目次
はじめに
第一部 私と台湾
日本語は私と台湾の架け橋(アンディチャン)
台湾の楽しい思い出 (池田徳三郎)
何故台中市は大好きなのだろうか?(池田徳三郎)
台湾に残る狛犬たちを訪ねて(市来訓子)
私を台湾へ導いてくれた台中のご縁(伊勢寛)
埔里で日本語教師をして (伊藤直哉 )
いりぐち(大竹千紘)
台湾の神社に魅惑された私 (金子展也)
慰霊訪問団に参加した孫の感想(小菅亥三郎)
ドライブと温泉(駒井教雄)
私の台湾人生(酒井充子)
私の台湾史(佐藤晋)
台湾の日本語世代からのエール(佐藤民雄)
台湾へ出向(鈴木誠真)
台湾へ留学の思い出(高橋美代子)
お爺ちゃんとの思い出(舘量子)
台湾の世相の変化(陳秋蘭)
台湾の鐡道に魅せられて (戸井智博)
私と台湾(飛石秀樹)
台湾物語(中須賀重幸)
台湾と中国のはざまで揺れた心(中山孔明)
台湾と祖父母と私(永峯美津保)
環島(西川洋美) 
私と台湾 (丹羽文生)
台湾との邂逅(福田真人)
変わるものと変わらないもの(松尾功子)
台湾を歩いて(松任谷秀樹)
台湾で観たお月さま(森順子)
台湾は台湾 (李中元)
私と台湾のご縁(山本幸男)
私と台湾のかかわり (山元與一 )
日本語と私(林玫芳 )
台湾で見つけた人生の目標 (若尾彩加)
第二部 湾生と日本語人
私の一生(木村英一)
故郷の川(島崎義行)
暖かい台湾の心(瀬戸省三)
勇気ある質問(泰一則)
台中にて(堀部二三男)
二つの故郷(溝口啓二郎)
詩「戦後60年」(許育誠)
皇太子殿下のご成婚に期待をかけて(許昭栄)
昔の夢にふける(洪伯若)
冬(曹劉金花)
回顧(游大坤)
母の思い出(李栄子)
終戦当時の思い出 (李英妹)
詩「故郷」(劉心心)
私達と日本語(林陳佩芳)
僕の軍隊経験(林啓三)
私の少女時代(林翆華)
水産学校(林彦卿)
編集後記
編集後記
奥付
奥付

閉じる


<<最初から読む

32 / 54ページ

私と台湾のかかわり (山元與一 )

 

           私と台湾のかかわり

 

                  鹿児島県 山元與一

 

 

今までに台湾を5回ほど訪れている。初回は平成13年12月大学時代の親友楢崎政志氏(前三沢市立第5中学校校長)から誘われた。それまでの私は、台湾についての知識は、漠然としたもので、まったくと言っていいぐらい持ち合わせていなかった。ただ、鹿児島は地理的に台湾には近く、鹿児島、台北間に週4便の飛行機が飛んでいる。戦前に親戚が台湾で働いていたり、同僚の先輩で、台湾の師範学校や旧制の中学校を卒業されているとかいう方とは接していた。台北・台中・台南を訪れ多くの方々や場所を知り、いろいろなことを知る機会を得た。

 

 

最初のきっかけは、青森県三沢市立三沢第5中学校(校長楢崎政志)と台北市天母國民中学の姉妹盟約式に参加することであった。楢崎校長は、常日頃から、生徒に何とかして国際感覚を身につけさせようと考えていた。修学旅行で日光に行ったとき、ふとしたことで台湾のご夫婦と知り合ったことがきっかけであった。ご夫婦のお孫さんが通っていたのが台北市士林区の天母國中学であった。ご夫婦の肝いりの結果、天母國民中学との交流として実を結んだのである。以来毎年、三沢第5中学の生徒・職員10数名と天母國民中学からは生徒20名に職員・保護者合わせて40名前後の方々が相互訪問を続けている。平成23年以降(楢崎政志氏が死亡)は交流範囲を広げたり、隔年おきにしたりして現在も続いている。その時通訳として来日した淡紅大学の学生(陳韻文)さんや、当時から毎回来日していらっしゃる当時のPTA会長(林 秀宗・朱 淑慧)さんご夫婦とは今も交流している。6年ほど前にはご夫婦で鹿児島まで来られて鹿児島旅行を堪能された。桜島を案内していたとき爆発して私らにとっては、日常茶飯事のことではあるが、ご夫婦にとっては驚きであり、大感激であった。鹿児島、台湾は直行便が開通してより便利になった。初めは羽田から飛び立ち、福岡になり、今では鹿児島からの直行便が週4便はある。

 

 

 訪台する前に台湾のことを知りたくてインターネットを通じて、台中で活躍している喜早天海さんを知った。彼は日台間の草の根交流に懸命に努力し、台湾を愛し、台湾情報を発している方である。また、「台日会」の世話役である。「台日会」とは、日台双方の台中にゆかりのある人たちが草の根交流を図っている親睦団体である。

 

 初めて訪台したときに「台日会」の忘年会に参加させていただいた。そこに、静宜大学日本語学科教授許世楷先生(元台北駐日経済文化代表処)ご夫婦も参加されていた。

 

 その静宜大学から、先生の教え子5名が鹿児島県薩摩川内市の鹿児島純心女子大学に平成15年4月から1年間、留学のため来日してきた。喜早さんの連絡で知った。時々面倒を見てもらえたら嬉しいとのことであった。

 

 

何か私が協力出来ることはないかと思い、さっそく鹿児島純心女子大学を訪れ、彼女らの受け入れ窓口になっている学生課の係長さんにお会いして、協力を申し入れた。夫婦で彼女たちと昼食を交えて楽しいひと時を過ごした。実に素直で、向学心に燃えた、やる気満々の学生さんたちに感じられた。

 

寮生活だけでは味気ないのではないかと考え、時々自宅に招いて食事会をしたり、妻の手作りの料理を差し入れたり、自炊用の炊飯器、電子レンジ、ポット、トースター等を差し入れたり、日本料理の作り方を教えたりした。

 

レンタカーを借りて県内をくまなく旅行したりもした。お互いの生活習慣の違いを話したりしおおいに盛り上がった。 今では彼女らは、私たち夫婦を鹿児島のお父さん、お母さんと慕って電話やメール、ラインを通じて気さくに付き合っている。

 

留学中の彼女たちは、日本文化に興味を示し、茶道部に入部して所作などを懸命に学んでいた。また、ボート部にも入部して川内川レガッタに参加したり、地元の夏祭りや川内大綱引き等の行事にも積極的に参加したり、弁論大会に出場して自分の感じたことを話したりと、留学生活を堪能していた。

 

平成16年3月の帰国前には自宅に招いて盛大な送別会を開いたりもした。彼女らとの繋がりを深めようと、その時のメンバーで「静純会」という名前を付けて、今でも交流を続けている。

 

 

帰国後彼女らは、留学の経験を活かして台中日本人学校や日系企業で働いている。一人は日系企業で働いていた日本人男性と結婚し、今では枚方市に住む2児の母親である。彼女はよくメールやラインで家族写真などを頻繁に送って連絡してくれる。

 

平成22年4月には、帰国後初めて5人全員で鹿児島を再訪問した。6日間の日程ではあったが、私の家に宿泊したので5人の娘が嫁ぎ先から帰ってきたみたいな気分を味わうことができた。というのは、私は、男の子二人のみで女の子がなく、それはそれは華やかな6日間だった。

 

彼女らとの交流を機会に、私は鹿児島県で台湾にゆかりのある方々で作っている「台湾の会」に入会させていただいた。この会は、戦前台湾に住んでいたり、仕事をしたりして鹿児島に引き揚げてこられた方々の親睦団体である。

 

平成17年3月にはどうしても彼女らと会いたくて旅行業者の団体ツアーで2回目の訪問となった。このツアーには前に勤めていた学校の先生夫婦も参加していてびっくり。

 

 

平成19年9月の3回目の台湾を訪れたときは、嫁ぎ先の娘たちを訪ねるような、それはそれは楽しい旅であった。彼女らの案内で台北、台中、台南をまわり見聞を広めた。すべて彼女らが計画し、都合をつけて全日程を、一日一人ずつ付きっきりで案内してくれた。単なる観光地巡りではない、台湾の実生活を体験できたのは、すごくいい体験となった。

 

4回目の訪台は平成22年12月のことである。留学生の一人の結婚式に参列させてもらった。厳粛な中にも楽しい結婚式で初めての経験であった。

 

5回目は平成25年2月で、妻と二人での結婚記念日旅行の台湾訪問であった。彼女らの子供たちとも会うことができ、実際の孫に会えたような喜びであった。

 

 

今まででの台湾旅行で一番印象に残っているのは「八田與一」のことである。初めて台湾を訪れたとき、台南市にある、奇美博物館を訪ねた。そこに台湾に貢献した日本人という紹介パネルがあり。乃木希典、児玉源太郎、後藤新平、新渡戸稲造、八田與一等の写真が展示されていた。「八田與一」以外の名前は知っていたが、彼の名前は知らなかった。初めて聞く名前であった。自分と同じ名前「與一」に興味を持ち、帰国後、台湾に関する書物などで調べたら必ず「八田與一」という名前が出てくる。

 

彼は台湾の不毛の地・嘉南平原に壮大なダム「烏山頭ダム」を造り、台湾一の近代的で肥沃な土地に変え、嘉南平野は今では台湾一の穀倉地帯となっている。

 

また、元台湾総統李登輝は講演「日本人の精神」の中で、日本統治時代の台湾において、10年の歳月をかけて大規模な灌漑プロジェクト「嘉南大しゅう(烏山頭ダム・給排水路)」を完成させた「日本人技師・八田與一」の功績を取り上げている。いつか、「嘉南大しゅう(烏山頭ダム・給排水路)」を見てみたいと思っていたところ、平成19年に見学する機会を得た。このダムは普通のダムとは違っていた。普通のダムは、山間の深い谷間を堰き止め、水を貯めるが、このダムは、お椀を逆さにしたような小高い丘がダムになっていた。ダムの周辺は観光地となり、ホテルなども建って多くの観光客が訪れていた。この北岸の一角に、湖面を見下ろすように、平地に作業服姿で片膝をたてた「八田與一」の銅像が、日本式のお墓(八田與一夫婦)の前に建立されている。

 

この銅像は昭和6年に地元の農民の方々が、「八田與一」の功績を忘れずに建立し、彼が亡くなるとお墓を建て、翌年の昭和22年、命日の5月8日から一度も欠かすことなく慰霊追悼式を催し、恩人としてずっと守り続けているとのことである。ところが3年ほど前、心無い人が銅像を傷つけるという事件が発生したが、すぐに修復して事なきをえている。

 

ここを訪れる観光客は皆、墓前で両手を合わせてお祈りしていた。外国人のお墓の前で観光客全員の方々がお祈りしている姿に感動を覚えた。

 

全く台湾への関心がなかった私が、ちょっとしたきっかけで台湾にはまってしまった。これからも彼女らを通じて、台湾との関わりを保ちたいと思っている。

 

 

 


日本語と私(林玫芳 )

 

             日本語と私

 

                      台中市 林玫芳

 

 

日本語勉強のきっかけ

 

日本語の勉強を開始したのは1997年高校時代だった。「哈日族」の流行で日本の歌やドラマがもちろん、日本語学習も大人気だった。もともと外国語学習に興味があった私、家族と相談後、「宜寧中学」という商業学校の日本語学科に入学した。

 

日本語の授業は毎日があり、会話や文法、更に日本語タイピングの授業もあった。家に帰ると、テープを聴いて発音練習するのが日課となっていた。

 

学校で使用したテキストは「新日本語の基礎」、研修関連の内容になっているので、クラスメートの間では「こんな内容を勉強するのは退屈だ」というクラスメートもいた。

 

更に高三に初めて訪れた日本修学旅行がとても印象に残った。初めて飛行機に乗り、なんだかんだ新鮮だった。今まで勉強してきた日本語を実際使ってみるとわくわくしていた。日本旅行から戻ると、もっと頑張って日本語を勉強して、また日本に行きたいと決心した。

 

 

日本留学 前編

 

商業学校卒業を控え、そろそろ進路を決める時期が来ている。当時台湾の教育制度では、一般の大学は一般高校卒業生向けになっている。よって商業学校卒業の私は一般の大学に入れなかった。

 

一応、運が良く「南台応用科技大学」の日本学科に合格しているが、家族と相談後、台湾で日本語を専門とした勉強するより、日本に行って本場の日本語を勉強した方がためになるという結論に至った。

 

そして、18歳の私が、高校卒業式の日に、日本留学へと旅立った。一人で異国で生活するのは怖くないかと聞かれたことがあるが、たぶん若さゆえに怖いものはなかっただろう。が、時々ホームシックになる。

 

大阪の日本語学校に入学して、日本語勉強漬けの日々だった。そして運がよく、半年で日本語能力試験一級に合格、早速大学入試情報を収集したり、応募書類作成に取り掛かった。そして何校か面接を受けたものの、なかなか合格に至らなかった。このままだと、台湾に帰るしかないと焦り始めた。

 

 

 

日本留学 後編

 

その時、目に留まったのが私の誕生日に入試面接予定のある大学だった。その学校の名前は「下関市立大学」である。いちかばちか入試を受けることにした。

 

実はその時、大阪と下関がそんな離れていることすら知らなかった。

 

入試の前日に夜行バスに乗り、いざ大阪から下関へ移動。夜九時半大阪を出て、翌朝五時半に下関に到着。大阪と下関は結構離れていることを、この時初めて身をもって知った。夜行バスに揺られてあまり眠れなかったが、車窓越しのキラキラした夜景がとても素敵と思った。

 

そして本当に運がよく、「下関市立大学」の経済学部に合格した。合格と知った時は安堵してすごく嬉しかった。無事に入学できて、新生活に右も左も分からない不安があったが、学校の職員が丁寧に対応してくれて、いよいよ新生活にスタートを切った。

 

大学生活と言えば、勉強、部活、バイトという人は少なくないと思う。私の場合は勉強(資格取得)、バイト、国際交流で充実な日々だった。

 

まずは勉強と資格取得、将来のためと思い、勉強の傍ら、英語検定、韓国語検定や秘書検定の資格を取得した。学校の専門科目が難しくよく分からない時もあったが、親切な先生とクラスメートがいてくれたからこそなんとか無事に乗り越えられた。

 

日本語学校の時、勉強に専念できるようにバイトしなかったが、大学に入ってからバイトし始めた。最初は近所のラーメン屋さんでバイトしていた、賄いつきで、仕事が終わるとから揚げやラーメンが頂ける。残念ながら、私が大学卒業直前に店主が体調により、店をたたんだが、今でもこの店のラーメンやから揚げが本当に美味しいと思う。ラーメン屋の次は「平家茶屋」という料亭でバイトしていた。最初は分からないことがたくさんあったが、先輩たちが親切に教えてくれて、接客について大変勉強になった。「平家茶屋」は関門海峡の景色がよく見えるし、料理も美味しいと評判なので、皆さんは下関に行くことがあれば、ぜひ立ち寄ってみると良い。

 

そして国際交流、留学生同士のホームパーティーを参加したり、ロータリークラブやライオンズクラブの国際交流の行事に参加したりしていた。留学生スピーチ大会で知り合った元市議員の鵜原様ご夫妻は自分の娘のように接してくれて、また、国際交流サロンでお世話になった和泉さん、本当に感謝感謝!

 

晴れて迎えた卒業の日は留学生を代表して挨拶をした。会場に置いてある台湾の国旗を見ると感無量で胸一杯だった。

 

 

まとめ

 

帰国後、ある日偶然でネットで検索してみたら、「台日会」という日本語を話す交流団体に出会えた、毎月の例会が楽しみだった。自分が日本でお世話になった分、微力ながらも台日交流に貢献しようと、少しでも恩返しできたらと思っている。そして、日本語を使う仕事をしてきて、現在に至る。仕事で嫌なことがあっても、好きだから頑張れると思う。最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


台湾で見つけた人生の目標 (若尾彩加)

 

          台湾で見つけた人生の目標

 

           台中市 若尾彩加  

 

 私は20113月に初めて台湾を訪れました。その当時、台湾に対しては何の興味関心もなく、ただ友人に誘われての訪台でした。 初めて訪れた感想は「スクーターが多い」「日本の店が多い」といった観光客が抱くごくありふれたものでした。それからしばらくし、当時通っていた中国語教室の先生から台湾への短期留学を勧められました。大学での専攻が中国文学だったこともあり、台湾で中国語を勉強するのも悪くないかな、という安易な気持ちで人生二度目の訪台を決めました。

  

 なんとなくやって来た二度目の台湾ですが、その時の思い出は私の留学経験の中で最も忘れがたいものとなりました。日本人、台湾人ともに素敵なご縁に恵まれ、今までにないくらい楽しく充実した時を過ごすことができました。 今まで短期長期の留学を数多く経験してきましたが、また行きたいと思えたのは台湾が初めてでした。この留学をきっかけに私は台湾の魅力にはまっていきました。それから大学を卒業するとすぐ台湾へ渡り中国語の学習を始めました。

  

その時ある一人の台湾人の医学生と知り合いました。彼は台湾の医療制度が直面している問題やこれからの医療の在り方、西洋医学と中医学の比較など今まで私が知らなかったことをたくさん教えてくれました。

 彼は、貧しい人は医者にかかることすらできない、田舎では医療者の数が不足している為十分な治療が受けられない等、台湾における医療格差の問題に特に関心を持っていました。 いずれは医師としてその問題を解決したいという夢も語ってくれました。

 まだ学生の身でありながら、しっかりと未来を見据えているその姿に、今までただ何となく生きてきた自分が恥ずかしくなりました。 それと同時に自分も目標を持ちたいと強く思うようになりました。

  

 私は、彼の話の中で出てきた「中医学」に興味を抱いていました。せっかく台湾にいるのだから中国語を勉強するだけでなく、何か専門的な知識も得たいと思い、こちらで大学に入り本格的に勉強することを決めました。

 

台湾で中医学部への進学を決めた私ですが、彼の話を初めて聞いたときは「チュウイガク?なにそれ」といった具合でした。確かに日本ではあまり馴染みのない学問だと思います。

 

中医学とは中国を中心とする東アジアで行われてきた伝統医学であり、人の持つ生命力を重視し、病気として表面に現れる前に身体のバランスを整えて予防することに重きを置いている医学です。近年では欧米でも広まりつつあります。

 

西洋医学が細かく遺伝子レベルまで分析し治療するのに対し、中医学は身体全体のバランスを整える治療であると言えます。中医学では、人の体は自然から影響を受ける存在であり、また体の内部でも様々な部位が影響し合う存在故に、一つの臓器の働きが乱れることでほかの臓器にも影響を及ぼすと考えられています。

 

そのため、病気の表れている部分だけを見るのではなく、人間を全体として捉え、症状がたとえ1つの部位に限られたものであってもそれが他の臓器と関連して起きているのか、それとも局所だけの問題なのか、というように身体全体を診て治療していきます。

 

また処方される薬も西洋医学は化学薬品ですが、中医学は動物、鉱物それと植物を材料として作られています。私にとって西洋医学は馴染みがあるけれども、どこかとっつきにくい印象でした。しかし、中医学の考えはすんなり受け入れることができました。

 

 それから2年間に及ぶ受験勉強を経て、無事に第一志望の大学に合格することができました。現在私は中医学部の1年生として日々勉強に励んでいます。

 大学での勉強はとても大変です。ただでさえ難解で専門用語の飛び交う医学。しかもそれを中国語で学ぶのですからいばらの道です。台湾人でも難しいといわれる勉強内容にただでさえ言葉の壁がある私は毎日予習、復習に必死です。 クラスメイトはみな狭き門を突破したエリートたち。そんな彼らと自分を比べて落ち込むこともありますが、日々楽しんで勉強しています。

 

大きな目標もなくやって来た台湾で、自分の生きる道を見つけることができました。 台湾に留学しなければ中医学について深く知ろうとも思わなかったでしょうし、そのきっかけをくれた彼とも出会うことはなかったはずです。

 

未来のことはまだ分かりませんが、台湾とのご縁に感謝しながらこれからも生きていこうと思います。また、彼の目標である「すべての人が平等に治療を受けられる社会」の実現に私も貢献できるよう努力していきます。

 

 

 


私の一生(木村英一)

               私の一生

                                  大阪市  木村英一


 この世に生を受けて八十五年、省みまれば実に多くの人々とめぐり合わせていただきました。両親、弟妹と共に送った幼かった日々。龍ちゃん、四郎さん等と呼び合って遊び、学んだ小学校時代を過ごし、台北高等学校尋常科に入学以来、親元を離れた寮生活が始まりました。田舎町より出てきた私は都会の洗練された秀才少年達の中で目を見張るような毎日を送りました。開学第一回生として台北帝国大学医学部入学後は、新進気鋭の教授たちの教えを受けて、自分は言うの及ばずクラス全員が将来に夢を膨らませました。しかし、中国大陸に起こった戦禍は次第に拡大するばかりで、研究の夢半ばにして軍医教育もそこそこに南支派遣軍歩兵部隊に従軍し、雷州半島、海南島方面千三百キロメートルを踏破、敗戦の後、無事広東より帰還できました。

  その後福島県長塚村で地域医療に携わっておったところ、大阪市立医科大学に恩師細谷教授の導きにて奉職、その後大阪市立大学となり、四十五年間を過ごしました。途中いわゆ
る大学紛争で研究室を水浸しにされ、折角の科研費で製作した機械を破損されたのは、この上もなく残念なことでした。その後、大学も落ち着き、大阪市立大学の歴史も百周年を超え、大阪市の全面的なご支援のもと、阿倍野の地に斬新な医学部研究棟、付属病院が完成した事は誠に喜びにたえません。
 退職後はロータリークラブ会員諸兄と友好で結ばれ、実に多数の方々の友情、恩恵を賜わりました。振り返りますれば、何処にあっても暖かな友情に恵まれ、幸せな人生であったと感謝致しております。
 歳と病は如何ともし難く、断ち難きを断って皆様に永遠のお別れをせねばならなくなりました。語れば際限がありませんが、これまで友好を賜りました総ての方々にお別れのご挨拶をさせていただきます。ありがとうございました

                   

          (平成13年1月4日没 享年85歳)


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


故郷の川(島崎義行)

 

              故郷の川

 

                        仙台市 島崎義行

  

台中は、台湾の小京都と言われただけあって、整然と区画された街中を柳川と緑川が流れ、郊外にも旱溪、大肚溪、それによく名前のわからない大小の河川に恵まれていました。緑川、柳川は、柳の緑色と岸から川面に向かって、垂れ下がっているブーゲンビリア(いかだかずら)の華麗な紫とが、鮮やかなコントラストを示して印象的でした。

 

 緑川は、北屯方面から出て、台中公園と第三大隊の間を流れ、街中を抜け老松町に入ると、山線の土手下にしばらく並行して、四丁目から東に九十度カーブして専売局の裏あたりから、郊外の団圃の中を緩やかに屈折しながら頂橋付頭を過ぎ、最後は烏溪に吸収されていました。

  

今、奈良にいる渋谷香代子さん(同級生)や森村さんの家は、みな川沿いにありました。東本願寺も、四丁目の橋のすぐ袂にあり、先輩の鶴岡にいる本間辰五郎さんは、このお寺から明治に通学していました。

  

昔は、柳川も緑川も本当に清流と言ってよいほど水がきれいでした。台中は、もともと地下水が豊富なところで、水道の水も地下水を汲みあげていました。緑川、柳川の河床のいたる所に湧き水が噴出していて、川岸の階段を下りていくと、湧き水の周りに石囲いをした洗濯場がありました。上が白で下が黒いの服をまとった台湾婦人が、石にどっかと腰を下ろし、両脚を横に広げ、ズボンを股のあたりまでまくり上げて、平たい石に洗濯物をのせ石鹸をぬりつけて、叩き棒でピチャピチャと数回叩いてはひっくり返して水に着け、また石鹸をぬって叩いていました。ダブダブの黒いズボンの間から真白な脚が内股のあたりまで見えると、久米の仙人ならぬ凡俗のわたくしなど、自転車ごと危うく川底へ転落しそうになるのでした。

 

 柳川も、北屯の方から流れてきて、柳町をほぼ一直線に流れ、陸軍墓地の裏で、九十度一旦師範の方に曲がり、すぐまた向きを変えて南屯を通り、最後は烏渓に注いでいました。

 

柳川が、街中に入る一番北の川沿いに西本願寺があり、たしか水上さんと言ってとても有難い声でお経を読んでくれた和尚さんがいました。西本願寺から少々下って橋を渡り少し西寄りの所に、小西湖という高級台湾料亭がありました。緑川にも酔月楼がありましたが、夜になると毎夜のように、胡弓や月琴の音が風に乗って流れてきました。裾割れの長衫が肉体に密着し、肢体の曲線が魅力的でしたが、なにしろ学生の身、財布の中に五円と入ったことのないわたくしですから、風とともに流れてくる脂粉の香を嗅ぐだけで満足せざるを得ませんでした。それと小西湖や酔月楼のような高級料亭には、チン蹴りの秘技を持っている老鰻(ローモア)の用心棒がいると聞かされていましたから、とてもひやかすなどという大それたことをする勇気はなかったのです。

  

柳町に住んでいた頃、すぐ川向に楽舞台という劇場がありました。京劇の公演が始まると満員札止めの盛況で、あの独得の隈取り、立ち回りが珍しく、わたくしは川向いのジップンギナアというので、よくペロンコで入れてもらったものです。柳町の家の裏に第二市場があり、安西畳屋さんや、梅木智先生の家もすぐ近所でした。楽舞台から下ると、青果会社、台中病院と川沿いに続き、陸軍墓地の裏あたりから流れが澱みはじめ、水も汚れていました。

 

 川端町に住んでいた頃、警察官舎の人たちは、我々が通称アメ屋の橋と呼んでいた付近は、とても良い魚釣り場でした。浅野君のお父さんは休日によく弘さん、守さんの兄弟を連れて魚釣りに行ってました。浮き草を竹竿でかき分けて、撒き餌のヌカ団子を投げ込んでいる姿を羨ましく眺めたものです。私も一度、夕立ちで俄に増水し、濁りはじめた時、アメ屋の水車小屋から出る水が、柳川に落ち込む場所に投網をぶったところ、網一面真白になるぐらい魚が入り、一網でバケッツがいっぱいになったことがありました。

 

 柳川の他に、師範の裏や農事試験場の裏にも、魚、鯉、オイカワ、ギュウギュウ、川エビ、スッポン、鰻などのいる川が流れていました。台湾人の川エビ職漁者は、ヘエーランと言って、竹で編んだ小型のエビ胴に糠団子の焼いたのを入れて、川底に沈めて置き、翌朝早く挙げに行ってました。まだ水の滴るエビ胴を天秤棒がくの字に撓うぐらい担いでいる姿を、皆さんも一度や二度みたことがおありになると思います。

  

休みの日には、あの辺の川にエビ捕りに行くと、とく武藤さんの正ちゃんに会いました。仕掛けは簡単で、八番線で直径五十センチぐらいの輪を作り、古くなった蚊帳を切って縫い付け、真中に豚肉のスジをくくり付けて沈めておくだけです。四、五分して短い竹竿に吊した蚊帳を張った輪を、そっと上げると必ずと言ってよいほど、二、三匹から多いと五、六匹、あの長い赤い輪の入った鋏足で豚のスジにしがみついていました。こうして、数箇所の置いたエビ網を交互に揚げていくと、二時間ぐらいで結構夕飯の天婦羅の材料ぐらいはとれました。

 

 しかし、エビ網をつくってくれた母も、一緒に掻い掘りや、シジミ採りをした武藤さんの正ちゃんも、この世にはいない。五年前台中に行って時には、もうアメ屋の水車小屋もなく、周囲の景観が一変してしまって、澱んだ水面のところどころでオイカワの呼吸する小さな円い波紋だけが、わずかに昔を偲ばせるだけでした。

 

 それでも、目をつぶると、鮮明に故郷の川が見えてきて、そこには透き通った川底をはっているエビや、オイカワや魚がゆっくり動き、正ちゃんの明るい声がはずみ、母がやさしくほおえみかけてくれるのです。

  

台中で生まれ、台中で育った私には故郷は台中しかありません。人それぞれの心の中に忘れられない故郷の山があり、川があり、街角があります。

 

誰も知らないあの農事試験場の裏の小さな流れも、私にとっては、生ある限り忘れ得ない、懐かしい懐かしい故郷の川なのです。

 

 

 



読者登録

喜早天海さんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について