目次
はじめに
第一部 私と台湾
日本語は私と台湾の架け橋(アンディチャン)
台湾の楽しい思い出 (池田徳三郎)
何故台中市は大好きなのだろうか?(池田徳三郎)
台湾に残る狛犬たちを訪ねて(市来訓子)
私を台湾へ導いてくれた台中のご縁(伊勢寛)
埔里で日本語教師をして (伊藤直哉 )
いりぐち(大竹千紘)
台湾の神社に魅惑された私 (金子展也)
慰霊訪問団に参加した孫の感想(小菅亥三郎)
ドライブと温泉(駒井教雄)
私の台湾人生(酒井充子)
私の台湾史(佐藤晋)
台湾の日本語世代からのエール(佐藤民雄)
台湾へ出向(鈴木誠真)
台湾へ留学の思い出(高橋美代子)
お爺ちゃんとの思い出(舘量子)
台湾の世相の変化(陳秋蘭)
台湾の鐡道に魅せられて (戸井智博)
私と台湾(飛石秀樹)
台湾物語(中須賀重幸)
台湾と中国のはざまで揺れた心(中山孔明)
台湾と祖父母と私(永峯美津保)
環島(西川洋美) 
私と台湾 (丹羽文生)
台湾との邂逅(福田真人)
変わるものと変わらないもの(松尾功子)
台湾を歩いて(松任谷秀樹)
台湾で観たお月さま(森順子)
台湾は台湾 (李中元)
私と台湾のご縁(山本幸男)
私と台湾のかかわり (山元與一 )
日本語と私(林玫芳 )
台湾で見つけた人生の目標 (若尾彩加)
第二部 湾生と日本語人
私の一生(木村英一)
故郷の川(島崎義行)
暖かい台湾の心(瀬戸省三)
勇気ある質問(泰一則)
台中にて(堀部二三男)
二つの故郷(溝口啓二郎)
詩「戦後60年」(許育誠)
皇太子殿下のご成婚に期待をかけて(許昭栄)
昔の夢にふける(洪伯若)
冬(曹劉金花)
回顧(游大坤)
母の思い出(李栄子)
終戦当時の思い出 (李英妹)
詩「故郷」(劉心心)
私達と日本語(林陳佩芳)
僕の軍隊経験(林啓三)
私の少女時代(林翆華)
水産学校(林彦卿)
編集後記
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暖かい台湾の心(瀬戸省三)

 

             暖かい台湾の心                     

                        福島県 瀬戸省三

 

 

 

昭和202月学徒出陣で台湾北部海岸を守った。9月に入ってようやく終戦を知らされ、現地除隊となって台中陸軍航空隊の南にあった自宅に向かった。台中駅に降りて自宅付近まで来ると家は一軒もなく、生い茂る夏草の所々にコンクリートの土台だけが白く見えた。アメリカの4月の爆撃でやられたとのことである。ところで父母は生きているだろうか。急いで姉の家を訪ね父母の所在を確かめた。健在で台中市郊外の乾溝子という部落に、台湾の方のお世話になって暮らしているということであった。

 

 早速乾溝子の父母を探して、夕方暗くなるころ乾溝子にたどりついた。父母は4月の爆撃以来、着の身着のままで乾溝子の藍淵さんの世話になっていた。そこへ8月の終戦で兵役免除なった兄弟4人もお世話になることになった。台湾の人たちは竹で作った寝台に寝て暮しているが、日本の方は畳の上でないと暮らしにくいだろうと、台湾の藍淵さんが早速煙草乾燥場に板をはって、その上にどこから探してきたのか、畳を敷いて下さった。これには驚いた。感謝しながら翌年の3月までお世話になったが、日本人は市内の小学校に集合して日本に引き揚げることになった。丸一年家族6人でお世話になった上に、一文なしの私たちに食物を与えてくださったのである。

 

いよいよ21年3月に別れの日がやってきた。藍淵さんが言うには「台湾から福島まで一週間もあれば到着していたのだが、今は終戦の混乱期、途中どんなことに出会うかわからないから、この一斗缶を福島まで捨てないで持って行ってください。中に干飯が入っています。」と言って一斗缶を餞別にくださった。市内の小学校に集合する途中どんな危険があるかもわからないから、部落の若者を護衛につけてあげますと言われ、5人の若者に守られて何事もなく市内の集合場所に着いた。集合場所で別れを惜しんで話が弾んだ。

 

「藍淵さはじめ部落の人にお世話になったことは一生忘れません。お互いに頑張って生きていきましょう」といって別れた。やがて基隆まで汽車に乗ったが汽車は超満員で、足の踏み場もなくトイレにも行けない状態だった。基隆から船に乗ったが船の中も混雑していて三度の食事は子供のいる親たちがうばいあい、我々の口に入ることはなかった。仕方ないから藍淵さんにいただいた一斗缶の干飯を毎日少しずつ食べて、命をつないだが日本に上陸して東北方面の汽車に乗るまで何日もかかった。

 

台湾を出発してから福島に着くまで藍淵さんの予想した通り一か月もかかった。食堂があるわけでなし食べ物はどこにもない。藍淵さんの餞別にいただいた干飯だけがたよりで、ようやく福島にたどり着いた。それから35年後、教職を退職してお世話になった台湾の人たちをたずねたが、昔の家は残っていても、お世話になった人たちに会うことが出来なくて残念でなりません。暖かい台湾の心が、いつまでも忘れられず、感謝して毎日を送っています。

 

       

               (小ざくら会報NO52 平成221014日より転載) 

 


勇気ある質問(泰一則)

 

          勇気ある質問 

 

                                                                     泰一則

  

FORMOSA(美麗島)と呼ばれる日本の植民地だった島(現在の台湾)に私は生まれ育った。そしてそこの大学(台北帝国大学)を出て、

旧制の中学校の国語の教師になった。思えば台湾は今でも私の故郷である。私の皮膚にも、目にも鼻にも口にも、台湾の風土はなじみすぎるほどなじんだ。幼い頃には、家庭内の会話でも、時として台湾語を操って母を驚かせた。私にとって外国とは、とても思えない。しかし、私が台湾に惹かれるのは、そんな情緒的なもののためではない。私の長い教師生活の、最初の貴重な四年間を過ごした、悔恨や苦悩につながる忘れ得ない土地なのだ。

 

 

「台湾人」が全校生徒の九割以上を占めるという台南第二中学校、その特殊性には驚かなかったけど、そこで私は大きな体験をした。それは一言でいえば、どんな形にせよ、一つの民族が他の民族を支配してはならない、またそれは不可能だということである。その当時の台湾人に対する日本人の気違いじみた同化政策が、どんなに人間の自然を損ねたか、それをいやという程見てきた私は、日本人であることが厭になることさえあった。

 だから、校内では台湾語を使うことは厳禁されていた。それを犯せば

 退学させられたのである。だから、校庭のあちこちで談笑している生徒たちは、私が仲間に入ろうとして近づくと、ぴたりと話をやめた。そんな時のいいようのない白々しい空気は、どんなに辛く私の心に突き刺さったことだろう。一つの民族からその言語を奪う、それが大きな悪であり、反自然的であることを、私は痛烈な実感として思い知らされた。

  

こんなこともあった。日本が太平洋戦争の緒戦の勝利に酔っていたある日、校庭の朝礼で、校長がこんな訓示をした。大陸で戦っている勇敢な日本兵の一人が、敵のトーチカを奪取するために、機関銃が火を吹き止まぬ銃眼に片腕を突っ込んで沈黙させたという、当時の新聞の報道を伝えて話した後で、 

「どうだ、お前たちもこんな勇ましい行為ができるか。できると思う者は

 手を挙げよ。」と言った。すると全校800人の生徒が一斉に、一人残らず手を挙げたではないか。その日の一時間目、私はいきなりそのクラスの生徒に問うた。

 

「もう一度尋ねる。銃眼に片腕を突っ込めると本当に思う者は手を挙げよ。」

 

私のけんまくに恐れをなしたのか、誰一人手を挙げなかった。

 「なぜ嘘をつくのか」

 と私はたたみかけて問うた。誰も答えない。私は「この嘘つきめ」と罵りながら、どうしようもない悲しみに沈んでいった。

 

 私の叱積が的外れであることはわかっていたのだ。あの朝礼の雰囲気の中で台湾人である生徒が手を挙げなかったらどんなことになるか。手を挙げること、嘘をつくことが、止むを得ない自衛手段であることは、若い私には本当によくわかっていたのだ。だから私は腹が立った。彼らに嘘を強いる大きな力が憎かったのだ。

 

 しかしその後で、鮮やかな三段論法で教壇上に私を窮死せしめた生徒がいたのである。

 

「先生、盛者必滅、栄枯盛衰は世の習いという平家物語の一節は真理ですか」と彼は真面目に問うた。

私は「然り」と答えた。かれはつづいて

 「真理に例外がありますか」と問うた。私はためらうことなく、

「ない」と答えた。するとまたもや問うた。

 

「では日本も滅びる時がありますか」

  

ああ、あの時の困惑と狼狽を、半世紀以上経った今でも、ありありと思い浮かべることができる。あの時ほど自分がくだらなく小さな人間であることを思い知らされたことはなかった。生徒たちの心にもない挙手に怒った私が、心にもない沈黙で答えなければならなかったのだ。しかもなお、

そこには意地悪さはなく、全く透明なロジックの見事さだけが光っていた。そのことを今でもすがすがしく思い出すことができる。それ以後での日本内地での教師生活でも、これほど論理的に考え、それを堂々と表現する生徒に出会ったことはなかった。

  

その日の授業のあとで、その生徒は私の所に

 「さっきは悪いことを質問した」と侘びに来た。ただならぬ事態を心配した同級生から言われたらしかった。しかし私にどんな対応ができたであろう。ただ一言「不問に付す」と言っただけで、みずからをごまかすより外はなかったのである。

  

台湾はいま生まれ変わろうとしている。どうかその名前の通り「フォルモサ(美麗島)」として末永く栄えてほしい。かっての罪深い支配国の一人として、またその島をひそかに「故郷」と思っている者の一人として、そう願わずにはいられない。

 

 

 

 

 

 

 


台中にて(堀部二三男)

 

               台中にて  

                      堀部二三男(14)    

            小ざくら会報1978(民国97) 昭和53

 

 

今年の元旦は台中で迎えた。前日に台北から昨年の10月に開通したという高速道路を通って来た。僅か3時間で着いてしまった。台湾にも大きな近代化の動きが感じられた。あとから聞いた話だが、高速道路と前後して完成した鉄道の電化が、開業直後に機関車の故障で動かなくなり、世間の非難を浴びたと言う。何処かがヨーロッパの製品だったらしく、日本のものを買えば良かったのにという落ちがついたのには微笑ましくなった。

 

 

 高速道路から台中へのインターチェンジを出ると、広い道路に沿って立派な家並みが続いている。然しその沿道の何処にも見覚えがない。やっと見覚えのある建物を見かけたら、そこはもう町の中心に近かった。私たちの住んでいる頃は人口5、6万。今は560万という。あの落ち着いた小都市のたたずまいを知っている人は、今の台中には案外と少ないのかもしれない。

 

 今度の台湾旅行には3つばかり大事な用事があった。その1つは大晦日の昨晩、台中で無事に終わった。戦前この町で医院をやっていた兄が、台中でお世話になった人々をお招きして一席設けたいという意向を以前から私に伝えて来ていた。それを昨晩実行したのである。20数名の方々に来ていただいた。彼らの見事なホスピリティは、主催者である我々兄弟をむしろ客のように扱ってくれた。その席上、古い友人知人の子供さんたちの中に日本語を解する人が少なかったのはやむを得ないことであった。私はこのような日のために、昨年の春から中国語を習っていた。週に3回夜の2時間を生みだすことは相当な難行であったが、何とかこれまで続けて来た。実はその前の年に台湾に行ったとき、知人の子供さん達と顔を合わせていて、お互い好意を持ちながら共通の言語がないために、ただニコニコしているだけでバツが悪く歯がゆかったのが、直接のきっかけであった。中国語は入り易いが、少し進むとどの言語にあるように、ある種の困難にぶつかる。その困難を感じはじめたときの台湾旅行であった。内心どのくらい通じるか楽しみであった。しかし、台北の飛行場で、知人の立派な日本語に迎えられて、中国語を口にするきっかけを失ったように思えた。しかし、私は昨日の宴会の席で、日本語を話せぬ人達に何とか中国語で話をしようと努めた。酔いが手伝ったのであろうが、そのために更に酔ったのも確かである。しかし彼らが私の話によく笑ってくれたのは彼らの好意ではあったろうが、私の努力もいささか報いられたと、元日の寝覚めはすこぶる快調であった。


快い寝覚めは気温との関係があったようである。窓から爽やかな朝の風が入って来る。正月だと言うのに一晩中窓を開けて寝ていたのだ。私は兄には声かけずに宿を出た。通りの屋台でユーチャコエを売っている。私は揚げたてのそれを2本と豆乳を注文した。しめて40円、私は満足した。


宿は昔私が住んでいた家の近くであった。私はここから中学に通っていたときのことを思い出した。そうだ。2中に行ってみよう。私は30数年前の昔に通い馴れた道をためらわずに歩き始めた。道は昔のままの屈曲を示しているが、建物はほとんど変わっているように思える。時に記憶のある建物を見るとえらく感傷的になる。そして様々なことが思い出される。


2中は昔の実感よりも遥かに近くにあった。挨拶して入ろうと思ったが、休みのためか早朝のためか人影がないのでそのまま入って行った。中庭の方に廻ると、開校当時に建てた平屋の教室が高いものに変わっている。こんな木があったのかと思うほどに樹木が大きく育っている。私はその木の下のベンチに腰を下ろした。玉山の姿を求めたが見えない。昔は田んぼと甘薯畑だった校庭の周りにはびっしりと家が建っている。


私たち兄弟6人がこの学校を卒業した。兄弟の序列に学校の先輩後輩の序列までついてはたまったもんではないと、末の方に近い私は昔よく思ったものだ。しかし今こうしてこの学校の庭を眺めていると、私の兄弟、その友人が幾十年の昔にこうしてここの学校で学び遊んだのかという感慨が湧いてくる。


私は立ちあがってゆっくりとトラックを歩き始めた。このトラックの草取りをしたことがあった。手の入らない夏休みには、校庭全体に背丈ほどに雑草が生い茂ったことがあった。トラックを一周して寮のあった方から外に向かった。靴屋が終日トントンと生徒の靴を修理していた便所あたりはそのままであった。


校門を出たばかりの所で子供の群れに出会った。5、6人の男の子が小さなコロコロした犬と遊んでいる。停仔脚の下で無心に子犬と戯れている子供たちは可愛かった。私は自分の心が和しているのが分かった。そして今は異国であるはずのこの土地が、どうしても私には異国とは思えなかった。


それは郷愁と言う個人的な感情が、この町この土地への愛を感じさせているからではなかろうか。私を育ててくれたこの町とこの自然。私はこの町のために何かしたいと思った。台中のため、そして台湾のために私は何が出来るであろうかと考えていた。そして、奇しき縁で同窓となった台中2中の人々と、このことについて話し合いたいと思った。


二つの故郷(溝口啓二郎)

         二つの故郷 

 

                                 溝口啓二郎

 

1945年(昭和20年)八月十五日、日本も暑い日だったらしいが、台湾はもっと暑い日だったと思う。正午に天皇陛下の重大放送があると知らされて、われわれはラジオの放送に耳を傾けた。雑音がひどく声も低かったので、「玉音」は聞き取りにくかった。仕事から帰った父が、「けっきょく、降伏だな」と言うのを聞いて、「敗戦」という事実を始めて確認した、というのがあの日のわが家の実態だった。当然、内地人、特に大人達のショックは大きかった。虚脱状態がしばらく続いた。

 

一方、台湾の人達の反応はどうだったかと言えば、満州と呼ばれた中国東北部や朝鮮の人々のように、日本の敗戦を歓呼の声を挙げて迎えるというシーンは見られなかった。私があの頃の台湾の民衆の表情から感じたのは、安堵感と解放感だった。「台湾人として暮らしていける」ということは歓迎すべき出来事だったと思うが、それが内地人に対する報復行為に結びつくことは、台湾ではあまりなかった。台湾人と日本人の関係は戦後も比較的良好だったと思う。

  

あの頃、私の家に「彩さん」と呼ばれていたお手伝いさんがいたが、この女性は敗戦後もずっと我が家で働き続け、われわれが日本に引揚げるまで一緒に住んでいた。帰国の際、彼女が駅まで送ってくれて、プラットフォームでハンカチを目に当てていた姿を、今でも思い出すことができる。

  

私の友人の中には、台湾人の同級生に殴られて学校へこなくなった者もいたが、彼らは皆戦争中に、少数派で弱い立場にあった台湾人の生徒をいじめていたようだ。「報復」を受けても仕方がない過去を持っていたと思う。

  

二中は校長が中国人に変わったが、学校での授業はわれわれが引揚げるまで続けられ、大多数の生徒が出席していた。昔の友人に同総会で会っても、この敗戦後のことが話題になるのは稀であるが、私は戦後の学校生活を結構楽しんだ。興味を持って学んだのは中国語だった。「国語」と呼ばれていたが、予、復習をきちんとして授業に出ていた。この頃から私は語学が好きだった。

  

台湾に住んでいたわれわれは、戦後も恵まれた生活をしていたと思う。戦後職場が接収された後も、引揚げるまで父は給料を貰っていたので生活に困ることはなかった。敗戦国民ではあったが、台湾人の人々と共に、戦争中の抑圧から解放されて、私は伸び伸びとした雰囲気の中で暮らしていた。

  

敗戦後数ヶ月経ち、日本人の引揚が話題になり始めた頃だったと思う。「台湾に留まって台湾人になろう」と父が家族の者に提案した。夕食後、父は家族全員を前にして次のように語った。「今更日本に帰っても仕方がない。こちらに残って台湾人になろう。名前も中国風に変えることにしたい。」と言った。台湾で生涯を終わるつもりでいた父は、敗戦後も台湾に残りたかったのだろう。台湾人の知人の中には、「一緒に仕事をしましょう」と言う人もいたらしい。

 

しかし、結局、この話しは立ち消えになり、翌年の三月故国に引揚げることになったが、あの時父が口にしたわが家の家族の中国名は、今でもはっきりと私の記憶に残っている。父の名は故郷大分県の名勝耶馬渓からとった「馬渓」だった。「引き揚げ」の話は、1946年(昭和21年)の年が明けた頃から次第に具体化していった。

  

終戦の頃、台湾には、軍人を別にして三十万余の日本人がいたらしいが、日本本土の混乱と食料難、台湾での生活に馴染んでいたこと、敗戦国民だったとはいえ、台湾人からの報復がほとんどなかったことなどから、一時は約二十万人が台湾に留まることを希望したと言われる。この事実はそれだけ台湾が、「戦後も居心地のいい場所だった」ことを物語っている。当時に台湾において、父がしたような台湾残留の意思表明は、我が家だけに限られた特殊な現象ではなかったと言えるであろう。もっとも、進んで「台湾人になろう」とまで思った人が、他にいたかどうかについては、定かではないが。

  

しかし、台湾を接収した国民党政権が、大量の日本人の残留(少数の徴用者とその家族を除いて)を許さなかったのと、インフレをはじめとする社会的な混乱が生じたことにより、1946年三月までには、全員が帰国を希望したようである。その頃父は愚痴をこぼしたり、悲観的な言葉を口にしたりはしなかったが、新任の中国人の分(支)局長にポストを明け渡し、手持ち無沙汰だった父が胸中に抱いていたさびしい思いは、私にもわかるような気がする。

 

新しい政府の評判はあまりよくなかった。台湾人の国籍は中華民国となったが、台湾人は「本省人」と称され、中国から新たに渡ってきた中国人は「外省人」と呼ばれ、区別されていた。われわれが帰国する頃この両者の間には反目がすでに生じていた。新政府のことを台湾の人達は「ブタ政府」と呼び始めていた。われわれが台湾を去った後、本省人(台湾人)は、「イヌ去って、ブタ来たる」と言ったらしい。イヌとは日本人をさしていた。イヌは番犬として多少役に立ったが、ブタ(外省人)は台湾の財産を食い散らかして、肥え太るだけだったらしい。もっとも時間的な前後関係からすれば、「ブタ来たりして、イヌ去る」だったと思う。

  

われわれは三月下旬に引き揚げ船に乗って、かつての内台航路の基点基隆を離れた。デッキは追われて島を去る人々で満たされていた。おそらく多くの人達がこの島に骨を埋める覚悟だったのであろう。デッキに立って遠ざかる島影を見るめる大人達の顔には惜別の念が浮かんでいた。船脚が速まるにつれて、私の胸中に次第に別離の思いがこみ上げてきた。「再見(さようなら)」水平線の彼方にかすんで見える故郷の島に向って、私は心の中で叫んでいた。

  

四年前訪台した際、私はこの港町を再び訪れた。あれから半世紀余の時が流れていた。私は港を見下ろす丘の上に立って、記憶にかすかに残る風景をカメラに収めながら、しばし懐旧の情に浸った。「(一年に)三百六十六日雨が降る」と言われたくらい雨の多い町基隆らしく、その日も煙るような小糠雨に濡れていた

 

 


詩「戦後60年」(許育誠)

 

        詩 「戦後60年」           

                     台中市 許 育誠

 

 

私は、大正14111日生まれの台湾人

昭和20年8月15日までは日本人であった

 

 戦後60

 

台湾は、宿命的な歴史の十字架を背負わされ、

 

国際孤児とみなされ、

 

世界の多くの人たちから見放されている

 

  

若い女性からは、敬意の目で言われる

 

「おじさんの日本語お上手ね」

 

年嵩の者が、感じ入った顔で言う

 

「日本語よく覚えているね」

 

若い女性は、私がかって日本人だったことを知らない

 

年嵩(としかさ)の者は、私の日本語への郷愁の深さを知らない

 

 戦後60

 

台湾社会における日本語はいつしか風化し

 

おじさん世代の多くは忘れかけている

 

 しかし、今もなお、日本語の言霊にひかれ

 

毎日朗読して親しむ人もいるのだ

 

 戦後60

 

日台文化交流の架け橋と自負する私も

 

既に齢80

 

残された日々は決して多くない

 

されど、私は今日も日本語文の研鑽に、

 

習得に身を入れている

 

 



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