昔の夢にふける(洪伯若)
昔の夢にふける
台中市 洪伯若
昭和5年に生を受けた私は小学校に入るまで平和な環境に育ちました。当時すでに35年間日本統治下にあった台湾は、産業、交通が発達し、物価は安く、治安は良くて、教育は普及され、人々の生活は安定していて楽でした。島民はみなよく法律や公衆道徳を守り、他人を尊重し、物事の道理をよくわきまえ、何時も他人に迷惑をかけまいと心掛けるので、日常生活で他人より利己的な行為や理の通らぬ事、憤らせることをされる事がありませんでした。
是非の判別がはっきりしていて、正しいことはあくまでも正しく、非が是に変わることもありません。そこにはじめて社会の秩序が保たれたのです。またほとんどの人がみな正直で、信用を重んじた当時の社会では人を騙す必要もなく、人に騙される気がかりもいりません。皆がお互いに尊重しあい、和気藹々とした環境で生活を営むことが出来ました。これは一に日本の徹底した良き教育の賜物であると思います。
小学校一年の年、中日戦争が勃発したが人々の生活にはすぐに影響はなく、小学四年に太平洋戦争が起こってから、物資の統制で米、砂糖、肉などの生活必需品が配給制になり、物資的に欠乏をもたらしたが、特権を振舞って他人より格別楽な生活をする人がなく、ほとんどの国民が同じく苦しい生活をしたのです。いわゆる社会の公平が保たれていたのです。
異民族の殖民統治下にいたと言えども、台湾人は日本人と若干の差別待遇があったが、法律に違反しない限り、身体の自由や生命を奪われる心配はありませんでした。こんな社会こそが幸せになり、希望をもてる文明社会なのです。
戦争は私の師範学校一年生まで続きました。ようやく平和がやって来たと喜んでいたら、祖国復帰の歓喜は白色恐怖と変わり、世相の移り変わりは皆を悲嘆と絶望のどん底にぶち込んだのです。人々の価値観は変わり、道徳観念が薄れ、正義観、是非観が失われて利己主義的になり、社会の秩序が乱れて来ました。それで今までの考え方で暮らして行くのが難しくなったのです。どうして世の中がこう変わってしまったのかと悲哀を感じざるをえません。何時になったら再び住みよい社会になるのでしょうか。最近は、しょっちゅうこういう夢にふけって日々を過ごしています。
最後に、暇つぶしに作った幼稚な短歌を数首載せて、皆様のご指導を仰ぎたいと思います。
懐しき 恩師の便り 見ていれば
幼き頃の 思い出浮かぶ
五月晴 ロッキーの山は 一面に
積雪白く 杉の木青し
図らずや 大和男子と 生まれしも
戦終わりて 国籍変わる
ライン川、昔の伝説 思いつつ
舟で歌うよ ローレライの唄
晩春に 故里遠く 旅に来る
シドニーの町は 秋風涼し
冬(曹劉金花)
「冬」
宜蘭県 曹劉金花
1935年(昭和10年)6年生
冬と言えば誰でも寒い寒いと言って、いやがる季節です。けれども季節は定まっていますのでどうする事も出来ません。おばあさんの様な年寄りになりますと、もう寒さに負けて一日中家の中にひっこむばかりです。
鳥やひよこは寒そうに今までの元気を失ったかの如く軒下にかくれるばかりです。
ひよこは親鳥の懐にかくれて、ばっちりと小さな目を開けて如何にも寒そうです。
水道の栓をひねった時しぶきが自分の手に当たって全身ひやりと冷たく感じます。本当に近頃急に寒くなって来て、何を見ても冬らしい感じがします。台湾はほとんど熱帯に入っている島ですから、寒いと言ったって北海道、樺太、満州の寒さに比べてみると、まだまだいい方です。北海道は今頃零下30度という寒さで、見渡す限り、白銀の雪が降り積もって森も野もすっかり雪に包まれてしまわれているのだそうです。学校に出かける子供たちは、雪をざくざくふみならしながら行く有様をよく絵本で見ます。私どもはその人たちと比べて、どれほど幸せかしれません。そんな所にいるにもかかわらず、せっせと働く人は何て感心な事でしょう。私どもも寒さに負けず一生懸命にやっていくだけの元気を出さねばなりません。
ある晩のことでした。雑誌を読んでいる中、満州の兵隊さんと言う題について書いた文がありました。あそこにおいでなられる我が国の兵隊さんは零下30度と言う寒い日にも、雪におおわれた野原を通って匪族の征伐に出かけたり、或いは鉄道の警備に当たったりしていらっしゃいます。はたはたと風雪のたなびく日の丸の旗の下に立っておいでになる兵隊さんのお姿を拝む時、冬のいやなことを忘れてしまって只ありがたいばかりです。
いつの間にか火鉢の火も今にも消えそうになりました、お母さんは「ああ寒い」と言ってあわてて炭を足して下さいました。私はこんな火鉢を満州の兵隊さんに送ってあげたい気がしました。冬が来るたびに思いだされるのはあの寒い所においでになる兵隊さんです。
回顧(游大坤)
回顧
台北市 游大坤
私が生まれた時は日本人であった。日本人として、教育の義務、兵役の義務も果たして来た。しかし、私の心の奥に中国と言う祖国を持っていた為か、時には思想が悪いといわれた事もある。今にして思えば、同じ頃、生粋の日本人の中にも反戦論者もいたし、神社参拝を拒否する者まで居たのだから、私一人が思想云々とは不思議な話である。勿論、予料練にも、予備学生にも志願せず、のうのうと学徒出陣の命令が出る迄暮らしていたのだから、忠君愛国の端くれにも入れて貰えなかったかも知れない。
六十を迎えたから、人生の整理期に入ったと思う。私が人生を回顧するのに、今は台湾人であっても、日本人であった頃を空白にする事は出来ない。
日本は変わった、その変化が余りにも多く、しかも日本人自身が良く気づかない面も多々ある。例をあげて見よう。「けふがくかふで、てふてふを見ました」明治のおじいさん、少しぼけている、と言うだろうか、或は外国人だから不明瞭のまま相槌を打ってくれるだろうか。では新かな使いで書いて見よう。「きょう、がっこうで、ちょうちょうを見ました。」即ち「今日、学校で蝶々を見ました。」である。私が怪しげな日本語を使用した、と誤解しては困る。昔は前のほうが正しいかな使いであったのだ。戦後フイリッピンで三十年間戦闘を継続した兵隊さんが、いきなり日本に帰って来たら、言葉を忘れかけていたと言う。ペルーと一緒に日本に来た外人が明治初期に再度日本を訪問したと仮定するなれば「刀をさげていたあの丁髷(ちょんまげ)さんが見当たらないが。」と質問したくなるであろう。今時、お侍さんの風態で街を歩くと、道を行く人はチンドン屋が通るとしか思わないだろう。今頃「俺は士族でござる」と鼻にかけていたら笑われる。終戦後、四十年を経過している。終戦の年に生れた赤ちゃんは今頃四十歳のおじさん、おばさんになっている。世の中の変化は当然あって然るべきだ。子供がいつの間にか大人になった、と驚かないのは側において育っているからである。たまにしか見ない親戚の人が、まあ!この間よちよち歩きのあの子が、と驚くのは、たまにしか見ないから、その差が特に目に付くのである。山の中にいては森が見えないのである。吉野山の桜は山の外からでなくては満開の味を、その雄大さを知ることができない。奥千本の中に閉じこんで桜を論ずるならば日本至る処でそれが出来る。限られた何本かの桜を例にして千本の桜の味は表現できないのである。私は日本に入国したり、出国したり、日本人であったり、なかったりで、ちょうど吉野山に入ったり出たりしているつもりで、日本を論じたり批判したりしてみたい。或いは別の趣がある事を期待しながら。
靖国神社の大鳥居に台湾阿里山奉納、と書いているのは国辱だ、と台湾の新聞に出ていた。まるで取り返したら日本帝国に五十年支配された史実が帳消しになる、と言わんばかりだ。しかし第一、台湾に持ち帰っても薪{まき}にするならいざ知らず、鳥居以外に使用したら、その美的感覚は消えるのである。又使い処もない。
左右二本の柱に笠木を渡した靖国神社の神明鳥居は名実共に「空を衝く様な大鳥居、こんな立派なお社に、神と祭られ、勿体なさに」と身の引きしまる思いがする傑作である。大柱二本、笠木一本、貫一本、と四本の木材から出来ている鳥居の木材は、同じ山からでも得がたい。同じ阿里山の檜であって、太さと長さが足りたら良い、だけには行かない。同じ岡でなければ色合いが合わないのである。その他、質等の問題もあるから、鳥居を造るための檜材を発注しても、値段を張っただけで得られるものではない。鳥居は神明鳥居とか木島鳥居に関係なく、木材で造るなら、以上の配慮が必要である。こんな意味で靖国神社の鳥居は、日本にとって国宝的存在であると言える。
母の思い出(李栄子)
母の思い出
台北市 李栄子
「うさぎうさぎ何見て跳ねる
十五夜お月様見て跳―ねる」
毎年八月になりますと懐かしい幼年時代を思い出し、つい口ずざんでしまいます。あの頃は人生で一番楽しい時で、思い出が走馬灯の様に次々と出て来ます。縁側は嵐か冬の寒い時しか閉めません。平和な時代でした。
八月十五日には縁側にテーブルを二つ並べて、私は山の麓で切って来て芒の花を花瓶に挿して、お月様の歌を歌っていると、お月様の中からうさぎの餅つきが出てきて、弟妹に「見てごらん、兎が餅をついているよ。」と言うのです。みんなで大賑いしながら、お母さんがお萩を作ってくれるのを待っていました。私は十人兄弟の長女ですので、お手伝いしたり、子守りをしたり、たいへんでした。
時が変わるり、お月見も変化し、若者達の「フンイキ」も違います。月の世界に行けるようになり、何でもお金の時代になり、昔のロマンチックな気分も薄くなり、月餅とお月様を結び付ける事も少なくなりました。
「どこどこの月餅がおいしい。」とか「一個何百元でも食べで見たい。」とか若者同志で遊びに行くことが楽しみで、バーベキューなどで賑やかに楽しんでいるようです。
思えば、むかし父の誕生日が十五夜と近い日で、結婚後、父に会う日がお月見より嬉しくて、里帰りをしました。当時はいまと違って、里帰りは、一年に何回かで、たまに婚家に用事が出来た時などお祝い物を送ると、父は不機嫌になり「栄ちゃん、帰れないなら品物を返しなさい」と言ってひねくれます。「やっぱり親孝行に帰らなくては」と思って遅れても父に、甘えて帰りました。
父が早く亡くなったので、母が可哀想なので、父が生きている時よりも、よく帰りました。でも、母を慰めに帰ったのに、(お父さん子でしたので、私は、何時までも、悲しくたまりません。)母に会うたびに「お前のように、くよくよしていたら、妹弟がまだ何人残ってる。結婚してない。ママはどうするの?しっかりしなさい。」と反対に励まされました。母は「強い」です。母は十人の子供を皆自分一人手で育てました。里帰りもせず、一生懸命に子供を育ててくれたのです。「御恩返しをしなくては」と、私達は毎年母の誕生日には、母の側にいて上げました。
その後、母亡き後十人の子の内で六十歳、七十歳、八十歳の誕生日には、母を忍んで、十人が集まることを、約束したわけではないけど、今でも、兄は七十八歳、末弟は、来年六十歳でまた集まります。母の下さった私達の宝物、十人兄弟姉妹は、お金で買えられません。私達は思い出をたくさん集めては母を忍んで、昼食をとり、二次会は、カラオケで十人の家族も一緒に賑わいます。
お母様有難う。神様感謝します。いつまでも私達をお守りください。
2003年10月16日
終戦当時の思い出 (李英妹)
終戦当時の思い出
高雄市 李 英妹
南投県の双冬学園に疎開していた私は、そこで終戦を迎え11月末に父に連れられて故郷に帰って来ました。既に変わっていた町を見る暇も無く、仲良しのお友達とお別れの挨拶をする時間もなく、急に台北転勤に成った父の後を追って台北に来ました。
本当に慌ただしい毎日の中で、日本人だった台湾人は何時の間にか中国人になっていたのでした。
疎開以来、来た事のない台北の町はごった返していました。
町はみな傷ついていました。そして黙々として笑い声の無い町になっていました。
日本語しか話せなかった私達は、他人に聞かれたら怒鳴られるのが怖いのでお話もせずに、大人の側でおとなしくしていました。
父は台北の本社に、姉は当時教員をしておりましたが父の転勤で、200人に一人の女性しか採用しない省政府の試験に通り既に就職しておりました。終戦で私が未だ疎開地にいた少しの間に台湾も随分変わって言語習得の早い、そして職場の関係で父と姉は随分と頑張ったのでしょうね。多少なり北京語が話せる様でした。
落ち着かない生活の中に、学校は既に復校しており日本時代に残された学生は二百人余りその中に女学生が八人だけでした。男生徒ばかりの学校の女生徒が混ざって何だか変な感じでした。新制女子師範から一年下って学校に戻る様にと言われましたが、一年下るのも嫌だし唐校長も私達を残したいと言うお気持も御座いましたので、今迄の台北師範に残りたいと云う意味を書いてもらった手紙を持って八人で談判に行きました。
手紙を出して、「好不好」「好不好」としか云えなかったので、身振り手振りを加えたあの頃の談判を今思い出しますと随分滑稽な事でした。「残って宜しい」との返事を貰って校長先生がとても喜んで下さった事を覚えております。
台湾で始めての男女共学でした、そして始まったのは新しい中国教育でした。
男生徒の中に、北京語の話せる人が四人位おりました。私は自分が話せないので、何時も羨ましく思っておりました。授業の始まる前に一人一人名前を呼ばれますが、皆同じく聞こえて「有」と三・四人が同時に返事をして立ち上がり、皆ビックリして又皆座ってしまう事も度々でした。先生も心得て居ますので笑っているだけ。
ある朝、どういう風廻しか私に領隊(級長の様な役目)という命令の紙が一枚渡されましたが、何か分からないので男生徒に聞いて見ますと或る人に「北京語も台湾語も話せないのにこんな事を引き受けたら駄目だ」と叱られたので、泣く泣く教官に、「我不会做、不想做」(できないから、やりたくない)と断りに行きましたら、台湾語・北京語交じりに何かと説明して下さり、最後は先生が手伝うからと手振り身振りを合わせて、丸められて代表役を務めさせられた事も懐かしい思い出です。
又、戦争で習えなかったピアノの授業が、此処に残された日本人の先生が私達を教えて下さっておりました。私は、同級生より少し遅れて復校しましたので、ピアノも少し遅れておりました、ある朝少し早めに学校へ行ってピアノ教室で練習しておりましたら、練習不足できちんと弾けなくて聞いて耳障りだったのでしょうか。私は人が入って来たのも知らないで夢中で練習していたらしくその人が後に来て、頭の上から手をピアノに伸ばして「此処は、こうやって弾くのだ」と云って、ポンポンピアノを叩いて師範してくれましたが、私しかいないと安心して練習していた所の出来事にビックリした私は何処を教えてくれたのも知らずに、どうしたらよいのか、一言も言わずに頭を下げておりました。
その人は、云い終わると俯いて何も云えない私を見て直ぐに出て行きました。
こっそり見ると、髪の毛がグチャグチャした背の高い人でした。私は其の人が出て行くと直ぐピアノの本を閉じて、足音を忍ばせて教室を出て行きました。同級生が来て其の事を言いますと皆大笑いでした。
どうして「怒鳴らなかったの」と言われて、私は俯いて声も出なかった位怖かったのにと心の中で恨めしく思いました。学生時代の忘れられない思い出です。
その後は授業以外は、その教室に行く事もなく、ピアノは進歩しませんでしたが、
娘や孫達にはピアノ位は少し弾けて、疲れた時や頭がスッキリしない時は自分を諌める様にと習わせました。
ピアノの代わりに四月の卒業までの短い間、絵を少し描きました。
皆、負けない様に北京語を習い講習会に参加して勉強しましたが、毎日お習字の宿題等があったりして卒業の四月を目の前にしても私達の北京語はなかなか進歩しませんでした。
卒業試験は、四ヶ月の中国式の授業をもとに始まりした。
音楽は李金土先生で発声の試験と楽譜を読む簡単な事で済み、ピアノの試験はなかった様に覚えております。体操は温先生でバレーボールをお互いに渡して行く試験でしたが、丁度その日は、靴を濡らして(当時は未だ随意に靴が買えなかった)母の中ヒールをはいて行き試験に出会って、裸足ではおかしいのでそのまま靴を履いて走ったり、飛んだりして、失敗もせずヒールも折れなかった事は、幸いな事でこれも思い出せは随分無茶な事でした。
一番愉快だったのは、四ヶ月の勉強を終えた筆記試験の時でした。男の学生から「先生は女の子に甘いから試験の内容をこっそり聞き出して来る様に」と頼まれました。試みにと行きましたら、「女の子だから特別に」と教えて下さったのです。
「但し、男の学生に分からせたらいけないよ」との約束でしたが、男の学生の頼みでしたので待ち構えていた方にそれを渡し、答案を研究して、ほしい人に廻したものです。試験当日同じ答えを書いた人は何人いたかしら。そして同じ答えと作文を採点された先生は、どう思われたでしょうか。
沢山の楽しかった事辛かった事、そして失敗事を残して皆無事に卒業して社会に出て活躍が始まったのでした。 あの当時は、私には言葉が話せないと言う事が一番苦しい事でした。
其の為学校の推薦で台大か師大に進学出来る機会を、自信が無くて断った事は今になっても未だ悔しく思っております。
卒業後は、直ぐ家の近くの昔の幸小学校の教員になりました。
初日は、一生懸命に覚えた一行だけの初対面の挨拶もそこそこに、台を降りてしまい
緊張した一日でした。
当時は未だ日本教育の名残があり、暫くは日本語台湾語交じりの授業でしたが、早く北京語を覚える為に講習会と云うものがあり先生方はそれに参加して、発音・文法・作文等を習い翌日は早速それを利用して、子供達に教えました。文章を書くのに接続詞や形容詞が難しくて頭を痛めました。
ある日弟が帰って来て、老師が「明天没有学校、你們不要来上学」(明日は休みだから登校しなくてよい)と言ったけど、学校はちゃんとあるのにどうして「没有学校」と言っているのかと不思議そうに言っていたので、私も考えて見ましたら、台湾語を直訳、北京語にした言葉でした。こう云う言葉が沢山あって面白い時代でした。
五年生の受け持ちでしたので、家事の課目に女学校で習ったお裁縫の基礎を教え、材料の無い時期に廃物利用で簡単な上着を、手縫いで作ったり、寒天を作ったりして、女生徒を喜ばせたものでした。まだ軌道に乗っていない時でしたので、わりと開放的でした。
初めての林間学校が夏休みに開かれて、私も其れに参加出来る機会が与えられました。その後は、此の林間学校の行事も無くなった様でした。
選ばれた生徒、教員、教育局、市政府の役員、医者二人に、看護師等が一緒に成って授業したり、運動したり、絵を描いたりして楽しく過ごしました。
寝癖の悪い子達が風邪を引かない様に夜は何度も起きて布団を被せたり、子供達が怪我をしない様細心の注意を払って毎日を過ごし、子供を育てる事の難しさ、責任、和気あいあいと云う言葉の真実さを切実に身に感じさせられ、私には大きな収穫でした。
其の時もまだ北京語が皆、良く話せなかったので台湾語、日本語混じりの毎日でした。 付属小学校から、自分の学校に帰って来る様にと言われて、民国三十七年(1948年)八月に付属小で教える事に成りました。
其の頃百人位の教員の中、台湾人は男の先生が五人、女の先生二人だけでした。
外省人の先生とは、習慣から生活様式等、何もかも違い話も各地(大抵は福建省)の方言の訛りが強く、聞き取れない事も度々で私は台湾の先生の後を追って助けを請う事が多く有りました。
一年生を受け持たされた私は、子供達と始めから北京語の勉強をやり直しました。
注音(日本のアイウエオに当る)から始まり。一字一字口の開き方、紙を口に当てて、息の入れ方、鼻から出る音の練習、其れに声母二十一字、韻母十六字から成り、加えて結合韻母二十二音、四つの音調―・/・\・∨・を正確に教えなければ成らなかった。
丸一ヶ月の時間を掛けて毎日練習し、その後も機会の有る度に教科書に合わせて練習しました。当時、附小の生徒は試験を受けて入って来る制度でしたが、クラスの中には有名人の子や孫が多かったので親も台湾の学校はどんな風かと心配と興味もあったのでしょう。
私の教室の机の後ろに、家から椅子を持って来て二十人位の親が座ったり立ったりして授業を見ているのには、新米の私にはとても緊張させられました。
でも、皆教養が有ってやさしく愉快な人ばかりで、文句を云われたことも無く、間違った所があった時等、休み時間に「先生ちょっと」と言って、人に気づかれない様に教えてくれたりしたのには、とても感謝しました。ある親達は、子供と一緒に勉強している方々もいて、何かと聞かれる事がある時等、出来る親が代わりに答えてくれたり、親同士が教え合って居るのを見て微笑ましい感じを受けました。
誰もが早く台湾の現状に慣れようとしたのでしょうね、そして子供と同じく正しい北京語を話したかったのでしょうと思いました。
其の頃の学校の方針は、まだ日本時代のを受け継いでいる様に思いましたが、段々と一切が中国的に軌道に乗ってきて実験班とか、色々の研究が次々に始まり私達も其の波に乗って、言葉の困難を通り、毎日の勉強と努力に励まなければ成りませんでした。
こうして振り返って見ますと、戦争中に鍛えられた負けじ魂と若かったから、どんな辛い事も切り抜けられたのですね。この年になって字も文も思う様に書けなくなって「若い」と云う事はとても尊いものだとつくづく感じさせられます。
若い人は後で後悔しない様、今のうちに頑張ってくださいね。(了)