません。反日どころか親日です。もちろん、一部には反日の声もあります。が、暮らしている最中、それを感じたことはありません。逆に親日であることを、多くの台湾人と接していて肌で感じ、過ごしていました。

 

台湾には、世界三大博物館の一つである故宮博物院があります。ある時、そこへ行こうとバス停で待っていました。そのバス停は駅前で行き先がいくつもあります。台北に住んでいる私は行き方も知っていて困っているわけではありませんでした。しかし、私の雰囲気と動作を不審に思ったのか、一人の品のある老婦人が私に話しかけてきました。

 

「日本の方ですか?」「はい」

 

「どちらまで行かれるのですか?」

 

「故宮博物院です」

 

「それでしたら、二五五のバスに乗って行けば大丈夫ですよ」

 

 あまりに流暢な日本語に正直驚きました。私は「ありがとうございます」とお礼の言葉を述べた後、バスが来るまでその老婦人とおしゃべりしました。

 

 一見、台北在住の日本人かと思いましたが、彼女は台湾人でした。日本統治下の小学校の時代に日本語を学んだと話されました。それにしてもきれいな日本語で、品がある彼女が話すのを聴いて、日本語の美しさを再認識する体験でした。

 

 この老婦人のように、日本統治下で日本語を学んだ世代を、日本語世代と言います。当たり前かつ悲しいことですが、時代とともに日本語世代は少なくなっています。

 

台北駐在時代、台湾の日本語世代が中心となって創った日本語勉強会「友愛会」に二度ほど参加したことがあります。司馬遼太郎著『街道をゆく 台湾紀行』(朝日文庫)に登場する「老台北」こと故蔡焜燦(さいこんさん)氏も関わっているサークルでした。

 

 今の若い人、いや私自身も戸惑うような漢字の読み方やむずかしい敬語を参加者である台湾人のお年寄りは学んでいました。

 

 その会で、台北駅近くで時計屋(カメラ屋だったかな?)を営んでいるご主人が話されました。

 

「今の日本人には大和魂がない。戦前の日本人はもっと胸を張って生きていた。あなたたちも大和魂をもちなさい」

 

 まさに、蔡焜燦著『台湾人と日本精神』(小学館文庫)の中で、蔡氏が主張されているようなことをストレートに言われました。

 

 今も残る台湾総統府は、日本人が設計し建てました。かつての台湾総督府庁舎です。そこに見学に行った時のボランティアガイドも日本語世代のお年寄りでした。言うまでもなく、流暢な日本語で説明してくれました。

 

「この台湾総統府の建物は実に立派な建物です。真上から見ると、日本の『日』という文字の形になっています。正面玄関は皇居に向かって建てられています」

 

建物の素材や造り方の説明もありましたが、日本礼賛の説明には、こちらの頭が下がるほどでした。彼は何度もこう繰り返しました。「こんな立派な建物を造ったあなた方の先輩、日本人は本当にすばらしい」

 

今の私たち日本人が知っておかなければならないかつての日本人のよさを、私は日本統治下で育った台湾人から教わりました。

 

台湾近現代史は複雑です。親日の理由は、様々あります。でも、私が台湾に住み、感じたことは一つの事実です。台湾は親日です。台湾と同じ日本統治下に置かれた韓国とは違っています。

 

これからの日本を考える上で、子供たちには多角的・多面的な見方で近隣諸国との関係を考えてほしいと思っています。

 

 

 


台湾へ出向(鈴木誠真)

 

            台湾へ出向

 

                 高雄市 鈴木誠眞

 

 阪神大震災の概要把握もできない28日に高雄空港に出迎えてくれたのは國保善次氏でした。

「取敢えず下見に行けば?」と言われて一か月そこそこで私は高雄の子会社に派遣されて、暮らすことになったのです。

 

総務部長から『あなたは少し言葉が話せるようだから、何も心配はありませんよ、同じ中国語です。』

そう言われてそれを鵜呑みにしてきたものの、学んでいた普通話(北京語)とはかなり違う「國語」。

それに加えて「台湾語」・・・親会社からの派遣ということでそれなりに保護された様子で暮らし方のイロハなどを丁寧に教えられながら高雄での生活が始まりました。

 

 全く予想もしていなかった台湾の地理や環境を学ばせるということから、着任してまず最初に日本語の話せる社員たちと高雄から汽車に乗り新竹経由で台北に行きました。 その日は飛行機で高雄に戻りましたが、空港での待ち時間に初めて牛肉麺を食べたのがキョーレツな台湾の印象になりました。 ひっくり返るほどカライうどんのお蔭で考え方のスイッチが切り替わったのだと思います。

 

その日の旅程中に感じたのは何であんなにたくさん屋根の上に立派なステンレスと思しきタンクが並んでいる? ということでした。もう一つ印象強かったのは車窓の外、線路に沿って緑の茂みが多く、その中には常にヒルガオの様な鮮やかなブルー色をした花を見たことでした。

 

 私はもっと現地を知らねばという思いから、まず大きな本屋を見つけて興味の強いものから眺めるだけでもいいからと手当たり次第に本を買ったものです。自分の好きな地理、人文地理に関するものや建築物に関するもの(自分の本業は金属製建築材料) 地質、地形、自然に関するもの特に植物などの書籍は十分容易に購入することができました。続けて風習や住民に関するものから彼らの宗教や民族に関するもの、其れにかかわる歴史的なもの、読み切りもしないのにたちまち住まいの中は書籍で足の踏み場もないような事にもなりました。しかし手を伸ばせば何かの本を取り出せるので便利ではあったと思います。(壁一面の本棚も後に自分で作りました。)

 

 初めて住む住まいは白い壁に塗られていて病院の様でしたが、大家と掛け合って壁紙を貼ってもいいとか壁は好きにしていいという許可をもらってペンキの缶を手に入れて書斎は2面を緑に、寝室は3面をブルーを基調にした色に塗り替えました。いずれも白いペンキに5%ほどの色を混ぜて淡い色に仕上げたものです。日本ではいつも何かとDIYでこなしていたことと「建材のセールス」が施工もできなければ(という考え方から)ほぼ「何でも屋」の丁で、まず住まいを落ち着けるものにしたことが忘れられません。

 

広い部屋のまだ残る一部屋は洗濯物を干したり、レンガを敷き詰めて室内庭園を造り、たくさんの観葉植物を入れてジャングルの様なものになっていました。後でわかったのは6階建ての6階にあった部屋は最上階の住人が屋上の使用権を持っているといことを知らなくて, 後には屋上は洗濯物干しと簡易ベットを置いて日光浴の場として使いました。もし屋上に植物を置いたら日差しで枯れたでしょうね。知らなくて幸いだったかもしれません。 しかし日本人は日光浴をして健康的だという意識が強かったのでこりもせずほぼ毎週土日には日光浴をしてよく陽に焼けました。時には寝てしまい夜八時ごろに目が覚めて星を見るようなこともあり、『此処の太陽は毒ですよ』と言われるまでやけどの様な日光浴をしていた時期がありました

 

出向で初めて台湾に来た当時はまさか島流しにあったような長い時間を過ごすことになるとは思いもせずに、まずは順調な滑り出しでした。行きたくてもこれなかった人たちや、興味津々でどういうところかを知りたくてうずうずしている友人や知人は取引先を含めてたくさんいましたので、着任時期には毎日目にした物珍しいことどもを『高雄通信』の名称で随分とたくさん、会社の月刊社内報に混ぜて送りました。 当時はネット通信などはなく、郵送で、しかも私の『高雄通信』は自分でワープロを打ってA4に詰め込んで約45枚を送り続けました。送り先は社内の後輩や付合いのあった部署、国内で転勤した営業所と管轄区域の仲の良かった取引先(販売先も外注先も)などですが 編集能力のない文字でびっしり詰まったものを受け取ってうんざりしている様子を想像しながら送り続けました。書かれていることには興味を持っていただいたことは折に触れ話に出てきますのでそれなりに楽しみにしていただけていたようです。 しかしこれを始めてから、会社の郵送料が急に上がったという話も聞きましたが、さぞ迷惑をかけたろうなと思います。

 

送った先のなかにはそれをもとに日本にはない施工方法を確認しに わざわざ台湾に来られてひとしきり市場調査をされていた設計事務所もありましたので、それなりの情報発信はしていたのだろうと思います。

 

 着任して間もなく、社員や関係取引先を連れて、阪神大震災の現場検証に国外出張をしました。生々しい震災の傷跡や本社内での研修会を経て、私がなぜ、何を台湾に持ってこようとしているのかも台湾側の社員たちにも伝えることができました。壊れた家屋や二階が道路の真ん中に落ちている状況やがれきの山を見てどういうことが起きているかを知った社員たちには得難い経験をさせたと思いました。これは今後の客先に対する説得力と扱い製品に対する自信に付与することでした。当時は私たちの扱う金属製建築材はどういうものなのかを理解したと思います。

 

 私が来てから業務上の必要を超えて当時は様々な方々との出会いがあり急激にこの土地のことを知ることができたのはお付合いして頂いた方々のお蔭と思っています。日本ではこういう風に業務外での対人関係を胡散臭がる時代でしたから、お付き合い頂いた方々の人品がとても幸いしたと思います。

 

友人のNO.1

 

 社内はともかく、会社外の最初の友人は背の高いまるで原住民一族のような印象を持った張さんという方でした。出勤してほどなく、いきなり彼の友人とのドライブに誘われました。三人でまず東港の第二市場というところに行き、お魚を買いました。 通路にはね出るほど活きのいいお魚たちから選び、ドライブして山のふもとにある彼の別荘でJeepに乗り換えて家の裏の道からいきなり山道に入りました。 1時間ほど登って、道の傍にある畑で芋の葉やカボチャの芽をちぎりとり、車に用意していた大きな中華鍋で買ったばかりのお魚を揚げて,採ったばかりの緑のものも同じ鍋で炒めました。??こんなにおいしいお昼を「ご飯なしで」しかも山の中で。なんという幸せなひと時だったでしょうか。話しながら畑の持ち主かと聞くと本人は「持ち主は知らない」といいます。びっくりしました。鳥の声だけしていた明るい空の下でどこのどなたのかもしれないかぼちゃの芽を炒めて食べたのは初めてでした。そこで気軽に自然の中に入れることを学びました。山の中を車で巡り、右手の山はここから先は頂上(にレーダーがあるので)立ち入り禁止という看板を見たところは太平洋側に抜ける分水嶺でした。戻る途中の道すがらには山の人(原住民のことをこう呼んでいました)の「石を重ねた住まい」を見せてもらったりして下山しましたが、この張さんにはミニ胡蝶蘭の栽培家を紹介してもらったり、大きなお寺の紹介やゴルフ、音楽家の紹介等を受けて、彼自身はすこぶる文化的な人物でした。

当時彼の会社は有名な塗料会社で社名と同じく夢はバラ色の虹です。 折があれば彼から学んだことなどを皆様方にお話しをたいと思います。

 

こういう方々を友人に持つ社員がいると、人のつながりが実に有効に働いて会社業務にも広がりがでてくることを学びました。  

 日本国内転勤中は『郷に入れば郷に従え』のことわざ通り過ごしてきた自分は 台湾に来ても同じ作法で過ごしてゆきます。

 

(乱文ご容赦願います。)

 

 

 


台湾へ留学の思い出(高橋美代子)

 

             台湾へ留学の思い出

 

                        仙台市 高橋美代子

  

私は今から20年前にベストフレンドと共に台湾留学した。ベストフレンドとはわが夫である。49歳の時に脳梗塞で、定年直前に脳内出血と二度倒れた夫は、当時歩行困難の為に車いすの生活だった。私たちは日中友好の為に少しでもお役に立てばと、中国語を学び、中国への関心を深めてきた。言葉を覚えるには、中国に住んで勉強するのが、一番の近道ではないかと考え、色々と調べた末、三年間台湾に留学することにした。車いすの夫を連れて海外での生活には多少不安もあったけれど、何とかなるだろうと鞄一つの出発となった。

 

留学なんて言うと聞こえはいいけれど、早い話何処にでもある語学教室へ二人して通っていたのだ。学校の近くの小さなマンションの一室を借りて、毎朝きちんと学校へ週五日、午前中二時間北京語を学ぶ、帰りはあっちこっち歩き回り台湾の食文化を楽しんだ。朝晩近くの公園で太極拳や新体操をやっているので、私も毎日参加し、一時間汗を流し、近所の奥さんとだいぶ仲良しになった。

 

  台湾は中国の一地域だと日本も世界も認識しているようだけども、台湾の人々の気持ちはまるで違うような気持がする。台湾の人たちは中国に対して相当距離を置いていると思う。教育レベルも高いし、経済も発展している。また」民主化も進んでいる。「独立」と言う言葉が常に底辺を流れているような気がする。「私は台湾語と日本語以外は絶対に話さない」と中国に対する敵意をむき出しにした老人もいた。かと思うと、私の塾の先生のように「私の父は大陸生まれ、母は台湾人。どうすればいいの」と悲しそうに話されていた人もいたのだ。

  

忘れられないもう一つ大きな驚きがあった。台湾の中に日本人がいたのだ。彼らは生まれた時から日本人として育てられ日本の教育を受けている。台湾で国語と言われている北京語はよくしゃべれないけれど、日本語は自由自在だ。日本人でも忘れかけている、童謡や数え唄などよく知っている。元気なうちに日本へ行きたいと涙ぐむ。日本は50年もの長い間、台湾を統治していたのだから仕方がないのかもしれない。台湾の人々の複雑な思いを、あまりにも知らなさすぎた気がしてならない。

  

車いすを押して歩き回っていたせいか、数え切れないほどの親切を受けた。さりげなく積極的なあの優しさは、どこからくるのだろう。特に若者の親切が多かった。

 

 台湾大地震にも大水害にも遭った。総統選挙では台湾中が熱く燃えた。私たちにとってかけがえのない三年間であった。

 本当に勇気を出して、行動を起こしてよかったと思う。

 今から五年前にベストフレンドは他界してしまったが、長い結婚生活の中でも二人にとってひときわ鮮やかな思い出をきざむことが出来たのだった。南の空を見ながらふと遠く過ぎ去った台湾での生活を思い出したりする昨今である。

 



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