目次
はじめに
第一部 私と台湾
日本語は私と台湾の架け橋(アンディチャン)
台湾の楽しい思い出 (池田徳三郎)
何故台中市は大好きなのだろうか?(池田徳三郎)
台湾に残る狛犬たちを訪ねて(市来訓子)
私を台湾へ導いてくれた台中のご縁(伊勢寛)
埔里で日本語教師をして (伊藤直哉 )
いりぐち(大竹千紘)
台湾の神社に魅惑された私 (金子展也)
慰霊訪問団に参加した孫の感想(小菅亥三郎)
ドライブと温泉(駒井教雄)
私の台湾人生(酒井充子)
私の台湾史(佐藤晋)
台湾の日本語世代からのエール(佐藤民雄)
台湾へ出向(鈴木誠真)
台湾へ留学の思い出(高橋美代子)
お爺ちゃんとの思い出(舘量子)
台湾の世相の変化(陳秋蘭)
台湾の鐡道に魅せられて (戸井智博)
私と台湾(飛石秀樹)
台湾物語(中須賀重幸)
台湾と中国のはざまで揺れた心(中山孔明)
台湾と祖父母と私(永峯美津保)
環島(西川洋美) 
私と台湾 (丹羽文生)
台湾との邂逅(福田真人)
変わるものと変わらないもの(松尾功子)
台湾を歩いて(松任谷秀樹)
台湾で観たお月さま(森順子)
台湾は台湾 (李中元)
私と台湾のご縁(山本幸男)
私と台湾のかかわり (山元與一 )
日本語と私(林玫芳 )
台湾で見つけた人生の目標 (若尾彩加)
第二部 湾生と日本語人
私の一生(木村英一)
故郷の川(島崎義行)
暖かい台湾の心(瀬戸省三)
勇気ある質問(泰一則)
台中にて(堀部二三男)
二つの故郷(溝口啓二郎)
詩「戦後60年」(許育誠)
皇太子殿下のご成婚に期待をかけて(許昭栄)
昔の夢にふける(洪伯若)
冬(曹劉金花)
回顧(游大坤)
母の思い出(李栄子)
終戦当時の思い出 (李英妹)
詩「故郷」(劉心心)
私達と日本語(林陳佩芳)
僕の軍隊経験(林啓三)
私の少女時代(林翆華)
水産学校(林彦卿)
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詩「故郷」(劉心心)

 

             「故 郷

                            劉心心

 

 

半世紀以前のある日、学校の先生は生徒に言いました。

 

「今日からお前たちはみんな日本人だ。北の方、東海の向う。

 

天皇陛下のおわす内地が、お前たちが忠誠を尽くすべき

 

国家。」

 

  

40年前のある日、学校の先生が学生に言いました。

 

「今日からお前たちはみんな中国人だ。西の方、台湾海峡の

 

向う。中国大陸がお前たちの愛する祖国。」

 

  

20年前の学生は友達に言いました。

 

「東の方、太平洋の向うに広大な土地がある。みんな一緒に

 

移住しよう。みんなでアメリカ人になるんだ。我々のドリームはアメリカにある。」

 

 今の大人たちは自分のアメリカの子供に言いました。

 

「太平洋の向うの小さな小さな海島、緑濃き山々、清らかな

 

流れ、純朴な人々。あそこがお前たちの故郷。我々の真の

 

国土なのだ。」

 

 暖かい母親の懐(ふところ)よ。赤子の揺りかごよ、

 

懐はいずこに。揺りかごは?

 

寂しい台湾人よ、流浪の台湾人よ。

 

どうして、お前の故郷はいつも海の向うでなければ

 

ならないのだろう。

 


私達と日本語(林陳佩芳)

 

           私達と日本語                

                          林陳 佩芳

 

台湾が日本の植民地だったとき、私たちは日本国民だと、日本語を「国語」として教えられ、国語を話すことを要求され、奨励され、家庭内で日本語を常用するものは、「国語の家」と言われました。

 

 終戦後、祖国中国の統治を受けるようになると、今度の国語は「北京語」です。昔国語の家に育った私たちは、今度は北京語と台湾語を常用することになりましたが、台湾語は先祖代々の言葉、たやすくその環境にもどれましたが、北京語は遥か北方の言葉、直接社会との接触の少ない家庭主婦は、生活の必要に迫られず、すぐには話せませんでした。それでも子供たちの進学と共に、子供達の口から、北京語は家庭内に持ち込まれ、家庭主婦たる私たちも、だんだん北京語がわかるようになりました。

  

中国大陸から来た人達は、多かれ少なかれ日本軍のために、心身を傷つけられたことのある人々です。台湾人が、日本語を使うのを聞くと、あからさまに憎悪の情を表し、叱りつけたり、にらんでいく人もありましたし、公然と新聞や雑誌で非難する人もありました。祖国中国の懐にかえったのに、いつまでもかつての統治者の言葉を話すのは、彼らにとってきっと耳障りだったのでしょう。それ故に私達は公の場所では、つとめて日本語を使うのを遠慮しましたが、家の中では、同じ日本教育を受けた者同志、つい日本語が交じります。

 

 その結果、私達の年輩の人達は、北京語、台湾語、日本語の交じった会話が、何時の間にかこの三十余年の言葉になりました。それ故私達の子供達も、日本語は話せずとも、簡単な単語はいくらか知り、知らず知らずのうちに使用していることがあります。時々町を歩いていたり、市場などで、日本語を知らないはずの人達が、話す中に日本語を交えているのを聞くと、オヤッと振り返ってみたりします。

  

テレビの影響力は強く、その普及と共に私達の北京語も上達し、見、聞き、話すことも、一応不自由しなくなりました。家を離れて勉学中の子供達との文通も、一応意識が通じるほどの中国文が書けるようになりましたが、台北方面の多くの家庭は、日用語が殆ど北京語です。

 

近年は、日本とは国交断絶をしましたが、お互いに関係を持っているので、観光、貿易、或いは学術上の必要から、若い人達も第二外国語として、英語の次に日本語を学ぶ者が多くなりました。

  

今年の初め、満二歳に満たない孫が、二ヶ月近く日本に滞在して、帰国しましたら、なんと日本語を上手に話すのです。びっくりしました。しかし大部分のお話しには、台湾語をちゃんと忘れずにいてくれています。日本から帰った日、独りで遊んでいた孫が「オウマチャン トウ シチャッタ」と言いました。私は何のことかとキョトンとしました。私が不審に思っているので「アマァ オウマチャン トウ シチャンッタヨ」と

二、三回言いました。彼の目の前に倒れている玩具の小馬を見て、彼が何を言っているのか判りました。「トウ」は倒れるの台湾語で、孫はお馬が倒れちゃったと、私に言ったのです。彼はまた日本語の祖母は「バアチャン」で台湾の祖母は「アマァ」だとはっきり区別しています。また我が家のダックスフンドが小犬を産んだとき、「シャオ コウチャン」「シャオ コウ チャン」と大喜びで小犬を抱いたり、さわったりするのです。シャオコウは小狗の北京語で、小さい者はチャン、可愛いものはチャンと呼ぶのだと、ちゃんと知っているようです。

  

テレビの広告を見ては、その歌を真似る幼児ですが、将来この子達は、北京語、台湾語、英語、日本語を使っている親たちよりも、もっと多くの言葉を使用することでしょう。

  

<久しぶりに啄木歌集を手にして>

 夢にまで見たとは言わないが、従兄何金生氏夫婦と、親友の兄上にすすめられ、励まされて、「三十一文字」に感情や景色、遭遇などを表すことを試みて以来、久しく忘れていた啄木の歌がしきりに懐かしく思い出され、その歌集を今一度読んでみたいと思うようになった。

 

思えば久しく忘れもし、ご無沙汰もしていた「和歌」である。戦時中の女学生だった私達は、作文の時間に先生から「五、七、五、七、七」の口調を教えられ、何度か作らされたと覚えている。和歌のうわべしか本当は知らないのだが、それを長年「生活の芸術」として「和歌」を作っている従兄夫婦からしきりにすすめられた時、私はちゅうちょした。

  

終戦後祖国中国に管轄されて三十余年、私達は自分の先祖の言葉、文化を理解することに努力した。

 

学業を終戦前におえているので国語(北京語)は一応、見、聞き、話せても。書くことは難しく、充分には意志表示が出来ない。もし詩や歌を詠むのなら、中国字で、中国の詩を!歌を!作ってみたいものだと私は良く思うのだが、残念ながら心余りあれど力足らず、漢文の基礎のない悲しさ、やはり漢詩の出来ない自分である。それに純粋の日本語とは三十余年ご無沙汰をしている。

 

 しばらく躊躇した後物は試しと、忘れていた日本語を、一生懸命思い出しながら、指折り作ったのが、父の一周忌の礼拝を詠んだ和歌で、台北からの帰りの汽車の中で、窓外に眼をやりながら、心の中で言葉探しをし、指を折りつつ字数を数えて作ったものである。そばに座っている夫は、口を動かしてブツブツ言いながら、しきりに指を折っている私の姿に「どうしたの?」と聞いた。私は「いいえ、別に」と答えただけで夢中だった。そして父の一周忌の一ヵ月半後、今度は亡き次女の命日に、私は娘を偲び悼んで、また指折りつつ何首かをつくった。皮肉なことに娘がこの世を去った日は、私達をこよなく愛してくれた父の誕生日だった。だから父亡きあと、娘の命日は父の誕生日にもなるのである。この私にとって万感迫り感慨無量の日、その気持ちを何首かの和歌にうたってみた。こうして私は和歌を作り始め、その作品を求められるままに、従兄夫婦に見せて指導と批評を頼んだり、親友の兄上にも見ていただいたりした。嫂上は啄木の和歌を何首か写してくださった。私は実はそれで啄木の和歌を思いだしていたのだった。もう一度啄木の歌をもっとたくさん詠んでみたい。

 


僕の軍隊経験(林啓三)

 

            僕の軍隊経験

                                                       

                                                       南投市 林啓三

 

 昭和16年(1941年)12月8日に勃発した大東亜戦争(アメリカは太平洋戦争といっているが)18年頃から戦局は緊迫し、人的、物的消耗は厳しくなった。台湾では皇民化運動が進み、本島人も日本人として権利と義務を平等に付与するという美名と、兵員の不足補充のためか昭和19(1944)本島人に対し、徴兵制度が施行された。

 

 大正14(1925)1月8日生まれの僕は台湾第1回徴兵の適齢者として、徴兵検査を受け、第1乙種合格で徴集され昭和20年(1945年)2月1日の鳳山の敢部隊に入営した。そして日本敗戦のおかげで当年9月3日に除隊、故郷の竹山に無事戻った。このように日本が台湾で徴兵を実施したのはたった1回で終わった。

 

僕は屏東農業学校卒業後、三井農林会社に勤務していたが徴兵令を受領した20年の1月末に原籍地の竹山に戻り、郡役所に出頭してからみんないっしょに出発した。出発前父から「軍隊に入ったら万事程よくやり、決してでしゃばるな。」と注意された。

 

 2月1日の夕刻、鳳山の部隊に入営し、翌日新しい軍服、軍帽、軍靴、下着等受領した。三日目部隊のトラックに乗り南に向かいの駅前で下車し、又南へ進んだ。今度は行軍である。そして夕刻枋山に到着、民家の空家で一夜の休息、翌朝枋山を発ち午後楓港から東の山脈の方向に行軍し始めた。これでは中央山脈を超えて台東方面へ行くものらしい。兵は何もわからない。ただ命令どおりに行動すればよいのだ。夜は牡丹社の学校で一泊、次の日寿峠を越えれば太平洋は眼下に現れた。初めてみるこの太平洋は黒く荒れている。風も強い。これから先が思いやられる。

 

 続く行軍で、新兵は落伍者が続出、僕は学校教練を受けているので、この行軍には耐えることができた。しかし数日後連続行軍のため腿が堅くなり、足は思うように運べなくなった。「足が棒になる」とはこのことかと痛感した。

 

 新兵が更に北上する次の宿泊地は大武そして太麻里、知本を通り台東に到着した。台東女学校の運動場で敢1787部隊各中隊の人事係准尉と下士官が各々の中隊に適する兵を栓衝し、必要兵員だけまとめて連れ去る。僕は歩兵砲中隊に選ばれた。見ればみな体格の良い者ばかり。残った兵はことごとく小銃隊に廻された。

 

 歩兵砲中隊編入の兵は、准尉の指揮のもとに又北上し、卑南を通り、日奈敷の中隊駐屯地に向かった。途中「台湾軍の歌」を大声で歌ったからか到着後、僕は選ばれて新兵を代表し山田中隊長に入隊の申告をした。

 

  台湾軍の歌

 

太平洋の空遠く 輝く南十字星

 

黒潮しぶく椰子の島

 

荒波吼ゆる 赤道を睨みて立てる南の

 

護りは我等台湾軍、ああ厳として台湾軍

 

歴史は薫る五十年 島の鎮めと畏しくも

 

神去りましし大宮の

 

流れを受けて蓬莱に 勲を立てる南の

 

護りは我等台湾軍、ああ厳として台湾軍

 

 いよいよ翌朝から初年兵の訓練が始まった。初年兵の基本教育は白石兵長、高橋上等兵があたった。各個動作から団体行動、小銃(三八式歩兵銃)の操作等で中等学校出身者は学校で習得済みなので動作が熟練しているが、公学校出の新兵はなかなかうまく操作が出来ない。

  

 台湾本島人の徴兵はこれが最初なので、台湾軍司令部から特に体罰は控えめにするよう達しがあったとか、僕の見たところでは訓練中の不合理な制裁はないが、しかし内務班では時々不始末な古兵から叩かれることはあった。

 

 日奈敷の兵舎は台東の北方約10km先にあり、蕃社の隅にあった。歩兵砲中隊は速射砲(口径僅か37mm)小隊と聯隊砲(山砲)小隊に分けられている。更に前者は八部隊後者は二部隊に分けられ、一部隊の人数は20数人、伍長が分隊長、僕は速射砲の第五分隊に配属された。分隊長は岩男伍長、中隊の兵舎は仮兵舎で藁葺きに竹の柱、竹の寝床、地面は土間という簡単なもの、兵舎は周囲にあり中央の空き地は野菜畑、右側に坑道があって砲をしまっている。

  

日奈敷での初年兵の訓練が二週間経った頃、中隊は動き出した。今度は南に向かう、知本、太麻里そして大武に進む。入営時とは逆のコース又中央山脈を越えて西部に進むらしい。今度は若干の装備もあるので入隊時のような身軽ではない。行軍は夜間が多い。米機の空襲を避けるためと思う。大武から寿峠、牡丹社、楓港、山を通り寮に着く。ここで汽車にのり台北州の樹林駅まで、下車すればまた行軍、北西に向かう。夕刻林口台地の公学校に部隊は一応落ち着く。その後わが歩兵砲中隊は湖子の製茶工場に移動し、その二階の 調室を借りて兵舎とした。

  

ここでは、「挺身奇襲」と速射砲の操作の訓練、教官は岩男分隊長である。林口台地は広い茶畑のある所で地面は粘り気の強い赤土、この茶畑の中に無数の「蛸壺」が掘られてある。この蛸壺の中に隠れ兵はガソリンを入れた酒瓶(火炎瓶という)を持ち、近くまで攻めてきた敵の戦車のキャタビラの前に投げつけ火災を起こさせる戦法である。

 

 次は本職ともいうべき37速射砲の訓練である。速射砲は別名「直射砲」ともいわれ、速やかに移動し敵の戦車や上陸舟艇を直射するのが目的で弾には鉄甲弾と手弾の二種類がある。先ず砲の各部門の名称,操作、点検要領、作戦要領等を訓練する。成績の良い者が砲手になり其の他は弾薬手となる。

 

 砲の平地での移動は兵が肩にベルトをかけて引っ張って進むか或いは馬か牽引車で移動する。しかし我が中隊には牽引車は一台しかない。 次に山地に入って移動する場合は砲を「分解搬送」する。そして速やかに次の目的地にはこび組み立てて据え付け戦闘を続ける。この分解搬送は兵がそれぞれ分解した砲の部分、即ち砲身、砲架、車輪、脚等かついで移動するが一番軽い部分でも40kg位はあり、体力の充分でない僕は一番苦手であった。

  

また次に苦しかったのは「匍匐前進」の訓練である。林口台地は赤土で粘っている。この上を這って爬虫類のように進めば胸から脚まで泥だらけ特に雨の後は泥人形そのもの、この苦労を厭わぬのもお国のためか。ここで内務班に帰った時、古兵達の歌っている歌を思い出した。

       

  連射砲の兵隊さんにゃ

娘が惚れる  

 

 惚れちゃいけない苦労する

 

 苦労は厭わぬお国のためだ

 

 わたしゃ待ちますいつまでも

 

広い練兵場に黄昏迫る

 

今日の演習も無事でした

 

泥にまみれた軍服脱げば

 

かわいいあの娘のマスコット

 

  3月中旬頃か、我が歩兵砲中隊は湖子の茶工場から発って、台地を降り、瑞樹口という所に駐屯地をかえる。中隊本部は集会所を借りるがあとの兵舎はなく、兵が建てなければならない。あいにく最初の一夜は大雨で雨露をしのぐ所もなく兵は濡れ鼠同然、しかし訓練を受けたお蔭か風邪を引いた兵はいなかったようだ。

 

 職人出身の多い我が中隊の兵であるので、竹の柱で藁葺の仮兵舎を建てるのはお手の物、兵舎は数日後に完成した。

 

僕は本島人出身の兵の中から選ばれて中隊本部付となり、連絡と文書事務をとった。

 中隊長は田中中尉に更迭する。この隊長は若く気が荒い。よく兵を叩く。中隊には年配者を召集した第二国民兵がいるが若い兵隊や下士官は彼らを馬鹿にしている。僕の知る一人の老兵は嘉義農林学校の教諭だったが肥しかつぎをし野菜づくりをさせられている。これは無意味で国家の損失ではないのか?

  

4月頃から戦局は緊迫しつつあるかのよう、中隊の各分隊は陣地構築と訓練を強化した。僕も下福の分隊に派遣され、昼は樹を切り、坑木を運び、坑道堀の作業と砲架の強化改善作業で忙しい毎日で夜は壕の中で寝ることもしばしばあった。

  

我々の敢部隊は陣構部隊で決戦部隊ではないと耳にしていた。兵は工事には熟練しているが、その反面戦闘には強くないようだ。その上砲は古い。僕は入隊中実弾射撃を見たことすらない。今にして思えば榴弾で敵を倒すことは出来ても、鉄甲弾で米軍の壁厚い戦車を貫くことは到底不可能だろう。皇軍の精神訓練は充分といえるが近代戦において精良なる武器との組み合わせがなければ、勝利は勝ち取れないだろう。

  

幸いにしてマッカーサーの反攻軍は台湾を飛び越して沖縄を攻略したので台湾は戦火から免れた。彼らは日本本土攻撃へ早道を取ったのだろう。台湾をフィリピンの次に攻めたら損傷は莫大で時間もかかったろう。

 

 台湾軍20数万は無傷のまま昭和20年8月15日天皇の無条件降伏の玉音を聞いた。今までと違う不気味な沈黙の中、その一日三大隊本部に兵は集結し、軍旗の焼却式があった。僕ら台湾出身の兵は、9月2日新しい軍服と軍靴に若干の米、砂糖を渡され、翌日の9月3日に帰郷が許された。所謂軍隊地獄から娑婆に戻れた喜びは筆舌では尽せない。

 

 戦友よさようなら!さようなら!また会う日まで!!

 

駐屯地の林口庄から皆台北駅に向かって走った。瞬く間に台北駅に到着、軍用列車でそれぞれの故郷の近くの駅まで送ることになった。僕は二水駅で降り、濁水渓の鉄橋から清水渓を渡り故郷の竹山街猪頭粽の我が家に夕刻辿りついた。両親や親戚の喜び又とあろうか。思えば僅か7箇月という短い軍隊生活であったが事実よりずっと長い月日という感じであった。

 

 この軍隊生活は一生忘れることの出来ない貴重な体験であった。日本は敗戦した。

しかしただひとつ日本政府に叫びたいことは元日本籍だった台湾人日本兵が戦後中国の行政長官の一方的宣言によって中国籍に帰したものの、そのために日本から見放される一方、お前達は曽て祖国軍に対し銃を向けた不届者として、中国からも除者扱いにされ、いわば孤児的存在となった僕らに対して暖かい言葉をかけてくれたことがあったろうか?この道義的責任を日本国会に訴えたい!!

 

 

 

 


私の少女時代(林翆華)

 

          私の少女時代

                                                                                                   台中市 林 翠華

  

 私の少女時代は、国民学校時代でした。

 

 当時、台湾は日本の植民地で、台湾の子供たちは、日本側の厳格の中にも、十分愛のこもった教育を受けていました。

 

 私は昭和9年の台湾生まれで、7歳の時に、台湾人の通う国民学校に入学しました。登校後校庭に集合して朝会。先ず、宮城遥拝、ラジオ体操と校長訓話。最後に、一斉に声を張り上げて、

 

一つ、私共は大日本帝国の臣民であります。

 

一つ、私共は御国の為に尽くします。

 

一つ、私共はどんな苦しい事でも成し遂げます。と、青少年奉條を唱えます。

 済むと教室に戻り、修身時間です。修身は礼儀作法や身だしなみを習います。

 

天皇陛下御製の習得もこの時間です。御製の「新高の、山の麓の民草も、茂りまさると聞くぞ嬉しき」が印象的でした。

 

 昭和18年、10歳の私は4年生になりました。

  ちょうど世界二次戦争たけなわで、作文時間は、殆どが前線の兵隊さんに送る慰問文作りでした。

 「身体に気をつけて、にくい英米をやっつけて下さい。」とか、

 「山奥へ逃げた蒋介石、宋美齢を生捕りして下さい。」云々の、すさましい文句が主な内容でした。

 

 工作時間には、男の子はグライダー造り、女の子は千人針を縫います。そして、体育時間は防空演習でした。

 

 昭和19年、5年になった私は登下校の途中で、時々アメリカのB29に襲われました。敵機来襲空襲警報のサイレンが鳴ったかと思うと、頭上にB29機が現れ、急直下して来たと、見た途端、ダダダ・・・と機関銃で掃射。弾丸は頭や耳脇を通りぬけ、目の前の家壁や地面に吸い落ちます。命からがらです。授業時間は、空襲退避の仕方と防空演習になり、間もなく休校となりました。

 

 昭和20年は防空壕生活になり、8月に私は天皇陛下の無条件降伏宣言をラジオで聞きました。

 

 ずっと長い間、生死を共にして来た日本人が間もなく日本国へ引き揚げて行きました。なまなましい突如としてやって来た生き別れでした。

 

 翌年の昭和21年春、私は彰化高等女学校の入学試験に合格して、台湾人としての初めての中国属中学の第一期生になりましたが、学校の上級生がみんな日本語教育の日本語使いで、日本教育伝統気質の中で、中国式中学時代を迎え、7月に中学側から暇をもらって、7月卒業の中国式に合う為に、卒業を半年延ばした国民学校の卒業式に出席したのです。そして、幼い私は何が何やら見当がつかない中に、中国人になっていて、いつの間にか日本人時代の休止符を打っていたのです。

 

 

 


水産学校(林彦卿)

 水産学校

                                           台北市 林彦卿

 

事前に中学の先輩である中谷武さんから電話連絡があり、去年(2010年)の暮れ基隆水産学校の同窓会に参加した。武さんの御尊父の中谷啓二氏は水産学校第三代の校長で、彼は東大出で当初は技師として台湾水産試験所に居られた。

 

第一代校長は劉明朝氏(基隆税関に勤務)第二代は興儀喜宜氏だ。この水産学校は台湾総督府水産試験所設立以前に開校され、その後安平、東港、澎湖、高雄にも漁業発展の為続々水産学校が開校された。一時は鹿港にも、養殖業推進の為作られたがこれは間もなく廃校になった。

 

水産学校は三年制で受験資格は公学校もしくは小学校卒業後更に高等科二年修業した者である。日本人には日本国内からの無線学士か中学校中退で成績の良い者も受験できた。

 入学当初は漁撈科50人、製造科10人、養殖科10人で二年生三年生になると生徒数は多少減少するが約40人~45人が卒業している。但し漁撈科では航海日数が足らないと卒業出来ない事になっている、日本人台湾人の差別がなく成績が優秀な者が級長、副級長になっていた。

 

 戦後水産学校は水産高級職業学校と改称したが教育部公認の学校であった。

終戦後、鄧火土氏は台湾大学の教授であったが台湾省水産試験場の所長も兼任していた。戦後卒業生達はかっての恩師を台湾に招待していたから師弟の関係の良さが伺える。卒業生の多くは台湾島内五州三庁にある水産業の要職に就き、更に国外水産会社の指導者になった者もいる。

  去年暮の同窓会は約90人の参加者があって実に盛大だった。その中には校友の姿もチラホラ見られた。多くの校友たちがマイクを取って一席喋ったが達者な日本語だった。宴会の後半からはカラオケが始まり、これまた盛り上りのあるのど自慢大会になった。小生も出て「お手手つないで野道を行けば・・・・」で始まる「靴が鳴る」を歌ったら何人かが唱和してくれたので嬉しかった。席に戻ると呉文達さんが封筒を一つ渡してくれた。中に千二百元が入っており、呉文達さんは檀上に上がって歌った人には全員一封を差し上げていた。この方は第九期で、入学第三年目で終戦になった。在学中は学徒動員で瑞芳の炭礦と蘇澳の缶詰工場で働き終戦になって学校に戻った。呉文達さんは現在台湾全民羽毛球「バトミントン」発展協会の会長で選手を引率して日本に数回遠征、日台友好に努力され日本からは勲章を授与されている。

  

二年前基隆中学校同窓会会長、王進益さんの好意で基隆中学の同窓会に参加する機会があった。参加者約六十人の盛会で、私が「大勢居りますね」と云うと「前の年は八十人だった」との声が返って来た。日本側の校長会会長廣繁喜代彦さんのお顔も見えた。 基隆中学の台湾人生徒は三割程度で、宜蘭地方には女学校は古くからあったが中学校はなかったので男の子は基隆中学に入学し台北二中に進学した子もいる。

 

 当時台北には台北州立とされていた四つの公立中学がありその中、台北二中には台湾人の秀才が集まっていた年一度の同窓会は百人を越える。この学校には日本人学生二割程いるが日本人はこの会に参加していない。 台中では一中が台湾人の中学で日本人は一クラスに一人位しか居ない。 

 

前述中谷校長の長男、武さんは中学では小生の六期先輩だが台北高校の高等科で小生の兄と一緒で二人ともサッカー部の部員だった。 もっとも中谷さんも私と同じ附属小学校卒なので同窓会では度々顔をあわせる。彼は広島で、いくつかの高校の校長をされた後、今は「広島台湾会」の会長に納まっている。数年前来台した折には基隆の水産学校に同行し、彼は学校に中谷校長の写真が掲げられているのを見て、「台湾人は心が優しい」と喜んで居られた。 中谷校長は来台後、水産関係の技師をして居られたが第三代校長として基隆水産学校に招待された。基隆水産試験所の所長になられた事もあり、校長と所長を兼任された事もあったが終戦で帰国の際には思わぬハプニングに遭遇された。即ち基隆の波止場で引揚船に乗る為列を作って並んでいると、前方から 

「中谷啓二さん、中谷啓二さん居りますか」と大声で叫びながら元日本軍人の服装をした男が歩いて来る。武さんが 

「中谷啓二は私の父で後ろのほうに居りますがどうしましたか」と尋ねると

 「中谷啓二さんは乗船していけません」と云う。

 

実は中谷校長を探していたのは元陸軍の兵隊で戦時中軍の方から何度でも水産学校の生徒を基隆の波止場で荷物を揚げ降ろしする苦力の様な仕事をさせる指令が有ったのだが、中谷校長はなぜ水産学校の生徒にその様な重労をさせるのかと抗議を申し立てた。大体波止場での仕事は何時米軍の襲撃を受けるのかも分からず非常に危険である。いずれにしろ生徒をこの様な危険な目に遭わす事は出来ないと何度も軍の申し出を断った事で怨みを買っていたのであった。

 

 引揚船は十数メートル先の目の前にある。船上からこの様子を見ていた上司の台湾人が事情を察し大声で「もう戦争は終わった。家族と一緒に帰国させるべきだ」と言明した。

 

お蔭で啓二氏は無事家族と日本に帰る事が出来た。乗船後お礼を云おうとこの台湾人を探したが当人とは会えなかった。ついでに一言加えれば終戦によって日本人と台湾人の立場が逆転し、この台湾人が上役となり前上司だった日本人がその管轄下におかれたのだ。 

 

中谷武さんが台北高等学校高等科在学中の昭和18年の暮、時の台湾総督長長谷川清は高等科の文科生全員を総督官邸に呼寄せた。時局柄この大戦に勝つ為一層奮勵努力せよと訓示をされるものと思っていたが、話の内容は予想はずれのものだった。即ち

 「日本は今建国以来の大きな国難に遭遇している。米軍の軍事力は実に巨大で日本は非常な苦戦を強いられている。運悪く負けるかも知れないが、米国は民主国家故、日本の国体を滅ぼす事はなかろう。それ故前途有望な君たちは体を大切にし、戦後の日本の再建に努力して貰いたい。くれぐれも自殺等をすべきではない。今一機の特攻機で敵艦一艘を撃沈すると言っているがそうは行かない。 百機の特攻機で一艦を沈められるかどうかである。君達は命を更に大切に扱い国の為に働くべきである。」と云った話だった。

 

 因みに台北高校の尋常科と云えば全台湾中学校の入試に先駆けて生徒を募集した定員40名だけのエリート中のエリートであるが尋常科の生徒でも学校を中退し、海軍飛行士予科練習生「予科練」に行ったのがいる。

 

当時の情勢で自分の子が軍事学校に進学するとか更に危険性の高い飛行兵を志願すると言いだせば親でも反対出来ない雰囲気だった。元中興医院の院長呉添裕氏は新竹の生まれで新竹中学校在学中軍から派遣された将校が来て、厳しい時局について話をした。講演の後呉氏が 

「自分は予科練を志願する」と配属将校に話したら、大反対され

 「お前みたいな優秀な生徒はあんな予科練等に行くのではない。君は虎の子部隊だ。台北高校か台大予科の様な所に進学しろ。」と云われた。

 

 大東亜戦争は軍の暴走に依って全く勝ち目のない無謀な戦争に突入し国民全体に非常な迷惑を掛けた。学生は本来学習が本分なのに軍は屢屢大した必要性もない勤労奉仕の為に動員命令を下した。私達の一期下の学生の者が梅屋敷(現孫中山記念公園―中山北路一段)に集合させられた。級長が作業の内容を尋ねると、

 「ここにある200程の盆栽を全部向こうの軒下に並べろ」との事。作業完了の報告を兼ねて次の仕事を聞くと、

 「又元の所に持ち帰れ」と、級長は我慢できず

 「私達は大事な授業を休んで勤労奉仕に来たのにその様な無駄骨を・・・・」

 と言うと、指揮を取っていた兵隊は

 「青二才のくせに生意気云うな」と怒鳴りつけた。日本の軍隊では「上官の命令には絶対服従」が大前提ではあるがこの様な口をきく上官は尊敬に値しない。

又ある学生が

 「勤労奉仕などあまり意味が無い」と言った発言が職員会議に載せられ彼は危うく退学処分になる所だった。非常時とは確かこの様に非ずであった。

  

日本本土にも水産学校は多くみんな港町にある。

 

基隆市郊外の八斗子漁港あたりによく蝶コレクションに行った。オオゴマダラは普通種であった。そこには琉球人の集落があり現地の人達とは折合がいい。彼等は魚とりのベテランで台湾人に漁の技術指導をしている。戦後も帰らずずっと居残っていたという。 人は何か特技を持っていると生活には事欠かないものだ。

 

 

 



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