目次
はじめに
第一部 私と台湾
日本語は私と台湾の架け橋(アンディチャン)
台湾の楽しい思い出 (池田徳三郎)
何故台中市は大好きなのだろうか?(池田徳三郎)
台湾に残る狛犬たちを訪ねて(市来訓子)
私を台湾へ導いてくれた台中のご縁(伊勢寛)
埔里で日本語教師をして (伊藤直哉 )
いりぐち(大竹千紘)
台湾の神社に魅惑された私 (金子展也)
慰霊訪問団に参加した孫の感想(小菅亥三郎)
ドライブと温泉(駒井教雄)
私の台湾人生(酒井充子)
私の台湾史(佐藤晋)
台湾の日本語世代からのエール(佐藤民雄)
台湾へ出向(鈴木誠真)
台湾へ留学の思い出(高橋美代子)
お爺ちゃんとの思い出(舘量子)
台湾の世相の変化(陳秋蘭)
台湾の鐡道に魅せられて (戸井智博)
私と台湾(飛石秀樹)
台湾物語(中須賀重幸)
台湾と中国のはざまで揺れた心(中山孔明)
台湾と祖父母と私(永峯美津保)
環島(西川洋美) 
私と台湾 (丹羽文生)
台湾との邂逅(福田真人)
変わるものと変わらないもの(松尾功子)
台湾を歩いて(松任谷秀樹)
台湾で観たお月さま(森順子)
台湾は台湾 (李中元)
私と台湾のご縁(山本幸男)
私と台湾のかかわり (山元與一 )
日本語と私(林玫芳 )
台湾で見つけた人生の目標 (若尾彩加)
第二部 湾生と日本語人
私の一生(木村英一)
故郷の川(島崎義行)
暖かい台湾の心(瀬戸省三)
勇気ある質問(泰一則)
台中にて(堀部二三男)
二つの故郷(溝口啓二郎)
詩「戦後60年」(許育誠)
皇太子殿下のご成婚に期待をかけて(許昭栄)
昔の夢にふける(洪伯若)
冬(曹劉金花)
回顧(游大坤)
母の思い出(李栄子)
終戦当時の思い出 (李英妹)
詩「故郷」(劉心心)
私達と日本語(林陳佩芳)
僕の軍隊経験(林啓三)
私の少女時代(林翆華)
水産学校(林彦卿)
編集後記
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奥付
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台湾に残る狛犬たちを訪ねて(市来訓子)

  台湾に残る狛犬たちを訪ねて

 

                                                    大阪府 市来 訓子

 

 台湾には日本統治時代に造営された神社に据えられていた狛犬たちが、今も数多く存在していることをご存知でしょうか。

  

 私は初めて台湾を旅行した際に訪れた高雄の壽山公園にて、高雄神社の狛犬が今も当時のまま残されているのを目の当たりにし衝撃を受けた2000年末から、時間を捻出してこつこつ幾度も足を運び、2019年現在、存在が判明している狛犬について一通り訪ねることができました。

 

 その数は対で残っているものが651体のみのものが5、合計で70という、想像を超えた多さとなりました。

  

 台湾の狛犬には、日本から船で運んだ以外に、現地の職人が製作したものがあり、台湾の狛犬としての個性が満ち溢れています。愛嬌いっぱいの表情など、気候風土にぴったりの朗らかさを感じられます。

 

 現在残っている狛犬は、戦後獅子の代わりとして使われたもの、放置されたままのもの、そして数奇な運命を辿ったものがあります。

 

そのうち特に印象深かった狛犬をご紹介いたします。

 

 日本統治時代、現在の屏東県佳冬佳冬神社が鎮座していました。戦後、神社跡は荒れ果て、私が初めて神社跡を訪問した時、据えられていた石造狛犬は阿のみが本殿後に隠されるような形で残されていましたが、吽は尾の部分があるのみで、本体は行方不明となっていました。

 

しかしその後、神社跡近くにある国立佳冬高級農業職業学校の校長先生が、神社を地元の歴史を伝える遺構として重要視され、狛犬についても関心を寄せられました。そして、離れ離れになっていた狛犬の片割れを苦労の末探し出され、長い時間かけてようやく対の姿に戻ることができた狛犬を、学校の敷地内に移設することを役所へ申請、新しい校舎へ据えられることとなりました。

 

 うれしい知らせに早速学校を訪問、狛犬を見せて頂きました。残念なことに吽の尾は戻っておりませんでした。それでも小さな尾をつけてもらっていたことに、せめてもの思いやりが感じられ、温かい気持ちになりました。学校を後にし、神社跡を訪れると、なんとその尾が見つかったのです。まさかと思いつつ、学校まで運んで事情を説明、職員の方とともに形状を見比べると、まさしく吽の尾そのものでした。

 

 そこで拙い中国語で必死にどうぞこの尾を修復してやってくださいと懇願したところ、今日は学校が休みなので即答できませんが、必ず対応してご連絡いたしますと、私の連絡先を書き留めて下さいました。

 

その後、校長先生からの連絡を幾度か経て、とうとう修復できましたという朗報が届きました。すぐに旅立ち、校長先生を訪ね、狛犬を見せて頂きました。すると、吽の尾は見事に修復され、往時の姿に戻されていたのです。特に付け根の部分がきれいに仕上がっていたため、どのような方が携われたのか伺ったところ、古跡修復の専門家に依頼されたとのお話で、そこまで大切にされていることに深い感動を覚えました。

 

学校という教育の場で新しい任務を得た狛犬は、これからもきっと、歴史を伝えるという役目を果たしていくことでしょう。 

 

台湾で今も頑張っている狛犬のうち、他にも大切に保存

されたり、歴史的文物として展示されたり、寺廟前に

据えなおされたものなどもいくつかあります。中でも、

特に幸せを感じたのがこの佳冬神社の狛犬でした。

 

もちろん、このような幸せなケースばかりではありません。 しかし、台湾の人々と狛犬との間に、温かい気持ちが存在しているように思えてならない、このような出会いがあるところが、最大の魅力であり、私が台湾に足しげく通い、ただ狛犬だけをひたすら訪ね歩いた理由そのものであると思います。

 

          (佳冬農業高校なある入口左右両端の狛犬)

 

 

 

 

 

 


私を台湾へ導いてくれた台中のご縁(伊勢寛)

 

私を台湾へ導いてくれた台中のご縁

 

仙台市 伊勢 寛

 

  私はかつて台湾で短期語学留学を繰り返していた時期があり、台南・屏東・苗栗で生活した経験があります。本当に有意義な時間で、日本語世代のお年寄りたちと親交を深めたり、東日本大震災への支援に感謝する活動を行ったり、語学の傍ら様々なことに挑戦していました。

 

その間、台湾全土にたくさんの友達ができましたが、ここで書くのはそれよりもずっと前の物語です。実をいうと、私を台湾へ導いてくれたのは台中の友人たちです。今回はそんな台中のご縁について書こうと思います。

  

➀「おばあちゃんはあの時代を楽しんでいた」A姉弟

  学生の頃、夏休みにニュージーランドへ語学留学をしていた時の話です。台湾人のA姉弟と仲良くなり、生まれて初めて台湾人の友達(後に苗栗の客家人だと知る)ができました。英語のクラスは、日本人・台湾人・中国人・韓国人がいて、親日・反日がはっきり別れていました。ディベートをすると、韓国人は議題と関係ないことでも何かと歴史的なことを持ち出して日本を悪く言い出し、中国人がそれを煽るという構図でした。しかし、台湾人の彼らはそういうことは一切しませんでした。

  ある時思い切って、A姉弟の姉の方に聞いてみました。

 「台湾だって昔日本だったでしょ。韓国人の言うことはどう思う?」

 「少なくとも私のおばあちゃんはあの時代を楽しんでいたと思う。おばあちゃんは日本語が話せるし、家には畳の部屋もあるよ」

 衝撃でした。それまで台湾のことはほとんど知らなかったのですが、A姉弟のおかげで台湾に強い関心を持つようになりました。

 

 留学を終えてからしばらくは彼らと連絡を取らなかったのですが、5年くらい経ったある日、ふと懐かしくなって連絡してみたところ、A姉弟の姉はアメリカに、弟は台中にいることがわかりました。その時、私は仕事でタイにいたので、いつか台湾へ行って再会することを約束しました。後に、台中でA姉弟と再会できた時は本当に嬉しかったです。みんなで逢甲夜市へ遊びに行き、苗栗の実家にもお邪魔させてもらいました。残念ながらおばあちゃんは他界されていましたが、本当に畳の部屋があり、おばあちゃんの国民学校時代の写真が飾られていました。

 

②タイで一緒に働いたB老師・C老師

  タイの大学で日本語を教える仕事をしていた時の話です。同僚に台湾人のB老師がいました。「私は台湾語のネイティブだ。中国語より台湾語の方が得意だ」という人で、時々私に台湾語を教えてくれました。最初に習ったフレーズは、「ゴワシーリップンラン」(我是日本人)でした。タイで台湾語を習ったおかげで、私の台湾語の発音は非常にいいと、台湾人からよく言われます。

 

ところで、タイの大学では外国人講師は長期休業中の帰国が許されていたので、日本からタイへ戻るとき台湾に寄ってB老師と会う約束をしました。台中にお住まいとのことだったので、朝馬のバスターミナルでB老師と待ち合わせして、案内されて台中をあちこち巡りました。あの頃は中国語も全然わからず、台湾で見るもの全てが新鮮で、驚きと興奮の連続でした。B老師のお母さんが老人協会のようなところが開講している日本語教室に通っていて、飛び入りで授業もさせてもらえました。授業と言っても、昔の懐かしい歌をみんなで歌っただけなのですが、この体験で台湾にどっぷりはまり、いつか台湾に住みたいと思うようになりました。B老師とは退職後音信不通になってしまいましたが、風の噂で、台湾に帰ってから出家して仏門に入られたと聞きました。

 

B老師の後任として赴任してきたのが、同じく台湾人のC老師です。その頃タイ全土に中国政府肝煎りの孔子学院が設置され、中国語教育から台湾人教師が駆逐されていましたので、台湾人講師の派遣はC老師あたりが最後だったのかも知れません。そのC老師は「私は台湾語は話せない」という人(後にお父さんが外省人だと知る)で、台湾人にもいろんな人がいるのだなぁと知るきっかけになりました。

 

私がタイの大学を退職してから、C老師とも連絡が途絶えていたのですが、東日本大震災の折「心配している」とメールをいただき、再び連絡を取るようになりました。震災で台湾から多大な支援を受けたことも相まって、日本の真の友人は台湾だと強く思うようになりました。それから、台湾の人たちに感謝の気持ちを伝えるためにはちゃんと語学を勉強しなければという思いで、中国語の勉強を始めたのです。C老師とはタイでは英語で会話していましたが、今では中国語で会話できます。

 

そのC老師は台湾へ帰国後結婚して台中に住んでいましたので、台中のお宅へも高雄のご実家にお邪魔させてもらったことがあります。C老師のお父さんとも仲良くなったのですが、おっしゃっていたことが印象に残っています。

 

「戦前大陸の天津に住んでいたのだけれど、家の隣に日本の兵隊さんが住んでいて、いつも可愛がってもらっていた。あの兵隊さんにまた会いたいなぁ。お礼が言いたいから探してほしい」

 ステレオタイプ化された外省人のイメージとかけ離れていて驚きましたが、嬉しく思いましたし、本当に台湾にはいろんな人がいるのだと改めて思いました。

 

③「日本人は冷たいけどあなたは違う」と言ってくれたD副店長

 

 A姉弟の弟の方が台中で働いていて、「職場に日本語が話せる人がいるから来てほしい」と言うので、市政北三路にある某日系ゴルフ用品店にお邪魔しました。そこで知り合ったのがD副店長(現在は店長)です。日本の大学を卒業していて、日本語も堪能なのですが、日本にいた時は日本人の友達がほとんどいなかったとのこと。「日本人はシャイ。冷たい。でもあなたは違う。あなたいい人」と言ってくれて、すぐ打ち解けました(笑) お店の店員さんたちとも仲良くなって、仕事が終わってからみんなで食事に行ったりしました。実は私は20代の頃は人と関わるのが苦手で交友関係も狭かったのですが、台湾にたくさんの友達ができたことで、苦手を克服することができました。台湾に来たときはいつもこのお店に立ち寄って、楽しい時間を過ごさせてもらっていました(だいぶ仕事の邪魔をしていたと思います…)。

 

思い出深いのは、D副店長に鹿港を案内してもらった時のこと。鹿港の名所を巡っただけでなく、実家にもお邪魔させてもらいました。翌日南投の東埔へ行く予定があったので、バス停まで送ってもらったのですが、D副店長は「中国語もわからないのにひとりで行くの? 東埔までどうやって行くの? バスの乗り方わかるの?」と言って、バスが来るまでバス停を離れようとしません。私が「大丈夫。子どもじゃない。筆談するから心配いらない」と言いましたが、全く聞きいれてくれませんでした(笑)

 

 ちなみに、その時東埔まで行ったのは温泉に入りたかったからじゃありません。学生時代に北海道のアイヌ文化の研究をしていた時、調査のため泊まっていたアイヌ民宿に原住民のブヌン族の人たちが来ていて、仲良くなりました。ほとんどの人が「中国語より日本語の方がわかる」と言っていたのが驚きでした。ある時ふと思い立って、何年も前に一緒に撮った写真を持って、交換した名刺の住所を頼りに東埔まで突撃訪問してみたのです。その方は原住民委員会の顧問をしていた方でしたが、突然の訪問にも快くもてなしてくれました。この時、村で日本語を話すおばあちゃんに出会ってお話を伺ったことが、台湾日本語世代のお年寄りたちと交流の嚆矢です。

 

 以上のように、私がまだ台湾をよく知らなかった若い頃に知り合った台湾の友人が、みな台中に縁がある人たちだったという奇跡。そして、台中の友人たちが私を温かく受け入れてくれたからこそ台湾にのめり込むことができ、今の私があります。喜早さんの「臺中伍圓の會」に参加させていただくにあたり、私の台湾の原点となる台中でのご縁を、改めて大切にしたいと思いました。本当にありがとうございました。


埔里で日本語教師をして (伊藤直哉 )

 

                埔里で日本語教師をして

 

         南投県 伊藤直哉

 

1、はじめに

 

 現在、台中及び埔里にて日本語教師をさせてもらっている伊藤直哉と申します。  

台湾に来た当初、台北で語学の勉強と、その後は大学院にて研究をしておりました。台湾中部に来るようになったきっかけは、中部の大学から講師としてお誘いを頂いた為であります。ここ台湾中部に来て早10年、まったく人脈(友人)のない状態から、現在は至る所に友人ができ、多くの人に支えられ、有意義な毎日を過ごしております。

 

2、埔里に来てから

 

ここでは私が埔里で行ってきた人々の意識改革についてお話させて頂きます。 

 当時の埔里では、日本語学習塾がなく日本語教育環境が整っていない環境のため、人々は「日本語を勉強したいが、いい先生がいない」や「いい塾がないから私はダメ」だなどという声を聞いておりました。まさに環境が整っていない=我々にはできない、といった風潮があり、その為日本語の勉強できないというものでした。

 

 埔里に来てまず行ったことは、日本語を教える以前に、人々の考え方を変える必要がありました。自分は出来る、または埔里ででも出来るという考えです。それらを生徒に身につけさせるための努力の日々が始まりました。それらは日本語を教える以前の作業です。台北のように沢山の塾が存在し、多くの教師や生徒がいる環境であれば、そのような作業を行うは必要ありません。ですが埔里ではこのレベルから作業する必要がありました。

 

 まず行った事は、勉強は楽しい事だと教えることから始まりました。今までは先生からやらされて行う勉強に慣れてしまっていた生徒を、自らするものだという考えを学ばせました。それらには勉強を行う動機が必要でした。その為、なぜ日本語を勉強するのか、なぜ勉強が大切なのかという事を学ばせ、如何に本人にやる気を起こさせるかが課題となりました。それらは元々のネガティブな感情をポジティブに変える作業ですから、簡単なことではありません。

 

 これらの考えを伝えるにはただ一つ、生徒を信じ、教え続ける事でした。生徒を必ず成功させるという思いで日々努力し、日本語を教え続けました。多くの生徒が集まりは消えを繰り返し、私自身も何度も心が折れそうになりましたが、次第に私の努力を理解してくれる生徒が一人二人と現れ始め、一人で始めた日本語の授業も徐々に多くの生徒が集まるようになってきました。心の変化が現れてきたのです。生徒たちの勉強する意識や雰囲気が変わるのが感じ取れました。

 

 次は結果です、勉強を行う限りは結果が求められます。結果を出さなければただのボランティア活動をしているにすぎません。私は次に生徒たちには日本語能力試験を受けるように動機付けを行いました。そしてその結果次第では、日本に交換留学やワーキングホリデーに行けるという目標を与えたのです。夢を与える事で生徒のやる気を起こさせる方法です。実際成功している台湾人の先輩が日本で活躍している姿などを見せ、私達でもできるという勇気を与えたのです。

 

 結果、日本語能力試験においてはN1合格者も出し、多くの学生を交換留学やワーキングホリデーで日本に送り出すことができました。結果が出たときは、生徒のみならず生徒の親御さん、そして私自身も達成感でいっぱいとなり、頑張ってきた甲斐があったと実感できます。

 

3、最後に

 

 以上が私の埔里で行っている日本語教育です。目標がなくてはやる気が出ません。これは何をするにしてもそうです。人から与えられた課題をこなすのではなく、自ら夢や目標を見つけ、それに向かって努力する。そしてその手助けをするのが我々教員の仕事だと思っています。基本的に私は生徒に対してはこのような指導を続けております。

 

 人々の意識が変わり、その結果環境も変わり、現在埔里では多くの生徒が日本語を勉強しており、その礎となることができました。埔里で日本語教育を通して、両国にとって利益のある社会貢献ができていることを誇りに思っております。これからも多くの台湾人を育成する為に努力をし続けていきたいと思っております。

 


いりぐち(大竹千紘)

 

                 「 い り ぐ ち 」

 

                   

           千葉県 大竹 千紘


-出会い

ひょんなことから私の中で台湾という存在が次第に大きくなりました。始まりは、インターネットで見つけた大叔父に関する記事からです。 私とは100歳以上年齢差があり、もちろん生前会ったことはない大叔父。

祖母から話を聞いていましたが、まさかその大叔父が台湾で銅像になっているなんて。生前会う夢は叶わなかったけれども、せめて銅像に会えたら、大叔父が台中市新社区で手掛けた白冷圳を自分の目で見ることができたら.. そんな興味と好奇心がきっかけで、私は台湾に惹かれていきました。


2度の渡航

念願叶い、銅像の大叔父に対面したのは平成2910月。当初は個人で白冷圳を巡る予定でしたが、ご縁もあって、現地の方々と共に白冷圳周遊ツアーの催行に至りました。大叔父が指揮を執った白冷圳を水源から終着地まで一通り訪れ、食事をともにお話を聞く機会も設けて頂きました。

白冷圳の完成により農業用水や生活が潤ったこと、1999年の台湾中部大地震による水路倒壊で改めてその恩恵を実感したこと。私も当時に思いを馳せながら、貴重なお話を聞かせて貰いました。建設当時は、日々の生活さえも想像に及ばない程の苦労があったと拝察します。その尽力の結果、水路ができ土地が潤沢となったことはもちろん、100年以上先の祖先である私たちと台湾を繋ぐきっかけとなるなんて、きっと大叔父は想像しなかったことでしょう。帰り際「来年の白冷圳文化節に参加してほしい」とお声をかけて頂き、次回の約束をして帰国の途に就きました。


2度目の渡航は、平成3010月。


1度目訪台時の約束を果たすべく、白冷圳建設を祝うお祭り・白冷圳文化節に参加した2回目。 何よりも、想像以上に大きなお祭りで驚きました。地元の方による演奏や踊り、演劇を楽しみ白冷圳が愛されている様子を垣間見ることが出来ました。

そして私たちが白冷圳建設に関わったかのように、始終歓待して下さいました。 私も例外ない日本人のようで、そのご厚意に遠慮し、何やら恥ずかしいような申し訳ないような経験したことのない気持ちでいっぱいでした。

加えて「来年もこの先も参加してほしい」との言葉を頂き、2回目の訪台も終了しました。

2度に渡る台湾訪問後、私自身は建設と全く無関係であるのに何故これほど歓迎されるのか、有難いと思うと同時に、ふと素朴な疑問が湧きました。

 

そしてそれは、大叔父の軌跡が世代を超え今なお、台湾と日本を結び付けているという事実への敬意からではないか、という考えが浮かんだのです。更に今を生きる私たちは、この先も繋がりを絶やさず、なおかつ育んでいく使命を担っているのではないか、と。私の心に引っかかっていた遠慮や恐れ多い気持ちは全くもって不要なものでした。それよりも、このご縁を後世へ伝えるために自分に何ができるのか、そう考えるきっかけとなりました。


-新たな発見とこれから

訪台以降、家族や親戚とも台湾の話題を共有する機会が増え、大叔父の弟にあたる祖父と祖母達も昔台湾に住んでいたということを初めて知りました。 私が今生かされているのは、そのようなルーツがあったようです。 今はもう当時の話を聞くことは叶いませんが、いつか祖父達の所縁の地も訪ねてみたいと思っています。 この出来事以降、私が台湾をより身近に感じたことは言うまでもありません。


そして今現在、私は農業に携わっています。


それは従来の土耕農業とは異なり植物の水耕栽培と魚の養殖を掛け合わせた新しい農法で、台湾では「魚菜共生」、欧米等では「アクアポニックス」と呼ばれています。国連の農業支援活動の1つとしても採用されており、世界中に広まりつつあります。しかし日本を含むアジアはこれからで、今後の広がりが期待されています。 私の目標の1つは、近い将来、台中でもこの魚菜共生を実践することです。 願わくは白冷圳の水を使って。


大叔父が築いてくれた軌跡から、次は私が台湾と日本の架け橋になる番です。そのために、私にできることを小さくても少しずつ、始めていければと思っています。数年前には予期せぬ未来が、今は待ち遠しくて仕方がありません。


私と台湾、まだ始まったばかりです


 

  

 

 

 

 



台湾の神社に魅惑された私 (金子展也)

                                      台湾の神社に魅惑された私 

 

                                                    埼玉県 金子展也

 

 台湾に駐在していたころ、当時の本社の社長から「少なくとも駐在員は、その国の文化を知れ」といわれたことがある。またたま、2002年、台湾北西部の金宝山に東洋の歌姫といわれたテレサ・テン(鄧麗君)のお墓を見に行った帰りに、金瓜石(きんかせき)に神社の遺構があるというので立ち寄った。何もわからずに、黄金博物館横の参道を登り始めると、灯籠と鳥居に遭遇し、参道の先に延びる山腹を見上げると、城壁のような上に鳥居の一部が見えた。一目散に石段を登りつめると、アテネのパルテノン神殿を彷彿させるコンクリートの石柱が目の前に現れた。これらは拝殿の柱に使用されたものであった。鳥居の柱には「昭和拾貮年七月吉日 金瓜石鑛山事業所職員一同」と刻まれていた。かつては東北アジア第1の金山と呼ばれ、明治29年(1896)に田中長兵衛率いる田中組によって採掘がおこなわれた。昭和11年(1936)には金5トン、銀15トン、そして銅11000トンを産出した日本鉱業の構内神社であった。

 

金瓜石神社の遺構が頭から離れないなか、たまたま雑誌に掲載されていた神社遺構や遺物の記事に接して神社跡地に対する興味と一種の懐かしさを抱きつつ、週末を利用して所在地がわかる神社跡地を訪ねるようになった。せいぜい2030ヶ所と鷹をくくっていた。ところが、台湾総督府が昭和18年(1943)に発行した『台湾に於ける神社及宗教』により201ヶ所の神社(遥拝所含む)一覧表を見つけて驚いた。5年間の駐在期間を終え、帰国後も調査を継続し、15年が過ぎた。これまでの私の調査では、私設神社や本殿だけの小さな神社(祠)や小・公学校校内神社などを含めるとその数は約400ヶ所になり、これまで380ヶ所を訪れた。これまでの調査・研究の集大成として昨年5月に『台湾に渡った日本の神々』を出版することができた。この中で、台湾総督府が公認した神社を含めて230ヶ所を紹介した。

 

神社跡地を調査する過程で、当時の多種多様な日本人の生活空間に数多くの神社が造営されたことから、「ひょっとして神社を調査することで、日本統治時代の台湾の産業史及び社会史に迫ることができるのではないか」と考えるようになった。台湾神宮など、正式な社格を持つ神社とは別に官営企業(樟脳、林業、酒造)、水力発電所から民間企業(製糖業、鉱業など)、さらには軍隊、移民村、小・公学校、先住民部落、刑務所、遊廓、デパート、動物園などありとあらゆる場所に土地守護神としての神社が造営された。これらの神社造営の背景とわずかに残された神社遺構と遺物から当時の台湾で起きたドラマの数々を垣間見ることが出来た。その一例として宜蘭神社跡地に残された遺物から製糖会社の歴史の一部について述べてみたい。

 

宜蘭神社跡地の一部は員山公園と忠烈祠になっている。忠烈祠内には当時の宜蘭庁にあった神社の資料センターにもなっており、貴重な情報が残っている。忠烈祠に至る石段前には、神社遺物として狛犬や神馬(しんめ)、さらには石灯籠の一部がオブジェの様に多く残されている。特に石段前のブロンズで出来た狛犬は非常に珍しい。当時の本殿に至る石段手前に「奉獻 台南製糖株式会社」と刻まれた灯籠の一部がある。

なぜこのような場所に()()製糖の奉納物があるのであろうか。さらに市内の分昌廟に「馬到成功」として残る神馬

(石段前の神馬は複製品である)があるが、この神馬を奉納したのが昭和製糖であった。これら製糖会社と宜蘭はどのような関係があったのであろうか。


 宜蘭神社跡地の一部は員山公園と忠烈祠になっている。忠烈祠内には当時の宜蘭庁にあった神社の資料センターにもなっており、貴重な情報が残っている。忠烈祠に至る石段前には、神社遺物として狛犬や神馬(しんめ)、さらには石灯籠の一部がオブジェの様に多く残されている。特に石段前のブロンズで出来た狛犬は非常に珍しい。当時の本殿に至る石段手前に「奉獻 台南製糖株式会社」と刻まれた灯籠の一部がある。なぜこのような場所に()()製糖の奉納物があるのであろうか。さらに市内の分昌廟に「馬到成功」として残る神馬(石段前の神馬は複製品である)があるが、この神馬を奉納したのが昭和製糖であった。これら製糖会社と宜蘭はどのような関係があったのであろうか。

 

 

明治35年(19026月に「台湾糖業奨励規則」が発布され、新渡戸稲造は殖産局長に任命された。そしてこれまでの水牛が旧式の石車を引いて廻る旧式製糖から新式製糖産業に対する資本投下が本島及び内地より矢継ぎ早に行われた。折から、日露戦争後のにわか景気に沸き、明治38年(1905)に陳中和など台湾の有力者5人により資本金24万円で鳳山(現在の高雄市鳳山)に新興製糖、また、阿緱(現在の屏東県屏東)では蘇雲梯などが6万円を投じで南昌製糖を興した。内地の資本家も台湾の製糖事業の有望性に着眼し、明治39年(1906)には明治製糖、翌年には塩水港製糖及び東洋製糖が設立された。また、少し遅れて明治42年(1909)には新高製糖、林本源製糖、大日本製糖、翌年には帝国製糖や中央製糖など主要な製糖会社が設立された。

 

 

数多くの本島人及び内地人による投資が矢継ぎ早に行われた中で、本島人である陳鴻鳴(ちんこうめい)により、明治39年に当時の台南庁噍吧(タバニー)永興製糖が創立され、明治42年(1909)に初めての圧搾が開始された。明治45年(1912)には圧搾能力を上げるために英国資本系の怡記洋行(The Bain & Company)から新式圧搾機械を購入するが、当初予定されていた能力300トンを大幅に下回る180トン程度しか実現できなかったため、怡記洋行と係争問題に発展する。さらに、同年6月の豪雨により曾文溪が増水し、同社の鉄橋が流失し、多大な損失を負い、経営危機に陥った。

 

 

大正2年(1913)に永興製糖の事業を継承することにより、資本金300万円で台南製糖が創立され、噍吧と呼ばれた新化郡玉井庄に本社を置いた。大正4年(1915)に勃発した西来庵(しらいあん)事件により、現地での労働力を失しなってしまう。さらに、玉井は地理的に交通手段の便が悪く自社の軽便鉄道の敷設ができず、雨季には鉄道の橋梁を流失する。また、既に、台南の各地は外の大手製糖会社により甘蔗(サトウキビ)作付け地盤が固められており、台南製糖が事業を拡大する余地は少なかった。大正5年(1916)に台南製糖はこれまで大手製糖会社が見向きもしなかった宜蘭の合名会社宜蘭製糖所の傘下にある七張庄製糖所の事業を継承した。その後、宜蘭製糖所を羅東郡五結庄二結(現在の二結郷)に移設し、同時に本社をそれまでの噍吧から宜蘭に移転する。大正7年(191812月には甘蔗のバガス(搾汁後の搾りカス)を利用して製紙工場を建設し、翌年の5月に操業を開始した。その後、昭和8年(19337月に製紙工場を新たに台湾紙業株式会社として設立したが、昭和10年(1935)に内地の王子紙業株式会社が四結に台湾興業株式会社を創設し、台湾紙業は合併される。 

 

 

順調に進んだ製糖事業も、欧州大戦(大正37年)後の世界経済恐慌による糖価暴落及びその後の事業拡大で資金調達が出来なくなり、遂に大正14年(1925)に破産宣言を行った。そして台南製糖は昭和2年(1927)、新たに誕生した昭和製糖に事業が継承される。その昭和製糖は昭和8年に新竹及び沙轆(しゃろく)の製糖会社と合併し、本社をそれまでの宜蘭から台中州の苗栗に移すが、昭和14年(1939)に大日本製糖と合併し、宜蘭工場は二結製糖所と呼ばれることになった。目まぐるしく変動する業界で、昭和17年(1942)に米作への作付け転換を推進する総督府の要請により、宜蘭工場の閉鎖を余儀なくされた。製糖工場の設備機材は全て船で南シナ海北部の海南島に移す予定であったが、途中で米軍の攻撃により海底深く沈没した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 



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