目次
はじめに
第一部 私と台湾
日本語は私と台湾の架け橋(アンディチャン)
台湾の楽しい思い出 (池田徳三郎)
何故台中市は大好きなのだろうか?(池田徳三郎)
台湾に残る狛犬たちを訪ねて(市来訓子)
私を台湾へ導いてくれた台中のご縁(伊勢寛)
埔里で日本語教師をして (伊藤直哉 )
いりぐち(大竹千紘)
台湾の神社に魅惑された私 (金子展也)
慰霊訪問団に参加した孫の感想(小菅亥三郎)
ドライブと温泉(駒井教雄)
私の台湾人生(酒井充子)
私の台湾史(佐藤晋)
台湾の日本語世代からのエール(佐藤民雄)
台湾へ出向(鈴木誠真)
台湾へ留学の思い出(高橋美代子)
お爺ちゃんとの思い出(舘量子)
台湾の世相の変化(陳秋蘭)
台湾の鐡道に魅せられて (戸井智博)
私と台湾(飛石秀樹)
台湾物語(中須賀重幸)
台湾と中国のはざまで揺れた心(中山孔明)
台湾と祖父母と私(永峯美津保)
環島(西川洋美) 
私と台湾 (丹羽文生)
台湾との邂逅(福田真人)
変わるものと変わらないもの(松尾功子)
台湾を歩いて(松任谷秀樹)
台湾で観たお月さま(森順子)
台湾は台湾 (李中元)
私と台湾のご縁(山本幸男)
私と台湾のかかわり (山元與一 )
日本語と私(林玫芳 )
台湾で見つけた人生の目標 (若尾彩加)
第二部 湾生と日本語人
私の一生(木村英一)
故郷の川(島崎義行)
暖かい台湾の心(瀬戸省三)
勇気ある質問(泰一則)
台中にて(堀部二三男)
二つの故郷(溝口啓二郎)
詩「戦後60年」(許育誠)
皇太子殿下のご成婚に期待をかけて(許昭栄)
昔の夢にふける(洪伯若)
冬(曹劉金花)
回顧(游大坤)
母の思い出(李栄子)
終戦当時の思い出 (李英妹)
詩「故郷」(劉心心)
私達と日本語(林陳佩芳)
僕の軍隊経験(林啓三)
私の少女時代(林翆華)
水産学校(林彦卿)
編集後記
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奥付
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台湾の世相の変化(陳秋蘭)

                   台湾の世相の変化

 

                                         台中市 陳秋蘭

  

三十年前は、三十代の人は五、六十台に見える人が多い

 

三十年後は、六十代の人は三十台に見える人が多い

 

 

三十年前は、人々はいかに「太れる」かを考えていた。

 

三十年後は、人々はいかに「やせる」かを考えている。

 

 

三十年前は、貧乏な人は野菜とさつまいもを食べる

 

三十年後は、金持ちの人が野菜とさつまいもを食べる。

 

 

三十年前は、一人の働きで数人の家族が養える

 

三十年後は、夫婦共稼ぎでも一人の子供を養うのが難しい

 

 

 

三十年前は、大学入試に受かるのが非常に難しい。

 

三十年後は、大学入試に受からないのが非常に難しい。

 

 

 

三十年前は、家に老人がいることは宝があるがごとし。

 

三十年後は、家に老人がいるとみんな逃げたり避けたりする。

 

 

 

 

 

 

 


台湾の鐡道に魅せられて (戸井智博)

 

          台湾の鐡道に魅せられて

 

           東京都 戸井智博

 

〔1〕環島挑戦の思い

 

20129月、私は当時勤務していた会社の拠点長として台湾・台中市に赴任した。単身赴任であったため、休日の昼は仲間とゴルフ、夜はカラオケというお決まりの過ごし方をしていた。しかしあるとき、台湾の方々が一生のうちにやっておきたいことの中に『台湾を一周する=環島』があるということを何かで読み知った。その時から私は『環島』という言葉に興味を持った。

 

当時知り合った巨大機械工業(GIANT)さんからも、自転車での台湾一周についてお話を伺った。『環島』とはなんと魅力的な響きなんだろう、私もいつかはやってみたい、と改めて強く感じた。しかしながら、社会人になり、飲酒・不規則な生活および運動不足の3大悪癖により、30年かけてじっくりと熟成したこの身体では自転車による台湾一周は夢のまた夢であった。

 

諦めかけた時に、日本在住の台湾大好き友人から『今度台湾の鉄道で一日で台湾一周に挑戦しに行くけど、一緒にどう?』というお誘いがあった。なるほど、一周するならどんな手段でもいいな、ということで即OKの回答を出した。このとき、私の『環島』挑戦は、鐡道を使っての達成に目標を変えたのであった。

 

〔2〕環島達成

 

日本の友人との『環島』は20149月に計画されたが、まさに実施予定日に台風が台湾に上陸し、台湾の鉄道は全面的に運休になってしまい私の環島達成はお預けになった。その友人に計画立案すべてを任せていたので、リベンジの実現はいつのことやらと考えていたが、思いのほかその実現は早くやって来た。台湾人の友人が大いに興味を示してくれたので、早速私が計画を立てることになったのである。

 

その記念すべき日は2014112日。スケジュールは『朝630台中から台湾高速鉄道(高鐵)で台北へ。台北から800発の自強號(特急)で花蓮に。花蓮で莒光號(急行)に乗り換えて台東に。途中有名な池上便當を池上車站の月台(プラットフォーム)で購入し車中で頂く。台東から新左營まで再び自強號に乗り、仕上げは新左營から高鐵を利用し台中に19時半過ぎにたどり着く。』完璧であった。めでたく環島を一日で成し遂げたのである。台湾東海岸の車窓(田園風景、青い海原)はとても素敵であった。今でもくっきりと目に焼き付いてる。

 

〔3〕全線完乗への道

 

  環島は達成できた。台湾の鉄道の旅の面白さを知ることができたが、その一方で、駆け足の旅はやや味気なくも感じた。今回の環島達成ではまだ乗っていない線があり、すっきりしない気持ちを強く感じた。ここから私の怒涛の台湾鐡道乗り潰し(完全乗車=完乗という)が始まったのである。以下にお示しするのが、台湾での主な乗車及び鉄道関連施設訪問記録である。

 

 ○集集線(2013/12/2)実は先行して既に乗っていた。終点の車埕は散策に良い静かな街だった。

 

 ○環島達成(2014/11/2)上述の通り。

 

 ○彰化扇形操車場と福井食堂訪問(2014/11/22)彰化車站にある機関車トーマスたちの家そのものの操 車場。見学者のための展望台の設置も心憎い気配り。彰化から南下し社頭車站にある福井食堂も訪問。1階 が食堂で2階以上に店主の陳さん自慢の鉄道コレクションが展示されている。

 

 ○内灣線・六家線(2014/12/20)終点の内灣車站は遊技場や客家小吃のお店がいっぱい。

 

 ○沙崙線(2015/1/10)保安車站見学の際に足を延ばして完乗。沙崙車站は高鐵台南車站に隣接している。

 

平溪線(2015/1/11)会社の後輩が台湾旅行に来た際にアテンドで。十份での軒先をかすめて走る列車の迫力は必見。線路上で願い事を書いた提灯を飛ばすが、走ってくる列車にご注意を。

 

 ○西部幹線/縦貫線(2015/2/7)竹南から彰化までを區間車を乗り継ぎながら、大正から昭和初期にかけて建造された古い駅舎を巡った。途中下車して駅舎をじっくり見学したのは談文・大山・新埔・日南である。

 

いずれも県指定の歴史建築に指定されたり、台湾の鉄っちゃんに任意のある木造駅舎である。

 

 ○成追線(2015/2/7)追分・成功間の約2㎞の区間で、いつでも乗れると思いながら乗る機会がなかった区間。この区間の切符は受験生に大人気である(分=点数を、追=得て、成功に導く)。

 

 ○台鐵完乗(2015/3/22)乗り残していた蘇澳蘇澳新、基隆八堵及び瑞芳海技館を、会社の同僚・その 太太と一緒に乗車。これでめでたく完全乗車達成!その夜は台中のビール工場に隣接している食堂で祝杯。

 

舊線(および龍騰断橋)(2015/3/8)旧山線の駅を巡り、地震で壊れたまま保存されている石造りの 鉄道橋である龍騰断橋を見学。山奥深くまで鉄道を敷設した先達の努力・執念に敬服。

 

〔4〕台湾鐡道の魅力

 

  私はいわゆる鉄っちゃん=鉄道マニアではない。でもひょっとするとどこか根っこのところではその気(け)があるのかもしれない。思い起こせば高校生のとき、種村直樹氏(故人、日本で著名な鉄道ライター)のもとに出入りしていた鉄道マニアの友人に一日で国鉄(当時)の路線を何区間乗車できるかという雑誌の企画のアルバイトに誘われたことがある。(これはのちに発行される青春18きっぷ誕生前の宣伝企画でもあった)その時の楽しさがどこかに残り、その後も移動は車やバスではなく列車を優先して選択していた。

 

また、台湾の鐡道が持つ多くの人を惹きつける要素が、私を完全乗車に向けて突き動かしたのだろう。その存在が身近であること運賃がとても安いこと車両(特に青い區間車、オレンジと黄色の気動車)が幼少の頃を思い出させる懐かしい佇まいであること地元の人との温かいふれあいができること新型特別急行の車両も清潔でかっこいいこと時刻表とにらめっこして計画を立てていく楽しみがあること知らない街を訪ねて歩くワクワク感があることしかもノスタルジーあふれる街が多いことなどが主な要因である。

 

〔5〕部下からの贈り物

 

  台鐵と高鐵は今まで述べたように、すべての路線を乗ることができた。あとは阿里山鐡道を残すのみとなっていた。阿里山鐡道のふもとの始発駅があるのは嘉義である。私は嘉義の街が大好きで数回訪問したが、阿里山鐡道には乗る機会がなかった。そのうち乗れるだろうと思っていた矢先に、本社から日本への帰国命令が下った。阿里山鐡道は憧れのまま残しいずれまた、と諦め帰国する予定であった。

 

  帰国までひと月を切ったある日、部下たちから旅行のお誘いを受けた。しかもそれはなんと阿里山鐡道に乗る企画をしてくれたのである。2015321日、部下たちの家族も同伴で、観光バスを仕立ててくれ、バスで奮起湖車站に。そこで有名な奮起湖便當をみんなで食べ、その後バスで阿里山車站へ。そこから神木車站まで一駅区間だけだったが阿里山鐡道に乗車できた。みんな知っていたんだ!心に残る温かい贈り物を皆からもらえた私はとても幸せ者である。

 

〔6〕まだ続く完全乗車への挑戦

 

  20154月に日本に帰国した。台湾の鐡道・駅舎などのお蔭で台湾での生活が豊かになったのは間違いない。帰国してから撮り貯めした写真の整理や文章化を行っている。そんな折、高鐵と台湾鐡道の路線の延長のニュースが届いた。高鐵については、台北車站から北に延長され南港車站が始発駅となった。一方、台湾鐡道は、海科館から路線が延び、八斗子車站ができた。これらの区間を乗らない限り、高鐵及び台鐵の完全乗車はこと切れてしまうもうこうなったら意地である。高鐵の南港台北の区間は201610月の里帰りで乗車。また海科館八斗子の区間は昨年201810月に里帰りした際に乗車し完全乗車は保っている状態である。

 

今後も路線の延長は行われるだろうが、情報を小まめに取りながら、それに対応していきたい。そして早い段階で、阿里山鐡道全区間および現存しているサトウキビ列車の完全乗車へ挑戦したいという気持ちが、ますます募ってきている今日この頃である。

 

 

 

 

 

 

 


私と台湾(飛石秀樹)

 

                   私と台湾

 

               台中市 飛石英樹

 

私は台中市在住の男です。出身は長崎で、妻は台湾人です。妻とは東京で出会いました。私が台湾と関係ないというと嘘になりますが、台湾に移住して半年も満たない私が台湾とはと語るのはおかましさがあります。しかし、折角ご縁を頂きましたので私なりの台湾に対する想いを拙文ではございますが、書かせて頂きたいと思います。

 

始めに私から読んでくださっているみなさんにお聞きしたいのですが、"台湾"にどういう印象をお持ちですか?親日国、美食、夜市、暑い(熱い)、野球、自転車(バイク)挙げればキリがありませんが、概ねこんなところではないでしょうか。私は東日本大震災直後、台湾からの多額の義援金寄付が忘れられません。そのことで親日家が多い印象が強くありました。一方で私は妻と出会うまで台湾人(女性)のことは苦手でありました。それは10年くらい前に旅行先で知り合った台湾人のコンパニオンに遊ばれた苦い経験もあり(恋愛、社会経験が浅かったと自虐的)台湾人は信用できない、台湾人も中国人も同じという印象さえ少なからずあったのです。なんとまあ無知からくる身勝手な解釈だけで生きてきたか。妻や妻の家族と出会うまでの自分がいかに未熟だったか情けなさを感じてしまう次第です。その前にまさか私が台湾人と結婚するとは考えてもみませんでした。

 

 

私が初めて台湾を訪れたのは今から5年前になります。私の初来台いうこともあり、妻の家族が総出で歓迎してくれました。妻の両親、祖母、親戚のおじさん、おばさん、その知人わざわざ私の為に集まって頂き日本料理店で食事をしたことは忘れられません。台湾人のおもてなしと心遣いに驚きと感動を体感した瞬間でした。また、ここで驚いたのは食事の量の多さも然る事乍ら食べ切れなかった料理を袋に入れて持ち帰ることでした。日本では「勿体ない」とよく口にしますが、"勿体ない"の前に "はしたない" "みっともない"という美的感覚が優先してしまいます。私にとってそれは初めての経験でもあったので驚いたことを覚えています。

 

 

妻の話をしたいと思います。私は台湾人の女性は妻しか知りません。なので妻が私の中の台湾人女性像であります。妻は日本が好きで日本に語学留学の経験があります。私より年下ですが、出会ってすぐ隔たりなく話してくる彼女を気の強い女性だなというのが第一印象でした。それまで日本でしか生活したことがない私からして異国の地で生活する人間に尊敬の念と魅力を抱くことは自然な事でした。台湾の諺で「惹熊惹虎,毋通惹著刺某」という諺があります。虎を怒らせるより気の強い女性を怒らせる方が恐いという意味です。妻を怒らせると恐いのは言うまでもなく、台湾にこんな諺があるということは「台湾人女性は気が強い」という見解は強ち間違いではないようです。

 

 

まだ私の台湾生活は短いですが、至る所で台湾人の素顔が見えてきました。現在、201811月から台中フローラ世界博覧会が開催されています。私も昨年12月に行ってきました。ここで感嘆したのは花の美しさよりも、壮大で精巧なユーモア溢れる台湾人アーティストの工芸品の数々でした。木材や竹材で造られた作品には自然の暖かさを感じ、昔懐かしあの頃を思い出させてくれるような空間がありました。ここに台湾人の手間暇かけて造るモノ作りへの拘りと情熱を感じられます。また、クリエイティブな演出で近代的な空間にも浸れます。昔懐かしい空間の中に近代的な要素がありふれ、新旧のテイストが混在しています。まさに時を超えて造り出されたエンターテイメントの世界がそこにはありました。こういった感覚は台湾のあちらこちらで抱くことがあります。観光スポット、市集、建物にも台湾人の遊び心とモノ作りへの拘りを感じずにはいられません。台中駅も201610月に高架化し新駅舎として新しく生まれ変わりましたが、赤レンガの旧駅舎はそのまま付帯施設として存在しています。旧駅舎の存在感は新駅舎に勝るとも劣らず、私も含め外国人の友達も旧駅舎の方に魅力を感じてしまい無意識にシャッター数も増えてしまいました。私もお気に入りの場所である「彩虹眷村」は元々は国民党軍の集合住宅域であり、時代と共に老朽化を防げず取り壊し寸前状態だったと聞いています。しかし、黄永阜さんのエネルギッシュでカラフルな絵が話題を集め、現在ではインスタ映えする若者に人気のスポットになっています。90歳を越えて描かれた黄さんの絵のセンスといいパワーはどこから湧いてきたのか不思議でなりません。古きものを残し未来へと繋げる台湾人の情熱と、遊び心を忘れない台湾人の感性に触れた気がします。

 

 

最後に私の妻の祖母の話をしたいと思います。義祖母は少し日本語を話せます。日本語教育を受けた世代で、私との日本語での会話に喜びを感じて頂き、日本統治時代の良き思い出を語ってくれます。義祖母は10歳の時に日本人邸宅のお手伝いさんとして働いていました。まず、10歳で働いていたことに驚きますよね。当時の写真を今でも大切に保管しており私に見せてくれ、日本人はとても親切で優しい方だったと語ってくれました。義祖母の日本人との濃い思い出と絆には胸が熱くなりました。

 

 

私は現在台中市の太平區に住んでいます。ある日、知り合いの日本人が北屯區に住んでいるので近くに会いに行くことを義祖母に話しました。義祖母は昔は台中市に住む日本人は北屯區に住んでいる人が多かったといいます。北屯區は字の通り台中市の北側に位置し、盆地である台中市の中では比較的に高い場所にあります。日本人は土地が硬い場所に住居を構え、少しでも地震に備えた工夫をしていたそうです。義祖母は日本人は頭が良いと尊敬してくれています。義祖母のように日本語を話せる世代が減りつつあり、日本統治時代の貴重な生の声が聴けなくなる寂しさがあります。

 

 

日本と台湾は切っても切れない関係にあります。 私と台湾も同じです。私も台湾に対する想いをこの地に残していきたいと思います。

 


台湾物語(中須賀重幸)

 

台湾物語

                      香川県 中数賀 重幸

  

 私は外国という言葉に憧れを持ち続けていました。というのは、父は海軍、弟たちは商船、海上自衛隊で働いたという共通の経験をしていたことがあり、三人が揃えば必ず世界の国の話で盛り上がりました。教員生活2年目に在外教育施設に欠員ができ緊急募集があり、海外教育施設派遣制度があることを知りました。チャンスがあれば海外教育施設派遣に挑戦をしたいという気持ちを持ち続けていましたが、家族のこと、職務の関係から実現することが長く叶いませんでした。

 

  やっと思いが実現でき、2002年3月19日ムッとする熱気の中、台北国際空港のタラップを降り台中日本人学校に赴任して早いもので17年が過ぎようとしています。帰国して思い出されることは、すべて楽しかったことばかりで、辛かったと思ったことは一度もありませんでした。赴任した時は、平成11年に起きた大地震より復興が一段落し、台中校は台湾を始め世界中の方々より善意をいただき、新しく生まれ変わり、素晴らしい校舎が誕生して1年が過ぎた時でした。

 

 校舎には、新築の臭いに充ち満ち、地震を経験した子どもたちは、不便を乗り越えきた自信がみなぎっておりいきいきと活動し、着任式では体育館が割れんばかりの大きな歌声で迎えてくれたことを忘れられません。入学式、運動会、水泳学習、宿泊学習、秋祭り、学習発表会、マラソン大会、餅つき大会、卒業式と多くの行事をしていく中で、子どもたちが日々成長していく姿を見ていました。

 

 私もこの子どもたちと一緒に何ができるのかを考え、文部科学省の方と約束をした「育む」ことを教えていきたいと考えていました。台湾の学校だから台湾らしい植物を育ててみようと考え、育てた後は食べる楽しみも考えました。バナナ、ライチ、パッションフルーツ、ドラゴンフルーツ、アップルマンゴ、シャカトウを植栽しました。バナナは70株も植栽をしましたから、収穫時期になると校庭のあちらこちらに黄色く色づいたバナナがたわわ実り、お弁当の時間に食べてもらいました。校庭には今もこの果物たちは実をたわわにつけ、子どもたちを楽しませてくれていることと思います。台中校の1ページに、自分が勤めることができたことを誇りに思うと共に、台湾の方々の優しさを思い出させてくれる心の故郷(ふるさと)になりました。

 

 その中でも、とても印象に残っているとっても不思議なめぐり合わせがありました。 

 

 話しの始まりは、2002年8月13日(火)台北へ出張することになり急行「呂光号」の切符を買い時間待ちをしました。8時過ぎの列車に乗り込むと、前の席には子どもつれのお母さんがいろいろと世話をしているのですが、下の子どもはじっとしていません。私たちにもちょっかいを出して来るのですが無視をしていました。前の子どもたちは相変わらずゴソゴソしています。(そのうち妻が駅の名前を書き始めると、お姉さんが読んでくれました。私が持っていた指差し中国語の本を覗き込んできました。通じない北京語と指差し中国語の本で、彼女との会話が始まりました。学校、年、どこから、どこへなど、一番肝心な名前を聞くのを忘れました。下の子どもは4歳、彼女は9歳との事でした。 下の子どもがゴソゴソするので、横に座っていた若い女性が注意をしました。中々厳しい言葉だったようで引き下がりました。その女性は、英語の問題集を広げていました。

 

 台北で出張が終わったので、台北発15:00の「自強号」に乗るため月台にいると、ニコッとする女性がいるのです。列車で一緒だった女性なのです。乗車をするとその女性は立っていたので、手招きで呼び、席を交代で使いましょうと言うと頷いて、話が始まったのです。もちろんほとんど通じませんが。私の片言の英語(?)、彼女の片言の日本語、ゼスチャーであっと(言う間に1時間過ぎ。今あったばかりの彼女に18日(日)に家に来てくださいと言われました。どうしたものかと思案をしましたが、私も名刺を渡し、初めて名前を言いました。しかし、彼女の名前は聞いていないという失敗をしました。ただし、家が「美濃客」という食堂をしているとのことでした。彼女は、中壢でもう一人の女性(家庭教師)と一緒に降りて行きました。

 

小説にでも出てきそうな話なので、半信半疑で待っていると16日(金)夜電話があり、18日(日)12時に家に来て欲しいとのことでした。

 

分かっているのは「美濃客」という料理店であるだけでした。台中のことが不十分な私たちですので、笑われそうですが17日家を探しに行くことにしました。自転車でウロウロ迷いながら家を確認することができ一安心したことを憶えています。18日(日)11時15分、家を自転車で出発、少し早く着いたので台中師範大学の横で調整し、いざ「美濃客」へとペダルをこぎました。

 家に行くと3人のお客さんが店先でお茶を飲んでいました。すると家の中から、見覚えのある彼女が笑顔で迎えてくれました。そばにお年を召した方がおい出て、名刺をいただくと「医学博士 陳」とあり、彼女の日本語の家庭教師をしている方でした。陳さんは、東京の法政二校に入学して、東邦大学医学部を卒業して、30歳のとき彰化縣に帰り、兄と一緒に総合病院をしていたそうです。今は退職をして、ボランテイアで日本語を3箇所で教え、毎週、台中に来ているそうです。本人は、「認めの親」と言いますが少し意味が分かりませんでした。そのとき、初めて彼女の名前を耳にしました。「イーテ」と聞こえましたが、まだはっきりしません。

 

それから、食事をいただくことになりました。魚、野菜の炒め物、鶏肉、板條(台南のうどん)臭豆腐、豚の角煮、塩卵と苦瓜の炒め物、など盛りだくさん。失礼な言い方ですみませんが、どれも台湾味のしない食べ易い物でした。

 

 食事をしながらやっと彼女の名前が分かりました。「謝 依庭」という女性で、9月に中学3年生になる予定です。もう一人の彼女は、家庭教師の「葉(イェ)さん」だったのでした。中壢大学の学生で、速読を教えているようです。

 台中の名物、太陽餅を食べたことがあるかということでしたので、あると言うと、台中で最初に太陽餅を作ったところの物をあげましょうと、お母さんと依庭がバイクで買いに行ってくれました。それと豆干というものも買ってきてくれました。

 

 お父さんがお茶はどのようなものを飲んでいるのか、と尋ねられたのでウーロン茶を飲んでいると答えると、テーバッグかと尋ねられるとハイと答えるとそれは美味しくない。ここで飲んでいるお茶は、1斤2500元します。1年間で200斤ほど飲みます。それは友達、お客などに接待するためのものです。そのためお父さんは腱鞘炎になり、2度手術をしたそうです。中国式のお茶を入れていると急須の蓋をしっかり抑えていなければいけないので、腱鞘炎になったそうです。今は、日本式の急須を使っていますが、日本の物はとても高いそうです。

 

話しが進んでいくうちに、遠慮なく家に来てくださいと何度となく言葉をいただきました。日本に是非依庭が来るようにしてください。もし学校に行くのなら私たちが面倒を見ますと妻が言いました。この言葉が出るぐらいとても気持ちのいい家族でした。親御さんが、何かのご縁があったのでしょうと言ってくれたことに、また感心しました。

 

 長居をしたので、お暇をすることにしたのは2時少し回ったころでした。妻が帰るとき一声、「お父さんに素敵な急須をプレゼントさせていただきます。」と発言。今日のことを一言で言い表していました。後日、急須を日本より送ってもらいお父さんにプレゼントをさせていただきました。

 

 

 とても良い台湾の方に出会えたことが嬉しかった。依庭に感謝するとともに、列車の中の子どもにも感謝をします。真実は小説より奇なりと言う言葉がありますが、本当にその通りのことを経験できたと思います。

 

 語れば言い尽くせないほどの思い出をいただいた台湾、そこでの出会いが縁となり、2018年9月には教え子の結婚式に参列をすることができました。台湾は、私にとって人生を如何に豊かにしていただいたかと言うことである。感謝。


台湾と中国のはざまで揺れた心(中山孔明)

 

           台湾と中国のはざまで揺れた心

 

                   大津市 中山 孔明            

 

私と台湾とのお付き合いは戒厳令下の1980年代初めから始まりました。 私が決定的に台湾を好きになったのはある台湾人を好きになったと云うのが、その出発点の様に思います。

 

友人の一人で台湾人のH先生とは彼が赴任してきたO赤十字病院で知り合いました。多くの台湾人がそうであるように大の親日家でした。 お子さんの教育には随分気にされていたのでしょう?長女の小学校進学に合わせて台北に帰られた後も事あるごとに台湾に来られた時には連絡をくださいと言われていました。甥が京都の大学に入学した際の入学祝に異文化を体験させるという目的で台湾一周をプレゼントしました。最終日に故宮博物院の公衆電話からH先生に電話したのですが、生憎電話に出られたのは彼の父親でした。息子は嫁の里高雄に行っていませんがと云うお父様に、別段用もないのですが、たまたま台湾に来ましたので、いらっしゃればと思い電話しただけです。お帰りになられましたら電話があった事をお伝えくださいという事で電話を終了しました。

 

それから2年後ぐらいにご夫妻に会った時の事です。

  

奥様から以前訪台の際お電話いただきましたね?あの後義父はすぐに高雄に電話を入れ主人を電口に呼び出し、開口一番お前は人間じゃない、何故中山さんが来られるのに家を空けていたのだ!お前にそんな教育をした覚えはないと叱られたと聞きました。

私は彼に旅行の話は一切していませんので、これはある意味無茶苦茶ですが、私はこれに痛く感激し、彼の父親のフアンになりました。

 又、耳鼻科医の御両親が観光で台北を訪問した際彼の父親が物凄く世話をしたようです。しかし、帰国後礼状も来ないとボヤいていた話も聞きました。

 

要するにこのお父様は人間としてどうあるべきかという事に厳しい方で、これはとりもなおさず戦前の日本人の多くが持っていたもので、後日御本人からもそういった事は日本人から学んだことですと聞きました。

  

変わって中国との縁ですが、19852度目の中国旅行をした際上海蘇州間の列車の中で中国医大のL校長と出会いました。 娘さんが上海音楽院でヴァイオリンを学んでおられ、大いに話が弾みました。 そういう事がきっかけとなり1987年から中国医大の客員教授としてその関係は2014年まで続きました。

   

L校長(満州医大OB現在91歳)から感じたことはやはり戦前の満州支配を是々非々で考え、日本人の良い所を中国人もどしどし学ぶべしと云った態度で、気温の差は大きくとも南国台湾のH先生の父親(長崎大学医学部OB)と変わらないものでした。  

天安門事件や尖閣島問題のみならず、日々の暮らしの中で、中国では不愉快なことが沢山起こります。

 例えば手紙の検閲、電話の盗聴は日常茶飯事で、外国人の雇用契約の更新の際には私は政府の方針に批判的な事は言いませんという誓約書にサインさせられ常に国家が個人を監視し、全体として利用価値がある間は野放しでも価値がなくなるとたちまち何かあるとそういった過去を理由に拘束留置などもよく起こります。  

世界には庶民はいい人が多くとも、国家としては問題がある国もあるという事実です。

  

昔、清朝の最後の皇帝は溥儀だが、その後を毛沢東皇帝がつぎ今は鄧小平皇帝だという話を田舎の老人から何度も聞きました。

 絶対的な権力は必ず腐敗するという事は歴史の事実ですが、そういった国を離れて、政治面では極めて普通の親日的な台湾と再び強い縁が出来たことは嬉しい限りです。

 加えて私の様な高齢者にとって暖かい国と云うのは何よりも有難い事なのです。

 

 



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